コミュニオン

Communion

コミュニオン

ツーソン アリゾナ州 アメリカ合衆国

説教番号: 65-1212

日付: 1965年12月12日(65-1212)

PDFダウンロード:

1. 3年間ツーソンに教会が来るのを待っていました、しかしそれはここでした。我々はここにいました。そして主に感謝する事に、彼は今それを感謝する事が出来る様に我々を待たせて下さったのでした。

2. そして周りを見ると、人の思いが人々から離れているのが分かりますし、あまり長くここには留まれないのです、我々は完全に精神病院に入る事になりますー全世界がそうなるのです。つまり我々は終末にいるという事です。

4. 「パパ、神はいつその状態に来たの?どこから来たの?分かりますね?彼には始まりがなければならないでしょうね?彼には始まりの必要はなかったの?」
私は言いました。「いいえ、何でも始まりのあるものには終わりがあるけど、初めのない物には終わりはないのだよ」もちろん、彼は10歳ですから、ある意味かなり難しかったようです。彼はそれをどのように受け入れたのか、何か始まらない物が何かある事?彼だけではくそれは私自身にもね?非常に大きな話です、それはどの様に始まったのか。

5. 私は数日前にあるとても素敵なクリスチャンの紳士が来たのです、それは全く初めての事でした、そして彼はコミュニオンを我々がそのまま信じていると理解していました。彼等はそれを「霊的コミュニオン」と呼んでいたのです。そしてそれがコミュニオンでありさえすれば、大丈夫だと言えます。というのはある人に話す為にコミュニケーションをするからですね。その兄弟は私にこの聖句をくれました、言ったのは、「ブラナム兄弟、今思いませんか?
さて、今これを話している理由は、それは大丈夫ですか、ペアリー兄弟?分かりますね、なぜ私がこれを言ったかというと、それによって何をしているかを理解してもらう為です。そうじゃないともし、何か目が開かれない状態で入っていくと、自分がしていることが分からないのです。何をしているかがわからずにしていたらそれに対して確信を持つことさえできません。しかし何をしていてなぜしているかを理解しなければならないのです。
彼は言いました「さてもし、我々が神の御言葉を取っていたら、それは我々が取っているのは神ではないのですか?」
私は言いました。「その通りです。はい、それは真実です。しかし我々はここで読んでそれらは、実際、パウロはそのまま主の食事について取る様に教えました。イエス様は、「これを私を記念するー覚えるために、やりなさい」と言われました。「これを取るのは私を覚える為であり、彼が来る日まで主の死を告げ知らせるのです」分かりますね。今、それを取ろうとしているのです。

6. そこにはイスラエルが記念として彼等が持っていた捧げものの子羊が居ました。それは実際には、一度、エジプトを出る時に使われました。しかし彼等はそれをずっと時代を通してそれ以来記念として持ち続けていたのです。さて、もし律法が来るべきものの影となるのであれば、、、
さて、私はコミュニオンを強く信じています。(今我々がコミュニオンと呼ぶもの)は主の聖餐(最後の晩餐)でされたものです。

7. さて、もしコミュニオンがただ御言葉を取る事だともし言うならば、、聖餐をとる権利は、神の御言葉を受け入れていないならば誰にもないと信じています、というのは、しばらくしたら何かを読むつもりなのでそこで分かるでしょう。さて気が付いて下さい。その時、彼等がそうしたならば、我々は?
同じ基礎の上に立ち、我々は絶対的に救世軍に弁明します。彼等はどの様な形の水による洗礼を信じていません。「我々には必要がない」と言いました。さて、もし水の洗礼を必要としないならば、なぜ洗礼をするのですか?「水は我々を救えない、血があなたを救う」と言いました。
それには同意します。それは正しいのです、主の血があなたを救います、水ではありません。しかし
我々は外側の感情として水を取らなければならないのですそれにより、内側の恵みのわざがなされるためですね。我々はコミュニオンについて話さなければなりません。

8. パウロは言いました。「私が主を受け入れたのはあなた方にも配るものであり、主イエスが裏切られた同じ夜に、パンを取り割いて弟子たちに与えたそして言った。「取って食べなさい、これは私を記念するものである」このパンを取る時、彼が来るまで彼の死を覚えなさい」さて、我々はその中で見出すのは、彼等には誰かが来るのを、、、

9. 私は「でも、覚えて下さい、我々はパウロが初期のクリスチャンの教会を正しく設定したことを認めることになります」彼等は教会から家々に行き、心を一つにして、パンを咲いたりしていたのです。さて、」私は言いました、「彼がそれを教会にする様にさせたのです。ガラテヤ1:8で彼はこう言っていました。しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。それはヨハネの洗礼から再び同じ洗礼をイエスキリストの御名によってしたのです。分かりますね、我々は印として、3つの事をしなければならないのです。「主の聖餐、(コミュニオン)、洗足、水の洗礼ですね。

10. しかしあなたや私は、洗礼を受けるべきなのですそしてそれを拒否するならば、それは主とあなたとの間の事です。
コミュニオンも同様なのです。
さて、我々がこのコミュニオンを取る時、ただ物事を言うだけのことではありません。「私はここに来ていくらかのパンを食べますと言うのは、私はクリスチャンだと信じているからです」しかし。もしあなたが聖書が言っている事に気が付いているならば、「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。」(第一コリント11:27)
あなたが誠実であることを神のみ前そして人の前でその人生を生きなければならないのである。

11. さて、この中で今気が付いて下さい、それは初めで、初めの神の命令事として教会への捧げものが齎されたとき、宮や祭壇に対して、そしてあなた方の罪に対して贈り物として子羊の犠牲が捧げられました。さて、何人かのユダヤ人の兄弟達がその道を下ってくることをただ想像できるのです、そして彼は罪がある知りながら、祭壇に行きましたか、彼の何でも彼の持っていたもの、牡牛の脂肪あるいは牡羊または子羊何でも。彼は出来る限り誠実にそれをその道に持ってきていたのです。彼はそこに歩いて行き、神の命令を出来る限り誠実に守ったのです。
そして、彼は彼の手をそれに置き、彼の罪を告白して、その祭司は、これ(彼の罪)を子羊の上に置き、その子羊の喉を切ってそして彼の為にそれは死んだのです。そこに横たわって(その小さな子羊)は蹴りながら血を流して、彼の手は地でいっぱいでそれは彼にかかっていました、その小さな子羊が血を流して、死にかかっていて、その人は彼の罪とその代わりに何かが死ななければならない事を認識したのです。それ故彼は彼の死の為に子羊を捧げたのです。その子羊は彼の代りに死んだのです。そしてその人は、誠実にそのことを心の深みから誠実に行ったのでした。

12. 分かりますね、そこには誠実さはないのです、それには悟りはないのです。
さて、我々はそのような形でコミュニオンをしたくありません。主の食卓に着くのも同じことなのです。
イザヤ35章、ごめんなさい、イザヤ60章、ごめんなさい戻します。確かイザヤ28章にこれが見つけられると信じています。ほぼ確実にそれが正しい章です。彼は言いました。
それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」。
否、むしろ主は異国のくちびると、異国の舌とをもってこの民に語られる。
主はさきに彼らに言われた、「これが安息だ、疲れた者に安息を与えよ。これが休息だ」と。しかし彼らは聞こうとはしなかった。
彼はこうも言われました。「すべての食卓は吐いた物で満ち、清い所はない。彼はだれに知識を教えようとするのか。だれにおとずれを説きあかそうとするのか。乳をやめ、乳ぶさを離れた者にするのだろうか?」分かりますね。?(それが正しい聖句だと思います。イザヤ28章。「誰に教義を理解させることが出来るのだろうか?その食卓を見て下さい。

13. 教会に行って、何度もいわゆるソーダクラッカーあるいはそのような種類のものを砕いて、あるいは軽いパンか何かを割いて、そして煙草を吸ったり、お酒を飲んだり他何でもしている人々が彼等が教会のメンバーだからと言ってきて、主の食卓に着くとしたら。それは、神の御前には汚れとなるのです。

14. それが我々が御言葉を取っている方法なのです。いわゆる今日のクリスチャンの多くがそうなのです。我々はここに立ち上がり、この御言葉を教えていますそしてこういうのです、「イエスキリストは昨日も今日もいつまでも同じではない」そして主が我々に約束され栄誉を帰されたことについて教えて「オーさて、それは別の事です」我々の聖いと思っている礼拝が彼の鼻には臭くなっているのです。だからどうしても受け入れては下さらないのです。それは我々の伝統的な習慣によるのが理由なのです。

15. だからもし、それを真剣に取っていないならば、ただ伝統になるのです。「さて、我々の教会は毎週日曜日にコミュニオンをしていますあるいは毎月あるいは一年に2回。。」それはあなた次第です、、
「さて、それは私の時」そしてそれからコミュニオンをしている、、だからそれは神には臭いのです。それがただの伝統になるから。
たとえ他の事も、誠実にならなければなりません。神はあなたの心の深みが欲しいのです。あなた自身をこの地上に連れてこられたまさにその神にあなたは仕えているのです。
あなたがこれをしているのは、それが神の命令だからそう言われたからです。そして我々は深い誠実さとともに上がってきてほしいのです、神の恵みにより我々は救われたという事を知っているからです。そして我々は彼を愛し、ご臨在を感じています、又、人生に変化を見ているのです。我々の全体は変えられたのです。我々は異なる民なのです。以前の様な生き方はしません。以前考えたようには考えないのです。

16. 私がこれを言っていたのは、自分自身の為で、この様に言ったから「ウィリアムブラナム、さて40年前のウィリアムブラナムは今晩と同じではないです」そして誰かそこの後ろで言いました「彼は非常にいたずらっ子でした」分かりますね。私はチャールズとエラブラナムの間に生まれたからです。そこでは、自然と、元々私は罪びとだったのです。世に私は嘘つきとして来て、世的な習慣の全てが私の下に置かれていました。しかしそこにはもう一つの別の性質が起これていたのです、あらかじめ定められたものでした。それは神によってそこに置かれていたのです。同じ体に二つの性質があったわけです。
さて、1つだけに迎合していたのです。成長するにつけて、赤ちゃんとして、「ダダ、、パパ」初めに分かったのは、私は嘘つきで、他の事も、、それは罪びとでしたと言うのはその様に育てられたからでした。でも命の小さな粒子がそこに常に深くあったのです。

17. 父と母は、休んでいました。そして彼等は、罪びとで我が家にはその時全くキリスト教はなかったのです。
そしてなんと、彼等は酒を飲み、パーティを繰り返していました。それは私を苦しめました。ランタンを持って、犬を連れて森に行き一晩中そこにいました。冬の時は、そのパーティが終わるまで、狩りをしていました多分、朝になって光がある頃でした。家に戻るとそれはまだ終わっていなくて、棚の上に横たわって寝て、日が昇るのを待っていました。
そしてその時がどうだったかを考えると(夏の間はどの様に外に居たか)枝を取って小さな風よけにして雨が降ったら、そこにいて、水の中にポールを建てて、釣りをして、私の仲間の犬がそこに寝ていました。私は「ここを見て、去年の冬ここでキャンプを一晩して、ここにいぬが来るのを待って火を建てていた、ここに火があった。そのグランドは5インチ位凍っていた。でも小さな花はどこから来たのでしょうか?あなたはどこから来たのですか?ここに出る様に誰があなたを植えたのでしたか?どのように暑い家があなたを連れてきたのでしょうか?あるいはそれは何だったのでしょうか?あなたはどこから来たのですか?その小さな花は、、、私は、、「さて、私は凍っていましたそしてすべてそしてここの上に火を建てました。凍っていたこと以外、そこには暖かくする要素があって、古い薪があって私はここを燃やしていました。そしてここにあなたは居て、あなたは生きている。あなたはどこから来たのですか?

18. そしてその木を見上げて考えていました、「葉っぱ、私は去年それが落ちるのを見た、そこにまだ戻っていますね?あなたはどこから来たのですか?何があなたをここに連れてきたのですか?分かりますね。それは体の中に在る永遠の命が働いていたのです。
さて、そしてある日、歩いていたら、その声が話しかけてきました。「煙草を吸ったり、お酒を飲んだりしてはならない、、、などなど」そしてその若い人、、、そして年を取って、それは何かを動かしていたのです。
そしていまだに、一度上を見上げて、私は言いました、「私はチャールズとエラブラナムの息子ではない。何か召しがある」ちょうど私の小さな鷲のように「私は鶏ではない、それ以外に何かどこかほかに何ががある。オー偉大なるエホバ、あなたが誰であれ、心を開いて下さい!私は家に帰りたい。私の召しが何かあるに違いない。
そして私は新生されました(生まれ変わったのです)その小さなそこに置かれていた命が、その命の水が注がれて、成長し始めたのです。そして古い命は許されて、神の忘れる思いの海に置かれて、再びもう私に敵対して覚えられる事は無いのです。分かりますね。さて、我々は義化されてまるで、神の御前では全く罪を犯したことがないようにされたのです。

19. それ故、パウロは、思うにこう言ったのです。「だから食べに来るときにはお互いに待ち合わせをしなさい」それは別の言葉にすると、ただ数分街、祈り、あなた自身を確かめなさいという事なのです。そしてもしそこにいる兄弟が何か間違った事をしようとしているのを知っているならば、彼の為にも祈りなさい。分かりますね、「お互いに待ち合わせなさい」ちょっと待ってください。祈りなさい。
何かあなたと何かの間にいかなる思いがあるならば、それはしないでください。初めに正してからにしましょう。初めに清め正してくださいと言うのはここには出来る限り聖くなってきたいのです、お互いに又神にたいして、そして主の食卓の周りで交わりに来ることが出来るのです。

20. 「もし人の子の血を飲み、彼の肉を食べないならあなたの中に命はない」分かりますね。それが聖書が言っている事です。そうしないならば命はないのです。分かりますね?あなたはそうして、どうあれ、クリスチャンとして認識される時にあなたの生きている人生のゆえに恥を見せることになります。
そしてその時これは本当に戦いなのです。そしてもしそれをしないなら、あなたには命はないのです、もしふさわしくない状態でそれをするならば主の体に罪を犯すことになります。

21. 私が思うのは、我々というのは私と教会、主が私にこの終わりの時代に話しをさせて下さる教会の事ですーそして我々は間もなく終わる時になると信じています。神が我々にメッセージを下さったと信じています。それは神が定められたもので、それは神によって証明され、それは神を見せられたのです。さて、我々は神に来るとき、敬虔に愛を持って、聖い心と思いと魂を持ってくる必要があるのです。

22. 我々はその通りにメッセージを受け取ることが出来ます。もし私が若い人だったとして、妻を探していたとします、そしてある妻を見つけられたとして、私は「彼女はただ完全だ。彼女はクリスチャンで。彼女は女性です。彼女は全て素晴らしい。私は自信があります」どれ程自信があったとしても、どれ程私が彼女は素敵だと思っても、彼女を受け入れなければならないのです、彼女も私もこれらの誓いの上にお互いを受け入れる必要があるのです。
さて、それはそのメッセージの中に同じことを見出しています。我々はそれが正しいと分かります。我々はそれを神が指定しているのが分かります。それは完璧に正し愛のです。毎年、毎年、それは正しく続きます。全てそれが言った事はちょうどその通りに起こりますと神は言いました。さて、我々はそれが正しいと知って椅子が、分かるのように、それは地的な位置からではないのです。もしそうするならばあなたは中古品の宗教を得たことになります。我々は中古の宗教は欲しくないのです。誰かが他の人が経験した証の上に我々が生きるのです。

23. このコミュニオンはそのために上がってくることであり、命令なのです、「他の人達皆取るから、私もやるのでしょうか?それは彼の一部であり、彼があなたの一部であると言う啓示なのです、そして私があなたを愛し、彼を愛して、これを一緒に神への私達の愛の印として行うのです、お互いの交わりとしても。

24. そしてそれから、我々のタバナクルでは、いつもこれを観察して洗足式をして常に、彼等は一緒に手を繋いで帰るから、水曜日の夜に兄弟がアナウンスしたと思います。(会衆が大きかったので、洗足式の為に全員が座る事が出来ないかもしれない。というのは会衆とあなた方の中には洗足式に出られない人が出るかもしれない〕
彼等はこの水曜日の夜にこれを行う事になるでしょう。

25. 主を受け入れるために、又あなた方に配らなければなりませんでした。それは主イエスをそのパンを取った同じ夜に欺いたのです。
そして彼が感謝をささげそれを割いた時、取って食べなさい。これは私の体で、あなたの為に砕かれたのです、これを私を記念するために行いなさい。
さて、ここでやめましょうね。しかし主イエスキリストの体をこのコミュニオンで取るのは、コミュニオンはキリストの実際の体を意味するわけではありません。そんなことが正しいとは信じて居ません。それは神の命令であるのみだと信じて居ます。それは実際の体ではないのです。さて、それは本当に種入れぬパンの小さな部分なのです。
それはただ命令されている事です。

26. しかし分かる様に、私は、水が許すとは信じて居ません。もしそうならば、イエス様の死は無駄になりますよね。それはただ神の命令にすぎないと信じて居ますが、あなたが許されていることを見せる為なのです。許しの為に洗礼を受けると言うのは、それは信じて居ません。私は水が罪を許すとは信じて居ません。
このパンとワインがあなたに何かをすると言う事も信じて葉いません、神が我々にする様にと命令を下さったものを信じて行っているだけなのです。それは正しいのです。私は水の洗礼も同様に信じて居ます。私はそれをする様に迫られていると信じて居ます、彼が我々の見本の為に全てなさったのです。そして彼はこれを私達の見本の為になさいましたそして我々の見本の為に足を洗われたのでした。

27. 食事の後、杯を取って言われた、この杯は私の血である、それを飲むたびに私を記念して行いなさい(覚えて)
このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主の来られる日まで主の死を宣べ伝えるのです。(どれ程の期間?彼が来るまでですね?)
どこであれ誰であれこのパンを食べこの杯を相応しくない形取るものは、主の体と血とを犯すのである。
ここでしばらくとめさせてください。この事を彼が言った理由は、ここの他の節の中で他の章で彼が言ったのを気が付いているでしょう。「私はあなた方が集まる時に主の食卓でさえ食べて酔っている者がいると知っている」
彼等はそれを誤解したのですね。彼等はそれを思いっきりただ食べただけなのです。今日の人々がしている様に、好き勝手な生活をしながらそれを取っているのです。彼は言いました、「家に帰って食べてきなさい。これは我々が守るべき命令なのだから」さて、
しかし誰でも自分自身を吟味して、パンを食べ、杯を飲むべきであろう。
主の体をわきまえないで飲み食いするものは自分自身に
裁きを招くことになるからである。

28. あなた方の中に弱い物や病人が大勢居り、又眠ったものが少なくないのもその為である。(その言葉の正しい翻訳は、ペアリー兄弟が言いました「死んでいる」多くは死んでいるのです)
しかし自分をよくわきまえておくならば裁かれる事は無いのです。(もし我々自身をわきまえていれば裁かれないのです)
しかし裁かれるとすればそれはこの世と共に罪に定められないために主の懲らしめを受ける事なのである。
(分かりますね。世と何のつながりもないべきなのです)
それだから、兄弟達よ、食事の為に集まる時には、互いに待ち合わせなさい。
そしてもし誰かが空腹であったら、裁きを受けに集まることにならないために、家で食べるがよい。その他の事は私が行った時に定める事にしよう。

29. しばらく前に、ユダヤ人の彼等の捧げものについて話しました、彼等は、、それは素晴らしかったのです、それは神によって与えられていた者でした。しかしそれも定められた通り誠実に敬虔に行わなくない様になってしまったのです。そしてそれは神の鼻の中の煙という臭みになってしまったのです。
さて、同じことが我々にも主の聖餐を預かることによってあるのです、我々は何をしているかを知って来なければならないのです。イエスキリストの名によって水で洗礼を来るときと同じなのです、教会に置かれて、神があなたをキリストの中において下さったのです。
これを我々が取る時、その教会に対して、「私は神の全ての言葉を信じます。彼が命のパンであり、神から天から来られたと信じて居ます。彼が言われたことが全て真理だと信じそして私が知る限りの最善を尽くして生きています神が私の裁き主ですと見せる為なのです。それ故、私の兄弟と姉妹の前で、私は誓いませんし、呪いません、このような事はしませんというのは私は主を愛していて、主はご存知だからです。それ故あなた方の前で、彼の体を取って、私は世によって罪に帰されない事を知らせるのです」分かりますね、皆さんここにいますねそしてそれは祝福なのです。

30. 覚えて下さい、イスラエルがこの様な形式を取って居た時、彼等は荒野を40年間旅をしていても彼等の着物はほころびませんでした、2百万の人々の中に誰も病人は居ませんでした―これをあらわしたものなのです。
さて、それに敵対するのは何でしょうか?もしその動物の捧げものの体が彼等の為にあったとしたら、イエスキリスト、インマヌエルの体が私の為にされたことは何だったのでしょうか?
あなた方が来るとき、敬虔になってきましょう。どのようにすべきか分かっている通りに敬虔になりましょう。