1. 我々の大いなる主よ、我々は間違いなくこのように集まり、主の再臨の前にこの地上に居られる今日のような素晴らしい日を官舎しています。どうか我々自身が心を御言葉によって、今日探り、そして我々の中に信仰が見られるならば、主のお出でになられるときに準備されていますように。聖句が言っているように、「キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつまでも主と共にいるであろう。」(第1テサロニケ5-16-17参照)
本物のクリスチャンの霊がまだ人々の間に世界にあることを感謝します。そしてまだ、あなたとあなたの御言葉を信じている人々が居る事を官舎しています。それゆえ、今日、あなたからの祝福kを求めて祈ります、あなたが我々一人一人に必要のために祝福を注がれ、御言葉によって清められ、あなたの手によって使われる道具にこの終わりの時に会ってなれるように。我々の主イエスキリスト、我々の素晴らしい羊飼いが現れる事を期待して、その御名を通してお祈りします。アーメン。どうぞおかけください。
2. そして、このメッセージを今日、テープに記録します。主がそれに関して㈠二か月前に、考えている事に関して話してくださいました、そしてそれは長いメッセージになります。十分に集会で時間がないのです、礼拝では30分か40分くらいしか時間を頂いていないからですと言うのは、仕事や何かに人々が行くからです、だから私のメッセージが短くする方がよい事を見出しました。そして彼らはそれを録音する時間がなかったようなので、ここの幕屋に来るまで待ってここから録音した方が良いと考えました。そしてそれはちょっと長いものになります、そしてあなた方が立っている事を知っているので、出来る限り急ぐつもりです。そしてさて、席を変えたり何かをすることは私には邪魔にはなりませんから、全く大丈夫ですと言うのは、これは徳月な日なのでこの六をすることにしました。
そして、だから、主がそのフィールドでどれだけ素晴らしい事をされたかと言う素晴らしい報告がありますが、たぶん、それは今晩もっと時間があるので、その時に話す予定としましょう。
7. さて、今以前我々とともにおられた方、ミシガン州のスタージスの方でジャクソン兄弟が、今朝、主の御許に行かれたことを皆さんにお知らせしたいのです。彼がどのようにいかれたかあるいはそれについて誰も知りません。彼は元気にしていました、そしてただ、思うに、彼らが彼が死んでいたのを見つけたか何かだと思います。それについての完全な詳細を得ていません。そして我々は、ジャクソン兄弟がクリスチャンであったことをとても神に感謝しています。数年の間彼に会っていませんでした、彼は我々とともにおられ、我々のひとりでした。(神が、彼の魂の中におられました)そのようにいかれると、我々は何かそこにあったのではないかと信じています、たぶん、彼が行くべき時だったのです。ただ主は決して警告されませんでした、あるいは彼について、彼はただ行ってしまったのです。それはそれと言う方法でした。そして出来る限り早く彼の奥さんに電話して、我々の悲しみを彼女に告げたいのです。そして、我々は皆、神に彼の勇敢なクリスチャン人生と地上において彼があるべき意味特に、この地元の集まりにおいて特に我々はそのことを感謝したいのです。
8. しかし、今回は、今御言葉に直接入っていきましょう、と言うのは、混んでいて暑いからです。御言葉に直ぐ入っていきます。今朝は、二つの聖句の場所を読みたいのです、長めのものです、だから、それによって私が言いたいことに関しての、多少の背景が分かるようになります。
そして今、彼らがそのテープを持っている事を望みます、ソスマン兄弟と彼ら、それを売る前に、もしできるならば、公共に出回る前に一度聞きたいのです。
10. 我々の心をあなたの言葉によって祝福してください。我々は天にも地にもこの書を取るにふさわしいものはいませんでした、その封印を開くのに、あるいはそれを見る事さえもです。しかしそこに一人だけ現れた方がいるのです、屠られた子羊、血を流された方、来られたその巻物を取られました、ふさわしい方で、それを解くことが出来たのです。オー神の子羊、あなたの言葉を今日、私たちの心に開いてください、慰めのために。我々はあなたのしもべです。罪を許してください主よ。そしてなんでも我々の人生において今日においての偉大なる力や権力や影響で御言葉から離れさせるものは何であれ取り去って下さい、主よ、どんな邪魔もです、我々はあなたの御言葉を通して、全ての祝福と我々に対する約束を完全に手にすることが出来る可能性があるのですから、イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
11. そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、
どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。
何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。
おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
12. 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、
まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。
もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。
そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。
もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。
こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
1.このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、
恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
13. さて、今朝の私の議題は、神がこれを明らかにされると信頼しています。そして毎回、もしテープを得て、聞いているならば、そして教会にはっきり告げることなしに、神が霊的な悟りをあなた方に持たせておられると信頼し希望してますね。そのような事が時々、我々は詳しくして離さなければならない事があります、それは外に出て行かせてしまう可能性があるもの、あるいは何人かは去っていくか、何人かはそれについて考えあぐねるようなことを言わなければならないのです。しかし、それは目的をもって行われているのです。その方法でなされなければならなかったのです。
14. 彼はある日言われました、彼の周りに何千にもの人々がいた時、彼は言いました、「神の子の肉を食べ、人の子の血を飲まない限り、あなたがの内に命はない」と
医療関係の医師や、看護師あるいは立派な学者、また彼の持っていたようなミニストリーを持っている人にとっても、どのように考えていたと思いますか?その理由として、彼が行ったのは、「肉を食べ?それは人食い人種だ!人の血を飲む?それは吸血鬼だ!つまり、彼は我々に人食い順と吸血鬼になってほしい」そして聴衆は皆、彼から歩み去っていったのでした。
15. 疑いもなく彼らは、男性は言いました、「さて、ちょっと待って下さい。オー我々は彼と食事をしました。一緒に釣りもしました。一緒に寝ました。彼が生まれた場所も知っています。我々は彼が揺すられていたゆりかごを見ました。そしてどのようにこの人は、、、これを言うのは難しい事です。
そして、聖書はこう言っています。「彼らはもう彼とともには歩んでいません」彼らは彼を離れました。
16. そしてそれが、死とペテロが造った大いなる声明なのです、「主よ誰のところに行きましょうか?」分かりますね?「我々が満足したのです、我々は安心しているのです、あなただけが、この時代のための、命の言葉を持っておられるのです。」分かりますね。「そして私たちはそれに満足していました」分かりますよね、彼らはそれを説明できませんでした。彼等は、、穴阿多には信仰を説明することはできません。それは何かあなたが信じる事なのです、そしてそれはしっかりしていて、他の何物もその場所をとることは出来ないのです。それゆえ、彼らはその御言葉を知っていて、彼らが生きていたその時代のために書かれていたことので彼らは知っていたのです、それは救い主の時代出、彼は正にその場所にピッタリ嵌っていたのです。そして彼らが出てきた、冷たい公的な教会に戻って何が出来るのでしょうか?そして言ったのです。「どこに行けばよいのでしょうか?」と、分かりますよね?「我々は完全にあなたが命の言葉を持っていると納得しているのです」そして彼らにはその説明は出来ませんでしたが、彼らはそれを信じていたのです。分かりますね?
17. さて、私の今朝の議題は、明らかにされる、あるいは、覆いを取られる、神と言う事です。
神は何時も、何時の時代にもすべての時代において、覆いの内に隠されていました、しかし彼はいつも常に、神だったのです、しかし彼は自分自身を世から隠し続けていました、そして彼の選ばれた者達だけに彼自身を明らかにされたのです、その時代の使徒のようにです。さて、それはキリストの内で神が語っておられたのでした。
さて、人は何時も、自然の人は、肉的にそれを見せようとするのです、それから神様と言う感じ。彼はいつもそれを見たがっていたのです。人は、彼に似せて創造物を作られました。彼らが考えたのは、インディアンは太陽を崇拝しています。そして我々が見出したのは、アメリカでは、動物のスタイルが違うことなどなど。そしてアラスカのトーテムポールにおいて、この神が入っていると言う彼らの考えは違う形になりました。パウロがアテネで話したとして、その時代、人口の丘の上で、彼に少し似ていました。知らない神について彼らは迷信的だと考えていましたというのは彼はそこにいたのを知っていたのですが、彼らは主を知らなかったのです。
19. あなたは何かがそれに続くためには何かをしなければならないのです。イエス様はいくつかのパンを取ってさき、いくつものパンに倍増されたのでした。彼は水を取り、その水差しに注ぎました。エリヤは塩を取ってそれをカメの中に入れて、枝を取って、水の中に投げ入れました。それは何かを象徴するためです。そしてこの岩を拾って、空中に投げることそして、それが竜巻の中に降り始めたのでした。
20. 私は「はい、しかし、ここに来るときは普通休みに来ます」そしてただその時に幻が来たのです。
そしてボーダーズ兄弟、(彼は今そのにいると思います)彼は一緒に来ていました:バンクスウッド兄弟、思うに、そしてそこいくかか居ました確か8か10くらい。そしてバンクスウッド兄弟が、これを山の上でちょうど見ていました、そことちょうど反対側で、私のはそこに行くためにちょうど離れたところに7人の御使いが現れたのですそれはちょうど1.5マイルくらいだったのです、そしてそこで戻ってきて7つの封印について語りました。そこからちょうど半マイルくらいでした。
22. 私は自分が立っているべき場所に歩いてもどり、外の空気の中に峡谷の上を通して竜巻が空中に来ました、そしてそれは大きなもので、岩でさえも砕いていました、そのサイズは8日10インチで、山の上から来て、そこから2百ヤード先に投げられていました。そして3回そのように手をたたいたような音がして、それから声が聞こえてきました。分かりますか?
そしてそこに全員が立っていました。バンクス兄弟、今ここにおられる方が挙がってこられて言われました。
「昨日私にあなたが言っていたことがあれですね?」私は言いました。「そうですね。それです」
彼は言いました。「今、それは何と言っていますか?」
私は、「さて、それはただ私の為だけなのです、バンクス兄弟ね。というのは、それは人々への警告だからです」
24. 思うに、あなた方皆、は先日、そこでその写真を見ましたね、我々は同じ岩に立っていました。そしてここにその光があります、主の御使いがそこにおられて、手をたたいていたのです。ちょうどそれは掲示板にまたあります。
25. さて、ツーソンのバプテスト派の牧師が先日私に言いました、「どうしてあなたはイエスと神が同一人物だなんて言えるんだ?」と
私は言いました、「まあ、それはかなり簡単なことです、もし、あなたが自分自身の考えを外れて、聖書の言葉だけを考えるのであれば。彼らは同じ存在なのです。神は霊であり、イエスは、神を体の中に入れた存在なのですね?私は、こう言いました、「ちょうど、家のようなものです。私の妻にとって、私は彼女の夫です。そして、私には若い娘リベカがいます、和たちは彼女の父親です。そして私には一人孫がいて、彼の名前はポールです、私は彼の祖父になります。私は、夫であり、父であり、祖父なのです。そして私の妻は、父あるいは祖父として私を呼ぶことはあり得ません、彼女は、私を夫としてのみ呼ぶことになります。私の娘は、夫や祖父として私を呼ぶことはありません、彼女は私の子供です。」ね?しかし、これら3つの人物は同じ人間なのです。分かりますか?それが、神が:父、御子、聖霊、ちょうど、その取扱い方なのです。神は同じ方で、同じ神なのです。
26. もし、ピリピ書で気が付くならば、彼はこう言っています、「それを盗みとは考えない、しかし人の形をとったのである」と
さて、ギリシャ語の言葉のその形がそこにあるのですが、私はそれを昨日一日中見ていました、それがなんであるかを考えようとしていました、見出したのは、この言葉、「en morphe」そのつづりは、e-n-m-o-r-p-h-e. ギリシャ語の中でそのen morpheがなんであるかを見出そうとみていたのです、私は間違った発音をしているかもしれませんが、だからそれをつづったのです、もしそのテープが出たときに、人々は(学者)がそれによって私が何を意味しているかが分かるようにです。そのen morpheが彼が彼自身を変えるという意味なのです。彼は降りてこられたのです。さて、ギリシャ語の意味は何か見えないものを意味していて、しかしそれはそこにあるそしてそれは帰られていて、その目が見ることが出来るものであるということでした。 分かりますか?
27. そして、それが私が言おうとした事柄です、神は常にここにおられます。唯一彼がされたのは、彼が人となられ、彼は彼のマスクを交換されたのです。これがen morphe、彼は彼自身を彼がすでにあったものからその今の状態にあるいは彼のマスクを、ほかの動きに。
28. カルメンで、ベッキーがいますが、彼らは学校で演技をしていて、彼女が数週間前に卒業したところでした。さて、多分一人の人が、3あるいは4役を演じていたのです。それをするためには、彼は彼のマスクを好感していました。時々、彼はこの人物から出て、次の場面で彼はまた別の刃部として出ていたのです。しかしそれはいつも同じ人間だったのです。
29. さて、我々がここで見出すのは、今、ペンテコステ(五旬節)以来神は人の中では行動されていませんあ類は、彼は人を通して行動されていたのですね。彼は火との中で動かれていたのです、それがイエス様でした。さて、彼は人々を通して動かれています、彼はこの目的のためにその人々を選ばれたのです。神は人の形の中におられ、彼は彼自身を神の形から人の形に変えられたのでした。
30. さて、彼ははじめに人の子として来られましたというのは、彼は預言者だったからです。さて、エホバご自身が、エゼキエルをそしてほかの預言者たちを、「人の子、あなたは何を見るか?」として呼ばれています、イエスは、ご自身を、神の子とは、呼ばれませんでした、なぜならば、聖句を壊すことは出来ないからです。聖句が崩れているということは一つもないのです。すべての言葉がそうでなければならないのです。それが道だと私は信じています。そうでなければなら似のです、私が信じているからではなく、それが神の言葉だからです。
35. あなたがこれらの言葉とこれらのことを知っていなければなりません。その時のハティライトを見て下さい、3つの引きの時でした。それを覚えていますよね、すべての事があり、その女性は正しいことを言いました。あなたは正しい言葉を正しいことを神に向かって言う必要があるのです。
36. さて、至福千年には、彼はダビデの事なり、彼の父のダビデの御座につかれるのです。彼はダビデの子になるわけです。
さて、覚えていますね、神の子との間にラオデキア教会時代の中で、彼らは彼を教会から追い出しました。そしてルカ書において、彼は言われました、彼は再び、人の事して、預言者として、明らかにされる、その残りが成就するためには、分かりますか?その聖句は完全につながっているのです。人の子、神の子、ダビデの子、それは何でしたか?それは常にずっとお暗示神だったのです、形をただ変えられただけです、彼はただそれを買えただけでした。それは彼に題して大きなドラマです。それを演技されていたのです。
39. 英語は時々、二つの意味を持つことがあります。その言葉、我々は、「神」と言います、神は天と地とを創造された。(創世記1章)しかし今、その聖書の中に、それは、初めにエロヒム、さて、エロヒム、さて、英語で「神」と呼んでいるのです、しかしそれは本当にはエロヒムではありません。何かある意味小さな神々、その言葉神(小文字)偶像を神にすることが出来ますし、ピアノを神に仕立て上げることすらできるのです、あなたはなんでも神にすることが出来ます。
でもその言葉エロヒムは違います、その意味は「自分自身で存在したもの」分かりますか?ピアノは自分自身で存在することは不可能です、ほかのものも自分自身で存在することは出来ません。エロヒムの言葉の意味は、「彼は常に存在していた」で、神の意味は他にもなんにでもなります。その言葉の違いが分かりますね?
40. そして、それは、彼が彼自身を変えられた、彼は彼自身を注ぎ入れたということになります、ほかのマスクに別の形態にということです。(アーメン)ほかの人物が彼から出たものが、聖霊と言われるものではなく、それは彼自身だったのです。分かりましたか?彼自身が彼自身を人々に注ぎ込んだのです。キリストはあなたの中におられるのです。考えると、何と美しく、素晴らしいでしょう、神が人の中に彼自身を注ぎだされたのです、信者の中にです。注ぎ入れられたのです。それは、彼のドラマの一部なのです、そうすることがです。神の神格の全体がこの人であるイエスキリストにあらわされていたのです。彼は神であり、唯一の神であられるのです。第3者や第2番目のものや一番目のものがいるのではなく、しかし神が人の中に入られた唯一の人物なわけです。
45. ちょうど属性のようなものです、それは神の中にあるのです。あなたの思いは一つの属性です。神は初めからおられ、永遠の存在なのです、神は、永遠でもともと神でさえ最初はなかったのです。彼は神では中田のです、神というのは、崇拝される対象物ですから。分かりますか?だから、彼はそれでさえなかったのです。彼はエロヒムで、永遠の存在だったのです。しかし彼の内には感ががありました、彼は物質になりたかったのです。そして彼は何をしましたか?そして彼は言葉を声を出して語り、その言葉が形作ったのです。それが創世記から黙示録に至るまでの全体の絵なのです。何も間違いはそこにはありません。それはエロヒムがそれをものにしたのですそうすれば彼は触って、感じられたからです。そして、至福千年にはエロヒムがその御座に座っているのです、その通りです、彼のしもべたち皆が彼の周りにいるのです、彼は彼らを世の礎が作られ前からあらかじめ定めておられました。
46. それが神のやり方なのです。彼はこれからあれまでを育てられ、これとあれに対して彼が欲しかったまさにそこになるまで育てられるのです。それが彼がおりてこられた理由です。神が彼ご自身を預言者を通して、火の柱の中に隠されていました、そして神の子の中に来られたのでした。彼は神だったのです。それがちょうど同じように、完璧から完璧にされる方なのです、栄光から栄光へとです。それが教会が進む方向なのです。
47. だから、それは神人の中に形作られた者で、預言者と呼ばれていたのです。分かりますよね。そして主の言葉はこの人に来ていたのですだから、それは預言者ではなく、預言者はそれを隠すものでそれは御言葉であり神だったのです。その人の言葉は、そのように行動はしていませんでした。私の言うことが分かりますか?それはそのようには行動できないのです。しかし、可能性として、それは神だったのです。分かりますね、彼は彼は人の形を取った、「人」と呼ばれる神の言葉だったのです。気が付いてくださいね、彼は決して彼の性質を変えられなかったのです、彼の形式だけを変えられたのです。ヘブル13:8にこう書かれています「彼は昨日も、今日もいつまでも変わることがない」そして彼は性質は変えられませんでした、彼が来られた時。彼はいつも時代を通してずっと預言者で彼の形を変えられていました。ヘブル13:8には、イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わることがない」と書かれています。彼はただ彼のマスクだけを変えたのです。
48. 今、あなたは、ここに立っている小さな人、16歳の人には言えなかったのです、彼は祖父でした。彼はそう離れませんでした、彼の形は変えられなければならないのです。数年でそれは変えられます、そして彼は祖父になります。私の言っている意味が分かりますか?
しかしそれはいつも同じ人物なのです、同じ存在、神もずっと同じなのです。このやり方で、彼は彼自身を彼の人びとにこのようにすることで彼の人びとに明らかにされました。気が付いてください、彼の人びとに彼は火の柱として、時代を超えて顕れてきました。イエスの時代にも、彼は彼自身を彼の民に顕かにされました。聖霊の時代においては、神の子として、ダビデの事して、彼は常に、彼自身を彼の民に同じやり方で顕かにされます彼を知らせるためにです。彼は何かに隠れるのです、気が付いてください、同じやり方か、あるいは同じ性質、毎回です。
51. さて、ギリシャ人たちは学者で、彼らは大いなる人々でした。そして彼らは神に対して偉大なる思いを抱いていました、パウロはマーズヒルの上で彼らに説教をしました。そして彼らは、世の科学や教育によって導かれていた偉大な人々でした。しかし、彼らはギリシャ神話を信じていて崇拝もしていました、そして、芸術の本そして性的な芸術などなどを崇拝していました。
そして彼らは病人を癒しそしてそれがどのように起こったすべてのを予告していたこの人について火がついていました。そして彼らは興奮していて、彼らは彼に会いに来たのです。さて、しっかり今見て下さい、これを見逃さないでください。そして彼は来て、ピリポに言いました、それはベツサイダでした。「済みません、我々はイエスに会いに行きます」そしてピリポとほかの弟子たちが、彼をイエスに連れて行きました、イエスに会うために。
さて、気が付いてください、そのまさにイエスが彼に報告した言葉でしたー彼らは彼が誰であるかを見に来ましたが、彼には会えませんでした。彼らはその形は見ましたが、彼は彼の宮にいたのです。神は彼の宮にいて、人間の肉体に隠されていたのでした。気が付いてください、その言葉は、彼は言いました、「麦の一粒が地に落ちて、死ななければそれはそのままである。分かりますか?その時間は来るのです、それは人の子において、栄光を受けるのです、そして彼はこの地上から移されなければならなかったのです。そして、この時代が来なければ、あなた方はそれを見ることは出来ないでしょう。分かりますか?
52. 気が付いてください。彼は彼らに言いました、「この麦の一粒が地に落ちない限りそれはそのままである、」彼らはそれをどうしても理解できなかったのです、なぜ彼らが彼に会うことが出来ませんでした。そこに一人の男が立っていました。彼らは神に会いに来て、人を見たのでした。分かりますか?彼らは神を見ることが出来なかったのです、なぜなら神は彼らに対してベールをかけていたのです。今、あなたの思いの中にとどめて下さい、神は人の中に隠されていました、彼らはこう言っていました、「これらの業を神でなければ誰にもすることは出来ない、人にはそれは出来ない、そしてここにある人を立たせそして神の業が彼を通して顕かにされる!」ほら、彼らには、神にベールがかけられていることを理解することは出来ませんでした。
54. 神は人の形の中に隠されていて、彼の見方からも隠れていました。彼は人しか見ることは出来ませんでした。しかし神のあらかじめ定められた、子孫でした。ある人は人を見ました、ほかの人は神を見ました。そしてそれは人間の形の中に隠された神だったのです。神は人にベールをかけています。彼はその肉体に住まわれ、肉体が彼のベールだったのです。そのベールは借りられたもので、神があらわされたのでした。
55. 彼が地上に立っていた時、彼は、「私は神から来たので神に行く」と
そしてパウロは、彼の死の後、埋葬、そして復活、彼のダマスカスへの道、そこにはまた火の柱が現れました。それは何ですか?そのベールの後ろから出てきたのです。神に栄光!
56. さて、彼は何の後ろにいたのですか?肌のベールでした。分かりますね、「アナグマの毛皮」そのベールの後ろにいたのです。そしてそのベールが十字架にかけられた日に取られた時、そのベールは十字架の日にかけられて巻かれていました、憐れみの座の全体が見えるようになりました。
さて、そのユダヤ人たちは神がその罪深い我々のような問題の多い人間たちに憐れみをかけられるのかを理解できません。しかし彼らには彼は隠されているので、憐れみを下さるこの方を見ることは出来ないのです。彼はその憐れみの座の後ろにおられたのです、中側からはそのアナグマの毛皮が振り下がって、彼を隠していました。
その前に、もし...
61. しかし終わりの時には、彼は再び戻られることになっているのですが、火の柱は人の子に荒らされるために戻ってくることになっています、ほら、御言葉を表すため、その光です。その言い伝えはもう消されるのです、もうそれを邪魔するものは何もありません、それがはとにかくなされるのです。神は、ただ宗派を砕き、伝統を引きずり下ろします。彼はそれをどのような霊でされるのでしょう。彼が初めてしたようにです。彼がエリヤの時代に、ヨハネの時にしたことを見て下さい、「あなたたち自身に言おうと思わないのか、アブラハムを父として持っていると、なぜならは、神はこれらの石からアブラハムの子供たちを起こすことが出来るのである」分かりますか?だから「私はこれやらあれやらに属しているから」と思わないでください。分かりますか?神はそのベールを割かれました、彼が誰なのかを見せるためにです。分かりますね、ここにそれが貸し出されている時にはそのベールを見て下さい、我々はそれを見つけ出しています。
64. もし、彼らがその御言葉知ってさえいれば、彼らはイエスが誰かを知っていたでしょう。もしある人が御言葉だけを知っていれば、彼はその時代において我々が生きている時代を知ることが出来るのです、そして何が起こっているかも。彼らは御言葉聞くことをただ拒否したのでした。彼らの伝統、ユダヤ人がそれを見る理由になりました。なぜかというと、彼らは実際には見ていたようなのです、それが破かれて開いたからでした。それは目的のために破かれたのでした。
65. そして人々はこう言います、「オーそれはナンセンスだ。それこそ狂信である。そんなものはないのだ。それはナンセンスにすぎない。それはベルゼバブである。それは悪魔だ。それは占いだ。それはこれだ」分かりますね、同じことを彼らは主イエスについて言っていました。
66. 分かりますね、異邦人の教会がすること?同じことをユダヤ人の教会はしました、そしてあまりに盲目だったので彼らは見えなかったのです。それだけのことです。その時代と同じようにそれは彼らの心に置かれるようになるでしょう。
68. 本物の神の御言葉は、それに書かれ、モーゼとともにいたのでした。それはモーゼと共に居て明らかにされる準備がされていたことに気が付いてください。彼は彼らの時代のための字言葉でした、彼は隠された、ベールがされた生きた御言葉だった訳です。モーゼは彼自身の顔にベールをかける必要があったのです。何で?彼が御言葉だったからです!アーメン。その御言葉が知られるまで、モーゼは彼自身を隠さなければなりませんでした。アーメン!分かりますか?御言葉があるところではどこでも、それは隠されていたのです!
71. それはただ律法だけで、それを見なければならなかったのです、「姦淫を犯してはならない、盗んではならない、偽証をしてはならない、これをしてはならないあれをしてはならない」分かりますか?それを見なければならなかったのです。
しかしこれは霊であり、この時代のために約束された御言葉に来られたのです、そして二つの石の板ではなく、生ける神のご臨在によってあらわされているのです。人が作っているような謎の考え方やフーディーニのようなトリックではなく、まさに神の約束が我々の真ん前で明らかにされ実現されているのです。どのようなものがその覆いの後ろにあるのでしょうか?そしてそれを緩めるには...
72. この栄光はどうなのでしょうか?もしそれが自然な覆いによっておおわれていたならば、これは霊的な覆いによっておおわれているのです。だからただ自然な見方をしようとしないで、霊的に入り込みあなたがどこにいるのかそして我々が生きている時代がいつなのかを理解するのです。
73. 彼は言いました、「すべての言葉!エバは一言以外すべての言葉を信じました。分かりますか?それは神の御言葉の全てなのです、それがこの時代の約束として実現されているのです。
注目してください、今我々が続けるにあたり、ここで沢山話すことがありますが、20ページほどのメモがありますが、すべてを話すことはないです。私は急がないと。
75. 私は言った。「そうでしたか?」
そうだ。
私は言った、「使徒の時代のスポークスマンは誰でしたか?」
彼は言った。「上の部屋にいた、12人の使徒達」
私は言った、「そうするとパウロはいないことになりますね」そして私は言ったのです、「スポークスマンはペテロでした、ペテロはペンテコステ(聖霊降臨)の日に、何が起こっているのが彼らが見た時に、聖霊が働いていたのです、彼は言いました、「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」もし、彼が今も召されているのであれば、同じことがここにもあるのです。それではいつ使徒の時代は終ったのですか?使徒の時代が終わるのは神が召すのをやめられるときです」彼は何も言わずに帽子を取って、離れて行きました。
それは御言葉にさせなければならないのです。それは御言葉なのです。イエスはサタンに言いました、「それは書かれている」ほらね。それだけのことです。それは書かれている。
私は言いました、「ペテロはそれは決して終わることがないと言われました。主が召されている限り、この祝福は彼らの物なのです。さてあなたは言われます、「彼は止められた。」いつのことですか?
「何も問題はなかったのですか?」
私は言いました、「何も、全く、先に進みます。」ね?分かりますね?ペテロは言いました、それは神が召された者すべてのためだ利、使徒の受けた祝福と同じものを受け取るのです。それは主の言葉ですから、ね。
77. 神は言われました、「私がそれをする、彼らのために預言者をたてる。」アーメン!「彼らの内から一人の預言者を打ち立てる」そして彼はまさにその通りに来たのです。そして彼は御言葉になられるでしょう。」
彼は言いました、「もし彼らが御言葉なんであるかを見たいならば、」言いました、「今、モーゼ、私は燃えるやぶの中の裏に私自身があなたに現れよう」と言われました。「私が降りて来て、山に火をつける」と言われました。「彼らはあなたが真を告げていることが分かるであろう。私が同じ燃える在り方でここに現れよう。私はここに現れて人々にそれを召命する、あなたのミニストリーを立証しよう。」ここで神はモーゼにそう言われたのです、沢山の言葉を通して。
78. そして彼が嵐を始めた時、エホバが嵐を起こし始めた時、人々は言いました、「いや、いや、いや!エホバに語らせないでください、我々は死ぬでしょう。
分かりますね、彼はベールに隠されていなければならなかったのです。だから神は彼自身をモーゼの内に覆われ、モーゼに御言葉を与えていたのです。そしてモーゼは降りて来て、主の言葉を彼の顔にベールをかけて語っていたのです。そうですね?エホバは預言者の形の内に覆われていたのですというのは、それは絶対的に、そうだからなのです、そして神は、彼はもうそのようには語らないと言われました。彼は唯一預言者を通して語られると。それ以外で語られたことはなかったのです。それが唯一神の語られる方法なのです。それだけなのです。そうなのです、ほかの方法はありません。彼はうそをつきません。
84. それは事実です。彼らはお互いの道にしっかり従っている限りは良かったのですが、誰かが無理やり上って、神がモーゼに与えた立ち位置に昇ろうとしたときには、つまりあらかじめ定められその仕事に定められていたのに、それを撮ろうとしたとき、火が降りて来て、地上に来て彼らを即座に飲み込んだのです。ね。気を付けて下さい!分かりますね?よりよく、信心深いクリスチャンとして、御言葉を信じて下さいね。その柱からは離れていなさい!何という学び!
86. 神がモーゼに現れた時、それは火の柱の中におられたのでした、神がモーゼを神の御仕事をするように召した時。そしてモーゼは来て、人々にそのことを語りました。彼らはそれを信じませんでした。しかしながら、モーゼは奇蹟や物事を話したのでしたが、この時、彼は目に見え、科学的のも現れ、神が語られたということをで同じ神となることをモーゼの御仕事の中で立証したもでした、つまり神が火の柱の形の内で洗われ、山に火をつけた。そして彼はモーゼの所にやぶの中で着て、彼が彼に話したのでした。そういう事でした。
87. モーゼは降りてきて言いました、「あなた方はこれを信じないかもしれない、多分、しかし神は火の柱の中に現れて、これらの事を私に告げられた。」
「オー我々には、色々な種類の事が起こっている」パロは言いました、どうして!パロ牧師は言った。「まあ、お前は安っぽいマジックトリックを得ただけだ。どうして、私はここに魔術師がいる、彼らは蛇を言え、杖を蛇に変えられる。ここに来なさい、魔術師たち」そして彼らは降りて来て、同じことをした。
88. 覚えていますね、彼はヤンネとヤンブレが終りの時に戻るであろうと、ね、なりすましです。
「また、もし出来るならば選民さえも惑わすであろう」マタイによる福音書24:24ですね。ちょうどまさにその通り同じことなのです、同じような奇跡など全てです。御言葉を見て下さい。御言葉を気を付けて見るのです!ある人は言います、彼は奇蹟をするとそしてまだ3つの神かいると信じたいのです、いつもですね。そのようなものからは離れなさい。私たちはそれが間違っていることを知っていますよね。そんなものはありません!ね?御言葉、全ての言葉は神の口から出るのです全てがです。創世記、一つの言葉!ここでも言っています、「一つの言葉を取ったり足したりしてはならない」分かりますよね。それは同じ言葉でなければならないのです。ね。
91. あなたは、「ナンセンス!」というのです。
彼が言ったのはモーゼ自身さえも言ったのでした、「あなたは神になり、アロンはあなたの預言者になる」分かりますね?ね?さて彼はやってきました、ほら、彼は彼自身を覆わなければならなかったのですというのは、神は常に、ベールの後ろに居なければならなかったのです。オー、何てこと!分かりますか?神は公から隠されているのです。
言った、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。」ね?
92. そして言った、今、彼は言った、「さて、私はこのようにもはや彼らに話すことはしない、私は預言者にそれらを与える。」ほら、そしてそのようにして、彼はいつもそれをされたね?言った、「さて、彼らはそうさせた...」しかしこの預言者はこの言葉を持たなければならない。もし彼は伝統によって覆われていたならば、神は決して彼を送りはしていない。もし彼が御言葉によって覆われていたならば、神がそれを立証されるでしょう。神は彼自身の言葉を解き明かされる。モーゼは彼らに語った、神がそれらを解き明かしたのである。アーメン。
モーゼは言った、「主はそのように言った!」そして主は彼が言ったことをなさった。必ず正しくされたから。
93. そして、純粋なるクリスチャンは今日未信者に対して同じものによって覆われているのを知っていますか?彼らは女性達が長い髪や物事があることに因って分かるのである、彼らは言います、「それは古臭く見える」女性は彼らの髪の毛を後ろでツイストしている、そして言った、「パンクした、スペアタイヤがある。」ほら。それは皆覆われている。彼らは盲目なのである。「ほら」彼らは言う、「私は、Ph. D, L...を取得した」あなたが何を取得しようと気にしない、それでもまだあなたは御言葉について無知である。その通りである。「オー、それはただ小さなものである。」初めに小さなレッスンをします。
94. 彼らは言う、「それには預言者達というようなものはいない。使徒と預言者としてこの終わりの日にそのようなことはない。神の癒しなどというようなものもない。先見者というようなものももうない。マルコ16章などと言うものが成就するようなこともない。使徒たちの時代は終った。」彼らは人々に対して覆われた、しかし神は聖霊の火によって歩んだ、そして上から下までそのものを貸した。(テープの一部がブランク)神はその覆いを外した。
95. さて、その御言葉、御言葉が前に出されていたのです、そしてそれは書かれていたのでした、そしてそれは置いてくれ、そしてまだ覆われていたのです、神にとってはいつも御言葉の中にありました。アーメン!彼は御言葉なのです、いつもそうです。彼は御言葉の内におられるのです。それが理由で、御言葉は覆われていなければならなかったのです。
98. しかし、イエスが来られた時、彼は贖い主油注がれた者として来られたのでした。そして、それは両方、モーゼとモーゼの内の全てそしてすべての御言葉そしてすべての神格が肉体となって彼の内にあるのです。それが理由で、全ての神殿の幕が破れ、憐れみの御座が完全に見えるようになったのです。彼は油注がれたものでした。
99. それが理由で彼らは主を見ることが出来ないのです。「どうして、彼は人に過ぎない。彼はどこから来たのだ?彼はどんなフェローシップカードを持っているのだ?どの教会に属している?(今晩それについて話したいのです、どの教会にかれが属しているか?分かりますか?)そしてそうなのですね、「今、どの教会にかれは属しているの?どのグループ?どの学校を彼は持っているの?彼はどこで教育を受けたの?さて、この人は伝統によって生れ、彼の周りの言い伝えによってここに居て、彼は聖い結婚によって生れたのでした。もちろんそうです、彼は悪魔のものだ!分かりますね?「彼は悪魔からでたのでした!彼は聖い結婚によって生れて来たのです。そしてヨセフは彼女を石打から守るために結婚したのでした、というのは彼女は姦淫を犯していたのでした。そしてその人がやって来て、我々司祭にすべきことを言うのですか?」
100. 彼が死んだとき、天の神が彼がちょうどシナイ山にいた時のように降りて来られ、聖なる火を持ちそして神殿の幕(ベール)を上から下まで、割いて分けたのでした。そして彼らに何が出来たのでしょうか?神殿の窓から外を見ると、カルバリーの山の上に、神がその場におられたのです、犠牲の捧げものとして。
101. 私は馬鹿になるように、特定な集会で先日説教しました。この後近いうちのいつか、私は、それについて話したいのです、「馬鹿になる」我々は皆誰かのためのバカなのです、だから私はキリストのためのものです。パウロは「愚か者ととなる」と言っていました。確かにあなたもそうならなければならないのです。ね。それはその物は共に持つには愚かになる必要があるのです。ね?その通りなのです。
102. さて、もし、彼は偉大なる火の柱として降りて来たのです、ね。偉大なる火の柱なのです、エホバが動いていたならば、それを彼らは信じなければならないのです。しかし、あなたは彼がしていたことが分かりますね、彼は全ていわゆる賢いとか優秀と言われる人々を迂回することが出来たのです、彼はただ彼自身を彼がモーゼに約束したようにあらわされたのでしたのね。「私は人々に預言者を通して話します」そして彼は人の子であり、預言者だったのです。そして彼らの何人かはそれを認識していました、世では100分の100パーセント、彼らはそれを信じていました。彼らののころは信じていませんでしたが、彼はただ変わることはなかったのでした。
103. 類似、その昔、ダビデは神殿を離れた、拒否された王でした。道を降りて行き、年老いて足萎えになった男がはいはいしながら寄って来たのですが、彼はそのようではなかったのです、彼は彼を「年寄りの偽善者」と呼び、あるいは彼の顔に直接唾を吐きました。そして見張りが刀を抜いて言いました、「私の王に唾を吐くとは、犬を追い払う」と
ダビデは言いました、「掘っておきなさい、神は彼にすでにそのことを告げておられたのでした。」そしてダビデはたぶん、彼が山に登って後ろを振り返り泣いて言ったことを知ら中たのです。
それから800年後、ダビデの子が同じ山を登り、振り返り、エルサレムを居ながら泣いておられました、拒否された王として。彼らは彼の顔に唾を吐きかけていました。
分かりませんか?それは同じことだったのです。御言葉が降りてこられたのです、今日もそれを追っているのです。常に多勢からは拒否されていて、信じているのは少人数なのです。
104. さて、彼らの時代にあった名前は、「ヨハネ、ジム」のような名前だった。彼らは、言った、「ジョンはジェファソンビルの出身で、ジムはニューアルバニーの出身です」あるいは、そのような感じでしたね。
彼らは、言った、「これはナザレ出身のイエスです。一般的に信じられていたのは、彼の母親が塀によって妊娠した」ね?そしてその時、それはまさに彼らが信じていた事だった。本当に!そして彼らは言った、「さて、そしてこれはナザレのイエスです。」分かりますか?「彼は誰ですか?」ほら、彼らにはそれを理解することは出来なかった。
105. この御言葉は、その時代の為だった、彼は説教していたと言った「聖句を調べなさい。彼らは、永遠の命を持っていると知っていた、そして彼らは私が誰であるかを証していた。もし、あなたが私を信じられないなら、私の事を覆いとしても忘れて下さい、御言葉が出てきたものを信じるのです。二人の証人がいるから」彼は言った、「私は語り父も私のために語る」アーメン。そうなのです。
私はこの時代の御言葉を語り、父がそれを確証するのです。さて、それはあなたへの証人ですか?そうですよね。そのようにして成就するのです。
106. なぜ何が今日にメッセージとしてなぜ来たのか?それはどうしてそのように言われたのですか?何故?
108. 覚えて置いて下さいね、神の御子はソドムには現わされていませんでした、二人のメッセンジャーが送られていました。そうですよね。
しかし、神御自身が肉体を取って来られたのはアブラハム、選ばれた者に顕されていました。そして、彼が彼自身を顕かにされた時になさったことを見て下さい。そして、今、アブラハムは知っていました、彼は彼の後ろにいたサラの思いを知ってさえいたのです、彼は言いました、アブラハムは彼を「エロヒム、あなたの僕、、、」と呼んでいました。
109. あなたは私がある朝初めてここを離れた時に話した説教を覚えていますね、ゴリアテとダビデ?私は言いました、「そこにいる挑戦者を見よ、奇跡の時代は終った」テープが出て来る者を見て、それらの一つ一つを見なさい、それはどのようにしてどんどん分かりやすくできるのか、もしあなたの耳が聞き、目が見るなら。しっかり見て下さい!私は言いました、「偉大なる教会の世界があり、この科学的時代でそれはなされない」としかし私は言いました、「神は光の中におられ、決して取り去られたことはないのです、しかし一度だけ。それ以来取られたことはなく、そこの皮の上にモ、彼らはその写真を撮ったことはなったのです。ほらね?私は言いました、「彼は私にそれはなされると言われ、彼は呼ばれて国々を一掃されたのです。
そしてデービス医師が「あなたは小学校しか卒業していない、7年生の教育しか受けていないのに、王や君主たちが祈られにやって来てリバイバルが始まり国々を一掃するって?というまで?
私は、「それを主が仰せになられたのです」と言った。
そしてそれはなされなければならないのです。分かりますよね?ほら、それはなされました。それがその物なのです、彼には解釈者入りません、彼自身がなさるのです。ほらね?彼は既になさいました、ご自身で、彼の選んだ者達を召され、ほら、全ての種類の人生の歩みから。さて、それは顕されているのです。
110. 言いました、「それを私から撮って下さい」言ったのです、「それについては私は全く知らない」そして言いました、「私のやり方で行かせてください、私はライオンとも熊ともそれで戦いました。彼はある種の森の人でした。彼は言いました、「このように行かせてください」
そしてこの年長のゴリアテは言いました、「俺のところに犬を送って戦おうというのか?」そして言いました、「お前をやりで刺して、お前の死体をそこにつるして犬に食わせてやる」と
ダビデは言いました、「あなたは私にペレステ人として、武具と槍を持って戦ってくるそして私はイスラエルの神である主の名によってあなたと戦う」預言者を見て下さい、ダビデは言いました、「今日私はあなたの頭を方から切り落とすであろう」アーメン。オーなんという事!彼は彼の持っている物を知っていたのです、彼が信じている方を知っていて、完全に彼は彼に委ねているならば彼は守って下さるという事と説得されていたのです。ね?だからそれはとにかく起こったのでした。
その年長者は言いました、「奇跡の時代は終った、その壁は崩された。エホバはまだ完璧に立っておられ、彼の御言葉を表しておられるのです、幕を開かれた方。そうなのです。
112. ピリピは、、彼は言いました、「どうやってあなたはそれを知ったのですか?」
彼は言いました、「見よ、偽りのないイスラエル人がここにいる!」
そして彼は言いました、「ラビ(先生)あなたはいつ私を御知りになられたのですか?
彼は言った、「ピリピがあなたを呼ぶ前に、あなたが木の下にいた時、私はあなたを見た。」
彼は言った、「ラビ、あなたは神の御子であられます。あなたこそがイスラエルの王」
しかし、そこに立っている者達は、「彼はベルゼバブだ」ほらね?それは何をしたのでしたか?一人の目を開け、ほかの人の目を閉じたのでした。司祭たちは何と言ったのでしたか?「どうして、その男は、ベルゼバブだ!」と
113. 彼は言った、「あなたの話している私がそれである」
彼女のは開かれ、司祭たちの目は閉じられていたのでした。それが福音が常にすることです。それはある人々の目を開き、ある人々にのみ真理を明らかにされるのです、ほかの人々の目を閉じている間に。それには二つの意味があるのです。ある人達は太陽をまっすぐに見て、そして盲目になります、他の人達はそれを得ながらそこから離れて行くのです。それが違いなのです。
114. 注目して下さい、古い神殿の中のアナグマの革の裏に隠れておおわれていたのです、それが御言葉でした、御言葉は石の板の上で現わされていたのでした。
116. それは今日も同じなのです。それは「ホーリーローラーの集まり、狂信者」などと呼ばれるのです。しかし彼らはそこに隠されている物を知らないのです。そうなのです。彼らはそれを知りません。ね?
117. 今も変わらないのです!その栄光、聖霊の力、シェキナの栄光は信者の上に来られrているのです、さて、私の言っているのは真なる信者です、神の働きは神の御言葉を信じる信仰を下さるのですから。それは全て彼らの目からは隠されているのです、彼らは、「そのようなことは過去で終わっている」というのです。分かりましょね、彼らはまだその幕の後ろで生きているのです。あなたはもうその幕の後ろには靄は居ないのです、小さな者達、神があなたにははっきりと見せられるのです。
118. しかし神は我々を完全に見ておられていたのです、隠されていたのです。今も変わりません!
119. オー、今、私は、これについてもう少し掘り下げていきます。今朝の私の感情について許してください。私をこのことを皆さんに長い間分け合いたかったのです、それは私を縛っていました、分かりますか?
120. 「まあ、私はキリストに入っています」とあなたは言います。そしてそれでも、3人の神がいると信じているのですか?父と子と聖霊の御名によって洗礼をするのですか?これらの全ての伝統を信じているのです、長老たちの物として?いいえ、あなたはまだ幕の後ろにいるのです。分かりますね?幕の中に入って来て下さい、彼、キリストは御言葉です。どうやって?
「私は神による癒しは信じていません。これらの奇跡やらそう言った物は信じません。」
さて、分かりますね、あなたはそのうちには居ないのです、幕の内に、あなたはそれについて何も知らないのです。キリストは御言葉です!そして我々は御言葉の内にいるのです、我々はキリストの内いるのです。そしてどのようにキリストを否定しながら、キリストの内にいられるのでしょうか?それが彼が言われたことです、「それから一つの言葉も加えられたり、取り去られたりしてはならない」どのようにそれを取ったり加えたりできるのですか?ほらね、それがその幕がいかにあなたから幕から離れていなければならないかを示しているのです。ね。
121. だから今、我々は彼の内に入るように招待されていて、彼の全てを受け取る者となるためなのです。我々は彼によって招待されたのです、人間の幕によって不信仰者には隠されている者にね。彼らは栄光を知っていました、それについて読んでいた下、それはここで御言葉の内にあり、神の栄光などなどがあるのです、それはただ彼らには言葉にすぎないのです。我々にとってはそれは現われなのです。ね?それはもはやただの言葉ではなく、現実なのです。アーメン!
神は言われました、「光あれ!」それは言葉でしたが、そこに光があるのです。それは言葉ではなく光なのです。私の言わんとしていることが分かりますか?
122. オー彼らは言います、「その人々の集まり、彼らはどこの学校に行ったの?どういう教育を彼らは受けたの?彼らはどこから来たの?どのグループに彼らは所属しているの?ほらね、彼らは理解していません。
ある人が他の人に言いました、先日の事でした、「あなたは宗派に属していなければクリスチャンにはなれない」
彼は言いました、「私はクリスチャンです、それらのどれにも所属していない」言いました、「神様は私から癌を取り去ってくれた」「それについてはどう思いますか?」と言った。それは医者だった。彼は言った、「それをやっている宗派を示してください」と。
ほらね、それは今でも幕を被されて隠されているのです。
123. これをするには、我々の古い宗派の伝統の幕を再度割く必要があるのです。本当にそれが何かを理解するには、あなたはそのようなものの中から出て来る必要があるのです。分かりますね?あなたがそれをしないならば、彼らはあなたの前にずっとその幕を引き続けることになるでしょう。「アー、それをするには何もない」しかしここに書かれているのです、そしてここでそれは顕されているのです。ね。ね。
124. ある男性あるいは女性に何かおかしい時、神の約束を見ることが出来る時には、それが表されるのです、そしてその時、それを信じるのを拒否するわけです、というのは、宗派教団はその幕を引っ張り下ろすからです。ほらね、それは幕がかけられているのです!
126. しかし神の剣がそこに置かれるのを見る時それは割かれるのを見るのです、彼女はそこに定められた手がそこに送られるのです。ね。それを開いて割かれ、そこに彼はおられるのです。それこそが神をはっきりと見せることになるのです、偉大なるエホバ。それは彼の言葉が顕かにされるのです、その時代のために約束された分がです。分かりますか?ね?今日の約束の剣が出される時、それはそうするはずになっているのです、そして神は彼の剣を取られて、宗派を切り裂かれるのです、幕を引きずり降ろして、彼自身を明らかにされてそこに彼がおられることを見せられるのです。今も同じ、火の柱でおられるのです!気が付いて下さい、それが御言葉今日の約束として表られていることなのです。
128. 聖書は言っているのです、「私は彼女のすえ(子孫)とサーパンとのすえ(子孫)の間に恨みを置くであろう」と
ほらね、それは御言葉から幕を取っているのです。分かりますね?そうなのです。それは子供たちに顕かにされているのです。それは彼らが見ることが出来るように幕を取られたのです。それは再び言われたように、それは正しくて、一度言われたならば、「あなたがそれを見る時」「私を見る時、あなたが父を見ている」ほら、神と神の言葉は一つなのです。さて、分かりますよね?御言葉が顕かにされたお方、それは何ですか?分かりましたね。
129. そして御言葉が表されている伊野を見る時、あなたは父である神を見るのです、というのは御言葉は父であり、御言葉は神だからです。そして御言葉は神自身が彼自身の言葉を使い、信仰者の中に顕される時、御言葉が神自身として見られるのです。それを生かすことが出来るものは信者以外にはないのです。それはないのです、それはなしえないのです。
130. イエスがそう言われました、「ある種は、道端に落ち、あるものは、石地に落ち、あるものは、そこにやって来る空の鳥に食べられてしまう。」そしてその時、彼は言いました、「あるものは、いばらの地に落ちて、いばらが伸びて、ふさいでしまった」伝統、宗派、この世の煩いがそれをふさぐのです。しかし、「あるものは良い地に落ちて、100倍にも実を結んだ」と言った。そして「それは神の御国である」
それは同じことなのですね、ある人たちは、全くそれを信じないことになるでしょう。
ある人達はしばらくの間信じて、弟子たちのように。彼らは彼に従いました、沢山の人達、70人は彼に数年従い、見出して、1年半か2年、もし彼らは彼の内に何かを見つけられるかだけのために、ちょうど、彼がこれらの事をする力を持っているのを何とかして、ウサギの足か何かのように、ある種の魔術師、彼がこれらの事をするための何か、彼がどのようにして、人々の心の中にあり考えていることを知ることが出来るのか。そして彼らは最終的に、彼が言われたように、「天から来られた方」であることを知るようになるのです、彼は「彼自身が御言葉であられたのです」そしてそれを彼らが知る時、彼らには受け入れがたかったのです、彼らは言いました、「誰もこれを悟ることは出来ない」そして彼らは彼から離れて行ったのです。それがいばらに落ちた種の事でした。
131. 不信者がいるのです。彼がこう言うとすぐ、「人のこの肉を食べなさい」オーなんという事。
他の人達は、偽の信者だったのです。彼らは最後まで(ユダがしたのと同様に)ほぼいたのでした。
しかしその時、本当の信者たち、彼らはそれを説明することは出来なかったのですが、彼らはとにかく信じたからでした、そして彼らはその時代を経験したのでした。
137. 私は言った、「それは事実かもしれない」ほら、彼は私を捕まえようとしていたのです、ね。そして言いました、「でも分かるように、私にそれは出来なかった」
彼は言った、「どうしてできなかったというのか?あなたは全ての資格がある」
私は言った「しかし見てごらん、一つの言葉も加えたり取り去ったりすることは出来ない。」ね?
そして彼は言った、「まあ、その時、かれら、7つの雷鳴、分かりますよね」と言った、「7つの雷鳴がなる時、それはある人に啓示が与えられるのではなかったですか?」
私は言った、「そうではないのです、何かが取り去られたり、加えられたりするからなのです。」そこにすべてが顕かにされているのです、そして7つの封印がそれが何であるかの啓示として開かれたのでした。
それは今も御言葉です!つまり、あなた方は御言葉から離れることは出来ないのです。それは御言葉を持たないようになるのです。そして神の御霊は御言葉から離れることあり得ません。ちょうどそこに御言葉として、あるものは結びつき、ほかの人の目を開くことになる。いつもそれが起こるでしょう。
138. それを変えて、この周りに置こうとしたら、それは回ることはないのです。あなた方は書簡であると書かれています」というのはあなた方はそれに何も加えることは出来ないのです、「すべての人が読む」「神の御言葉が明らかにされる」つまりはそうなのです。ペテロとヨハネはそれを見せました、彼らがそこに上って行ったとき、彼らは無知で無学な者ととして見做されていた。
それはすべてん人が読むもの。「神の表れの言葉」言い換えるとそうなります。彼らはそこに上って行き、彼らが無知で無学として見ていたのでした。彼らは教育はありませんでしたが、彼らはイエスキリストと重荷いたのを気付いています。彼らは無知で無学だったのですが、彼らは書かれた書簡だったのです、ね。彼らがまだイエスと一緒に読まなかったからというのは、椅子は彼自身を彼らを通して彼自身を表しておられたのです。キリストは人間の肉体の内に隠されていました。また、明らかにされ。 生きさせたのでした。
139. 御言葉がモーゼの中におられた時、彼は神が肉体におられた状態でした。それがイエスの中におられた時、それは神が肉体におられたのです、ね。唯一彼がされた時は、マスクを買えられたのです、御言葉でも性格でもありませんでした。彼は昨日も、今日もいつまでも変わることがない方なのです。彼は唯一形を変えられただけでした。彼はノアからモーゼに変えられました。彼はモーゼからダビデに、ダビデから、ヨセフに、完全な神格の全てを肉体的に顕わされてこられるまでそうだったのです、ね。
それは今も変わることのない神であられるのです!アーメン! アーメン!それが分かるように望んでいます、ね。それは同じ神様なのですが、彼は別の幕を使われていただけなのです。ね。彼は別の幕を着ておられたのです。
141. そして、イエスが来られるとき、彼は御言葉の完全な現われだったのです、というのは、完全な贖いの計画が彼の内に置かれていたからです。完全な贖いの計画は、モーゼにも、ヨセフにもエリヤにも置かれてはいませんでした。ね。彼らは御言葉の一部だったのです、それを示すためのものでした。分かりますか?さて、気が付いて下さい、あなたの思いをしっかり保ってください、今分かりますね、言ったようにそうなのです。ね、全ての計画は彼の内にはありませんでした。彼らはそれを指し示していたのでした。
142. ヘブル人への手紙1章に、「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、 この終りの時には、御子であるイエスキリストを通して、わたしたちに語られたのである」そういうことなのです。カルバリーの丘で、明らかにされたのです。神の御子が開かれたのでした。
145. 私は彼がデラワエアを超えていた時、ジョージワシントンと共にいました。私は彼と共に認識されるわけです。そうなのです。私はゲッツバーグアドレスにいた時アブラハムリンカーンと共にいたのです。私はそこに立っていました。私はグアムの兵士たちと一緒に居ました、あなたたち若い青年たちが、旗を掲げていた時です。私はそこにいました。私はアメリカ人です、私はそれと共に認識されるのです。アーメン。さて、アメリカ人になるということは、革命での恥であれ何であり、私はそれを負うことになるのですというのは私はアメリカ人だからです。そうなのです。
147. 彼ら使徒たちは、彼らが戻って来た時、彼らは馬鹿にされいろいろな名前で呼ばれました、彼の名のために受ける批判や非難を偉大なる栄誉だと考えていました。
私は彼らの一人でいられること、御言葉と共に認識されること、それはキリストであるからであるので非常に嬉しく思っています。彼と共に同一視される事!彼の内に洗礼を受け、我々は彼と同一視され彼に似たものとして見られ彼の御言葉と共に認識されるつまりそれは彼なのです。もし私がキリストの内にあるならば、私は彼の御言葉であり、彼のために御言葉なのです、阻止れ彼が私であるとき、アーメン。それが分かりますか?大丈夫。
148. 覚えていますね、マタイ、マルコ、ルカとヨハネ、彼らは自分たちが見た事だけを書きました、しかしパウロは啓示を持っていたのです。彼はそれを引きだしましたというのは彼は、火の柱を持っていたのです。祖いて考えてみて下さい、その同じ...
149. パウロが彼にその道で会った時....その弟子たちは彼がしたことをただ書いただけでしたが、モーゼは啓示がありました。エジプトに3年言ってそして学び、旧約聖書の神が新約聖書のイエスであるという啓示だったのです、「私は天的な幻に不従順にならなかった」そうなのです。正しい!
そして考えてみて下さい!同じ火の柱がそれらの人々に上がって来て、聖書を書いていたので、それは同じ火の柱がここにあり今日その聖書を解釈しているのです!アーメン!どれほどそれを彼に感謝するのでしょう!変わりません!何という慰め、何という認識!私はそれの中で認識することを喜んでいます、私は何をしたらいいのか分かりません。私はむしろすべてのバプテスト派、メソジスト、長老派、ルター派、そして彼らの残りの全てとして認識しているのです。シェキナの栄光と啓示が置かれている場所の御言葉が認証されていたのです。
150. おー、この終わりの時代にも、同じ火の柱を見るためには、同じ御言葉を語ることに因ってちょうど我々の中で見ることが出来るのです。それだけでなく、実際に顕かにさせることによって解き明かしまたそれが真理であることを証明するのです。だからその人々は不従順ではないこと彼らはただそうしたいのです、そして、「彼は真理を知ったのちに、知っていながら、罪を犯すならばその罪のための贖いはもうない。」
153. イエスが言われたように、「モーゼが銅の蛇を持ち上げたように」そして再び彼は言った、「神はその一人子を与えて下さったようにこの世を愛してくださった、誰でも御子を愛する者が滅びることがないようにである」モーゼは荒野で、岩を叩き、滅びゆきそうな人々を救うために水を齎した。神はイエスを叩き、彼の内にある御霊を滅びゆく人々にもたらされたのである。その血は彼から出て、御言葉によってその水が現れたのです、水が命を種にもたらし、それがシェキナの栄光を齎し、それが御言葉から輝き出て、供えのパンを齎すものなのである。その供えのパンは選ばれた人々だけの為なのである。そうですね?
154. 私は栄光が決してだめになることのないリヴェンの幕を超えた。
ハレルヤ、ハレルヤ、
私は王の臨在の中に生きている。
栄光が決して朽ちることのないリヴェンの幕を超えた
私は王の臨在の中に生きている。
156. 預言者が、「処女が身ごもる」と言った。うたがうこともないがすべての小さな若い少女が出かけて彼女の赤ちゃんの服を用意下のです。つまり、この預言者イザヤは、認識されていた預言者だったのです、神に立証されていたのでした。そして主が言われました「処女が身ごもる。私は超自然的な印を彼らに与えるであろう、大いなる印、処女が身ごもる。」
157. それは八百年後だったが、彼女は、赤ちゃんを産んでいた!「天地が滅びても、私の言葉は滅びることはない。」
158. 太陽が何をするかを見て下さい。あなたは種を撒くと、何が起こりますか?その種は腐ります。種の内側に命があるのです。その命が出て来て茎を作り、初めにあなたが知るのはそれに房を齎すのです。ね。それがウェスリーのリバイバルで他の物の様ではなかったのです。それからペンテコステのリバイバルがやってきましたね。それが聖霊のバプテスマを齎しました。良し。何が起こったのでしたか?耳に真菌を得ていて、何かが町がり始めたのです、このことや、あの事、それは御言葉には見えませんでした、それは他の物とは違っていました。元々の種が中には入っていなかったのです。
159. 注目して下さい、それは何をしましたか?それは終に、元々の種に再び戻ったのです。彼がマルチンルターの形で来られた時、彼がジョンウェズリーの形で来られた時、彼がペンテコステ派の形で来られた時、彼は再び同じ種が入って来ることを人の事して表されることにされていました。彼は彼自身を人の子として、茎の時代そしてそれからもずっと表されていました、しかしこの最後の自裁において、彼は再び人の事して彼自身を明らかにされたのです。分かりますか?
良し、初めと同じように、形成されたのでした。
161. 何でも認識された彼は自然の中にありました。それが理由で彼は3月か4月に生まれているのでした、12月ではありませんでした、そうなりえなかったのです、20フットの雪が積もり年のその時でした。それは太陽神だったのではなく、彼は神の子だったのですね。ローマの太陽神は12月の25日に太陽がローマサーカスがあり、太陽神の誕生日の時だったのです、それを彼らは神の子にさせたのです。いいえ、彼は神の御子でした。彼の誕生日は、自然の流れの内にあるのです。まさに。
さて、もう一度注目して下さい、我々が進むのであれば、我々にはほんの少しの時間しか残されていません。
162. さて、覚えていまsね、粒は発芽しなければならないのですよね。もしそうじゃなければそれは生きることはないですよね。それは外側にはないのです、彼らのメッセージはいのちに来ることになるでしょう。それは発芽されなければなりません。しかし覚えていてください、茎にも粒にも同じ命が宿っていたのです。ただ戻ることによって成熟するのです。彼は彼自身を明らかにされました、何を?人の子、血に入って行った粒により。メッセージが分かりましたか?
ギリシャ語で、彼らに言いました、「我々はイエスに会うであろう」
彼は言いました、「一粒のトウモロコシの種が地に落ちない限り。ほらね。大丈夫!
163. ほらね?しかし最後のトウモロコシとは何ですか?それは元々の粒に戻るのです。そうですか?
そして彼のミニストリーは元々の御言葉に再び戻る改革に来たのです。その御言葉は預言者に来るのです、そして彼はそれをマラキの4章で約束されていたのです、信仰の人々を元々の粒にもどることによって回復させるのです。地にここで入って行くことは同じなのです。その粒はここを通して来るのです。それは神の子として来られたのです、さて、それは神の子としてそれ自身を顕かにされて、そしてその時、彼自身がダビデの子として御座に来られて明らかにされるのです、ね。つまり3種類の息子、ただ、ちょうど。オーなんと、再び、元々と同じように!
165. そして小さな「ホーリーローラー」の集まりがこのような暑い建物に共に座るのです、彼らは彼らを呼ぶのです、人々が望むような美しさはあまりなかったのですが、内側は!私は多くの心からそれは覆っていると確信しています、ね?分かりますよね?
よし、
166. シェキナの光はない、、聞いて下さい、ミニスター達!ミニスター達、これを聞いて欲しいのです。一度中側に入る時、今、本当に簡単にだからそれを間違いなく得て欲しいのです。幕の内に入ったら、シェキナの栄光の下に、壁なの光は神の御言葉を取り、そしてイエスが「占い師」として明らかにするものではないのです、今日の宗派のようなものではなく、「精神的なテレパシー」ホーリーローラー、ベルゼバブ」シェキナの栄光はそれとして彼に顕かにはされません。
しかしシェキナの栄光はその時代のための約束としての種が成熟させ、御言葉、彼にユリの谷として見せられるのです。それはその種が前に出て来るのです、谷のユリ、命のパン、アルパとオメガ、昨日も今日もいつまでも変わることのない方。彼は、信者のものなのです。シェキナの栄光は信者に彼は昨日も今日もいつまでも変わることがないことを明らかにされているのです。
167. ね、そのシェキナの栄光が彼を表し、あなたの中に約束の言葉を顕かにされるのです。それが理由で、彼はモーゼの顔に幕をかけなければならないのですというのは、彼の内で、御言葉の中にあったのです。彼は小さな人としてイエス様の内に幕をかけていて、エホバから見出し続けるのです。彼は彼自身を今日幕をしているのです、地上の器としてシェキナと共にです。外側で、多くのホーリーローラーのように見える、古いアナグマの革の様でした。しかし中にシェキナの栄光に隠されていたのです、そして膨らまないパンを膨らませて食べており、何百マイルも、ある所を超えて超えていました、それは信者のための食べ物で、信者の為だけでした。ふくらまされていないパンは信者の為だけだったのです、ね、見せパンの種。注目して下さい、何をしているのですか?シェキナの栄光が悪くならないように見せパンを置いているのです。
168. シェキナの栄光の外側で、「奇跡の時代は終った。ほら、それは皆狂信主義です。しかし内側では。。。
170. 宗派にとってそれは、悩みの種であった。宗派にはそれは転びの石になったのである。何年間もを通して、ルター、ウェズリー、マルチンルター、など、サンキー、フィニー、ジョンスミス、ノックス、全てがそれによって躓いていました。
171. しかし我々、信じるものにとっては、、、
173. ほら、聖書にあるすべてのたとえ話、聖書の全てのタイプは、ここで私たちの目の前で現わされているのです。聖書の中に書かれている火の柱の中にある同じ神、旧約、新約聖書の両方で、ここではっきりと表されていて、ちょうどそのように示されているので、それがなんであるか、ちょうどそこで解釈されているのです、そしてそれがその解釈であることをはっきりさせているのです。
「我々は解き明かしを得た」その後、そこで何が起こるか見てみましょう、ね。それなのです、それが表されているかを見ましょう。顕れなさい!イエスは言われました、「私が父の業をしないのであれば、信じなくてもよい」ほら、それがいかに証明されなければならないのか。
しかし今、イエスのように召命されたのではなく、彼らは彼の頭の周りにぼろ布を巻いて、彼をそれで叩き、言いました、「もしお前が預言者ならば、誰がお前を叩いたか言うがよい」また、「もしあなたが神の子であるならば、このパン。。」ほら。それは悪魔なのです「もしあなたが神の子であるならば、そこからとんで、、、」
174. しかし今、黙示録10章が明らかにされ、神の奥義が表されて、知られた時、つまり7つの封印の書に訳されたように。
さて、あなたの信仰は御言葉である彼に置きましょう。なぜなら黙示録10章はこう言っています、あるいはむしろ19章ですね、ここに書き出してありました。黙示録10章に行、いいえ、それは10章ではなくて、19章です。
彼が来る時、彼は、「神の御言葉」と呼ばれるでしょう、白い馬に乗り、天からの追随者が彼と共に来るのです。
教育の宗派教団の幕を壊しましょう!宗派の伝統の幕を打ち破るのです!あなたから彼(主)を隠しているその幕を打ち破るのです!プライドの幕を破るのです、あなた方女性達、あなた方は王の娘達なのです、そのように行動し、そのように生きるのです。すべての幕を打ち破りなさい!どれほど、PhDやLLDが何を言おうとも、「それが聖書に反しているならば、」その幕を破りなさい。我々破られた幕を超えるためにいるのです。我々は他の側に、今いるのです。そしてあなたは分かるでしょう、古い伝統やその他の事を破る時に死か彼に来ることが出来ないこと。あなたは彼が立っていて力強い征服者と共に立って、この時代に顕された神の御言葉の約束を見るのです。力強い神が明らかにされるのを見るでしょう、彼の右にここにいる我々の内にあるものが立ち、力強い神は、伝統によっては征服されません。
175. 彼らは言いました、「そんなことはあり得ない」しかしそれはなされたのです。その時、それは終ったのです、彼らは言いました、「それは悪魔のものである」しかし、神の御言葉を変えることはありません、それは神を信じるものにとっては維持されるのです。その力強い征服者、昨日も今日もいつまでも変わることがないのです、彼の性質により、御言葉により、ヘブライ人への手紙13:8
176. 注目し、これに気が付いて下さい。一度、オークションがありました、彼らはバイオリンを出していました。これは皆さんは何回も聞いたでしょう、古いバイオリンでした。その時、オークションの人が言いました、「私はその為に何を提供しましょうか」と言いました。市によって正しくないかもしれません。昔々、しかし心から来ていますから。そして彼らはその古いバイオリンを取り出しました、それはあまりよく見えなくてある意味痛んでいるように見えました。彼はそれをうまくかけられませんでした。終に、彼は1ドルか何かで始めましたあるいはそのような感じでした。
177. その後、オークションの人は言いました、「いくら出しますか?」
「2千ドル」「5千ドル」「1万ドル」ほらね?それは何だったのですか?主人の手が、その古い楽器の内にあるものの幕を開いて明らかにしたのです。
同じことが今!この古い本、傷めつけられ、笑われ、焼かれ、からかわれた古い本!しかしその時が来たのです、彼らは宗派のオークションにかけられ、世界教会協議会を得ました。彼らはそれを誰のものでもないかのように売っているのです。宗派教団のオークションが来ているのです。
178. さて祈りましょう:
179. 神は、前に進んだのです!確かに、あなたはそうされました。預言者を主よ、我々に送って下さい、その誓いを選んで、イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わることがないことをこの御言葉を選んだことによって証明されるのです。多くの、主よ、彼らの命を売り私のです、彼らは彼らの古い伝統を捨て去り売り払ったのです、彼らはその幕を破るでしょう。彼らはそれを欲しいのです、主よ。彼らは何でも与えるでしょう、彼らにイエス様をただ与えるのです。
主よ、私はあなたがそれを彼らに証明されたと今思います。彼らはいたるところからやって来たのです。彼らは彼の人生、全ての事を費やして集会しようとして彼らは全てのするようにしたのです、というのは彼らは大いなる対価の真珠を見出したいからです。ほかの事はとても小さなことです。しかし彼らを祝福してください、父よ。
181. それらの人々は古いバイオリンのために何も与えなかった時、彼らはその時考えなかったのです、彼らはそれが欲しくありませんでした。彼らはそれを彼らの家には持っていませんでした。しかし、それを学んだ一人によって一度選んだ時でした、そして、彼らは得たいもの全てを売ったのでした。彼らはそれに関して騒いだのでした。それは彼らには遅すぎたのでした。
182. 今朝、ここにいるすべての人々が信じるのを父よ、助けて下さい。利己的さの幕、不信仰の全ての幕、そして、信者の御前で力強い征服者が見るためにすべてを突破しますように。また、「主よ、私はあなたと常に一緒にいます、終わりの時にさえも。しばらくすると、世は私ももはや見なくなるであろう、しかしあなた方は私を見るであろう」あなた自身を私たちの中で現わしてください、主よ、あなたがなさってきたようにです。御前に置いて我々が見えるようになるまで、そのようにとどめて下さい、現れて見えるものが変えられるとき、あなたは再び、人の子、ダビデの子になられるのです。主よ、イエスキリストの御名を通してそれを叶えて下さい。
皆が祈る間、頭を垂れましょう。
184. 川にある日流れていて、そのミニストリーの前に始めているのです、初めてのリバイバル、彼は空に現れたのです、彼自身は認証され、そして任務を与えたのです。この何年もの間ずっと、私は心の内にそれを隠して来ました、キリストによって幕とし、同じ御言葉を解釈した同じ火の柱として約束しました。私たちは終わりの時に、主の来臨に関して。そしてもしあなた自身が幕の外にいることを見出すならば、死によって離れているのです、信仰によって、今朝言います、「神の助けによって、そしてあなたの助けにより、すよ、その幕を通してその突破口が欲しいのです。私はあなたのおられるところに入り、神の御言葉全体を分かるためにしたいのですか?
185. あなたの頭を垂れて、神向かって手を挙げて言うのです、「主なる神様、幕の内に私がいられるように助けて下さい。神の祝福があります、神が祝福しましょう二。そのようにただ見るだけなのです。
外側、覚えて下さい、穴の手を見たことがないかもしれません。とにかくそれを見るほど価値がありませんでした。神は、それは唯一わたしに、、それはどこかに種が落ちていることを見させたのです、また、しかし、神は本当の心をご覧になります。
もし、他の誰かで手を挙げていない人がいて、今引き上げられたいならば、手を挙げて下さい、祈りの内に覚えられたいならば。手を挙げて下さい。神の祝福がありましょうに。それは良い事です。神の祝福がありますように。
187. 愛してる、愛してる
だから初めに私を愛してくださったから、
私の救いを買って下さった
カルバリーの木の上で。
あなたは彼を愛していますか?
素晴らしい、素晴らしい、私にとってのイエス。
カウンセラー、平和の君、
力強い神こそが彼なのです。
私を救い、全ての罪と恥から守って下さい、
私の贖い主は素晴らしい、彼の御名を賛美します!
以前は失われていたが、今見出された。
罪から自由になった。
イエスは自由と完全なる救いを与えて下さった。
救って下さり、罪と恥から守って下さい。
素晴らしい私の贖い油脂、彼の御名を褒めたたえます。
オー素晴らしい、素晴らしい、私にとってのイエス。
カウンセラー、平和の君、
力強い神こそが彼、
私を救い、罪と恥から守って下さい。
素晴らしさこそが私の贖い主、彼の名を褒め称えよ
188. イエスがすべての束縛を破られた
イエスが全てのそくばくを破られた
オーイエス様が全ての束縛を破られた。
彼があなたを自由にされた時、
ヨルダン川の反対側で
エデンの優しいフィールドで
命の木が花が咲くところで
そこには私のために休息がある。
イエス様は破られた
ヨルダン川を今越えたくないですか?荒野に十分長い間居て、その約束の地を超えようではないですか!
イエスがすべてのそくばくを破られた。
イエスがすべてのそくばくを破られた。
オーイエス様が自由にされた時!
今手をあげましょう;
いつまでもいつまでも彼を褒め称えよう、
いつまでもいつまでも彼を褒め称えよう
いつまでもいつまでも彼を褒め称えよう、
彼は私を自由にされた(アーメン!)
189. イエスがすべてのそくばくを破られた。
イエスがすべてのそくばくを破られた。
オーイエスがすべての束縛を破られた。
オー彼はあなたを自由にされた時!
私はいつまでもいつまでも彼を褒め称える。
(全能の神)
彼は決して昨日も今日もいつまでも変わることがない方。
いつまでもいつまでも彼を褒め称える。
私からすべての信条を取り去って下さった。
そして私に彼の言葉を信じるようにさせてくれた。
190. 私はいつまでもいつまでも彼を褒め称える。
私はいつまでもいつまでも彼を褒め称える。
私は(彼、御言葉)いつまでもいつまでも褒め称える。
(彼は何をしたのですか?)彼はおかれた。
(カーテンの後ろで)私を自由にして下さった。
神を褒め称えよ!私は彼を愛している。彼を愛していませんか?天国的ではありませんか?御言葉の属性が大好きです、と言います、まさに聖霊、其れは優しく、へりくだった、そのように、オーただ考えて下さい:
ヨルダン川の反対側で、
(私はそこに近づいている)
優しい死すことのないエデンの中で
(そこで何を見つけられるのか?)
命の木のある場所(それはエデンの園で)それが
花咲いている。
そこには休みを
あなたは生きたいですか?
彼は全てのそくばくを破られた。
イエス様は全ての伝統を破られた
全てのそくばくを
イエスは全ての束縛(すべての宗派、全ての信条)を破られた。
全ての束縛を破られた。
オー、彼があなたを自由にされた時!
191. 素晴らしい、素晴らしい、私にとってのイエス、
議士、平和の君、大能の神、
私を救い、全ての罪や恥から私を守る、
素晴らしい私の贖い主、主の名を褒めよ。
オー何てこと!それは私の心を咲かせた。彼はなんて素晴らしいのでしょう!これに終わりはなかったのです、この33年前にこのように感じました。そして彼が送らせてくれるならば、ある日、私が目を閉じて、同じようになるでしょう。アーメン。
素晴らしい、素晴らしい、私のイエス。
議士、平和の君、大能の神;
彼は私を救い、全ての罪と恥から私を守られている。
素晴らしい私の贖い主。主の名を褒めよ!
192. 私は彼を見る、大能の神が、開かれたのです。彼が信条や宗派教団を引きづりおろし、批判的なものや教育プログラムも引きづりおろし、全て、前に歩んでそこに立っている。信条が彼に勝つことが出来る思うのですか?宗派教団が彼に勝つことが出来ると思いますか?世界教会協議会が彼に勝つことが出来るとお見ますか?彼は全てに勝てるのです、全てのそくばくを破り、地獄を開き、封印を解き、至聖所に入ろうとしている、私たちに彼自身を見せてくれ、御言葉になり、昨日も今日もいつまでも変わることがない方である、アーメン、私は彼を愛してる。
193. イエスの名をあなたと共に連れて、
悲しみと悲哀の子、
それは喜びと慰めをあなたに与えます、
オー、あなたの行くどこでもそれを連れて行きなさい。
尊い名、オーなんて優しい、
地の希望、天の喜び、
尊い名、オーなんて優しい
地の希望、天の喜び、
もし、サタンがあなたを誘惑しようとするならば、あなたは正しいものを見ていない、イエスがしたように彼を御言葉に導きなさい、ね。ほら?アーメン!
イエスの御名によって、頭を垂れよ、
彼の足元にひれ伏せ、
天の王の王、私たちは、
彼に冠をかぶせよう
私達の旅が終る時、
尊い名(尊い名!)
オーなんて優しい!
地の希望、天の喜び、
尊い名、オーなんて優しい!
地の希望、天の喜び。
194. さて、彼を覚えて下さい!思いの内に彼を常に覚えていなさい、心の内に、どこに行こうとも。ね。イエスをいつも心に留めて行きなさい。
あなたと共にイエスの名を常に持って行なさい。
(さて、聴いて!)
全ての罠への盾として、
(何が起こるのか?)誘惑があなたの周りに来る時、
(あなたは何をしなければならないか?)ただ祈りの内に
聖い名を
尊い名(尊い名!)
オーなんて優しい!
地の希望、天の喜び、
尊い名、オーなんて優しい!
地の希望、天の喜び、
今、頭を垂れましょう。ネビル兄弟、来て会衆を解散させてくださるように尋ねますね。牧師であるネビル兄弟、神の祝福がありますように。