小野田寛郎が30年間ジャングルで戦争が続いていると信じ続けたように、富める青年も自分の世界の中で満たされない渇きを抱えていた。環境が現実を作るとき、真理はどのように届くのか。
環境が「現実」を作るとき
1944年、小野田寛郎という青年将校が、フィリピンの小さな島に送られました。
彼が受けた命令は、どんなことがあっても、上官の指示があるまで戦い続けること。
その翌年、戦争は終わりました。1945年、日本は降伏しました。
しかし、小野田はそれを信じませんでした。
それから約30年間、彼はジャングルに身を隠し続けました。降伏を知らせるビラが投下されました。新聞が彼のために残されました。家族からのメッセージも届けられました。彼は、そのすべてを敵の罠だと考えました。
毎朝、彼は同じジャングルで目を覚まし、同じ景色を見て、1944年から変わらない信念で世界を解釈し続けました。彼の世界は、閉じたシステムになっていました。そのシステムの中では、戦争はまだ続いていたのです。
真実は、ずっと彼の手の届くところにありました。しかし、彼の周りの環境は、彼がすでに信じていることを、何度も何度も裏付け続けました。そのため、真実は彼の中に届きませんでした。
ようやく1974年、かつての上官が島まで来て、直接「戦闘任務解除」を命じました。そのときになって、小野田はジャングルから出てきました。30年分、年を取った姿で。世界はすでに、彼を置いて進んでいました。
閉じたシステム
少し考えてみてください。ほぼ30年もの間、ある人が、もう存在しない現実の中で生き続けていました。それは、彼が愚かだったからではありません。彼の周りのすべてが、彼の信じていることを、繰り返し裏付け続けていたからです。
これは、一人の兵士とジャングルだけの話ではありません。誰にでも起こりうる、一つのパターンです。
周りの人たちが、みな同じことを信じていたら――成功すれば満たされる。お金があれば満たされる。ふさわしい仕事、関係、達成があれば、ついに十分になる――それを疑うことは、とても難しくなります。環境そのものが、ジャングルになります。周りの声が、もう開くことのないビラのようになります。
そして、多くの人は、長年それを追い求めた後で、ようやく気づきます。何かが、まだ満たされていない、と。
すべてを持っていた青年
聖書には、ある富める青年がイエスのもとに来た話があります。
「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(マタイの福音書19章16節)
世の基準で見れば、彼はすでに成功していました。若く、富があり、品行も正しく、宗教的な知識もあり、人々から尊敬されていました。満足というものが、買えるもの、得られるもの、達成できるものであったなら、彼はすでに手にしていたはずです。
それでも、彼の中には、まだ満たされない何かがありました。だからこそ、彼はイエスのもとに来たのです。
イエスは、彼の実績を褒めることはしませんでした。イエスは、彼の人生そのものが築かれている土台に、まっすぐ触れられました。
「あなたが完全になりたいなら、行って、あなたの持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。…そして、わたしについて来なさい。」(マタイの福音書19章21節)
これは、お金についての命令ではありませんでした。これは、彼の信頼が本当はどこにあるのか、という問いでした。
「すると、彼はこの言葉を聞いて、悲しみながら去って行った。彼は非常に多くの資産を持っていたからである。」(マタイの福音書19章22節)
彼は、富を持って来ました。彼は、富を持って帰りました。しかし、彼は、悲しみながら帰りました。彼が信頼を置いていたものは、彼が本当に求めていたものには、まったく届かなかったのです。
同じ岐路
私たちの多くは、似たような話を聞かされて育ちます。良い学校に入りなさい。良い会社に入りなさい。十分なお金を得なさい。そうすれば、すべてはうまくいく。
そのどれも、間違ってはいません。教育、仕事、経済的な安定は、敵ではありません。
しかし、それらは、本当に人を眠れなくさせる問いに答えるためのものではありませんでした。なぜ、自分はここにいるのか。すべてが終わったとき、何が起こるのか。うまくいっているはずなのに、なぜ、まだ何かが足りないと感じるのか。
あの富める青年は、その時代と文化が「持つべき」と教えるものを、すべて持っていました。それでも、彼は悲しみながら去って行きました。彼が本当に必要としていたものは、そのリストの中になかったからです。
わたしのところに来なさい
イエスは、はっきりと言われました。
「人が、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを損したら、何の得がありますか。」(マタイの福音書16章26節)
この世が与える答えは、いつも形を変えながら、同じことを言います。もっと得なさい。もっと何者かになりなさい。もっと達成しなさい。
しかし、イエスの答えは違います。
「わたしはいのちのパンです。わたしのところに来る者は、決して飢えることがありません。」(ヨハネの福音書6章35節)
小野田がジャングルで過ごした年月のように、人は、何年もの間、ある「現実」の中で満ち足りた気持ちで生きることができます。それは、外から誰かが来て、世界はすでに先に進んでいると示すまでは。
しかし、良い知らせがあります。イエスは、あなたに届くまで30年待つ方ではありません。イエスは、すでに語りかけておられます。すでに招いておられます。あなたが慣れてしまったどんなジャングルの壁よりも、すでに近くに立っておられます。
「見よ、わたしは戸の外に立って、戸をたたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼のところに入って」(ヨハネの黙示録3章20節)
問題は、成功やお金や達成に価値があるかどうかではありませんでした。問題は、それらが、人の心の最も深い渇きを満たせるかどうかです。
「神はすべてのものを、それぞれの時にかなって美しく造り、また、人の心に永遠を思う思いを与えられた。」(伝道者の書3章11節)
その渇望は、最初から、意図して与えられたものです。それは、もう一つの達成で解決すべき欠陥ではありません。それは、一つの招きです。そして、その渇望が本当に満たされるのは、「わたしのところに来なさい」と言われた、その方のうちにおいてだけです。