1. ここでこの人、私が彼を選んだのはしばらく前に後ろ側のミラーに居たので拾いました。私は先日、彼が病院に居て、彼のために祈っていました、今朝ここで彼は座っています。素晴らしいですね。とてもうれしいです。彼は地を流していましたそして今朝彼に会えているのはとてもうれしいです。前回我々と一緒にいたこの兄弟がガンになったと聞いたのはとても残念です、そしてその病院に居ると聞きました。我々にはこのための道が一つあるのを知っています、そしてそれは死への道なのです。我々は皆その道を歩かざるを得ません、最も義人であろうが最も聖い人でも、我々はほかの人の墓の上に置かれるのです。しかし、イエス様は言われました、「私を信じる者は、死なない」しかし、「死」はあるのです我々はそれを死とは呼ばないのです。
イエス様がラザロについて話したとき、彼は「彼は寝ている」と言われました。
そして彼は言いました、「さて、もし彼が寝ているならばそれは素晴らしい」
そしてイエス様は彼らに言わなければなりませんでした、彼らの知っている言語で、「彼は死んだ」彼は言ったのです。「そしてあなたのために、私がそこに居なかったことがうれしいが、行って彼を起こす」と
2. 死の意味は、「永遠の別れ」だからです。
そして今、私たちが死ぬと言うのは、今我々が持っている肉体のように、お互いに分かれるのです。しかしそれは本当に、この体だけがお互いを認識するものだからです、我々は五感に向過ぎつけられているから、視覚、味覚、感覚、臭覚、聴覚。そして我々が見て、お互いに感じるならば、何故か、我々がここに居ると言う証明になるのです。もしあなたが盲目で、見る事が出来ないならば、あなたはお互いに感じ、お互いに聞くことが出来ます。そして地上での感覚でお互いに宣言するのです。
4. 第1テモテ3章16節「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」素晴らしくないですか?神様! そして我々は火の柱を通して神が動かれ足りしない限り神を理解する事は出来ませんでした。しかし我々は彼が私達の一人になられた時、彼を理解したので、彼は人になったのです。そして彼は我あれに話したことが出来たのです、そして我々は彼を感じられたのです、彼を扱い、触れたりすべてでいたのです。そして聖句が単純にそう言っています。「我々は神が手にされた」我々の手によって、我々の手で神に触れたのです。
5. 再生され生まれ変わったクリスチャンの中で、神は彼自身を認識するのです、彼が神で居続けるのです。そしてそれ以外の世の中では、あなたや私の中で彼等が神を見ることによって知るのです。彼等が神を知るのはそれ以外の方法はないのです、新約聖書の使徒書簡を書いているときに、我々すべての人々を読んでいるのです。そしてその命が我々の内側で反映するのです。人は彼のする業によって認識されます。だから我々の技も良いものであるべきなのです、常に。と言うのは我々は我々の主イエスキリストを表しているからです。
何と素晴らしい事でしょう、私のような年長の者にとって、人生が終りかけていると考えていて過去が過ぎ去っていくときに我々は永遠の将来に直面しているのです。そしてもしこの人生だけだ私の希望であったとしたら、今朝私は最もみじめな人間になりえます。
しかし、この人生はこれから来るべき人生の影に過ぎないと知っているのです。それは繁栄になるのですと言うのは神が作られたもの以外完璧になることは無いからです。神は滅びるようなものは何もおつくりになりません、わかりますね。神は永遠の方なのです。そしてそれゆえ、我々が今生きている命は、これから我々が期待しているものの繁栄に過ぎないのです。本物は死なないのです、その体は滅びません、命は取り去られることは無いのです。わかりますね。そしてそれゆえその聖句は正しいのです、それが我々が永遠の命を持っていると言うとき、我々は永遠の命を持っているのです。我々は決して死にません、わかりますね、と言うのは、あなた方が、新しく生まれ変わるとき、あなたは神の一部になるのです。わかりますね、あなたは永遠のために永久になりそれは敗れる事はありません。あなたは神の一部なのです何故ならばあなたは神の子だからです。
7. 私は常に家での集まりを感謝していました、コテージでの祈りの集まりつまりこのような、あるいはそれ以上に、人々は素晴らしい会合で最善の集まるの時にこのような小さな集まりの中で普通、話すことが出来るのです。神と最も近く感じた場所は、我々が礼拝しているときに少しの片手人数くらいの信者の集まりの中ででした。
10. そして私の今朝のメッセージは生きる神の教会についてです、そしてこれが今朝ここに座っている理由だと信じています。そしてまた、最も重要な場所に行く前に、頭を垂れて祈りましょう。
11. 我々は今朝この場所「砂漠の裏側」と我々が呼ぶ場所で集まっていますあるいは、この小さな場グループにはいかにも何も、自然の小ささが表れる事がないからなのです。
しかし私は、モーゼ、あなたのしもべが砂漠の裏側に居たことを考えています、たぶん、彼と彼の羊たち、たぶんまた、彼の妻であるチッポラとその息子であるガルショムが一緒だったかもしれません。それは私は知りません。しかしそこには預言者を逃げるような弱虫から神に仕えるもの似買えたのです、それが砂漠の後ろ側と言う場所ででした。それは人間の人生の中で初めて火の柱を表した場所で、小さな砂漠のやぶの中にあったのにも得なかったのです。しかしそれはやぶの中を通して神の栄光を表していたのです、そして預言者モーゼとなったのです、彼の靴を脱ぎ、近くに行ったのです、神が選ばれて神の人々を解放するためにでした。
12. ここに居るこの牧師を祝福してください、アイザックソン兄弟。我々はあなたが彼と彼の妻、そして彼の小さな子供達ストリッカー兄弟、彼の妻と子供達そしてすべてここを代表されることをここで今朝祝福して下さるように祈ります。
そして我々はここに集まっています、いいえ、主よ、いくらかの偉大なる栄光ではなく、あるいは、リーダーとして知られるようになること、あるいは、、何かの公的な栄光になることを。我々はただここにいる謙虚な信仰者たちがいるのです。我々はここに居るのは我々があなた方を愛しお互いに愛しているからです。そして我々がお互いに会うために一緒に集まるのです、ある特定の場所で各々の信者が集まるために、より神があるように。イエス様は言われました、「もしあなたがそれを私の名前でするならば、私はその中に居る」だから、私はあなたがここに居ると知っているのです。
主よ我々に語って下さい。そしてもしこれらのここに私が書いた小さなメモと参照する聖句はその道に越えて今朝、我々が考えている思いを、そして主よ、我々はそれを取り去りそしてあなたが私たちにせよと言う事を言われただけすることにしたのです。主よ、今我々を祝福してください、イエスキリストの名前によってこれをお願いいたします。アーメン。
13. そしてその時に、若い時に、長いメッセージは受け取りませんでした、たぶん30分かそのくらいでした。一つの考えを話しそれだけを心に留めていました。しかし今は、テープで録音しているので、これらの長いメッセージや会合をしています。そしてこのテープ、青年たちが録音していてそれはある特定の時に始まります、たぶん今は、祈りが始まるときそしてそれは沢山の場所に実際世界中に行くようになるのです。だから我々は今朝新年のメッセージを話す心算です。3つクリスマスメッセージがありましたそしてこの場所砂漠の後ろ側にいる人たちであるあなた方がこれらのテープを得る事を知っています。そしてその教会での最後のメッセージであるいは次のメッセージの時そこには光がありました。そしてももしテープをまだ得ていないならば、間違いなくあなたが楽しむことになると信じています。主が私にその霊感を与えられそれをとても楽しみましたから。
14. しかし今、我々は何が起こっているかに感謝していますが、今我々を楽しみにしています。我々は今年1964年に向けて前を向いているのです。
15. そして、このテープは1時間15分しか残っていません。そして御心により、皆さんが夕食をとれるように話してしまいます。今晩6時まで話す時間を貰っていることを感謝しています。それはとても素晴らしいです。
さて、聖書を開いてみましょう、2か所です、その書も近くに並んでいます。それは旧約聖書の中にあります。テキストをそこから拾いますあるいは読みます、2か所からです、イザヤの62章と詩篇の60篇です。さて、イザヤの62章から開いて初めに読んでいきましょう。そしてこの中で我々は我々の主である神の偉大なる力を思い起こさせられます、どれほど彼は偉大であるかそしてどれほど力強い神であるかです。申し訳ない、それはイザヤ62章ではなく60しょうでした。イザヤ60章です。わかりました、さて、我々はこれを読んでいきましょう。イザヤ60章1と2です。
起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。
見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。
「闇はもろもろの民を覆う」このことによって勿論、これは、我々が生きている時代に関しての預言なのです。
16. わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。
神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
あなたがたは、いつまで人に押し迫るのか。あなたがたは皆、傾いた石がきのように、揺り動くまがきのように人を倒そうとするのか。
彼らは人を尊い地位から落そうとのみはかり、偽りを喜び、その口では祝福し、心のうちではのろうのである。[セラ
わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである。
神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。
民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。[セラ]
17. だから、ペテロはある時、、、イエス様がした質問がありました、「さて人々は人の子を誰と言っているのか?」
そして彼らの一人は言っていました、「あなたは、、、ある人々は、モーゼであるかエリヤあるいはエレミヤあるいは、来るべき預言者の一人だと言っています」しかしそれが質問ではなかったのです。
「あなたはわたしを誰と言うのか?」
ペテロはこの有名な言葉を言いました、「あなたは生きる神の子、キリストです」
イエス様は、「ヨナの子、シモンペテロ、あなたは幸いである、これをあなたに示したのは肉や地ではなく、天におられる父である。この岩の上に、、、」わかりますね。
そしてダビデはここで言っています。「神はわが岩」神はわが岩、神が我あれにそれを示されるとき。それが岩になるのです。神こそがわが岩なのです。
18. フィンランド語では、Jumalan Rauha ,でそれは「神の平安」を意味します。Rauha ha「神様」
なのです。わかりますね、神の平安、シャローム。
私の新年のメッセージは1964年のためのイエスキリストのうちに選ばれている教会宛の物です。ただの教会のグループだけでなくその選ばれている民、その教会の女性つまり、キリストの花嫁の為、わかりますね、誰に向かって私が話しているかを。
我々はここで二つの課題に面しています、我々は二つの聖句を読みました、とても反発しているものでした。イザヤでは、「 起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。」そして直ぐそのあとの節で、
「見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」とあります。そして我々が光と闇の中に居る時そして教会に「シャローム、平安」について示しているのです、それがなんであるかについて全てを見出してみましょう。我々は今年面しているのは、闇と光の両方なのです。我々は、、、最も闇の深い無秩序な時代の一つに入っているのです、そしてそれはまだ続いているのです、その中で最も祝福された光が輝いているのです。そしてそこには、、、
19. そしてその時、教会のに、私がかれらに「シャローム」と言う理由は、それが神の平安だからです。それが今朝私が皆さんにもたらしたかったものです、新年のためにそして振り返るのではなくしかし我々はその新しい日の始まりを期待しているのです。我々の前に何か素晴らしいものが置かれているのです、その年には我々が今期待してきた喜びがあるのです、素晴らしい光が来ると言う事をです。そして今、我々は、地平線を超えて、死すものと死なないものとの間を壊しているのです。我々は天国と地獄の間を壊しているのです、地上につく病気や問題のある世界に死ぬことのない命、死ぬことのないからだと死ぬことのない地球は過ぎることが無く輝いているのです。
それが「シャーロム」で教会に入ってくるのです。さて、それは信仰者のために入ってくる光の時なのですが、もろもろの民を覆っていたのです。
20. 私は何時も最善を尽くして宗教的な方法の人と合意しないようにしていました、もし私が彼の手を取ることが出来ないならば、どれほどその物事が鋭かろうが、彼の手を取っていったのです。「これは、我々の中により良い悟りの光の中に居る」そしてそれでもその人を愛するのです(口で言うだけではなく、心からです)そして、全ての者が無ければ人々は話しかけようとしています。何故ならば、我々はそれをしなければなりません、その人を愛さなければならないのです、わかりますね。そして色々な種類の人々の中に行き、また異なるカルトやクランそして宗教などなど、そして聖書を置こうとして言うのです、「あなたの信条からではなく、あるいは、倫理の本からでもなく聖書から話し合いましょう」とたぶん、人々は時々本当に鋭くなりますが、もし私がその人を好きにならないように思ったら、キリストの霊が私から離れて行ったのです。もし私がその人を好きでないと感じることが出来るとしたら何かが間違っているのです。
21. そして、私はその場所に来ました。私はその人々がかれらが知っている事を知らないと信じています。それはその時人がいる場所で悲壮な物事があるような邪悪な物となるのです。それはまるで闇の影があるようなのです、それが人々の上にあり、彼らに圧力をかけているのです。
22. 分かりますね、関係なく、しかし我々の姉妹たちのように、多くの時、私たちは彼らに切るものや神を切ることなどの小さなことを話しています。そして男性たち、彼らは引き続き彼らの身上やら信条に仕え続けるでしょう。彼らは良い人々なのです。素敵な人達です。しかし、彼らは何を得ているのかを理解できないようなのです。何故?わたしは来年戻ってきますそして、より良い状態よりも悪くなるでしょう。それは続くのです。ここにはある姉妹が居て、素敵な長い髪があったのに切ってしまいました。ある人は、見た目は正しい様に見えますが、犬が吐いたものに戻るように、、、わかりますね、そこにまっすぐ行ってしまうのです。人々にはそのような何か世の物に打たれるものがあるようなのです、彼らにはそれを、何かが間違っているものがあることが理解できないのです。
23. しかし我々の世代の女性について気が付くと思うのです、彼らは以前に会ったような女性的なものを持っていないように見えます。彼らはそうなりたいけれども何かがかれらをそうさせないのです。そこには重い状態があるように見えます。それ、女性にあれこれをすべきでないというと、そしてその女性を見ると彼女はそれを信じたいのですが、何かが彼女を反対に押しているようなのです。わかりますか?かわいそうに、彼女に哀れみを感じます。彼女は、ハリウッドのクモの巣のようなものにつかまっているのですそして、テレビやラジオや新聞や通りやお店の窓などの広告に毒されているのですまた、彼女の合うほかの女性たちもそうだからです。我々の若い人も、年配者も、中年の人たちもそこから引き離せないものがあるのです。
25. そしてそれが我々に再び戻ってきているのです。聖書は我々が生きているこの時代について語っています、そしてこれらの事が起こると語っているのです。「闇がもろもろの民を覆う」。そして我々はそれを見ています、それが何か単純に、人々は欲しいのですが彼らには出来ないのです。
ニコデモが主の前で一度話しています、「ラビ、我々はあなたが神から来られた教師であることを知っています、神が一緒に居なければ誰にもできないことをなさっています」しかしそれは闇であり、ユダヤ人の上にある、盲目にされていたのですと言うのは、救世主は異邦人の花嫁を迎えに来るためには。。彼らは彼を拒絶しなければならなかったのです。
26. そして私は「さて我々はこれが見えている、神に栄光を彼らはその中に居ない」と言う事を言おうと言う動機で言っているわけではないのです。私は、人々が「さて、ブラナム兄弟あなただけが世界で唯一真理を持っている」と考えさせるために行っているわけでもありません。いいえそんなことは無いです、それは間違っていますね。
私は唯一言っているのは、その時代の光の中に我々は歩いていて、この光を探している人々の利益になるようにです。本当に、イエス様は言われました、「 わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。」誰もそれを見る事が出来ないのです。それはあらかじめ定められた種で、そして唯一それがそれを受け入れる事になるのです。しかし我あれがその場所に再び来たのです。聖書は言っています「あなた方は世の光である」と。
27. 神は、彼の素晴らしい哀れみのうちに、私は何時も福音を伝えてそのために立ち上がろうとしています、彼はいつも天国から彼の出来事を見せています:彼の大きな主要な出来事が、地上に起こる前に天国で起きるのです。彼は彼自身を反映しているのです。つまりは、彼の御仕事が始まる前に救い主が来たのです、彼は賢い人々の場所にその場所へ人々を導くときに天国から星が出て来るのです。あなたは私の最後のメッセージの中で神が賢い人々をどのように扱われるかを聞きました、彼はある夢によって彼らを、そして彼はヨセフに夢によって彼自身の息子の安全について話したのです。と言うのは彼が夢を見た時、そこには....
29. 私は思いの中に思っていたことが起こっていたのです。もし誰かラムサ聖書翻訳を持っていますよね、もしあなたが3角の光がヘイロー(光輪)の様に三位一体の光によってカバーされていることに気が付くでしょう。そして、ドクターラムサは私の個人的な友人で聖書を訳しました、それは古いヘブライ語の神の象徴が本物の三位一体の方法で会って、彼は3人の神ではなかったのですが、同じ神の3つの表れなのです。父、御子、そして聖霊。光は三角の形の中に完璧な縁のものになり神は3つの仕事を意味しているのです、父、御子そして聖霊の扱い全てが同じ神なのです。
30. この御使いの意味は「メッセンジャー」と言う事です。そしてそのれから、そのあと、彼はほかの御使いが下りて来るのを見るのです、地上の天使はここでメッセンジャーと与えられていたのですが、他の力強い御使いが天から彼の上に虹をかけたのです、そして彼の愛はちと海に置かれ、彼自身は永遠に生きるのです、「もう時は無くなる」しかし彼がこれらの7つの封印を明らかにするためにそれを壊すために、彼は奇跡的にそれを見せ、彼は天で初めに見せたのでした。
彼らはその日南部アメリカとメキシコの写真を撮りました。それはライフマガジンにかかっていました、いまだに彼らにはミステリーなのです。しかし、彼は彼が地上に前に天の中で「宣言をします。彼はいつもそうするのです。彼は天国に初めに彼の象徴を見せるのです。
33. 今日の教会は神の子がいない状態の光を反射させています。その教会は光を反射させていますなぜならば、彼は言われました。「しばらくの間、世は私を見なくなる。しかし、あなた方は私を見るであろう、何故なら私はあなた方とともにいる、貴方方の中にさえいる、終わりの日まで。私がした技、、、、」彼が表された光。そして神の言葉を通しての光以外に光は無いのです。
34. そしてそれが唯一物事がなされるべき方法です、神の御言葉が指定されるときに、神の書かれた言葉がしていされ、そしてそれが光を見せるのです。それは、ある部分に光がともされ、あるいは各時代に一定の光が付けられていたのです。我々は教会時代にそれを見出しています、旧約聖書の教会時代の中でも見えるのです。その旅の特定の表れが各時代ににそうなっているのです、著上に預言者が来ていたからです。そしてその御言葉が預言者に来て、彼がみ言葉を貸すようにできたのです。そしてその御言葉が認識され、神ご自身が反射されていたのです。そして時代があり、光があったのです。そしてそのような形で今日も光が来ているのです。
35. そしてこのローマ教会こそが、「淫婦の母」なのです。黙示録18章の中で聖書が語っています、彼女は淫婦と地の憎むべきもの共の母なのです。さて、これは女性の、不倫理的で汚い生き方です。彼らは両方とも同じものです。つまり、もし淫婦、それは女性でなければなりません。だから、それは単数ではなく複数なのです。彼女は「彼女」単数形「淫婦」なのです。そして教会は「淫婦たち」ローマ淫婦の娘たちと呼ばれたのです。彼女は、そのすべての母なのです、組織の母と言う事です。
37. メルキセデクがアブラハムに王たちから逃れる時に会った時、彼はエルサレムの王でした、祭司でそれこそがキリストで神だったのです、メルキセデクになれたのはキリスト以外にはありえないのです、神ご自身、つまりは彼には父はいませんでしたし、母もいませんでした、わかりますね。イエスは父と母が居ましたね。さてこの人には父も母もいなかったのです、人生の始まりも終わりの日も無かったのです。そして彼が誰であったとしても彼は今も生きているのです。そして彼はその時代のされむの王だったのです、その意味は「平和の王、シャローム」と訳されています。エルサレムの王がアブラハムに会い、彼にワインとパンをーコミュニオンを渡したのですー戦いの後でした。とても美しいその種別がへブル所お7章にあります。さて、彼は戦いが終わった後、彼にパンとワインを渡しました。
それが新しい王国に入った後、始めるすることになるのです。我々は彼と父の王国で、パンとワインを食べる事になります。「父の王国にそのひあなた方と共に新しく食べるようになるまで、私はブドウの飲み物を飲んだり、パンを食べたりしない。」
38. そしてそれは教皇がエルサレムに行く前に起こったとしてもおかしくはないのです、天井の月は完全にブラックアウトされ、数日彼の旅に行く前にそうなったのです。彼はここにも来るのです、ご存じですよね。さて、それは知られてはいませんでしたね。でもそれが何を見せているのでしょうか?それはこれ、、、彼のしている事はエルサレムに入った後の数日に彼があったフェローシップを勝ち取ったのです、彼はギリシャ正教の段階に会っているのです。そしてそれが何を反映しているのでしょうか?彼らが欲しいのは、フェローシップなのです、プロテスタントそしてカトリックが一緒になって、完璧にそうなることになっています。そして神はこれを我々の中で月の中で肝炎なブラックアウトとして反射することになります。彼の哀れみと恵みにより、
40. さて、私はシンプソン姉妹がツーソンの新聞に書かれていたと信じています。シンプソン姉妹がそれをその時理解していたかはわかりません。彼女は言いました、「その新聞から写真と記事をいくつか切って起きました」と言って私に渡してくれました。
そして私は何か変な感じだと思ったのです。私はそこにあったように、そしてそれをピックアップしてそれを見たのです、そして言いました、「それで良い、ちょうど、私が探していたものだ」そしてそれはその新聞の中にあったのです。
41. 彼がエルサレムに行く前にその光が消えるかそれを持ってアクセスすることになりますね。時間、立ち位置、そしてその権利が輝いていなければなりません、さて、それは一緒に切ったのです、終わりの時代のために、7つの目の教会時代に、彼女は闇の中に入っていったのです。主が言われる素晴らしい事。全ての事の中に、それは、完全な審理で、指定されていて、認識されているもので、天の神がそれを言われ、それを話し、それを見ていたのです。
42. 聖句の完璧性、彼の偉大なる名こそ栄光なのです。教皇の訪問は教会が暗闇を出ようとしている印なのです。彼は表されているのです。世の光の表れが聖書なのです。イエス様は言われました、彼は世の光だったと。聖書は言いました、彼がみ言葉なのです。そしてその表れ、、、あるいはその指定された聖句こそが光なのです。さて、これを取るときにあなたはそのような事をすることは許可されることは無いのです。そして我々は影を見てきました、それは起こる前の霊感によって語られているのです、月によって前もって影として見せられているのです、そしてそれが起こっていることが見えるのです、そしてここでそれが起こっているのです。
43. 「恐れるな、小さき群れよ、御国を下さるのは父のみ旨なのである」その通りですね。
その意味は何でしょうか?神は闇から光を分けられ始めているのです、それを後ろに置きつつあるのです、彼は新しい日の夜明けを見せ始めておられるのです。その教会時代は消え始めているのです。(ブラナム兄弟が咳をする)失礼しました。教会時代は消えかかっています。神は闇をある場所に押しているのです、、-それはそうしなければならないのですー教会の組織を消し、世を消していくのです。世は物事によっておおわれています、世的主義がすべての事を取っているのです。それこそ神は正しいのではないでしょうか世的な事、世的な服装、世的な行動、世的な生活。それこそが世なのです!
あなたは世の物ではないのです、小さな子供達。あなたは天のものなのです。これはあなた方の住まいではありません。
我々年をとっている者たちは振り返ろうとして若くなろうとすべきでしょうか?我々にはそれは出来ません。しかし我々は前を向くことが出来るのです、振り返るのではないのです。ここを見てください。何がありますか、将来を知りたいのです。その時代を探して、そこに向かっていくのです。
44. 大きな闇がイスラエルを盲目にしているのは、異邦人に光を与えるためでした。さて、異邦人が盲目になるのはイスラエルの光なのです。それはちょうど、昼と夜の様です:片方が真っ暗闇になると、反対側は光を得ますそして、光は反対側からくるのです。さt、え月はそのようになっていました、世界がその光に対して盲目になり闇が反射していて、その反射が我々異邦人の教会の時代の終わりとなるのです。その教会は彼女自身をその時代のために準備してきたのです、何のために?携挙のためにです。その暗闇が異邦人の上からけて、その夜明けがその後すぐにもユダヤ人の上に注がれるようになるでしょう。太陽は東から西に行きますそして我々は西海岸に居ます。その光は唯一東に戻ることが出来るのです、つまりは反対側にです。わかりますね?その光は唯一東に光を戻すことが出来るのです。神はしばらくの間彼らを盲目にされましたが、その闇は今、異邦人の世界全体を覆っています。その異邦人たちは、異邦人の時代が終わるまでエルサレムに来ることになりません。イエス様はそういわれました。そしてさて、それは終わっているのです、人々に闇が覆っているのです。神はそれを空で反映させていますというのは、彼はそれがすべて起こる前にそれを見せて下さったのです。我々はその中に居るのです。
46. 彼らは良い人々でした。神の言葉の正確さを確認してください、それがどれほど完璧かをデス。マリアが言ったことに気が付きましたか?さて、あなた方親愛なるカトリックの方々、私はあなたに敵対していません。あなたに敵対することは何もないのです。それはあなたが居る体制の事なのです。そしてあなた方ペンテコステ派も人々も、同じことです。その体制に問題があるのです。
「マリア、神の母?」12歳の彼女自身の息子が彼女を正しくさせなければなりませんでした。それは聖書でマリアを彼女の母と呼んでいる場所はただの一度さえもありません。彼女は彼の母親ではありませんでした。彼女がどうやって神の母親になれるのでしょうか?彼女は彼が地上に来るために使われた母胎だったのです。彼女には全く何も無かったのです、一度さえも「母」と呼んでいる場所は無いのです。
47. 彼は彼女になんて言ったのでしたか?「私が父の仕事をしている事を知らなかったのか?」もし彼はヨセフの仕事をしていたのであれば、彼は家を作ったり、あるいは大工の店に居たことでしょう。しかし、彼はヨセフの息子ではなかったのです。「私は父の仕事をしようと」彼は決してヨセフを彼の父と認めていませんでした。しかし、マリアはそうしていたのです、彼は戻って、そのことをはっきり彼女に指摘しました。
彼女は言ったのです、「あなたの父親と私はあなたを探していた」
彼は言いました、「私は父の仕事をしていた」ヨセフが彼の父親で無かったことをはっきりさせているのです。神の御言葉は完璧ですよね。
48. そしてその12歳の少年はこういったのです、「私は父の仕事をしているのである」と彼は彼女を叱責したのです。「ヨセフは私の父ではない」
49. イエス様は彼女を「母」と呼んだことはありませんでした。ある日、彼女が彼の集会を訪問した時、家の中でこのような事がありました。誰かが来て言いました、「そこの扉の外に、あなたの母親と兄弟があなたを待っています」
彼は言いました、「誰が私の母で私の兄弟なのか?彼らは誰なのだ?」周りを見回し彼の弟子たちに彼は言ったのでした「私の父のみ旨を行うものが母であり、私の兄弟、姉妹なのである」そうなるのです。
そして十字架で、彼が死にかけているとき、彼はヨセフに言いました、「最年少の弟子でした」イエス様は、「あなたの母を見なさい」「女よ、あなたの息子を見なさい」「息子よあなたの母尾見なさい」わかりますね、彼自身の事を彼は言っていません。それは彼女の息子ではなかったのです。それは神の御子でした。彼女はただ母胎として使われただけだったのです。
今朝これは家で、それhあ教会ではないのです。教会はあなた方の中に居るキリストなのです。ここに座っている死ぬからに住む例が天的な場所で集まっているのです。それがキリストであり家ではないのです。家は大丈夫です、使えるための目的を果たしていますが、それは集会の場所として使われるにすぎません。マリアは彼が地上に来るために使われた母胎にすぎません、彼自身が人々の間に居る事を認識するために。彼女は「神の母親」出はないのです、神の教会の家以上のものではないのです。そのためにただ使われただけの事でした。
52. 我々が闇のうちに落ち着いているのがわかるとき、闇とはその日が始まるちょうど前なのです、我々はその明けの明星を知っています、来られる太陽を裏に居て紹介するのです。その明けの明星が輝くときにです。それはその間に起こるのです。それは常にその日が始まる最も暗い時の数分なのです、闇を押し出して光をくれるからです。しかしその明けの明星が出てきて言うのです。「おはよう。シャローム」とです。
53. 闇はそれ自身光から離れているのです。神がそれをされたのです、光がそれをしているのです。わかりますね、光自身がそのようにして闇がともに集まるようにするまでそのように押しておられるのです。彼らはそれを受け入れる機会がありましたそして彼らはそうしなかったのですそしてそれ自身を凝縮させたのです。そして彼らは教会を一緒にすることによって奏したのです、それが世界教会協議会なのです、そしてそれこそが異教徒の闇と団結しているのです。彼らがお互いに強く不同意するとき、しかしそれでも人々に闇で覆うために共に動かなければならないのです。
54. 起き上がって輝け、光が来ている。その光こそがみ言葉出再び指定されているのです。その光が再び指定されています、神の御言葉、それがその時代の光として神の約束の中に神を見られるようにあらわされるかこの時代に与えられている御言葉なのです、これらの約束は預言者たちによってそしてイエスキリストご自身によって言われたのです。この時代において!「神は、古の時代から、「ヘブル1章、 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には御子イエスキリストを通して語られる」とあります。
55. 同じ方にサウロがダマスカスに行く道で会ったのです。その偉大な光が彼の前に会ったのです、同じひかり、同じ火の柱でした。サウロはヘブライ人でいかなる霊に礼拝したりはしませんでした、あるいは「主」と呼ぶこともありませんでした。しかし彼は「主よあなたはどなたですか?」と言ったのです。
その光である彼は言ったのです。「私はイエスである」(イエスは言われました、「私か神から来て神に戻ると」)
同じ光が来たのです。何に対して?それを表すために、人々に彼が今日において約束をすること、その時代のために光を表したのです。闇はより暗くなっているのです。
56. 神は光も無くこの時代において暗く、曇っていて、湿気が高い世界を見られていたのです、神はこういわれました「光あれ」とそしてその御言葉が顕されるまで光は無かったのですそしてそこに光が顕されたのでした。
神は言われたのです、「救い主が来られる」その約束がなされるまでそれは表されませんでした。そして彼がその約束が指定されたときになったのです、彼は「御言葉を調べなさい、あなた方が永遠の命を持っていると思うならば、そして彼らは私の事を証言する」と
彼らは言いました「私はその時を知らないあなた方来られる時を、我々はモーゼの弟子たちである」
彼は言われたのです、「もしあなた方がモーゼの弟子ならば私の事を知っているはずである。モーゼは私の事を書いている」わかりますね。彼はその表れなのです。彼はモーゼによる話された指定された御言葉そのものだったのです。
57. そこで輝いていた光とちょうど同じようなものなのです、今朝の太陽光のようになのです。その語られた神の言葉は、それ以外の何物でもないのです。何もそれをすることが出来るものはありません。いかなる人口の光もすぐにつぶれてしまいまs、電球やその他すべてがです。しかし神の語られた言葉が表されるものは決して失敗することはあり得ません。
小さな宗派の信条は電球をつぶし、飛ばしヒューズをダメにしてしまいます。しかし神の御言葉は決して敗れる事は何のです。それ自身なのです常に、それこそが御言葉なのです。
申し訳ないのですが、時間が超えてしまいそうです。あるいは、時間を超えてこのメッセージを終わらせてもいいでしょうか?ありがとう。
58. その唯一の方法は、神である、イエスキリストが、語られた神の言葉として表れてその時代の光であったと言う事なのです。
バプテスマのヨハネはその時代の光でした。彼はイエスが光としてくる前の光だったのです。預言者イザヤがこう言っています、「荒野で呼ばわるものの声がする、主の道を整え、彼の道をまっすぐにする」それが神の語られた言葉でした、それがそこに置かれていて、その命はまだ来ていなかったのです。最後の預言者であるマラキがそれが起こる400年前に、彼はこういっていました、「見よ、私はわたしの前に御使いを送る、主の道を整えるためである」彼は荒野からくるもので、宗派のなく、信条も無く、認識されるものでもない。しかし彼の光は彼によって認識される。その御言葉が彼を認識したのです。
彼らは言いました、「あなたが救い主ですか?」
彼は言いました。「いいえ違いますが、私は荒野で叫ぶ声で、主の道を整えるものである」
イエス様は言われました。「あなたは彼のに狩りの中を歩んだ」彼はまばゆく輝く光だったのです。何故でしょうか?その道が整えられるまで、そして彼の光は消えたのでした。
あなた方バプテスト派の皆さんは光の中を歩むことはできません。それはその時代の光なのです。光は来たのです。起き上がって輝きなさい。御言葉、その光、御言葉が、神の御言葉が認識されるそれこそが光なのです。
59. 新年、新年、それはどういう事でしょうか?わたしに希望をもたらしてください。我々はもう一年居近くなっています。昨日よりも一日近くなっているのです。一時間前我々が始めた時よりも、近くなっています、あと15分で11時、それは今あと15分で12時になっています。我々は一時間近くなっているのです!後ろを向いてはいません、前を向いているのです。オーその通りですね!新年と言うのは、新しいページを開けるという意味ではありません。オーオーいいえそうじゃないのです。
60. 彼は「何も。何時もと同じだね、ただ新しい人々だけだよ」はい。その通りです。殺人、レイプ、そしてすべての事。他の誰かがそれをしているのです。その通りです。
61. そのページを変えるか、カレンダーを変えても時代は変わりません。多くの人々はこういいます、「旧年は終わった、古い12月のカレンダーは今捨てて新年の新しいものをおこう」彼らにとってそれが新年の意味になっているのです。
私にとっては、その時代の約束がなんであるかを知りたいのです。その時代の光がなんであるかを知りたいのです、そしてその中をどのように歩くかを知ることが出来るのです。私が何処に生きている顔を知りたいのです、私が生きている時代が何時であり、その道をどれほど歩んできているかを知りたいのです。
パウロが言ったように、「後ろのものを忘れ、高い召しのために体を伸ばしつつ」完全な認識のために、イエス様が来られ永遠に入るときにはすべての事が消えていくのです。
62. 私の時間は彼に属しているのです。私は彼のものです。彼が時を持っておられるのですから私は彼の手の内にあるのです。将来に何があるかは知りませんが、彼が将来を持っておられることを知っています。そして、その将来を持っておられる方が私を持っておられるのです。さて、何故、これ以外新年に考える必要があるでしょうか?私自身はただ彼の手の内に自分自身を置く以外にあり得ません、ちょうどダビデが歩んだように「すべての時は彼の手の内にある」彼は紙が将来を握っている事を知っていたのです。ダビデは将来がどうなるかは知りませんでしたが、彼は神が将来を握っておられることを知っていたのです。私は将来がどうなるかは知りません、我々の誰もそうなのです。しかし神が将来を握っておられることを知っているのです。
63. そして聖職者である兄弟、私が何時から話しているかは分かっていますね、このテープを聞いているから。私はあなた方に話していますね、ここの小さな会衆だけではなく世界中の人々に向かって話しています。
多くの人たちが忍耐が無くて出て行っていますが、その時が近い事は信じています、何かあなた自身の中でやろうとしているのです。主を待ち望みましょう。忍耐は徳(力)なのです。もし忍耐を持つことが出来るならば、それは徳(力)なのです。それはもし、、、得なのです「彼らは彼らは主を待ち望むことによって彼らの力を受けているのです」彼らは主に前を持って言おうとしているのです、主よりも前に行こうとしているわけでhないのです。「主よ、私はあなたがこれをさせたいことが分かっています、そして栄光を神に、、、」それをしてはいけない。主を待ち望みましょう。聖書はこういっています。「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ40:31)
64. そして、この時間の間、彼は救い主の多くの種類を見せていました。彼は全道を通してアダムからメシア(救い主)をはじめと最後のアダム、彼らのうちの一人は世の物でもう一人は天の物、一人は地上につくもので、もう一人は天的で、一人は天からもう一人は、地からくるのです。しかし、約束された救い主、彼がそれを成就させるのに何千年物年月がかかりました。
ヨセフの中にもちょうど彼がどんな方が見せられていました。ヨセフは彼を表していたのです。
ダビデは彼を表していました。ダビデは王に拒否された時、丘に上がっていき、戻り、エルサレムの上で拒否された王として泣いていました、「エルサレム、エルサレム、牝鶏が彼らを集めるように、彼らを覆ってきたのに、あなたは集まって来ない」
65. 彼らは何故イエス様を憎んだのでしょうか?彼らは彼をベルゼバブと呼んでいました、彼はみ言葉だったからそして御言葉が人々の心の思いを識別することが出来たのです。彼らは彼を憎んでいました。そして彼らは彼を30枚の銀で売り払ったのでした。
66. 同じことが、イエス様にも起こります。彼は死んだ場所から引き出されたのですが、全知全能の方の右手に死から蘇り座られたのでした。「誰も神を見たものはいないが唯一、御子だけが見ているのでs。そして彼がそこを去るとき、ラッパの音がすることになり、全ての膝がひざまずき、全ての舌が告白します。「わかりますね、彼は豊かさの王子デス。エジプトが何を下か見てください、それが全世界を来るべき干ばつから救ったのです。
彼はすべての面で来るべき種を表していますが、神は彼がどのように来るかを全て知っていました。彼は彼が来る時をはっきりと知っていたのです。それほど人数をかつて持っていた人が居ようとも、彼はメシア(救い主)を持っていたのです。神が彼らのタイプを表しています、それはつまり今後迎えに来る人の事です。
67. シャローム!平安!心配しないでください、イエス様はここにおられます。彼の偉大なる光が我々のところに来たのです、そして感謝しているのです、はい、神の言葉、偉大なる奥義です。彼は彼自身を今日明かにされていて、彼がその時されたのと同じことをただされているのです。その全く同じことをしておられるのです。
68. 見上げてください、そして主の喜びのうちに輝いてください、あなたは特権を与えられ、この日を見るために目が開かれたのです。未来については主に信頼してください。あなたは彼の御言葉がその時代に指定されたのを見てきました。彼は過去にすべてこれらの事がその時代につまり我々が生きている時代に全く7番目の御使いのメッセージとして両方、天と地で起こることを見せられていたのです、それが起こるようにされてスリップアップする事もなく覚えている事は出来ないのです、彼は再び来られることを約束されていました。ハレルヤ!その御言葉は指定されるのです。神の約束の言葉は2千年の間待っていて、彼は正しい時間に到着します!心配しないでください、彼はここに来られるのです。彼は彼の言葉の中でどの時代でも指定されてきたのです、教会時代の間も同じことが見せられています、そして、我々の主が7つ目のメッセージによってそれからずっと明らかにされてきているのです。神はそれを明らかにされ、それが動き、証明されてきたのです。そして今日われわれはその中に居て、我々とともに彼自身を表され、神の御言葉を証明して指定されるのです。常にそうされます。
72. あなた方は「ブラナム兄弟、それをどういう風に受け取るのですか?」と言うのです。
さて、あなた方にちょっとの間いくつかの思いを言わせてください。シンフォニーが何かを知っていますか?知っているとわかっています。それは音楽で、劇なのです。つまり彼らは演技しているのです。
さて、小さな子供達、君たちも悟るようになるでしょう。学校で、学んだと信じているので覚えているでしょう、小さなロシアのシンフォニー、時々彼らはドラムを使って演技をします、何ていうか知っていますか?確かそれは、小さなウッドペッカーの話でした、分かりますね、それは森に居たのです、彼らは飛び回っていました、ドラムやその他のものを叩いていました。そしてあなたはそのシンフォニーの中で彼らが演技する音を聞くのでs。その名前を忘れました、、えっとー「ピーターと狼」だね。そうです。「ピーターと狼」さて、それはロシアのシンフォニーなのです。彼らは小さな人形を飛ばしたりはしないで、それを演奏したのですが、彼らはそれをドラムをたたくことで表したのです、(ブラナム兄弟が、いくつかの木をたたく)そしてそれから、(ブラナム兄弟が別のものをたたく)そしてドラムとその音を作り上げたのです。それが演技をしているようにしたのです。さて、何をブラナム兄弟が言おうとしているかわかりますね。
76. イエス様は言われました「これよりも大きな事をするであろう、私が父のもとに行くから。」ヨハネ14章、「12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」(口語訳)私が暫く前に行ったように、マリアがヨセフの息子として彼を認証しようとしたとき、彼は彼女を正しました。彼の言葉は間違える事はあり得ないのです!彼は言われました、「天地は滅びても私の言葉は滅びることは無い」と
我々がシンフォニーのリズムを聞くとき、その変化が起こります、変化は決められているのです、それは今交差点に居るとですから。我々は彼がそのリズムを打ち始めたことがわかりますそして理解するのです、「私がするわざをあなた方もするであろう、そればかりかもっと大きな技をするであろう」「もっと大きい」彼がそれを約束されたのです。我々はそれはどんなものになるかと思いめぐらしていたのです。
77. 取って、それをワインに変えられたのでした。そうでしたよね?彼は水をつかって何時かはワインになる可能性がありましたがそれは初めは水だったのです。
そして彼が5000人の人々を養った時、何をされましたか?彼は何かを取って、水のようなものを取って、彼は一匹の泳いでいる水を取って、卵から生まれさせ、そしてそれを壊して、ほかの魚を元々の創造から作り上げた方です。彼はパンを取って、それはもともと麦だったのです、それは種でパンになったのです、そしてこのパンをちぎって、何倍にもなさっただけなのです。
79. しかし主を待ち望む者達、見ている者たちは分かるのです!誰も歴史上で観測上で星が動いていったという記録はありません。しかし賢者は何百マイルもそれを追って約2年間にわたってそれを見ながらそれを追っていったのです。その意味が分かりますか?それはそのシンフォニーを聞いている者達なのです。
81. あなたはそのダンスに入り込んでそのダンスの一部にならなければならなかったのです。球技のパートをなんでもあなたの興味のあることのパートになるにはそこに入り込む必要があります。
82. 彼はどのようにメッセージを初めに送られましたか?彼は何をされましたか?彼は組織と対処されませんでした、一度も、彼は今もそれはされていません。もし、世界教会協議会のリズムを聞いていたら、あなたは闇の中に居るのです。しかし御言葉のリズムを聞いているならば、
何がイエス様を殺したのでしたか?「あなたは人なのに、自分自身を神としている」
83. 多くの人たちは去って行って言いました、「それはひどい言葉だ」と
そして見せかけの信者たちが彼とともに歩いていました、その70人は何かひどい(難しい)ものを得て、彼らはそれを見ていませんでした、彼らはそのシンフォニーを知りませんでした。彼らはその約束をこの子がエホバであるという事を知りませんでした。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そして彼はこう言った時、「私は天から来たから天に昇っていく!」
さて、彼らは言いました、「これはひどい言葉だ、誰がそれを悟ることが出来ようか?我々はあなたは人であることを知っている。我々はあなたとともに食事をしたり、寝たりした、森の中で一緒にいたし、水のそばにもあなたとともにいた。ゆえに、あなたは単なる人で、こういうのか、人の子は、彼が来たところに戻る?あなたの言っている事は何なのだ?ひどい言葉である!わかりますね、彼らはそのリズムを知らなかったのです。神の言葉のシンフォニーのリズムを知らなかったのです、彼は神が肉によって現れた方だったのです、彼はその時代の御言葉の光として立証されていたのです。彼らはそれを理解しませんでした。彼らはこういったのです。「これはひどい言葉である。誰がこれを悟ることが出来ようか?」彼らは離れたのです。彼らはそのリズムを知らなかったのです。わかりますね?
84. そしてペテロは言いました、「主よほかの誰のところに行きましょう?あなたが創られた方です。」
アーメン。「それがどう続くは知っていますね。あなただけが命の言葉を持っておられる方です。そこからどうやって離れる事が出来るのでしょうか?我々はパリサイ人や佐渡階人や、ヘロデたちのところに戻ることはできません。」あるいはなんであったとしても。「あなただけが命の言葉を持っておられるのです。我々にはほかに行く場所はありません。この素晴らしいコンサートに加わったのです。我々はここに居ます、聴いているのです、リズムに入っているのです。あなたは神の御子であり、エホバが肉を持って現れておられると信じています。これを確信しています。我々はこれらの試練や問題やその他の事は分かりませんそして、あなたはそのように登って行かれることも全ての他の事も、3日目等。我々はそれを理解はしていません。しかしその中に居るのです、神のシンフォニーを聞いて、その一部なのです。そして次に何が起こるかを見るため医待っているのです、あなたに近く従っています。」素晴らしい。それが私のしたい事です。約束です。
85. ある時他の考えがありました、彼らは言いました、「あなたは自分自身を集まりの中で唯一聖いものとしている」神はそこを見ておられたのです。
モーゼは主の元に行きました、「私はこれはしました。何をしなければならないのですか?」
彼は言われました、「彼らと離れなさい。私が他の事は世話する。私はあなたを送った。それは私の責任です」そして彼は地上を開かれて、コラーや全ての者を吸い込んだのです。常に!
86. 彼は、初めからそこに追われました、それがあなたが始める方法なのです、神が何であられたことを学ぶところから始めるのです。この地上におられた時彼は何をされましたか?どのような人生を送られたのでしたか?彼は妥協を許されましたか?彼は組織を作られましたか?彼はどのように彼自身を認識されましたか?「御言葉を調べなさい。あなたは、永遠の命を持っていると思っているならば、彼らは私の事を告げているのである」わかりますね。それは今日も他の時代も同じなのです。あなたが光が欲しい時、この時代のために聖句が何と言っているかを見るのです。大丈夫ですね。
87. シンフォニー、同情、正しく言っていましたか?そう望みます。さて、そして、それについて考えていたのです。シンフォニー?(会衆のうちの誰かが「シンフォニー」と言う)シンフォニーその通りですか?大丈夫ですね。
88. さて、十字架において彼とともに始めるのです、「悔い改めて、イエスキリストの何よって、罪の許しのために洗礼を受けるのです、そうすれば、その音楽と方向性を受け取るでしょう」さて、「彼の御言葉と聖霊がその言葉をあらわしています」そしてその御言葉のリズムに従いましょう。その時にどのような音楽が奏でられたとしてもそれとともに奏でて行きましょう。
89. 時々、私は尋ねます、「何故?」どうして私が若いミニスターだった時、はじめた時、神は私の妻と赤ちゃんを私から取られたの、心から?どうして彼はそれをされたのだろうか?その時は分かりませんでした。今は分かります。私の手を彼に握ってもらい信頼し続ける事。
彼はすべての交差点をご存じです。彼はそれが起こらなければならいリズムをご存じです。彼はそれをどのように動かすかをご存じです、彼はどのようなものを使われるかをご存じです。ある時砂漠の後ろ側には、神が義人を創られて賢人や預言者にされるのです。それが人々が打たれる場所なのです。人々は御言葉のうちに打ち砕かれるのです。彼らがすべての種類の信条やそういったものを得た時、彼らは御言葉に来させて大いなるシンフォニーとして神の御言葉とともに創られるのです。そしてその時、彼らは御言葉に移っていくのです。
90. 「正しい者には災いが多い、しかし神はそのすべてから救い出される」と神は歴史を通して、神の御言葉の約束のリズムとともに動かれてきたのです、同じリズムが御言葉を作り上げているのです。それが神が歴史を通して動かれてきた方法です、それは創世記から黙示録に至るまでそうなのです。神は御言葉とともに歴史を通して動かれてきました。その通りです、聖霊の力のリズム、神が選ばれた者達に指定し立証してきたリズムとともになのです。覚えておいてください、神は教会の外では何も触ることはできません。それは選ばれた者達のみに対してなのです。
91. 彼らは少しだけ知っているのですが、「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」そして彼こそが御言葉なのです。
しかしこの小さな売春婦がその日立っていました、バケツの水を取って、彼女は言いました、「私はあなたが預言者だとわかります。我々は救い主が来るのを知っている。我々は何百年間も預言者たちが居なかったが、救い主が来るのは分かっている。そして彼が来る時、彼はそうなられるのだ」
彼は言われました、「私がそれである」それで十分です。何故?リズムが打たれているのです!彼女はその変化を探しているのです、教会の宗派から立証された救い主を見出すためである。そして、彼はここに立っていました、モーゼが語った救い主である、「私に対して主なる神であるあなたが預言者を立てたのです」彼はそこにおられる。リズムが変わり、その指定された種は認識されているのです。
92. ピリポがそれを知っていて、彼はそれ以上たっている事は出来なかったのです。彼はそれが救い主だと知っていました。そして彼はある人のところに行きました、彼らはバイブルスタディを一緒にしていました。「ナタナエル」彼は言いました。「来てその人を見なさい」我々が見つけた人を見に来なさい;我々はナザレのイエスを見出した。我々はナザレのイエスを見つけた、それはモーゼが来ると話していた預言者である。我々は彼を見つけた。我々は彼を見つけた。
彼は言いました。「どうしてそれが出来るんだ?彼は何処にいた?」わかりますね、彼はいませんでした、そして彼はそのリズムがちょうどどのようになるかを知らなかったのです。彼らは勉強していました。しかし彼がそこに来た時、彼が彼に話したとき、御言葉を彼に紹介したのでした。
93. ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。
イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。
ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。偉大なる神のシンフォニーでなければ、彼らの兄弟姉妹のすべては宗派がある、どれほど世がそのリズムを打っていてもである。アーメン。彼は「あなたはイスラエルの王です。!と言いました。その通りです。私はそれを見ました。分かっています。何故ですか?彼は選ばれた民でした。選ばれた子孫(種)は知っているのです。全ての時代を通して全て、彼らはそれを知っているのです。
95. そしてある夜、主が彼に語ったのです、サウロあるいは「パウロ私の恵みは十分である」と
彼は「そして私が弱いところに栄光が表れる。私がその中に栄光が顕されるから。あなたが癒し主であることを知っているのです。私はあなたが病人を癒されたのを見ました、死人をよみがえらせ、悪鬼を追い出し、目の見えない人の目を開かれました。しかしあなたに相談したら、あなたはあなたの恵みは十分だと言われました、この悪魔は貴方の恵みに対して成長痛のようにしてじゃまあするのです。そして私の弱さに栄光が表れるのですか?ただ十分な啓示が私を引き上げてくれたのでした。
96. 彼は言いました、「私が引き上げられ、他の物として大きな修道院やら他の物全てを建てたいとかよりもこの沢山の啓示の上に引き上げられるしかないのです、神は悪魔のメッセンジャーに引き続き私を打たせている。彼は言いました、「そして私が弱い時にこそ私は強い」アーメン。アーメン。恵みのための成長痛!アーメン。我々は長い時間居られたので既に一時間45分すぎましたそして、我々は神の恵みの痛みに苦しんでいるのです。(喜んでいる)
97. 彼はちょうどダニエルのように。ダニエルにも小さな試練を与えられました。ご存じのように彼は、バビロンでは偉大な人だったのです。彼も試練がありました。彼は王様に彼に敵対させライオンの洞穴に投げ入れさせました。それはダニエルを整えるためだけでした。その通りだったのです。
ヘブライ人の子供たちを火の燃える炉の中に行かせました。彼らは神の御言葉にしっかり立つことを心から決めていたのです。
彼は御言葉を信じるゆえに人々に笑われたりあなた方をホーリーローラーなどのようなことを言われる事を許されるかもしれません。彼らはあなた方を笑うのかもしれません、それは大丈夫です。それは岐路であり、小さな交差点のようなものです。それは何かを証明しているのです。
分かりますね、御言葉の上にヘブライ人の子供達が立つことがその岐路を超える唯一の事で、それは唯一彼らの足と脚の周りのバンドが緩められたような状態なのです。
98. 川の中でおぼれかけている人の世に、川からその人を引き上げないといけません。その通りなのです。まず、川から引き上げる必要があります、そしてそこから彼の中に入った川を取り出すのです。時々、神様はそのような方法をされなければならないのです。彼はその交差点を通らせ、岐路につかせるのです。神の約束に立ちましょう、御言葉に、それは敗れる事はありません。将来を主の手に置くのです。彼らがしていたように、諦めないでください。
99. アブラハムは言いました、「いわばイサクを生き返らせて返された」サラの胎はもう死んでいました、そして彼の体も死んでいました、彼は老人だったのです。彼女には赤ちゃんを養うための乳腺もありませんでした。そして彼らは、、、、何も無かったのです。彼自身も不妊で彼女も不妊だったのですわかりますね。そこで何も方法は無いように見えました。赤ちゃんが来ると言った同じ神のために私は立ちそれが来るのを見る、彼は死人を蘇られることがお出来になる方です。つまり彼はその子を死から救いえるのです。彼がなんでもについて決められるのです。アーメン。
100. 新しい日の夜明けを全身で感じています。新しい日の光!夜も闇も影も空も暗い空も真夜中も墓も丘の上の花も葬式も医者も死亡安置所も無くなるのです。。。。アーメン。私の魂に神の光の光線を感じられたのです。新しい日!古いものは過ぎ去ったのです。
死すべき血が私の体を通して注がれているように感じています、私は聖霊の波を感じたのです、そして「起きよ、光を放て」
101. 「起きて、光を放て」私はイエスキリストの福音の素晴らしい光の波が降ってきて私を彼において新しく創られた者として下さるのを感じています。その日を待っているのです、アーメン新しいのために。私は将来を知りません。1964年に何が起こるか私に又他のなんでもわかりませんが、私はしっかりと永遠に彼の手を握っているのです、彼が永遠の方だからです。アーメン。
アブラハムは神が再びよみがえらせることが出来る事を知っていたので、彼は神に信頼していました。
104. 彼らがミーティングの中でこう言いました、私はイエスキリストになることについて話していました、聖霊である父が私を覆っていました、火の柱、そして私はイエスキリストでした。丁度私の友人が彼らの小さな会合に居て立っていて、彼は立ち上がりこういいました、「あなたはそれを証明しなければならない、というのはここに彼を呼ぶから。一度でも彼がそのような事を告白したかどうか見てみたい」わかりますね、そしてそのような事をするのです。彼は異なるカルトやそういった地上でのことを話していたのでした。
彼らは知っています。一度、私は、この安息日に関する質問と結びつけていました。彼らは過去のそれを通っていました。聖霊こそが我々の安息なのです、聖書にはこのように書かれています、「重荷を負って苦労しているものは私の元に来なさい、あなたの魂に安息をあげよう」それは「日」ではないのです。パウロは言いました、「残念だが、あなた方は一日だけをそのようにしている」わかりますね。その通りなのです。はい。ヘブル書の4章にあります、「休息に入りなさい」「神の人々は休息を保つのです。我々は神の休息に入るのです、神が下さったことで我々自身の技から離れ続けていると言う事なのです。
105. しかし、彼が話していたように、その人は言いました、「我々はその年の本の賞を取った」この作家が、彼の名前出、それについて話していますか?私は今彼の名前をちゃんとは憶えちえません。彼はここシアトルのクリスチャンビジネスマンのために、ワールドフェアで暫く前に話したのです。そして、彼が言ったのは、このアナウンサーはこういいました。「この人はこの年の最も優れた本を書きました」私は同意しません。
106. そろそろ閉めなければならないようです、もう2時間ここに居ますから、このあたりで。
107. 全てその通りに起こったのです。そして、何時、それは何なのですか?それは神の語られた言葉で、神ご自身が立証され、その時代の光とされたのです。分かりますね、ちょうど太陽のようにデス。御言葉自身がその時代に属するように立証されたならそれが光なのです。分かりますね、それなその時代の光として指定されていたのです。
108. そしてヨハネは言いました。「さて、私は今、光を落とさなければならない、私は今行かなければならない、私の光の輝きは終わった。私は去らなければならない。彼が栄えなければならない。彼こそが光である」と
主は言われました。「私は世の光である」とアーメン。その通りです。「昨日も今日もいつまでも変わることなく」そして彼は今も世の光なのです。彼は何ですか?「言葉が初めに会った、言葉は神とともにあった。」何故彼は世の光だったのですか?もし彼が来て、彼が救い主だと言ったら、そして彼が聖書が救い主がすると言う事をしなったら、彼は世の光ではありませんでした。分かりますね。それは立証された、御言葉でそれが主を世の光とされたわけなのです。
111. 彼は来て、そして言いました、「地の上では、御心にかなう者に平和があるように」としかし、世はそれを受け入れませんでした、分かりますね。彼はすべての人、平安のために彼の元に来るものにとっての平安なのです。地の上では御心にかなう者に平和があるように、彼は新しい年の初めに、神の新しい日にとっての平和なのです。何のために?彼はその時代の指定され立証された光だったのです。
そしてもっと指定された御言葉があります。彼はもっと御言葉を指定しなければなりませんでした。そして終わりの言葉が指定された時、ある意味、立証された時、死は勝利にの中に飲み込まれたのです、キリストにあって、死んだ者たちがよみがえり、至福千年が始まります、それは素晴らしい平和になるでしょう、シャローム。その日のために主の内に休みましょう、兄弟、姉妹、我々の偉大なシャローム。
覚えておいてください、聖書は、知恵の泉なのです、全ての将来のための希望があります。教会の皆さんへ、シャローム!祈りましょう。
112. その時、聖書では一つの事が勝たれています、あなたは、「いいえ、それが正しいと信じる事はかなり難しいです」と言うでしょうそして、あなたには平安(シャローム)がありません。あなたは神とともにある平安の中にないのです、彼の御言葉が言っている一つの事にあなたが合意していないからです。
そして、もし御言葉が、「シャローム、平安」と言うならば、そしてあなたがその平安を持つならば、それは神が言われたすべての言葉を持ち、それと一緒になって、「アーメン」と一つ一つに言う事が出来て、それを信じていると言う事なのです。そして、あなたがそれを立証してわかるとき、あなたは、「アーメン」と言うのです、それは御言葉なのです!しかし、信条、光、偽の光、世が光の影を、反射させて、暗くしているのです、いくつかの信条は、「いいえ、私はそれは別の事のためだと思います。その意味は、ただそうじゃないのです」そして御言葉はそれを言っているのですか?その影に従うのですかそれとも、本物の光とともにあらわれていますか?
114. モーゼの時代の言葉は、イエスの時代にはうまくいきませんでした。死との時代の言葉はこの時代にはうまくいきませんでした。それはこの時代のための約束だったのです。彼らは彼ら自身に行ったのです、それは聖霊によって終わりの時に起こることが語られていました、教会が頭が固くなり、誇り高くなり、淫婦が上がってきて、彼女とともにいるようになる、世がどれほど暗くなるかなど。そして最後の教会時代である、ラオデキアの時代に、イエス様は完全に教会から追い出されてしまうのです。
オー主よ、あなたとともに居させてください。御言葉と、そして主よ、この新しい年において、決意をもって、彼の光を我々全員を通して輝かせますように。今年何が起こるかはわかりませんが、我々は主の御言葉をしっかり持っているのです、初めから最後までのシンフォニー全体を知っています。彼はすべての動きと全ての分岐点を知っています。そして主よ、私たちはただ彼を見ているのです、我々の目を彼の上に、御言葉に留め続けましょう。そして、我々がこれらの事が起こるのを見る時、我々は御言葉のリズムに居る事を知るのです。与えてください。全ての失われた魂を救ってください、主よ、ここで、そのテープを聞いているすべての人たちを救ってください。彼らをあなたの手に委ねます、御国のために、イエスキリストの名前によって、アーメン。
115. テリーが彼のテープレコーダーを消しましたと言うのは、一つのテープが終ったからでした。思うに、あなたはまだ続けていますね、それは大丈夫ですと言うのは、その教会でも話す心算だからです。
ここに居る皆さん全員に間違いなく感謝しています。そして多くの時に、私はこれは小さなリトリートだったのですここに来ること砂漠の後ろ側と呼ばれるところにです。砂漠をと打って戻ってきて、ここに戻って、いまわす事そしてこの小さなグループは木の下にあり、川の隣でもあります。そして我々は、川の東側に居ます。そして、神が皆さんを祝福して下さることを信頼しています。神様、平安(シャローム)が皆さんとともにありま性に。それこそが神の平安なのです。
116. そして我々は皆w勝っています、それは認証なのです。私たちは、3つ目の引きが何かが分かっています。我々は全員それを悟っています。さて、あなた方が分かっているならば、そのテープを得る事になりますね?そしてそれによって暫くの間、大きな迫害の時が来るまでしばらくの間、休める事になると思います。その時は来るのです。それは語ります。それはちょうど問題なく完璧に5つの印があらわされたようになるのです。そして今、思うに、ちょっと待ってくださいね。何がなされたかを見る時。さて、私は再び同じように戻るのです、見出すために端から端まで。
短い集会。それを毎晩集まるように努めるつもりです。30分くらいで神の癒しについてあるいはほかの事について話します。そして、またいつでもテープが準備出来たら、ここ砂漠の後ろ側に降りて来るか、何処でもあなた方がテープを作ることg会出来る場所に、幕屋か何処かへ我々自身の間の場所に行きます。私のしたい事をそのように言う事が出来ます。しかし、分かりますね。イエス様...
117. 私は人々から離れたくありません。そんなことはしたくないのです。分かりますね?というのは、私は彼らのためのメッセージを持っているのです、「救い」。彼等の中に出て行かなければいけません。分かりますね?さて、私は、三位一体信仰や、メソジスト、バプテスト、ルター派、ペンテコステ派、セブンスディーアドベンチストそしてほかの何処へでも、出掛けて行きます。というのは、失われている人たちを救うために、もしできるなら、彼らの光を見せるためにその人たちを探しに行くのです。
119. そしてどのようにしてここで夕食を共にして、小さなフェローシップ夕食をする予定なのを知っていまsう。私も出来たら一緒に居たいです。そしてもっとよく知りたいのです。あなた方にこの国の中で最高の料理人が居ると知っています。それは正しい事も知っているのです。でも、私はハンバーガーを自分のために持っていかなければならないようです。しかしとにかく、私のしなければならない約束がありまsう。時間が定められているのです、ここで少しあそこで少しと言うように。皆さんは全てご理解いただいていると確証しています。(会衆が「アーメン」と言う)それは私がここに居たくないというわけではないのです。神様はそのことをご存じです。ここに来ることは出来なかったこと。。分かりますよね?
120. 「真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。」わかりましょね?しかしそこにあなたの真珠を投げてはいけません。
そしてそう感じるのです、ここで私が話している事は、豚を真珠に投げてはいないのです。それは子供たちに彼らが持つべき宝石を見せているのです。分かりますよね?彼は道具のために何千回も泥や汚れの中で働くことになるでしょう。
あなた方はユリに気が付いたことがありますか、それはどこから来るのでしょうか?池のぐちゃぐちゃの穴の底から上がってきて咲くのです。それは昼も夜も、苦労して光を得ようとするのです。しかし、光を得たら、花が咲くのです、そしてどこにもある最も美しい花が有るのです。それがユリなのです。それは地の中の泥や汚れから出て来るのです。
そこには宝石が見出されるのです、この国の金の国の中に包まれているのです。金を見つける場所も泥の中です。あなた方がルビーや宝石を見出す場所は、泥や汚れの中のです。その通りなのです。そして我々皆がそこから来たのです、世の汚れと泥の中から。しかしこれは...
121. ここに居る人たちは、金鉱なのです。分かりますよね?ここをずっと見ているのです、美しい宝石のためにです。分かりますか?ここで見つけて、泥を取り、彼らを磨き上げるのです。そして、「主よ、彼らはここに居ます。ここに兄弟が居ます。生まれ変わったクリスチャンです。ここに素晴らしい若い女性が居ます。又素晴らしい中年の女性、老女、若い人、何であれ。彼らは、ここに居るのです、主よ。彼等はあなたの宝石です。あなたの冠を彼らにかぶらせて下さい、主よ。彼等は永遠にそのように輝き続けるでしょう。あなたにまた会う日まで、シャローム。神の平安が穴型とともにありますように。
分かりました。牧師さん、ここに来てください。大丈夫です。神の祝福が今ありますように。そして、暫くしたらまた皆さん全員に会うことになるでしょう。