毎年、事故は警告が無視されたために起こる。イエスは世界の出来事にも同じパターンを語られた。その予兆は恐れのためではなく、人を備えと信仰へ導くためにある。
警告が無視されるとき
毎年、事故が起こります。
その理由は、いつも同じです。
予兆は、そこにあったのです。
橋の警告は、無視されました。
エンジンの警告ランプは、無視されました。
気象警報は、無視されました。
医師の警告は、無視されました。
事故のあと、人々は問います。
「どうして誰も気づかなかったのか。」
実は、誰かが気づいていたのです。
問題は、警告がなかったことではありません。
問題は、その警告を無視したことです。
世界はずっと予兆を見てきた
近年、世界は、戦争とその噂、増大する不安定さ、経済的な不確かさ、自然災害、感染症、そして広がる不安と孤独を、目にしてきました。
多くの人が問います。
「これは、ただの偶然なのか。」
「ただ、歴史が繰り返しているだけなのか。」
「この出来事の背後に、何か意味があるのか。」
イエスは、約2000年前に、まさにこれらのことについて語られました。
「あなたがたは、戦争と戦争のうわさを聞くでしょう。」(マタイの福音書24章6節)
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちに飢饉と地震が起こります。」(マタイの福音書24章7節)
イエスがこれらの言葉を語られたとき、新聞も、テレビも、インターネットもありませんでした。
それでも、イエスは、ご自分が再び来られる前の世界の状態を、的確に描写されました。
事故か、それとも、前もっての警告か
山道を運転していると想像してみてください。
一つの警告標識が見えます。
そして、もう一つ。
さらに、もう一つ。
点滅する光。
そして、バリケード。
そのとき、あなたはどう考えるでしょうか。
「これらの標識には、何の意味もない。」
それとも、
「この先に、何か注意すべきものがある。」
標識そのものは、災害ではありません。
それは、この先に何があるかを示す警告です。
同じように、聖書の予言は、人を恐れさせるために存在するのではありません。
それは、人を備えさせるために存在します。
終わりを知っておられる方
聖書は、神を、人間のどんな観察者とも違う存在として描いています。
「私は神である。…終わりのことを、初めから告げる。」(イザヤ書46章9〜10節)
神は、未来を推測しておられるのではありません。
神は、それを知っておられます。
歴史を造られた方は、歴史の外に立っておられます。
私たちにとって驚きであることも、神にとっては、すでに知られていることです。
もっとも大切な問い
問題は、本当は、「次の戦争はあるのか」ということではありません。
問題は、これです。
「私は、神に出会う準備ができているだろうか。」
人々は、定年後の生活、転職、地震への備え、経済的な緊急事態のために、多くの時間を使います。
しかし、多くの人は、永遠のための備えを、決してしません。
イエスは、繰り返し、人々の関心を、出来事そのものから、備えへと向けさせられました。
「これらのことが起こり始めたなら、目を覚まして、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているのですから。」(ルカの福音書21章28節)
ノアの時代のように
ノアの時代の人々は、何年もの間、箱舟が造られていく様子を見ていました。
槌を打つ音の一つひとつが、警告でした。
板の一枚一枚が、メッセージでした。
それでも、ほとんどの人々は、いつもと同じように生活を続けました。
「彼らは、食べたり、飲んだりしていて…洪水が来るまで、それを知らなかった。」(マタイの福音書24章38〜39節)
洪水は、最初の予兆ではありませんでした。
それは、多くの予兆が無視され続けた末の、最後の出来事でした。
ひとつの招き
おそらく、もっとも大切な問いは、「戦争とそのうわさは、政治的に何を意味するのか」ということではありません。
そうではなく、「なぜイエスは、これらのことを、前もって私たちに語られたのか」ということです。
その答えは、ここにあります。
「わたしは、それが起こる前に、あなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。」(ヨハネの福音書14章29節)
予言は、単なる情報ではありません。
それは、ひとつの招きです。
聖書が真実であるかもしれないと考えるための招きです。
イエスが、ご自分の語ったことを、本当にご存じであったと考えるための招きです。
歴史の主であるがゆえに未来を知っておられる方を、求めるための招きです。
道路標識が、この先に崖があると警告しているなら、賢明な対応は、その標識を延々と研究することではありません。
賢明な対応は、進む方向を変えることです。
同じように、イエスが語られた予兆は、世界の出来事についての興味を満たすために、そこにあるのではありません。
それは、人々をイエスご自身へと導くために、そこにあります。
「神は今、すべての人に、悔い改めるよう命じておられます。」(使徒の働き17章30節)
「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネの福音書6章37節)
予兆の目的は、恐れではありませんでした。
予兆の目的は、信仰です。
そして、その方に向きを変える人には、扉は今も開かれています。