過労死に象徴される「異常が普通になる」というパターンは、放蕩息子の物語、そして私たち一人ひとりの人生にも当てはまる。
罠 ― 異常が「普通」になるとき
何年もの間、ある状況の中で生き続けることができます。
それが、少しずつ自分のすべてを奪っているにもかかわらず、気づかないことがあります。なぜでしょうか。周りの人たちも、同じように生きているからです。
長い間、多くの労働者が、長時間労働、休む間もない毎日、絶え間ない重圧の中で生きてきました。
家族との時間、健康、自分自身のための時間は、少しずつ後回しにされていきました。
異常だったはずのことが、いつのまにか「普通」になっていきます。
そのまま何年も過ぎ、ようやく心や体が限界を迎えたとき、過労、病気、家庭の崩壊、あるいはそれ以上の結果が訪れます。「過労死」という言葉があるのは、この問題があまりにも広く起きてきたからです。
しかし、これは仕事だけの話ではありません。
牢獄にいる人は、いつしか牢獄に慣れていきます。借金を抱えた人は、いつしかその不安に慣れていきます。すれ違ったままの夫婦は、いつしかその距離に慣れていきます。
そこに長くいればいるほど、それが「普通」に感じられるようになります。たとえ、それが少しずつ何かを奪い続けていても。
歴史も、同じことを示しています。第二次世界大戦のとき、多くの人々は、それまでなら考えられなかったようなことを、少しずつ受け入れていきました。一度にすべてが変わったわけではありません。一歩ずつ、本来なら警戒すべきことが、やがて当たり前のことになっていったのです。戦後、多くの人が振り返り、「なぜあれを受け入れてしまったのか」と問いました。
これは、とても人間らしいことです。
自分がどれだけ流されているかは、流されている間は、なかなか気づけないものです。
ある古い物語
イエスは、ある若者の物語を語られました。
その若者は、父の家を出て行きました。お金も、自由も、すべて自分の手の中にありました。
最初の夜から、すべてを失っていたわけではありません。それは、一歩ずつ起きたことでした。
「彼は遠い国へ旅立った。」(ルカの福音書15章13節)
やがて持っていたお金は尽き、困難な時が訪れました。
「彼が全部を使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こった。」(ルカの福音書15章14節)
生きるために、できる仕事を探しました。
「彼はその地方のある人のところに身を寄せた。」(ルカの福音書15章15節)
そして、ついには、豚の餌さえもおいしく見えるほど、お腹を空かせていました。
「彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであった。」(ルカの福音書15章16節)
最初の頃なら、考えられなかったはずです。しかし、最後には、それが彼の日常になっていました。
すべてが変わった瞬間
物語の転換点は、たった一つの言葉で表されています。
「彼は本心に立ち返った。」(ルカの福音書15章17節)
その瞬間、彼は初めて、自分の置かれている状況をはっきりと見ました。それは「普通」ではなく、本当はどうなのか。
そして、彼はこう気づきました。
これは本来の自分ではない。
ここは自分のいるべき場所ではない。
このままでは、すべてを失ってしまう。
気づいただけでは、人生は変わりません。彼が次にしたことが、すべてを変えました。
「立って、父のところに行こう。」(ルカの福音書15章18節)
彼は立ち上がりました。そこを離れました。家へ向かいました。
物語の本当の中心は、ここから始まります。
父親は、戸口で腕を組み、息子の過ちを並べて待っていたわけではありませんでした。父親は、息子の帰りを、ずっと待ち続けていたのです。
「まだ家まで遠かったのに、父は彼を見つけて、走って行き、その首を抱いて、口づけした。」(ルカの福音書15章20節)
そこには、非難の言葉は一つもありませんでした。代わりに、父親は祝宴を始めるよう命じました。
「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。そして、彼らは祝宴を始めた。」(ルカの福音書15章23〜24節)
父親は、ただ息子を受け入れただけではありません。それまでの何よりも、息子が帰ってきたことを喜んだのです。
この物語の本当の主題は、ここにあります。息子が立派になって帰ってきたから喜ばれたのではありません。父親の喜びは、息子のしてきたことよりも、はるかに大きかったのです。
だれにとっても
魚は、自分が泳いでいる水に気づきません。
人もまた、ストレス、孤独、意味を感じられない毎日、過去の罪責感、すべてを一人で抱え続けることに、いつしか慣れてしまいます。それは、もはや「異常」とは感じられず、ただの「日常」になっていきます。
しかし、普通であることと、良いことは、同じではありません。慣れていることと、安全であることも、同じではありません。
イエスは、人を責めるために来られたのではありません。イエスは、人を起こすために来られました。それも、まだ間に合ううちに、優しく。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネの福音書8章32節)
「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、また、それを豊かに持つためです。」(ヨハネの福音書10章10節)
物語の中の若者にとって、すべての始まりは、こう認める正直さでした。
「もう、ここにはいられない。」
そして、家へ向かって、一歩を踏み出すことでした。
イエスは、遠くに立って、あなたが自分を変えるのを待っているわけではありません。あの父親と同じように、イエスはすでに、あなたが帰ってくる道を見ておられます。イエスご自身が、こう言われました。
「見よ、わたしは戸の外に立って、戸をたたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼のところに入って」(ヨハネの黙示録3章20節)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節)
すべてを変えてから、戻る必要はありません。すべてを理解してから、信じる必要もありません。物語の若者も、そうではありませんでした。ただ、もうここにはいられないと知り、父が自分を受け入れてくれると信じただけでした。
イエスを信じるとは、まさにこのことです。自分にふさわしい資格があるからではなく、イエスがどういう方であるかによって、自分を受け入れてくださると信じることです。
扉は、開かれています。イエスは、すでにあなたを待っておられます。残っているのは、その一歩だけです。