1. アウトロー兄弟が教えてくれたのですが、ドアのところに座っているのが彼の素晴らしいお母さんで、81 歳です。姉妹に神の祝福がありますように。想像するに、何年も前にあなたは赤ちゃんを腕に抱いて、小さ な手があなたの頬を撫でていたのでしょうね。それがもう 80 年も経ったとは。今ではその赤ちゃんの教会 に座って、彼の話を聞いているとは思いもよらなかったことでしょうね。その時、こうなると信じられまし たか?素晴らしい、すばらしい。とてもうれしいです。神があなたに・・いいえ、歳をとったなどとは言え ませんね。あなたの内なる人は永遠の存在なのですから。わかりますか?あなたには始まりも終わりもない のです。あなたは永遠のいのちを持っているのです。素晴らしい。
3. 彼らの素晴らしい歌声を聞きながら、アウトロー兄弟に言いました、「テープに録音しておいてくれたおか げで、習うことができます。テープを流してこの歌を聴くのが好きなんです。歌ほど素晴らしいものはない ですね。」
5. 先にメモを受け取ったのですが、赤ちゃんを主に献げたいと希望する姉妹がここにいると書かれていまし た。わたしはアウトロー兄弟に、「あなたは赤ちゃんに洗礼を授けませんよね。」と聞きました。
彼は、「しません。しません。ただ聖書が語るように、赤ちゃんを主に献げるのです。」と言いました。
6. オルガンかピアノを弾いてくれる人がいたら、ゆっくりしたテンポであの気持ちのいい曲を弾いてくれま せんか。「連れてきなさい、彼らを連れてきなさい、罪の世界から彼らを連れてきなさい。」この曲知ってい ますよね。
7. 赤ちゃんは好きですが、いつも恐々持ち上げています。壊してしまうのではないかとドキドキします。彼 らは、なんていうか・・・赤ちゃんを持ち上げると奇妙な感じがするのです。妻は、「壊れるわけない。」と 言うのですが。でもとても可愛らしいです。本当にそっと扱わなければならない感じがします。だからよけ れば抱き上げさせてください。
これは妻がうらやましがる仕事です。なんと愛らしいのでしょう。可愛いレベッ カ・ハマー、ご機嫌いかが?そう、それは良かった。二人の結合により神がこの愛らしい子供を与えてくださっ たことに感謝します。神から授かった子です。神以外の誰も命を与えることはできません。頭を下げましょう。
8. 聖書には、人々があなたに手を置いて祝福してもらうために赤ちゃんを連れてきたと記されています。も しあなたが見える姿でここにおられたなら、両親は小さなレベッカをあなたに差し出していたことでしょう。 主よ、わたしたちの手はあなたの代理としては貧弱であることを認識しています。しかしあなたがわたした ちにそうすることを任せられました。それで、主よ、イエス・キリストの御名によって、あなたにこの小さ なレベッカを献げます。受け取って、彼女をあなたの栄光のために用いてください。あなたをたたえます。 イエスの御名によって、アーメン。
9. 小さな子たちよ、なんとあどけないことか。よく思うのですが、子供はなんと純粋なのでしょう。しかし 私たちも、もし子どものように純粋になることができれば・・・・ところが、私たちはもっと純潔なのです。 イエスキリストの血がわたしたちの罪を洗い流してくださったのですから。
10. 「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られた のです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
それも、年ごとに自分の血でな い血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリスト は、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、 人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を 負うために一度、ご自身を捧げられましたが、二度目には、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々 の救いのために来られるのです。」
みことばの朗読に、主が祝福を与えてくださいますように。頭を下げて祈りましょう。
12. 道を歩いている途中で、誰かが何かを見つけて「見て!」と言い、それから見たことを話します。山でも サボテンでも何でもいいから、誰かが何かを見ます。そしてあなたの注意を引くために言うのが、「見て!」 です。
14. フォード社はフォード車の改良に目を向けています。シボレー社はシボレー 車の改良に。フェニックス市はもっと大きくよりよい町づくりに。国家は領地の拡大を目論んでいます。教会はといえば、もっと多くの会員を集めることを追求しています。しかし、花嫁は主が来られるの を待ち望んでいます。 私たちは皆、見ています。
何を見るかは、「見よ」と語る声によって異なります。誰かが言っています、「こ れこれを求めよ」と。もしそれが教会なら、今年はもっと多くの会員がほしいと言っているのでしょう。そ れもいいでしょう。
15. それを実行するためには、まずあなたが何かを見て、それから見たことを誰かに伝える必要がありま す。ノアはこれを体験しました。彼は信仰によって、まず洪水が来るのを見ました。大雨が地上を覆いつくし、 大地はすべて洗い流されてもう一度神の手に戻りました。人々によってもたらされたこの世の汚れ、彼らが いた当時の集合体が一切洗い流されて、一からはじめ直さなければなりませんでした。
16. それがこんにちの教会で・・・・何が言いたいかというと、汚れを取り除いて清める必要があるというこ とです。神が何かを始められる前には、浄化が必要なのです。今の状況を見ると、神がご自分の計画を続行 されるためには、その前に何かが起こらなければなりません。そして浄化が。私たち多くが、振り返って見 る必要が・・・
17. 「いいえ、メシアに会うために来たのです。」彼らはこう答えました。
イスラエルが、木が芽吹いてきたのを見るとき、それは大いなるしるしです。イスラエルが国家となるとき、 到来のときが迫ります。そしてもうイスラエルは国家となっているのです。着々と物事が起こっているのに、 世界は・・・盲目状態に陥っています。ノアの時代と同じです。しかしキリストの再臨を待ち望んでいるわ たしたちには、それがキリストがまもなく来られる旗じるしに見えます。何かが起ころうとしているのがわ かります。何を見ているのかによって変わってきます。
18. 教会もそうなのです。召し出された者、花嫁からなる教会は、主が来られるときが迫っていることを知っています。科学がどれだけ進んで、原子分裂させようとも、月にメッセージを送れるようになろうとも、そんなことは信じる者にとっては無意味です。主が来られるときが間近であるというしるしに意味があるのです。国々が崩壊しつつあり、世界が分裂しつつあり、教会の活動がバラバラになっていくまさにそのとき、わたしたちは揺るぎない御国を受けると教えられています。しかしこれらのことが起こり始めると、神のことばによって、教会はますますしっかり結びついていきます。
今わたしたちが生きているのは素晴らしい時代です。
20. 神は(ヘブル人への手紙の)書き手をとおして、このことを観て考察するよう、促しておられます。 書き手はここでこう言っています。「わたしたちはキリストが二度目に来られるのを待ち望んでいます。キリ ストをありのままに見ることができるために。」そしてわたしたちはキリストがみことばであることを知って います。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」そしてヘブル 13:8 で、 キリストは過去、現在、未来ずっと変わらないとありますから、神のみことばを調べるのです。
みことばは 神がご自身を表現されたものです。神がキリストをとおして来られたとき、キリストは神ご自身を写し出し ておられたのです。そして過去のキリストはこんにちも同じキリストです。なぜなら神は永遠であり、変遷 することがないからです。 なんという希望でしょう。この混乱した現代に、神は真の証しを残しておいてくださいました。わたした ちは本当に恵まれています。真の証し、つまりみことば(聖書)を調べれば良いのですから。みことばは、 イエス・キリストが神を余すところなく明らかにされたものです。
神は真の証しなしに、神の民を置き去りにされたことはありません。神はイエス・キリストによって世界 を裁かれます。そしてイエス・キリストがみことばであるなら、神は教会を、いえ、世界をみことばによっ て裁かれます。神はみことばだからです。裁きの時がやってきます。罪人にはそれがわかっています。
21. 男性がそのように教会を裁いているように見えるのは、人が良いと思っている事すべてに対して、 教会が常に非難しているからです。ある人が罪人で、罪はいいことと考えていて、この世的な生活の楽しみ を続けているとします。そこで教会が立ち上がって、それは罪だと非難するなら、彼にとって教会は化け物 に見えます。しかし彼がわかってさえいれば、神のことばは、神の僕の口をとおして語られ、それが救いを もたらす神の唯一の道なのです。そう、そのとおりです。
22. だからわたしたちはすごい時代を生きているんです。キリストのことばが語られているのですから。
23. ある日、彼はユダヤ人に言いました、「誰がわたしを罪に定めることができるのか?」さて、罪とは不信仰 のことです。「誰がわたしに指をさして非難できるか。いったい、わたしに関して書かれた聖書で、ひとつで もわたしが成就しなかったことがあるか」と。
24. 誰だって死にたくありません。誰も喪失を望みません。誰もが神のご臨在の中で生きたいと願います。わ たしだって、あなただって、みんなそうです。ですが、神が用意してくださった方法で神に近づきたくない のです。でも、そうすると別のところにたどり着いてしまいます。
25. 焦点がぼやけていると起こる現象です。レンジファインダーが必要です。わたしたちは、神を別のところ に遠ざけようとしたり、別の何かと取り違えたりします。多分レンジファインダーを使っていないからでしょ う。聖霊がわたしたちの考えや教会の神学を追い払って、代わりにレンジファインダーを用いて焦点を合わ せてくれますように。そうすれば三つも四つも見えたりせずに、おひとりの神を見ることができるでしょう。 わかりますか?
29. 銃を製造したウィンチェスター社が 25 ヤードで 1 インチの揺れがあると言ったのですが、わたしは 50 ヤードで9発命中させたのです。さあ、ここで考えました。妻は「ねえ、ビル、製造会社がそう言うのだ から、それが妥当なのでしょう。なぜそんなことにこだわるの・・・・」と言いました。
わたしは、「でも、 こうなんだ、会社がなんと言おうと、この目でみたんだ。あのライフルでできるってわかっているんだ」っ て言いました。
30. そして自然に声が耳に入ってきました。「あなたはわたしの目的のためにこのよう な性質なのだ」と。
あのライフルが一度ゼロに焦点が合ったのなら、同じライフルなのだから、またゼロに合うのはずなので す。それでわかったのです。
31. 教会がなんと言おうと、人がなんと言おうと、できるはずなのです。なぜなら・・・わたしが見たい ものは、使徒たちが見たのと同じビジョンです。そこに焦点を合わせたいのです。そうすれば、彼らと同じ 働きができるはずです。病いが癒され、死者が生き返り、悪霊が追い出されます。栄光の教会が生まれ、必 要が生じた時には、すすんで自らの血で証しをする人が現れるでしょう。あなたが何を見ているかにかかっ ています。
32. でも神が常に神であるなら、今でも神です。神はいつも神であったし、神以外のなにものにもならずにずっ と神です。神は永遠の神です。ですから、わたしは焦点をこの方に合わせます。教会が設定した標的ではなく、 キリストが設定した標的に焦点を合わせます。わたしたちはキリストが現れるのを待ち望んでいます。同じ イエスです。イエスは、「しばらくの間この世はわたしを見ないであろう。しかしあなたたちはわたしを見る。 わたしが世の終わりまであなたたちとともにいるからである。」と言われました。みことばを司る方、みこと ばである同じ方が、そして標的に向かって真っ直ぐにみことばを向けてこられる方、主イエスが、聖霊となって今この場所にいてくださり、わたしたちの思いをみことばに向けさせ、真理である生きた神に向けさせ、 ひとつの目的に、成就に向かわせてくださいます。もしイエスに委ねるなら、みことばに焦点を当ててくだ さいます。そしてイエスが過去も現在も未来も変わらないお方であることをはっきりとわからせてくださる はずです。あなたが何を見るかにかかっています。
33. (お お、まあ、)わたしが言ったことではなく、あなたが言ったことです。」 あなたとキリストが同じになるから、 キリストの思いがあなたの思いとなり、それがかなうのです。そして、キリストの思いは、父のみことばを 成就することでした。みことばは神でした。そうです。それであなたとみことばは、ともに焦点があうのです。 それであなたは生きた神と一致するのです。なんと素晴らしい。
34. さて、この深い谷間を渡ったとき、人は後戻りすることができませんでした。なぜなら、その谷は、人と 神を分ける淵でしたから。それで恵みとあわれみにあふれる神は、身代わりを用意されました。それは人の 身代わりとなって死ぬための羊、それといけにえの動物でした。「しかし牛や山羊の血は」、ヘブル書で先に 読んだように、「罪を取り除くことはできません。」ただ罪を覆うのです。それは神の怒りをなだめる効果が ありますが、罪を覆ったにすぎません。良心が語っていました。本当の血が現れて、罪をきれいに取り除き、 罪と決別させ、永遠に罪と関わりのないものとする、そのときを待ち望んでいるのだと。
35. 体はもちろんキリストのものでした。キリストは油注がれたお方という意味ですから、そしてキリストは 過去も現在も未来も変わらないお方ですから、今もキリストはみことばです。それでみことばは油注ぎなの です。「もしあなたがわたしのうちにおり、わたしのことばがあなたのうちにとどまっているなら、願うこと を言いなさい。」これは神のみことばで、油注がれたことばです。これによってかなえられるのです。
38. では、その目的が終わったとします。その一滴を風呂桶いっぱいのブリーチの中に落とします。何が起こ りますか? 色がもはや存在しなくなります。色は破壊されました。どこに行ってしまったかわかりません。 さてそれは元の酸に戻ったのです。水の記号は H2O です。ですから水に戻ったのです。それはブリーチの中 にあります。でもブリーチの中の化学物がそれを完全に破壊してシミが全く見えなくなり消滅しました。そ れは分解して元の酸に戻りました。酸はどこから来たのでしょう? それはたどっていくと分子に行きつき ます。分子は何ですか? 分子は原子からでき、原子は電子になり、などなど、続きます。
それについて考えてみましょう。黒インクが分子からできたとき、分子41に分子69を掛け合わせた時 に水素分子ができます。もし69の代わりに68を掛け合わせたらどうなるでしょう。黒の代わりにピンク になるのです。何かがそれを決定するのです。もしそれが原子4倍、6倍、11 倍だったら、・・・・もし 11 の代わりに6だったら、茶色になります。わかりますか?どこかで誰かが設計して色ができ上がっているの です。
39. それは元をたどれば創造主に行き当たります。
42. わたしにはできるはずです。わたしたちは神のことばに焦点を当てて生きていかなければいけません。写 真を撮るときに、カメラの焦点を調節するのと同じです。焦点が合えば、本物の写真が撮れます。それが欲 しいのです。わたしたちの人生の焦点をイエス・キリストに合わせるのです。そうするとキリストとあなた はひとりとなります。義なるイエス・キリストの血によって、神の子とされたのですから。
47. みことばをとらえたなら、それは生きたものとなります。それがみことばです。心と目が明確にみこ とばをとらえることができたら、神がなさっていることを正に把握するまで焦点を合わせられたら、なんと 素晴らしいことでしょう。アブラハムはそれを見ました。彼は約束を少しも誤解してとらえませんでした。 もし彼が見てから「わたしは 75 歳で、これこれの声がわたしに話しかけて、わたしが妻によって子どもを もうけると語ったんだ。妻は 65 歳で、15 年も 20 年も前に生理は止まっているのに。」と言ったなら、どう なっていたことでしょう。
でも実際のところ彼はどうしたでしょう。自分の状態に目を向けませんでした。彼は神が語られたことに 目を向けたのです。そのことばはとても現実的であったので、彼は神のことば以外のことには注意を向けな かったのです。彼は家を離れました。不信仰や足を引っ張ろうとするあらゆることから、身を離しました。 アブラハムは独りで歩くために、世間から離脱しました。
49. ノアの時代のように、この世の常識からかけ離れていたのです。 というのは、ノアの時代には、雨が存在していませんでした。でもノアは、神がそう言われたのだから、 天に雨が作られるのだとわかっていました。アブラハムには、自分の体が枯れ果てているのがわかっていま した。しかし自分の体のことを心配しませんでした。サラの妊娠能力のことも。彼は半分妹である若いサラ と結婚してずっと一緒に暮らしてきました。今や彼女は 90 歳です。そして彼も 100 歳になりました。しか しそんなことを気にしませんでした。そんなことを思い悩んだことは一度もありませんでした。なぜでしょう。 彼はすべての不信仰を追い払っていたからです。素晴らしい。
51. 神に焦点が合っているなら、自分が置かれている立場に確信があり ます。使徒たちのように、自分の人生が的を得ていることを悟ります。彼らと同じように生きているからです。 彼らと同じ洗礼を受けたので、彼らと同じ結果を得ます。同じ霊の働きがあるからです。あなたの焦点はぴっ たり合っています。会社がなんと言おうと、教団教派がなんと言おうと、あなたの焦点はぴったり合ってい るのです。的を得たことがその証拠です。アーメン。
何を見るかによって、自分の立場がわかります。誰か別の人に目を向けているなら、あなたは離れていき ます。微かな風が吹いても、標的から外れます。しかしあなたの焦点がピタッと決まったところで固定する なら、風なんかで的を外すことはありません。それで決まりです。押しとどめるものはありません。神が運 んで行って・・・
52. つまり、すべての罪のシミが洗い流された状態に到達したのです。それで子羊の血によって贖われたので、 あなたは罪を犯す前のアダムとなりました。神ご自身の血によって洗われた神の子です。
53. 神のいのちがあります。神の子として、神の血によって生まれたあなたは、・・・この聖書を書いたのと同 じ聖霊がこのことにあなたの目を向けてくださいます。教団教派や信条にはそのことができません。神ご自 身だけがあなたの目のカメラを固定させ、神を見て神の目的を知ることができるようにしてくださいます。 確かにそうです。
56. でもモーゼは窓から外を見て、それを信じました。なぜでしょう。モーゼは信仰の目で見たからです。そ のようにしてモーゼは見たのです。さて、注意を払って聞いてください。信仰を必ず持ってください。信仰 を持つと、神の御意志と望みがわかるようになるのです。もしあなたの持っている信仰で、みことばに集中 できないのなら、そんな信仰は捨ててください。それは間違った信仰です。でも、神に与えられた信仰があ なたを神のことばに注目させるなら、あなたは正しい位置に立っており、焦点がピタッとあっています。な んとまあ、神よ、今この時、この時代を生きるわたしたちを助けてください。信仰は神の望みを識るために 与えられました。どのようにして識るのでしょう。みことばのカメラのレンズをとおして神の約束を識るの です。これがイエス・キリストの完全な啓示です。
57. あなたは誰かの「そんなこと起こるはずがない」という言葉に耳を向けません。起こったとわかっている ことに目を向けるのです。的に注目するのです。当たった場所に注目するのです。一度当たったなら、神は 過去も現在も未来も変わらないお方です。信条だとかあなたを混乱させるものから目を離して、みことばに たち返りなさい。そして不信仰を告白して、聖霊があなたの目をまっすぐイエス・キリストに向けてくださ るよう委ねなさい。
58. 教会も、位置に着いています。否定できません。位置に着いて発射するでしょうが、標的を外すこと でしょう。キリストの再臨を待ち望む者だけが照準をピタリと合わせることができるのです。何を見ている かにかかっています。そうです。さて、信仰はこれをするためにあります。同じ信仰が同じものを見ます。
こんにちの教会の信仰は同じ神の計画を見るべきです。このことを聞き逃さないでください。神を求めるこ んにちの教会は、確かに神の計画を知るでしょう。なぜなら神の計画はここに青写真として書き記されてい るからです。そして聖霊は、信仰によってそれを読んで組み立ててくださいます。
60. モーゼはのちにこの偉大なことを見て悟りました。人々が困難に襲われた時、彼は何をしたでしょう。 彼は青銅の蛇を造って棒にかけました。そして不信仰によって蛇に噛まれた人がこの青銅の蛇を見上げるな ら、生きると言いました。考えてみてください。ただ来て見るだけ、しかも棒は荒野で採ってきた木で、多 分そこらに生えている雑木か何かだったでしょう。それが自然の成長から切り離されたので、命のない材木 でした。青銅は多分エジプト人のヘルメットか何かから廃品利用して造ったのでしょう。それを溶かしてつ なげて蛇を造りました。
63. 誰かが、「ブラナム兄弟、どのようにしてビジョンを見るのですか」と尋ねました。
64. わかりますか?自分を蚊帳の外に置かなければいけないのです。神は約束されました。神はその約 束を必ず果たされます。しかしあなたは単純に自分のやり方から身を引かなければなりません。誰かが、「こ の人は、もし我々の大学で博士号を取っていたのなら、偉大な人物になっていたことだろう」と言いましたが、 もし彼がそうしていたら、神との間にもうひとつ溝を作っていたことでしょう。
人類は月にメッセージを送ることができます。でも、足元の草について聞かれても説明できないのです。 神は単純さの中に隠れておられます。人は単純になりきれません。教育を受けると、偉くなって鼻が高くな ります。神は偉大なお方なので、ご自分を低くすることができ、罪人から隠れておられます。それでイエス は神に感謝して言いました、「あなたに感謝します、父よ、天地の創造主よ。このことを知者や賢者から隠し、 乳飲み子や子供のような者に明らかにされたからです。」
神を知るには単純になることです。
66. イスラエル人たちは青銅の蛇を見上げて言いました、「あの青銅の蛇は、罪がすでに裁かれたことを意味し ている。青銅は神の裁きが下り、神がわたしの罪を裁かれたことを示している。この青銅の蛇は、この後に 現れる何かを象徴していて、それは、わたしの罪がすでに裁かれて自由の身となったことを意味している。」 そして癒されたのです。そのとおりです。
68. イエスが地上に生まれたとき、その命を手放す必要はありませんでした。でも、すすんで命を投げ 出されました。神ですから死ぬ必要はなかったのにです。でも、すすんでご自分のいのちを与えられまし た。子孫を得るため、子孫をとおしてみ業を完成させるためです。「わたしの行うわざを行います。」(ヨハネ 14:12)もしそのようになり、あなたがイエスだけを見るなら、あなたのカメラは焦点があっており、神は あなたを用いることができます。確かです。
69. 何を見ていますか?「わたしはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドに属しています。」
「わたしはペンテコステ」
「わたしはメソジスト」
「わたしはバプテスト」
それではまだ標的から外れています。イエス・キリストに焦 点を当ててください。アーメン。そして返事を聞くのです、「あなたのおびただしい罪は、すべて赦された」と。
70. (録音の空白:編) それからわたしたちはイエスが来られるのを待ち望んでいます。それは必ず起こる・・・・ あなたは目的を持たなくてはいけません。目的が何かをはっきりわからなくてはなりません。
71. そこへイエスがやって来て、見ていました。そこでは何か超自然なことが起きるはずでした。そして超自 然が起こるとすぐに人々が殺到しました。こんにちの教会を見てください。神は、みことばを明らかにされ てそれを実証され、人々が超自然に目を向けるよう望まれます。でも人々は、それが教団に関連していない という理由で目を背けるのです。わかりますか?
72. 今でもなお、聖霊、神の超自然の力は、地上で働いておられ、いろいろなことを教えてくださっています。 しかし人々はそれに飛びつくのでなく、それから逃げています。みことばが肉となり、それが実証されてい るのに、神がなさったことをわたしたちもすると約束されたことが現実起こっているのに、自分たちのグルー プに提携していないという理由で、背を向けているのです。それが現実です。
73. イエスは霊に導かれてその病院に行きました。そこで彼は用意のできたひとりの男を見つけました。イエ スはその男に話しかけ、その男の秘密を明らかにしました。・・・彼は歩けなかったわけではないようでした。 誰かが彼をたたいて走らせることができました。というのは、「わたしが行くうちに、ほかの人が先に行くの です。」と、彼が言いましたから。目が見えないわけでもなく、耳が聞こえないわけでもなく、喋れないわけ でもなかったのです。身体障害というよりは、何かの病気にかかっていたのです。死に至る病でもなかった ので、38 年も彼はそこに横たわっていました。彼が降りていこうとすると、誰かが先に降りていくので、天 使の力に触れることができませんでした。
74. イエスにボロ切れで目隠しをして、イエスの頭を棒で叩き、手から手へ棒を持ち替えて、「さあ、誰が叩いたか当てたら、あん たが預言者だと信じよう。」と言った老いぼれ悪魔と同じだと気づきませんか。
天地が始まる前から、イエスは誰の手に棒があったかをご存知です。イエスは誰のための道化にもならず、 ただ神が望まれていることだけをされました。教会も同じようにするはずです。わかりますか? しかし、彼らは何かを待ち望んでいました。
75. ここにいるウィリアム兄弟の息子がそうです。彼は聖霊に満ちた家庭に育ちました。父親にうながされて ある集会に参加したとき、この若い青年は神の手による超自然が行われているのを目の当たりにし、その場 でクリスチャンになりました。彼はキリストを受け入れる準備が整っていたのです。水が動くのを見たから です。彼は超自然な何かがあることを知っていました。
76. さて、もしそれがいつでも起こるわけではなく、それでも屋根の上で飛び跳ねているのだとしたら、「この 教会は冷めてしまったから、他に移ろうか」と思うかもしれません。でもそれは馬鹿らしい考えです。わた したちは本当に待つのが苦手です。アブラハムは神が冷めてしまったとは考えませんでした。彼は 25 年待っ て神の手が動くのを見ました。
彼らは羊の門で何ヶ月も待ちました。なんであろうと超自然の動きが起こるのを待っていたのです。彼ら は待ち望んでいました。
77. 教団組織は拡張して道を外してしまいました。もっと大きな教会や、高度なクラスや、高教育の説教 師などを得ようと争っています。それで何を得ましたか?神が「見よ」と言われたことからはるかに外れて しまいました。何を見ていますか? 見て、いのちを得よ。いのちを望むなら、そうすべきです。
他の人は笑うかもしれません、「あの転がる聖人の連中がプールの周りにたむろしている。あの連中が言っ ているのはただの風のことじゃないか。風が吹いて水が動いているのだ。」彼らにはわかりませんでした。そ れは哀れみの天使、癒しの天使だったのです。わたしはそれが天使だったと信じます。
単純だと思うかもし れませんが、神は単純さの中に隠れておられます。
78. 「あの異言を語っている人たちは、ただ早口にペチャクチャ言ってるだけで、何だか・・・ただの思考、た だ興奮しているだけじゃないのか。」そう言う人もいます。そう言う人にとってはそうでしょう。でも聖霊の 経験をした人にとっては別です。そうです。別です。
「今では、あんなのは時代が違って・・・・人々はそんなの信じないだろう。」そんなことを言う人がいても、 神の本物の働きを止めることはできません。イエスは不信仰のど真ん中に来られましたが、不信仰が彼の働 きを止めることはありませんでした。彼は進み続けました。
79. 同様にこの人たちも、原子について説明できませんし、原子の中に幾つ分子がいるかわかっていませんが、 聖霊を受けたことはわかっています。なぜなら、彼らは神のことばにぴったり焦点があったからです。ペト ロは五旬節の時に、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの 名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言いました。告白 した罪が神の血の中に落とされると、血が罪を赦免し、その人は神の子として立ち上がるのです。アーメン。
80. すると、神の御意志がわかるようになるのです。何か超自然的な方法により、あなたのうちの何かが 反応して、「ここそこに行ってそれをしなさい。ここそこに下って行ってそれをしなさい。」といった声が聞 こえるのです。わかりますか、あなたのうちの何かがいつもねらいに的中するのです。なんと素晴らしい。
もう遅くなってきたので終わりにしなければなりません。もうちょっと時間をください。
82. わたしたちは終わりの時代を生きています。わたしはイエスが来られるのを待ち望んでいます。イ エスは来られると信じています。アブラハムのように、約束が長引いてもイエスを愛する思いは強くなって いき、日々自分の思いをイエスに伝えています。イエスを信じるみなさんも同様のことと思います。
「ああ、 あなたは時代遅れだ、あなたはこうすべきだ」などと、他人が何を言おうと、動揺しません。神を信じます。 みことばに心を集中させます。それが真理であることを知っているからです。今まで誰もわたしを動揺させ た人はいません。神がわたしの心をみことばに直結させてくださっている限り、わたしはそこにとどまります。 アーメン。
83. 年半の間、雨はおろか、雲や露一滴さえも降りませんでした。それでも「行って確かめよ」と言ったのです。 ゲハジは立って、目を凝らして見ましたが、何も見えませんでした。彼は戻ってきて「何も見えませんでした」 と報告しました。「もう一度戻りなさい。(アーメン)戻って何か見えるまでとどまりなさい。」
84. そして「もう一度確かめてきなさい」と言いました。アーメン。彼は何をしていたのでしょう。どれほど空 が鉛のようであっても、どれほど神の裁きが厳しいものであっても、神が約束を果たされるのを期待してい たのです。そうです。
いつか誰かが言いました、「ブラナム兄弟、あなたは信じているのですか?教団組織をあんなに激しく非難 していますが、なぜそうするのです?」
わたしは答えました、「教団組織にいる兄弟たちを非難しているので はありません。組織という存在を非難しているのです。」
それは弟子たちがイエスの遺体に香油を塗って包んでいたときのようです。遺体は腐敗し始めていました、 そうです、ひどい腐敗臭が漂っていました。それでも彼らはとどまっていました。
87. わたしたちは主が来られるのを待ち望んでします。終わりの日の聖霊の注ぎを待ち望んでいます。しるし と不思議を見ています。今起こっていることを視ています。わかりますか?あなたには見えていますか?あ なたは何を見ていますか?神が言われたとおりのことが今起こっています。あなたの信仰がそれをとらえて、「私もそれが欲しい。」と言えるように。
88. もしあなたが今まだ聖霊を受けていないのなら、もし初めの小さなお知らせ音が、「これは真理である。あ の人はみことばを語っている。それは真実である。」と言うのを聞いたなら、急いで飛びつきなさい。待つ必 要はありません。あなたは何を見ていますか?何を待っていますか? 時は思っているより、遅い時刻になっ ています。それに向かってできるだけ早く飛びつきなさい。なぜ?エリヤが微動を見たとき、それは祈りの 答えの証拠だったからです。
90. 神よ、もしわたしたちがみことばの約束に目を向けることができたなら。キリストは約束されました、。「二 人か三人がわたしの名によって集まるなら、わたしもその中にいる。何でも願うことはかなえられるであろ う。」そのことがわかったなら、初めの微動が起こった時それに飛びつくのです。モタモタしていてはいませ ん。何を期待して待っているのですか。
神はあなたの祈りを聞いて、答えをあなたの周りに置いてくださいます。するとあなたは「ちょっと待てよ、 誰々はなんと言うだろうか。」などど言わないでください。周囲ではなく、キリストを見てください。キリス トが語ったことばに目をとめてください。「二人か三人がわたしの名前によって集まるところにわたしもいる。 彼らのまん中にいる。願いを言いなさい。それはかなえられる。」なんという約束を神はしてくださったので しょう。
ヨナは、疑いを起こさせるようなものは一切、目にとめようとしませんでした。
92. ヨブは自分が罪びとではないとわかっていました。神に要求されたことを忠実に行なっていたからです。 全焼のいけにえを捧げることが、神から求められたすべてでした。ですから、ヨブは忠実に全焼のいけにえ を捧げていたのです。
神は、ただみことばを信じることを、あなたに求めておられます。神のことばです。アー メン。何々主義や信条やらを求めてはおられません。神を信じることが、神からの要求です。「わたしを信じ る者は、」アーメン。アーメン。「わたしを信じる者は、わたしがする業をおこなう・・・」世の終わりまで 神に目を注いで、いのちを得なさい。イエスは過去も現在も未来も変わらないお方です。アーメン。アーメン。 そのとおり。他のことに期待をかけないでください。
93. 「愚かなことを言うな。主は与え、主は取り去り給う。主 の御名は褒め称えられるべきかな。」と、言い返しました。
その頃だったと思います。彼が断固としてしてみことばから離れないでいたとき、稲妻が光り、雷がとど ろきました。この預言者は空に目を向けて言いました。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておら れ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰 ぎ見るであろう。」
94. 神が人々を試すのには理由があります。何もかも根拠があっ て起こりました。今でも同じです。神はしるしと不思議と真理の福音を人々に送られます。そして人々に判 断を任せられました。真理より教会信条を守る者、聖書に矛盾していることがわかっていながらこれこれを 拒否し、これこれを受け入れる者。しかし神は試されているのです。そして裁きの日には申し開きすること ができません。
96. ヨハネ 6 章では、彼らが聖餐式か何か、パンを割いて 解放の喜びを味わって素晴らしい時を過ごしていたとき、イエスがこう言ったと記されています。「わたし が、天の神のもとから下って来たいのちのパンです。わたしの肉を食べる者は永遠のいのちを持っています。 そして終わりの日に、わたしはその人をよみがえらせます。」彼はそのとおりになることを知っておられま した。彼はご自分がいのちのパンであると言われました。
97. イエスは「アブラハムが存在する前、すでにわたしは存在している。」と言われました。アーメン。
「わたしはある」というのはいったい何でしょう。モーゼが見た燃える芝です。彼は生涯それを見続けま した。そしてそれが彼を約束の地に導きました。同じ光が今ここに下ってきて、ここに立っておられます。 キリストは、「わたしはアブラハムが生まれる前から存在する。わたしは燃える芝である。わたしは火の柱 である。わたしは光の天使である。わたしは神から出て神に戻る。」と言われました。
98. 「主よ、ああなたは誰ですか?」
「わたしはイエスである」
燃える芝で現れた同じ光が、神からきた同じ光が、神のもとに戻りました。同じ光がわたしたちの間に現 れた写真がここにあります。
99. 何を見ていますか。何を待っているのですか。もうその時です。水は動いています。行動してください。 終わりの日のしるしが現れています。「夕べになっても光がある。」そのとおり。ヘイウッドが言いました。
「栄光の道をあなたは見つける。」そのとおり。この終わりの日にあなたは見つけるでしょう。
100. このフィルム、水曜日の夜の集会でアウトロー兄弟に持ってきたものですが、エルサレムを題材にした 映画で、「真夜中まで 3 分」というタイトルです。科学者の言葉からとったタイトルです。聖書でイエスは言っています。「いちじくの木や他の木々が芽吹いたなら・・・・」イスラエルは国家として復帰しました。イス ラエルは今や国家です。他の木も芽吹いています。メソジストも、バプテストも、カトリックも他の教団も 出てきています。ペンテコステ派はオラル・ロバートによって、その他の教団もリバイバルが起こって枝を 伸ばしています。「そのとき時間が迫っていることを知りなさい。これらのことがすべて成就するまでこの時 代は過ぎ去りません。」
101. こんにちの教会を見てください。混沌として、ごたまぜになっています。教会は望んでいます、「彼らより もっと多く得たか?彼らより良いものを得るべきだ。わたしたちはこれ、それ、あれ・・」
102. ロミオとジュリエットの本に出てくるように、彼がハシゴを使ってやってきて、乙女たちの中から 花嫁を連れ去るのです。イエスはやって来て、教会信条に目を向ける人ではなく、キリストに目を向ける人、 キリストを待ち望む人、キリストを心の中心におく人を探し出します。彼らは、イサクとレベッカのように、 血で結ばれています。血のつながりがあるのです。わたしたちもそうならなくてはなりません。キリストと、 血のつながりを持つのです。いけにえを捧げてわたしたちの罪がイエスの血によって消滅することによって。 どこかの教会が言うことではなく、誰かが言うことではなく、血が成し遂げられたことによって、そしてそ れが実証されたことによって。みことばに従って、キリストがしたのと同じ働きをし、同じ奉仕をすること によって。アーメン。
104. 聖霊がわたしたちのところに降りてこられた・・・ちょっと前にアウトロー兄弟とそこにいて、病 気や問題のある人々の注目を聖霊に向けていました。もうすでに解決しているはずです。聖霊はそれぞれに 起こったことを見せてくださいましたから。それは何ですか。聖霊です。イエス・キリストは過去も現在も 未来も変わらないお方です。何を待っているのですか。水が騒ぎ立つのをですか?それはすでに起こりました。 間もなく天使は去っていき、力は消え失せます。そうなったらもう救いはありません。暗闇に取り残される だけです。
105. 法廷でわたしは言いました、「あなたにはこの少年の命を奪う権利はありません。世界で初めて血が流され たのは、兄が弟の血を流したときです。彼は弟の血を流しましたが、神は彼の命を奪うという最高刑罰を与 えませんでした。神は彼の上に印を置き、誰にも彼を殺させませんでした。その印を擦り落としてはいけま せん。」アーメン。アーメン。いのち。わたしたちはいのちに関心があるのです。
106. そしてドアを開けて「夫人よ、知事があなたに会うそ うです。」と言いました。
かわいそうな母親はひざまづいて知事の膝に手を置き、「知事さま、貴いお方よ、 あなただけがわたしの息子を助けることのできる最後の方です。どうか、彼が有罪なのは確かです。彼は有 罪です。裁判所は彼を有罪としています。」さて、神の法廷で無罪と言える人がどれほどいるでしょうか。「裁 判所は彼を有罪としました。彼は実際に殺人を犯したのですから、死刑を受けても仕方ありません。それは わかっています。でも、恐れながら言いますが、人としてあなたにはわたしの息子の命を奪う権利がないの です。神だけがいのちを与え、いのちを奪うことができます。だからお願いします。死刑にしないでください。 母親の心の限りを尽くしておねがいします。」と言いました。知事は彼女を去らせた後、彼女の嘆願に心が痛 んだので、その少年のいる牢屋に自ら降りて行きました。
107. 「息子よ、わたしはあなたを助けたいのだ。」
「出て行けと言っただろう、出て行け。」
このように人々は聖霊を扱うのです。そうです。「出て行け。わたしは関わりたくない。」そしてドアを叩く のです。「もし耳をかしたら、カードパーティを諦めなければならないし、これもあれを諦めなければならな いし、教会信条から離れなければならないし、それに・・・」わかりますか?あなたは耳を傾けるべきです。 彼が唯一、赦免できるお方なのです。そうです。あなたは何を見ていますか。
108. 知事は出来る限りの事をしました。少年に話しかけようとしたのです。しかし彼は「お前が出て行かないなら、 ここから投げ出すぞ。」と言いました。
それで知事は「よろしい。息子よ、わたしはできる限りの事はしたのだ。」 と言って出て行きました。
109. 「いや、まったく聞こうとしなかったよ。」と知事が答えました。
それを聞いた少年は跳び上がって、格子をつかみ、聞きました、「誰だったって?」
「あれは知事だよ。おまえを赦免するために来たのだ。」
すでに遅しでした。少年は金切り声をあげて叫びました。「考えても見ろ、知事がこんなところまでやって 来て、赦免しようとしてくれたのに、拒絶してしまったなんて。」
それから、首の周りにロープが巻かれ、黒いマスクを被せられ、13 段の階段を上り、彼は最後の言葉を残 しました、「考えても見ろ、知事がこんなところまでやって来て、赦免しようとしてくれたのに、拒絶して しまったなんて。」そして息絶えました。
110. 古い歌にあるように・・・
国々は没落し
(今何時か見よ)
イスラエルは覚醒し
聖書が予告したしるし
異邦人の時の幕切れが迫り
恐怖が邪魔をする
戻って来い。四方に散らされたものよ。
贖いの日は近い
人の心は恐れで崩折れんばかり
御霊に満たされよ。
ともし火の手入れをせよ。(何?)
見上げよ。あなたの贖いは間近だ。
(そのとおり)
偽預言者がうそぶく。
神の真理を否定する
イエスキリストは我らの神
(そのとおり)
この時代は
神の啓示をかき混ぜる
しかし我らは使徒の歩んだ道を歩く
贖いの日は近い
人の心は恐れで崩折れんばかり
聖霊に満たされよ。
ともしびの手入れをせよ。
見上げよ。
あなたの贖いは間近だ。
111. 見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
今何を見ているのか
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得るのです
信じますか?さあ、みんなで歌いましょう。
これ知ってますか?
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
112. 見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
113. もしまだ受けていないのなら、友よ、神に向かって両手を上げて言いなさい、「ブラナム兄弟よ、祈ってくだ さい。」神の祝福があなたに、あなたに、あなたに、神の祝福があなたに、あなたに、あなたに、素晴らしい。 そうです。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
115. 見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
(誰か他の人?)
聖書に記されているとおり、ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ見て、
いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
女性方どうしたのですか。男性だけ?ほとんど見えません。今は真剣な時間です。そうです。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
(誰か他の人?)
聖書に記されているとおり、ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ・・・
116. 今わたしたちは別の考えを持っています。あらゆることを変更しています。でもそういうことに目を向け てはいけません。彼らがしていることに目を向けてはいけません。神が語られたことに目を向けなさい。聖 書に目を向けるのです。見て、命を得なさい。兄弟よ。それが唯一の道です。姉妹もです。この経験をまだ していないのなら、神ご自身が証明した聖書そのものであることがわかっているなら、この機会を逃しては いけません。何を見ているのですか。
117. 今、もし微かにあなたの心に触れ、こういう声が聞こえたら、「わたしもそれが欲しい。」それはあの小さ なしるし、人の手の雲です。さあ、いらっしゃい。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
さあ、頭を下げましょう。
118. (兄弟のためにに祈っている) 教会のすべての皆さん、頭を下げて祈りましょう。この兄弟たちは祈っています。だからみんなも、彼ら の上に手を置いて祈りましょう。もう一人いました。
120. わたしが受けたのもそのとおりです。わたしは出て行って言いました、「主なる神よ、わたしは本当に真剣 です。全身全霊で本当です。これは生か死かの問題です。わたしは死にたくありません。生きたいのです。 天国に行きたいのです。そしてあなたは約束されました。」わたしはそれまで聖霊降臨という言葉を聞いたことがありませんでした。しかしこう言いました、「聖書に書いてある要求によれば、まず悔い改めよとありま すから、悔い改めました。それからイエスキリストの御名によって洗礼を受けました。主よ、あなたは聖霊 をわたしに約束してくださいました。あなたは確かに約束してくださいました。」
122. 見て、いのちを得よ、兄弟たちよ、いのちを得よ、
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ 見て、いのちを得よ、
・・・そして病気のあなたたち、同じように見なさい。イエスを見なさい。イエスを見ていのちを得よ
そうです。青銅の蛇のように。蛇自体には力はありませんでしたが、彼らが何を見ているかが大切だった のです。神の約束が言っています、「彼らが病人の上に手を置けば、彼らは癒される。」わたしは彼の上に手 を置きますが、それは青銅の蛇のように代理です。彼らがイエスに目を注ぎますように。神の怒りを鎮める ために死なれたお方に。私たちの病が癒されるために、罪が赦されるために死なれたお方に目を注ぎますよ うに。神の力が降って、皆の病を直してください。イエスキリスト、神の子の御名によって。アーメン。
赤ちゃんですか?
123. 見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
(どのようにして?)
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり・・・
(覚えていますか、兄弟・・・)
こんにちの教会の状態を知っているでしょう。わたしたちは諦めてしまうのが早いのです。エリヤはそこに とどまって、何かが起こるまで祈って、祈って、祈りました。そして心の中で何かがチリリと鳴ったのを感 じたとき、こう言いました、「大雨の音が聞こえる。」もしここにいる男性女性が、聖霊を求めているなら、 癒しを求めているるなら、こう言うのです、「主よ、あなたは約束されました。あなたはそれを約束されたの です。」それから何かを微かに感じたなら、「主よ、来ました。わたしは受け取ります。」と言うのです。すると何かが起こります。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ・・・
両手を上げて、さあ、望んでいるものを受け取るのです。主はここに、牢獄に、あなたと共におられます。ハレルヤ!