1. 遅れてしまって申し訳ありません。ですが、後ろの方に病人の方々がおられ、車の中にも、救急車のようなものの中にもおられました。それで、ここに入って来ることのできなかった方々を、私が先に見てあげなければなりませんでした。分かりますね。ですから、私が中に入る前に、そういう方々に対応しなければならなかったのです。
2. 主の御心なら、私は今晩もまた説教したいと思っています。もしその姉妹が、その献児式のために戻って来ることができないのであれば、今回はもうずいぶん長く立っていただいていますから、赤ちゃんを今連れて来てもよいと伝えてください。
けれども、もし今晩戻って来られるなら、その方が私たちにとっては少し都合がよいでしょう。とはいえ、その姉妹ができる通りで結構です。どちらでも構いません。
もし戻って来られないのであれば、今その小さな子を連れて来て、献児式をしましょう。
それでは、これらの……。私が話している間に、もしその姉妹が今来たいのであれば、今がその時です。
3. 主の御心なら、今晩その主題でお話ししたいのです。
「これはその時なのでしょうか、兄弟?」――いえ、むしろ「兄弟、これはその時なのでしょうか?」です。
そして、この教会の皆さんの前で、この機会を用いたいと思います。というのは、この数日の間に多くのことが起こり、私には理解できない、何か大きな事柄を指し示しているように思えるのです。
けれども、私たちはいつもそうです。神の道は、人には探り尽くすことができません。ですから、私たちはただ信仰によって歩まなければなりません。もし誰かが神を説明し尽くすことができるなら、その時にはもう信仰は必要なくなってしまいます。なぜなら、その人は知っていることになるからです。けれども、私たちはただ信仰によって歩むのです。
そして今朝は、普通の伝道集会のようにしようと思いました。というのは……ここに降りて来て、これほど多くの方々が立っておられ、長い間待っておられるのを見てから、少し考えが変わったのです。
それで今晩は、もしかすると今より人数が少なくなるかもしれませんから、その時に、私が語りたいと思っていることを続けて語ることができるでしょう。
4. この二週間ほど、発表するのを控えていたことなのですが、私が政府との間で抱えていた税金の件について、皆さんのお祈りが答えられました。解決しました。
ですから、私たちは……もうすべて終わったのです。
多くの方はご存じの通り、彼らが私に対して問題にしていたのは、集会活動のために振り出された小切手のことでした。それにもかかわらず、彼らはそれを私個人のものだと言おうとして、三十五万数千ドルもの金額を、私の個人資産として課そうとしたのです。
しかし、それはそうではありませんでした。それは集会活動のためのものでした。
この教会はそのことを知っています。皆さんもみな、ご存じです。
5. この件は、だいたい三年から五年ほど、ほとんど五年近く続いていたと思います。その間、行ったり来たりで、私の人格のことまで、いろいろ調べられました。
けれども、私は本当に感謝しています。彼らは私に対して何も見つけることができませんでした。ですから、そのことで私を起訴することはできなかったのです。起訴されるようなものは何もありませんでした。
ただ彼らが言ったのは、たぶん私自身の無知のせいだ、ということだけでした。私は法律のことをあまりよく知りませんでしたので、人々が小切手を持って来ると、私はそれに署名し、自分の名前を書いて、それを集会活動のために入れていたのです。
しかし、私が自分の名前を書いた以上、それは私のものになる、というのです。分かりますか。
どんな目的のために指定されていたとしても、彼らはこう言いました。
「そのように扱おうとされたお気持ちは結構ですが、それらはあなたのものでした。そしてあなたがそれを教会に献げたことになります。しかし、あなたがそこに名前を書いた時点で、それはあなたのものになったのです。それが何のために指定されていたとしても関係ありません。それらはあなた宛てに書かれていたのです。」
ですから、もし誰かがそこに「個人的な贈り物」とでも書いてくれていたなら、それで問題はなかったのでしょう。けれども、ただ「ウィリアム・ブラナム」と書かれていただけでした。分かりますね。それで私が自分の名前を書いた時点で、それが決定的になってしまったのです。全部そうなってしまったのです。
それで彼らは……。そしてついに、祈りによって……。
6. 私はそのような小さなナイフを一つ持っているだけでした。そしてその男には「アメリカ合衆国政府」と書かれていました。私は何もすることができませんでした。まったく無力でした。
すると、主がその場に現れてくださり、それは打ち勝たれたのです。ずっと前に私が皆さんにそのことをお話ししたのを、覚えておられるでしょう。
そして先日、彼らは和解案を提示してきました。
ニューオールバニーの私の弁護士、オービソン氏と、インディアナポリスでこの税金の件を担当していたアイゼン・ミラー氏が、私に電話をしてきて、「こちらへ来てください」と言いました。
それで私は行きました。ロバーソン兄弟と私、そして私の妻、この教会の理事たち、私たち皆で行きました。
そこで彼らは、政府が和解する意思がある、と私たちに告げたのです。
7. 「もし私が誰かに何か借りがあるなら、私は払います。できる限りのことをします。しかし」と私は言いました。「私はそれを負ってはいません。」
そしてこう言いました。
「正直なところ、神がご存じです。もし私に罪があるのなら、なぜ彼らは私を起訴しないのですか。彼らには、それをしようとするのに五年もあったのです。けれども、それをするための材料を何も見つけることができなかったのです。」
ですから私は言いました。
「いいえ、私がそれを負っていると証明されるまでは、私は払うつもりはありません。」
すると弁護士が私を中へ連れて行き、私に話してこう言いました。
「さて、私たちはこの件を裁判で争うことはできます。政府も裁判に持ち込むでしょう。」
そして彼は言いました。
「その時、彼らがあなたに対して見つけられる唯一のことは、あなたが……」
8. そして、それは決して私の名前で銀行に預けられたことはありませんでした。いつも教会の名義、集会活動の名義、そういった名義で預けられていました。分かりますね。ですから、その点については、私にどうすることもできなかったのです。
すると彼は言いました。
『まあ、彼らは一万五千ドルで和解する意思があります。ただし、罰金が一万ドルです。』
そして弁護士費用が一万五千ドルでした。それで合計四万ドルになりました。
それからさらに五千ドルほど必要だと言うのです。今はそういうことだと思います。
それで私は言いました。
『いったいこの世のどこから、私が四万ドルものお金を手に入れられるというのですか。私の銀行口座をご存じでしょう。百ドルほど、あるいはそれ以下しか入っていません。どこから四万数千ドルものお金を用意できるというのですか。』
そして私は言いました。
『担保にできるものも何もありません。私にはそれがないのです。ただ、それだけです。』」
9. 「ブラナムさん、こういうことなのです。もし私たちがこの件を裁判で争えば、間違いなく勝つことはできます。」
彼は言いました。
「勝つことはできます。なぜなら、私ならこうするからです。彼らは、あなたがそこに自分の名前を署名したのだから、それはすべてあなたのものだと主張するでしょう。そして、それはあなたのものだと言うでしょう。たとえそれが、集会活動の名義、教会の名義、ブラナム・キャンペーンの名義、また教会の中で銀行に預けられていたとしても、です。」
けれども彼らは、一度たりとも、私が自分自身のために使った一セントすら見つけることができませんでした。
それは真実です。神がご存じです。今ここに座っている方々の中にも、ずっと私と共にいてくださった人たちがいます。
私が自分のために使ったお金は、一セントもありませんでした。すべて神の御国のためでした。どこにおいても、すべての小切手も、その他のすべても、そうだったのです。
10. そして彼らには、そのように処理する方法があるのです。ご存じのように、彼らはいろいろな抜け道を作ることができます。
それで私は言いました。
「それなら、私はしません。」
すると彼は言いました。
「もし私たちがその方法でこの件に勝つなら、私はそれらを個人的な贈り物として申告することになります。分かりますか。政府に対して、それを個人的な贈り物だと申告するのです。
しかし、そうすると、一万ドルを超える分は相続扱いになります。そしてあなたは、また同じところに戻ってしまいます。彼らはそれらをすべて調べるために、さらに五年間あなたを縛り続けることになるでしょう。」
11. それで彼らは言いました。
「そこから、彼らはまたあなたを同じところへ引き戻してくるのです。」
そして彼は言いました。
「もう一つ、ブラナムさん。もしあなたがこのような形で政府に呼び出され、調査を受けることになれば、あなたが実際に何をしたかに関係なく、世間の目にはあなたは悪者に見えてしまうのです。」
分かりますか。ですが、それだけのことです。
12. その小さな兄弟について、ある女性が「彼が入って来て、自分を侮辱した」と言ったのです。
しかしその人は、国内のあちこちから証拠を集めて提出しました。その日より何日も前から、またその翌日も、彼はその町の近くにさえいなかったのです。
それほど明らかだったので、裁判官は逆に、その女性を名誉毀損で訴えさせたいと思ったほどでした。
けれども彼は言いました。
「彼女をそのまま行かせてあげてください。」
そしてそのことが全国的な世論調査にかけられた時、何が起こったか分かりますか。
アメリカ国民の七十五パーセントがこう言ったのです。
「火のない所に煙は立たない。」
そして、そのかわいそうな小さな兄弟は、私や誰であってもそうであるように、まったく潔白だったにもかかわらず、生涯その重荷を背負って働かなければならなくなるのです。彼はその件に、まったく何の関係もなかったのにです。
13. 自分の人生を神の御国のためにささげ、人々に税金を納め、正しいことをし、正しく歩むように教え、曲がった人たちがまっすぐな人になるよう努めてきたのに、まるで私自身が悪者であるかのように扱われなければならなかったからです。
私は思いました。
「いったい私は何をしたというのだろう。」
すると、そのことが私の心に浮かび、私は聖書を見ました。聖書の中で、霊的な職務を持っていた人は、例外なく、もしサタンが道徳的な面や何かで彼らを捕らえることができなければ、政府が彼らを捕らえたのです。
どこを振り返ってもそうです。ずっと見ていってください。モーセ、ダニエル、ヘブルの子どもたち、バプテスマのヨハネ、イエス・キリスト――政府による死刑で死なれました――パウロ、ペテロ、大ヤコブ、小ヤコブ、その一人ひとりが政府のもとで死にました。
なぜなら、それは……すべての政府はサタンの座だからです。イエスはそう言われました。聖書もそう言っています。分かりますね。
14. キリストによって支配される政府が来ます。しかし、それは至福千年においてです。
けれども、今のこれらの政府は、私たちがどれほど良いものだと思っていたとしても、その背後ではサタンに支配されているのです。
彼は言いました。
「これらの王国は私のものだ。私はそれらを思いのままにする。もし私を拝むなら、これらをあなたに与えよう。」
イエスは言われました。
「退け、サタン。あなたは主なるあなたの神を礼拝し、ただ神にのみ仕えなければならない。」
15. 「いや、だめだ。もし私がそれを負っているのなら払う。だが、私はそれを負っていない。だから私は払わない。それだけだ。」
そして言いました。
「それに、どうやって払えるというのだ。」
それで家に帰って、私は言いました。
「メダ、子どもたちの顔を洗って、服を用意してくれ。私は出て行く。」
私は言いました。
「彼らは……もう何もかも、すっかりめちゃくちゃだ。」
そして言いました。
「私は何をしたというんだ。教えてくれ。」
さらに言いました。
「それなのに、私に四万ドルだって? ふう……。それが私にとってどういう意味か、あなたには分からないよ。」
すると彼女は、良い小さな妻らしく入って来ました。私は言いました。
「私は出て行く。」
彼女は言いました。
「それで何か良くなると思うの? もうそのことについて祈ったの?」
16. 「そうだな。もう一度祈った方がよいかもしれない。」
それで、私はまた奥へ戻って行きました。すると、主が一つの聖句を私に語ってくださったように思えました。
私たちはいつも、聖書を見なければなりません。神がそのことについて何をされたのかを見るのです。分かりますね。
ある日、主に質問がなされました。ご存じのように、彼らは主を政府に訴えようとしていたのです。
彼らは言いました。
「私たち自由なユダヤ人が、カイザルに貢ぎ、つまり税を納めるのは正しいことですか。」
主は言われました。
「あなたがたは一枚の硬貨を持っていますか。」
そして言われました。
「そこには誰の銘と肖像がありますか。」
彼らは言いました。
「カイザルのものです。」
すると主は言われました。
「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」
17. 私は思いました。
「本当に、主よ、その通りです。けれども、これはカイザルのものではありません。これはあなたのものです。カイザルのものではありません。もしこれが私のもので、私がもっと税金か何かを払わなければならないというのであれば、それはまた別の話でしょう。それはカイザルに属するものです。しかし、これはあなたのものです。分かりますね。そもそも初めからカイザルのものではなかったのです。」
ご存じのように、主はいつも御言葉の中に答えを持っておられます。
私はもう少し先を読みました。すると主は言われました。
「シモン、あなたはポケットに釣り針を持っていないか。分かるかい。あなたはいつも小さな釣り針と糸を持っているだろう。私は今朝、あそこの川にある魚の銀行に預け入れをしておいたのだ。」
そして言われました。
「私は預け入れをしておいた。だから、その銀行員は、自分が持っているものを必ず差し出すだろう。ただ、あそこへ行って、釣り針を川に投げ入れなさい。そして岸に上げたら、その口を開けなさい。分かりますね。すると、その魚は硬貨を出すでしょう。彼らにつまずきを与えないようにしよう。彼らの妨げにならないようにしよう。分かりますね。行ってそれを払いなさい、シモン。それは私とあなたの分になる。」
私は思いました。
「その通りです、神よ。あなたは国中に、魚の銀行も、その他のすべても持っておられます。私はそれがどのようになされるのか分かりません。」
18. それで私は借用証書を出し、四万ドルを借りて、それを支払ったのです。
家に帰ってから、私はその小切手をどのように書けば、彼らが二度と私を追及してこないか知りたいと思いました。それで私はこう書きました。
「これは、私がすべての税金から解放されたことを示すものです。」
その小切手に裏書きする人は、その後、大変なことになるでしょう。
私は銀行に何度も電話をして、それを処理してくれるかどうか確認していました。そしてついにボブが私に言いました。
「ビリー、彼らは処理しましたよ。」
それで私は家に入り、妻に腕を回して言いました。
「ハニー、私は自由だ!」
自由であるというのは、何という気持ちでしょう。
それで今、私はそれを返していくことができます。彼らは私にとって、とても返しやすい形にしてくれました。年に四千ドルずつ返せばよいのです。
ですから皆さん、もう私はのんびりしているわけにはいきません。出て行って働かなければなりません。
そうすると、それを返すのに十年かかることになります――イエス様が来られなければ、ですが。そして主が来られる時には、いずれにせよすべての負債はその時に清算されます。分かりますね。
ですから、皆さん……皆さんのお祈りが――そして今晩は、そのことに少し関係することを続けてお話ししますが――皆さんのお祈りが、私を助けてくださったのです。
本当にありがとうございます。神が皆さんを祝福してくださいますように。
私たちがこれからどこに行くことがあっても、私はそのことを決して忘れません。
19. さあ、覚えておいてください。
「皆さん、今は何時なのでしょうか?」
さて、私たちはこれから……。今週の残りは、予定がびっしり入っていると思います。今日の礼拝、今晩、そして月曜日です。
月曜日の夜は、年越しの徹夜礼拝です。そうすれば、火曜日の元日には、遠くから来ておられる方々も家へ帰ることができます。
その集会には、すばらしい奉仕者たち、立派な講師の方々が大勢来てくださることになっています。そして皆が、夜中の十二時まで、交代で語ってくださるでしょう。
時には、その時にコミュニオンを取ることもあります。今回はそうするのかどうか、私は分かりませんが、もし予定に入っているなら、まさにその時に行います。
世の人々が大声で騒ぎ、叫び、銃を撃ち、酒を飲み、いろいろなことをしているその時に、私たちはコミュニオンを取るのです。アーメン。
新しい年を、コミュニオンと共に正しく始めるのです。
20. さて、御言葉に入る前に、もう一つ申し上げたいことがあります。
この教会と、そのメンバーの皆さんに、心から感謝いたします。皆さんが私のために、この立派なスーツを買ってくださったこと、本当にありがとうございます。私にとって、それはとても大きなことです。
クリスマスの季節を通していただいた皆さんからのカードや、家族に送ってくださった贈り物も、本当にありがとうございました。ああ、それらは私にとって数えきれないほどのものでした。そして、その一つひとつは小さなものに見えるかもしれませんが、私の心の中の深いところに触れるものでした。それが皆さんから来たものだと知ることほど、私の心に触れるものはありません。
また、ある方々は、クリスマスの贈り物としてお金を送ってくださいましたし、ある方々は別のものを送ってくださいました。たとえば、ある兄弟は、私の名前を入れて作ってくださった財布を送ってくださいました。また、覗き込むと主の祈りが入っている小さなピンもありました。
ああ、そのようなものを、私たちは本当に大切にしています。
妻と私、そして子どもたちから、皆さんに心から感謝を申し上げたいのです。
それはあまりにも小さな言葉かもしれませんが、私はこう申し上げます。これは、人が言うことのできる最も偉大な言葉だと思います。
「神があなたがたを祝福してくださいますように。」
それ以上に偉大な言葉はありません。
21. 今日はこのスーツを着て来ましたが、さすがにライフルを教会に持って来ることはできませんでした。そんなことをしたら……彼らは本当に私に対して何か言うことができたでしょうね。そうではありませんか。
ですから、兄弟たち、本当に感謝しています。
本当は、その小さな紙に書かれた皆さんの名前を読み上げようと思っていました。けれども、昨日、兄弟の一人が来てこう言いました。
「ブラナム兄弟、どうか私にお礼を言わないでください。そうされると、その喜びがすっかりなくなってしまいますから。」
分かりますね。
それで私は思いました。
「もしかすると、他の兄弟たちも同じように思っているかもしれない。」
けれども、私は皆さんの名前を受け取りました。きちんとタイプしてくださっていました。私はそれをいつまでも覚えています。主が皆さんを大いに祝福してくださいますように。
皆さんは、私が何で心を休めるかご存じですね。あの書斎のような部屋に入って、そこに座り、もう一度その時を味わうのです。
気持ちが張りつめて、もうこれ以上進めないような時、どこかへ狩りに行った時のことや、釣りに行った時のことを思い出すのです。
そのことを本当に感謝しています。神が皆さんを祝福してくださいますように。
22. 今朝ここには、数え上げるにはあまりにも多くの祈りの願いがあることと思います。
ですから、頭を垂れている間に、もし特別な願いがあるなら、それをただ心に留めておいてください。そして手を上げて、こう言ってください。
「神よ、今、私が何を思っているか、あなたはご存じです。」
23. その手の奥には、一つひとつの願いが置かれています。
私たちは今、敬虔な心で、生ける神の御座へと近づいてまいります。時の空間を越えて広がる、あの大いなる白い真珠の御座へ。そこにはエホバなる神が座しておられ、祭壇の上にはキリストの血が置かれています。
そして私たちは、その血を通して語ります。
「わたしの名によって父に何でも求めるなら、それは与えられる」と言われた御方によって、語るのです。
神よ、今朝、どうか聞いてくださり、彼らの願いに答えてくださいませんか。今日、私は自分の祈りを彼らの祈りに重ねます。どうか、それをかなえてください。
主よ、ここにはハンカチが置かれています。病んでいる方々、苦しんでいる方々のためのものです。
私たちは聖書の中で教えられています。聖パウロの身から取ったハンカチや前掛けが病人の上に置かれると、汚れた霊が彼らから出て行き、病が去った、と。
父よ、私たちは長い間、よく知っておりますし、確かに知っています。私たちは聖パウロではありません。けれども、結局のところ、それをなさったのは聖パウロではなく、彼の内におられたキリストであったと感じています。
そしてあなたは、聖書の通り、昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。
24. 主よ、どうかその通りになりますように。これらのハンカチが病人の上に置かれる時に。
かつて、イスラエルが務めの道を歩み始め、約束の地へ向かって進んでいた時、紅海がその務めの道の真ん中で彼らの行く手をふさぎました。しかし、神が火の柱を通して、怒りの目で見下ろされた時、その海は恐れて、その波と水を押し戻しました。そしてイスラエルは、約束の地へ向かって、乾いた地の上を通って行ったのです。
主よ、今日も、イエスの血を通して見てください。そして今朝、私たちがここで行っているこの信仰の行為をご覧ください。どうかサタンが恐れて退きますように。
ここにいる巡礼者の一人ひとり、また、これらのハンカチが置かれる一人ひとりのために、道が開かれ、病が取り除かれますように。そして彼らが、聖霊、すなわち火の柱に導かれながら、約束の地へ向かって旅を続けることができますように。
主よ、どうかお与えください。
どうかこの礼拝を祝福してください。語られる言葉を、その文脈を、朗読を祝福してください。そして今朝、聖霊が御言葉を取り、私たち一人ひとりに、やさしく分け与えてくださいますように。
主よ、私たちは今、何か大いなる、途方もない事柄に近づいているように感じています。しかし、それが何であるのか、私たちには分かりません。私たちの心は、不思議なほど動かされています。
ですから主よ、私たちが今、敬虔な心であなたとあなたの御言葉に近づく時、その意味を私たちに解き明かしてください。
イエスの御名によって願います。アーメン。
25. 「時――今は何時なのか?」 です。
さて今朝は、聖書をお持ちの方、あるいは印を付けたい方は、使徒行伝を開いていただきたいと思います。そこから、しばらくお話ししたいと思います。
二、三か所を読みたいと思います。
まず初めに、使徒行伝二十六章十五節。
使徒行伝二十六章十五節です。
それから、使徒行伝二十三章十一節も読みたいと思います。
そして、もしよろしければ、そこに ピリピ人への手紙一章二十節 も加えておいてください。たぶん読む時間はないかもしれませんが、同じ流れ、同じ言葉に関わる箇所です。
26. そこで私は言いました。
「主よ、あなたはどなたですか。」
主は言われました。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
しかし、起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、この目的のためである。すなわち、あなたが見たこれらのこと、また、これからわたしがあなたに現れる事柄について、あなたを奉仕者、また証人とするためである。
わたしはあなたを、この民と異邦人たちから救い出し、今、あなたを彼らのもとへ遣わす。
それは、彼らの目を開き、彼らを闇から光へ、サタンの力から神へと立ち返らせるためである。そして、彼らが罪の赦しを受け、わたしにある信仰によって聖別された者たちの中に、相続分を受けるためである。」
それゆえ、アグリッパ王よ、私はその天からの幻に背きませんでした。
まずダマスコにいる人々に、またエルサレムにいる人々に、さらにユダヤ全土に、そして異邦人たちに、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするように示してきたのです。
そして、使徒行伝二十三章十一節にも、再びこうあります。
その夜、主がパウロのそばに立って言われた。
「勇気を出しなさい、パウロ。あなたがエルサレムでわたしについて証ししたように、ローマでも証ししなければならない。」
私たちの前にある、この最も恵みに満ちた聖なる御言葉の朗読に、神がその聖なる祝福を加えてくださいますように。
27. 私は思いました。
「これはとても良い言葉だ。私はこの言葉が何度も使われるのを聞いてきた。」
「絶対に」と言いますね。
それで、ウェブスターの辞書で調べてみました。ウェブスターによれば、それは「それ自体において完全なもの、力において無限なもの、第一義的には究極のもの」という意味です。
そして「究極」とは、「アーメン」です。それで終わりです。
「絶対」とは、「力において限りないもの」ということです。この「絶対」という言葉は、それ自体において完全なのです。それがすべてです。それで決着がつくのです。
私は思いました。
「これは栄光あることだ。素晴らしい言葉だ。」
さて、言葉とは、表された思いです。まずそれは思いでなければなりません。そして、それが言葉になるのです。なぜなら、人は思いなしに言葉を語ることはないからです。
28. もしそれが霊感による異言であるなら、異言を語っている時、自分が何を言っているのか、私たちは考えてもいませんし、知ってもいません。
解き明かす時も、自分が何を言っているのか分かっているわけではありません。ただそれを語るだけです。分かりますね。それが神なのです。
そして預言する時も、自分自身の思いを用いているのではありません。それは神です。なぜなら、普段なら自分が語ろうとも思わないようなことを語るからです。分かりますね。
29. これまで成し遂げられてきた偉大な達成には、どれもその背後に「絶対」がありました。それが何であったとしても、その背後には必ず絶対的なものがあったのです。
そして、人が何かを成し遂げようとするなら、まずその「絶対」を持たなければなりません。それは、あれこれと巡り、いろいろなものを通り抜けた最後に行き着く、最終的な結び目のようなものです。つまり「アーメン」であり、あなたが目指しているものの究極なのです。
言い換えるなら、人には結びつくべき何かが必要なのです。それは、あらゆる達成にとっての最後の杭、最後に結びつく柱です。
そこに至るまで、多くの異なるものを通っていくかもしれません。しかし、最後にはすべてに対する「アーメン」があるのです。
そのようなものは、必ずなければなりません。人は、それを持たずに人生を歩み続けることはできないのです。
30. そしてそれは、妻に対する愛、あるいは夫に対する愛であるべきでした。
たとえば、彼女はジョンの奥さんほど美しくないかもしれません。あるいは、あれが足りない、これが足りないと思うかもしれません。
けれども、その人には、あなたの心に触れる何かがあるのです。
あなたはこう言うかもしれません。
「彼女は他の人ほど美しくないかもしれない。」
または、
「彼は他の人ほど格好よくないかもしれない。」
それでも、そこには必ず「絶対」がなければなりません。
「この人は違う。この人なのだ」と言えるものがなければならないのです。
そして、そこにあなたはしっかりと留まるのです。
もしそれがないなら、その結びの柱、その絶対がないなら、結婚しない方がよいのです。
31. ああ、もし聖書の中の「絶対」について一つひとつ取り上げていくなら、二週間ここにいても、まだ表面に触れることすらできないでしょう。
たとえば、一人か二人だけ、簡単に挙げてみましょう。
ヨブを見てください。彼には「絶対」がありました。
その人には、すべてが悪い方へ向かって行きました。しかも彼は正しい人でした。
私たちは、彼が正しくなかったなどとは決して言えません。なぜなら、神ご自身が彼を正しいと言われたからです。
地上にヨブのような人は他にいませんでした。彼は神の御前に完全な者でした。そして彼自身もそれを知っていました。
なぜなら、彼には究極のものがあったからです。彼には「絶対」があったのです。
32. 「さあ、見なさい、ヨブ。これであなたが罪を犯していることが証明された。あなたは間違っているのだ。」
そして、監督たちがやって来ました。彼らはいわゆる「ヨブの慰め手」と呼ばれる人たちです。けれども、彼を慰めるどころか、彼らはヨブの人生の中に罪しか見ませんでした。神が彼をそのように取り扱われたからです。
彼の子どもたちは殺され、財産は焼かれ、すべてが悪い方へ向かいました。彼自身の命さえ危険にさらされました。
彼は灰の山に座り、頭のてっぺんから足の裏まで腫れ物で覆われていました。
そして、あの愛する優しい伴侶、子どもたちの母である妻でさえ、こう言いました。
「神を呪って、死んでしまいなさい。」
しかし、そのすべてを前にしても、ヨブには「絶対」があったのです。
33. ヨブは、自分がエホバの求められたことを行ったと知っていました。そして、自分が行ったことに信仰を持っていました。なぜなら、それはエホバが求められたことだったからです。
私たちも、ただそれができればよいのです。
エホバは、彼の罪のために全焼のいけにえを求められました。そしてヨブは、自分自身のためだけでなく、自分の子どもたちのためにも全焼のいけにえをささげました。それが、神が求められたすべてだったのです。
ああ、あなたはこう言うかもしれません。
「今日も、神が求められるのがそれだけだったらよいのに。」
けれども今日、神が求めておられるのは、それよりもさらに少ないのです。ただ、神の御言葉への信仰です。
もしあなたが神の御言葉を自分の「絶対」とするなら、聖書の中にあるどんな神の約束にも、あなたの魂を結びつけることができます。
どれほど波があなたを激しく揺さぶっても、あなたはなお結びつけられたままです。
それが、あなたの「絶対」なのです。
34. 彼の慰め手たちが、
「あなたは罪を犯したのだ」
と言っても、彼は自分がそうではないことを知っていました。
彼は正しい人でした。なぜなら、エホバの命じられたことを行っていたからです。
そして、ある人が入って来て、
「あなたの子どもたちは死にました」
と言い、また別の人が入って来て、
「あなたのらくだはみな焼けてしまいました。天から火が降って来て……」
と言いました。
彼を慰めるどころか苦しめる者たちは、どんな議論を持っていたことでしょう。
「ほら見なさい。火が天から降って来たのです。ヨブ、これは証明しているではありませんか……」
「何も証明していない!」
「ヨブ、神があなたの子どもたちを打たれるはずがありません。あなたが本当に正しい人なら。」
けれどもヨブは言いました。
「私は、自分が正しいことを行ったと知っている。」
彼はなお、しっかりとつかんでいました。彼には、深く打ち込むことのできるものがあったのです。
それなのです。
彼はそれを受け入れていました。神が彼に命じられたことを、正確に行っていました。そして彼は、絶対に確信していたのです。よろしい。
35. やがてそれはしっかりと締まり、御霊が彼の上に臨みました。そして彼は、預言者として立ち上がり、こう言いました。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられる!」
アーメン。分かりますね。
彼は自分の「絶対」にしっかりと結びついたのです。彼はそれに触れたのです。
自分が正しいことを行ったと知っていました。そしていつの日か、そこに引き寄せられることを知っていました。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられる。そして終わりの日に、その方はこの地の上に立たれる。たとえ皮の虫がこの体を滅ぼしたとしても、それでも私はこの肉にあって神を見る。」
その時、彼は知ったのです。
その時、彼の「絶対」は錨を下ろしたのです。
36. 彼はバビロンから、あの塔の場所から下って来て、シナルの地を出て行きました。そして父と共に寄留していた場所にいました。おそらく彼は農夫だったのでしょう。
けれども、ある日のことです。どこか奥地で、木の実を摘んでいたのかもしれません。あるいは、食べるために獣を狩りに行っていたのかもしれません。
そのような場所で、神が彼に語られたのです。彼が七十五歳の時でした。
彼とその妻サラは、サラが六十五歳で、子どもがいませんでした。彼らには一人も子どもがなかったのです。
その時、神は彼に言われました。
「あなたはサラによって子を持つことになる。しかし、そのためには、あなたは自分を分離しなければならない。」
37. あなたは絶対に……。その約束について、どれほど原理主義的に正しく立っていたとしても、それは常に条件のもとにあるのです。
ここで立ち止まって、その聖書箇所をあちらこちらと何時間もたどっていくこともできるでしょう。分かりますね。条件というものが、そこに大きな意味を持っているのです。
あなたは望むだけ、どれほど聖書的に正確であってもよいのです。けれども、その約束は条件のもとにあります。予定であれ、その他のことであれ、そうなのです。
38. さて、アブラハムは神を信じ、それが彼の義と認められました。
考えてみてください。文明社会の人々に向かって、七十五歳の男性と六十五歳の女性が――しかも二人は若い頃からずっと夫婦として共に暮らしてきたのです。サラは彼の異母妹でもありました――その妻によって今から子どもを持つのだ、と言うのは、どれほど大変なことだったでしょう。
しかし彼には「絶対」がありました。
彼を動かすものは何もありませんでした。
そして、最初の一か月にそれが起こらなくても、彼の「絶対」は揺らぎませんでした。なぜなら、彼は神と語ったことを知っていたからです。
二か月目も、二年目も、十年目も、そして二十五年後、彼が百歳となり、サラが九十歳になった時にも、彼の「絶対」はなお揺るがなかったのです。
39. 「アブラハムは、不信仰によって神の約束を疑うことなく、かえって強められ、神に栄光を帰した。」
なぜでしょうか。
なぜだか、考えたことがありますか。
彼は絶対的に確信していたのです。そして彼がしなければならなかった唯一のことは、自分の民から分離することでした。
そして神は、彼がそれを行うまで、彼を祝福されませんでした。
彼は父を連れて行きました。そして父は死にました。
彼はロトを連れて行きました。そしてロトがアブラハムから離れた後、神は彼のところに来て言われました。
「さあ、この地を歩き回りなさい。」
従順です。
条件のもとにある約束は、いつも神とその御言葉に伴っているのです。
40. モーセは逃げ出したしもべであり、預言者でした。神は彼を起こし、パロの宮殿で教育を受けさせました。
そしてモーセは、自分の神学的な訓練を携えて出て行きました。そして最初の一人を殺してしまったのです。
すると、最初の小さなつまずきが起こった時、モーセは死ぬほど恐れてしまいました。
なぜでしょうか。
彼には「絶対」がなかったからです。彼には、自分の誕生について母から聞いた証ししかありませんでした。
彼は特別な子でした。そのことについて、母の言葉を持っていました。
また、神がご自分の子どもたちを訪れようとしておられるという巻物も持っていました。おそらくどこかに紙のようなものに書かれ、それを彼らが持ち運んでいたのでしょう。
彼は、それがその時であることを知っていました。ちょうど今の私たちのようにです。
私たちも、何かが起ころうとしていることを知っています。
41. けれども、彼には「絶対」がありませんでした。分かりますね。
そしてある日、荒野の奥で、彼がその幻を失っていた時、神が燃える柴の中に現れて、彼に言われました。
「モーセ、わたしはわたしの民の苦しみを見た。彼らを罰する苦役の監督たちのもとで、彼らがうめき、叫ぶ声を聞いた。そして、わたしは自分の約束を思い出した。わたしは彼らを救い出すために降って来た。さあ、エジプトへ下って行きなさい。」
ああ、何ということでしょう。
モーセは不平を言って、こう言いました。
「私はうまく話せません。私の解放の働きは、うまくいくようには思えません。彼らは私を信じないでしょう。」
すると神は言われました。
「あなたの手にあるものは何か。」
彼は言いました。
「杖です。」
神は言われました。
「それを投げなさい。」
すると、それは蛇になりました。
神は言われました。
「その尾をつかみなさい。」
すると、それは再び杖に戻りました。
神は彼に保証、すなわち確証を与えておられたのです。
神が「絶対」をお与えになる時、神はいつも、その「絶対」に対する確証をお与えになるのです。
42. しかしモーセは逃げ出して、
「ああ、やはり私は間違っていた。あれはただの安っぽい魔術のわざで、私は間違っていたのかもしれない」
などとは言いませんでした。
彼は知っていたのです。
自分が神にお会いしたことを、確かに知っていました。
ですから彼は、じっと立っていました。
次に彼が行ったことは、神が命じられた通りのことでした。ヨブも、神が命じられた通りのことを行っていました。モーセも、神の命令に従っていたのです。
それなら、じっと立って、神の栄光を見なさい!
モーセは自分の「絶対」、つまり自分に与えられた任命に結びつけられていました。ですから彼は、じっと立っていたのです。
すると、彼の蛇が他の蛇をすべて呑み込んでしまいました。分かりますね。
彼はその「絶対」に結びついていたのです。
神は言われました。
「あなたがあの子らを救い出す時、あなたがたは再びこの山でわたしを礼拝するであろう。」
43. 彼らがエジプトを出発したその時、まさに紅海の狭い所で追い詰められました。両側には山がありました。谷を通って来ると、目の前には紅海がありました。
丘を越えて逃げる道もありません。こちら側へ逃げる道もありません。そしてパロの軍勢がこちらへ向かって来ていました。
何という立場に置かれたことでしょう。
悪魔がどのようにして、あなたを「どうしたらよいのか分からない」場所へ追い込むか、見えますね。
けれども覚えておいてください。もしあなたがその「絶対」に結びついているなら、それで決まりなのです。
モーセは知っていました。神が彼に約束されたのです。
「あなたが彼らを連れ出す時、あなたがたはこの山でわたしを礼拝する。」
そして神は言われました。
「わたしは、あなたの手によって彼らを解放し、あの向こうの地へ入れるために降って来た。」
モーセは、その約束にしっかり留まりました。
すると神は東風を送り、海の底から水を吹き分けられました。そして彼らは、乾いた地の上を歩いて渡ったのです。
「絶対」です。
44. ダニエルと彼の「絶対」。
シャデラク、メシャク、アベデネゴと彼らの「絶対」。
ダビデと彼の「絶対」。
すべてです。皆、「絶対」を持っていました。
パウロにもそれがありました。私たちが今読んでいる、そのパウロです。
彼には、キリストを中心とした召しがありました。そしてそれが、彼の「絶対」でした。
だからこそ彼は、アグリッパが何と言うかを恐れなかったのです。彼はそこに立っていました。アグリッパは、私たちが知っているようにユダヤ人でした。
そして彼が王たちや、そのような人々の前に立った時、神はすでに、彼がそこに立つことを告げておられました。
ですから、彼には「絶対」があったのです。
それで彼は、天からの幻をそのまま語りました。
彼は言いました。
「私はそれに対して……私は不忠実ではありませんでした。私はそれを誤って判断しませんでした。私は自分を誤った仕方で振る舞わせませんでした。」
彼はそれにしっかりと留まり、背くことはありませんでした。彼はそれを、細かなところまで成し遂げたのです。
なぜなら、それは彼にとって「絶対」だったからです。
そして、キリストを中心とした人生であるなら、それがあなたの「絶対」なのです。
45. 覚えておいてください。彼はそれ以前、学者でした。聖書において力ある人物でした。
しかし彼には、自分を支えてくれるサンヘドリンと、偉大な教師から受けた証書以外に、結びつくべき柱がありませんでした。
彼は自分の分野では偉大な人でした。けれども、揺れていたのです。
彼が持っていたもの、その「絶対」は、自分の組織が強い分だけしか強くありませんでした。それ以上には強くなれなかったのです。
そして彼は、その組織に忠実に仕えていました。クリスチャンたちを捕らえ、縛り、彼らを荒らし回り、ステパノを石打ちにすることにさえ関わっていたのです。
46. 「パウロ、そこへ上って行ってはいけません。あなたを待っているのは鎖と牢獄です。」
と告げた時、それでも彼がエルサレムへ行った理由は、そこにあったのだと思います。
パウロは言いました。
「私はそれを知っています。けれども私は、証人としてエルサレムへ行くだけではありません。私はそこへ行くのです。私はイエス・キリストのために死ぬ覚悟もできています。」
彼は自分が何をしたかを知っていました。そして彼の願いは、自分自身の血をもって、その証しに印を押すことでした。殉教者として死ぬことでした。なぜなら、彼は神の殉教者の一人を殺してしまったからです。
さて、彼はそのすべての教育を携えて、ダマスコへ向かう道にいました。あの偉大な教師ガマリエルのもとに座り、ユダヤ教のあらゆることを教え込まれていました。
それにもかかわらず、彼は弱く、不確かなものでした。そして、あることを成し遂げる力を持ってはいませんでした。
すると突然、光があり、轟きがあり、もしかすると雷鳴のようなものがあったのでしょう。そして彼は打たれて、地に倒れました。
彼が見上げると、そこには光が輝いており、その光が彼の目をくらませました。
何と不思議なことでしょう。
47. それは彼にとってあまりにも現実のもので、そのために彼の目は見えなくなりました。火の柱が彼の顔の真正面で燃え輝き、彼はまったく目が見えなくなったのです。
そして彼は、こう言う声を聞きました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
彼は言いました。
「主よ、あなたはどなたですか。」
主は言われました。
「わたしはイエスである。とげのある棒を蹴るのは、あなたにとってつらいことである。さあ起きて、ダマスコへ入りなさい。そこで、あなたのもとに一人の者が遣わされる。」
それから彼がそこから起き上がると――町の中には一人の預言者がいました。その人は祈っている時、幻の中で見ていました。そして彼はやって来たのです――アナニヤが来て、サウロのところに入り、彼の上に手を置きました。
するとサウロは、神の癒しによって癒されました。
彼は立ち上がり、主の御名を呼び求めて、罪を洗い去るためにバプテスマを受けました。
そしてその時、彼には「絶対」ができたのです。
彼はそれ以後、決して同じ人ではありませんでした。彼は教会から教会へ、場所から場所へとまっすぐに進み、自分がかつて壊そうとしていたものを、今度は建て上げようと努めたのです。
48. 信条や伝統によって、また人間の教理によって、神の御言葉が「昨日も今日も、いつまでも変わることのない方」であることを否定しようとしてきた人々には、「絶対」が必要なのです。
ダマスコ途上で、生ける神にお会いする経験が必要なのです。病人を癒し、死人をよみがえらせ、悪霊を追い出すことのできる、生ける神との経験です。
本物の「絶対」が必要なのです。
パウロは、自分に何かが起こったことを知っていました。誰もそれを彼から取り去ることはできませんでした。
他のことは何も問題ではありませんでした。彼は結びつけられていたのです。それで決まりでした。
何が来ようとも、彼は自分が結びついていることを知っていました。キリストを中心とした人生です。
ああ、彼が生きたその人生は、まったく違った人生だったのです。
49. そして今朝ここにおられる皆さんの中にも――このテープが録音されており、天の下のあらゆる国々で、世界中で再生されることを、皆さんも分かっておられると思います――ここに今、実際におられる方々にも、また、他の国々で通訳を通してこのテープを聞く方々にも、アフリカの部族の人々、ホッテントットの奥地の人々、そして各地の方々にも申し上げます。
また、聖書について教育を受けただけの宗教指導者の方々にも申し上げます。あなたがたは、聖書を歴史的な観点から学び、これらのことをすべて説明できるかもしれません。
けれども、もしあなたに「絶対」がないなら、経験がないなら――そして、あなたが「自分には経験がある」と言いながら、その経験が、御言葉の一つひとつがかつてそうであったように、今日の教会に対しても真実であることを否定させるものであるなら――また、あなたが自分の学位や、その他どんな資格であれ、それに頼っているなら。
もしあなたが、自分の組織の考えに頼っているなら。
その組織がこう言うのです。
「奇跡の時代は過ぎた。神の癒しなどない。ペンテコステの日に彼らが受けたような聖霊のバプテスマは、今日の人々のためのものではない。」
もしあなたが持っているものがそれだけなら、私の大切な兄弟、姉妹よ、あなたにはダマスコ途上の経験が必要です。
あなたには、この生ける神に出会うことが必要なのです。
それは、ただ頭の中にある神話的な考えではありません。
何か身震いするような感覚でも、ある種の興奮でもありません。
それは、本物の、確かな教えと経験なのです。
50. それこそが「絶対」です。
ですから、誰かが言ったことをただ受け入れる必要はありません。あなた自身が知るのです。ただの感覚ではありません。
そして、もしあなたが持っていたその感覚が――それは本当に聖書的な感覚だったかもしれません――それを誰かが説明で取り去ろうとして、
「そういうことは別の時代のものだったのだ」
と言うなら、気をつけなさい。
それは本当です。気をつけなさい。
しかし、知るための道があります。
それを御言葉によって試しなさい。御言葉こそ設計図です。
もし家が設計図に反して建てられているなら、請負人はそれを取り壊して、建て直すでしょう。
しかし、それは設計図に従っていなければならないのです。
51. 「この聖書は真実ではない。神の力も、使徒、預言者、教師、牧師、御霊の賜物も、ペンテコステの日に使徒たちを通して流れていた時と同じではない」
と告げるなら、あなたの「絶対」には何か問題があります。
それは神の聖書ではなく、教派の信条に結びついているのです。
神はこう言われました。
「天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は決してすたれることがない。」
あなたの「絶対」が何であるか、よく見なさい。
あなたは、自分が牧師と良い交わりを持っていると、絶対に確信しているかもしれません。
また、地区の長老と交わりを持っていると、絶対に確信しているかもしれません。
あるいは、監督や、自分の教会の中の偉大な人物と交わりを持っていると、絶対に確信しているかもしれません。
しかし、もしあなたの「絶対」がイエス・キリストでないなら……。
「この岩の上に、わたしはわたしの絶対を据える。そして地獄の門も、それに打ち勝つことはできない。」
それは、主がどなたであるかを知る、霊的な啓示です。
そして、それを知っていることなのです。
よろしい。
52. キリストを中心とした人生は、あなたが以前持っていた人生とは違った人生です。たとえ、あなたが以前、とても宗教的な人生を送っていたとしてもです。
ああ、私は人々がこう言うのを聞いてきました。
「いや、あの人たちはとても宗教的です。」
しかし、それは何の関係もありません。
私はこれまで、多くの宗教を見てきました。非常に熱心で、今日クリスチャンを自称している人々よりも、何倍も誠実な人たちを何度も見てきたのです。
53. また、ある人が自分自身をそのように苦しめ、自分の肉体に何千もの鉤を刺し、そこに水の入った重りをぶら下げて体を引き下げながら、ここからあの幕屋の端まで続く火の道を歩くのです。行ったり来たりしながら。その火は白く熱せられ、風であおられているのです。
それを、自分の神へのいけにえとして行うのです。そこには、ルビーの目を持つ偶像の神が置かれているのです。
私は思います。キリスト教はどこにあるのでしょうか。
ですから、誠実さだけだと思ってはいけません。誠実さそのものが答えではありません。
誠実さは、それが正しいものの上に置かれているなら、確かに良いものです。
54. また、あなたの処方箋が間違って調剤されることもあるでしょう。そしてあなたは、それを誠実に飲むかもしれません。
けれども、それであなたの命が救われるわけではありません。分かりますね。
いいえ、そうではありません。
自分が何をしているのか、あなたは知らなければなりません。
そして、神の御言葉に反するものは、それが何であろうと、どれほど長い間存在してきたものであろうと、なお間違っているのです。
55. 彼は言いました。
「あなたがたは皆、悔い改めなさい。そして罪の赦しを受けるために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けます。なぜなら、この処方箋は、あなたがたと、あなたがたの子どもたち、また遠くにいるすべての者たち、すなわち、主なる私たちの神が召される者すべてに与えられているからです。」
その通りです。
これは永遠の処方箋なのです。
さて、やぶ医者ならぬ、いい加減な薬剤師がその処方箋を手にしたなら、あなたを死なせてしまうかもしれません。分かりますね。確かにそうです。
ご存じのように、処方箋には、病原を殺すだけの毒が含まれています。そして医者は、あなたの体がどれほど耐えられるかを正確に知っているのです。
もし毒を与えすぎれば、それはあなたを殺してしまいます。
しかし、もしそれが十分でなければ、どうなるでしょうか。その薬を飲んでも、何の役にも立ちません。
医者は、あなたの体が耐えられる量を知っているのです。
さて、神の処方箋もそのようなものです。
誰かが「これはこうしなければならない」「ああしなければならない」とどれほど言ったとしても、それを信じてはいけません。
御言葉に、文字通り正確に従う時、それが答えなのです。
その通りです。
それにしっかりと留まりなさい。
56. 「水を振りかけられなければならない」
と言う人たちがいます。
また、
「父と子と聖霊という称号を用いなければならない」
と言う人たちもいます。
しかし、聖書の中にはそのようなものはありません。聖書の中で、イエス・キリストの御名以外の方法でバプテスマを受けた人は、一か所もありません。
それはローマ・カトリック教会において後から加えられた教義であり、伝統を通して受け継がれてきたものです。
今晩、そのことにも触れるつもりです。
57. だからこそ、私たちの間には病んだ子どもたちがこれほど多いのです。医者が言ったことを聞いていないからです。
「絶対」――それに結びついたなら、それで決まりです。それが神の御言葉です。それは失敗することがありません。
キリストを中心とした人生です。とても宗教的であっても、キリストを中心としていなかったのです。今日、私たちの多くがそうなのです。
そして、このキリスト中心の人生を得る時、それはあなたに、普段ならしないようなことをさせます。普段のあなたとは違った行動をさせるのです。
私は、愚かな振る舞いをするという意味で言っているのではありません。御霊にあって行動するという意味です。現実のもの、本物のものです。
そして、誰かが愚かな振る舞いをしているのを見る時、あなたは分かります。その人はただ何かを装っているだけなのです。本物があるところをまねしようとしているだけなのです。
偽の一ドル紙幣を見る時、覚えておいてください。それは本物の一ドル紙幣をもとに作られたものです。分かりますね。
偽物を見る時、それは確かに、何か本物の影を外れたものなのです。本物があり、それをまねて作られたものなのです。
58. ああ、それは何か……。あなたがこの「絶対」を得る時、あなたは確信します。非常に確信するのです。あなたはそれについて、はっきりとした確信を持ちます。
誰かほかの人の経験を借りるのではありません。
だからこそ、キリスト教がまるで聖書の中の小さな子どもたちのように――いえ、失礼しました――学校の小さな子どもたちのようになってしまったのです。
彼らは互いに写し合おうとします。そして、もしその相手が間違っていれば、全部が間違ってしまうのです。分かりますね。
すると、その一団全体が間違ってしまうのです。
ああ、何ということでしょう。まねをしてはいけません。
あなた自身が、主にお会いしなさい。
59. 彼のお父さんと私は、学校で一緒に育ちました。ああ、本当に立派な人です。
小さなジムと私は、ビッグ・ジムがクリスチャン、本物の信者になるように、絶えず祈っています。
そして昨日、小さなジムと私は、森の中でどのように神を見いだしたか、また自然の中で神を見たことについて話していました。
そこにこそ、あなたは神を見いだすのです。なぜなら、神は創造主であり、ご自分の創造の中におられるからです。
私は覚えています。ジムと私はよく、狩りに行きたいと思っていました。
そして夜になると、私たちは自転車に乗って、この通りをまっすぐ下って行きました。暗くなってから墓地の前を通るのが恐ろしくてたまらなかったのですが、それでも下って行き、アイスクリームのコーンを買ったものです。
60. それからジムは、狩りや罠猟の物語の本を読んで過ごすのが好きでした。一方、私は座って、空想にふけっていたのです。分かりますね。
今でも、そこにいる何人かの少年たちは私のことを見ることができるでしょう。私はどこかに小さな小屋があるのを見ると、よくこう言ったものです。
「いやあ、あれは山の中に持つには良い小屋だな。」
私はいつも夢見ていました。いつの日か、山の中に自分の小屋を持ち、たくさんの猟犬と、いくつかの銃を持つことを。
私はいつも思っていました。
「いつか、自分のものとして三〇―三〇ライフルを持つことができたら……。」
そして思ったのです。
「いったいどうしたら、私が小さな三〇―三〇ライフルを持てるだろうか。」
ところが先日、壁の前に立って、そこに手に入る中でも最高のライフルがいくつか掛かっているのを見た時、私は思いました。
「驚くべき恵みだ。」
私は思っていました。
「自分を訓練して、射撃がうまくなろう。しっかり撃てるようになろう。そうすれば、いつか山へ行く旅に、腕の良い猟師が私を連れて行ってくれるかもしれない。親切心というよりも、もしかすると襲って来る熊から自分の命を守るために、私を連れて行きたいと思うかもしれない。確信が持てないからです。どこかの裕福な人が、ちょっとした護衛として、私を連れて行ってくれるかもしれない。もし訓練さえすれば、いつかアフリカで護衛として狩りに行けるかもしれない。私にできる唯一のことは、よく訓練して、落ち着いて正確に撃てるようになることだ。」
ああ、私は思いました。
「神よ、あなたが私に世界中で狩りをさせてくださることを思うと、何と素晴らしいことでしょう。」
ジムはよく座って本を読んでいました。
私は言いました。
「ジム……。」
彼は言いました。
「僕はそれについて読むのが好きなんだ。」
私は言いました。
「ジム、それは誰かほかの人がしたことだよ。私は自分でそれをしたいんだ。私は経験がほしいんだ。」
私がキリストのもとに来た時も、誰かほかの人の経験を受け取ることはできませんでした。私は、自分自身でそれを得たいと思ったのです。
61. 私は、家の中を馬に乗って駆け回るように、そのほうきの馬にまたがって走り回り、母のほうきを二、三本壊してしまいました。
そのローン・スター・レンジャーの物語を読み、彼がビッグ・ベンド一帯にどのように正義をもたらしたかを読んだのです。
それから、エドガー・ライス・バローズの小説『ターザンと類人猿』を読みました。
母は古い毛皮の敷物を持っていました。アザラシの皮の敷物か何かで、ウォーセン夫人が火事の後に母にくださったものでした。それは母の部屋に敷いてありました。
私はその敷物を外へ持ち出しました。母は、風がそれを吹き飛ばしたのではないことを知っていました。そして私はそれを切り刻み、自分のターザンの衣装を作ったのです。それから木の上に座りました。
私は時間の半分ほどを木の上で過ごし、そのターザンの衣装を隠していました。なぜなら、彼がしたことを読んで、私もそれをしたいと思ったからです。
けれども、ある日、神の恵みによって、私は本物の書、聖書を手にしました。
それ以来、私の歌であり、物語であったのは、こういうことです。
「イエスのようになりたい。地上にあって、私は主のようになりたい。」
私は監督になりたいのではありません。教会の中の偉大な人物になりたいのでもありません。教皇や司祭になりたいのでもありません。
私はイエスのようになりたいのです。
62. それは、まるで……。
キリストに対する絶対――クリスチャンにとっての絶対は、船にとっての錨のようなものです。
そうです。あなたには「絶対」が必要です。
そして、もしキリストがあなたの「絶対」であるなら、それは錨のようなものです。
海が非常に荒れていて、船が今にも沈みそうになり、ただ一つの望みしか残されていない時、その望みは錨を投げ下ろすことです。
そして、たとえ船が激しく揺さぶられていても、分かりますね、その錨が船をしっかり支えるのです。
ご存じでしょう。私たちには一つの歌があります。今、その作者の名前は忘れてしまいましたが……。
「私の錨はしっかり留まる」 という歌です。
63. 何も見えませんでしたが、彼は糸を持っていました。
通りかかった一人の人が言いました。
「坊や、何をしているんだい。」
彼は言いました。
「凧を揚げているんだ。」
その人は言いました。
「手に持っているものは何だい。」
彼は言いました。
「糸だよ。」
その人は言いました。
「凧はどこにあるんだい。私には見えないよ。では、どうして君は凧を揚げていると分かるんだい。」
彼は言いました。
「感じるんだ。引っ張っているから。」
分かりますね。
その糸の先には、「絶対」がありました。
その子なりには、その凧が彼の「絶対」だったのです。ですから彼は、自分が凧を揚げていると言うことができました。見えなくても、彼は何かを握っており、その何かが凧をつかんでいたのです。
人が聖霊によって新しく生まれる時も、それと同じです。
その人は、向こう側に錨を下ろしている何かを握っているのです。そして嵐も彼を揺るがすことはできません。
彼は、自分が大丈夫であることを知っています。
彼は錨を下ろしているのです。
よろしい。
64. あの偉大な詩人が、こう言ったようにです。
「人生は空しい夢ではない!」
眠っている魂こそ死んでいる。
物事は見えるままのものではない。
人生は現実である!人生は真剣なものである!
そして墓は、その終着点ではない。
「あなたは塵であるから、塵に帰る」
それは魂について語られた言葉ではない。
ああ、私はこれは本当に美しいと思います。
ロングフェローが、その「人生の詩篇」を書いたのです。分かりますね。
人生という厳かな大海を航海しながら、
見捨てられ、難破した兄弟が、
それを見て、再び勇気を得ることができるように。
分かりますね。
65. そしてキリストは、時という嵐の中にあるその船にとって……嵐が激しくなり、船が揺さぶられる時、私は嬉しく思います。向こうの幕の内側のどこかに、しっかりと留まる錨を持っているからです。
死そのものでさえ、あなたをそこから引き離すことはできません。あなたは自分の「絶対」に結びつけられているのです。
キリストこそ、私たちの錨です。
では、その方は何でしょうか。
その方は御言葉です。
「初めに御言葉があった。御言葉は神と共にあった。御言葉は神であった。……そして御言葉は肉体となって、私たちの間に住まわれた。」
66. キリストのいのちが、まるで受肉したかのように、あなたを通して再び現されるのです。ちょうどキリストの内にあったようにです。なぜなら、神がキリストの内におられ、世をご自身と和解させておられたからです。
そして、あなた自身の内に神を見ます。その神が、イエスがなさったのとまったく同じように、御言葉という同じ竜骨を保っておられるのを見るのです。そして、あなたは主のいのちを見るのです。
「わたしが行うわざを、あなたがたもまた行うようになる。わたしを信じる者は――信じているふりをする者ではなく、信じていると思い込んでいる者でもなく、本当に信じる者です――わたしを信じる者は、わたしが行うわざを、その人もまた行うようになる。」
なぜでしょうか。
その人は、同じ岩に錨を下ろしているからです。
その岩とは何でしたか。
御言葉です。いつも御言葉です。
あなたはそこに錨を下ろしているのです。
67. ご存じのように、星はたくさんあります。けれども、動かない本当の星は一つだけです。それが北極星です。なぜなら、それは地の中心に座しているからです。
あなたが裏側にいようと、上の方にいようと、どこにいようと、その北極星は変わりません。それが、あなたの北極星なのです。
分かりますね。
場所から場所へと移っていく星はたくさんあります。しかし、海の上にいるなら、どんな船乗りでも、また森を歩き回る狩人であっても知っています。あなたの北極星こそ、あなたの位置を示すものなのです。それだけです。
それは、あなたの羅針盤のようなものです。
あなたの羅針盤は、火星や木星や、どこか別のところを指すのではありません。北極星を指します。
なぜでしょうか。
それがあなたの「絶対」だからです。
68. ああ、私は何か言おうとしています。それが来ているのを感じます。
注目してください。今、私はとても霊的な気持ちになっています。なぜなら、これは確信だからです。
あなたの羅針盤は、北極星だけを指すことができます。それが、羅針盤の指すことのできる唯一の場所です。もしそれが本物の羅針盤なら、毎回、必ず北極星を指すのです。そうではありませんか。
それなら、もしあなたが聖霊を持っているなら、聖霊は御言葉だけを指すことができます。
聖霊は決して教派を指しません。
決して信条を指しません。
どこか別の方へ指すことはありません。
まっすぐ御言葉を指すのです。(私は叫びたくなるほどです。)
注目してください。それは人の内側にある、脈打つ何かなのです。
あなたが、向こうに据えられているあなたの星、すなわちイエス・キリスト、御言葉を見ている時、あなたの内におられる御霊は、それが右にも左にも動くことを許されません。
それだけが……。聖霊は、神のものを取り、それを示し、現すために来られたのです。
そしてイエスは言われました。
「その方は、わたしが言うことをまさにその通りに行われる。これから起ころうとしていることをあなたがたに明らかにし、それが来る前に、あらかじめ示される。分かりますね。その方は、わたしのものを受けて、それをあなたがたに示される。そして、これから起こることをあなたがたに示される。」
ヨハネ十五章です。
69. 今晩のために、それを片隅にしっかり置いておいてください。というのは、しばらく後で、それを用いることになるからです。
それを確かなものにし、明確なものにするのです。分かりますね。
そうすれば、あなたの北極星が何であるか分かります。クリスチャンにとって、それは御言葉です。御言葉に反するものは何であっても……。
見てください。皆さんに一つ申し上げます。よく聞いてください。
これは、神の完全な神聖な啓示です。神の御心、キリストの来臨、そしてすべてのことが、この書の中に完全に置かれています。
もし何かが、あなたをそこから引き離すなら、その羅針盤は捨ててしまいなさい。なぜなら、それはただの信条にすぎないからです。ただの組織にすぎません。あなたがポケットに入れて持ち歩いている紙、あるいは部屋に額に入れて掛けている紙にすぎません。それは信条なのです。
それなら、あなたを御言葉へと向ける羅針盤を見つけなさい。
アーメン。
70. 栄光!
彼は確信を得なければならなかったのです。
そして、聖霊が一語一語、彼を導かれるのを見た時、彼はヘブル人への手紙を書くことができました。そして、ユダヤ人たちにそれを示すことができたのです。確かにそうです。
なぜでしょうか。
彼は中心に据えられていたからです。
聖霊という羅針盤が、彼をまっすぐ北極星へ向けたのです。
さて、もしあなたをそこから引き離そうとする何かがあるなら、それは放っておいた方がよいのです。その通りです。
聖霊は、御言葉を指し、ただ御言葉だけを指します。なぜなら、聖霊は神の約束を現し、また確証するために来られたからです。
それを成し遂げる信条はありません。
それを成し遂げる組織もありません。
どんな力も、何ものもそれを成し遂げることはできません。
ただ、御言葉による聖霊だけです。
そして、聖霊こそがその胚芽なのです。
71. けれども、胚芽が入ると、それは多くの麦の粒を生み出します。
そしてキリストこそが、そのいのち、その「絶対」なのです。
もし麦の中にその「絶対」がなければ、それは決してよみがえりません。
その麦がその「絶対」を持っていなければ、外側がどれほど美しく見えても、それは生きることができません。なぜなら、その中に生きるためのものが何もないからです。
しかし、その「絶対」を得るなら、それはすべての批判者の顔を見て、こう言うことができます。
「私は再びよみがえる。」
なぜでしょうか。
それは「絶対」を持っているからです。
それがその中にあるからです。
だから、それは必ず再び起き上がるのです。
72. 「あなたがたがわたしの内にとどまり、わたしの言葉があなたがたの内にとどまるなら、何でも望むものを求めなさい。」
それが、その「絶対」なのです。
しかし、もしそこに信条や、その他いろいろなものを結びつけているなら……。油と水を混ぜることはできません。どれほど振っても、どのようにしても、決して混ざることはありません。なぜなら、それらは二つの異なる性質のものだからです。
同じように、信条と聖書を――聖書に反するものを――混ぜ合わせることはできません。教派と、自由に生まれた宗教、いや、自由に生まれた救いを混ぜ合わせることはできません。
なぜなら確かに、神はただ……。私はやはり言います。
神は決して、ご自分の計画を破られません。
神はそれを破ることができません。なぜなら、神は無限なる御方だからです。
そして私は分かっています。これは多くの人々の前に出ていくことになります。分かりますね。
しかし、神はご自分の計画を破ることはできません。ある日には一つのことを行い、別の日にはそれを変えて、
「その日はそれが間違いだった」
と言うようなことはできないのです。
73. なぜなら、人にはそれぞれ違った考えがあり、生まれつきの性質もそれぞれ違っているからです。
神はその人を取り、その人を扱い、あちらこちらと引き回し、その人自身の内側から引き出していかれます。そしてついに、その人をご自分の性質の中へ入れられるのです。その時、神はその人を相手にして事をなさいます。
時代をずっと見てください。ノア、モーセ、預言者たち。二人が同時に立ったことはありませんでした。いつも一人でした。時代を通して、ずっとそうでした。
ですから、もしあなたが、
「多くの助言者の中には安全がある」
と言うなら……見てください。
74. 彼らはラモテ・ギレアデへ上って行き、敵を押し戻そうとしていたのです。
根本的には、彼らは正しかったのです。その土地は確かに彼らのものでした。そしてそこにいた敵、アラム人たちは、イスラエルの子どもたちが食べるべき小麦――神が与えられた所有地の実り――で、自分たちの子どもたちの腹を満たしていたのです。
ですから、原理的には良く見えました。
「私と一緒に来て、そこへ上って行きましょう。そして彼らをその土地から追い出しましょう。」
それは、とても良いことのように聞こえました。原理的には正しかったのです。
しかし、それには条件があります。
ヨシャパテは善良な人でしたので、こう言いました。
「しかし、まず主に伺うべきではありませんか。」
もちろん、あの後退したアハブは言いました。
「もちろんだ。」
境界線上の信者のようなものですね。
彼は言いました。
「ああ、もちろんだ。私がそのことを考えるべきだった。私には四百人のヘブル人預言者がいる。四百人だ。私は彼らを養い、面倒を見ている。彼らはこの国で最も優れた者たちだ。彼らを呼んで来よう。」
すると彼ら全員が、一つ心になって言いました。
「上って行きなさい。主はあなたと共におられます。」
原理的には彼らは正しかったのです。けれども、彼らはその「絶対」をつかんでいませんでした。
それでヨシャパテが言いました。
「ほかに、もう一人いませんか。」
アハブは言いました。
「いるにはいる。けれども、私は彼が嫌いなのだ。」
彼は言いました。
「彼はいつも私について悪いことを言うのだ。分かりますね。いつも言うのです……」
75. 彼の前にいたエリヤが、アハブにこう言っていたのです。
「犬どもがあなたの血をなめるであろう。」
さて、神に確証された預言者が、神の御心ではないことをどうして語ることができるでしょうか。
また、犬どもがイゼベルを食らい、その糞が野に散らされるため、人々が「ここにイゼベルが横たわっている」とさえ言えなくなる、と語られていたのです。
そのような呪いが一人の人の上にあるのに、どうして他の誰かが祝福できるでしょうか。
今日も同じです。
人々をいつも神から遠ざけていくようなものを、人がどうして祝福できるでしょうか。
なすべきことは一つだけです。たとえ一人で立たなければならないとしても、主の御名によってそのものを呪い、そこに留まりなさい。あなたの「絶対」があるなら……。
そしてあなたは言うかもしれません。
「でも、ブラナム兄弟、そんなことをしたら、人々に嫌われますよ。」
神が私を愛してくださいます。
それが私の「絶対」です。
肉の腕に寄りかかって休むことはできません。神が何を行えと言われたのか、その御言葉の上に休まなければならないのです。
76. 彼は待ちました。そして幻を見たのです。
彼らも幻を見ていました。けれども、その幻は御言葉と一致していませんでした。今日も同じことです。
ミカヤは自分の幻を御言葉と照らし合わせました。そして、自分と御言葉が一致していることを見たのです。
今日でも、もしあなたの幻が御言葉に反しているなら、それは放っておきなさい。なぜなら、それは間違った「絶対」だからです。
ミカヤの「絶対」は、御言葉とまったく一致していました。ですから彼は立って、自分の語ったことを信じて言うことができたのです。
彼らが彼の口を打って、
「神の霊はどちらへ行ったのか」
と言った時、彼は言いました。
「あなたが奥の間に隠れる時、それが分かるでしょう。」
その通りです。
アハブは言いました。
「この男を牢の奥に入れておけ。私が無事に帰って来たら、この男を処置してやる。」
「ああ、ミカヤ、どうするのだ。彼が帰って来たら、あなたの首は切られてしまうぞ。」
77. 私の主が十字架へ向かって歩まれた時と同じように進んで、ダニエルが獅子の穴へ入って行った時と同じように、またシャデラク、メシャク、アベデネゴが炉の中へ入って行った時と同じように、彼はそこに立っていたのです。
絶対です。
彼はそこに立って言いました。
「もしあなたが無事に帰って来るなら……」
なぜでしょうか。彼には「絶対」があったからです。
「もしあなたが少しでも無事に帰って来るなら、神は私に語られなかったのです。その時は、私の首を切りなさい。」
彼には「絶対」がありました。
彼は、自分をこの幻へと導いた羅針盤が、北極星とまったく一致していることを知っていました。
そうです、本当にそうです。
彼の錨はしっかり留まっていました。
そうです。御言葉、ただそれだけです。
もしあなたの「絶対」が……。
もしあなたの人生の中に「絶対」があるなら……。
78. その女性の名前が思い出せないのですが、国中が、その女性の言うことを信頼していました。名前を忘れてしまいました。ここにメモを書いていたのですが、その女性が誰だったか思い出せなかったのです。
しかし、数年前までは、人々はそうしなければなりませんでした。その女性が言うことは……。
もし彼女が、
「ナイフは左手で使いなさい」
と言えば、それで決まりでした。それが「絶対」だったのです。彼女が、そのすべての答えでした。
そして、もしあなたがフォークを左手に持ったなら、それは絶対に間違いだったのです。
彼女の名前は何でしたか。
〔会衆が答える。「エミリー・ポストです。」〕
ああ、それです。確かにそうです。そうでした。
さて、あなたがたは絶対に……彼女は、礼儀作法における「絶対」でした。必ずそのようにしなければならなかったのです。
ああ、そのようなものは、ほかにもたくさんあります。
しかし今では、それもなくなってしまったことが分かります。好きなように食べればよいのです。そうです。
よろしい。
けれども、それは礼儀作法における「絶対」だったのです。あなたはそのようにしなければならなかったのです。
79. 彼が何を言っても……。
彼が「跳べ」と言えば、人々は跳びました。
彼が「殺せ」と言えば、人々は殺しました。
何百万ものユダヤ人が、彼が頭を少し動かしただけで……。
そのような「絶対」がどうなるか、分かりますか。
それは力のように見えました。しかし、それは御言葉に反していました。
「どうして、それが御言葉に反していたと分かるのですか。」
神は言われました……。イスラエルを見下ろして呪おうとしたのは、バラムではありませんでしたか。彼は言いました。
「私は彼を一角獣のように見る。あなたの天幕は何と正しいことか。あなたを呪う者は呪われ、あなたを祝福する者は祝福される。」
ヒトラーにも、それが見えてもよさそうなものでした。
ドイツのクリスチャンたちにも、それが見えてもよさそうなものでした。分かりますね。
その「絶対」は……御言葉にまったく反していました。
ご存じのように、こう言われてきました。
「神は人を造られた。しかし、人は奴隷を造った。」
一人の人間が、もう一人の人間を支配しようとするのです。
私たちには、一人の支配者がおられます。それは神です。
しかし、ヒトラーはドイツの「絶対」でした。
今日、それを見てください。何が起こったか分かりますね。
それは間違った「絶対」でした。
なぜでしょうか。
御言葉に反していたからです。
そして今、それがどこへ行き着いたか分かりますか。
恥辱です。
80. もしあなたの「絶対」がキリストでないなら……。
キリストこそ、人間の人生における唯一の中心の柱です。
そしてキリストは御言葉です。
あなたの教会ではありません。御言葉なのです。分かりますね。
「この絶対の上に、わたしはわたしの教会を建てる。」
キリストの上に、すなわち御言葉の上に、です。
81. 私は、記事で読んだのか、本で読んだのか、それとも誰かから聞いたのかは分かりません。けれども、ある人がムッソリーニに面会していた時のことです。彼はローマに競技精神を取り入れようとしていました。
そして、そこには彼の大きな像が立っていたものです。競技を象徴するような像でした。
それ自体は結構です。ギリシャは何年も前から、そのような考えを持っていました。ローマもいつも、それを持とうとしてきました。
競技者であることは悪くありません。競技も悪くありません。
しかし覚えておいてください。
それはキリストに取って代わることはできません。
あなたがどれほど強くても、それは何の関係もありません。
主こそ、すべての力であられる御方なのです。
82. 彼は、自分自身をその「絶対」として、ローマをその上に建てようとしたのです。
ある日、彼の運転手が一分早く来たと言われています。すると彼は、その運転手を撃ったのです。
彼は言いました。
「私は九時一分前に来いとは言わなかった。九時に来いと言ったのだ!」
――バン! と撃ったのです。分かりますね。
「一分前に来てほしいのではない。九時に来てほしいのだ!」
分かりますか。
彼が、自分自身をどれほどの「絶対」にしようとしたか見てください。
しかし、何が起こったか分かりますね。
83. あちらのオッド・フェローズの建物にいた頃、まだここに来る前のことです。私が預言について語ったのを覚えていますか。
ある日、あそこで私は言いました。
「ムッソリーニは恥ずべき最期を迎えるでしょう。」
私は言いました。
「彼の最初の侵攻では、彼はエチオピアへ行くでしょう。そしてエチオピアは彼の足もとに倒れるでしょう。しかし彼は自分の終わりに至り、誰も彼を助ける者はいません。彼は恥辱のうちに葬られるでしょう。」
その通りになりました。
また私は言いました。
「三つの主義が起こりました。ナチズム、ファシズム、そしてコミュニズムです。」
私は言いました。
「これらの主義は回り巡って、一つになります。それはコミュニズムになるでしょう。見ていなさい。コミュニズムがローマを焼くでしょう。」
分かりますね。見ていてください。
それは神の御手の中にある道具です。
彼らは自分たちが神に逆らっていると思っていますが、実はいつも、そのまま神の御計画の中で動いているのです。ただそれを知らないだけです。
神は彼らを操り人形のように、ご自分の御手の中の道具として用いておられるのです。かつてネブカデネザルや、他の多くの者たちを用いられたようにです。
84. かつて、パロがエジプトの「絶対」であった時代がありました。しかし今、それがどこにあるか見てください。分かりますね。すべて失敗しました。
ああ、それは間違った種類のものなのです。ですから、そのようなものは必ず失敗します。
それらは人間が作った「絶対」です。
人間が作った「絶対」を受け取ることはできません。それが大統領であろうと、独裁者であろうと、王であろうと、教会であろうと、組織であろうと、信条であろうと、そのようなものはすべて滅びていくのです。
時代を通して、そのような種類の「絶対」がすべてそうであったようにです。
私たちは振り返って見ることができます。
振り返って見てください。
皇帝たちを信頼した人々を見てください。
独裁者たちを信頼した人々を見てください。
そのような「絶対」の上に自分の望みを築いた人々を見てください。
そして、今日、彼らがどこにいるかを見てください。
85. 彼らが今どこにいるかを見てください。
パウロは、ヘブル人への手紙十一章で、その人々について少しまとめて語っています。彼らが何をしたのかをです。
彼らは国々を征服し、義を行い、その他さまざまなことを成し遂げました。また、羊の皮ややぎの皮をまとってさまよいました。この世は、彼らにふさわしくなかったのです。
彼らは、栄光の中で、あの偉大な復活を待っています。分かりますね。
よろしい。
彼らの中には、そのような奇跡を得なかった者たちもいました。それでも彼らは、自分の体を差し出しました。あの復活を待ち望んでいたからです。
自分の人生を全うするために、彼らはこの世の命に執着しませんでした。むしろ進んで、自分自身をささげることを望んだのです。その復活を得るためでした。
そして彼らは、まさにその通りにしたのです。
86. ご存じのように、私たちの最高裁判所は一つの「絶対」です。それは、この国におけるすべての議論の最終的な終着点です。その通りです。
最高裁判所の決定は、この国においては「絶対」です。そうです。
ああ、もちろん私たちは、時にはその決定を好まないこともあります。それでも、それは「絶対」なのです。そうです。
もしそれがなかったら、どうなるでしょうか。けれども、それは一つの「絶対」なのです。確かにそうです。なぜなら、私たちの国はそれに結びついているからです。
最高裁判所が最終的な判断を下したなら、それで終わりです。その後、どこへ行くというのでしょうか。あなたはその決定に従うことになります。それだけです。従わなければならないのです。
彼らが最後の言葉です。
彼らが「アーメン」なのです。
あなたは地方裁判所で争うこともできます。治安判事のところで争うこともできます。そして、いろいろな裁判所を経て、連邦裁判所へ行くこともできます。
しかし、最高裁判所まで来たなら、それで終わりです。その通りです。
時には私たちは、
「その判断は気に入らない」
と言いたくなるかもしれません。
けれども、一度でもそこから逃れようとしてみなさい。
それはこの国の「絶対」なのです。
もしそれがなかったらどうなるでしょうか。そうです。
私たちには「絶対」が必要です。
誰にでも、それが必要です。
あなたにも一つあります。
私が今お伝えしようとしているのは、その背景を示し、「絶対」とは何かを分かっていただくことです。
さて、国の最高裁判所は、その国の「絶対」です。あらゆる争いにおける最後の場所です。彼らがそれを決着させます。
彼らが言うこと、それで決まりなのです。
87. それは審判です。ああ、そうです。
時には、私たちはその判定も好まないことがあります。けれども、それでもそうなのです。
審判、その判定が最後の言葉です。その通りです。
他の人が何と言おうと関係ありません。彼が「ストライク」と言えば、それはストライクなのです。その通りです。確かにそうです。
他の人が何と言っても、それは関係ありません。
少し考えてみましょう。私は野球の試合には行きませんが、たまたまそれを書き留めておいたのです。審判は、野球の試合における「絶対」です。
ある人が言います。
「今のはボールだ!」
別の人が言います。
「嘘をつくな!」
また別の人が言います。
「それは違う。こうであるべきだ。」
けれども審判が言います。
「ストライク!」
分かりますね。
すると、他の者たちは席に戻り、座るのです。
不平を言う人もいるでしょう。心の中で審判にブーイングしている人もいるかもしれません。けれども、それでもストライクなのです。
なぜでしょうか。
彼が最後の言葉だからです。
一塁手が言います。
「あれは通り過ぎたじゃないか!」
別の人が言います。
「それは間違っている!」
それでも審判は言います。
「ストライク!」
それで終わりです。
「黙って、自分の場所へ戻りなさい。」
88. いやあ、どんな試合になるか想像できますか。
一人が言います。
「今のはストライクだ!」
別の人はこう言います。
また別の人は、ああ言います。
そして誰かが言います。
「お前は嘘つきだ!」
そうなれば、口論になり、けんかになってしまうでしょう。
野球の試合を成り立たせるためには、「絶対」が必要なのです。
そして審判がそこへ出て来ます。あなたが彼を気に入ろうが気に入るまいが、それでも彼は「絶対」です。
彼が「絶対」なのです。
彼の言葉が最終決定です。
あなたがそれについて何を言おうとも、それはその通りなのです。
もしそうでなければ、試合全体が混乱に陥ってしまいます。
そうではありませんか。
89. この国に最高裁判所がなかったら、どこへ向かうでしょうか。国は混乱に陥ってしまうでしょう。
もし野球の試合に審判がいなかったら、どうなるでしょう。おそらく、最初の一球を投げる前から、誰かが言い争いを始めるでしょう。
誰かがそこに立っていて、本当に球がホームベースの上を通ったとしても、別の人がこう言うかもしれません。
「ああ、違う、違う、違う。そんなふうには通っていない。」
そうしたら、もう始まってしまいます。最初の球が投げられた瞬間に、それについて議論になるのです。
一人が言います。
「今のはストライクだ!」
もう一人が言います。
「ストライクではない!」
分かりますね。
その試合が結びついている誰かが必要なのです。
それが審判です。
審判が「ストライク」と言えば、ストライクです。
「ボール」と言えば、ボールです。
彼が何と言おうと、それが通ります。
それで決まりです。
もしそれがなければ、試合など成り立ちません。
90. 赤信号です。赤い信号です。
それが「止まれ」と言うなら、それは止まれという意味です。もしそれを無視して進むなら、その代価を払うことになります。
しかし、もしこの町に信号がなかったら、停止信号がなかったら、どんな町になるでしょうか。そこには「絶対」が必要なのです。
警察官が何を言ったとしても、またそこに立っている誰かが何を言ったとしても、それらは二次的なものです。
もし誰かが、あなたが青信号で通ったことを証明できるなら、警察官が何と言おうと関係ありません。その人たちの方が間違っているのです。
信号が「進め」と言ったなら、それは進めという意味です。
それが「絶対」です。
あなたはそれを証明できます。信号は「進め」と言ったのです。
警察官がどこかに立っていたとしても、市長がどこかにいたとしても、少しも関係ありません。
もしそれが「進め」であったという証拠があるなら、あなたは進むのです。そして誰かがあなたにぶつかって来たなら、それはその人の責任です。あなたはそれを証明できます。
その通りです。
私たちが今語っていることも、証明できます。その通りです。
さて、もし赤信号がなかったらどうでしょうか。
交差点へ走って来た時、どうなるか見てください。
一人が言います。
「おい、どいてくれ。私は急いでいるんだ。仕事に行かなければならない。もう遅れているんだ。私は今、通るぞ。」
もう一人が言います。
「そう思っているだけだろう。通るのは私の方だ。なぜなら、私の方が先にここに来たからだ。」
そして、女性が車から降りて、髪を整え始めるのが見えるようです。
もし赤信号がなかったらどうなるでしょうか。
交通渋滞にならないでしょうか。
91. その通りです。
だからこそ、私たちはこのような教派の渋滞を抱えているのです。まさにその通りです。
誰もどこにも進んでいません。ただ立ち止まって、言い争っているのです。
ここに神の光があります。
それが「行け」と言うなら、行きなさい。
それが「止まれ。ここまでで十分だ」と言うなら、止まりなさい。
その通りです。
私たちが土台としているのは、そこです。
その御言葉です。
どこかの人々の集まりが言ったことでも、別の人々の集まりが言ったことでもありません。
イエスは言われました。
「信じる者には、これらのしるしが伴う。」
それは「行け」です。
「全世界に出て行き、すべて造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」
92. 教会堂や建物も良いものです。けれども、主はそれを求められませんでした。
病院も良いものです。教会が病院を建てることもあります。それは結構なことです。私たちはそれを感謝します。けれども、主はそれを求められませんでした。
主が教会に言われたのは、
「福音を宣べ伝えなさい」
ということでした。
そして福音は、言葉だけで来たのではありません。御言葉の力と現れを通して来たのです。
パウロもそう言いました。
ですから、行って福音を現しなさい。
ああ、何ということでしょう。
もしそれが本当にそうであるなら……。
93. そして私たちは、その方々に敬意を表します。彼らのために祈ります。私は祈っていますし、皆さんもそうしておられることを願います。
その方々は、自分たちの理解と感覚を用いて働いています。彼らが用いる感覚は、見ること、触れること、そして聞くことです。
彼らは、心臓の音を聞いたり、腫瘍のようなものを触れて確かめたり、見えるものを目で見たりして働きます。病の広がりであったり、顔や体のどこかを覆っているものを見たりするのです。
彼らはそのようなものをもとに働いています。分かりますね。
そして薬を用いて、それを殺すだけの量、しかしあなた自身を殺してしまわない量を考えながら治療しようとします。それが彼らの働きです。
私たちはそのことを感謝しています。それはとても良いことです。
けれども、私たちには最高の医師たちがいて、最高の薬があり、最高の病院があるにもかかわらず、これまで以上に多くの病があります。
そして、これまで以上に不信仰が多いのです。
そうです。まさにその通りです。
94. また、彼らはどこかの神学校へ送り込まれます。まるで孵卵器の中のひよこのように、機械で次々に孵化させられて出て来るようなものです。そして時には、神について、ホッテントットがエジプトの騎士について知っている以上のことを、何も知らないのです。そのように送り出されるのです。そういうことです。分かりますね。
ああ、私たちの教会に必要なのは、「絶対」を持った人です。
メソジスト教会に必要なのも、バプテスト教会に必要なのも、ペンテコステ教会に必要なのも、長老派教会に必要なのも、「絶対」です。
神の人です。御言葉とキリストに結びついて立ち、その会衆を、各メンバーがこの御言葉の条件の中を歩む状態へと導く人です。そしてその御言葉が現されるのを見させるのです。
「信じる者には、これらのしるしが伴う。全世界に出て行きなさい。」
彼らは言いました。
「それはもう過ぎ去った。」
しかしイエスは言われました。
「全世界に出て行き、すべて造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」
私たちはまだ全世界に到達していません。まして、すべて造られた者には、まだ程遠いのです。
どれほど続くのでしょうか。
全世界までです。
誰に対してでしょうか。
すべて造られた者に対してです。
何が起こるのでしょうか。
「信じる者には、これらのしるしが伴う。わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい異言を語り、蛇を取り上げ、たとえ毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば、その人たちは回復する。」
そこにしっかり留まっている「絶対」、それが御言葉です。
あの北極星、そこにまっすぐ留まり続ける羅針盤です。
それこそ、私たちに必要なものなのです。
95. そして、私たちと同じように信じないからといってバプテスト派と争い、こちらのやり方でないからといってメソジスト派と争いました。
さらに大きな神学校を生み出し、より大きな教会堂を建て、より立派なクッション付きの長椅子を置き、より大きなオルガンを備え、さらに身なりのよい人々を集めました。
市長も、その他の人々も教会に入れました。
しかし、私たちは何を得たのでしょうか。
教派という「絶対」に結びつけられた、死の集団です。
死です。
ああ、そうならないように!
96. もし皆が出て行ってしまうとしても……。ある人が言いました。デイビス博士が私に言ったのです。
「ビリー、君がそんなことを説教するなら、教会の柱に向かって説教することになるぞ。」
私は言いました。
「それなら私は、神の御言葉を柱に向かって説教することになります。なぜなら、神はこれらの柱からでも、アブラハムの子らを起こすことがおできになるからです。」
その通りです。神の御言葉は真実です。
彼は言いました。
「彼らが君を信じると思うのか。」
私は言いました。
「それは私の務めではありません。私の務めは、その御言葉に真実であり続けることです。」
その通りです。
彼は言いました。
「このような教育された世界に、神の癒しという神学で向かって行けると思うのか。」
私は言いました。
「それは私の神の癒しではありません。主の約束です。任命をお与えになったのは、主ご自身なのです。」
97. 1933年6月、あの大いなる光の中で、主がそこへ降りて来られた時のことを。川の下流のあたりに立っておられました。
その時、主は言われました。
「バプテスマのヨハネが、キリストの初臨に先立って遣わされたように、わたしはあなたを、キリストの再臨に先立つメッセージをもって、世界へ遣わす。」
そして、そのメッセージは世界中へ行き渡りました。十五年もの間、ほとんどあらゆる山々にリバイバルの火が燃え上がってきました。
神の癒しが諸国へ広がり、力と回復が現されました。
そして今、私は信じています。それは向こうで最後の頂点に達しようとしているのです。教会を栄光へと携挙する信仰を生み出すためにです。〔不明瞭な言葉〕そして、それはメッセージの中に置かれているのです。
私たちは本当に終わりの時にいます。
私たちはそのことについて語り、いろいろと話してきました。けれども、その事柄が今、私たちの上に動いて来ているのです。
そうです。確かにそうです。
あなたは勝利したのです。その通りです。
98. 赤信号が、誰が進むのかを告げるのです。誰が何と言おうと関係ありません。大事なのは、赤信号が何と言っているかです。
もし赤信号を無視するなら、本当に交通渋滞を起こしてしまいます。
そこには「絶対」がなければなりません。そうです。
教会にとっても同じです。教会にも「絶対」がなければなりません。教会の中にいる人々にも、あなた自身の「絶対」が必要です。
しかし今日では、それぞれの教会が自分たちの「絶対」を持っています。分かりますね。
彼らは受け取ろうとしません。
「私たちバプテスト派は、これを信じています。」
「私たちメソジスト派は、これを信じています。」
「私たち長老派は、これを信じています。」
「私たちペンテコステ派は、これを信じています。」
それは結構です。けれども、なぜその残りも受け取らないのですか。残りの部分はどうしたのですか。
「私たちバプテスト派は、浸礼を信じています。」
それは良いことです。では、聖霊のバプテスマはどうですか。異言を語ることはどうですか。癒しの賜物はどうですか。預言はどうですか。
「ああ、いいえ。私たちはそれは信じません。それは別の時代のためのものでした。」
ああ、何ということでしょう。
99. 「私たちは、異言を語ることが証拠であると信じています。」
確かに、異言を語ることは結構なことです。
しかし、それでもなお、それが証拠ではありません。
多くの人々が異言を語ります。それは本当です。けれども、彼らはそこまでで止まってしまうのです。
悪魔は、聖書にあるどんな賜物でも、まねることができます。どんな賜物でもです。
パウロは言いました。
「たとえ私が人の異言や御使いの異言で語っても、たとえ自分の体を焼かれるために差し出しても、たとえ貧しい人々を養うために全財産を売り払っても、たとえ山を動かすほどの信仰を持っていても、たとえ神学校へ行って、学び得るすべての知識を学んだとしても、私はなお何者でもない。」
100. キリストです。
主を受け入れなさい。けれども、主の御言葉を受け入れずに、主を受け入れることはできません。
まず御言葉が来なければなりません。それから、その御言葉の中にいのちが入り、その御言葉を現すのです。
イエスは言われなかったでしょうか。
「もしわたしが父のわざを行っていないなら、わたしを信じなくてもよい。」
それは、神の御言葉が現されていたのです。
神がキリストの内におられ、世をご自身と和解させ、ご自身がどのような御方であるかを世に表しておられたのです。
それが「絶対」でした。
そこに、永遠の「絶対」があったのです。
さて、あなたは言うでしょう。
「ブラナム兄弟、それが永遠のものだったのですか。」
そうです。
「では、今日についてはどうなのですか。」
イエスは言われました。
「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを、その人もまた行うようになる。」
それは同じ「絶対」なのです。
よろしい。
101. ああ、何ということでしょう。
それは、ちょうど士師たちの時代のようです。人々は皆、自分の目に正しいと思うことを行っていました。
士師たちの時代には、誰もが自分自身の「絶対」を持っていました。自分のしたいことをそのまま行っていたのです。そして、今も同じです。人は皆、自分の目に正しいと思うことを行っています。
さて、士師たちの時代に、なぜ彼らがそうしたか分かりますか。これは少し驚かせるかもしれません。
しかし、士師たちの時代に彼らがそうした理由は、その時代には、主の御言葉が臨む預言者がいなかったからです。ですから、人々は自分の目にしたいと思うことを、何でも行うことができたのです。
そして、それこそが今日起こっていることです。
この教派の時代には、私たちには預言者がいません。けれども、神は一人を約束されました。分かりますね。確かにそうです。
終わりの日に、神は立ち上がって、再びエリヤをその場面に送り返されるのです。そして彼は、子どもたちの心を父祖たちの信仰へ、すなわち、初めのペンテコステへと立ち返らせるのです。
主がそう言われたことを、あなたがたはご存じでしょう。
102. 「あなたはこの人、ヨハネを何者だと思うのですか。」
と言った時、主は言われました。
「もしあなたがたが受け入れることができるなら、この人こそ、『見よ、わたしはわたしの顔の前に、わたしの使者を遣わす』と語られていた者である。」
それはマラキ書3章です。マラキ書4章ではありません。
しかし覚えておいてください。もしそれがマラキ書四章であったなら、御言葉は失敗したことになります。なぜなら、そこでは、まさにその時に全世界が焼かれ、正しい者たちが悪しき者たちの灰の上を歩く、と言われているからです。
いいえ。混同してはいけません、兄弟。
それが語っている通りに、そのまま語らせなさい。
その通りです。主は終わりの日にそれを約束されました。そしてそれは、そのただ中に現れるのです。
103. その御言葉を生きたものにすることのできる人がいなかったのです。預言者がいませんでした。
主の御言葉は、いつも預言者に臨みます。その通りです。そして彼は、いつも憎まれます。ただ彼を愛する小さな群れだけがいるのです。分かりますね。けれども、いつもそうでした。
神はご自分の方針を変えられません。神であられる以上、それを変えることはできません。
もし神が一度でも何かを言われ、何かをなさったなら、次にも同じようになさらなければなりません。同じ危機が起こった時、もし二度目に、最初と同じように行動されないなら、最初に間違って行動されたことになってしまいます。
そして、誰が神に「あなたは間違って行動された」と訴えることができるでしょうか。
あなたは何者であって、神に罪を負わせることができるでしょうか。
それこそ、イエスが言われたことです。
「あなたがたのうち、誰がわたしに罪があると責めることができるか。」
罪とは何でしょうか。
不信仰です。
「信じない者は、すでに罪に定められている。」
「あなたがたのうち、誰が、わたしがメシヤのなすべきことをすべて成就していないと示すことができるか。」
分かりますね。
誰も一言も語りませんでした。
主は成就しておられたのです。メシヤは預言者であり、主はご自分がその御方であることを証明しておられました。
彼らには、マラキ以来、何百年もの間、預言者がいませんでした。そして、そこに主が現れたのです。
主は人々にとっては神秘的な存在であり、彼らの教会にとってはつまずきの石でした。なぜなら主はこう言われたからです。
「見よ、わたしはシオンに、隅の親石、尊い石、試みられた石を置く。ああ、それはつまずきの石である。」
そうです。
「しかし、その方を信じる者は、恥を見ることがない。」
その通りです。
そこに主がおられ、聖書をまさにその通りに成就されたのです。
けれども、主を信じた人々には、「絶対」がありました。
104. いや、それが起こる前から、彼女には「絶対」がありました。彼女は知っていたのです。
「私は、あなたが世に来るべき神の御子であると信じています。たとえ今、私の兄弟が死んでいても、ただ御言葉を語ってください。神がそれをなさいます。」
アーメン。
彼女は絶対的に確信していました。その通りです。
彼女がそう言い、しかもそれを心から言った時、主は言われました。
「彼をどこに葬ったのか。」
彼らは言いました。
「来て、ご覧ください。」
そこに主は、幻を持って立っておられました。なぜなら主は言われたからです。
「わたしは、父がまず示してくださること以外には、何も行わない。」
ヨハネ五章十九節です。
主はラザロの家から離れて行かれました。人々は、主に来て祈っていただくために使いを送りました。
主は、ラザロが死ぬことを知っておられました。そして一定の時が過ぎた後、主は言われました。
「わたしたちの友ラザロは眠っている。」
弟子たちは言いました。
「それなら、よくなるでしょう。」
主は言われました。
「彼は死んだのです。そして、あなたがたのために、わたしがそこにいなかったことを喜んでいます。」
もし主がそこにおられたなら、人々は彼のために祈ってくださいと求めていたでしょう。
それから主は戻って来られ、こう言われました。
「しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
ああ、何ということでしょう。
「行って、何ができるか見てみよう」ではありません。
「わたしは彼を起こしに行く」のです。
なぜでしょうか。
「父がすでに、わたしに何をすべきかを示してくださった」からです。
105. そこに一人の人が立っておられました。
肉体を取られた神が、そこに立っておられたのです。
その方は、その石に向かって、
「溶けてなくなれ」
と言うこともできました。そうすれば、その石は溶けてなくなったでしょう。
しかし主は、そこにいた女性たちに言われました。あの貧しい小さな女性たち、若い女性たちに言われたのです。
「石を取りのけなさい。」
分かりますね。
あなたがたにも、すべきことがあるのです。
それで彼女たちは石を転がして取りのけました。すると、ひどい臭いがしました。彼はすでに臭っていたのです。
そこに主は立っておられました。
ああ、何ということでしょう。
私は、主がその小さな、弱々しい体をまっすぐに伸ばされるのが見えるようです。というのは、聖書は「私たちが慕うような美しさは彼にはなかった」と言っているからです。主は見た目には、それほど目を引く方ではなかったのです。分かりますね。
106. あの大きく立派な兄たちについて、人々は、
「彼なら、頭に冠をかぶったらさぞ見栄えがするだろう」
と思ったことでしょう。
エッサイは言いました。
「この年上の息子をお取りください。」
しかしサムエルは言いました。
「神は彼を退けられました。」
そしてエッサイは、自分の息子たちを皆、連れて来ました。
サムエルは言いました。
「ほかに息子はいないのですか。」
エッサイは言いました。
「ええ、一人います。けれども、彼は王らしくは見えません。小さくて、少し肩を落としたような、血色のよい若者です。」
「彼を連れて来なさい!」
そして彼がその預言者の前に歩いて来た途端、御霊が彼の上に臨みました。
サムエルは油を持って走り寄り、それを彼の頭に注いで言いました。
「これがあなたがたの王です。」
それで決まりです。
そうです。確かにそうです。
107. 聖書を見ると、主は四十歳くらいに見えたのかもしれません。
ユダヤ人たちは言いました。
「あなたはまだ五十歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのですか。」
主は言われました。
「アブラハムが生まれる前から、わたしはある。」
ああ、何ということでしょう。
ヨハネによる福音書六章です。
そして私たちは、ここで主が墓のそばに立っておられるのを見ます。
主は、その幻が必ず実現しなければならないことを知っておられました。それが必ずそうなることを知っておられたのです。
「石を取りのけなさい!」
彼はすでに臭っていました。墓の布に巻かれ、四日間死んでいました。その時間のうちに、彼の鼻もすでに落ち込んでいたことでしょう。
108. 「わたしは、よみがえりであり、いのちである。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。」
そのような宣言を、人間ができるでしょうか。
「また、生きていて、わたしを信じる者は、決して死ぬことがない。あなたはこれを信じるか。」
彼女は言いました。
「はい、主よ。」
主は、彼女を失望させたように見えました。彼女が呼びにやった時、主は来られませんでした。もう一度呼んでも、主は来られませんでした。
けれども、彼女はここで言いました。
「私は、あなたが世に来るべきキリストであることを知っています。」
主は言われました。
「ラザロよ、出て来なさい。」
そして、四日間死んでいた人が……。
なぜでしょうか。何だったのでしょうか。
キリストには「絶対」があったのです。
主は幻を見ておられました。それは失敗することができませんでした。
その通りです。
失敗することはあり得なかったのです。
主は絶対的に確信しておられました。
そしてマルタも絶対的に確信していました。
もし主に、自分が主をどのような御方として信じているかを認めていただけるなら、自分の求めているものを受けることができる、と。
その通りです。
そこに「絶対」がありました。
それは御言葉と結びついていたのです。
そして、それで決まりだったのです。
109. 士師たちの時代を見てください。
また、あの時代を見てください。確かエリヤ、あるいはエリシャだったと思います。そうです。あの死んだ子どものことです……。シュネムの女が……。
エリヤは、その日の神の人でした。単なる頭の良い教師ではありませんでした。
けれども彼は、年老いた男のように歩いて来る人でした。もし今日、あなたの家の戸口にやって来たなら、あなたはおそらく彼を追い払ってしまうかもしれません。
国全体が彼を憎んでいました。イゼベルも、その他すべての者たちも彼を憎んでいました。なぜなら、彼女はホワイトハウスに座って、すべての女性たちに自分と同じようにさせていたからです。そして皆が彼女にならったのです。
アハブは、彼女の力によって心を向けられ、支配されていました。
今日の私たちも、そこからあまり遠く離れてはいません。ほとんど同じようなものです。そういうことなのです。
彼らは皆、人気や評判に夢中で、すっかり覆われてしまっていたのです。
110. 「私は、この方が神の聖なる人であることを見ています。」
そして、その子どもが死んで横たわっていた時、彼女は言いました。
「そのらばに鞍を置きなさい。そして、止まってはいけません!」
彼女はそこへ上って行きました。彼女は知っていたのです。
私は、彼女のその来方が好きです。彼女は自分の「絶対」に、自分の結びの柱に向かって行ったのです。
エリヤは言いました。
「見なさい、あのシュネムの女が来る。彼女は心を痛めている。しかし、何があったのか私には分からない。」
分かりますね。神はご自分のしもべたちに、すべてを示されるわけではありません。ただ、神が彼らに知らせたいことだけを示されるのです。
ですから彼は言いました。
「彼女の心は悲しんでいる。しかし、私には分からない。」
そして言いました。
「ゲハジ、走って行って、何があったのか見て来なさい。」
彼は言いました。
「あなたは大丈夫ですか。あなたの夫は大丈夫ですか。あなたの息子は大丈夫ですか。」
彼女を見てください。
ああ、何ということでしょう。これなのです。
彼女は言いました。
「すべて大丈夫です。」
なぜでしょうか。
彼女は自分の「絶対」のところまで来ていたからです。
「すべて大丈夫です。」
そして彼女はひざまずきました。まず彼の足もとに倒れましたが、ゲハジは彼女を起こしました。それは主人の前では正しいことではありませんでした。彼女を起こしたのです。
すると彼女は、彼に話し始めました。
111. 彼は、幻によって彼女にその子を与える力があったことは知っていました。けれども今、彼に何ができるでしょうか。
彼は自分の杖を取り、その部屋へ下って行き、すべての戸を閉め、他の者を皆、外へ出しました。そして部屋の中を行ったり来たり歩きました。
もし彼がその御方に触れることさえできるなら、彼には「絶対」があったのです。
部屋の中を、行ったり来たり、上ったり下ったり。
ああ、何ということでしょう。
やがて、何かが彼に触れたのを感じました。彼はその子の上に身を伏せました。それからまた起き上がり、離れました。
すると、その子は少し動き、温かくなりました。
彼はまた行ったり来たりしました。まだ、その「絶対」と十分に接触できていなかったのです。
「主よ、それは何でしたか。あなたは何をせよと言われたのですか。」
おそらく彼が振り向いた時、彼は幻を見たのでしょう。その小さな男の子が走り回り、縄跳びでもして遊んでいるような姿を見たのです。
彼はその子の上に身を投げ出しました。自分の鼻をその子の鼻に、自分の唇をその子の唇に当てました。
すると神の力が、その子をいのちへとよみがえらせたのです。
それは何だったのでしょうか。
その女の「絶対」は預言者でした。
預言者の「絶対」は神でした。
そして御言葉と共に、
「わたしは、よみがえりであり、いのちである。神の力、創造主である」
という御方がそこにおられたのです。〔不明瞭な言葉〕
その子は、再び起き上がったのです。
112. 人々が皆、自分のやり方で行っていた理由は、主の御言葉が臨む預言者がいなかったからです。その時代には、御言葉と預言者が欠けていたのです。
ああ、私は自分が回心した時に、私たちの生きている時代において、そのことを見ました。
教会が私をつかむ前に、神が私をつかんでくださったことを、私は本当に感謝しています。もしそうでなければ、私はおそらく不信仰者になっていたでしょう。そうです。本当にそうです。
このごちゃ混ぜの混乱、皆がこう言うのです。
「こちらへ来て、私たちのところに加わりなさい。もしそうしないなら、あなたの転会状を持って、別のところへ行けばよい。」
ああ、何ということでしょう。
「あなたの転会状を持って、私たちの交わりに入って来ませんか。」
私は、一つの手紙だけがあると信じています。
それは、キリストがあなたの名前を小羊のいのちの書に書いてくださる時のものです。
それだけが、唯一のものなのです。
113. 私はこの町にある、ある教派の教会へ行きました。すると彼らは言いました。
「私たちこそが道であり、真理であり、光です。私たちがすべてを持っています。」
それからニューオールバニーにある別の教会へ行きました。すると彼らは言いました。
「ああ、あそこの人たちは、自分たちが何を話しているのか分かっていないのです。」
カトリックの人たちは言いました。
「あなたがたは皆、間違っています。」
私は思いました。
「ああ、何ということだ。」
私は小さなルーテル派の少年と遊んでいました。ドイツ系の小さなルーテル派の子でした。それで私は彼のところへ行って言いました。
「君はどこの教会へ行っているの。」
彼は言いました。
「僕はあの教会へ行っているよ。」
私はそこへ行ってみました。すると、そこでも彼らは自分たちが道であると言っていることが分かりました。
それから私はデール兄弟のところ、エマニュエル・バプテスト、あるいは第一バプテストへ行きました。彼らは言いました。
「これが道です。」
それから私はアイルランド系の教会へも行きました。すると彼らは言いました。
「いや、これが道です。」
ああ、何ということでしょう。
私はとても混乱しました。何をすればよいのか分かりませんでした。
けれども、私は正しくなりたかったのです。
114. それで、手紙を書いたのです。
私は思いました。
「私は森の中で主を見た。」
それで、主に手紙を書きました。
「拝啓、
私はあなたがこの小道を通られることを知っています。なぜなら、私はここに座ってリス猟をしているからです。私はあなたがここを通られることを知っていますし、あなたがここにおられることも知っています。私はあなたに……あなたにお伝えしたいことがあります……。」
その時、私は思いました。
「いや、ちょっと待て。私は、誰かに会った時に……その人と話したいと思うではないか。言葉を交わしたいと思う。私はこの方と話したいのだ。」
私は思いました。
「では、どうすればよいのだろう。私にはその方法が分からない。」
115. 私は言いました。
「たしか、写真で見たことがあるように思う。人はこうして手を組むのだったと思う。」
それで私はひざまずきました。
そして言いました。
「さて、私は何と言えばよいのだろう。」
私は言いました。
「これには何か、正しいやり方があるはずだ。でも私には分からない。何事にも近づき方があることは知っている。けれども、私は……。」
それで私は、手をこのようにして言いました。
「拝啓、どうか少しの間、来て私と話していただきたいのです。私は、自分がどれほど悪い者であるかを、あなたにお伝えしたいのです。」
私はそのように手を合わせたまま、耳を澄ませました。
人々は、神が自分に語られたと言っていました。そして、私は神が語られることを知っていました。子どもの頃、酒を飲んではいけないなどと語られるのを聞いたことがあったからです。
けれども、主は私に答えてくださいませんでした。
私は言いました。
「もしかすると、手はこうするべきだったのかもしれない。」
それで私は言いました。
「拝啓、私はこれをどうすればよいのか、正確には分かりません。けれども、あなたが……どうか私を助けてくださると信じています。」
116. 「うちの教会に来て加わりなさい」
と言いました。
そして、立ち上がって、イエス・キリストを受け入れたと言い、イエスが神の御子であると信じていると言えばよい、と言うのです。
しかし、悪魔どもでさえ同じことを信じています。ですから私は思いました。
「私は、それ以上のものを持たなければならない。」
それで私は、このように座っていました。
私は、ペテロとヨハネが「美しの門」と呼ばれる門を通った時のことを読みました。そこには、母の胎内にいた時から足の不自由な人がいました。
彼らは言いました。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを……」
ああ、私は、自分にはそれがないことを知っていました。
それで私は、どうすればよいのかを知ろうとしていました。祈り方が分からなかったのです。
手を組んでみました。それから、このように横になってみました。
もちろん、その時サタンが現れて言いました。
「ほら見ろ。お前は待ちすぎたのだ。もう二十歳になっている。今さら試しても無駄だ。」
117. そして本当に心が砕かれた時、私は言いました。
「私は話します。あなたが私に話してくださらなくても、私はとにかくあなたに話します。」
それで私は言いました。
「私はだめな者です。自分自身を恥じています。神様、あなたがどこかで私の声を聞いてくださることを、私は知っています。聞いてくださっていますか。私は自分を恥じています。あなたをなおざりにしてきたことを恥じています。」
ちょうどその時、私は見上げました。すると、不思議な感覚が私の上に押し寄せてきました。
光が部屋の中を動いて来て、このように十字架を形づくったのです。そして、私がこれまでの人生で一度も聞いたことのない声が語りました。
私はそれを見つめました。全身が冷たくなり、しびれたようになりました。恐ろしくなりました。動くことができませんでした。
ただ立ったまま、それを見つめていました。
すると、それは去って行きました。
118. 「主よ、私はあなたの言葉が分かりません。あなたが私の言葉で話すことができず、私もあなたの言葉が分からないのなら……。
もしあなたが私を赦してくださったのなら、私はあの十字架のどこかに数えられるべき者であり、私の罪はそこに置かれるべきものだと知っています。
もしあなたが私を赦してくださるなら、どうかもう一度戻って来て、あなたご自身の言葉で語ってください。あなたが私の言葉で話せないなら、それによって私は理解します。」
私は言いました。
「ただ、もう一度それを戻って来させてください。」
すると、それが再び現れたのです。
ああ、何ということでしょう!
その時、私は「絶対」を得ました。
アーメン。
そうです、確かにそうです。
まるで四十トンもの重荷が、私の肩から持ち上げられたように感じました。
私はその板張りの歩道を歩いて行きましたが、まるで地面に足が触れていないようでした。
119. 「ビリー、あなたは神経が高ぶっているのよ。」
私は言いました。
「いいえ、お母さん。何が起こったのか、私にも分からないのです。」
裏手に鉄道の線路がありました。私はその線路の方へ走って行き、力いっぱい空中へ飛び上がりました。自分の感情をどう表したらよいのか分からなかったのです。
ああ、もし叫ぶということを知っていたなら!
私は叫んでいたのです。ただ、自分なりのやり方で叫んでいたのです。分かりますね。
それは何だったのでしょうか。
私は、自分の魂を安息の港に錨でつないだのです。
それで決まりでした。
それが私の「絶対」でした。
そこで私は、何かを見つけたのです。神話のようなものでも、ただの考えでもありません。
私は、その方と語ったのです。
私は、私に酒を飲んではならない、煙草を吸ってはならない、自分を汚すようなことをしてはならない、女性のことで身を汚してはならない、そして大人になった時には私のなすべき働きがある、と告げてくださったその方と語ったのです。
私は主に触れたのです。
教会に触れたのではありません。
主に触れたのです!
主にです!
そうです、確かにそうです。
その方こそ、主だったのです。
120. 第一次世界大戦の後のことでした。そこに立っているファンク兄弟も、兵士でしたね。
彼は言いました。
少し冗談のように聞こえるかもしれません。冗談を言う場ではありませんが、彼が言ったのはこういうことでした。
「隊長が私たちを外へ連れ出して言いました。
『あの地域全体には、日本兵がいっぱい潜んでいる。明日、諸君、我々はそこへ入る。彼らを取らなければならない。覚えておけ。今日ここに立っている我々の多くは、明日ここにはいないだろう。明日の朝、夜明けと共に突入するのだ。さあ、それぞれ自分の宗教のところへ行きなさい。』」
その人は言いました。
「しかし、私には何の宗教もありませんでした。」
そして言いました。
「私はそこに立っていました。他の者たちは皆……。」
「すると従軍牧師が来ました。プロテスタントの人たちはこちらへ行き、ユダヤ教の人たちはこちらへ行き、カトリックの人たちはそれぞれの従軍牧師と共にあちらへ行きました。」
彼は言いました。
「私はただ、そこに立っていました。」
121. 「指揮官が私に言いました。
『君、自分の宗教のところへ行った方がいい。』」
私は言いました。
「私にはありません。」
彼は言いました。
「それなら、何か持った方がいい。すぐに必要になるだろうからな。間違いない。」
ちょうどその時、彼は一団が通り過ぎて行くのを見ました。それはカトリックの人たちでした。
彼は、その司祭のところへ歩いて行って言いました。
「私に何か宗教をいただけませんか。」
するとその司祭は言いました。
「来なさい。」
彼は言いました。
「それで彼は私を中へ連れて行き、私をカトリックにしたのです。」
ニューオールバニーには、ジョン・ハワードや、ほかにも本当に熱心なカトリックの人たちが座っていました。この人がその話をしていた時のことです。
そして彼は言いました。
「翌日、戦闘の中で……。」
彼は、その様子がどれほど激しかったかを話していました。彼はとても大柄な人でした。
彼は言いました。
「白兵戦になりました。彼らはただナイフで突き刺し、叫び、切りつけ、斬り合っていました。」
彼は言いました。
「戦線は入り乱れ、互いにすぐそばまで入り込んでしまいました。」
日本兵は、彼らをそのまま中へ入らせたのです。そして大きな機関銃が、四方八方から唸り声を上げていました。白兵戦だったのです。
122. 「やがて、私はこんなふうに立ち止まりました……。」
そして言いました。
「周りは叫び声や混乱で、自分の声さえ聞こえないほどでした。血がありました。」
彼は言いました。
「私は見ました。すると、それは私の血だったのです。」
そして言いました。
「ここを見ると、私の脇腹に穴が開いていました。それは私の血でした。」
そして彼は言いました。
「ご存じでしょう、私は……。」
すると、本当に……カトリックの友人のことですが、今これは少し面白く言っているだけです。けれども、ある忠実なカトリックの人が言いました。
「あなたは『アヴェ・マリア』を唱えたのですか。」
彼は言いました。
「いいえ、違います。それは私の血だったのです。私は秘書など必要としていませんでした。私は言いました。『私は一番上の方と直接話したいのです。』」
彼は言いました。
「それは私の血だったのです。」
私は、それがまさにその通りだと思います。そうです、確かにそうです。そういうことなのです。
私たちには、結びつく柱、「絶対」が必要です。
彼は言いました。
「私には、主の秘書と話している時間などありませんでした。私は主ご自身と話したかったのです。」
そして、それなのです、兄弟。
人がキリストのもとへ来る時、どこかの説教者の言葉や、秘書の言葉や、何か他のものを受け取りたいのではありません。
あなたがたプロテスタントの人たちも、あれやこれやを受け取ってはいけません。
その「絶対」のところへ行きなさい。
新しく生まれることによって、そこに錨を下ろすまでです。
再び生まれ、聖霊に満たされ、あなたの人生を通して、謙遜と愛のうちに聖書が現されているのを見るまでです。
ああ、その時、それがあなたの「絶対」なのです。
そうです、確かにそうです。
123. ドイツの教会が、
「それはこうです」
と言い、メソジストも、バプテストも、カトリックもそれぞれ言いました。
しかし私は御言葉の中で、主がこう言われたのを読みました。
「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる。地獄の門も、それに打ち勝つことはできない。」
さて、よく聞いてください。終わりに近づいています。
プロテスタントはこう言います……。
そしてカトリックは、主がそれをペテロの上に建てたと言います。
「あなたはペテロである。そしてこの岩の上に……。」
いいえ、主は決してそうされませんでした。
もしそうだったなら、それはすぐに後退してしまったことになります。彼らは、それを一人の人間の上に建てたのです。
では、主は何をなさったのでしょうか。
プロテスタントは、主がそれをご自身の上に建てたと言います。
いいえ。主はそうされませんでした。
主はそれを、ご自身の上に建てられたのではありません。
では、主は何をなさったのでしょうか。
「人々は、人の子であるわたしを誰だと言っているか。」
ある人々は言いました。
「あなたはエリヤです。」
また、
「モーセです。」
と言う者もいました。
主は言われました。
「では、あなたがたは、わたしを誰だと言うのか。」
ペテロは言いました。
「あなたはキリスト、生ける神の御子です。」
124. 「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。肉と血がこれをあなたに示したのではありません。あなたはそれを、どこかの司祭から学んだのでもなく、どこかの神学校で学んだのでもありません。天におられるわたしの父が、あなたにそれを啓示されたのです。そしてこの岩の上に――すなわち、御言葉の霊的な啓示の上に――わたしはわたしの教会を建てます。地獄の門も、それに打ち勝つことはできません。」
私は思いました。
「主よ、それです。」
私はまた、黙示録の二十一章……二十二章を読みました。そこには主がこう言われています。
「だれでも――これは完全なものです――だれでもこれに何かを差し加える者、だれでもこれから何かを取り去る者、つまりそれが真実であることを否定する者、あるいは、これを少し良くしようとして、今の時代に合うように磨き上げようとする者、だれでも加えたり取り去ったりする者は、その人の受ける分が、いのちの書から取り去られる。」
私は言いました。
「それなら主よ、私に必要なのはこれだけです。これを信じることです。そしてこの中に、あの十字架があり、キリストが来られたのです。」
それは初めから終わりまで完全です。主が語られた一つひとつの言葉が完全です。
片手にこの書を取り、もう一方の手に歴史を取り、それをたどっていくなら、それはまっすぐに確証されていきます。まったく完全です。
そして私は言いました。
「それなら主よ、私を受け入れてください。」
その時、私はキリストを受け入れました。
聖霊を、私の心の中に受け入れたのです。
私の「絶対」です。
それは私ではありませんでした。
125. 私は道を上って行きながら泣いていました。彼女の墓へ向かっていたのです。彼女と赤ん坊の墓です。赤ん坊は彼女の腕に抱かれていました。
私が歩いて上って行くと、アイズラー氏――以前ここに来て演奏してくださっていた方で、インディアナ州の上院議員でしたね――彼が道を上って来ました。
彼は車を止め、走って来て、私に腕を回して言いました。これは1937年の洪水の後のことでした。
「ビリー、どこへ行くんだ。あそこへ行くのか。」
私は言いました。
「はい。」
彼は言いました。
「あそこへ行って、何をするつもりなんだ。」
私は言いました。
「年老いた鳩の声を聞くのです。私は赤ん坊の墓と彼女の墓のそばに座ります。すると一羽の年老いた鳩がそこへ降りて来て、私に語ってくれるのです。」
彼は言いました。
「ああ、ビリー……。」
私は言いました。
「ええ。木の葉がそよぐ時、そのささやきを聞くのです。それは私のために音楽を奏でてくれます。」
アイズラー氏は言いました。
「どんな音楽を奏でるんだい。」
私は言いました。
川の向こうに一つの地がある
人々はそこを、甘き永遠と呼ぶ
私たちは信仰の定めによってのみ
その岸へたどり着くことができる
一人また一人と、私たちはその門に至り
そこで朽ちることのない者たちと共に住む
いつの日か、金の鐘が鳴り響く
あなたと私のために。
126. 「ビリー、一つ聞きたいことがある。今、キリストは君にとって何なのか。キリストは君にとって、何を意味しているのか。」
私は言いました。
「主は私のいのちです。私のすべてです。私が持っているものは、主だけです、アイズラーさん。主は私の究極です。私がすがることのできるすべてなのです。」
なぜでしょうか。
そこには、何かが起こっていたからです。
「この岩の上に……」
彼は言いました。
「私は、君がこの角に立って、今にも倒れて死んでしまいそうに見えるほど説教しているのを見てきた。夜のどんな時間でも、通りを行ったり来たりしながら、病人を訪ねている君を見てきた。そして、主が君自身の妻と赤ん坊を取られた後でも、それでもなお君は主に仕えるのか。」
私は言いました。
「たとえ主が私を殺されても、私はなお主に信頼します。」
なぜでしょうか。
私の錨は、幕の内側にしっかり留まっているからです。
私には「絶対」があったのです。
私は自分自身を主の御言葉に結びつけていました。そして主の御言葉が私を支えていたのです。
主こそ、私の「絶対」です。
私は知りました。
他のすべてのものは失敗するかもしれません。
しかし、キリストは決して失敗されません。
127. プロテスタントは、自分たちの監督、信条、総監督たちを「絶対」としています。
けれども私は、パウロのように……。
鉛筆を持っていますか。書き留めてください。
パウロは使徒行伝二十章二十四節で言いました。
「これらのことは、どれも私を動かしません。」
ああ、彼らは信条を持っていてもよいのです。あなたがたは、自分の望むものを持っていてもよいのです。けれども、それらのものは私を動かしません。
私は自分の魂を安息の港に錨でつないだ。
荒れ狂う海を航海するために。
どこにいるのかも分からないような、
こちらへ、あちらへと揺さぶられる海を、
もはや恐れない。
嵐が荒れ狂う深い海を吹き荒れても、
すべてが退いてしまっても、
イエスの内にあって、私はいつまでも安全です。
そうです。
これらのことは、何一つ私を動かしません。
なぜなら、私は錨につながれているからです。
パウロは言いました。
「ああ、あの道で主にお会いして以来、私は錨につながれているのです。主が私を向き直らせ、正しい道へ戻してくださいました。」
覚えておいてください。パウロもまた、組織に属していました。しかも、その地で最大の組織に属していたのです。けれども彼は、「絶対」に結びつけられたのです。
128. 主が私を救われたのには、目的がありました。
主があなたを救われたのにも、目的がありました。
そして私は、主の御心によって、それを成し遂げようと決意しています。そこに何かを加えることも、そこから何かを取り去ることもしません。
もし書き留めたいなら、黙示録22章19節です。
よろしい。
「だれでも取り去る者は……」
私は決意しています。私はまもなく教会を離れることになるでしょう。皆さんもそれをご存じです。ですから私は、神の助けによって、生きている限り、この福音にとどまり続けようと決意しているのです。
覚えておいてください。ここに恵みがあります。
主が私を救ってくださった時、罪の中で死につつある人々は何百万といました。
その中で、主が私を救われるとは、私は何者だったのでしょうか。
主が私を救われたのには、目的がありました。
そして私は、その目的を果たそうと決意しています。
私は気にしません。私の終わりは、もうすぐかもしれません。
しかし、それが何であろうとも、私はなお錨を下ろしています。
私は、それを一度も変えたことがありません。
129. 「ビリー、これほどの苦しみの中で、君は自分の信仰を保ったのか。」
私は言いました。
「いいえ、そうではありません。信仰が私を保ってくれたのです。」
分かりますね。
私の錨はしっかり留まっていました。
その通りです。
私がそれを保ったのではありません。
それが私を保ってくれたのです。
私には、それを保つことなどできません。
私にそれをする道はありません。
けれども、それが私を保ってくれるのです。
そうです、確かにそうです。
主が私を救われたのには、目的がありました。
私が主のもとに来た時、罪の中にいる人々は何百万といました。
けれども、主は私を救ってくださいました。
主がそうなさったのには、目的があったのです。
キリストの死は、その恐れに対する「絶対」でした。
130. 死という蜂が主を刺し、その針を深く打ち込んだ時……。ご存じでしょう。蜂や、針を持つ虫は、もしその針を深く刺し込むなら、そこから離れる時に、その針を自分の体から引き抜いてしまいます。
死には、いつも針がありました。
死には、いつも針がありました。そしてある日、あの……カルバリーへ上って行かれる時、岩にぶつかりながら、血がその岩々の上に飛び散っていました。ゴルゴタへ向かう途中、カルバリーの土にその血が落ち、十字架の背は、あの小さな、弱々しい体が歩いて行かれる、その血まみれの足跡を引きずるようにして進んでいました。
彼らは、主が丘を上って行かれる間、主を鞭打ち、打ち砕いていました。
しかし主には「絶対」がありました。
主は、ご自分がどこに立っておられるかを知っておられました。
なぜなら、神の御言葉がダビデを通してこう語っていたからです。
「あなたは、あなたの聖なる者に朽ち果てることを見させず、その魂を黄泉に捨て置かれない。」
主は、腐敗が七十二時間で始まることを知っておられました。
主は言われました。
「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日のうちに、それを再び起こします。」
主には「絶対」があったのです。
そこに主は丘を上って行かれました。あざけりの塊のようなものを受けながら、酔った兵士たちの唾を浴びながらです。彼らは主の顔に布を巻き、頭を打って言いました。
「お前が預言者なら、誰が打ったのか言ってみろ!」
そこに主は、恥と辱めの中を丘へ上って行かれました。衣をはぎ取られ、恥をものともせず、人々の前で裸のまま十字架にかけられました。
ローマの恥辱の中で、政府による死刑のもとで死なれたのです。何一つ悪いことをなさらなかった御方が。
131. 「この方が何をなさったというのですか。あなたがたの病人を癒し、死者をよみがえらせ、捕らわれていた者たちに解放をもたらされたではありませんか。この方が何をなさったというのですか。」
すると一人の祭司が、彼女の口を打ち、血が飛び出るほどでした。そして言いました。
「お前たちは、この女の言うことを聞くのか。それとも、自分たちの大祭司に聞くのか。」
ああ、あの教派の世界です。
それはすべてに対する呪いです。
そういうことです。
そこにあるのです。
132. しかし、主が十字架を引きずりながら丘を上って行かれる時……悪魔はいつも、主がご自分の言われる通りの御方であることを疑わせようとしていました。
悪魔は言いました。
「もしあなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。あなたは奇跡を行えると言うのか。もし神の子なら、この石をパンに変えてみなさい。」
その同じ古い悪魔が、今日も生きています。その通りです。
「もしあなたが神の癒しを行う者なら、ここに、あの誰それさんが座っている。私は彼が足の不自由な人だと知っている。彼を癒してみなさい!」
それが同じ古い悪魔であることが分からないのですか。
イエスは言われました。
「わたしはただ……」
見てください。主はベテスダの池を通られました。そこには、足の不自由な者、目の見えない者、歩けない者、衰えた者たちが、何千人も横たわっていました。
けれども主は、歩くことのできる一人の人のところへ行かれました。その人は動き回ることができました。もしかすると前立腺の問題だったかもしれません。何であったにせよ、それは長引いた病でした。彼は三十八年もそれを患っていたのです。
彼は言いました。
「私が池に入ろうとすると、ほかの人が先に入ってしまうのです。」
彼は歩くことができました。
主は、そこに横たわっていた他の人々を皆そのままにして、その一人のところへ行き、その人を癒されたのです。
なぜでしょうか。
主は、その人がそのような状態に長くいたことを知っておられた、と言われました。
それから人々が主を見つけ、主に問いただした時――ヨハネによる福音書五章です――主は言われました。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、自分からは何もすることができません。ただ、父がなさるのを見ることだけを行うのです。」
そこに、主の「絶対」がありました。
それは今もなお、「絶対」なのです。
133. あそこにその小さな男の子が横たわっていました。彼は死んでいました。本にも書かれているように、もう三十分ほど死んでいたのです。
私は、その横たわっている彼の周りを歩きました。そして、その場を離れようとした時、何かが私に手を置いたように感じました。
私は振り返りました。
「今のは何だったのだろう。」
そしてもう一度見ました。
私は思いました。
「ちょっと待て。」
聖書の見返しのところを見返しました。そこにはこうありました。
「やがて起こるであろう。九歳くらいの小さな男の子が……。彼は自動車にはねられて死ぬ。そこには長い常緑樹の並びがあり、岩が重なっている。車は道路を横切るように横たわり、壊れている。彼は小さな靴下を、こんなふうに高く履いている。髪は短く刈られている。そして彼の小さな目は後ろへ向き、体の骨は折れている。」
私は見ました。そして思いました。
「ああ、神よ!」
私は言いました。
「皆さん、じっとしていてください!」
そこには、その町の市長もいました。
私は言いました。
「もしこの男の子が、今から二分以内に自分の足で立たないなら、私は偽預言者です。私をフィンランドから追い出してください。
しかし、もし彼が立つなら、あなたがたは自分のいのちをキリストに負っているのです。」
その通りです。
彼らはじっとしていました。
私は言いました。
「天の父よ、海の向こうで、二年前に、あなたはこの小さな男の子がここに横たわることを語られました……。」
134. それは何だったのでしょうか。
「絶対」です。
父が、何が起こるかを示しておられたのです。ですから、そこに立っていても恐れはまったくありませんでした。絶対でした。確かに、その子は起き上がるのです。
まさにフィンランドでのことでした。夜ごとに何千人もの人々が集まって来ていました。中には、私が彼らに話すために、ある人々を外へ出して別の人々を入れなければならないほどでした。
そこに、その子は横たわっていました。人々は皆、私を愛してくれていました。そして彼らは癒しが行われるのを見ていました。
しかし、ここには一人の少年が死んで横たわっていたのです。
では、その「絶対」は何だったのでしょうか。
幻です。
「わたしは、父がせよと言われることを行う。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを、その人もまた行うようになる。」
そこにあなたの「絶対」があります。
私は言いました。
「死よ、お前はもうこの子を押さえておくことはできない。神が語られたのだ。戻れ。この子を返せ!」
すると、その小さな男の子は起き上がり、このように周りを見回しました。人々は気を失いそうになり、あちこちで騒ぎが起こりました。
135. それは何でしょうか。
「絶対」です。
イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。
もしそれが、ナインの女を止められた同じ神でないというなら――彼女は自分の息子を運ばれて行くところでした。
その時代には、誰かが死ぬと、すぐに墓へ入れました。遺体を長く置いておくことはしませんでした。すぐに墓へ入れたのです。
そこに、昨日も今日も、いつまでも変わることのない、同じイエス・キリストがおられるのです。
136. その赤ん坊については、医師が証明書に署名しました。それは『クリスチャン・ビジネスメン』にも書かれています。
その赤ん坊は、その日の朝九時に亡くなりました。そして、その時は夜の十時でした。
その小さな女性は、どうしても慰められませんでした。
私の息子ビリーがそこに立って、彼女を後ろへ下がらせようとしていました。そこには……まあ、おそらく二百人ほどの案内係が立っていたと思います。それでも彼女は、その人たちを乗り越えて来たのです。
前の晩には、あの盲人が視力を受けていました。ですから彼女は知っていたのです。彼女はカトリックでした。
けれどもついに、私は言いました。
「ムーア兄弟、行って彼女のために祈ってあげてください。あの赤ん坊は……。」
雨が降っていました。土砂降りでした。彼らはその日の早朝から、あの大きな闘牛場の中で立っていたのです。
そして私は……その場所に入るために、私は後ろからロープで降ろされました。そこには三晩だけのために来ていました。
私はそこに立って言いました。
「私が今申し上げていたように……」
説教をしていたのです。
その時、私は見ました。私の前の方に、小さな赤ん坊が見えました。小さなメキシコ人の赤ん坊で、歯はまだなく、ただそこに座って、私に向かって笑っていたのです。まさに私の前にいました。
私は言いました。
「ちょっと待ってください、ムーア兄弟。その人をこちらへ連れて来てください。」
ああ、「絶対」です。
案内係たちは後ろへ下がりました。彼女がやって来ました。彼女は倒れ込むようにして言いました。
「パードレ、パードレ!」
私は言いました。
「立ちなさい。」
エスピノーザ兄弟が言いました。
「立ちなさい。」
彼はスペイン語で彼女にそう伝えました。彼女はそこに立ちました。
私は言いました。
「天の父よ、私はこの雨の中に立っています……。」
137. 彼女は、約四十年もの間まったく目が見えなかった男の目が、講壇の上で開かれるのを見ていたのです。
ですから彼女は知っていました。
もし神が見えない目を開くことがおできになるなら、自分の赤ん坊を癒すこともおできになる、と。
その赤ん坊は、小さく硬くなったもののように、毛布の下に横たわっていました。そしてその毛布はびしょ濡れでした。彼女はその日の朝から、午後もずっと、そこに立っていたのです。
それは夜の十一時頃、あるいは十時頃だったと思います。彼女はその赤ん坊を差し出すように抱いていました。皆さんも『クリスチャン・ビジネスメン』の記事で見たでしょう。その赤ん坊を、そのように抱いていたのです。
私は言いました。
「天の父よ、これが何を意味するのか、私には分かりません。私はただ、あなたのしもべです。けれども、私はあちらにその赤ん坊が立っているのを見ました。それは生きていました。主イエスの御名によって、この子の上に手を置きます。」
すると、
「わあっ!」
と声を上げ、その子は泣き始めたのです。
母親はその赤ん坊をつかんで叫び始めました。人々もこのあたり一帯で叫び始め、女性たちは気を失い、そうしたことが起こりました。
私は言いました。
「そのことについては、何も言ってはいけません。その赤ん坊と母親に付き添う使いを出しなさい。そしてその医師のところへ行かせ、その赤ん坊が死んでいたという証明書に署名してもらいなさい。その子は肺炎で、その前の朝、あるいはその日の朝九時に死んでいたのです。」
そして私たちは、医師による署名入りの証明書を受け取りました。その赤ん坊は、その朝、医師の診察室で死亡と宣告されていたのです。そして母親はその子を一日中、抱いて歩いていたのです。
それは何だったのでしょうか。
「絶対」です。
それは何だったのでしょうか。
彼女は信じていたのです。
もし神が見えない目を開くことがおできになるなら、神は死人をよみがえらせることもおできになる、と。
なぜなら、主は昨日も今日も、いつまでも変わることのない方だからです。
私は確かではありませんでした。
見るまでは分かりませんでした。
しかし、その赤ん坊を見た時、それは「絶対」でした。
絶対にその通りでした。
そこにそれがあったのです。
死は、その犠牲者を手放さなければならないのです。
138. 「ああ、どうしてあれが預言者であり得るのか。どうして、顔につばを吐きかけられても、そこに立っていられるのか。どうして、彼らにあざけられても、何もしないで立っていられるのか。それがインマヌエルであるはずがない。ただの普通の人間だ。酔った兵士たちのよだれを見ろ。血を流しているあの顔を見ろ。」
悪魔は言いました。
「私は彼を捕らえる。私は彼を捕らえる。」
死の針を持つその蜂のように、悪魔は主の周りをぶんぶん飛び回っていました。
しかし、兄弟よ、その蜂がインマヌエルに自分の針を打ち込んだ時、そこから出て来た時には、その針を失っていたのです。死そのものさえもです。
だからこそ、後にパウロは死の顔を見つめて、こう言うことができたのです。
「死よ、おまえの針はどこにあるのか。墓よ、おまえの勝利はどこにあるのか。私たちに勝利を与えてくださる神に感謝します。」
キリストの死は、死を恐れていたすべての人に対する「絶対」でした。
私の心は、主の書にある一つひとつの御言葉に「アーメン」と言います。
さあ、終わります。本当に終わります。ここで切らなければなりません。分かりますね。
139. 聖霊こそ、この御言葉が真実であることを私に知らせてくださる御方です。
聖霊は私の「絶対」です。
私の太陽です。
私のいのちです。
私の錨です。
困難が起こる時、聖霊は私の北極星です。
私が迷う時、聖霊は私をその場所へ連れ戻してくださる羅針盤なのです。
教派は、ほかの星々のようなものです。世と共に動いていきます。
ほかの星々は、世が動くにつれて動きます。しかし北極星はそうではありません。
世がどこへ動こうとも、北極星はその場に留まっています。
ああ、兄弟よ。
北極星はしっかり据えられているのです。
ほかの星々は、あちらこちらへと動いていきます。ここにも見え、そこにも見え、また別のところにも見えます。
教派の教会も、それと同じです。
しかし、キリストこそ「絶対」です。
主こそ、あなたが信頼を置くことのできる御方です。
教派があなたをすっかり混乱させてしまった時には、ただ北極星を見上げなさい。
聖霊が、あなたの羅針盤なのです。
140. 人々が私に、
「このような現代に、そんなことは起こるはずがない」
と言った時、私は知っていました。
もし神がおられないのなら、食べ、飲み、楽しんで生きればよいでしょう。
しかし、もし神がおられるのなら、私たちはその方に仕えるべきです。
そして私は、主がすべてのことを成し遂げられる日を見るまで生きてきました。主が地上におられた時になさったように、死人をよみがえらせることに至るまでです。
そして私たちは、それが真実であることを、記録された証明によって知っています。
そうです、確かにそうです。
主こそ、私の「絶対」です。
ですから今、主をあなたの「絶対」としなさい。
私の苦難の時を見ても、主はいつも「絶対」でした。
さて、神の恵みによって見てください……。
いえ、もう閉じた方がよいでしょう。かなり遅くなってきました。
ああ、見てください。私は十一時だと思っていましたが、もう十二時半です。
141. それを理解し尽くそうとしてはいけません。あなたにはできません。
それを計算し尽くす道などないのです。
あなたは言うかもしれません。
「ブラナム兄弟、もしあなたが……。」
私には分かりません。私はただ信じているのです。
それについて何とかしようとするのをやめました。ただ、それを信じているのです。分かりますね。
「走る者によるのでもなく、願う者によるのでもなく、あわれんでくださる神による」のです。
分かりますね。
行いによるのではありません。恵みによるのです。
私はただ信じています。
残りのことは神にお任せするのです。
ただ信じなさい。
そして、それに基づいて行動しなさい。
この有名な歌を、ここかどこかで演奏し、歌っているのを聞いたことがあります。
ああ、神の愛よ、何と豊かで、何と清いことか。
何と測り知れず、何と力強いことか。
それは永遠に絶えることなく続き、
聖徒たちと御使いたちの歌となる。
142. あなたにはできません。それをしようとしてはいけません。
理解し尽くそうとしてはいけません。神は、私たちの理解を越えておられます。
神を解き明かすのではありません。ただ神を信じるのです。それが秘訣です。
説明し尽くそうとしないで、ただ信じなさい。
それが何を意味するのか、私はあなたに説明することはできません。どうすればよいのかも、すべてを語ることはできません。
ただ私は知っています。私はただ信じているのです。それだけです。
ちょうど、小さな子どもに何かを約束すると、その子がそれを信じるようなものです。あなたは自分の言葉を守るべきです。
あなたは神の子どもです。神はご自分の御言葉を守られます。
ただ単純に信じなさい。揺さぶられてはいけません。
ただそこに留まり続けなさい。
神が一度それをなさったなら、神は再びそれをなさらなければなりません。
もしそうなさらないなら、なぜそれができないのかを、神はあなたに語られるでしょう。その通りです。さあ、ただそれにしっかり留まりなさい。
143. 人々が私に言うには、その一節、この部分は、ある精神病院の壁に書き残されていたものだそうです。
もし海を墨で満たし、
空を羊皮紙としたとしても、
地上のすべての草の茎を筆とし、
すべての人を筆記者としたとしても、
天より来る神の愛を書き記そうとするなら、
海は干上がってしまうでしょう。
また、その巻物もすべてを収めることはできないでしょう。
たとえ空から空へと広げられたとしても。
144. 理解できない;それはできません。あなたはそれを理解しようとして正気を失います; ただそれを信じてください。彼をあなたの絶対的な存在にしてください!そこにいてください。忘れられない甘い平和と体験がそこに停泊し、あなたの錨は谷間に留まります。頭を向けましょう。
145. あなたはとても宗教的であったかもしれません。それは良いことです。私はそれを感謝しています。皆さん一人ひとりについて、きっと神もそう思っておられるでしょう。けれども、あなたはまだ本当の意味での「絶対」の経験を持っていなかったかもしれません。自分で思い込んだだけではなく、想像しただけでもなく、何かがあなたに語り返してくださった、という経験です。そして、その時から自分の人生が変えられたのを見た。神の一つひとつの御言葉、すべての約束に対して、「アーメン」と句読点を打つことができるようになった。その時、あなたは「絶対」を握っているのです。覚えておいてください。主は言われました。
「天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は決してすたれることがない。」
もしそれが自分の信条に反するなら、もしそれが自分の教派に反するなら、まだ神のすべての御言葉に「アーメン」と言えるところまで来ていないかもしれません。けれども、モーセのように、また他の人々のように、その「絶対」をつかむまではできなかった者たちのように、あなたもその場所へ来たいと願っているなら。今朝、それを自分の人生の中に持ちたいと願っているなら、そのことを神に示すために、ただ手を上げてください。
神があなたを祝福してくださいますように。
よろしいです、兄弟。会堂の至るところで、手が上がっています。
146. それがいつであるか、私たちには分かりません。そして、それはそれほど大きな問題ではありません。もし私たちの時が終わったのなら、私たちはあなたのもとへ行きたいのです。
私たちがここに留まっている目的は、あなたに仕えることです。
かつて、パウロが教会を荒らすためにダマスコへ向かっていたように、滅びへの道を歩んでいた時、一つの光が彼の目をくらませました。
ああ、神よ、その光は彼について行きました。なぜなら、それはキリストであったからです。
そして彼は、そこに「絶対」として錨を下ろしました。そのため、死そのものの顔を見ても笑うことができ、こう言うことができたのです。
「私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださる神に感謝します。」
あなたは、その使徒にとって完全な「絶対」となられました。
彼の一つひとつの言葉における「アーメン」となられました。
あなたは彼の人生の星であり、道しるべでした。
嵐の中を彼を導く羅針盤でした。
あなたは啓示であり、幻でした。
あなたは彼の望みであり、救いでした。
死の時においてさえ、彼が自分がそこへ向かっていることを知っていた時でさえ、あなたはなお、彼の「絶対」であられました。
147. あなたはすべての預言者たちの「絶対」でした。
彼らの時代にあった教派的な違いや、さまざまな問題、またパリサイ人やサドカイ人たちのただ中にあっても、なお、あなたを自分の「絶対」とした人々がいました。
そして今日も、主よ、憐れみと愛を持ち、神を本当に知る経験を求めて心を痛め、血を流すような思いでいる男女がいます。彼らは、確かな「絶対」を持ちたいと願っているのです。
主よ、もしかすると、これまで彼らが知っていたことは、ただ教会に加入することだけだったかもしれません。
そして私たちは悟っています。私は誠実に、ただ人と違うことを言おうとしているのではありません。あなたは私の心をご存じです。ただ彼らに伝えようとしてきたのです。
人は「教会」に加入することはできません。加入できるのは、いわば会や組織です。メソジスト、バプテスト、カトリック、ペンテコステといった組織に加わることはできます。
しかし、教会――キリストの神秘的なからだ――には、新しく生まれることによって入るのです。そして主のからだの肢体となり、御霊の賜物によって、その偉大なからだが働きと力のうちに動かされるのです。
148. さて、主よ、私たちは人々を祭壇に呼ぶのが習慣であることを知っていますが、それは私たちにとって伝統となっています。そして今朝は祭壇が埋め尽くされ、小さな子供たちも皆。.. しかし、主よ、どういうわけかあなたは彼らに話しかけました;彼らは手を挙げました。それは決断だったので、彼らはそうしました。彼らはそうしたい、彼らは本物のものを望んでいます;そして私は彼らに代わって祈りを捧げています。それぞれにそれを与えてください、主よ。
今、私たちとともにいて、私たちの罪を赦し、病気を癒し、私たちに必要な救いを与えてください。
149. そして、この教会と、今朝ここに集まったキリストの体の部分の人々が、イエスが生きるように言われたように生きられますように。“あなたがたは地の塩である。” そして、彼らがコミュニティを喉が渇くまで、とても塩辛くなりますように。塩は喉の渇きを生み出し、塩は接触したときにのみ節約できます。そして神よ、あなたがこれを人々に与えてくださり、彼らも魂の勝者となるように祈ります。
150. 私が経験したこの偉大で暗い時代に、とても慈悲深く私とともに立っていた理事たちを祝福してください。私と一緒に祈り、困難なときに私のそばに立ってくれた教会と一緒に立ってください。主。私は彼らを愛しています、そして彼らがあなたに目を向けてくださるよう祈りを捧げます、主よ。彼らがしもべのこの死すべき粘土から目をそらしてくださいますように。彼らが全能の神、つまり神に目を向けますように。。 そして主よ、私たちは有限であることを知っています。誰であろうと、私たちはまだ人間です。しかし、メッセンジャーではなく、メッセージです。許可してください、主よ。そこで私たちは、神の子イエス・キリストを指しています。今日ここにいるすべての人、たとえ小さな子供たちであっても、神が会衆全体の絶対者となるように、神がとても現実的であることを認めてください。私たちはイエスの名において尋ねます。アーメン。
151. なぜなら、彼は最初に私を愛していたからです;
そして私の救いを購入しました
カルバリーの木に。
さて、私たちが再びそれを歌っている間、あなたの前、後ろ、横で誰かと握手してください、今、誰もが握手してください。ただ座ったままで、できれば振り返って握手してください。
私は彼を愛しています、私は彼を愛しています、
なぜなら、彼は最初に私を愛していたからです;
そして私の救いを購入しました
カルバリーの木に。
152. さあ、手を上げて、主に向かって歌いましょう。
どれほどの方が、主こそ自分の「絶対」だと感じていますか。
御言葉です。主は御言葉です。あなたはそれを信じますか。主は御言葉であり、聖霊がその御言葉に命を宿らせてくださったのです。その御言葉の命が、あなたの内に生きるためです。御言葉の確証としてです。
御言葉をあなたの心に入れなさい。そして聖霊が入って来られるようにし、御言葉が動くのを見なさい。
信じなさい。へりくだりなさい。偉い人になろうと望んではいけません。無名の者でありなさい。そうすれば、神があなたを用いる者にしてくださいます。分かりますね。
よろしい。今、それをしてください。
皆さん、主を愛しているなら、「アーメン」と言ってください。
「アーメン」という言葉の意味をご存じですか。
「その通りになりますように」という意味です。
アーメン。その通りです。
では、「ハレルヤ」と言いましょう。
それが何を意味するかご存じですか。
「私たちの神をほめたたえよ」という意味です。
153. 「ドイツの皆さんが理解できないというのは、不思議なことです。」
私は言いました。
「今日、ここへ来る道で、一匹の犬が私に向かって英語で吠えました。本当です。」
そして言いました。
「その犬には、何の問題もありませんでした。そこには一羽の鳥もいて、私のために英語で歌ってくれました。通りを歩いて来ると、後ろの方の入口に、一人の母親が小さな赤ちゃんを腕に抱いていました。」
そして私は言いました。
「その赤ちゃんは英語で泣いていました。皆さん、どうしたというのですか。」
その通りです。
ああ、ただ周りを見回しさえすれば、主は至るところにおられるのではありませんか。確かに、主はおられます。
154. まず立ち上がりましょう。皆さん、ご自分の足で立ってください。
皆さん、もう一度お聞きします。主を愛していますか。
「アーメン」と言ってください。
ご存じですか。「ハレルヤ」という言葉は、どの方言でも同じなのです。アフリカのホッテントットの密林に行っても、「ハレルヤ」は同じ言葉です。
ハレルヤ!
これは、ほとんどクリスチャンのあいさつであってもよいのではないでしょうか。
ハレルヤ!
この言葉は、「私たちの神をほめたたえよ」という意味です。そして主は、それにふさわしい御方ではありませんか。
主は、私にとって絶対に私の救い主です。主は、私にとって絶対に、神の御子イエス・キリストです。主は、私にとって絶対に、昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。
あなたにとっても、主はそのような御方ですか。
私は主を愛します、主を愛します。
主がまず私を愛してくださったからです。
そしてカルバリーの木の上で、
私の救いを買い取ってくださいました。