偉大なる神が我々の前で顕かにされた。

The Mighty God Unveiled Before Us

偉大なる神が我々の前で顕かにされた。

フィラデルフィア ペンシルベニア州 アメリカ合衆国

説教番号: 64-0629

日付: 1964年6月29日(64-0629)

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1. さて、多くの人々は、なぜ私たちがこんなにも変わっていて、こんなにもにぎやかなのかと不思議に思ってきました。ご存じのように、これは人々が普段見慣れているものとは、少し違った種類の大会なのです。普通は、すべてが型にはまっていて、決まりきった形式で進められるものです。
けれども、私たちがこうした大会に来る時――この大会が始まった最初の頃から、ここ数年にわたって参加させていただいているのは、私にとって特権でしたが――私たちは、自分たちが何をするのかさえ、ほとんど分からないまま来るのです。ただ来て、自分自身を明け渡すのです。私たちに分かっていることは、それだけです。そして、あとは神がしてくださるのです。
ですから、それで私たちは、とても変わった振る舞いをする人々に見えるのです。
先日、ある人がこう言いました。
「あなた方は、本当に変わり者ですね。」
私は答えました。
「まあ、そうなんでしょうね。」

2. その翌日、彼は自分が働いている工場で、手を上げて主を賛美し、異言で語り、もう大変な騒ぎをしていたのです。とうとう上司がやって来て、こう言いました。「ハイニー、お前はいったいどうしたんだ?」
彼は言いました。「ああ、私は救われたんです。私の心は喜びであふれているんです。」上司は言いました。「それじゃあ、お前はきっと、あそこのナッツみたいな連中のところへ行ってきたんだな。」
彼は言いました。「はい! 神に栄光あれ!」そして言いました。
「主よ、ナッツを感謝します。」さらに彼はこう言いました。
「道路を走って来る自動車を考えてみなさい。その自動車からナットを全部取り外してしまったら、残るのはただのガラクタの山だけです。」まったく、その通りですね。

3. 「私はキリストのための愚か者です。」
皆がその人を見ていました。そして、その人が通り過ぎたあと、人々が振り返って見ているのに気づきました。そこで私も、ほかの人たちと同じように、少し後を追ってみようと思ったのです。
すると、その人の背中にはこう書いてありました。
「では、あなたは誰の愚か者ですか?」
思うに、私たちは皆、互いに見ればどこか変わっているものなのでしょうね。
けれども、この世はあまりにも決まりきった轍の中に入り込んでしまうので、少しでも違ったものが現れると、それがとても奇妙に見えてしまいます。そして人々は、そこに何かおかしなことがあるのではないかと思ってしまうのです。
そしてたいていの場合、神は人々をもう一度聖書へ立ち返らせるために、非常に普通ではないことをなさらなければならないのです。

4. しかし、神は「そこに水があるようになる」と言われました。ですから、ノアはそれを宣べ伝え、それを信じたのです。そのために、彼は変わり者になったのです。
また、モーセがエジプトへ下って行った時も、パロから見れば、彼はどこか変わり者のように見えたことでしょう。しかし覚えておいてください。パロもまた、モーセから見れば変わり者だったのです。
ですから彼らは……。私たちは、そのことが分かります。

5. マルチン・ルターは、カトリック教会から見れば変わり者でした。
そしてジョン・ウェスレーは、英国国教会から見れば変わり者でした。
ですから、そろそろもう一人、変わり者が現れる時ではないでしょうか。
しかし、ご存じのように、ナットがあるためには、まずそれに合うボルトがなければなりません。ナットというものは、ボルトに締め合わされることで、何かを引き寄せ、何かを一つに保つのです。
ですから、ノアは「変わり者」であることによって、信じる者すべてを、裁きから逃れさせて箱舟の中へ引き寄せることができたのです。
また、モーセも「変わり者」であることによって、教会をエジプトから引き出したのです。
その通りです。

6. ですから私たちは、実に変わった種類の人々なのです。
それで今夜、もし主がよしとしてくださるなら、このことに関係する聖句をいくつか読んで、ほんのしばらく皆さんにお話しし、なぜ私たちがこのように変わった人々なのかを、少し示してみたいと思います。
では、聖書を開いて、ピリピ人への手紙二章一節から八節、そしてコリント人への第二の手紙三章六節を読みましょう。私たちは、それを神の御言葉であると信じて読ませていただきます。
そして、読む前に、頭を垂れて祈りましょう。

7. そして今夜、私たちが御言葉のページを開く時、この本文から文脈を与えてください。そして、神にとって良く、喜ばしい事柄を、聖霊が私たちの心に啓示してくださいますように。
イエス様の御名によってお願いいたします。アーメン。

8. 私たちが国旗に忠誠を誓う時、皆立ち上がります。国旗が通る時にも、私たちは立ちます――それは当然すべきことです。そして敬礼するために立つのです。
それでは、もしよろしければ、御言葉を読む間、皆さん立ち上がってくださいますか。
コリント人への第二の手紙三章六節。
神は、私たちに新しい契約に仕える者となる資格を与えてくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺すが、御霊は命を与えるからです。
もし、石に書き刻まれた死の務めでさえ栄光あるものであり、イスラエルの子らが、モーセの顔の輝きのために、その顔をじっと見ることができなかったほどであったなら――しかも、その栄光はやがて消え去るものでした――
まして、御霊の務めは、どれほど栄光あるものでしょうか。
罪に定める務めでさえ栄光あるものであったなら、義の務めは、なおさら豊かな栄光に満ちているのです。
事実、かつて栄光を受けたものも、このすぐれた栄光に比べれば、その点では栄光のないものとなりました。
消え去るものが栄光あるものであったなら、残るものは、なおさら栄光あるものです。
ですから、私たちはこのような望みを持っているので、きわめて率直に語ります。
そして、モーセのようではありません。彼は、消え去るものの終わりをイスラエルの子らがじっと見つめることのないように、自分の顔に覆いを掛けました。
しかし、彼らの思いは鈍くされました。今日に至るまで、旧約が読まれる時、同じ覆いが取り除かれずに残っています。その覆いはキリストにあって取り除かれるのです。
しかし今日に至るまで、モーセが読まれる時には、その覆いが彼らの心に掛かっています。
けれども、人が主に向くなら、その覆いは取り除かれます。
さて、主はその御霊です。そして、主の御霊のおられるところには自由があります。
私たちはみな、覆いのない顔で、鏡に映すように主の栄光を見つめながら、主の御霊によって、栄光から栄光へと、同じ御姿へと変えられていくのです。

9. もし、キリストにある励ましが少しでもあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、憐れみと慈しみがあるなら、
あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びで満たしなさい。
何事も争いや虚栄からするのではなく、へりくだった心をもって、互いに相手を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけを顧みるのではなく、互いに他の人のことにも心を配りなさい。
あなたがたのうちに、この思いを抱きなさい。それはキリスト・イエスのうちにもあったものです。
キリストは神のかたちであられたのに、神と等しくあることを、固く握りしめて離すべきものとは考えられませんでした。
かえって、ご自分を無にし、しもべのかたちを取り、人と同じ姿になられました。
そして、人としての有様で現れ、ご自分を低くし、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました。

10. 天の父よ、
今夜、あなたの聖なる書から読まれたこの偉大な御言葉を、私たちの心に実に現実のものとしてください。
そして私たちがここから出て行く時、エマオから帰って来た者たちのように、
「道々お話しくださった時、私たちの心は内で燃えていたではないか」
と言うことができますように。
イエス様の御名によってお願いいたします。
アーメン。
お座りください。

11. 私は、「私たちの前で顕かにされた全能の神」という題でお話ししたいと思います。
さて、人間が存在するようになって以来、人の心の中には、常に一つの飢え渇きがありました。自分はどこから来たのか、何のためにここにいるのか、そしてどこへ向かっているのかを知りたい、という飢え渇きです。
それに答えることができるのは、ただおひとりだけです。
それは、その人をここへ連れて来られたお方です。
そして人は、いつの時代にも神を見たいと願ってきたのです。

12. 神は、人々を扱われる時、とても不思議な方法を取られます。
神は、不信仰な者にはご自身を隠し、信じる者にはご自身を現されるのです。神はそのようになさいます。
イエス様も、父に感謝されました。これらの事を、賢い者や知恵ある者たちには隠し、学ぼうとする幼子のような者たちに現してくださったからです。
ですから私たちは、神がそのご性質において決して変わらないお方であることが分かります。そして、神はいつも同じ方法で、ご自身の働きをなさるのです。
マラキ書三章で、神はこう言われました。
「わたしは神であり、変わることがない。」
ですから、神はいつも同じ原則によって働かれるのです。

13. ヨブは、その時代において最も義なる人の一人でした。神の律法において完全な人であり、しもべであり、高潔で、尊いしもべでした。ついには神ご自身が、
「地上には彼のような者はいない」
と言われたほどでした。
しかし、ある時、彼の内には一つの願いがありました。それは、神を見たいという願いでした。彼は、神がおられることを知っていました。そして、できることならそのお方を見たい、あるいは、その家へ行って戸をたたき、
「あなたとお話ししたいのです」
と言い、腰を下ろして、ちょうど私たちが互いに話し合うように、神と語り合いたいと感じていたのです。
私たちには、互いに理解し合うというものがあります。だからこそ、私たちはこうした大会に集まるのです。共に集まり、自分たちの思いを表し合います。そして、互いに物事を語り合う時、私たちはお互いをよりよく理解するようになります。
牧師たちもそうします。あらゆる立場の人々もそうです。互いに話し合うのです。

14. しかし私たちは、神が確かにヨブに語られたことを見いだします。けれども、神は覆われておられました。神は、つむじ風という形の中に覆われていたのです。
そして神はヨブに、腰に帯を締めよ、と言われました。ご自分は人が人に語るように、彼に語ろうとしておられたのです。
神はつむじ風の中に降りて来られ、ヨブに語られました。そして、つむじ風を通してヨブに知らされたのです。しかしヨブは、神をはっきりと見たわけではありませんでした。
彼に聞こえたのは、ただ風が吹き、木々の間で渦を巻く音でした。そして、そのつむじ風の中から声が出て来たのです。けれども神は、そのつむじ風の中に覆われておられたのです。

15. そして、このつむじ風の中にあった目に見えない力が、耳に聞こえる声を持っていて、ヨブに語りかけたのです。しかし、ヨブはその姿を見たわけではありません。ただ、神はつむじ風によって彼に覆われておられたのです。
また、旧約聖書の中にいる偉大な預言者の一人、モーセを見ます。彼は、神に選ばれ、選び分けられ、あらかじめ定められたしもべの一人でした。彼もまた、神を見たいと願いました。
彼は神に非常に近く歩み、神の偉大で神秘的な御手が自分の前を進み、ただ神にしかできないことをなさるのを、数多く見てきました。
ある日、彼は神を見たいと願いました。すると神は彼に言われました。
「岩の上に立ちなさい。」
そして岩の上に立っていた時、モーセは神が通り過ぎられるのを見ました。彼は神の後ろ姿を見たのです。そして彼は、それが人のように――人の背中のように見えたと言いました。
しかし、それでも彼は神ご自身を見たのではありませんでした。彼が見たのは、ただ神の覆いだったのです。

16. 「いまだかつて神を見た者はいない。ただ父のひとり子が、神を示されたのである。」
ですから、モーセは、神が人として覆われたお姿を見たのです。
そして私たちは、旧約のエホバが、新約のイエス様にほかならないことを見いだします。
ここでスコフィールド博士の注解を見ると、「かたちが変わる」という言葉について、ギリシャ語では エン・モルフェ という言葉が使われています。それは、「見えなかったものが見えるものとされた」という意味です。
それは、私たちには目で見ることはできないけれど、そこにあると分かっているものです。見えないのです。しかし、それでも私たちは、それがそこにあることを知っています。
そして神がその エン・モルフェ、つまりそのかたちを変えられた時、それは超自然から自然の形へと変わられたということです。言い換えれば、神はただ、ご自分の仮面を変えられたのです。
別の言い方をすれば、それは劇のようなものです。神は役を演じておられたのです。ギリシャの劇では、役者たちは仮面を替えました。一つの劇の中で、一人の役者がいくつもの役を演じることもあったのです。
ここに来ている私の娘も、先日高校で劇をしました。そしてその中で、私の知っている一人の男の子は、四つほどの役を演じていました。しかし彼は、別の人物を演じて出て来るために、舞台裏へ行って仮面を替えていたのです。

17. イエス様は、ただの普通の人ではありませんでした。
彼は神であり、エン・モルフェ であられたのです。
つまり、超自然のお方が、人という自然の姿へと変えられたのです。それでもなお、彼は神でした。肉において現された神であり、人間の、肉の覆いによって覆われておられたのです。
そして、旧約聖書をよく見てください。
今夜、私は世界のさまざまな場所から来られた、いろいろな背景を持つ聴衆に向かって話していることを知っています。そして私たちは、ここで知ろうとしているのです。
私たちは何をしているのか。
私たちは……どこへ向かっているのか。
何が起こっているのか。
このすべては、何を意味しているのか。

18. 彼らは決して、イエス様をベルゼブルなどとは呼ばなかったでしょう。
決して、彼を十字架につけることもなかったでしょう。
しかし、それはすべて演じられなければならなかったのです。
それもまた、この劇の一部だったのです。
そしてこの件において、彼らは目をくらまされていたのです。

19. あなたが洗濯物を出しにその店へ行くと、中国人の洗濯屋は一枚の札を取り、それを独特の形に破りました。あなたはその札の片方を受け取り、彼はもう片方を持っていました。
そして、あなたが自分の持ち物を受け取りに戻って来た時、その二つの紙切れは、ぴったりとかみ合わなければならなかったのです。もし、それが正確に合わなければ――それを真似ることなど、どんな方法でもできませんでした。彼が片方を持ち、あなたがもう片方を持っていたからです――それがぴったり合った時、あなたには自分のものを受け取る権利があったのです。
そして、契約のもう片方を持っていた時、あなたは自分に属するものを受け取ることができたのです。
今夜、私たちが契約のもう片方を持っている時も、それと同じです。
神がカルバリでご自身の御子を二つに裂かれ、御体を犠牲として取り上げ、かつて人であるイエス様の内に住んでおられた御霊を私たちのもとへ送ってくださった時――今夜、その同じ神が、聖霊という形で覆われておられるのです――その二つの部分は一つに合わなければなりません。
その時、あなたはその契約の一部なのです。
神は、人によりよく知られるために、このことをなさいました。
ご自身を人とならせた時にです。

20. その王は、非常に高貴な王であり、自分の民を深く愛している王でした。けれどもある日、護衛たちと王族たちの前で、彼はこう言いました。
「今日、あなたがたが私を見るのは、これから何年もの間、これが最後である。」
すると護衛たちや貴族たちは彼に言いました。
「善き王よ、なぜそのようなことをおっしゃるのですか。どこか外国へ行って、異国の者になられるのですか。」
王は言いました。
「いや、私はここに留まる。そうだ、私は自分の民の中へ出て行くのだ。私は一人の農民になる。木を切る者と共に木を切り、畑を耕す者と共に土を耕し、ぶどうの木を刈り込む者と共にぶどうの枝を刈り込む。私は彼らの一人になるのだ。彼らが何をしているのかを、もっとよく知るために。
私は彼らを愛している。だから、彼らと個人的にもっとよく知り合いたいのだ。彼らは私のことを知らないだろう。それでも私は、そのようにして彼らと知り合いたいのだ。」

21. さて、この小さな物語の中に、私たちは神についてのことを見いだします。
彼らは王に言いました。
「王よ、私たちはあなたを必要としています。私たちはあなたを愛しています。どうか、王のままでいてください。」
しかし王は、彼らをもっとよく知るために、彼らの一人になりたいと願ったのです。そして彼らにも、自分をもっとよく知ってほしかったのです。本当の自分がどういう者であるかを。
それは、王が本当はどのような者であったのかを、彼らに示すことになるのです。

22. 神は、ご自身をエホバなる神であるところから変えられ、私たちの一人となられました。それは、苦しみを受け、死を味わい、死のとげがどのようなものかを知り、死の罰をご自身の上に受けるためでした。
神は、ご自分の王冠と衣を脇に置き、私たちの一人となられたのです。
身分の低い者たちと共に足を洗い、貧しい者たちと共に天幕に住まわれました。恵まれない人々と共に、森の中や通りで眠られました。
神は私たちをもっとよく理解するために、そして私たちもまた神をもっとよく理解するために、私たちの一人となられたのです。

23. 注意していただければ、神は三つの「子」の名において来られました。
人の子、神の子、そしてダビデの子として来られたのです。
まず、神は人の子として来られました。
エゼキエル書二章三節で、エホバご自身が、預言者エゼキエルを「人の子」と呼ばれました。
「人の子」とは、「預言者」という意味です。
イエス様は、そのように来なければなりませんでした。それは、申命記十八章十五節を成就するためです。そこでモーセはこう言いました。
「あなたの神、主は、あなたがたの中から、私のようなひとりの預言者を起こされる。」
イエス様は、ご自身を「神の子」とは呼ばれませんでした。
ご自身を「人の子」と呼ばれたのです。なぜなら、聖書に従って来なければならなかったからです。
分かりますか。あの裂かれた二枚の紙、つまり旧約の預言と、ご自身の性質とが、完全に同じものとしてぴったり合わなければならなかったのです。
ですから、イエス様は人の子として、そのかたちで来られたのです。

24. 神、すなわち御霊が、聖霊というかたちで来られたのです。
彼は何をなさっていたのでしょうか。
ご自身を変えておられたのです。ご自身の民に、別のかたちでご自身を知らせておられたのです。
神であられる聖霊として、彼は教会時代を通して、「神の子」、すなわち聖霊として取り扱うために来られました。
しかし千年王国においては、彼はダビデの子として来られ、ダビデの王座に着かれるのです――王としてです。
彼はダビデの王座を受けることになっていました。今は、父の御座におられます。そして彼はこう言われました。
「勝利を得る者には、わたしが勝利を得て、父の御座に着いたのと同じように、わたしの座に共に着かせよう。」
ですから、至福千年において、彼はダビデの子となられるのです。
それは何でしょうか。
いつも同じ神が、ただご自身の仮面を変えておられるのです。
私は、妻に対しては夫です。

25. 「ダビデの子よ、憐れんでください」
と言ったのに気づかれましたか。
彼は……それには少しも応じられませんでした。
彼女には、彼をそのように呼ぶ権利がなかったのです。彼を「ダビデの子」として求める権利はありませんでした。
彼は、ユダヤ人に対してはダビデの子です。
しかし、彼女が彼を「主よ」と呼んだ時、彼は彼女の主であられました。その時、彼女は願い求めたものを受けたのです。
さて、このように……彼はただ、ご自身を変えておられたのです。

26. 私の家庭では、妻は私に対して、夫としての権利を持っています。
あそこにいる私の娘は、私に対して夫としての権利は持っていません。私は彼女の父です。
そして、あそこにいる私の小さな孫にとっては、私は祖父です。ですから、彼には私を父と呼ぶ権利はありません。私は彼の父ではありません。私の息子が彼の父です。私は彼の祖父なのです。
しかし、それでも私は同じ一人の人間です。
そして神がなさることも、それと同じです。神はその世代に対して、またその民にご自身を知らせるために、ご自身を変えられるのです。
そして今夜、私たちがここで知ろうとしているのは、まさにこのことです。
神はこの民に、この時代に、どのような方法でご自身を知らせることになっているのでしょうか。
神はご自分の仮面を変えられます。
ご自分の働きの現れ方を変えられます。
しかし、ご自身の気質を変えられるのではありません。
ご自身の性質を変えられるのでもありません。
神はただ、一つの仮面から別の仮面へと変えられるのです。
それは、ご自身がどなたであり、どのようなお方であるかを、人々が知ることができるように、よりはっきりとご自身を現すためなのです。

27. 「神は、昔、いろいろな時に、いろいろな方法で、預言者たちを通して父祖たちに語られたが、この終わりの日には、御子イエスを通して語られた。」
さて、預言者たちについて、イエス様は地上におられた時、彼らを「神々」と呼ばれました。
「神の御言葉が臨んだ人々を、あなたがたは神々と呼んだ。そして聖書は破られることがない」
と、彼は言われたのです。
それならば、
「神の子である彼を、どうして罪に定めることができるのか」
と言われたのです。
分かりますか。

28. 「彼のうちに、神性の満ち満ちたものが、肉体をもって宿っていた」のです。
それは彼のうちにありました。
彼は、ヨセフのうちにおられたお方でした。
彼は、エリヤのうちにおられたお方でした。
彼は、モーセのうちにおられたお方でした。
彼は、ダビデのうちにおられたお方でした――拒まれた王としてです。
ダビデ自身の民は、彼を王として拒みました。そして彼が中庭から出て行く時、一人の小さな、苦しみを抱えた男が、はい回るようにしていました。その男は、ダビデの統治、その制度を好まず、彼につばを吐きかけたのです。
すると護衛が剣を抜いて言いました。
「私の王につばを吐く、この犬の首を、このまま付けておきましょうか。」
しかしダビデは、その時、自分が何をしているのか十分に分かっていなかったのかもしれませんが、油注がれていました。そして彼は言いました。
「そのままにしておきなさい。神が彼にそうするように言われたのだ。」
そして彼は丘に登り、エルサレムのために泣きました。拒まれた王としてです。
お気づきでしょうか。それから数百年後、ダビデの子が、通りでつばをかけられ、同じ山の上におられました。同じ山からエルサレムを見下ろす、拒まれた王としてです。そして彼は叫ばれました。
「エルサレムよ、エルサレムよ。めんどりがそのひなを翼の下に集めるように、わたしは幾度あなたを覆い集めようとしたことか。しかし、あなたはそれを望まなかった。」

29. 「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。」
と書かれているからです。
神は、罪から私たちを贖うために死ぬことができるよう、肉体を取られました。
それが、神がご自身を変えて人となられた理由なのです。
ヨハネによる福音書十二章二十節を見ると、ギリシャ人たちが彼のことを聞いていたことが分かります。
さて、人は一度でも彼のことを聞くなら、その心の内に「彼を見たい」という燃える思いが起こらずにはいられません。ヨブや昔の預言者たちと同じように、彼らは皆、彼を見たいと願ったのです。
それで、このギリシャ人たちも彼を見に来ました。彼らはベツサイダの出身であったピリポのところへ来て、こう言いました。
「先生、私たちはイエス様にお目にかかりたいのです。」

30. しかし、彼らは彼を見ることができませんでした。なぜなら、彼はご自身の人間性という宮の中におられたからです。
神はキリストのうちにおられ、世をご自身と和解させておられたのです。
さて、このことの中に、私たちは見いだします。このギリシャ人たちは、彼を見ることができませんでした。
そして、その後でイエス様が彼らに語られた、その御言葉に注目してください。彼はこう言われました。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。」
言い換えるなら、彼らは、その時の変化、その時の仮面の中におられた彼を見ることは決してできなかったのです。なぜなら、彼は人間の肉に覆われておられたからです。
しかし、この一粒の麦が地に落ちる時、それはあらゆる民族を生み出すことになるのです。もちろん、その時、彼はユダヤ人に遣わされていました。しかし、この一粒の麦は地に落ちなければなりませんでした。
人間の肉に覆われた神。
不信仰な者たちには隠され、しかし信じる者たちには現されていたのです。

31. 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
そして言は肉体となり、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であり、恵みに満ちていた。」
さて、初めに言がありました。
言とは、表された思いです。
初めに、彼はまだ「神」と呼ばれていたわけでさえありませんでした。さて、今日の英語の “god” という言葉は、「礼拝の対象」という意味を持っています。これは、考えれば考えるほど混乱を招くものです。人は、誰かを神にすることもできます。何かを神にしてしまうこともできます。
しかし旧約聖書、創世記一章の「初めに神が……」に使われている言葉は、エロヒム です。
エロヒム とは、「自ら存在されるお方」という意味です。
私たちの言う “god” という言葉と、エロヒム という言葉には、なんと大きな違いがあることでしょう。
エロヒム は、「自ら存在されるお方」を意味します。
私たちは、自ら存在することはできません。
私たちは、全能でもなく、全力の者でもなく、遍在する者でもなく、全知の者でもありません。
エロヒム という言葉は、それらすべてを表しています。
私たちは、そのような者にはなれません。
あなたが神としてしまう木も、建物も、自ら存在するものではないのです。

32. そのお方の内には属性がありました。そして、その属性が言葉となり、その言葉が肉体となったのです。
イエス様は贖い主でした。
そして「贖う」とは、「買い戻す」「連れ戻す」という意味です。
もし何かを「戻す」のであれば、それは、戻されるべき元の場所に、以前いたということになります。
ですから分かりますね。すべての人がそれを見ることができるわけではありません。なぜなら、すべての人が初めから神の思いの中にいたわけではないからです。

33. 彼らは、イエス様がご自身を御言葉そのものとして、まさにその通りに現されるのを見ました。それなのに彼らは、
「これはベルゼブルだ」
と言ったのです。
それは、彼らの性質がどこにあったのかを示していました。彼らの性質は、その日の現代的な考えの中にあったのです。
しかし、門のところでイエス様に出会った、あの小さな遊女をご覧なさい。イエス様が彼女に、自分のしてきたことを告げて、メシヤのしるしを現された時、彼女はこう言いました。
「先生、私はあなたを預言者と見ます。私たちは、メシヤが来られることを知っています。その方が来られる時、これらすべてのことを私たちに告げてくださいます。」
彼女は、イエス様をメシヤ、すなわち油注がれたお方として認めていたのです。なぜなら、彼が聖書の条件にぴったり合っていたからです。
お分かりでしょうか。
二枚の紙が、一つに合わさっていたのです。
「私たちは、メシヤが来られる時には……」

34. しかし、イエス様が振り向いて、
「あなたと話しているわたしが、それです」
と言われた時、そこには、
「ベルゼブルだ」
などという反応は一切ありませんでした。
彼女は水がめを置いて町へ走って行き、こう言いました。
「来て、見てください。私のしたことをみな言い当てた人がいます。この方こそ、まさにメシヤではありませんか。」
分かりますか。
さて、これは何をしたのでしょうか。
古い聖書の御言葉と、イエス様が彼女に与えておられた経験とが一つに合わさった時、それは何を生み出したのでしょうか。
それが、メシヤを明らかにしたのです。
そしてお気づきでしょうか。すぐに彼女の罪は赦されました。なぜなら、初めから彼女は贖われ得る者だったからです。彼女は初めから、神の思いの中にいたからです。
ですから、彼女が、エホバの現された聖書の御言葉が実際に表されているのを見た時、それは彼女を贖った、つまり彼女を元のところへ連れ戻したのです。
そのお方が何であったか、
そして今、何であるかを。

35. しかし、ノアは神の一部分でした。
彼が特異な振る舞いをしたのは、彼自身が特異な者だったからです。そして彼のメッセージもまた特異なものでした。なぜなら、それは御言葉が現されていたものだったからです。
イエス様は、モーセのメッセージを持って来ることもできませんでした。それも通用しなかったからです。
モーセは、神が一部分において現されたものでした。彼は、その時のために表された御言葉だったのです。
しかし、イエス様はその形で来ることはできませんでした。聖書は、彼がそのように来るとは決して言っていなかったからです。
けれども、イエス様が、聖書が彼について表されると告げていた通りに、正確に表されて来られた時、贖われ得る者たちは皆、それを信じました。なぜなら、彼らは神の思いであったからです。
初めに神の内にあった属性が肉体となり、贖われ得るものとなり、そして神のもとへ連れ戻されたのです。
「彼を受け入れた者たちには、神の子となる権利をお与えになった。」
なぜなら、彼らは贖われ得る者だったからです。
彼らは初めから、その表れの中にいたのです。

36. この時のメッセージ、すなわちエホバの表された思いについてです。
世の基の置かれる前から、私たちの名は小羊のいのちの書に記されていた、と私たちは告げられています。
そうすると、最初に申し上げたように、なぜ一方がもう一方にとって奇妙に見えるのか、その二つの側面が見えてきます。
それは、そうでなければならないのです。
いつもそうでした。
これまでもずっとそうでした。
そして、これからもずっとそうなのです。
彼は御言葉でした。
そして御言葉は肉体となり、私たちの間に住まわれたのです。

37. ソロモンが主の神殿を献げた時のことを見ても分かります。そのあなぐまの皮、すなわち幕がそこに掛かっていました。その時、神は火の柱として、また雲として入って来られ、その奥へと下り、外の世界に対してご自身を覆い隠されたのです。しかし、イスラエルは信仰によって、神がその奥におられることを知っていました。異邦の世界が何を言おうとも、彼らは神がそこにおられることを知っていたのです。神は不信仰な者には隠されていました。
しかし信じる者は、信仰によって、神がその奥におられることを知っていました。彼らには憐れみがありました。
そして神は、ご自身の贖いの座におられたのです。それこそが、大いなる奥義でした。

38. しかし今は、その幕の向こう側から離れていることが死なのです。
その時代には、神の栄光の中へ入ることが死でした。
しかし今は、神の栄光から離れていることが死なのです。
もちろん、それはカルバリで幕が裂かれた時に起こりました。古い幕が裂かれた時です。
今は、神の御臨在の外にいることが死なのです。
その時代には、神の御臨在に入ることが死でした。
分かりますか。
それは時代によって行き来するのです。
ですから、私たちは自分たちがどの時代に生きているのかを知るために、聖書を見いださなければならないのです。

39. しかし、何が起こっていたのでしょうか。
それはカルバリに掛かっており、血を滴らせていたのです。
彼らが毎年、聖所のきよめのために血を携え、贖いの座に注いでいたように、そこで神は、ご自身の大いなる力ある稲妻の一撃をもって、古いあなぐまの皮の幕を上から下まで裂かれました。そして贖いの座が、はっきりと見えるようになったのです。
まことの、本物の神の小羊が、カルバリで人々の目の前に掛かっておられました。
それこそが、まことの贖いの座でした。
神ご自身が代価を払い、私たちの一人となられ、私たちを知るために、また私たちが神を知るために、人としてご自身を現された時のことです。
その贖いの座は、その贖いの日に、すべてのイスラエルの目の前にはっきりと現れていたのです。

40. もし彼らが聖書を知っていたなら、一つ一つの部分は、あの中国人の札のようにぴったり合ったはずです。旧約聖書の預言は成就していたのです。そして実際に成就していました。
もし彼らが聖書を教えられていたなら、贖いの座を見たはずなのです。
ここでモーセが言ったように、今日に至るまで、彼らは覆われています。
それは今もなお彼らの心に掛かっており、彼らはそれを見ることができないのです。

41. 彼こそが、本物の贖いの座として、人々の目の前にはっきりと立っておられたのです。
私たちが賛美歌で歌うように、
見よ、彼をはっきりと仰げ、
そこにおられる、力ある勝利者を。
彼が幕を二つに裂かれたのだから。
分かりますか。彼は贖いの座として来られ、会衆の目の前にはっきりと掛かっておられたのです。
しかし彼らは、当時の一般的な考えの下にいました。
さて、今ここにおられる男性の皆さん、女性の皆さん、そしてこの大会の代表者の皆さん。私は人を偏り見ずに、これを申し上げたいのです。
しかし今日の光景を見て、また私たちが今日ここに集まっている目的を考えると、私は恐れます。父祖たちの伝統、教父たちの伝統が、あまりにも多くの人々からこのことを隠してしまっているのではないか、と。
聖霊が、預言されていた通り、この終わりの日に来られ、幕が裂かれているにもかかわらず、あまりにも多くの人々が、なおも父祖たちの伝統にしがみつこうとしています。
だから彼らは、今日の教会にある、このあふれる喜び、平安、そしてこれらの事柄を見ることができないのです。
しかし、それは信じる者たちには、はっきりと見えているのです。
神は、この日の約束された御言葉を、人々から隠しておられたのです。

42. 彼らは言います。
「奇跡の日々は過ぎ去った」と。
私が住んでいるアリゾナ州ツーソンで、ある男性が私に話しかけてきました。立派で、教養のある紳士でした。
私はラマダで集会を持っていました。そして、ビジネスマンたちの大会で話していたのです。そこでは、主イエス様が臨在してくださり、大いなることをなさいました。
その時、このクリスチャンの紳士が私のところへ来ました。彼は教会の牧師で、立派な方でした。そして彼は言いました。
「ブラナム兄弟、あなたは人々に使徒時代を持ち込もうとしておられます。しかし使徒時代はもう終わったのです。」
私は言いました。
「兄弟、どうか聖書の中で、使徒時代がいつ終わったのかを私に示してください。」
そして言いました。
「使徒時代はペンテコステの日に始まりました。そして、それは……ペテロはペンテコステの日にこう言いました。
『この約束は、あなたがたと、あなたがたの子どもたち、また遠くにいるすべての人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる者すべてに与えられているのです。』
では、それはいつ終わったのでしょうか。
もし神が今もなお召しておられるなら、使徒時代は今もなお続いているのです。」

43. 人々は、昔と同じように、長老たちの伝統によって、多くの人々の目を覆おうとしているのです。
そのために、あなたがたは、なぜ人々がこれほどまでに喜びに満ち、これほどまでに熱心になっているのかを見ることができないのです。
また、こうした大会が他の人々にとって、なぜこれほど変わって見え、これほど奇妙なものに見えるのかも、そこに理由があります。
それは、彼らが見ているからです。
彼らはその障壁を突破したのです。
その覆いを突き破って、神の御臨在の中へ入ったのです。
そこで彼らは、この時のために約束されたものが、民の前に現されているのを見ているのです。
彼らは、神が約束されたものを見ているのです。

44. この終わりの日に、人々の上に後の雨が注がれる、と。
そこにあるギリシャ語は、おそらく ケノス だと思います。それは、「ご自身を空にされた」という意味です。
ただし、それは私たちが普通に言うように、誰かの中に入っていたものが外へ出て空になった、という意味ではありません。そうではなく、神はご自身を注ぎ出されたのです。
神はご自身の エン・モルフェ を変えられました。
ご自分が何であられたかから、今何であられるかへと変えられたのです。
しかし、神はご自身の性質を決して変えられません。
ペンテコステの日に、神はご自身を「人の子」であるところから、「神の子」へと変えられました。
彼は人々と共に来られたのではありません。
人々の内に来られたのです。分かりますか。
同じ神が、この偉大な時代に、ご自身の働きを続けていかれるために来られたのです。

45. 昼でもなく夜でもない日が来る。しかし夕暮れの時に光がある、と。
さて、地理的に言えば、太陽は東から昇り、西に沈みます。
しかし、それはいつも同じ太陽です。
そして、御子――S-o-n――が、イスラエル、すなわち東の人々に対して、約束された御言葉の現れの中でご自身を現された時……。
私たちは、薄暗い一日を過ごしてきました。
改革者たちなどを通して、教会や教派を作り、そこに加わり、赤ちゃんに口づけし、老人を結婚させ、死人を葬り、そうしたことを行いながら教会生活をするだけの光はありました。
しかし、夕暮れの時には、
「光がある」
と彼は言われました。
「夕暮れの時に」です。
そして、聖書は破られることがありません。
ペンテコステの日にご自身を注ぎ出された、同じ御子――S-o-n――が、ケノス、ご自身を注ぎ出されたその同じお方が、夕暮れの時にも同じことをなさると約束されたのです。
分かりますか。
それは約束に従っているのです。
あの札を合わせなさい。
今何が起こっているのかを見なさい。
そして、彼が何を約束されたのかを見なさい。
そうすれば、私たちが今どこに立っているのかが分かります。
そのものを一つに合わせなさい。
そうすれば、この偉大で力あるお方の覆いが取り除かれているのを見ることができます。
伝統が、預言されていたこれらの偉大な事柄に対して、再び人々の目をくらませてしまったのです。

46. モーセはエジプトへ下って行き、教会の父祖たちに告げました。
主なる神が、「わたしは有る」という御名において、自分を訪れてくださった、と。
その御名は現在形です。
「わたしは有った」でもなく、
「わたしは有るであろう」でもなく、
「わたしは有る」なのです。
常に同じお方。
昨日も今日も、いつまでも同じお方です。
彼は現在形のお方です。
これは、ヘブル人への手紙十三章八節と一致します。
「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。」

47. 「改革者たちはそれを持っていた」と言うでしょう。
ああ、しかし、これは別の日なのです。
私たちがどの時代に生きているのかを見てください。
ちょうど、彼が地上に来られた日々に、モーセの来たような形、あるいはどの預言者の来たような形でも来ることができなかったのと同じです。それは預言されていなかったからです。
そしてこの終わりの日には、このように来ることが預言されているのです。
それはルターのリバイバルの形で来ることはできません。
ウェスレーのリバイバルの形で来ることもできません。
これは回復の時です。
それは、元の太陽の光、元のものへと戻らなければならない時なのです。
ああ、このことについて、どれほど多くの聖句を並べることができるでしょうか。
そして神学者の皆さん、あなたがたが世界のどの地域から来ておられるとしても、それが真実であることを知っておられるはずです。
それは約束なのです。
それが、人々をそれほど変わった者にしているのです。
あなたがたが「変わり者」と呼ぶ人々を、そのようにしているのです。
それは……伝統から来る覆いが開かれ、彼らがそれを見ているからです。
彼は、昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。
それは神の約束であり、私たちはそれに逆らうことはできません。
なぜなら、聖書は破られることがないからです。
はい、私たちは、神がご自身をその民の中に注ぎ出すと約束されたことを見いだします。そして彼は、昨日も今日も、いつまでも変わることのない方なのです。

48. お気づきでしょうか。神がその約束を与えられた者は誰でしたか。
神は彼を、御言葉と共に連れ出されたのです。
モーセは戒めを持っていました。そして、その戒めを持つためには、彼は……。
その戒めこそ御言葉でした。
御言葉は、まだ民のところには来ていませんでした。
ですから、御言葉はいつも預言者に来るのです。
そして彼は、その時の預言者でした。
イエス様が御言葉であられたのと同じです。
ヨハネは預言者でした。そしてイエス様は、水の中にいたヨハネのところへ来られました。なぜなら、御言葉は必ず、欠けることなく預言者のところへ来るからです。
御言葉は……。

49. すなわち戒めが来て、彼はそれを持っていたのです。
さて、なぜ御言葉が与えられ、完全に現される前に、モーセは顔に覆いを掛けなければならなかったのでしょうか。
それは、御言葉がまだ完全には現されていなかったからです。
人々は、何かが起こったことは知っていました。しかし、それが何であるかは分かりませんでした。鳴り響く音や雷鳴がありましたが、ついに彼らは言いました。
「神ではなく、モーセに語ってもらいましょう。」
すると神は言われました。
「よろしい。そうしよう。これからは、わたしはもうこのような形では現れない。彼らにひとりの預言者を送ろう。そして彼が……わたしは、わたしの預言者を通して語ろう。」

50. まして彼らは、どれほどあなたがたを呼ぶことでしょうか……!
モーセは変わり者でした。
ならば、その幕を突き破り、火の柱の中へ入り、祝福を携えて出て来たあなたがたを、彼らはなおさら何と呼ぶことでしょうか。
そして今、あなたがたは覆われているのです。
人々はそれを見ることができません。
理解することができないのです。
もし自然のものが栄光あるものであったなら、超自然のものは、どれほどなおさら栄光あることでしょう。
もし、終わりを持つ自然のものが栄光あるものであったなら、終わりを持たないこのものは、どれほどなおさら栄光あることでしょうか。

51. 信じる者に対して覆われているのではなく、不信仰な者に対して覆われているのです。彼にはそれを見ることができません。
神はいつも、不信仰な者からご自身を覆い隠されます。
伝統がそれを隠してしまうのです。
彼らがその時にそうしたように、今日も同じことをしています。
あの時そこにあったのは自然の幕でしたが、今私たちが持っているのは霊的な幕です。
書かれた御言葉をもって、預言者によって証明されたものです。
預言者とは、書かれた御言葉を携えて来て、それを明らかにする者です。
彼らは、御言葉がそこにあることは知っていました。
しかし、それが何を意味するのかは分かっていませんでした。
そしてモーセが、それを明らかにしたのです。
彼は言いました。
「戒めはこう言っています。そして、これがその理由です。」
彼はそれを明らかにしました。
そして、それが明らかにされる前には、それは覆われていたのです。

52. それが人々に啓示され、明らかにされるまでは、人々に対して覆われているのです。
神――力ある神――が、人間の肉の中に覆われておられるのです。
すなわち御言葉です。
注目してください。
さて、私たちは、それが不信仰な者には隠されていたが、信じる者には現されていたことを見いだします。
注目してください。
モーセは、この火の柱の中へ、ひとりで入らなければなりませんでした。誰も彼と一緒に行くことはできませんでした。
それは……それは何を私たちに語っているのでしょうか。
あなたがこの中へ入るのは、ペンテコステ派のグループに加わることによってではない、ということです。分かりますか。
神はそれを、群れに啓示されたのではありません。
ひとりの個人に啓示されたのです。
そして今日も、それと同じなのです。
あなたは言うでしょう。
「私は教会に属しています。私はこれに属しています。」
しかし、それでは通用しません。分かりますか。
そして、誰かがモーセについて行こうとしたり、それをまねようとしたりするなら、それは死でした。
今日も同じです。
まねようとすることは、霊的な死なのです。
それが、まさに……。

53. 誰かがそれらしく振る舞おうとしながら、実際には違った生活をしているのです。
酒を飲むこともできる。
たばこを吸うこともできる。
女性たちは、ほとんど自分の好きなように生き、この世のように暮らすことができる。
家にいてテレビを見、この世のものに心を向けながら、それでもなお自分たちをペンテコステ派だと呼ぶのです。
彼らは、本物のものをまねようとしているのです。
しかし、それはまだ彼らに啓示されていません。
それが本当に啓示される時、それは栄光に満ちたものです。そして、あなたがその中へ歩み入る時、何かがあなたの内からそれを取り除いてしまうのです。
あなた自身が、覆いとなるのです。
ただ、まねでは通用しません。
それをまねることは、死だったのです。

54. そして今日、覆われている人々も同じです。
彼らは、すべての人に読まれる、書かれた手紙なのです。新しい手紙ではありません。すでに書かれていた手紙が、現されているのです。
それは、この日の御言葉と約束を信じる人々のことです。すなわち、神がすべての肉なる者にご自身の御霊を注いでおられる、という約束です。
そして、それこそが書かれた手紙なのです。
しかし、人がそれを肉的にまねようとする時、それは逆効果になります。
あなたの生活が、あなたが何者であるかを示すのです。

55. 「私はあなたを有罪と認めます。あなたに終身刑を言い渡さなければなりません。」
彼は言いました。
「私は、自分で自分の弁護をしたいのです。自分の記録に基づいて訴えたいのです。」
裁判官は言いました。
「あなたには訴えられるような記録はありません。あなたの記録こそが、あなたを罪に定めているのです。」
そして今日も、それと同じです。
教会が本来あるべきところまで進んでいない理由は、その記録にあります。
それは偽りなのです。
私たちは、もっと献身した者とならなければなりません。
神の御言葉の一つ一つを信じなければなりません。
その御言葉が私たちにとって現実となるまで、求め続けなければなりません。分かりますか。
その記録こそが、私たちが中へ入ることを妨げているのです。

56. しかし彼には、ひとりの兄がいました。
その兄が来て、彼のためにそれを支払ってくれたのです。
さて、私たちにも大いなる兄がおられます。
神の子、イエス様です。
そして彼は、私たちのためにそれを支払うために来てくださいました。私たちがただそれを信じ、彼と共に幕の内へ入ることができるようにです。
彼は、私たちのモーセのようなお方です。
イエス様こそ、今日の私たちのモーセなのです。
覆いを掛けたモーセは、民に対する生ける御言葉でした。
今日、覆われたイエス様が、民に対する生ける御言葉なのです。すなわち、教会の中におられるイエス様です。
聖霊、神の子が、人々の内におられ、この日の約束によって御言葉を啓示しておられるのです。それが、まさにその通りのものにしているのです。
今も同じです。
そして覚えておいてください。モーセがこれを行い、これを現したのは、全世界に対してではありませんでした。出エジプトの民に対してだけでした。たった一つの種類の民に対してです。それは、出エジプトによって出て来た人々でした。
そして今日も、聖霊は、「神の癒しなど正しくない」と言う人々の面前で……。
私が相談していた時……。

57. ある小さな婦人のことででした。
ああ、そこでは四、五件ほど、まさに死の間際に横たわり、あと数時間だと言われていた人たちがいました。しかし聖霊が彼らを癒されたのです。
その医者は、それについて問いただして言いました。
「どうしてこんなことがあり得るのですか。だって、彼女は私の患者です。」
私は言いました。
「以前はそうでした。しかし今は、神のものです。今は神の対象なのです。」
分かりますか。
ですから、そこにあるものが見えてきます。神は、一つの出エジプトを呼びかけておられるのです。
肉の幕の背後から出て来るようにと。
まねをしようとする者、教会に加わろうとするだけの者の背後からです。
それは、メソジスト、バプテスト、長老派だけのことではありません。全部まとめてです。ペンテコステ派の教会も含めてです。
これは個人的なことなのです。
あなたと神とのことです。
あなた自身が中へ入らなければなりません。
あなたのグループではありません。
あなたの教会ではありません。
あなたの牧師でもありません。
中へ入らなければならないのは、あなた自身なのです。

58. 彼が出て来た時、彼は預言者であり、非常に偉大な人物でしたが、御言葉を携えて出て来た時、人々は彼が変えられているのを見ました。何かが彼に起こっていたのです。
その時のために証明された御言葉、すなわち戒めを携えて出て来た時、彼は変えられた人となっていました。
そして、あなたも同じです。
このような集会を笑う人間の幕、神の癒しにつまずき、
「奇跡の日々は過ぎ去った」
と言うような人間的な覆いの背後から出て来るなら、あなたも変えられるのです。
その人間的な覆い、伝統の覆いの背後から抜け出すなら、誰もが、あなたに何かが起こったことを知るようになるのです。

59. おそらく、ほとんどの長老派の人々、あるいは……彼を知っている人々は、彼に何かが起こったことを知っていると思います。なぜなら、彼は伝統の覆いの背後から出て来たからです。
彼は、人々の中に自分を引きつける何かを見たのです。そして、その覆いの背後から出て来ました。
そうです。あなたが覆いの背後から出て来る時、その時あなたは人々の前にはっきりと見えるようになります。そして人々は、あなたに何かが起こったことを見ることができるのです。
不信仰な者には覆われた御言葉。
しかし信じる者には、はっきりと現されている御言葉。
それは、
イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。

60. あの日々には、神がひとりの人の内におられたのです。
すなわち、ご自身の御子、イエス・キリストの内におられました。
私たちはそれを信じています。
彼は、ただの預言者ではありませんでした。
ただの普通の人、普通の人間ではありませんでした。
それは、キリストの内におられる神でした。
人の内におられる神でした。
神性の満ち満ちたものが、肉体をもって、その人の内に宿っていたのです。
神が、ひとりの人の内におられました。
そして今は、神が人々の内におられるのです。
神性における神の満ち満ちたものが、ご自身の教会全体の内に肉体をもって現され、ご自身を現し、御言葉を成就しておられるのです。

61. それは、南部で起こった小さな出来事を思い出させます。
そこには、あるクリスチャンの家庭がありました。その家庭では神を信じ、神があらゆる災いから自分たちを守ってくださると考えていました。実際、神はそうしてくださいます。
その家には、小さなジュニアという男の子がいました。七歳か八歳くらいの少年で、日曜学校にも通っている、とても良い子でした。
けれども彼は嵐を怖がっていました。特に稲妻が光る時には、とても怖がったのです。

62. 「ブラナム兄弟、人々はあなたを神にしてしまっていますよ。」
彼は批判的な人でしたので、私は少しだけその言い方を和らげながら、傷つけないように、しかし少し切り込むように言いました。
「それは、聖書から見て、それほど外れたことなのでしょうか。」
分かりますか。
私は言いました。
「いいえ、そうではありません。なぜなら、イエス様は預言者たちを神々と呼ばれたからです。」
その通りです。神は……。
すると人々は言います。
「あなたがたは、神の代わりを務めようとしているのです。」
しかし、それはそれほど外れたことではありません。
まさに、それがその通りなのです。まさにそのことです。
神が肉において現されているのです。
彼が約束された通りに。

63. ある夜、嵐が起こりました。するとお母さんがジュニアに言いました。
「さあ、坊や、二階へ行って寝なさい。」
彼は言いました。
「ママ、怖いよ。」
お母さんは言いました。
「何もあなたを傷つけたりしないわ。さあ、上へ行って寝なさい。」
小さなジュニアは二階で横になっていました。稲妻が窓のあたりで光り、その小さな子はとても不安になりました。布団の中に頭を突っ込んでも、なお稲妻が窓にひらめくのが見え、雷鳴がとどろくのが聞こえました。
それで彼は叫びました。
「ママ!」
お母さんが言いました。
「どうしたの、ジュニア?」
彼は言いました。
「ここへ来て、一緒に寝て!」
そこでお母さんは、良い、誠実な母親なら誰でもそうするように、階段を上って行きました。そして上へ来て、小さなジュニアを腕に抱き、こう言いました。
「ジュニア、ママは少しだけあなたに話したいの。」
彼は言いました。
「いいよ、ママ。」
お母さんは言いました。
「いい、これをよく覚えておきなさい。私たちはいつも教会へ行っているでしょう。聖書を読んでいるでしょう。祈っているでしょう。私たちはクリスチャンの家庭よ。私たちは神を信じているの。
そして、嵐の中でも、どんなことが起こっても、神が私たちの守りであると信じているのよ。」
彼は言いました。
「ママ、ぼく、その全部を信じてるよ。でもね、あの稲妻がこんなに近くにある時は、皮をまとった神様がほしいんだ。」

64. 私たちが集まり、互いのために祈る時……
それは「皮をまとった神」なのです。
そしてここで私たちは、神がいつも「皮」をまとっておられたことを見いだします。
モーセが神を見た時、神は皮をまとっておられました。
人のように見えました。
神が幕の後ろにおられた時も、神は皮をまとっておられました。
そして今夜、神はご自身の教会の中で、皮をまとって覆われておられるのです。
今夜も、彼はなお同じ神です。
私たちはそれを見いだします。
しかし今も、いつものように、人々が伝統につまずくのは、その皮の覆いなのです。彼らは、あの人々をあのように動かしているのが神であるとは、どうしても信じることができません。
分かりますか。
それは、神がご自身の教会の中に、皮の中に覆われておられるからです。皮をまとっておられるのです。
その通りです。
彼は不信仰な者には隠され、信じる者には現されておられます。
はい、その通りです。

65. 私たちは彼を見るのです。
神性が、再び人間の肉の中に覆われておられるのを。
ヘブル人への手紙一章もそう語っていますし、創世記十八章にもあります。覚えておられるでしょう。神は一人の人としてそこに立ち、アブラハムと共に食事をし、語られました。そして、幕屋の後ろにいたサラが何をしているかを告げられたのです。
そしてイエス様は言われました。
「ソドムの日にあったように、人の子の来る時にもそのようである。」
神性が、再び人間の肉の中に覆われるのです。
さて、覚えておいてください。イエス様は、ルカの十七章、たしか二十節、二十一節あたりで、
「神の子が現される時」
とは言われませんでした。
彼は、
「人の子が現される時」
と言われたのです。
人の子が、再び教会の中に戻って来られるのです。
人間のうちに現されるのです。
神の子としてではなく、人の子として、終わりの日に再びご自身の教会の中に戻って来られるのです。
私たちは、神の約束の中で、彼がそのことを約束しておられたのを見いだします。

66. 旧約において――ここに出エジプト記の聖句を持っていますが――あの古いあなぐまの皮は、何をしていたのでしょうか。
それは、神の栄光を人々から隠していたのです。
あなぐまの皮が、神の栄光を隠していました。
人々がそれを見ることができなかった理由は、それを包んでいた皮があったからです。
皮があったのです。
神の栄光は、その皮の背後にありました。
そして今、神の栄光は、あなたの皮の背後にあるのです。
その通りです。
そして伝統は、それを見ることができません。
それは幕の内側にあるのです。
そこに、彼の御言葉があったのです。

67. あの古いあなぐまの皮、その外側には、私たちが慕うような美しさはありませんでした。
そして、それが肉体となって私たちの間に住まわれた時も、やはり私たちが慕うような美しさはありませんでした。
そして今日も、同じことです。
男であれ女であれ、その人自身の中に、人が慕うようなものがあるのではありません。大切なのは、その背後に何があるかです。そこにあるものなのです。
あなたは言うでしょう。
「あの人を知っています。昔は酒飲みでした。昔はこんなことをしていました。」
私は、その人が昔何をしていたかは気にしません。
その皮の背後に何が隠されているのですか。
そこに何があるのですか。
それこそが大事なのです。
それが問題なのです。
人々は目がくらまされています。
その皮が人々の目をくらませるのです。分かりますか。
彼らは言います。
「あの女は昔……」
私は、彼女が昔何をしていたかは知っています。
しかし、今はどうなのですか。分かりますか。
かつては、あなぐまの上にあったその皮。
しかし今は、それが神の栄光を隠し、その栄光を内側に宿しているのです。
それはかつて動物の上にありました。
しかしそこでは、神の栄光を宿すものとなっていたのです。
そして今夜、あなたの皮も変えられることができます。
神の住まわれる場所、すなわち神が人間の内に住まわれる住まいとされるためにです。

68. その内側には、御言葉がありました。
またそこには、供えのパンもありました。
契約の箱には血が注がれていました。
そしてそれは何だったのでしょうか。
そこには、シェキナの栄光があったのです。
さて、御言葉は種です。
そして種は、太陽の光が当たるまでは実を結ぶことができません。
種を実らせ、芽を出させるには、太陽がその種の上に当たらなければならないのです。
それが、御言葉を受け取る唯一の道です。分かりますか。
神の御言葉をあなたの心に受け取り、シェキナの栄光の中へ歩み入るのです。
そうする時、それは供えのパン、すなわちマナを生み出します。
それは、分離された民にだけ与えられるものです。
それを食べることができるのは、許された民だけなのです。
そして注目してください。ここでパウロは言いました。
「栄光から栄光へと変えられていく。」
分かりますか。
ついには、それは……本来の栄光へと戻って行くのです。
それは、朝顔の種のようなものです。

69. まあ、それはまさに教会がやったことです。それはルター、ウェスリーから来ており、今では元の穀物に戻り、元の栄光に戻り、最初の栄光に戻ります。東に昇った太陽は、西に同じことを現し、栄光から栄光へと変化している太陽と同じです。
それは異教徒からルターに、ルターからウェスリーに、そしてウェスリーからペンテコステに変わり、そして栄光から栄光へと変化し、隠されたマナを生み出しました。そして今、彼を最初の時とまったく同じように、同じ奉仕、同じイエス、同じ力、同じ聖霊として連れ戻す機が熟しています。ペンテコステの日に降りてきたのと同じ聖霊が、今日、栄光から栄光へ、栄光へと現れたのと同じ聖霊であり、聖霊のバプテスマによって元の種に戻り、同じしるし、同じ驚異、同じバプテスマ、同じ種類の人々が同じように行動し、同じ力、同じ感覚を持っています。それは栄光から栄光へです。そして次の者は、この栄光から、私たちが神を見るであろう彼自身の輝かしい体のような体に変わるでしょう。アブラハムも同じものを見ました。

70. しかし、それはまるでドラマを演じている—または演じている素晴らしい交響曲のようなものです。交響曲や演劇についてはあまり知りませんが、娘と彼らが出演していたとき、私はこの劇を見ていて、カルメンについて話していました。そして彼らはカルメンでこの交響曲で演奏していました。彼らは演技をしていた。..音楽も同じことを演じていた。聖霊によってキリストにバプテスマを受けるとき、それはその通りです。

74. そして、あなたが言うとき、“奇跡の日々は決して過ぎません、” 交響曲は叫びます、“アーメン!”
私たちが「“イエス・キリストよ、昨日も今日も、そして永遠に同じ”」と言うと、交響曲は「“アーメン!”」と叫びます
“この後、聖霊があなたに臨むと、あなたは力を受けるでしょう”;交響曲は叫びます、“アーメン!わかった。” それならもう推測する必要はありません。交響曲全体が御言葉と調和しています。ただ行きます[ブランハム兄弟は手をたたいて連続した動きを説明しています]。それじゃ。ああ、それは素晴らしいことだ。監督と作曲家は同じ精神でなければならず、それをすべて演奏するには音楽家も同じ精神でなければなりません。そして世界は何が起こっているのか疑問に思っています。
彼らは共産主義について語り—そして私はそれにうんざりしました—、こうした統合、その他すべて、そして人種隔離について語ります。.. ああ、慈悲!主の来臨が近づいているとき、このような—このすべてのナンセンス!何かおかしい気がする。監督は作曲家の精神から—監督を失ったのではないかと心配しています。

75. 今日私たちに必要なのは監督です。そうだね。言葉に戻る。戻って、言われたとおりに信じてください。
それからあなたは神、彼自身を見ます;それが除幕式です;ドラマは現実になりました。

76. 人間は、神が行ったことに対して常に神の栄光を讃え、神が何をするかを考え、神の行いを無視しています。それは人間がそれを行うためだけであり、それは今日も同じことです、兄弟たち、それはまったく同じです。
ああ、私の!戻って、世界が見える場所で交響曲を正しく演奏しましょう。イエスは言われた、 “もし私がこの地から引き上げられるなら、私はすべての人を私のところに引き寄せるでしょう。” そして彼は昨日も今日も、そして永遠に同じです。
監督たちにミュージシャンや作曲家と正しい精神を働かせれば、すべてがうまくいくでしょう。そうすれば、私たちは—それについて推測することはなく、そのとき私たちは神と同一視されます。ヘブライ人への手紙 13 章 8 節には、「“彼は昨日も今日も、そして永遠に同じです」と書かれています。”

77. 同様に、私が真のアメリカ人になりたいのであれば、彼女がかつて持っていたもの、彼女が今いるものすべてと同一視されなければなりません。私が真のアメリカ人なら、彼女と同一視されなければなりません。もし私が真のアメリカ人なら、プリマスロックに上陸したことになります。アーメン!アメリカ人ならそうしました。あなたもそうでした;あなたは巡礼者の父親たちとともにプリマスロックに上陸しました。プリマスロックで彼らが着陸したとき、私は彼らと一緒にいました。皆さんもそうでした。

78. I return thanks with the original Thanksgiving fathers; I return thanks to God。私は元の感謝祭の父親に感謝を返しました。もし私が本物のアメリカ人なら。私はそのテーブルで身元が特定されました。もし私が本物のアメリカ人なら、ストーンウォール・ジャクソンと一緒に立っていたときにそれが分かりました。もし私が本物のアメリカ人なら、ボストン茶会で身元が特定されました(はい、先生!) 物事を目に引っ張られることを拒否したとき。私は本物のアメリカ人でした、そこで私はそれと同一視されました。はい 先生!ああ、私の!

79. リンカーンが演説したとき、私はそこのゲティスバーグで身元が確認されました。はい 先生!私はウェーク島にいて、血まみれの兵士の遺体の上にいました。私はウェーク島で起きました。グアムでは、私はその旗を掲げるのを手伝いました。私は本物のアメリカ人です。アーメン!彼女はすべてであり、私もそうであり、それを誇りに思っています。はい、確かに!アメリカはこれまでも、そして彼女も、私はアメリカ人であり続ける。彼女がそうであったすべて、私はそうでなければなりません、なぜなら私は彼女と同一視されているからです。

81. ヨシュアがラッパを吹き鳴らし、エリコの城壁が倒れたときも、私は身元が特定されました。私はダニエルと一緒にライオンの巣穴にいました。私はヘブライ人の子供たちと一緒に燃える炉の中にいました。私はカルメル山のマウント—とエリヤと一緒にいました。

82. ラザロがラザロを育てたとき、私はラザロの墓で確認されました。神が彼女に罪を告げられたとき、私は井戸の女性と同一視されました。はい 先生!私は確かに彼の死において彼と同一視されました。そして私は最初の復活祭に特定されました。私は死から神とともによみがえりました。私は彼の死において彼と同一視されています。
私は上の部屋の120と一緒にいました。私はそこで彼らと同一視されました。ああ、私は宗教的な気分です。アーメン!私はそこで特定されました。私もその一人です。私は特定されました;私は彼らと同じ経験をしました。それが起こったとき、私は真のクリスチャンになるためにそこにいました。
私は強大な突風が吹くのを目撃しました。私はそれを目撃しました。揺れる神の力を感じました。私は異言を話す彼らと一緒にいました。そこに油注ぎが入ってくるのを感じました。私は彼らと一緒にいました。 聖霊が彼らと異言で話し始めたとき、私は彼らと同一視されました。使徒行伝第2章で、私はペテロが批評家たちの前で、次のような素晴らしい説教をしたとき、彼と一緒にいました。私は彼と同一視されました。はい 先生!

83. 私は火星の丘でポールと一緒に説教しました。はい 先生!私はジョンと一緒にパトモス島に行き、彼の再臨を目撃しました。私は宗教改革においてルターと一緒にいました。英国国教会に対する大反乱が起こったとき、私は火災で奪われた火のブランド、ウェスリーと一緒にいました。私は彼と一緒にそこにいました。
そして今夜、私は1964年にペンシルベニア州フィラデルフィアで、同じ種類のグループと同一視され、同じ種類の経験をしています。私はクリスチャンでなければなりません。私は神の言葉がどこに現れているかを特定し続けなければなりません。
私は神の霊を感じるグループと同一視されています。

84. 私は彼らと一緒にいて、私が話した生きた書簡、正しさが証明され、神は男性と女性の中で人間の姿に隠されています。ああ、

86. そこから聞こえてくる音は、「“ああ、あの人たちは気が狂っているんだ”」と言いました。彼はそのベールを突き破りました。はい、彼はそうしました!
“ああ、それはできません。あなたたちはただの狂信者の集まりです!” 彼はそれを突破した。
“神の癒しなどというものは存在しません。” 彼はそれを突破しました(ああ、私の!)、彼の言葉にはそうすると書かれていたからです。神の言葉を征服することはできません。
そして今夜、強力な征服者である神はそこに立っています。なぜなら、神はメソジスト、バプテスト、長老派、その他あらゆる種類のベールを打ち破ったからです。彼は今夜も伝統に征服されることなく、民の中に立っています。人々に言いたいことを言わせ、やりたいことをやらせ、やりたいことは何でもさせてください。神はその防音壁を突破して来られます。

87. それはあらゆる障壁、あらゆるベールを破ったと私は信じています。あらゆるベール、彼の存在を隠すものは何もありませんでした。人々が心の中に飢えを感じると、すぐに破られるベールができます。それに頼ることもできます。彼の偉大な聖霊によってすべてのベールを借りてください。そして今夜、強力な征服者である神はここに立っています。昨日も今日も、そして永遠に同じです。病人を癒し、いつものように信者に洗礼を授けます。彼は強力な征服者です。運命の悪魔が逃走中だ。はい 先生!彼がそばにいるとき、彼らはいつもそうです。

88. 直接、後ろから男が立ち上がった; 彼は言った、 “ほんの1 分。” 彼は歩いて行ってそれを手に入れた。彼がこれを演奏したとしましょう:
血で満たされた噴水があります
イマヌエルの静脈から引き出されたもの
罪人がその洪水の下に飛び込むとき、
彼らの罪深い汚れをすべて失ってください:
それから彼がそれを置いたとき、その場所にはドライアイはありませんでした。それから彼は言いました、“誰が申し出るでしょうか。..”
ある人は、“5,000 と言いました。”
“一万。”
値段のつけられないものでした。なぜ?ヴァイオリンの老師はその真の品質を明らかにしました。ああ、兄弟、姉妹、さあ、この言葉を書いたこの言葉の主人、偉大な聖霊に、愛で弓をよみがえらせ、あなたの心に引き寄せてください。
血で満たされた噴水があります
イマヌエルの静脈から引き出された。…
あなたはその価値を最大限に理解し、明らかにされた神が目の前に現れるのを見るでしょう。神はペンテコステの日に民の上に倒れたとき、神ご自身が民の中に空になったときとまったく同じであるということです。そうだね。
あなたは言います、“ブランハム兄弟、私は試してみました。試してみました。これやあれやこれややったことがあるよ。”

89. 私たちは彼の来る兆しを見ます。そうなるでしょう。..いつも日の直前に最も暗くなります。それから明けの明星が出てきて、その日を祝い、それが来るのを告げて示します。
お知らせ!

90. 彼が何を叫んだか知っていますか?彼は言いました、「“恐れるな、妹よ」。ここに電気を点けることができる男がいます。”
聞いてください、妹さん、私たちは小さくて少数派だと思うかもしれませんが、恐れることはありません。ここに電気を点けることができる男がいます;それが聖霊です。信じますか?

91. そして今、私たちはすべての自然と同じように、元の種に戻り、ある教会時代から別の教会時代に戻っています。そして、この最後の時代に、私たちはペンテコステの日にすべての聖書を成就するために降った元のもの、夕方の光、そして“私が行う業もあなたにするでしょう”、そして非常に多くのことに戻ります。あなたが御言葉で約束されたこと。
父よ、もしここにまだそのベールを突破したことのない人がいるなら、あるいはここにベールを突破した人になりすましただけの人がいるなら、今夜父よ、恵みを与えてください。あの偉大な征服者がここに立って、恵みと許す力に満ちているのを彼らに見てもらえますように。許可してください、お父さん。

92. 今日、私たちはそれを手に入れました、“私は温床植物です。” 温床で育てられた花を例に挙げると、赤ちゃんに育てたり、撫でたり、スプレーしたり、水をやったりしなければなりません。しかし、砂漠に生えている元の植物、同じ種類の花は、そのように見えます。少しは水が出ませんが、虫はつきません。頑丈だ。それは本当です。…

93. ミケランジェロ。..モーセの記念碑を作った人。その複製は非常に安く手に入りますが、オリジナルは。… 主の晩餐を描いた人。… そのオリジナルの絵は、もし買えたら何百万ドルもかかると思います。どこにあるのかさえ分かりません。しかし、あなたはそれを約$ 1。98 で安い複製を買うことができます。できます。

94. 私は昨日も今日も、そして永遠に同じ彼を全景で見ています。ああ、クリスチャン、あなたは本物のクリスチャンになりたくないのですか?もし手を挙げなかった人がいたら、手を挙げてあげますか。.. ただ祈るだけです。神のご加護がありますように。神のご加護がありますように。ああ、それでいいんだ。ただ見てください。…

95. 今夜ここで、少年少女を問わず、すべての男女が、どの国、どの肌の色、どの教会に属しているかに関係なく、—ああ、神様、彼らを満たしてくださいますようにと祈ります。ペンテコステの日に聖霊としてご自身を明らかにされたように、今日、同じイエスの本当の現れが私たちの中に見られますように。許可する。
御言葉が成就するのを見て、預言は成就します、

96. しかし、主なる神よ、もし私たちがその泉に戻るなら、浄化のプロセスがあります。そうすれば、私たちの経験と神の言葉は互いに一致し、私たちは自分の所有権を主張できるようになります。主よ、今夜、私がこの民をあなたの手に委ねるとき、それを許してください。私たちが必要としているものを一人一人に与えてください、父よ。私たちはイエスの名において尋ねます。アーメン。