1. この雨や雪が入り混じった、何ともややこしい朝に、またこうして出て来られるのはうれしいことです。
遠くから来られた皆さんの中には、車で来るのにずいぶん大変な思いをされた方も多いことでしょう。シカゴ、アラバマ、ジョージア、テネシー、イリノイ、またあちらこちらから、このような日に来てくださる尊い友人たちがいます。
ですから、皆さんが旅をされる時、神が安全を与えてくださるようにと願っています。そして私たちの祈りは、冬場に道路が凍って滑りやすくなる、この危険な道中で、主が皆さんを守ってくださることです。
この地方は冬になると本当に大変です。春や秋は、これほど美しい地方はないのですが、冬と夏は本当に厳しいところです。
2. それで、先週の日曜日のメッセージについて、少し申し上げておきたいことがあります。私がテープを止めて、販売したり外へ持ち出したりしないようにした理由は、まず私自身がそれを確認しなければならないからです。
というのは、そういう場合、私はこの教会内では話すけれども、そのまま一般の人々の前に出すことはしないようなことを、時々語ることがあるからです。そうすると、時にはつまずきの石となることがあり、また時には、ここ幕屋にいる私たちの人々の間にさえ疑問を生じさせることがあるのです。
それで……。
3. そして時には、油注ぎの下で、何かがふっと口から出てしまうことがあります。分かりますか。自分でも気づかないうちにです。
先週の日曜日に語られたことの中で、誰かにつまずきを与えるかもしれないと思うことの一つは、私が「私は祭壇への招きというものを信じたことがない」と言ったことです。
それについて、皆さんがよく理解できるように、はっきりさせておきたいと思います。聖書全体を通して、祭壇への招きというものは一度も行われていません。聖書の中に、そのようなものはありません。時代を通しても、それが行われるようになったのは、約二百年前のメソジストの時代になってからです。
祭壇への招きというのは、人々が前に出て来て、誰かを説得したり、引っ張り出そうとしたりするものです。
「さあ、ジョン。あなたのお母さんは、あなたのために祈りながら亡くなったんだよ。さあ、ジョン、出て来なさい。」
友よ、それは確信ではありません。いいえ、違います。そういう種類のものは、後になって本当に遠くまで進んでいった人を聞くことは、めったにありません。そしてその中には、何でも入り込んでしまうのです。
今日、教会がこのようにすっかり混乱してしまっている理由は、そういったものにあるのです。
4. 「ペテロがなおこれらの言葉を語っていると、御言葉を聞いていたすべての人々に聖霊が下った。」
分かりますか。分かりますか。そこには祭壇への招きなどありません。そのようなものはないのです。
さて、祭壇とは祈りの場所です。教会に来る人はだれでも、まずそこへ行き、祭壇のところでひざまずき、静かに神に祈り、自分の願いをささげ、また愛する人々のために祈り、神が自分のためになしてくださったことを感謝して、それから自分の席に戻るべきなのです。
そして教会とは、神の御言葉が語られる場所です。
「さばきは神の家から始まる」
すなわち、御言葉のさばきが出て行く場所なのです。しかし今日、私たちはそれをあまりにも大きく変えてしまいました。
5. ただ、私自身としては、分かりますか、あまりにも多くのものを集め込んでしまうのです。それに反対しているわけではありません。害があると言っているのでもありません。それはそれでよいのです。分かりますか。
けれども、聞いてください。イエスは言われました。
「父がまずその人を引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。そして父がわたしにお与えになった者は皆、わたしのもとに来る。」
その通りです。ですから分かるでしょう。それによって、祭壇への招きというものは、完全に外へ置かれてしまうのです。分かりますか。
「父が与えてくださった者は皆……」
私たちの責任は、御言葉を宣べ伝えることです。聖書は言いました。
「信じた者は、皆バプテスマを受けた。」
また、
「悔い改めなさい。そして罪の赦しのために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。」
何ですか。罪の赦しのために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるのです。分かりますか。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるのです。
6. そして、席に座ったままキリストを受け入れたなら、その人がまず次にすることは、自分が間違っていたと確信させられたその罪の赦しのために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けることです。そうして、その罪は赦されるのです。
なぜなら、その人は悔い改め、人々へのしるしとしてバプテスマを受けたからです。
「私はキリストを、私個人の救い主として受け入れました」
という証しとしてです。そうすれば、その人は聖霊を受ける候補者となるのです。
さて、多くの人々は、説得を続けたり、祭壇へ招いたり、そのようなことを続けています。それはそれでよいのです。私はそれについて行くこともできます。私としては、それをしたい人がいるなら、まったく構いません。
しかし、私にとっては、それは聖書的ではないのです。分かりますか。ですから私は、ただ聖書にとどまっていたいのです。
7. 誰かが持っている小さな伝統に、ほんの少し足を踏み入れるだけで、それだけで十分なのです。すると、また全部、初めからやり直しのようになってしまいます。
そして私は、そういうさまざまな事柄に対して、自分が時々少し批判的すぎるのではないかと思うことがあります。そういうつもりではないのですが、時には、その務めというものが人をそういう方向へ引っ張るのです。分かりますか。そういうふうに傾かせてしまうのです。
ですから、人々はそのことを理解してくださっていると、私は確信しています。
8. 私はローマ人への手紙の四章を読んでいました。そこには、パウロがアブラハムの生涯について、神による解説を書いています。
私たちは、アブラハムも私たちと同じように、何度も少し取り乱したり、うろたえたりしたことを知っています。しかし、彼についての解説が書かれた時、そのうろたえたことは一つも記されていません。分かりますか。まったく触れられていないのです。
そこにはこうあります。
「アブラハムは、不信仰によって神の約束を疑うことなく、かえって強くされ、神に栄光を帰した。」
分かりますか。
私についても、あちらでそのように書かれることを願っています。私の過ちやあれこれではなく、ただ私がしようと努めたこと、神の民のために行おうとした私の心の意図だけが、記されることを願っているのです。
9. それが皆さんの益となり、また私の益ともなることを願っています。なぜなら、私たちは共にいて、この終わりの日という、非常に重大な時代に生きているからです。
それで、祈る前に、御言葉の二か所を読みたいと思います。一つは祈りの前に、もう一つは祈りの後に読みます。
まず、この礼拝、あるいはこの部分を始めるにあたって、へブル人への手紙から読みたいと思います。へブル人への手紙11章32節からです。信仰について語っているところです。
これ以上、何を語りましょうか。
ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、そして預言者たちについて語るには、時が足りません。
彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、
火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱さから強くされ、戦いにおいて勇敢となり、異国の軍勢を敗走させました。
女たちは、死んだ者をよみがえらせて受け取りました。また、ほかの者たちは拷問を受けましたが、解放されることを受け入れませんでした。さらにすぐれた復活を得るためです。
また、ほかの者たちは、あざけりやむち打ち、さらに鎖につながれ、投獄されるという試練を受けました。
彼らは石で打たれ、のこぎりで引かれ、試みられ、剣で殺され、羊の皮や山羊の皮をまとって歩き回り、乏しくされ、苦しめられ、虐げられました。
ここ、この括弧のところに注目してください。
この世は、彼らにふさわしくありませんでした。
彼らは荒野、山々、洞穴、地の穴をさまよいました。
これらの人々は皆、信仰によって良い証しを得ましたが、約束されたものは受けませんでした。
神は、私たちのために、さらにすぐれたものを備えておられたので、彼らが私たちを抜きにして完全な者とされることはなかったのです。
10. 祈りに入る前に、どなたか神の御前に覚えていただきたい方はおられますか。ただ手を挙げてください。あなたが必要としているものが何であれ、私たちが頭を垂れる今、主がそれを見て、聞いて、あなたに与えてくださいますように。
11. 今朝、私たちはあなたの御子イエスの御名によって、へりくだってあなたの御座に近づきます。自分自身のため、また他の人々のために、祈りをささげるためです。
主よ、まず私たちのすべての過ちと咎を赦してください。そして、他の人々のためにも祈ります。主よ、彼らもまた赦されますように。そして、あなたの教会が、さらにあなたに近く引き寄せられますように。
まことに主よ、私たちは心の中で信じています。あなたは今、あなたの教会と共に一つの御業をなそうとしておられ、教会をこの世から取り出し、神の御国へと移される備えをしておられるのだと。
しかし主よ、その時のために、私たち自身を整えることができるよう助けてください。
どうか今朝が、その時となりますように。主よ、一人ひとりから私たち全員に至るまで、
「いっさいの重荷と、まとわりつきやすい罪とをかなぐり捨て、私たちの前に置かれている競走を、忍耐をもって走り抜く」
ことができますように。
12. 国中で多くの人々が苦しんでいます。医師たちが「疫病」や「ウイルス」と呼ぶものによってです。主よ、あなたの癒しの力が、その人々のもとにありますように。
そして今朝、ここにいる私たちの小さな集まりにも目を留めてください。
多くの人々が、何百マイルもの道のりを車で来ました。昨夜遅くに出発し、夜通し走り、今朝早くからも一生懸命運転して、この幕屋にたどり着こうとして来たのです。道中には雪も降っています。
神よ、どうか彼らを特別に祝福してください。
きっと多くの人々は、来週の食費のかなりの部分、あるいは本来なら他の必要のために使えたはずのお金を、ガソリン代などに充てて、ここへ来たことでしょう。
神よ、あなたのもとに空っぽで来る者は、満たされて帰って行きます。あなたはそう約束してくださいました。
ですから私は祈ります。彼らの心を、また魂のかごを、神から来る良いもので満たしてください。彼らが、言葉に尽くせない喜びと栄光に満ちあふれて、喜びがこぼれ出るようにして帰って行けますように。
どうか、この尊い人々の杯が、神から来る霊的な良きもので、あふれますように。
13. 主よ、その手の背後にあった必要を、あなたはご存じです。私は、あなたが特別に彼らを祝福してくださるようお願いいたします。
私たちはこの過ぎた週に、あなたがどれほど奇跡的に祈りに答えてくださったかを見ました。緊急の時、病の時、困難の時、ほんのわずかな時のうちに、あなたは祈りに答えてくださいました。
あなたは神であり、どこにでもおられるお方です。ご自分のしもべたちのそばに立ってくださるお方です。神よ、今朝もこの人々のそばに立ってくださるよう祈ります。
主よ、彼らの心の願いを与えてください。私は、それが何か利己的なものや、悪い動機によるものだとは思いません。どうか彼らを祝福してください。
そして今、父よ、今日、私のことも覚えてください。どうか私が、自分自身をすっかり脇へ退けることができますように。
牧師から子どもたちに至るまで、私たち全員が、自分自身を神の祭壇の上に置き、心を開いて、聖霊が私たちに語ってくださる御声に耳を傾けることができますように。
あなたの祝福を受ける器を、正しい向きにしてください。そして、その中に、油注ぎの油の力を注ぎ降らせてください。
主よ、これから先の日々のために、私たちに必要な力を与えてください。
この祝福をお与えください。イエスの御名によってお願いいたします。アーメン。
14. ああ……ジャック・ムーア兄弟から電話です。今週、私にそこへ来てほしいと、まだ熱心に勧めているのです。分かりますか。
ただ、私自身はどうもそこへ行く気持ちになれないのです。分かりますか。ですから、どうしたらよいのか分かりません。
私はジャック兄弟を愛しています。そして、あちらでは大きな大会が近づいています。彼は、ブース・クリボーンたちのような人たちが来ることになっていたのも断って、なお私のために空けておいてくれているのです。広告も出して、いろいろ準備もしながら、私が来るのを待っているのです。
ですから私としては、本当に強く促されているように感じてから行きたいのです。分かりますか。
15. 第一コリント……いえ、第二コリントです。第二コリント12章9節です。
9節の最初の句、あるいは二番目の句、その一部を読みたいと思います。
すると主は私に言われた。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。
わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」
もう一度読みましょう。皆さんが本文をしっかり受け取れるようにです。
すると主は私に言われた。
これは、神がパウロに語っておられるのです。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。
わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」
16. 「完全な弱さから現れる完全な力」
私たちに弱さがあるなら、そこに力があるのです。
ペンテコステ派の集会で「弱さ」という題を取り上げるのは、少し変わったことです。なぜなら、私たちはいつも、自分たちがどれほど強いかを証ししているからです。
そして以前にも申し上げたように、私はただ一週間祈りながら、会衆の前に何を持って来るのがよいかを探ろうとしているだけです。
もしここに来る目的が、ただ自分の話を聞いてもらうためであるなら、今朝ここに立つのは、私よりも他のどなたかの話を聞く方が、私はよほどよいと思うのです。
17. その尊い兄弟、奥さん、ご家族のところを離れてから、この考えに行き着いたのです。
その少し前に、ある家に入りました。私は外に立っていたのですが、その婦人が言いました。
「私は、あの牧師さんとお話ししたいのです。」
それで私は、その小さな家の中に入りました。すると彼女は言いました。
「あなたがブラナム兄弟ですか。」
私は言いました。
「はい、奥さん。」
彼女は言いました。
「こんな家の様子で、あなたをお招きするのが本当に恥ずかしいのです。」
そう言って、彼女は泣き始めました。
「でも、私にはどうしても必要があるのです。そして、あなたに本当に信頼を置いているのです。」
そして私は分かったのです。それは、私たちがあちらで時々泊めていただいている、コックス姉妹という小柄なおばあさんが、テープレコーダーを持って近所を回り、テープを聞かせていたところだったのです。
それです!それこそが考えなのです。
18. けれども、壁にはキリストの絵がいっぱい掛けられていました。テーブルの上には聖書が置かれていました。
私は言いました。
「私はこれまでの人生で、これ以上の光栄を感じたことはありません。こういう家にこそ、私は入りたいのです。」
彼女は、ある人のための願いを申し出ました。そして、私たちが一緒に祈ってから五時間後――この小さなおばあさんと私が一緒に祈ってから五時間後に、神は答えてくださいました。
それで私たちは、もう一度祈りました。
その朝、コックス母さんと私、そして食卓の周りにいた人たちは、頭を垂れて神に願いました。彼女がしてきた努力を通して、私たちに何かをする機会を与えてくださるようにと。そして、その願いを通して、神は道を開いてくださいました。
分かりますか。彼こそが神なのです。
19. 私が思うに、神がこの題を私に与えてくださった理由の一つは、そのような考えを私たちの思いから取り除くためだったのです。分かりますか。
私たちには、自分でも気づかない小さな事柄があります。そして、私たちが教会に来るのは、そのためなのです。自分の欠点がどこにあるのか、また、どのようなところを正して、より良くされるべきなのかを知るためです。
もし私たちが、それ以外の目的で教会に来ているなら、教会に来ても、あまり多くのものは得られないのではないかと思います。
私たちは、自分の弱さを見いだし、自分の悪いところを見いだし、自分がどれほど小さい者であるかを知り、そして強いお方に信頼を置くために来なければなりません。
しかし、私たちに弱さがある時……。
20. 「私には教育がありません。私には能力がありません。私にはこれはできません。」
もしそれを続け、そのようなやり方で進み続けるなら、あなたは何者にもなれません。
しかし、私たちが自分の弱さを理由に言い訳としている、まさにそのものを、神はその働きに取りかかるために用いられるのです。神は、私たちがその状態になるのを待っておられます。そうして、私たちを用いることができるからです。
私たちは言い訳をして言います。
「いや、私にはこれはできません。私には足りません。私にはできません。」
すると神は、そのまさにそのものを取り上げて、その働きをなさるのです。本当です。
それこそ、神が私たちを選ばれる理由です。なぜなら、私たちがそのような状態にあるからです。
さて、これは奇妙に聞こえるかもしれません。しかし、神が許してくださるなら、あと数分でその理由に入っていきます。
先ほど読んだところからも分かるように、弱さや拒絶というものがあります。そして私たちは、最も弱く、外の世から拒まれた人々こそが、最前線で勝利を得る神の勇士たちであることを見いだすのです。
神は、自分自身をふさわしくない者だと感じている人々を取られるのです。
21. 少し前に、彼らが私に言いました。
「ブラナム兄弟、私たちはたった今、聖霊を受けました。では今、私たちの務めのために賜物を求めるべきでしょうか。」
私は言いました。
「それはやめなさい。そのままにしておきなさい。」
すると彼は振り向いて、私を見て言いました。
「私は、ある兄弟の本を読んだばかりです。そこには、聖霊を受けた後、この聖霊を用いるために賜物を求めるべきだと書いてありました。」
私は言いました。
「そうして、うぬぼれ屋になるのですか。」
分かりますか。
22. 人が何かをしたがり、自分にはその仕事をやり遂げるだけの十分な能力があると思っている間は、神はその人を用いることができません。
モーセを見てください。逃げていました。パウロを見てください。逃げていました。そのほかの人々も、そこから逃れようとしていたのです。
私は言いました。
「何も求めてはいけません。もし神があなたのために何かを持っておられるなら、神がそれをあなたに与えてくださいます。分かりますか。ただ、そのことは神にお任せしなさい。」
私はまた言いました。
「そうしないと、今日のような時代には、誰もがこれをしたい、あれをしたい、何か偉大な人物になりたいと言い出します。そして、その結果、私たちがどんなところへ入り込んでしまったかを見てください。分かりますか。」
偉大になろうとする代わりに、私たちは、自分がどれほど小さくなれるかを見いだそうとすべきなのです。分かりますか。そうすれば、神は私たちを用いることができます。
ここに参照すべき聖句をいくつも書き出してあります。おそらくそれに触れるべきなのでしょうが、たぶん、その時間はないでしょう。
しかし、私たちは……。
23. そして実際、神がこれまで最前線に立たせたほとんどすべての勇士たちは、そのような種類の人たちでした。拒まれた人、自分には足りないと思っていた人、まったく能力がないと思っていた人――そのような人こそ、神が用い始めるのにちょうどよい状態にあるのです。
その通りです。
自分にはできない、自分には何もない、と感じている時こそ、神がその人を捕らえ、その人を通して何かをなさることができるのです。分かりますか。
しかし、自分にはそれができると思っている時には、神は私たちを用いることができません。なぜなら、私たちが自分でそれをしたがっているからです。
24. けれども、もし私たちがただ神の召しに耳を傾けるなら、それこそが、神が私たちを導き入れたい状態なのです。神が働くことのできる状態です。
私たち自身が足りない者である時、私たちは神の霊に明け渡す者となります。自分でできると思っている間は、それをすることはできません。しかし、自分にはできないと分かるところまで来る時、私たちは自分自身を神に明け渡し、神がそれをなさるのです。
ですから、もし私たちが自分でそれをしようとするなら、失敗します。しかし、ただ自分自身を神に明け渡すなら、神は失敗なさいません。
神にできないことはただ一つだけです。それは失敗することです。神は失敗すること以外、何でもおできになります。しかし、神は失敗することができません。
ですから、私たちが自分自身の力で努力し、自分の能力などに頼っている限り、何も成し遂げることはできません。しかし、自分が何者でもないと知るところまで来る時、神は私たちを用いることができるのです。
25. 覚えておいてください。特に若い伝道者の皆さん、そして信徒の皆さんも同じです。
もし私たちが、自分の人生において神の願いを成し遂げることを期待するなら、どうしても習得しなければならないことが一つあります。
それは、人間の能力という考えを制することです。
もし私たちが、自分の知性や自分の能力によってそれができると思うところまで行ってしまうなら、私たちはその考えをしっかり制し、それを取り除き、脇へ置くことができるようにならなければなりません。
そうして初めて、神が私たちを用いることができるのです。
その通りです。
26. 私たちは、自分の能力を一つとして用いることはできません。完全に明け渡さなければならないのです。そして神のもとに来るには、魂も、体も、霊も、すべてを神に明け渡さなければなりません。
あなたという存在のすべてが神に明け渡されてこそ、神はあなたの内に、また私の内に、ご自身の御心を働かせることができるのです。
さて、それが難しいことは分かっています。なぜなら私たちはいつも、自分の知っていることに、自分の分を差し挟みたがるからです。私たちは、自分がそれをしたいと思っていることを知っています。そして言うのです。
「いや、これはこうするべきだと私は分かっている。」
しかし、あなたがそのようにしている限り、それは間違ったものになります。そして神は、その努力を決してお用いになりません。
おそらく、主の助けによって、私たちはこのあと少しの間でそのことに入っていき、神がどのようにして、あなたの能力をお用いになることができないのかを、お見せすることになるでしょう。
27. 神学校での経験があまりにも多すぎます。教育に重きを置きすぎています。教派の中での関係や交わりに重きを置きすぎています。
私たちは互いにもたれかかっています。能力のある人に頼っているのです。
聖書は言いました。
「どうしてあなたがたは信仰を持つことができようか……」
ええと、あの聖句はどうでしたか。
「互いに誉れを受け合っているあなたがたが、どうして信仰を持つことができようか。」
私たちが、
「この人は偉大な人だ。この人は立派な人だ。私はこの人に頼ろう」
と言って期待している時、そのようにすることは神を喜ばせません。
私たちは神に、ただ神だけに頼らなければなりません。自分自身の能力にも、どんな人の能力にも信頼してはいけません。
私たちは完全に神に明け渡さなければならないのです。
28. 神がご自身の目的を成し遂げる前に、まず私たちの中から、私たちの能力をすべて取り除かなければならないのです。もし神が、私たちに何かさせたいことを持っておられても、私たちが「自分はなかなか良い働きをしている」と感じている限り、私たちは神に用いられることは決してできません。
さて、あなたはこう言うかもしれません。
「ブラナム兄弟、それはずいぶん大きな言い方ですね。」
確かに、それは大きな言い方です。しかし、周りを見渡して、それが正しいかどうかを確かめてみてください。
今日、私たちが成し遂げたと思っている、あらゆる偉大な成果を見てください。そして、アメリカ合衆国のキリスト教はどこにあるのでしょうか。
私たちのすべての教会、教派、伝道者たち、癒しの集会、その他これまで持ってきたすべてのものを見てください。結果は何でしょうか。初めよりも、さらに悪くなっています。
今日の状態は、かつてないほど悪いのです。なぜなら、私たちはそれを人間の能力によって行おうとしてきたからです。
人々は集まり、長い祈りをします。そして外へ出て行きます。先日も、十五万人だか、それくらいの人々が集まったということがありました。プロテスタントもカトリックも一緒になって、祈りを唱え、祈り、また祈り、あれこれとしました。
けれども、それは……集まらなかったのと同じようなものです。神の御前では、何の価値もありません。
さて、もし私が批判的になっているなら、赦してください。分かりますか。
しかし、その事柄を深く打ち込まなければならないのです。分かりますか。釘の頭をしっかり打たなければならないのです。
29. そして、クリスチャンであると告白する一人ひとりが、自分自身の能力を忘れ、自分自身を神に明け渡すまでは、決して何も起こらないのです。
その時、神はご自身の目的を成し遂げることができます。神が送られることによって……リバイバルではありません。兄弟、神がまずなさる必要があるのは、死なせることなのです。
その通りです。そうして初めて、私たちは生き返ることができるのです。新しく生まれる前に、あなたは死ななければなりません。そして……神が必要としておられるのは、私たち自身が死ぬことなのです。
この幕屋にも、死ぬことが必要です。そして私もその中に含まれます。私たち全員に、死ぬことが必要なのです。
そうして初めて、私たちは新しい命、新しい握りしめるもの、新しい望み、新しい経験の中によみがえらされることができます。
私たちにはまず、嘆きの日が必要なのです。
30. 学校教育や、自分たちのプログラム、自分たちのキャンペーン、また自分たちが持っているあらゆるものに、あまりにも頼りすぎる代わりにです。
私たちは協力体制に頼っています。多くの違った伝道者たちが協力してくれることに頼るのです。私たちは、あまりにも多くのものを許しています……もし十分な人数を集められないなら、「それならやめよう」と言います。それがなければ、その町へ行こうともしません。
そして、そのようにしている時、私たちはそれを、内部にカーボンの詰まりを抱えた、大きな機械のようなものにしてしまっているのです。分かりますか。
ですから、私たちはそこから離れなければなりません。その人間の能力から離れなければならないのです。
私たちは、自分の魂と人生を明け渡すことのできる場所に至らなければなりません。主婦であっても、農夫であっても、機械工であっても、私たちが誰であっても同じです。
私たちは完全に神に明け渡し、自分たちは何者でもないのだと知らなければなりません。
その時、神にそこから始めていただくのです。すると神は動き始め、働き始めてくださいます。
そしてそれは、私たち全員を含んでいます。一人ひとりです。
それこそが、私たちがしなければならないことなのです。
31. 今日では、しっかりした神学的な背景を持っていなければ、町に近づこうとさえしない方がよい、集会を開こうとさえしない方がよい、というようになっています。
しかし、立派な経歴があり、十分な訓練を受け、そうしたものを背後に持っているなら、どんな町にも入って行って協力を得、大きな集会を開くことができます。
けれども、それは集会ではありません……いや、集会には違いありません。ほかのものと同じように集まりではあります。しかし、それが何の益になるのでしょうか。分かりますか。
それでもなお……小さな女の子や男の子たちが、ガムをくちゃくちゃ噛みながら前に出て来ます。祭壇へ上がって行くのです。女たちも男たちも、ただ「自分は祭壇へ行った」と言うために、そこへ上がって行きます。
それから指導を受ける部屋に入り、また出て来て、水を振りかけられるなり、水に浸されるなり、何であれそのようにされます。そして一年もすると……。
32. しかし、もし千人の回心者がいたなら、翌年にはその人々が一万人になっているべきなのです。分かりますか。私たちは目標を外しているのです。目的を外しているのです。
私たちの中には、それを知的な理解の上に建てる人たちがいます。
「ああ、この人は何でも知っている。この人は訓練を受けた学者だ。私たちは人々を訓練し、教育しなければならない。」
また別の人は、それを何かの感覚的な動きの上に建てます。震えること、泣くこと、叫ぶこと、御霊の中で踊ること、あるいは何かそのような外面的な感情の働きの上にです。
しかし、それも教育に頼るのと同じくらい悪いのです。悪魔がこちら側であなたを捕らえられなければ、今度は反対側へ押し落とすのです。
しかし大切なことは、自分自身の中に頼れるものを何も持たないことです。また、自分にできる何かに頼らないことです。
ただ、自分の弱さを完全に、まったく神に明け渡して、
「私はここにおります」
と言うことです。
頼ることのできるものを何も持たず、信頼できる能力を何一つ持たないことなのです。
33. 使徒たちのことを考えてみてください。
漁師ペテロのことを考えてみてください。自分の名前を書くほどの教育も十分にはありませんでした。ヨハネも、無学で、学問のない人でした。
そういう人たちです。神は、その時代の高貴な人々、教育を受けた祭司たち、有名人、学者たち、教会員たちを通り過ぎました。自分たちを何者かだと思っていた人々を通り過ぎて、何者でもない人々を拾い上げ、その人々を用いられたのです。
34. もしあなたが、自分は何者かであるということを忘れ、何者でもない者となる備えができているなら、神はあなたを用い、あなたを神にとっての大切な者にしてくださいます。
しかし、あなたは自分がそんなに重要な者だという思いを忘れなければなりません。
私たちの人生の中で、多くの人がそうしてしまいます。ある人々は、クリスチャンになるとすぐに、高慢になり、人に無関心になります。本当にそうです。けれどもそれは、まったく逆の道を取っているのです。前に進んでいるのではなく、後ろに下がっているのです。
自分自身から出て行くものが多ければ多いほど、聖霊が入って来られる余地は大きくなります。
エリヤがヨシャパテたちに言ったように、
「この谷に溝をたくさん掘りなさい。」
深く掘れば掘るほど、水のための場所が多くなるのです。
それと同じように、私たち自身のもの、自分の能力というがらくたを自分の中から投げ捨てることができればできるほど、神の霊によって満たされる余地は大きくなります。私たちがそれを続ける限り、そうなのです。
35. しかし彼は、キリストを知るために、自分がそれまで知っていたすべてを忘れなければならなかったのです。
ここで、その聖句の一つを読みたいと思います。皆さんも一緒に読みたいなら、第一コリント人への手紙二章一節を開いてください。少しの間です。
ここで、パウロが何と言ったかを、少し読んでみましょう。この偉大な学識ある人が、自分自身について何と言ったのか、自分が何をしなければならなかったのかを見てみましょう。
第一コリント人への手紙、第二章、一節から始めます。
この学者の言葉に耳を傾けてください。
36. 彼の父親は、当時どの学校でも最も著名な教師であったガマリエルという、全国で最高の教師の下で彼に教育を与えました。ポールはそういうタイプの男になる。彼はあらゆる言語を学びました。彼は心理学を学んだ。彼はそのようにして学ぶべきさまざまなことをすべて学びました。そして彼は祭司たちと偉人たちと一緒に幕屋に強く寄りかかった。そして彼は教会を大混乱に陥れようとしていた。
37. 彼はどれほど強く、偉大な人物であったにもかかわらず、それを忘れなければなりませんでした。自分自身に頼ることはできないのだと悟らなければなりませんでした。自分の教育など何でもないのだと悟らなければなりませんでした。これまで受けてきたすべての訓練、そのすべてを忘れなければならなかったのです。
さあ、彼に耳を傾けてください。
兄弟たちよ、わたしがあなたがたのところへ行った時、すぐれた言葉や知恵を用いて、神の証を宣べ伝えたのではありませんでした。
「私はあなたがたのところへ行って、こう言ったのではありません。『さあ、私はどこそこの学校を出たサウロ博士です。私はこの教団の偉大な宗派から出て来た者です。』私はそんなふうにして、あなたがたのところへ行ったのではありません。」
なぜなら、わたしはあなたがたの間では、イエス・キリスト、しかも十字架につけられた方のほかは、何も知るまいと決心したからです。
そこです。そのような人の証に耳を傾けてください。
「私は、あなたがたの能力については何も知るまいと決心している。あなたがたの内には何もないことを私は知っている。そして、私があなたがたの内に見て認めようと決心しているただ一つのもの、それはイエス・キリスト、そして十字架につけられたお方だけである。あなたがたの間におられる、十字架につけられた救い主、それだけを私は認めるのだ。」
38. そして、わたしはあなたがたのところにいた時、(偉大さの中に? 何の中に?)弱さと恐れ、そして大いなるおののきの中にいました。
想像できますか。
パリサイ人の中のパリサイ人、教師たちの中の教師、幼い頃から務めのために訓練され、雄弁で、賢く、頭の切れる者となるように育てられた人が、コリント人のような人々の前に出て来て、こう言ったのです。
「私はあなたがたのところにいた時、弱さと恐れ、そして大いなるおののきの中にいました。」
世界をひっくり返した人、これまで知られている中で最も偉大な宣教師であったその人が、自分は弱さの中で来たのだと告白したのです。
訓練を受けた学者として来たのではありません。
そうではなく、弱さの中に、恐れの中に来たのです。どこかで道を踏み外してしまうのではないかと恐れていたのです。
大いなるおののきの中にいたのは、自分自身の能力を信頼することができなかったからです。
39. 彼は彼らにこう言っていたのです。
「私は、すぐれた言葉をもってあなたがたのところに来たのではありません。むしろ、そんなふうに来てしまうのではないかと恐れて来たのです。私は、キリスト、しかも十字架につけられた方以外は何も知らない者として、あなたがたのところに来たのです。」
そして、わたしはあなたがたのところに、恐れと弱さ、そして大いなるおののきの中で行きました。
また、わたしの言葉と宣教とは、人の知恵による巧みな言葉によるものではなく、御霊と力の現れによるものでした。
この人に耳を傾けてください。彼は戦士でした。しかし、自分自身を脱ぎ捨てたのです。アーメン。
今日、私たちの学校に必要なものがあるとすれば、今日、私たちの教会に必要なものがあるとすれば、それは、自分自身を脱ぎ捨てることです。自分の考え、自分の能力を脱ぎ捨てることです。
神の御前で、自分自身を脱ぎ捨てなさい。そうしなければ、あなたは自分自身の内にあるもので、何かをしようとしてしまうのです。
40. あなたは、自分が無にならなければならないのだと悟らなければなりません。
何でも知っている者ではなく、偉大な誰かでもなく、名もない者になるのです。あなたは塵にならなければなりません。自分は何者でもないのだと知るところまで、行かなければなりません。
そして、決してそこから高ぶってはいけません。なぜなら、そこから高ぶったその瞬間、あなたは神よりも高く上がってしまうからです。
あなたは自分自身を、塵の中に、そしてダマスコへ向かう道の上に、保ち続けなければなりません。
自分を高ぶった馬の上から降ろしておかなければなりません。
そしてこれは、どこにおいても同じです。ここにいる人々にも、テープを聞いている世界中の人々にも、同じことなのです。
41. 「人の巧みな言葉や、人間の知恵によるものではなく、力ある御霊の現れによるものでした。」
さて、よく見てください。
「何のためですか、パウロ。なぜあなたはそうしたのですか?」
力です。
それは、あなたがたの信仰が、人の知恵にではなく、神の力に立つためです。
ああ、何という説教者でしょう。この偉大な人は、神を求めて、こう言いました。
「神よ、私は弱いのです。どうしたらよいのか分かりません。神よ、どうか私を強くしてください。私の弱さを取り除いてください。これらのものを取り去って、私がもっと強くなれるようにしてください。」
すると神は彼に語り返して、こう言われました。
「パウロ、わたしの力は、あなたの弱さのうちに完全に現れるのだ。」
それでパウロは言いました。
「私が弱い時にこそ、私は強いのです。そうです。」
彼は言いました。
「それなら、私は自分の弱さや欠けのゆえに誇りましょう。私の内からそれらがすべて取り除かれたことを、神に感謝します。私の内から自分自身のものがすべて出て行く時、その時、神が入って来ることがおできになるのです。しかし、私の内にまだ少しでも自分自身が残っている間は、神は入って来ることがおできになりません。」そこです。それなのです。私たちは、神を押しのけてしまっているのです。自分自身によって、神を締め出してしまっているのです。
私たちの中で最も貧しい者から最も富んだ者まで、最も小さい者から最も偉大な者まで、私たちは自分自身のゆえに、神を自分の人生の外へ締め出してしまっているのです。
42. 「私にとって最大の敵は、ウィリアム・ブラナムです。」
彼こそが、神の道を妨げる者なのです。彼こそが怠ける者です。彼こそが、時々、自分にも何かできるのだと思うところにまで行ってしまう者なのです。そして彼がそうする時、それは神をその場面から押しのけてしまうのです。
しかし、私がその男を取り除くことができるなら、彼が道から退いているところまで行くことができるなら、その時、神が来られて、ウィリアム・ブラナムには全く分からないようなことをなさることができるのです。
それが、神があなたを用いることのできる時です。
それが、神があなたがたの誰をも用いることのできる時なのです。
私たちが道から退く時、神は誰でも用いることがおできになります。けれども、私たちが自分自身を道に置いている限り、神は用いることがおできになりません。
よろしいでしょう。
43. この人は、どこの町へ行っても集会を開くことができたでしょう。なぜでしょうか。彼には資格証明があったからです。彼はそれほど偉大であり、また、弱い者たちを打ち砕こうと決意していたので、大祭司、すなわち最高の権威から力を受けて、クリスチャンたちを一人残らず縛ることができたのです。
彼の教会から与えられた政治的な力によって、彼らを皆縛ることができました。ああ、彼は強い人でした。クリスチャンたちを縛り、牢に投げ込むことができたのです。なぜなら、彼らが彼の神学的教理、パリサイ人やサドカイ人の教理に同意しなかったからです。彼はクリスチャンたちを縛っていたのです。
しかし、注目してください。彼自身が縛られる者とならなければなりませんでした。それによって、彼はそれを失うことができたのです。自分の力と権威を失うことができたのです。
彼は、自分自身が縛られる者となりました。自分が人々を縛るために用いていたその力を失うためにです。
彼は、縛られる者となるために、自分が何者であったかを失わなければならなかったのです。
44. そして神は、この偉大な人物パウロを選び、彼を地の塵の中に倒れさせ、彼が以前は見下していたような人々と同じことをする者とされたのです。
神は、彼が逮捕していた人々と同じように振る舞う者とされました。
神は、神の御霊によってパウロを縛られました。それは、彼がクリスチャンたちを縛るために持っていた力から、彼を解き放つためでした。
神が何をしておられるのか分からないなどと言わないでください。
神は、彼の握っていたものを手放させるために、彼の強さを取り去られたのです。
45. 今朝、この町にいる、これらの大きな組織教会に通っている誠実な人々のうち、どれほど多くの人々を、神は聖霊で満たし、福音と力によってこの国に火をつけることがおできになるでしょうか。もし彼らがただ、自分たちの持っている力から自分自身を解き放ち、神の御霊によって縛られ、パウロのように、神への愛の奴隷となるならば。
神はパウロを取り、彼を奴隷とされました。彼を御自身に縛りつけ、彼が憎んでいた異邦人のもとへ遣わされたのです。
しかし、ご覧ください。彼は、教会的な権力から解き放たれなければなりませんでした。それは、神の力に縛られるためでした。
彼は自分の強さを失い、弱くなり、無にならなければなりませんでした。それによって神の力を受け、神に縛られ、神が彼に命じられることを行うためです。
それが、今日、私たちもしなければならないことです。
それこそ、私に必要なものです。
それこそ、すべての人に必要なものです。
それは、自分自身を失うことです。
自分の能力を失うことです。
自分が何者であるかを失うことです。
そうして初めて、聖霊に完全に明け渡すことができるのです。
主婦にも、それが必要です。
学生にも、それが必要です。
私たちは……私たちの小さな子どもたちにさえ、それが必要なのです。
46. 分かりますか。彼らは、ほとんど、ずるをするように教えられているのです。
どれほど良いことでしょうか。そういう人々は教会の柱でもあるのです。朝食の時に、お父さんがこう言うなら、どれほど良いことでしょう。
「ジョンは今日、試験があります。神よ、ジョンと共にいてください。ジョンを助けてください。今朝、彼は寝室で私にこう頼みました。『お父さん、今日ぼくのために祈って。試験を受けなければならないんだ。祈って。』」
私は、自分の息子が成績表で、正直に、きちんとしたFを取って落第する方が、ずるをして全部Aを取ったと知るよりも、よほど良いと思います。
その通りです。
私たちに必要なのは、自分自身を失うことです。
そして、神の力に完全に頼ることなのです。
47. 神はパウロに言われました。
「わたしの力は、あなたの弱さのうちに完全に現れる。あなたがますます弱くなるほど、わたしの力はますます完全に現れる。あなたがわたしに明け渡すことができればできるほど、わたしはあなたをよりよく用いることができる。あなたが自分の教育を忘れることができればできるほど、自分の教派を忘れることができればできるほど、自分の持っているものを忘れて、わたしに自分を明け渡すことができればできるほど、わたしはあなたを用いることができる。あなたが弱くなるからこそ、わたしはわたし自身の目的を強くするのだ。」
神は、弱さの中から力を造り出すことがおできになります。
それが、神がいつもそのようになさる理由です。
神が弟子たちを選ばれた時も――。
48. 神の御子ご自身のへりくだりを見てください。
彼は飼い葉おけの中に、肥やしのにおいのする家畜小屋、牛の囲いの中でお生まれになり、産着に包まれました。
ご覧ください。彼は宮殿を通して来ることもおできになりました。天の回廊を下り、御使いたちの完全な敬礼を受けて来ることもおできになったのです。
しかし神は、キリストを私たちの模範、私たちのための模範とすることを選ばれました。そして、へりくだりの中に彼を来させたのです。
神は彼を、この世の学校で訓練されませんでした。
そうではなく、御自身の力によって訓練されました。
それは彼が、人の考えやこの世の力にではなく、神の力に完全に明け渡すことができるためでした。
49. 今日、私たちは自分自身を、大きな教派やその領域に明け渡してしまっています。私たちは自分を教派に明け渡し、その教派が何と言うか、彼らがそれについてどう言うかに従ってしまうのです。
しかし、それは神の御心に反しています。
私たちは、自分自身を神の御霊に明け渡し、御霊が行けと言われるところへ行かなければなりません。その通りです。
神のヘブル人たち……いや、神の兵士たち、むしろ「英雄たち」――今、私たちはヘブル人への手紙11章34節で読みました――
弱さの中から強くされた。
彼らは、強くされる前に、弱くならなければなりませんでした。彼らは、自分たちの弱さの中から強くされたのです。
そこに聖句を書き留めている皆さん、ヘブル人への手紙十一章三十四節です。
よろしいでしょう。
50. ここに、私たちを励ますものがあります。
神は、弱さとへりくだりの中から、御国を建て上げるための人々を選ばれるのです。
もし私たちが天に行くなら、もし私たちが神の教会と共に、神の御前に立つなら、私たちは、弱く、拒まれ、この世から追い出され、何も知らない者たちの群れの中に立つことになるでしょう。
神が私たちを羊にたとえられたのは、不思議ではありませんか。
羊は、存在するものの中で最も無力なものです。羊ほど、自分を守る力に乏しいものはありません。
うさぎは走ることができます。
リスは木に登ることができます。
犬は噛むことができます。
ライオンは引き裂くことができます。
馬は蹴ることができます。
鳥は飛ぶことができます。
しかし、羊はただ無力に立っているだけです。
そして、それこそが神が私たちに望んでおられる姿なのです。
私たちが、自分は完全に足りない者であると悟ることです。
その時、神はその人を取り、御自身をその人の内に形づくり始められます。
その人の手に、神がその手でなさりたいことを行わせ、その人の唇に、神の唇が語られることを語らせるのです。
なぜなら、それらはもはやその人のものではなく、神のものだからです。
神はその人の内に品性を築き始め、この弱さを取って、そこに御自身を形づくっていかれるのです。
51. 血筋、系譜を見たことがありますか。たとえば、アベルの場合を見てみましょう。アベルからセツが来ました。セツの系譜は、そのままノアの時代まで続いていきました。彼らは皆、へりくだった農夫たちでした。
しかし、カインの子孫は賢く、抜け目がなく、教育を受け、偉大な人々となりました。建築者、専門職の人々となったのです。
しかし、神の側は弱く、へりくだっていました。
それが、神が彼らを用いられた方法なのです。
それが、神の機会なのです。
私たちが弱い時、それこそが、神が私たちに近づかれる道なのです。その時、私たちは何かを受け取るのです。
もちろん、これは励ましです。なぜなら、神の御国全体は、このような人々によって建てられているからです。ですから、あなたがそのようなあり方に至る時、あなたは神の御国の中にいるのです。
私たちの場合、問題は、私たちが弱すぎることではありません。
問題は、私たちが強すぎることです。私たちはただ、強すぎるのです。それだけです。
つまり、私たちはあまりにも頑固なのです。
その通りです。私たちは頭の中で強すぎるのです。私たちは知りすぎています。
神は、それを私たちの内から取り除きたいのです。
その通りです。
私たちは強すぎます。
神に明け渡すには、あまりにも強すぎるのです。
私たちは自分自身に明け渡してしまいます。
そしてこう考えなければならないと思ってしまうのです。
「いや、ここは、私には分かるだけの分別がある。」
52. 私が行った時……隣の部屋に、小柄な婦人がいました。もしその婦人がここにおられるなら、姉妹、どうか赦してください。彼女はケンタッキー出身の小柄な女性で、そこにいたのは彼女の義理のお母さんでした。
その夜、午前一時ごろ、妻と私は彼女と話していました。すると、彼女の夫が床に横になって眠っていたのです。
彼女は言いました。
「ここから出て行きなさい! あなた、どうせお母さんの役にも立っていないんだから。」
そう言って、夫を部屋から追い出しました。なぜなら彼は、看護師たちが出入りする扉の真正面に、まっすぐ横になっていたからです。誰も中に入れない状態だったのです。
彼は床で大いびきをかいていました。
それで彼女は彼を起こして、外へ追い出したのです。
53. すると彼女は言いました。
「まあ、私が知っていたことといえば、朝早くからタバコ畑で、首の曲がった鍬を持って、雑草を刈ったり、タバコの脇芽を摘んだり、そんなことばかりでした。」
そして言いました。
「でもね、言っておきますけど、お父ちゃんは私たちを一人残らず学校へ行かせてくれました。それでも、私たちにはまだ分別なんてありません。」
私は思いました。
「まあ、もしかすると、それが理由なのかもしれない。」
分かりますか。あなたは、この世のものを自分から遠ざけておかなければなりません。
さて、私は無知を支持しているのではありません。そういうことではありません。
ただ、あなたが、自分はあまりにも多くのことを知っていて、ほかの誰もそれについて何も知らないのだ、と思うようなところにまで行ってしまう時のことを言っているのです。
あなたの知識は、それが神の約束を妨げない限り、問題ありません。
54. その五感、すなわち、見ること、味わうこと、触れること、嗅ぐこと、聞くことは、とても良いものです。信仰の感覚を妨げない限りは、です。
しかし、それらが信仰に逆らって来る時……。
では、どちらが正しいのか、どうやって分かるのでしょうか。
それは、信仰は常に御言葉と一致するからです。
もしあなたの信仰が御言葉に反しているなら、あるいは自分では信仰だと思っていても御言葉に反しているなら、それは信仰ではありません。
それは、ただ信じているふりです。
あなたは、自分の感覚や、学んできた学問的な知識、あるいは何かそうしたものを誇っているだけなのです。
しかし、そこから離れて、完全に信仰に頼る時、そして信仰は神の御言葉の上にしか築かれ得ないものです。正しい信仰とは、そういうものなのです。
55. 「ビリー、私はこう思うんだ。もしあなたがあの人たちに、『あそこへ行って、あの柱や、あの木に触りなさい。そして、それで癒されると信じなさい』と言えば、彼らは同じように癒されるだろう。」
私は言いました。
「いいえ、先生。それはできません。なぜなら、一つのことがあるからです。ご覧ください。あの人たちは、それがただの柱だと知っています。その柱の中に徳も力もないことを知っています。」
しかし、正しい精神を持っている人なら誰でも、それが生ける神の御言葉であることを知るのです。私はその御言葉の上に自分の信仰を置くことができ、それが「主はこう言われる」であると知ることができます。
そして、もし何かがそれに反するなら、私は自分の感覚を信じません。いいえ、決して。
それはそのままにしておきなさい。
もう一つの感覚、すなわち信仰の感覚によって進みなさい。
56. シカゴのD・L・ムーディー……彼はボストンの人でした。彼は靴職人で、小柄な人で、自分には足りないところがあると知っており、自分自身に頼りませんでした。
さて、今あるような大きな学校、あちらにあるムーディーの学校を考えてみてください。もしドワイト・ムーディーが再び立ち上がって、その学校を見たなら、彼が最初にすることは、その学校を取り除くことでしょう。
もしマルティン・ルターが再び立ち上がったなら、彼が最初にすることは、ルーテル派の組織を取り除くことでしょう。
ジョン・ウェスレーも同じことをするでしょう。
これらの人々は、そのような組織を創設したのではありません。
それを作ったのは、彼らの後に従った人々だったのです。
57. 「私が去った後、あなたがた自身の中から、曲がったことを語る者たちが起こるでしょう。」
パウロの死後、そしてその百年、あるいは二百年ほど後になって、彼らはカトリック教会、最初の組織を形成したのです。
人々が立ち上がったのです。
ムーディーの死後に、ムーディー学校ができました。
ウェスレーの死後に、ウェスレー派の教会が形作られました。
ルターの死後に、ルーテル教会が形作られました。
神は英雄たちを送られます。
そして人々は、その後に建物や組織を建てるのです。
イエスが「白く塗った壁よ」と言われたのも不思議ではありません。
彼は言われました。
「あなたがたは預言者たちの墓を飾っているが、彼らをそこに入れたのは、あなたがたなのだ。」
その通りです。
これらの偉大な人々が立ち上がると、その後、人々は彼らのために記念碑を建てるのです。
私は、ダビデが自分の時代において神によく仕えたように、それこそがなすべきことだと思います。
その後に出て来る組織やそうしたものは、あなたから遠ざけておきなさい。
58. ムーディーについて最初に言われていることは……彼には全く教育がありませんでした。そして彼の文法は、ひどいと言えるほど貧しいものでした。
ある時、一人の人が彼のところに来て言いました。
「ムーディーさん、あなたの文法は、私がこれまで聞いた中で最もひどいものです。」
すると彼は言いました。
「私は自分の無学によって魂を勝ち取っています。あなたは自分の教育で何をしていますか。」
私は、それは良い答えだったと思います。確かにそうです。
ところが今では、その学校の一員になろうとするなら、あなたは間違いなく、洗練された学者でなければならないでしょう。その通りです。
[一人の兄弟が言う。「まるで逆ですね。」]
そうです。彼らは逆にしてしまったのです。その通りです。まさに反対の道へ戻ってしまったのです。
59. クリスチャンが自らへりくだり、自分自身を空にして、神のための場所をもっと見いだそうとする代わりに、人々は自分自身を築き上げようとします。自分で作り上げた知識や、何かの専門学校で得た知識、そうしたものによって自分を高めようとするのです。
しかしそれは、彼らが始めた時よりも、さらに神から遠ざけてしまうものなのです。
それで私は、こうした人工的な祭壇への招きについて考えているのです。
あなたがその人を無理に連れて来る。すると次にその人をもう一度戻すのは、十倍も難しくなります。
その人を座らせて、聞かせておきなさい。神がその人に何かをなさるまで待ちなさい。
そしてその時、その人に来させ、告白させ、立ち上がらせて、主の御名を呼び求めさせるのです。
その通りです。
60. 身体的にも小柄で、禿げ頭で、ひげを垂らした、小さく背の低い人でした。肉体的には、まさに弱々しい状態の人でした。
ですから、彼には絶えず弱さしかありませんでした。
しかし神は、彼を用いて、その時代に世界を揺り動かされたのです。
ある時、一人の新聞記者が彼の集会にやって来ました。私はその話を読んだのですが、その記者たちは、この人がどんな人物なのか、大人物なのか、偉大な人なのか、それを記事にするために来たのです。
(テープを止めるための小さなスイッチはどこですか。では、私がそれを持っていなければなりませんね。)
61. そして彼は、人々の注意を引きつけ、彼らを釘づけにすることができました。
それで、ある新聞記者がムーディー氏のところへ行きました。いや、その集会へ行って、この人がどれほど大きく作り上げられた人物なのか、どんな偉大な人物なのかを記事にしようとしたのです。
ちょうど最近、ある記者が別の偉大な伝道者について記事を書き、こう言ったようにです。
「この人は雄弁である。神学博士であり、私がこれまで聞いた中で最も優れた文法を用いている。彼は心理学的な力で人々をつかんでいる。人々を釘づけにすることができる。」
62. 「私には、彼のどこが人を引きつけるのか分からない。第一に、彼はこの上なく見栄えがしない。次に、彼は肉体的にも弱々しい。さらに」と彼は言いました。「彼には教育がない。彼の文法は、私がこれまで聞いた中で最もひどいものだ。」
そして言いました。
「彼は説教する時、鼻にかかったような、息のもれるような声で話す。私には、ドワイト・ムーディーの中に、誰の注意を引くようなものも見えない。」
その記事がムーディー氏のところへ持って来られました。彼はそれを読み、少し自分でくすっと笑って、こう言いました。
「もちろん、私の中にはありません。それは神です。」
確かにそうです。
人々はドワイト・ムーディーを見に来るのではありません。
神を見に来るのです。
人々は、あなたがどれほど証をするかを気にしているのではありません。彼らは、あなたの人生の中に、神があなたを捕えておられることを証明する現実を見たいのです。
あなたがメソジストであろうと、バプテストであろうと、ペンテコステであろうと、あるいは何であろうと、人々が見たいのは神なのです。
その通りです。
偉大な人々とは……本当に偉大な人々とは、弱く、自分の弱さを悟っている人々なのです。
63. ああ、彼は学者でした。彼はエジプト人のあらゆる知恵において、それほどまでに訓練されていたのです。彼はヘブル人を教えることができました。
エジプト人を教えることもできました。誰にでも教えることができたのです。
なぜなら、モーセは偉大な人であり、賢い人だったからです。ああ、彼は力ある人でした。
セシル・B・デミルが『十戒』を映画化した時の描き方では、モーセの役を演じたあの人……その俳優の名前は忘れましたが、大きな体をした、たくましい腕と力を持った人物として登場していました。
そして、モーセはおそらく、そういう種類の人であったのかもしれません。
64. (ああ、どうか神が、これを私たちの心の奥深くに沈ませてくださいますように。)
その時代の必要を見て、モーセは自分の知的な力と、それを成し遂げるために持っていた能力を用いようとしました。
彼は賢い人でした。次のパロとなるべき人でした。心理学も知っていました。権力もありました。肉体的な力もありました。すべてを持っていたのです。
それで彼は言いました。
「私は十分に備えられている。私はすべてを知っている。この地に、それを成し遂げることのできる人がいるとすれば、それは私だ。だから、私は今この時の人だ。よし、私が踏み出そう。」
そして彼は出て行きました。正しい働き、神の御心の中にある働きを成し遂げようとしたのです。
しかし彼は、自分の生まれ持った能力を差し出しました。
神はそれを拒まれました。
神は、モーセが持っていたものを一つも用いることがおできになりませんでした。
その時、神はそれを用いることがおできになりませんでした。
そして今も、神はそれを用いることがおできになりません。
神は、私たちの生まれ持った能力を用いることはおできになりません。
私たちは、自分自身と自分の能力を道から退け、神の御心と力に明け渡さなければならないのです。
65. あなたが「説教できる」と思っている間は、神はそれを用いることがおできになりません。
「それは大丈夫です。私はこれができます。あれもできます。」
あなたは何もできません。
神はそれを用いることがおできにならないのです。
しかし、あなたが自分自身を神に明け渡し、神にそれをしていただくなら――。
あなたは言うかもしれません。
「でも、ブラナム兄弟、私は自分が教師であることを知っています。」
けれども、あなたが教師である間は、そう遠くまでは行けないでしょう。
しかし、聖霊こそが私たちの教師です。
確かにそうです。
神は、教会の養育係、導き手として、聖霊を遣わされたのです。
ある人々は、何年も何年も学校へ行きます。
そして何をするのでしょうか。
『アッパー・ルーム』の記事を読んだり、そうしたものを読んだりします。ああ、それは良いものです。
全国日曜学校の教材を取り上げる人もいます。
私はそれに反対しているわけではありません。それは神の言葉や、そうした事柄を扱っています。
しかし、それは知性ある人々によって組み立てられたものです。
それは、キリストの力と復活によって来なければなりません。
そしてあなたは、自分の生まれ持った能力に頼ることはできないのです。
66. そして私たちも……今日、神は私たちの生まれ持った能力を用いることはおできになりません。
しかし、モーセには一つ、私が感心するものがありました。
彼には、自分が打ち負かされたのだと悟るだけの分別があったのです。
私たちには、それがありません。それだけです。
「私たちは新しい教派を作ろう。癒しの賜物か何かを持った別の人を立てよう。」
ペンテコステ派の人々などは、そうするのです。分かりますか。
私たちは、自分たちがすでに打ち負かされているのだと悟るだけの分別がないのです。
ペンテコステ教会も、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドも、ユナイテッドも、そのほかの人々も、自分たちが打ち負かされているのだと知る力を持っていないように見えます。
ハレルヤ。ああ、どうかこれを心に焼きつけることができたらと思います。
彼らは打ち負かされているのです。
教会組織は打ち負かされています。
ちょうど、このアメリカ合衆国が打ち負かされているのと同じです。震え、恐れ、その上には爆弾がぶら下がっています。彼らは、自分たちが踊り明かし、浮かれ騒ぎながら、自分の人生を地獄へ向けてしまったことを知っています。そして、彼らは打ち負かされているのです。
霊は彼らから去ってしまいました。
若い男たちを軍隊へ集めようとするなら、木々の間まで探し回らなければならないでしょう。彼らは前の戦争で何が起こったかを見たからです。
私たちは打ち負かされているのです。
教会は打ち負かされています。
彼らはそれを知っています。
67. 神は彼を奥の方、荒野へ連れて行かれました。そこで彼に、人間の弱さというものを学ばせるためでした。神は彼をそこへ連れ戻し、それが一体どういうことなのかを学ばせられたのです。
そして彼は実によく学びました。ああ、本当に、彼は何という教訓を受けたことでしょう。神はあそこで、彼を扱うのにかなりの時を持たれたに違いありません。
ご存じのように、モーセには気性の激しいところがありました。神は彼に、チッポラという名の妻をお与えになりましたが、彼女にもまた気性の激しいところがありました。ですから、二人の気性が同時に抑えきれなくなった時、荒野の奥での生活は、しばらくの間、そんなに心地よいものではなかっただろうと私は想像します。
人をどう支配すべきかという、彼の知的な心理学的理解は、あまり役に立たなかったのでしょう。なぜなら、彼がエジプトへ向かう途中、チッポラにはまだその気性が残っていたのが分かるからです。彼女は自分の息子の包皮を切り取り、それをモーセの前に投げつけて言いました。
「あなたは私にとって血の夫です。」
神は彼に対して非常に怒っておられました。もしその終わりに彼を見つけることができたなら、神は彼を打ち殺されたことでしょう。
おそらく、神があそこで彼に教えなければならない小さなことがいくつもあったのだと思います。分かりますか。彼も一人の人間であるということです。
エジプトのあらゆる知恵も、彼の知的な力も、神はその一つとして用いることがおできになりませんでした。
68. 「主よ、私はもう四十年も学校で学んできました。私は知的な学徒です。目を閉じていても、あの聖書を引用できます。」
神は、そのようなものを少しも用いることがおできになりません。いいえ。
「私はこの国で一番大きな教会に属しています。主よ、私はこういう者です。ああ、私はペンテコステです。神に栄光あれ。私はつい先日の夜、聖霊を受けました。ハレルヤ。あなたは私に、あれやこれをさせてくださるでしょう。」
神は、そのようなものを少しも用いることがおできになりません。いいえ。
あなたが打ち負かされ、自分が打ち負かされたのだと悟る時、そして戻って来て、自分をへりくだらせる時……。
弱くなりなさい。自分が人間であることを知りなさい。
あなたの知性によってできることなど、何一つありません。人間の弱さそのものが神に用いられるのではありません。
神が、人間の弱さの中へ御自身を注ぎ込まれるのです。
そしてその時、神は御自身を用いられるのです。
あなたはただ、器となるだけです。
確かにそうです。
あなたは、自分自身を道から退けなければならないのです。
69. 出エジプト記の初めの部分にある、その七つの弱さを学んだことがありますか。
私はそれをここに書き出してあります。どうか聞いてください。
彼が持っていた第一の弱さは、メッセージの欠如でした。
第二の弱さは、権威の欠如でした。
第三の弱さは、雄弁さの欠如でした。
第四は、適応の問題でした。
第五は、成功の問題でした。
そして第六は、受け入れられるかどうかの問題でした。
70. 「主よ、私は役に立たない者です。私は話すことができません。私はエジプト人を殺しました。戻って行くことなどできません。ああ、何もかもだめです。彼らは私を受け入れてくれないでしょう。私にはメッセージがありません。私は話せません。私は口が重いのです。」
彼がどのようであったか分かりますか。
彼は無でした。
兄弟、彼は癒されていたのです。そうです。神はその時、彼を用いることがおできになりました。彼が癒された後にです。そうです。
私たちも、癒された後なら、神は用いることがおできになります。
「私の博士号も、法学博士号も、二重の学位も、あるいは何であれ、私のすべての学位は何でもない。」
それを知るように癒される時です。
神は、それらを用いることはおできになりません。
71. 「私はワンネスです。」
「私はバプテストです。」
「私は長老派です。」
神は、そのようなものを少しも用いることがおできになりません。あなたがそれから早く離れれば離れるほど、神に自分を明け渡すには、いっそう良い状態になるのです。
預言者がそうであったように、彼は言いました。
「私は唇の汚れた者です。また、唇の汚れた民の中に住んでいます。」
すると御使いが行って、火ばさみを取り、祭壇から燃える炭を取って、彼の唇に触れました。
その時、彼は叫びました。
「主よ、ここに私がおります。私を遣わしてください。」
そうです。彼が、自分が何者であるかを悟った後でした。彼は預言者でありながら、それでも唇の汚れた者だったのです。
私たちが、自分は何でもない者だと悟ることができるなら。
あなたは何者でもない。あなたは地の塵にすぎないのです。
神はあなたを用いることがおできになりません……いや、あなたのすべての弱さを合わせても、モーセの弱さには及ばないでしょう。
ここで彼には六つの異なる弱さがありました。
そして彼は、人間の弱さというものを学んでいたのです。
72. それは、今日のようなものです。
「さあ、私たちにはこれこれが必要だ。この国にはリバイバルが必要だ。よし、私が何をするか言おう。私は戻って勉強して、文学士号を取るまで学ぶぞ。そうだ。さらに戻って勉強し、法学博士号を持つ者として任命されるまで学ぶぞ。文学も学ぼう。あれもこれも全部やろう。それから出て行って、私はこの時代の人になるのだ。ここで先に始めた連中を、みんな押しつぶしてやる。ああ、兄弟。三百万ドルの建物を手に入れよう。キャデラックを一ダースそろえよう。」
ああ、兄弟。
あなたは、始めない方がましです。なぜなら、あなたは始める前から、すでに打ち負かされているからです。分かりますか。
しかし問題は、彼らがそれを知らないということなのです。
73. それは、女たちの操り人形です。
神が求めておられるのは男たちです。神に属する男たち、揺り動かすことのできる男たちです。
しかし今日、私たちが求めているのはハリウッドです。目に好ましいものを求めています。日曜の朝、私たちが五分ほど眠っていられるような、知的に語ることのできる人を求めているのです。
神が求めておられるのは、分離させる者たちです。稲妻のようにそれを放ち、罪を根っこから責め、掘り起こす者たちです。その通りです。
けれども私たちは、知的な牧師を求めています。多くの人々は、ささやくような牧師を求めています。
「はい、あなた、それでいいですよ」と言ってくれるような人です。
神が求めておられるのは、雷鳴のような人たちです。
その通りです。
背中をぽんぽんとたたいてやり、短い髪や化粧をしていても、何も言わない。体に流し込まれたような服を着ていても、そういうすべてのことについて、一言も言わない。
少し前、この近くで、ある偉い人が私を自分の事務所に――いや、事務所ではなく、その働きの事務所に――呼び出して、こう言いました。
「私はあなたに手を置いて、あなたがそれをやめるように祈りたい。」
私は言いました。
「それをしてはいけません。してはいけません。いいえ、決して。」
それを止めるなら、あなたはメッセージを止めることになります。
それをするなら、あなたは神を止めることになるのです。
その通りです。
私たちは、そういうものは一切求めていません。
74. 「かわいそうな小さなモーセよ。何か大変なことが起こったのだな。お前は自分の地位から落ちてしまった。ああ、何ということだ。そうだ、お前は偉大な人だった。知的な人だった。お前を止めるものなど何もなかった。兄弟よ、お前には博士号も、法学博士号も、その他すべてがあった。それなのに今、お前は、自分は何でもない、何一つできない、ただ弱い者だと告白して戻って来たのだな。」
いいえ。神は彼を気の毒に思われたのではありません。
神は彼を憐れんで、同情されたのではありません。
神はその時、彼をそうしたすべてのものから癒しておられたのです。
神は彼をかわいそうだとは思われませんでした。
しかし私たちは見いだします。もし書き留めているなら、出エジプト記4章14節です。
主の怒りは、モーセに向かって燃え上がった。
神は、彼が弱かったからといって、彼を気の毒に思われたのではありません。
75. 「主よ、私は本当にだめな気がします。私にはそれができるとは思えません。」
神はあなたを気の毒に思われるのではありません。むしろ、少し蹴り回したいと思われるようなものです。分かりますか。確かにそうです。
神はあなたをかわいそうには思われません。
神はあなたに対して怒られるのです。
その時こそ、あなたは神が用いることのできる状態へと整えられつつあるのです。そうです。
モーセは癒されつつありました。神は彼を用いることがおできになりました。彼はその癒しを受けていました。その時、彼は人間の能力から離れていたのです。
その時、彼には頼ることのできるものが何もありませんでした。なぜなら……。
その時、彼は奉仕のために備えられていたのです。
76. かつてあなたは、大いなる王子として、あそこに立っていた。
『こんにちは、モーセ博士。おはようございます、先生。はい、先生。モーセ、あなたは次の王子です。私たちは皆、あなたに期待しています。』
しかし今、あなたはこの砂漠にいる。羊の群れと、気性の激しい妻と一緒にいるのだ。」分かりますか。それが彼を整えたのです。その通りです。モーセはひどい状態に置かれていました。そして神は言われました。「今なら、わたしはあなたを用いることができる。あなたが、自分は何者でもないと悟った今なら。さあ、こちらへ来なさい。この燃える柴のそばへ。わたしはあなたを、あそこへ遣わしたいのだ。」ああ、何ということでしょう。神よ、私たちにもっとそのような人々を与えてください。もっと弱い者たちを与えてください。それこそ、私たちに必要なものです。弱い者たちです。確かにそうです。
77. ご存じのように、ヤコブはかつて、自分は大した者だと思っていました。彼は、人を欺いても、何でもうまく切り抜けられると思っていたのです。
彼は義理の父の羊や家畜が身ごもっている時、ポプラの枝を入れ、水を飲みに来た時にそれを見せて、まだらの羊などを生まれさせました。
そうして、気がついてみれば、ヤコブは大いなる人物になっていました。確かにそうです。
彼はまさに……エサウが言ったように、
「彼が『ヤコブ』と呼ばれたのは、まったくその通りだ。」
彼は確かに「押しのける者」でした。
ですから、彼は欺く者だったのです。
彼は順調に進み、増え広がり、大きな群れを持ち、妻たちを持ち、羊や牛や雄牛、その他あらゆるものを持っていました。
彼はすべてを持っていたのです。
78. 彼がある小川のところまで来て、そこを渡ろうとした時、彼は御使いに捕えられる場所へ来たのです。
兄弟、年老いたヤコブは一晩中しがみつきました。確かに、彼は長い間しがみつきました。
しかし、彼が自分自身を明け渡した時、弱くなり、もはやしがみつくことができなくなった時――。
ああ神よ、教会をそのようにしてください。
教会が、自分たちの生まれ持った能力では、もうこれ以上しがみついていられないところまで来ますように。そして、神に明け渡さなければならないところまで来ますように。
メソジストが、メソジストであることを恥じるようにしてください。
バプテストも、ペンテコステも、自分たち自身を恥じるようにしてください。そして、しがみつくのをやめ、御霊に明け渡すようにしてください。
その時、ヤコブは神の君となったのです。
聖書は、彼が君となったと言っています。そして彼の名は変えられました。分かりますか。
覚えておいてください。こちら側では、彼は偉大で強い人、知的にも力ある人でした。しかし、向こう側では、彼は足を引きずる君となりました。弱く、すり減った者でしたが、神の御前では力を持っていたのです。
79. 近所でのあなたの名声も、その時から、昔ながらの変わり者のように見られるかもしれません。それもそうでしょう。
けれども、私は言います。
あなたは神の御前で力を持つのです。
私は、むしろそのようでありたい。
いつでもその道を選びます。
弟子たちは戻って来て、喜びました。
なぜなら、彼らはその御名のために、またイエスのために、辱めを受けるに値する者とされたことを喜んだからです。
確かにそうです。
人々はあなたを「ホーリー・ローラー」と呼ぶでしょう。
80. それが打ち砕かれるに任せなさい。
あなたの……そこから手を放しなさい。
「まあ、私はメソジストです」とか、
「私は長老派です」とか、
「私はアッセンブリーズです」とか、
「私はワンネスです」とか、
「私はあなたと同じくらい立派です」とか。
よろしい。
一度そこから出て、明け渡してみなさい。
一度、御使いにあなたを捕えていただきなさい。
主の御使い、すなわち、あなたにメッセージの真理をもたらす御使いに、あなたを捕えていただきなさい。
一度、彼にあなたを捕えていただきなさい。
そうすれば、あなたはイエスの御名によるバプテスマにまでへりくだるでしょう。
そのほかのすべてのことにも、へりくだるでしょう。
そうです、あなたはそうするのです。
確かにそうします。
そうです。
あなたは、こうした知的なものをすべて忘れてしまうでしょう。
81. 私は面談を終えた後、その方が部屋を出て行くところでした。その方は、あちらでの集会において、私を経済的に支えてくださった一人でもありました。どうやってその働きを続けていけばよいのか分からないような時、ただ神に信頼していると、その方がそれを支えてくださったのです。そうです、本当に立派な方でした。
その方は旅をして、ある大きな町から数日前の夜にここへ来られ、部屋に立っていました。そして帰り際に、私にこう言いました。
「ブラナム兄弟、一つ申し上げたいことがあります。」
その方は言いました。
「私の知る限り、あなたを愛していない人はいません。」
私は言いました。
「それを聞いて、とてもうれしいです。」
すると言いました。
「ブラナム兄弟、ただ一つだけ、たった一つだけ問題があります。」
私は言いました。
「それは何ですか、姉妹。」
その方は言いました。
「それはこういうことです。ブラナム兄弟、もしあなたが、ご自分の持っているあの教理を少しだけ妥協してくだされば、すべての組織があなたを受け入れるでしょう。」
私はその時すぐに分かりました。私は思いました……そして言いました。
「どの教理のことですか、姉妹。」
すると彼女は言いました。
「ああ、イエスの御名によるバプテスマのことです。」
「ああ」と私は言いました。
「けれども姉妹、神の御言葉について妥協して、それでもなお神のしもべでいられるなどと、あなたは私に期待することはできません。」
82. 「実は、この大きな町にいる、私が代表して来ている牧師たちの一団がいます。もしあなたが、『あなたに幻を与えている主の御使いが、イエスの御名でバプテスマを授けるように言った』と彼らに言ってくだされば、彼らはそれを受け入れる用意があります。」
「それなら」と私は言いました。
「彼らの経験は、洗い水よりも薄いものです。」
私は言いました。
「どんな御使いが何を言おうと、それが御言葉に沿っていなければ、私は信じません。」
「もしその御使いが、御言葉と違うことを私に告げたなら、私はその御使いを信じません。」
その通りです。
神の御言葉が第一です。
すべての御使いや、その他すべてのものよりも上にあります。
真の御使いなら……私は言いました。
「もし彼がそれを私に告げなかったとしても、私は彼に聞き従いません。」
そうです。
その婦人はどうしてよいか分からなくなりました。
彼女は言いました。
「そんなことは聞いたことがありません。私はそれについて知りませんでした。」
分かりますか。そこなのです。
それで私は、その小さな婦人にいくつかの聖句を示しました。
すると彼女は言いました。
「私はまっすぐ家に帰って、新約聖書を学びます。私はこれまで、それを学んだことがありませんでした。」
分かりますか。そこなのです。
ああ、何ということでしょう。
ああ、何ということでしょう。
そこへ行き着くのです。
しがみつこうとするのをやめなさい。
手を放しなさい。
それこそ、あなたがしなければならないことです。
手を放すのです。
ヤコブは、手を放した時に大丈夫になりました。
彼は君となり、神の御前で力を持つ者となったのです。
83. ダビデがその大きなよろいを全部身に着けて、ゴリアテと戦いに出ようとした時、彼はあたりを見回し、後ろを振り返りました。すると、自分がほかの人たちと同じように見えたのです。
そこで彼は言いました。
「ここには何かおかしいことがある。」
あなたがこの世と同じであり、この世と妥協し、この世がしているのと同じことをしている限り、そこには何かがおかしいのです。
ダビデは言いました。
「これはあまりにも守り固められすぎている。私は博士号を持っている。私はPh.D.を持っている。分かりますか。私は大きな組織に属している。こんなものを全部着けて、どうやって戦いに行けるだろうか。私はこんなものについて何も知りません。何も知らないのです。」
ダビデは言いました。
「これを私から脱がせてください。」
その通りです。
「もし私が神のために戦うのなら、ここに立っているこの臆病者たちのような姿ではいたくありません。みんなよろいで身を固め、きらびやかに装っている。私はそんな姿では集会を持つことはできません……。」
84. しかし彼らは言います。
「私たちの組織は、私たちを追い出してしまうでしょう。」
あなたは、何という情けない言い訳でしょう。
サウルのよろいを脱ぎなさい。
私に必要なのは、聖霊の力と強さです。
神よ、私を石投げ一つで遣わしてください。
それがどんなものであっても、どれほど小さなものであってもかまいません。敵を打ち倒すために、私を遣わしてください。
それは本当です。
私を遣わしてください。
しかし、ほかの人々のように、LL.D.だの、Ph.D.だの、博士だの、そうしたもので身を飾らせないでください。
85. 「これは、どうも合いません。」
彼は言いました。
「私はこんなものについては何も知りません。」
そして言いました。
「私が知っているただ一つのこと、私が持っているただ一つのことは……荒野の奥で、父の羊を世話していた時のことです。
ある時、ライオンが入って来て、小さな子羊をつかみ、それを連れて逃げて行きました。私は、それが父の子羊だと知っていました。
ああ、私は武装していたわけではありませんでした。しかし、ただ石投げを手に取って、その後を追って行ったのです。」
彼は言いました。
「私はそのライオンを打ち殺し、子羊を連れ戻しました。」
ああ、何ということでしょう。
そこに立っていた者たちは、手に槍を持っていましたが、それをすることはできなかったのです。
今日、問題となっているのはそこです。
神には、迷い出てしまった羊がたくさんあります。
組織やそうしたものが、彼らを盗み出してしまいました。
彼らを心理学の中へ連れ出してしまったのです。
神よ、私たちにダビデたちを与えてください。
御言葉と神の力を持ち、私たちがこれらの知的な巨人たちに向かって行く時、それを正しく導くことのできるダビデたちを。
その通りです。
Ph.D.だの、LL.D.だの、Q.U.S.T.だの、あるいは何であれ、そうしたものをすべて持つ巨人たちに対してです。
私に神の御言葉と聖霊の力を与えてください。
そうすれば、野にいるどんな巨人でも打ち倒すことができる、と私は言います。
その通りです。
私たちに必要なのは、それを行うことのできる人々なのです……。
86. 彼はただの少年にすぎませんでした。聖書は、彼が血色のよい少年だったと言っています。おそらく、小柄でやせたように見える者で、少し猫背で、羊の皮を体に巻きつけていたような少年だったのでしょう。
彼には、そうした大きな知的な学位も、十分な訓練もありませんでした。剣については何も知りませんでした。サウルが受けていたような、すべての訓練についても何も知りませんでした。
サウルは、彼らが持ち得る最善の人物でした。サウル司教、とでも言えるでしょう。確かにそうです。彼は軍隊の誰よりも、頭一つ分も肩一つ分も抜きん出ていました。
本来なら、彼こそが出て行って、その巨人と戦うべき人でした。
しかし、彼は恐れていたのです。
87. 人々の間に、揺り動かしが必要であることを知っています。
それは神学博士によってもたらされるのではありません。
それに必要なのは、弱い者です。ハレルヤ。
神の御言葉を、キリストの復活の力の中で取り、それによってこのものを打ち倒す弱い者です。
それはキリストをこの国にもたらし、人々に見せるでしょう。
彼が今なお盲人の目を開き、病人を癒し、死人をよみがえらせることがおできになる方であり、神であり、征服者であることを見せるのです。
アーメン。
私たちにはダビデが必要です。
神学校で訓練された者ではありません。
そうしたことを何も知らない人が必要なのです。
小さな農夫の少年か、何かそのような者です。
少し猫背で、見た目には大したことのないような小さな者が、神の力を帯びて道を歩いて来るのです。
88. 「ビリー、私はあなたを信頼し、信じてきました。あなたは私の霊的な力となってくれました。あなたは私を神へと導いてくれました。」
私は言いました。
「母さん、私が少年だった頃……。」
もちろん、私たちの背景はアイルランド系でしたので、少しカトリック寄りのところがありました。
私は言いました。
「教会は、自分たちは一つの人々の体であり、すべてを持っている、そして自分たちのすることはすべて正しい、と言っていました。でも私はそれを信じることができませんでした。なぜなら、ルーテル派も『私たちこそが一つの体であり、すべてを持っている』と言っていたからです。バプテストも『私たちこそがその体であり、すべてを持っている』と言っていました。あまりにも多すぎます。およそ九百もの異なる組織があるのです。」
私は言いました。
「母さん、私はそこに信頼を置くことができませんでした。その中のどれが正しいのでしょうか。」
89. 私は神の御言葉へ戻ります。そこに戻って見た時、私は、それが昔どのように働いたかを見ました。
ですから神よ、私たち皆をそこへ戻してください。弱さの中へ。組織の支えもなく、教派の支えもなく、教会制度の支えもなく、ただ単純さと、ペンテコステの日に下った聖霊の力の中へ戻してください。
そして、ペンテコステの日にペテロが持っていた同じメッセージへ戻してください。
あなたがたは悔い改めなさい。そして一人ひとり、罪の赦しのために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。
あなたは、襟を逆にした神学者たちのように、文学士号を身につけて、束縛されることはないでしょう。
しかし兄弟、あなたは手の中に何かを持つことになります。そして神の御霊がその御言葉の中に入られる限り、それは征服し、迷い出てしまった失われた羊たちを連れ戻すのです。
アーメン。
自分たちの弱さを告白しなさい。
神学博士の教理を投げ捨てなさい。
何でも知っているという思いを投げ捨てなさい。
あなたの会員資格を投げ捨てなさい。
霊的に言えば、神の御前で自分自身を脱ぎ捨て、自分はふさわしくない者だと呼びなさい。
その時、神はあなたを用い始めることがおできになります。
ただ口先でそう言うのではありません。
心から、それを出しなさい。
90. 彼は、その全員の中で最も弱い者でした。
考えてみてください。丘の上には、おそらく一万人、あるいは十万人もの兵士たちがいたかもしれません。
彼らは皆、訓練を受けていました。
一人ひとりが博士号を持っているような者たちでした。
一人ひとりが槍を持っていました。
彼らは兵士でした。
それぞれが、何々伍長、何々一等兵――一等兵に至るまで――何々将軍、何々中尉、という者たちでした。
偉大な四つ星のサウル将軍、サウル司教。
「はい、閣下、先生!」
彼らは皆そこに立っていました。訓練された者たちでした。
そして敵は丘の上に立って言いました。
「この臆病者どもめ。」
91. すると、その巨人が出て来て、また一度、大声で叫びました。
それが一度多すぎたのです。
ダビデは言いました。
「あなたがたは、ここにいる訓練された学者たちが、この無割礼のペリシテ人に、生ける神の御言葉をそしらせておいて、ただ立っているだけだと言うのですか。」
アーメン。
彼は言いました。
「あなたがたは彼を恐れているのですか。」
サウルは言いました。
「もしお前が行きたいなら、ここへ来なさい。今からお前を二十年間、学校へ行かせてやろう。そして博士号を取らせてやろう。いや、こうしよう。私の学位をそのままお前に与えてやろう。」
彼は言いました。
「そんなものは取り去ってください。」
ああ、何ということでしょう。
「私はそれとは何の関わりも持ちたくありません。」
彼は神に信頼したかったのです。
彼は言いました。
「私は、神がこれをもって私のために何をしてくださったかを知っています。ですから私は、どんなものに直面しても、これをもって神に信頼する用意ができています。」
アーメン。
それがクリスチャンの経験なのです。
92. しかし、パウロが道の終わりに来た時、彼は言いました。
私は良き戦いを戦い抜きました。
走るべき道のりを走り終えました。
信仰を守り通しました。
今や、義の冠が私のために備えられています。
その日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださいます。
私だけでなく、主の現れを慕い求めるすべての者にもです。
それが、征服すべき最後の敵でした。
「ああ」と死は言いました。
「だが、あと少しでお前を捕えるぞ。」
墓は言いました。
「私は向こうでお前を朽ち果てさせるぞ。」
しかし彼は言いました。
死よ、おまえのとげはどこにあるのか。
墓よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
「私は今、このローマの地下牢に横たわっている。鎖につながれ、手首も手も縛られている。背中には三十九のむち跡がある。涙が目を焼くように流れ、もう見えないほどだ。
この肉の目では見ることができない。けれども、向こうに備えられている義の冠を見ることができる。
私の足首はすり減っている。ここへ投げ込まれた古くかびたパンのせいで、私はすっかり衰えてしまった。ねずみが私の上を走り回り、蜘蛛やいろいろなものが這い回り、私は弱くなっている。」
それでも彼は、死の面前に立って言ったのです。
死よ、おまえのとげはどこにあるのか。
墓よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
手の鎖を鳴らしながらです。
ハレルヤ。
それこそ、私たちに必要なものです。
「墓よ、おまえの勝利はどこにあるのか。」
墓は言いました。
「パウロ、私はお前を朽ちさせるぞ。」
彼は言いました。
「しかし、神に感謝します。私はすでに、私たちの主イエス・キリストによって勝利を得ているのです。」
93. 彼はもうアッセンブリーズにも、あるいは……そのどれにも属していませんでした。分かりますか。彼はもう、どの組織にも属していなかったのです。
彼は彼らに対してあまりにも多く語ったので、彼らの司教たちはこう言いました。
「何だって。あそこのローマの牢獄で二十年も仕えている男が、私たちに、女たちに説教させるなと言うのか。ふん。そんなことを言われる筋合いはない。私たちの方がよく知っている。そもそも、あそこにいるあの男は何者だ。私たちに、あれをしろ、これをしろと言うなど。」
彼らは言いました。
「私たちは自分たちが何をしているか分かっている。」
「そうだ」とパウロは言いました。
「あなたがたの中から人々が起こり、まもなく組織を始めるでしょう。そしてそのように立ち上がり、神の御霊を持たずに、信仰から人々を引き離していくでしょう。」
彼は言いました。
「彼らはすでに私たちの中から出て行きました。なぜなら、彼らは私たちの者ではなかったからです。」
94. それはそのままカトリック教会へ入り、カトリックからルーテル派へ、そして最後にはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドに至るまで下って来ました。
同じことです。
同じことをしているのです。
ずっと同じことなのです。
しかし、ああ、自分の弱さを悟るほど十分に弱い男や女に対しては、神はその人を用いることがおできになります。
(私はただ話し続けていますね。少し長く話しすぎているのかもしれません。)
95. ダビデは、その一群の中で最も学のない者でした。
彼には戦いの訓練がありませんでした。戦いについては何も知りませんでした。ですから、彼の前に置かれていたこの戦いに関して、彼には何の訓練もなかったのです。
しかし彼は、神がおられることを認めていました。
そして彼は、最も弱いものを取りました。
彼らには槍があり、よろいがあり、弓があり、その他すべてのものがありました。しかしダビデには、石の入った小さな石投げがあるだけでした。
けれども、ご覧ください。彼は、自分が何に信頼できるかを知っていたのです。
彼は自分の弱さを告白しました。しかし、神への信仰を持っていました。
彼は言いました。
「私は、何かをはね返すための盾など欲しくありません。私はそこへ行って、こう言いたいのではありません。
『さあ、兄弟たち、私に協力してくださいますか。私はアッセンブリーズに属しています。私は長老派に属しています。私はメソジストです。私はバプテストです。兄弟たち、協力してくださいますか。』
そんなものは何一つ欲しくありません。
『ほら、ポケットの中を見せましょう。私は学位を持っています。文学士号を取ったばかりです。私はどこそこの大学の出身です。そこで教育を受けました。私はこれこれを持っています。ああ、私は話すことができます。私はこういう者で、ああいう者です。』
彼は、そうしたものを何一つ望みませんでした。
彼が望んだのは、ただこれだけでした。
『私は神に信頼しています。そして、私は行きます。』
それなのです。
そして巨人は倒れました。
その通りです。
今日、私たちに必要なのはそれです、兄弟。
今日、私たちに必要なのは、大学での経験ではなく、ダビデのような人々なのです。
96. イムラの子、小さなミカヤです。
彼は貧しく、拒まれ、神のために真実に立ったゆえに、すべての教派から追い出されていた者でした。
しかしある時、ヨシャパテという名の神の人がそこへ下って来て、こう言いました。
「私は、神の真の御言葉を知りたいのです。」
サウルは言いました。
「私には、あなたがこれまで知った中で最も優れた者たちが四百人います。彼らは皆、学位を持っています。皆、ここで学校教育を受け、訓練されています。」
彼は言いました。
「彼らは、あなたがこれまで聞いた中で最高の説教者たちです。彼らをすぐに連れて来ましょう。そして、あなたのために主に伺いましょう。」
しかし彼らが出て来た時、ヨシャパテはあたりを見回しました。そして言いました。
「そうです、この人がこう言うのを聞きましたし、あの人がああ言うのも聞きました。けれども……もう一人いませんか。ほかにもう一人いないのですか。」
97. そこに立っていた真実な心は、たった一人だけでした。
しかし神は、その一人のために人を備えておられるのです。アーメン。
もしどこかに、たった一つでも真実な心があるなら、神はその人のために、どこかに人を持っておられます。
ヨシャパテは本物の人でした。神を恐れる王でした。
彼には、彼らのメッセージが間違っていると知るだけの分別がありました。それが御言葉に反していることを知っていたのです。アーメン。ヨシャパテはそれを知っていました。
彼は言いました。
「私はこの神学校の記録、この一覧表を全部調べました。ここにいる者たちは、皆そろえました。」
そして言いました。
「さあ、見てください。この人は……ほら、彼の持っている学位を見てください。そしてこちらの人も見てください。彼の持っている学位を見てください。ここにいるゼデキヤを見てください。彼はこのすべての長です。彼は司教であり、私たち全員の上に立っています。 間違いなくあなたは彼の言葉を受け入れるでしょう。」ヨシャパテは言いました。「ええ……私は、私は、私は……。」
98. ヨシャパテは言いました。
「ええ、アハブ、分かっています。そ、それはよいのです。しかし……。」
アハブは言いました。
「これ以上、私に何を求めるというのですか。ここに私の学校全体があります。すべての組織が一つになっているのです。」
「しかし、その一団に属していない人はいないのですか。どこかに、もう一人いないのですか。」
「そんな者がいるとして、いったい何者だというのです。教育もない、読み書きもろくにできない者でしょう。そんな男に何を求めるのですか。」
「でも、私はただ尋ねているのです。どこかに一人、いないのですか。」
99. 「ええ、そういう者が一人います。」
(ああ、そのことを神に感謝します。)
「そういう者が一人います。しかし」と彼は言いました。
「私は彼が嫌いです。ほかの者たちも皆、彼を嫌っています。」
彼は言いました。
「彼らは皆、その組織から彼を追い出しました。彼がここへ下って来て集会を持とうとした時、私たちは彼を町から追い出しました。そうです。彼とは何の関わりも持ちたくありません。
それに」と彼は言いました。
「彼は弱い者です。とても貧しい家の出です。彼の文法はひどいものです。(ムーディーのように、分かりますね。)ええ、彼の文法はひどいのです。
本当に、神学者としては、私がこれまで聞いた中で最も貧しい者です。彼のような者は聞いたことがありません。
ああ、彼は彼らの儀式をただ打ち壊してしまうのです。彼らの使徒信条など、彼によって粉々に引き裂かれてしまいます。私はそんなことを聞いたことがありません。ああ、彼はそれをずたずたにしてしまうのです。
だから彼らは彼を憎んでいます。私も彼を憎んでいます。皆が彼を憎んでいるのです。」
「ああ」とヨシャパテは言いました。
「王よ、そのように言わないでください。しかし、私は彼の言うことを聞いてみたいのです。」
彼は、エリヤなら何と言うかを知っていたのです。
彼は分かっていたのです。
100. しかし、彼は何をしたのでしょうか。
彼らは彼に試験を与えて、こう言いました。
「さあ、あなたも彼らと同じことを言いなさい。」
彼は言いました。
「私は、神が私の口に置かれることを言うだけです。それだけです。」
彼らは言いました。
「今、強い者になりたいなら、覚えておきなさい。君は今、少し立場が悪いのだよ。覚えておきなさい。君はその組織から追い出されているのだ。もしこの危機の時に彼らと意見を合わせるなら、彼らは君との交わりをもう一度考え直してくれるかもしれない。私たちは皆、これから大きな伝道キャンペーンをしようとしているのだ。」
そして言いました。
「ただ私に同意してくれればよいのだ。」
彼は言いました。
「私は、神が言われたこと以外は何も言いません。」
妥協です。
神の人が、神の御言葉について妥協するなどと、あなたは期待できるでしょうか。いいえ、決してです。そういうものに身を横たえてはいけません。
彼らは言いました。
「しかし、君は弱い者だ。貧しい家の出ではないか。分かるだろう、彼らはもしかすると……。」
「彼らが何をしても、私は構いません。」
「まあ、彼らは君を飛行機に乗せて、国から国へ連れて行ってくれるかもしれない。彼らは何でもしてくれるだろう。分かるだろう、もし君がただ……。」
「いいえ、いいえ。私は、神が私の口に置かれることだけを語ります。」
101. その通りです。
彼が真実に立ったことが、それをもたらしたのです。
神は四百人を通り過ぎて、彼に「主はこう言われる」をお与えになりました。
では、彼らはそれを信じたでしょうか。
いいえ、決して。
彼らは言いました。
「それは『主はこう言われる』ではない。私たちの神学校では、そんなことは教えていない。ここにいる私たちの司教が、すでにその言葉を語っている。彼が儀式を定めたのだ。私たちは皆で集まり、私たちの学校を作った。神は私たちと共におられる。神が私たちから離れて、あなたのところへ行ったというなら、いったいどちらの道を通って行かれたのか。」
彼は言いました。
「いつか、あなたがたは見るでしょう。」
その通りです。
彼は何だったのでしょうか。
彼は弱い者でした。
しかし、その中で最も強い者でした。
なぜでしょうか。
彼には主の御言葉があったからです。
ああ、兄弟。
「主はこう仰せになられる」を持っているなら、ほかのものが何であろうと、何の違いがあるでしょうか。
102. ふん。あなたは、そんなことをするとでも思うのですか。
あなたがどこで集まろうと、何をしようと、私は構いません。兄弟よ、『主はこう言われる』に留まりなさい。
私は、彼らのうちの誰かに来てもらって、それがどこで間違っているのかを私に言ってほしいのです。神の御言葉の中で、それがどこで間違っているのかを示してみなさい。そうです。
彼らはそこには挑んできません。いいえ、決して。
しかし、それは『主はこう言われる』なのです。
たとえ彼ら全員があなたを蹴り出したとしても、それに留まりなさい。
あなたがどれほど弱くなろうと、私は構いません。
「その時こそ、私は強くなる」のです。
彼らが私を追い出す時、神が私を受け入れてくださいます。
そうです。彼らがあなたを追い出すなら、神があなたを受け入れてくださるのです。
覚えておいてください。
神がいつも拾い上げられるのは、この世から捨てられた者たち、名もない者たちです。
そして神は、そのような者たちを、御自身のために意味ある者とされるのです。
この人生では、それが分からないかもしれません。
しかし、来たるべき世では分かるのです。
それこそが、その人なのです。
103. なぜでしょうか。彼が御言葉に留まったからです。
彼は正しいメッセージを持っていました。
神は彼に幻をお与えになりました。ほかの者たちには幻がありませんでした。分かりますか。彼には幻があったのです。なぜでしょうか。
彼が御言葉に留まったからです。そこにこそ、私たちはしるしと不思議を見るのです。ほかの者たちは、それらしく見せかけています。
しかし彼は、御言葉に留まりました。(さあ、急ぎましょう。)
104. 彼の教会が彼を追い出し、彼を置き去りにして、現代的な世へ行ってしまった時でした……。
私は想像します。エリヤは、彼らを本当に厳しく責めたことでしょう。そう思いませんか。エリヤがどんな人であったか、あなたは知っています。
おそらく、彼の働きの初期に、彼は立ち上がってこう言ったことでしょう。
「なぜあなたがた女たちは、ファーストレディーのようになろうとしているのですか。あの帽子のことです。ミス・イゼベルのように。
あなたがた現代の女たちよ。
この国のファーストレディーのように、彼女のように装い、彼女のように振る舞っている。
あなたがた説教者たちよ!」
ああ、何ということでしょう。
彼はどれほど彼らを厳しく責めたことでしょう。
そして彼は、ずっと叫び続けました。ついには、誰もいなくなるほどでした。
105. もう誰も彼に協力しようとはしませんでした。どの教会も彼に協力しようとはしませんでした。彼の教会は皆、彼を離れ、この世へ戻って行きました。ちょうど今と同じです。その通りです。この世へ戻って行ったのです。
ただごくわずかな人々だけが、何とかしがみついていました。あちらに一人、こちらに一人、国の向こう側から彼に会いに来るような人々がいた程度でした。
彼はかなり悪い状態にありました。
彼は自分の知識の終わりまで来ていたのです。
彼は言いました。
「主よ、私はあなたの御言葉の上に立ってきました。私は真理を語ってきました。そして彼らは皆、去って行きました。ここには誰も残っていません。私には説教する相手が誰もいません。
はい、主よ、私はあなたの御言葉の上に立ってきました。それなのに今、私がどこにいるか見てください。彼らの誰一人、私を受け入れようとしません。
私が町へ入ると、彼らは言います。
『ほら、あの年寄りの変わり者が来たぞ。そうだ、あの年寄りの変わり者が町へやって来た。さあ、またこの現代的な生活や何やらについて騒ぎ始めるぞ。
あいつを受け入れるな。牧師先生、あの男に協力してはいけません。絶対にだめです。』」
牧師は言います。
「さあ、あの年寄りの狂信者がまた町に来ています。分かりますか。あそこのエリヤです。あの年寄りの禿げ頭の男です。あんな年寄りに気を取られてはいけません。
見なさい。彼は私のように、祭司の衣をまとって、聖職者らしい格好さえしていません。帽子をかぶり、前に立ち、襟をきちんとしているような、そういう姿ではないのです。
彼は違う種類の人間です。変わった男なのです。」
そして、おそらく偉い人々の中にはこう言った者もいたでしょう。
「分かりますか。彼は神経質な異常者です。そうです、彼は神経症のような者です。荒野に住み、ほとんどの時間を森の中で過ごし、羊の皮を体に巻きつけてやって来るのです。
ああ、何ということでしょう。
そのうえ、あの女たちを責め立てるのです。私はそんなものを見たことがありません。
彼とは一切関わってはいけません。協力してはいけません。」
106. 「あなたがたは皆、あの人とは一切関わらないようにしなさい。放っておきなさい。しまいには、彼も行き詰まるでしょう。好きなだけ叫ばせておきなさい。それだけです。放っておきなさい。」
しかし年老いたエリヤは、神と共にまっすぐ歩み、御言葉にしっかり留まりました。
彼らがどこかで小さな集会を開くと、彼は聴衆を見渡して言いました。
「あなたがた、イゼベルたちよ!」
「まあ、なんという無礼なことを! 私は二度とあの人の話など聞きに行きません。いいえ、絶対に。私はもう関わりません……。」
しかし、それは彼を止めませんでした。
彼は同じように、そこに立ち続けたのです。そうではありませんか。
彼が自分の教会を失い、彼の……すべての教派が彼に敵対した時、その時、彼は弱くなって言いました。
「残っているのは私だけです。彼らは私を殺そうとしています。」
彼は言いました。
「もしできるものなら、彼らは私を撃ち殺すでしょう。分かりますか。彼らは私の命を狙っています。主よ、残っているのは私だけです。私は何をすればよいのでしょうか。」
その時でした。
彼が弱くなった時、それでも真実に立ち続け、自分の弱さとすべてを告白していた時、神は言われたのです。
「山に上って来なさい。わたしはあなたに新しいメッセージを与えよう。今、あなたを新しいメッセージと共に遣わそう。わたしはすでに、これらの事を責めるようにあなたに命じた。今度は、それが正しかったことを証明するものを持って、あなたを送り返そう。」
神は言われました。
「エリヤ、あなたは良い働きをした。あなたはあのファーストレディーのことや、彼らがしたことすべてを語った。あなたはアハブと、彼の現代的なものすべて、また現代的な教会すべてを責め、それらの説教者たちに、自分たちがどこに属しているのかを告げた。
あなたは模範であった。あなたは、助けもなく、組織もなく、背後に何もない状態でそこに立った。しかし、あなたはわたしの御言葉に留まった。
今、わたしはあなたに何かを与えよう。そこへ下って行って、あの偽善者に告げなさい。
『主はこう言われる。私が呼び求めるまで、天から露さえ降らない。』」
何ということでしょう。
神は彼に何かを見せるために、彼を山の頂へ連れて行かれたのです。
107. サマリアへ向かう道を、歩いて来るのです。
きっと、見た目にはそれほど立派ではなかったでしょう。
禿げた頭は太陽に照らされて光り、白髪とひげが顔のまわりに垂れ、羊の皮を身にまとっていました。
聖書は、彼が毛深い人であったと言っています。体中に毛があったのです。私は、見た目にはかなり乱れた姿だっただろうと思います。
手には小さな古い杖を持ち、その小さな目はまっすぐ天を見上げながら、道を歩いて来るのです。
おそらく、八十歳ほどでありながら、十六歳の少年のように振る舞っていたことでしょう。
彼はそこへやって来ました。道を歩き、まっすぐサマリアへ向かっていたのです。
兄弟、その時、彼は自分の弱さの中で強くされていました。
「わたしの力は十分である。
エリヤよ、組織のことを心配するな。彼らのことを心配するな。
あなたに必要なのは、わたしの力だけである。」
108. 「主よ、彼らが私の事務所に来るようなことは、私は嫌です。」
すると主は言われました。
「わたしがあなたの分である。分かるか。わたしがあなたの分なのだ。」
「弱さの中でこそ、わたしの力は強くなる。
わたしの完全な御心は、あなたが道から退く時にこそ成されるのだ。パウロであれ、エリヤであれ、あなたが誰であれ、あなたが道から退く時にである。分かりますか。
あなたの弱さの中でこそ、わたしは強くされる。
わたしこそがその者である。
わたしこそ、そこに入って来て満たす強い者なのだ。」
109. あの小さな目をそのように向け、顔には少し微笑みを浮かべていたことでしょう。
兄弟、彼はそのままアハブの前へ歩いて行きました。
彼は口ごもりませんでした。どもりもしませんでした。いいえ、決して。
その小さな、痩せた胸の下には、聖霊が住んでおられる心が鼓動していたのです。まことにそうです。
彼はその道を歩いて来て、アハブの前にまっすぐ立ち、こう言いました。
「私が呼び求めるまで、露さえ降らない。」
そして足を踏み鳴らし、向きを変えて、再び荒野へ戻って行きました。
神は言われたのです。
「よくやった、エリヤ。こちらへ上って来なさい。今、わたしはすべての烏に、あなたを養うよう命じておいた。しばらくここに座っていなさい。」
ああ、何ということでしょう。
彼が弱かった時、その時、彼は強くなったのです。
その通りです。
彼は天を揺り動かし、雨が降らないようにしました。
彼が強くなったのはその時です。
自分の教会を失い、持っていたものすべてを失い、その他すべてを失った時です。
しかし彼は神の御言葉に留まりました。
その時、彼は天を閉ざす力を持ったのです。
110. パウロが自分の教育と神学のすべてを失った時、神は彼を異邦人への宣教師とされました。
モーセが自分の能力をすべて失い、弱い者となった時、神は彼を力ある者とし、八十歳で、御霊の力の中でエジプトへ遣わされました。
ひげを垂らし、妻をらばに乗せ、その腰には幼子が座り、手には一本の杖を持っていました。彼はそのまま下って行き、エジプトを征服したのです。
そうです。分かりますか。
彼が望んでいたように、背後に軍隊を従えて行ったのではありません。
御霊の力の中で行ったのです。
アーメン。
あなたが弱い時、その時こそ、あなたは強いのです。
111. 彼はどもりませんでした。つまずきもしませんでした。何もありませんでした。
彼はアハブの前へまっすぐ歩いて行き、言いました。
「私は主の御言葉を持っています。」
アハブは言いました。
「イスラエルを悩ませているのは、お前だ。」
すると彼は言いました。
「イスラエルを悩ませているのは、あなたです。」
ああ、兄弟。
その通りです。
「あなたがここに抱えている、あの知的な祭司たちを連れて来なさい。そして、どちらが神であるかを見てみましょう。」
そこです。
「カルメル山に上りなさい。ペンテコステで答えられた神が、もう一度答えてくださるかどうか見てみましょう。神が今なお同じ神であられるのか、イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です、ということを見てみましょう。」
彼は山から下りて来ました。
彼にはメッセージがありました。
そうです。
けれども、その前に彼は本当に弱くなっていたのです。
彼はそれを行う前に、すべてを失っていました。
強くなる前に、彼は弱くならなければならなかったのです。
112. 人々はそれを、何か偉大で知的なものにしようとします。けれども、それは単純さなのです。
しかし神は、へりくだり、弱さ、単純さという、その道具を取って、御自身の御業をなさいます。それは神の御手の中にある道具にすぎません。
バプテスマのヨハネ、彼のメッセージは、キリストの先駆けとしてのものでしたが、あまりにも単純だったため、人々の頭の上を通り過ぎてしまいました。
少しだけ聞いてください。
(壁の周りに立っておられる皆さんを、あまり長く引き止めていないことを願います。)
見てください。ヨハネが……。
すべての預言者たちは、メシアの来臨について証ししました。
ある預言者は、山々が小羊のように跳ねると言いました。
また別の者は、木の葉が手を打ち鳴らすと言いました。
ある者は言いました。
「すべての低い所は高くされ、高い所は低くされる。」
ああ、何という日となる事でしょう。
113. ああ、何ということでしょう。
彼らはすべてを、実に古典的で立派なものとして整えていました。
しかし、それが実際に起こった時、荒野から出て来たのは、一生のうち一日も学校教育を受けたことのないような、年老いた説教者でした。おそらく彼の文法は、とても貧しいものだったでしょう。
彼の父は祭司でした。
しかし神は、彼をそこから取り去られました。
(私たちは先週の日曜日の学びで、それを見ました。)
神は、彼がその教派たちと混ざり合うことを許されませんでした。
そして彼を荒野へ連れ出し、御自身で彼を訓練されたのです。
そのような人こそ、神の御言葉に留まるのです。
114. 私は想像します。黒いひげが顔のまわりにふさふさと垂れ、大きな羊の皮を体に巻きつけ、膝まで泥の中に立って、こう言ったのです。
「私は、預言者イザヤによって語られていた者です。」
すると、いくつかの教派の人々が出て来ました。
彼は言いました。
「自分たちの内で、『私たちにはこれがある、あれがある』などと思ってはいけません。神は、これらの石からでも、アブラハムの子らを起こすことがおできになるのです。」
ああ、何ということでしょう。
なぜでしょうか。
彼には『主はこう仰せになられる』があったからです。
彼にはメッセージがありました。
神は、彼が来ることを前もって告げておられました。
そしてその理由は……。
彼はあまりにも単純な形で来たため、それは彼らの頭の上を通り過ぎてしまったのです。
115. 「あなたがたは何を見に出て行ったのですか。
メソジストからバプテストへ、バプテストから長老派へ、長老派からペンテコステへ、そしてペンテコステからまた別のものへと、風向きによって変わっていくような、知的な話し手を見に行ったのですか。
どんな風にも揺れる葦を見に行ったのですか。
ヨハネはそうではありませんでした。」
彼は言われました。
「では、柔らかな衣をまとった人を見に行ったのですか。」
彼は言われました。
「そういう種類の奉仕者は、王の宮殿にいます。」
そして言われました。
「では、あなたがたは何を見に出て行ったのですか。預言者ですか。」
彼は言われました。
「預言者以上の者です。」
116. そして見てください。彼は、その中の誰よりもへりくだった形で来ました。
しかし彼は、預言者以上の者だったのです。
ヨハネが何であったか、あなたは知っていますか。
彼は契約の使者でした。確かにそうです。
彼は預言者を超えていました。
預言者とは、物事を見る先見者です。ヨハネもそうでした。しかし彼は、それを超えていました。
彼は契約の使者だったのです。
彼は言いました。
「そうです。この方こそ、『見よ、わたしはあなたの御顔の前に、わたしの使者を遣わす』と言われた、そのお方です。」
それが彼でした。
彼は契約の使者でした。確かにそうです。
彼があまりにも単純な形で来たので、それが知的な人々の目をくらませてしまったのです。
117. 一握りの粉を持っていたやもめはどうでしょうか。
彼女は、自分の弱さのところまで来ていました。おそらく、飢え死に寸前だったのでしょう。彼女には粉がありませんでした。ほかのどこへ行っても、粉を借りることはできませんでした。ほかの誰も、それを持っていなかったのです。
しかし彼女は、ある場所まで来ていました……。
偉大な信仰者でした。
彼女の夫は、神の偉大な人であり、彼女は子どもを持つやもめでした。そして彼女には、ただ一握りの粉しかありませんでした。
しかし、それで十分でした。
彼女に必要なのは、それだけだったのです。
神の御手の中に献げられた時、彼女はその一握りの粉で、三年六か月の間、生き続けました。
彼女は弱くなっていたのです。
118. それを折って、組み合わせるためです。
分かりますか。二本の枝とは、十字架です。
彼女は言いました。
「二本の枝を拾いに行きます。」
彼女は「腕いっぱいの枝を拾いに行きます」とは言いませんでした。
ただ二本の枝です。
それなのです。
その象徴が分かりますか。
そうです。昔からのやり方です。
今でも火を起こす方法は、薪を取って十字に組み、その真ん中で燃やすことです。
私が山で夜にキャンプをして、凍えないようにする時、一本の丸太をこちら向きに置き、もう一本の丸太をこちら向きに置きます。そして夜の間、その端を少しずつ押し込んでいくのです。すると、上がって来るにつれて、そのように燃えていきます。分かりますか。十字を通して燃えていくのです。
119. 彼女は本当に弱さの中にいました。そうではありませんか。
そして彼女は向きを変えて、戻って行こうとしました。
ああ、あの暑い朝です。
ああ、もう長い間、何もありませんでした。すべてが……。水もなく、人々は叫び、人々は死に、どこにも借りに行く所はなく、何もすることができませんでした。
彼女は道の終わりに来ていました。
彼女は自分の弱さの中にいたのです。
彼女は言いました。
「私はこれを私と息子のために用意します。そして、私たちは食べて死ぬのです。」
そうして彼女が振り返って歩き出そうとした時――。
「ちょっと待ちなさい!」
彼女は振り返りました。
すると、あの毛むくじゃらの年老いた顔が、あちらの門のところからのぞいていて、こう言ったのです。
「まず、私のために小さなパンを作って、持って来なさい。あなたの手に少しの水と、一切れのパンを持って来なさい。なぜなら、『主はこう仰せになられる』からです。」
ああ、何ということでしょう。
それが決め手でした。
ああ、何ということでしょう。
彼女が持っていたそのわずかなものを、分かりますか、彼女は神に献げたのです。
それで十分でした。
それは、その後の時を彼女が養われるために十分だったのです。
分かりますか。
彼女が弱かった時、その時、彼女は強かったのです。
120. 彼女には何もありませんでした。二人の息子は、借金のために奴隷として売られようとしていました。彼女には、この小さな油の器以外、どうすることもできるものがありませんでした。
それは大した量ではありませんでした。
彼女は、もう終わりのところに来ていたのです。
エリヤは彼女に言いました。
「あなたの家には何がありますか。」
彼女は言いました。
「器の中に、ほんの少しの油があるだけです。」
彼は言いました。
「近所へ行って、器をたくさん借りて来なさい。」
それが起こる前から、備えなさい。
備えなさい。
ダビデは、桑の木々のこずえに進む音を聞きました。
エリシャは、人の手ほどの小さな雲を見て、言いました。
「大雨の音が聞こえる。」
もし神が、空の器をいくつか得ることさえできるなら。
その通りです。
彼は言いました。
「家をそれでいっぱいにしなさい。」
アーメン。
神が何を望んでおられるか分かりますか。
神は、空の器を持たなければならないのです。
聞いてください。
私たちはあまりにも多くの教理、あまりにも多くの教会的なたわごとを持ちすぎて、ついに樽の底まで来てしまいました。
残されていることは、ただ一つです。
神とその御言葉に立ち返ることです。
もしあなたがそうするなら、空の器をいくつか用意しなさい。
その中からメソジストのものをすべて取り除き、ペンテコステのものをすべて取り除き、バプテストのものをすべて取り除きなさい。
ただの器にしなさい。
そしてそれらを家の中に並べなさい。
それから、この器から取って、注ぎ始めるのです。
アーメン。ただ注ぎ始めなさい。
彼女には、自分と子どもたちを養い、その他すべてを整え、すべての借金を返すのに十分なものが与えられました。
なぜでしょうか。
なぜでしょうか。
彼女が持っていたわずかなものを神に献げ、この預言者の言葉に従ったからです。
その時、彼女は正しく抜け出すことができたのです。
121. 神の御言葉を取り、ほかのものを取らず、ただ空の器を用いる預言者を。
もし神が、ただ空の器を得ることさえおできになるなら、そして神の御言葉を取り、それをその人の中へ注ぎ込むことがおできになるなら。
ある人々は言います。
「ああ、私はそれを受けた時に震えました。」
「私はそれを受けた時に異言を語りました。」
「私は御霊の中で踊りました。」
それは忘れなさい。分かりますか。忘れなさい。
ただ、そこに留まりなさい。
それが来るまでです。
器が満たされるまでです。
それだけです。
それが、そのやり方なのです。
そうです、確かに。
何という単純さでしょう。
器は満たされました。
ああ、このことについてなら、私たちはずっと語り続けることができるでしょう。
122. イエスは彼らに言われました。
「ここには五千人の人々がいる。彼らは弱り果て、飢えている。」
(ああ、このことだけで、もう一時間でも語れます。)
五千人が飢えている?
今は、千億もの人々が飢えているのです。
弟子たちは言いました。
「彼らを解散させてください。」
しかし主は言われました。
「その必要はありません。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」
ああ、何ということでしょう。
私は想像できます。彼らは見つけられるものを全部かき集めたのでしょう。そして、全部かき集めてみた時……。
「かき集めた」という表現は失礼かもしれませんが、彼らはすべてを集めて言いました。
「さあ、私たちはこの一帯を全部回りました。お金は一銭もありません。ですから、この伝道集会を続けることはできません。」
分かりますか。
「ここにあるものは全部集めました。しかし、見つかったものといえば、荒野の向こうから出て来た、小さな取るに足りない少年――ダビデのような子――が持っていた、五つの小さなパンと二匹の小さな魚だけです。
私たちにあるのはそれだけです。
手に入れられるものはそれだけです。
私たちはもう知恵の尽きるところまで来ています。
これ以上、何もできません、ヨハネ。」
ペテロは言いました。
「これが私たちにできるすべてです。これがすべてです。私たちは知恵の尽きるところまで来ました。食べ物として持っているものは、これだけなのです。」
123. 神学校で、これやあれや、その他いろいろなことを学ぶ必要はありません。
ただ、それを取りなさい。ただ、それを取るのです。それだけで、あなたに必要なものは十分です。あなたがたは悔い改めなさい。そして一人ひとり、罪の赦しのために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは油で満たされるでしょう。ただ空になりなさい。
それを受ける備えをしなさい。それだけでよいのです。
ただ一滴をそこに入れてみなさい。そして、それが満ちていくのを見なさい。
124. おそらく彼は、こうして指を取り、ただ一つひとつに、ぽたりと落としていったのかもしれません。
すると振り返って見ると、それは満ちていたのです。
ただ一滴、落としただけです。分かりますか。
それだけで十分でした。
なぜなら、それは祝福された油だったからです。
神学校の経験を取ってはいけません。
神の御言葉を取り、それをそこに一滴落としなさい。
すると、それがどのように満ちるか見てください。
彼は言いました。
「では、どんな一滴を落とせばよいのでしょうか。詩篇から何かを取ることができるかもしれません。」
125. それは、ペンテコステの日にペテロが用いた一滴です。それは、パウロが用いた一滴です。それは、すべての弟子たちが用いた一滴です。
残りのものは加えられていきます。あなたはただ、その一滴を取り、それに従って進みなさい。そうすれば、残りはすべて大丈夫です。
弱くなりなさい。空になりなさい。すべてを空にしなさい。そうすれば、その時から、それは落ち続けます。そして神が、残りの一滴一滴をなしてくださいます。あなたはただ、それをしなさい。ひざまずき、心を尽くしてそれを受け取りなさい。今、あなたの心の中にそれを落とし入れ、こう言いなさい。
「神よ、私はそれを心から信じます。」神が、残りの一滴一滴を取り扱ってくださいます。そして、それは満ちていくのです。
あなたがたは聖霊で満たされるでしょう。
126. それで、彼らはどうするつもりだったのでしょうか。
彼らはやって来て言いました。
「私たちがかき集めることのできたのは、これだけです。私たちはもう知恵の尽きるところまで来ています。ほかにはどこにも、一切れのパンも見つかりません。誰も持っていません。
この小さな少年は、おそらく学校をさぼっていたのでしょう。今朝学校へ行くはずだったのに、学校を休んで、こちらの方へ釣りに来ていたのです。そして私たちは、小川のところで彼を見つけました。彼は聞きに来ていました。そして、彼が五つ持っていたのです。」
その小さな少年のことを神に感謝します。
その通りです。
彼らは言いました。
「命を支えるものとして、私たちが持っているのは、この小さな一滴のようなものだけです。」
イエスは言われました。
「それで十分です。ここへ持って来なさい。」
分かりますか。
「ここへ持って来なさい。わたしにそれを渡しなさい。その小さな一滴を、わたしに渡しなさい。残りのことは、わたしが引き受けます。さあ、あなたがたは、わたしがこの一滴から与えるものを、そのまま配り続けなさい。」
127. 聖霊は、これに一滴、あれに一滴、ここに一滴、あそこに一滴と注ぎ続け、やがて聖霊の満たしがあるのです。その通りです。あなたは神学校へ行く必要はありません。賢くある必要もありません。あなたがしなければならないただ一つのことは、自分は何も知らない者だと認めることです。神にあなたを捕えていただきなさい。そうすれば、残りのことは神が取り扱ってくださいます。
よろしいでしょう。その時、声は言いました。「それらをここへ持って来なさい。」
それこそ、今朝、神が望んでおられることです。
空の器の群れを、御自身のもとへ持って来ることです。
残りのことは、神が引き受けてくださいます。
はい、その通りなのです。
128. ぼろをまとい、寒さの中にいて、ああ、彼の最も弱い時でした。
その時、彼は声を聞いたのです。
「彼をここへ連れて来なさい。」
その通りです。
時には、あなたの最も弱い時こそ、その時なのです。
墓のところにはマリヤがいました。
心は砕けていました。彼女の子、彼女の息子は殺され、すべての望みは消え去っていました。
彼女は彼に香油を塗るために行きました。
ところが、その体さえそこにはありませんでした。
その時、彼女は声を聞きました。
「女よ、なぜ泣いているのか。」
彼女は言いました。
「彼らが私の主を取り去ってしまいました。そして私は……。」
かわいそうな小さな者でした。
彼女の子は辱めを受け、衣をすべて剥ぎ取られ、十字架の上に掛けられ、そこで十字架につけられました。
彼はメシアであると主張しておられたのに。
彼女は、聖霊が自分を覆い、この子をもたらしたことを知っていたのに。
それは神の子でした。
彼女は彼の御業を見ていました。すべてを見ていました。
そして、まさに最も弱いその時に……。
129. それらの組織に立ち向かい、パリサイ人たちに立ち向かわれました。
そして弱くなられ、御自身を死にまで明け渡し、私たちの罪を負って、十字架の上で罪人のように死なれたのです。
彼らが信じていたその詩篇、その預言者たちこそが、何百年も前に、彼がカルバリで語られたまさにその言葉を引用していたのです。
それなのに、彼らはそれを見ることができませんでした。彼らの偉大な教会的な……。
ダビデは言いました。
わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。
詩篇二十二篇です。
私の骨はみな、私を見つめている。
その一つも折られてはいない。
彼らは頭を振って言う。
「彼は他の者を信頼した。他の者を救ったが、自分自身は救えない。」
預言者たちが語ったすべてのことが、まさにそこにあったのです。
そしてイエスは、死に臨みながら、その御言葉を保ち、御自身を明け渡されました。
神、インマヌエルが、そこまで弱くなられたのです。
死に御自身を明け渡し、墓に御自身を明け渡し、その魂を地獄にまで明け渡されました。
弱さです。
しかし、その完全な明け渡しの中から、あのイースターの朝に、最も低い所から道をたどって、現れ出たのです。
彼は最も高いお方でした。
しかし、最も低い者となられました。
最も低い人々のもとへ来られ、最も低い町へ行かれました。
そして、その町でいちばん小さな人でさえ、彼を見下ろさなければならないほどでした。
そこから死へ行かれました。
死から墓へ。
墓から地獄へ。
到達し得る最も低い所、考え得る最も低い地獄にまで、彼は行かれたのです。
しかしそこから、神は彼を引き上げ始められました。
パラダイスを通り、そこから墓へ、墓から栄光へ。
そして、あまりにも高く上げられたので、天を見るためにさえ、見下ろさなければならないほどになられたのです。
神は、天において彼の御座を高く引き上げられたのです。
130. 「彼らが私の主を取り去ってしまいました。そして、どこへ置いたのか分かりません。」
それは、彼女がこれまで経験した中で、最も弱い時でした。
彼女の主は去ってしまったのです。
彼らは彼を十字架につけました。
しかも、その十字架の恥辱の後でさえ、彼を裸のまま、人々の前に掛けていました。脇腹を槍で突き刺し、血が流れました。彼が十字架の上で叫ばれる声を聞き、地が揺れ、天全体が彼の死を認めたのを見ました。
それから彼を取り下ろしました。
体は硬く、冷たくなっていました。
そして彼を墓に横たえたのです。
彼女は思いました。
「私の愛する子にしてあげられる最後の敬意は、行って香油を塗ってあげることだ。」
それなのに今、彼らは彼を取り去ってしまったのです。
彼女はそこに立って泣いていました。
その小さな母はそこに立って、すすり泣いていたのです。
ああ、最も弱い瞬間でした。
131. その声は、彼女の後ろから聞こえました。
彼女は、それが墓地の管理人だと思って言いました。
「ああ、彼らが取り去ってしまったのです……。」
彼女はあまりにも弱っていて、振り返ることさえできませんでした。彼女は言いました。
「私はもう、この三日三晩、起き続けています。私はそこに立って、十字架刑を見ていました。私の愛する方、私が神の御子だと知っている方を見ていました。私は知っています。彼は確かにそうでした。
それなのに彼らは……。」
彼女は別の方を見ていました。彼は後ろにおられたのです。
「彼らは彼を連れて行き、十字架につけました。私は彼が死人を墓からよみがえらせるのを見ました。彼が次々と奇跡を行われるのを見ました。
そして私は知っています。聖霊が……神は私の心をご存じです。私は何も知らない身でした。それなのに聖霊が、男を知らない私に、あの子を与えてくださいました。私は、それが真実であったことを知っています。
そして私は、彼が辱められ、衣を剥ぎ取られ、そこに掛けられ、むち打たれるのを見ました。彼は最も恐ろしい死に方をされました。
私は彼を愛しています。彼に何がなされたとしても構いません。私はなお、彼を葬りたいのです。ふさわしい葬りをしてあげたいのです。
それなのに、彼らは彼を取り去ってしまいました。幾日も幾日も、私の心は砕かれています。私はこの状態で、ただここに立っています。彼らが私の主をどうしたのか、私には分からないのです。」
すると彼は言われました。
「マリヤ。」
その時、彼女は強くなりました。
アーメン。
「行って、わたしの弟子たちに告げなさい。わたしはガリラヤで彼らに会う、と。」
ああ、何ということでしょう。
弱さの中で、彼らは強くされたのです。
あなたが弱い時、その時こそ、あなたは強くなるのです。
132. 彼はそこで漁をしていましたが、すっかり落胆していました。自分がキリストを否んだことを知っていたからです。
ああ、何ということでしょう。
彼は、あの預言者が立って、自分にこう言われたのを聞いていました。
「ペテロ、あなたはわたしを愛していると言うのか。」
彼は言いました。
「主よ、あなたは私があなたを愛していることをご存じです。」
彼は言いました。
「私はあなたを愛しています。あなたのために死ぬ覚悟もできています。」
すると主は言われました。
「ペテロ、あなたは本気でそう思っている。しかし、あなたは三度、わたしを否むだろう。鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを否むのだ。」
そして彼は、それが実際に起こるのを見ました。
彼はそこに立って言ったのです。
「私はあの人を知らない。いいえ、私はあのペンテコステ派の者たちのことなど何も知りません。」
133. 彼は言いました。
「私は知っている……。」
(本当は今、終わらなければならないのですが、今ここで止めることはできません。ですから、ここをもう少しだけ終えなければなりません。)
彼は言いました。
「私は、自分が彼を否んだことを知っています。私はピラトの前で彼を否みました。あの小さな女の人がそこへ来て、『あなたもあの人たちの一人ではありませんか』と言った時、私は彼を否みました。
『違う!』と。
しかも、のろいさえしたのです。」
ああ、彼はひどい状態にありました。
彼は主を否んでしまったのです。
そして彼は、イエスが立って、こちらを見られるのを見ました。
その時、鶏が鳴いたのです。
イエスはペテロを見つめられました。
彼は外へ出て行きました。
ああ、彼は自分自身に失望していました。
「なぜ私は、これ以上生きているのだろう。」
さらに彼は言いました。
「私は、もう一度戻って漁をしようと思う。もう説教などできない。だから、戻って漁を始めよう。」
彼は網を投げ入れ、一晩中、投げ続けました。
しかし魚は一匹も獲れませんでした。
彼は弱いところに来ていました。
彼には何もありませんでした。
自分自身に失望し、自分の能力の終わりに来ていたのです。
134. そうです。彼は、自分は大した者だと思っていました。分かりますか。何かを学んだと思っていたのです。
しかし彼は、何も知ってはいませんでした。
彼は、それをすべて忘れなければなりませんでした。
そして彼はそこにいて、こう言いました。
「まあ、一つだけ分かっていることがある。私は漁師だ。漁をすれば、まだ生計を立てることができる。」
彼は一晩中、網を投げました。
しかし何も捕れませんでした。
ああ、何という落胆でしょう。
網を引き上げるたびに、それは空でした。
彼は本当に落胆していました。
彼は最も弱い地点に来て、こう言ったのです。
「もう、この舟から飛び降りてしまいたいくらいだ。どうせ私は何の役にも立たない者なのだから。」
すると声がしました。
「子たちよ、魚がありますか。」
彼らが岸辺を見ると、一人の人が立っていました。
彼は言いました。
「いいえ。私たちは一晩中働きましたが、何も捕れませんでした。私は自分を漁師だと思っていたのですが。」
「シモン、それはあなたか。」
「はい。けれども、私たちは一晩中働いて、何も捕れませんでした。ああ、ここには魚がいません。」
彼は言われました。
「では、網を反対側に下ろしなさい。」
「私たちはもう……何ですって?」
それから彼は言いました。
「反対側ですか。私たちはそれをしてきました。」
「網を反対側に下ろしなさい。」
彼は網を投げ入れ、引き寄せました。
すると彼は……その時、彼は強くなったのです。
ああ、何ということでしょう。
彼は古い漁師の上着をつかんで身にまとい、言いました。
「兄弟たち、あれは主だ。」
そして、彼はほかの者たちより先に岸へ向かいました。彼らができるだけ速く舟をこいでいる間に、彼はその漁師の上着を着たまま泳ぎ、彼らより先に岸へ着いたのです。
なぜでしょうか。
彼が強かった時には、何もできませんでした。
しかし彼が弱くなった時、こそ、彼は強くなったのです。
はい、確かにそうなのです。
135. (さて、もう少しで終わります。)
ペンテコステの時、ペンテコステの時、神は何をなさったでしょうか。
彼らが完全に空にされるまで、十日かかりました。
しかし彼らは皆、器を上に向けて、そこに立っていました。
そして神は御自身を取り、彼らを満たされたのです。
それだけです。
彼らは世界を揺り動かしました。
神が御自身を、彼らの中に注ぎ込まれたのです。
今日、必要なのはそれです。
今日、私たちに必要なのは、空の器です。
はい、確かにそうです。
それは、神がその器を満たすことがおできになるためです。
そしてあなたは、それらを取ることはできません……。
(ここは多くを飛ばさなければなりません。)
神は、すでに満たされている器を用いることはおできになりません。
もしあなたが神学的な訓練でいっぱいになっているなら、神はあなたを用いることがおできになりません。
神には、御自身が満たすことのできる、空の器が必要なのです。
136. 「器をいくつか集めて、油をたくさん借りて来なさい。そして、それをよい値で売れるかどうか見てみましょう。そうすれば、あなたはもう少し手に入れて、近所の人に返すこともできるでしょう。」
彼はそうは言いませんでした。
彼は言いました。
「ただ、空の器を集めなさい。あなたに必要なのは、それだけです。」
それが、ペンテコステの時のことでした。
彼らには空の器がありました。だから神は、それらを満たすことがおできになったのです。
兄弟、この時代がそれを求めています。
この時代には、それが必要なのです。
私たちはそれを持たなければ、滅びます。
私はもう閉じます。聞いてください。
私たちはそれを持たなければ、滅びるのです。
はい、確かにそうです。
137. (コリンズ兄弟がどこかにいますね。それからヒッカーソン兄弟、私はクランクシャフトが悪いのだと思います。)
何かがおかしくなってしまったのです。
彼らは間違った種類のガソリンを使っています。機械はすっかり煤だらけです。彼らは聖霊の代わりに、神学校の経験を使っているのです。
この国の大きなリバイバルも、偉大な人々も、癒しのキャンペーンも、すべて失敗しました。私たちは、それが失敗したことを知っています。
私たちの尊い伝道者、ビリー・グラハムを見てください。国中を行ったり来たり、行ったり来たり、行ったり来たりしました。それで、どんな益があったでしょうか。
オーラル・ロバーツも、至る所で癒しのキャンペーンをしました。それでも世はますます悪くなっているのです。
なぜなら、それはすべて……。
バプテスト、長老派、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド、その他さまざまな組織、それらを全部一緒に集めてみなさい。それは何でしょうか。
一つの大きな教会的な機械です。
そして神は、それをあなたがたのために煤でいっぱいにしてしまわれたのです。
今、その機械はただ、
「ガタガタ、ポン、ポン、ポン、ガタガタ、ポン、ポン、ポン」
と、あちらこちらで少し動いているだけです。
それはもう終わっています。
完成してしまっています。
ガソリンは尽きてしまい、あなたがたはそこに水を注いでしまったのです。
すべてが失われました。
はい、確かにそうです。
両側のタイヤはぺしゃんこです。
私たちはひどい状態にあります。
教会的な機械は止まってしまったのです。
138. その通りです。
悪霊の力の流れが、至る所から注ぎ出ています。
それは諸国を征服しました。
政治を征服し、芯まで腐らせました。
教会を征服し、彼らが教派以外の何も知らないようにしてしまいました。
あなたが尋ねます。
「あなたはクリスチャンですか。」
「私はメソジストです。」
「あなたはクリスチャンですか。」
「私はペンテコステです。」
それは、先日私が言ったように、豚であるとか、豚の仲間であるとか、馬であるとか、そういうことを言うのと同じくらい、何の意味もありません。
それは何の関係もないのです。
あなたがクリスチャンであるのは、新しく生まれ、聖霊に満たされた時です。
それまでは、クリスチャンではありません。
そしてあなたが完全に御霊に明け渡されている時です。
もしあなたが御霊に明け渡されていないなら、あなたは新しく生まれておらず、聖霊を持っていません。
あなたは異言を語るかもしれません。震えるかもしれません。跳び上がり、走り回り、いろいろなことをするかもしれません……。
139. 「私は信仰によって山を動かすことができる。病人を癒すことができる。聖書の知識を持つこともできる。神学校へ行って、こうしたすべてのことを学ぶこともできる。」
それでも彼は言いました。
「それでも、私はまだ何者でもありません。」
ハレルヤ。
ああ、何ということでしょう。
やかんのふたが吹き飛んだどころではありません。
悪霊どもが歩き回っています。
悪魔の力が、キリスト教の名のもとに働いています。
「人の戒めを教理として教え」ているのです。
神学校の神学的教理を教え、聖書を放っておいているのです。
ハレルヤ。
だれができるでしょうか。
だれが十分に強いのでしょうか。
だれが十分に賢いのでしょうか。
だれが十分に力あるのでしょうか。
このレギオンを飼いならすことができる者がいるでしょうか。
説教者たちの名のもとに、私たちの女性たちから衣をはぎ取っているのです。メソジストも、バプテストも、さらにはペンテコステまでもです。
イゼベルのように顔に化粧をし、髪を短く切り、男のようにズボンをはいています。
私たちの説教者たちには、それについて彼女たちに告げるだけの気概が足りません。
悪魔に取りつかれているのです。
彼の衣をはぎ取ったのは、レギオンでした。
この吠えたける悪魔は、いったい何者なのでしょうか。
140. どんな教派が、彼を征服することができるのでしょうか。
彼は、これら教派という墓石の間を歩き回り、叫んでいます。
「奇跡の日々は過ぎ去った。私たちには聖霊など必要ない。」
誰がその悪魔を飼いならすことができるのでしょうか。
神です。
私たちは教派によって、それをすることはできません。
教会的な力によって、それをすることはできません。
しかし、かつてそれをなさった御声がありました。アーメン。
その悪霊どもを静め、彼らを正気にし、衣を着せた御声です。
その同じ御声が、私たちに約束を与えてくださいました。
わたしがするわざを、あなたがたもまた行うようになる。
あなたは、煤で詰まった車に教会的なガソリンを入れていては、決してそれを行うことはできません。
組織の中では、決してそれを行うことはできません。
あなたがそれを行うのは、空になり、弱くなり、自分自身をすべて注ぎ出し、聖霊に入っていただく時です。そして聖霊があなたのすべての部分にあふれ、あなたの体のすべての肢体にまで染みわたる時です。
それこそが、それを行う唯一の道です。
私たちに必要なのは、新しい組織ではありません。
141. ああ神よ、今ここにそれが注ぎ込まれて来るのを感じます。
私たちに必要なのは、神の預言者が立ち上がることです。
神の雷鳴をもって、霊的ないなずまをもって、この世を恥じ入らせるほど揺り動かす預言者です。
ハレルヤ。
神が必要としておられるのは、空の器です。
その通りです。
呼び出された教会です。
神の力と祝福、そして神のメッセージを受け取る、小さな少数の群れです。
ハレルヤ。
それこそ、私たちに必要なものです。
弱くなりなさい。
そうすれば、あなたは強くなることができます。
それは、すべての悪魔に勝利します。
それは、学識ある者たちを恥じ入らせます。
それは、神が召された男たち、女たちを連れて来ます。
そして、それだけなのです。
142. ノアの日にあったように、人の子の来る時もそのようである。
救われたのは八つの魂でした。
エリヤの日には、それを持っていた者は七千人だけでした。
ああ、今私たちがどこに生きているのか、考えてみてください。
ヨハネが現れた時、小さな教会は確かに少数派でした。
しかし、そこには油を注ぎ入れるための空の器がありました。
ハレルヤ。
神よ、私たちが自分自身を空にできますように。
友よ、空になりなさい。
弱くなりなさい。
自分自身の能力を否みなさい。
そして、ラジオを通して……いや、ラジオではなく、このテープを聞いているあなたがた、これがどこへ届くとしても、自分自身を空にしなさい。
神の祭壇の上に、自分自身を犠牲として注ぎ出しなさい。
御使いが火の炭を持って来て、その器を全能の神の力で満たしてくださるようにしなさい。
その時、神はあなたを強くしてくださいます。
神は、あなたが立つための恵みを与えてくださるのです。
143. 主よ、また一つの日曜の朝が過ぎて行きました。
私たちはこの厳かな集会の中に座っていました。ここには、あなたを知り、その心の内にあなたの御霊が住んでおられる男たち、女たちがいます。彼らはあなたを信じ、あなたが私たちに行うよう委ねてくださった一つひとつの御言葉に従ってきました。
私たちは、この人々のゆえにあなたに感謝いたします。
また、これらのテープが届けられるその地の中にも、ほかの人々がいることでしょう。小さな、へりくだった女たちや男たちが、それを家庭へ、部族の中へ、またほかの国々へ携えて行くことでしょう。
主よ、彼らが聞き、理解することができますように。
自分自身を空にし、聖霊が彼らを満たすことができますように。
主よ、今朝ここにいる人々の中にも、私たちが語り始めて以来、自分自身を空にした人がいるかもしれません。自分の考え、自分の能力、自分の単純な人間の思いの抜け目なさに、あまりにも頼りすぎていたことを悟った人がいるかもしれません。
それは神の御前では、汚れにすぎません。
ああ神よ、どうか彼らが今、自分自身を空にすることができますように。
へりくだって自分自身を明け渡し、御霊の満たしを受けに来ることができますように。
主よ、それをお与えください。
144. 信じた者は、みなバプテスマを受けた。
父よ、今朝、この建物の中に、一人の小さな婦人が座っています。後ろの方に座っています。
私は覚えています。ある夜、ヒックス夫人が私を呼びに来ました。そして彼女はそこに横たわっていました。骨ばかりになり、その上に小さな筋と皮が張りついているだけのようでした。
癌が彼女を食い尽くしていたのです。
彼女の夫は、まだクリスチャンではありませんでした。
私はその夜、自分が祈った祈りを覚えています。
「神よ、あなたは小さなダビデを、ただの小さな石投げを持たせてライオンのもとへ遣わされました。そして彼は子羊を連れ戻しました。」
私は言いました。
「この癌が、私の姉妹を捕えています。これは悪魔です。私は、あなたが神であることを知っています。主よ、私はあなたを見ました。そして知っています。私はあなたと語り、あなたも私に語り返してくださいました。」
「私は神の羊を取り戻しに来た。癌よ、彼女を解き放て。」
それから、イエス・キリストの御名によって、彼女が家へ帰るように命じました。
そして、まだ明け渡していなかった彼女の夫が、その御言葉を信じて、自分の妻を家へ連れて帰りました。
今朝、彼女はここにいます。
強く、健康な女性となって。
癌は去りました。
彼女は今朝、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるために来ています。
ああ神よ、そのことを感謝します。
満たされる備えのできた、空の器のゆえに感謝します。
神よ、どうかその魂を祝福してください。
主よ、これは多くのほかの例の一つにすぎません。
私は、あなたの祝福がこの聴衆の上にありますようにと祈ります。厳粛に、神よ、厳粛に。
145. それは、あなたがどこかで空の器を起こし、この世に自らを恥じさせるようになさるか、あるいは、すぐにイエスを送ってくださるかです。終わりがここに来ているからです。
主よ、残されていることは二つだけです。そして私たちは、それをすぐに見なければなりません。なぜなら、私たちはこれが終わりであることを知っているからです。
私たちは、すぐに何か力あるものが起こるのを見るか、あるいは、主の来臨を見ることになるのです。
すべての預言は成就しました。
教会がよみがえらされる前、黙示録3章において教会が引き上げられる前、最後にあることは、ラオデキヤ教会時代への使者が現れることでした。その使者は、人々の心を初代の父たちへと立ち返らせ、彼らが持っていると主張している、本来のペンテコステへと戻すのです。
主よ、ノアの日のように、幾千、幾万という人々が失われるでしょう。
その多くが失われるでしょう。
父よ、私たちは、それがすでに成就しているのを見ています。
146. あなたの教会を引き上げてください。
そして主よ、もしそれがあなたの御心なら、その教会が携挙される直前に、力が起こりますように。
ああ神よ、これらの器を満たしてください。
主よ、彼らを起こしてください。
もう一度、この世界を揺り動かしてください。
私たちは、それが時を過ぎた後になることを知っています。
その時には悔い改めはなく、彼らにとっては、もうあまりにも遠くなっているでしょう。
しかし主よ、あなたの力を示してください。
それらの器を満たし、これまで揺り動かされたことがないほどに、この世界を揺り動かしてください。
その時、あなたの教会をお取りください。
この世は、それが今座している混乱の中に残してください。
ああ神よ、彼らはもがいています。
その時、偉大な聖霊がユダヤ人たちのもとへ来られることを、私たちは知っています。
私たちが十四万四千人がシナイ山に立ち、小羊と共に立っているのを見た時、しかし花嫁はすでに天にいました。彼女はすでに引き上げられていたのです。
そして小羊は戻って来られました。
ヨセフのように、御自身を御自分の民に知らせるためです。
聖書は、その時、彼らの間に嘆きが起こると言っています。彼らは見て、彼がそこに立っておられるのを見るからです。
彼が御自身を現される時――。
彼は言われました。
「わたしの友の家で受けたのだ。」
彼らは言うでしょう。
「その傷はどこで受けられたのですか。」
その時、彼らは言うでしょう。
「私たちが十字架につけたのは、この方だったのだ。」
そして彼は、ヨセフがしたように言われるでしょう。
「心配しないでください。神が、異邦人の命を救うために、これをなさったのです。あなたがたのせいではありません。」
その時、彼らは家族ごとに分かれ、互いに離れて、家から一人息子が取り去られたかのように嘆く、と言われています。
147. それは、あの七十週の終わりです。
時は近づいています、主よ。
ああ神よ、真の神の預言者たちの声が、この時代の現代的な女に対して、この現代的な教会に対して、この現代的な教会神学に対して、叫び声を上げますように。
真理を語ることを恐れているこれらの説教者たちを揺り動かしてください。
ああ神よ、これらの人々を取り、かつてないほどに揺り動かし、自分自身を恥じるようにしてください。
しかし、私たちはこの一つのことを知っており、完全な確信をもって安んじることができます。
父が引き寄せられなければ、誰も来ることはできません。
そして父が与えてくださった者は、皆、来るのです。
それは、あなたが届かせようと意図されたところまで、ちょうど届くでしょう。
しかしあなたは言われました。
恐れるな、小さな群れよ。あなたがたに御国を与えることは、あなたがたの父の御心なのです。
私たちは、それが真実であることを知っています。
あなたは初めから私たちに警告しておられました。
その時が来る時、備えのできている者は、ほんのわずかであると。
その後には大いなる復活があり、時代を通して贖われてきたすべての贖われた者たちがよみがえるでしょう。
しかしこの終わりの日、まさに終わりの時には、教会は確かに少数派となるのです。
ですから父よ、私たちはそれを見ています。
私たちは、この日のメッセージを見ています。
それが拒まれているのを見ています。
人々が離れて行くのを見ています。
これらすべてのことを見ています。
私たちは、あなたの民が、自分たちは何者でもないと告白しているのを見いだします。
主よ、彼らはただ、あなたで満たされたいだけなのです。
今、私は祈ります。
主の来臨のほんの数日前に、あなたが彼らをもって、この世界を揺り動かしてくださいますように。
148. 肉体の癒しを必要としている人々がいます。
主よ、私たちは彼らを置き去りにはしません。
なぜなら、こう言われているからです。
主のすべての恵みを忘れてはならない。
主はあなたのすべての咎を赦し、
あなたのすべての病を癒される。
ここにいる一人ひとりの上に、主の偉大な癒しの力がありますようにと祈ります。
もしあなたが、そこにいる魂を、何の動きもなしに、ただその心があなたへ向くだけで救うことがおできになるなら、なおさら、肉体を癒すことがおできにならないはずがありません。
ここにハンカチが置かれています。
偉大な使徒パウロがしたように、私はそれらを主イエスの御名によって祝福します。
これらのハンカチを身につける者が、誰であっても癒されますように。
壊れた家庭が回復されますように。
父のいない小さな子どもたち、母のいない小さな子どもたち、また両親が別れてしまっている子どもたち、その家庭が再び一つにされますように。
主よ、それをお与えください。
今、すべての病人と苦しんでいる人々を癒してください。
そして御自身に栄光をお受けください。
149. 聖書は、アブラハムが自分の家から出て、自分の町から出て行き、約束の地に寄留したと言っています。彼は、自分がこの世の者ではなく、旅人であり寄留者であると告白していました。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも皆、この証を持っていました。
自分たちはこの世の者ではない、という証です。
彼らはただ、神が設計者であり建設者であられる都があることを明らかにし、その都へ向かって歩んでいたのです。
150. また、人々がその態度を定めることができますように。
そしてバプテスマの奉仕が行われる時、人々の間に大きな動きがありますように。これまでそのことを考えたこともなかった人々に、それが啓示されますように。
あなたは、あなたが召された者をみな、あなたが送ると言われました。
今、主よ、私はすべてをあなたにお委ねします。
何も持たない貧しい器から出た、この小さな、砕かれたメッセージと共に。
主よ、どうかあなたがこれらの言葉を取り、人々の心の中に溶かし込んでくださいますように。そして彼らが、決してそこから離れることができなくなりますように。
主よ、それをお与えください。
今、これをあなたにお委ねします。
イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
151. 「しかり、わたしは今日、わが民よ、あなたがたに語る。わたしは言う。あなたがたは生ける神の御言葉を聞いた。そしてわたしは言う。あなたがたの多くは、決断の谷にいる。
もしあなたが、今日わたしの預言者が語り出したわたしの言葉に心を留めるなら、来たる日にあなたはわたしと共に栄光のうちにいるであろう。
わたしはあなたに言う。わたしがあなたの前に置いた道を歩みなさい。なぜなら、門は狭く、道は細く、そこに入る者は少ないからである。
しかしわたしは言う。わたしは今日、あなたがわたしの戒めに従うように定めた。
わたしはあなたに言う。今朝、わたしの預言者よ、あなたはわたしのいのちのパンをよく裂いた。あなたの心には、自分は一人で立っているように思えるであろう。しかしわたしはあなたに言う。その日に、わたしと共に来る民を、わたしは持つであろう。
わたしは言う。その大いなる晩餐は備えられつつある。これらの者たちが皆、その御座の周りに集まる時、あなたは、あなたに先立って行った愛する者たちと共にいるであろう。主がこう仰せになられる。」]
あなたが決断をしている間に、決めなさい。
「あなたがたは、いつまで二つの意見の間で迷っているのですか。」
あなたは、彼が言われたことを聞きました。
もし神が神であられるなら、神に仕えなさい。
もしこの世が神であるなら、そのまま進み続けなさい。分かりますか。
もし教派の道が正しいなら、そのまま進みなさい。
しかし、もし聖書が正しいなら、聖書へ来なさい。
この時、あなたが誰に仕えるのかを選びなさい。
152. 聖書は言っています。
彼らは賛美を歌ってから出て行った。
この有名な古い歌を歌いましょう。
「私は主を愛します」。
頭を垂れ、心を彼に向けながら。
私は主を愛します。
今、あなたが何をするのか、決めなさい。
私は主を愛します。
なぜなら、主がまず私を愛してくださったからです。
そしてカルバリの木の上で、
私の救いを買い取ってくださったからです。
[ブラナム兄弟が「私は主を愛します」をハミングし始める。]
あなたはキリストのために決断できますか。
いや、正確には「決断」というよりも、ただ自分自身を空にすることです。
「主よ、私は役に立たない者です。私の内には、良いものなど何もありません。私がこれまで知っていたすべてを忘れさせてください。今、来てください、主イエスよ。これが私の頭の上を通り過ぎてしまわないようにしてください。私がそれを受け、あなたの御霊で満たされるようにしてください、主よ。この日から、私をまったくあなたのものとしてください。」
今、ただ神に祈りなさい。
小さな祈りでよいのです。
単純な祈りです。子どもたちも皆。
カルバリの小羊よ、
神なる救い主よ。
ただ心の中で悔い改めなさい。
今、私が祈る時、聞いてください。
私のすべての罪を取り去り、
ああ、この日から私を
まったくあなたのものとしてください。
人生の暗い迷路を歩み、
悲しみが私の周りに広がる時、
あなたが私の導き手となってください。
闇を昼へと変え、
悲しみと恐れをぬぐい去り、
私が決してあなたから
離れて迷うことのないようにしてください。
153. 信じた方々、神の御前で自分自身を空にした方々、そして、もはや何ものにも妨げられまいと決心した方々、自分には何の能力もないと認め、神との間に、明確で、清く、真実な区切りをつけたいと願う方々――。
水槽には水が入っており、バプテスマの準備ができています。
女性は私の右側へ、男性は私の左側へお進みください。
洗礼式は、すぐに始まります。
自分を空にした方々、説教者たちが何と言うか、教会制度が何と言うか、教派が何と言うかではなく、主の道を取り、「主がこう仰せになられる」を信じる備えのできた方々、今、おいでください。
人生の暗い迷路を歩む時……
女性はこちらへ、男性はこちらへ。
これが、あなたがたへの祭壇への招きです。
信じた者は、みな来て、バプテスマを受けた。
……あなたが私の導き手となってください。
闇を昼へと変え、
悲しみの涙をぬぐい去り、
私が決してあなたから
離れて迷うことのないようにしてください。
154. 神があなたがたを祝福してくださいますように。
男性の中で、自分の妻に煙草を吸わせ、本来あなたのものであるはずのズボンをはかせていることを恥じる方が、どれほどいるでしょうか。
聖書はこう言っています。
それは神の目に忌むべきことである。
あなたは、神が変わることのできないお方であることを知っていますか。
神は変わることがおできになりません。
神には一つのご性質があります。
それは聖さです。
神は変わることがおできになりません。
あなたが神のようにならないなら、あなたは神を見ることはありません。
聖さがなければ、誰も主を見ることはできない。
もしスラックスを身に着けることが神の御心を痛ませ、吐き出したくなるほどのもの、病み、忌むべきもの、汚れであるなら、そのような霊を自分の内に持ったままで、どうして天国に行けるのでしょうか。
短い髪で、どうして天国へ行くのでしょうか。
神は言われました。
女が髪を切ることは恥である。
彼女は、妻であることの根本的な原則そのものを否んでいるのです。
神は変わられません。
友よ、それが神の御言葉です。
あなたはよく聞いた方がよいのです。
そして、自分の妻にそうさせているあなたがた男性よ、あなたは自分自身を恥じないのですか。
恥じないのですか。
155. 神のようになりなさい。
この世の現代的な流れから、自分自身を空にしなさい。
そうすれば、キリストが御自身をあなたの中に注ぎ込むことがおできになり、あなたは本当に聖霊で満たされることができるのです。
主は、それをなさることはできません。
そのままでは、なさることができないのです。
それは主の原則に反しているからです。
そうするなら、主は御自身の御言葉に反しなければならなくなります。
しかし主は、それをなさいません。
あなたが主の御言葉に従わない限り、主はそれをなさいません。
あなたは来なければなりません……。
何かほかのことがなされる前に、私たちはまず、ここへ来なければなりません。
あなたがたは、それを知っています。
あなたがた一人ひとりが、それを分かっています。
それを信じる人はどれほどいますか。手を挙げてください。
確かに、あなたがたは信じています。
では今、それについて何かをしようではありませんか。
156. 私たちはどれほど主を必要としていることでしょう。
ここに、私たちは皆、一緒にいます。
さあ、覚えておいてください。
裁きの時、私は立たなければなりません。
それは今夜より前かもしれません。
そして、私が語った一つひとつの言葉に向き合わなければなりません。分かりますか。私はそれに向き合わなければならないのです。
ですから覚えておいてください。
この不義は、もう私の手から離れています。
私の良心から離れています。
私の魂から離れています。
そして神の御前からも離れています。
もしあなたが……もしあなたがそのような状態に立っていながら、それでもなお責めを感じないなら――ふう――あなたはどうするつもりですか。
その時、あなたは分かるのです。
神はもうあなたを取り扱っておられないのだと。
あなたはそこを過ぎてしまっているのだと。分かりますか。
あなたはそこを過ぎてしまっているのです。
あなたはどれほど宗教的であってもよいでしょう。
教会に属していてもよいでしょう。
しかし、あなたはそこを過ぎてしまっているのです。
神の御言葉は、人の内側に入り込み、その人を引き出します。
それこそが、人を連れ戻すものなのです。分かりますか。
ですから、それが御言葉です。
私は、どこにいるどんな牧師にも、どんな人にも、それが神の御言葉に反していると否定してみなさいと言います。
その通りです。
それは反していません。分かりますか。
157. 私たちのうち、たとえ努力している者であっても、努力している者たちでさえ、切り詰められ、煮えこぼされる必要があります。
はい、確かに、私たち皆にそれが必要なのです。
神よ、私を憐れんでください。
神よ、私を取り、形造ってください。
今週の後、次に何をすべきかを知るために、神の御前に出ることが、私の願いです。
神よ、私を取ってください。
私に関するすべて、そしてそこには多くのものがありますが、良くないものは、神よ、切り取ってください。
それが今朝の私の祈りです。
私の心に、耳に、私の存在そのものに割礼を施してください。
主よ、私を造ってください。
あなたが私に何になってほしいと望まれるのであれ、そのような者にしてください。
それが私の祈りです。
「私から切り取られなければならないものが何であれ、主よ、それを切り取ってください。御言葉の中で私に示してください。私に語ってください。私は行って、それを行います。
主がそれを言われるなら、私はすぐそこにいて、それに従う用意があります。
神の御言葉が何と言おうとも、私はその通りの者になりたいのです。私は神の御言葉にあるクリスチャンになりたいのです。すべての人の言葉を偽りとし、神を真実なお方としたいのです。
それこそ、この時代の流れではないでしょうか。
そうではありませんか。
あなたも、そのように信じますか。」
158. あなたがたの多くは、来るべきです。
信じている男たち、女たちです。
彼らは自分の罪を告白し、罪の赦しのために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるのです。
[こちらです、兄弟。]
イエス・キリストの御名によって、罪の赦しのためにバプテスマを受けるのです。
そうすれば、彼らは聖霊で満たされるでしょう。
159. あなたがたは、教会には罪を赦す力があると言います。
では、教会はどのように罪を赦したのでしょうか。
神は……イエスは確かに教会に言われました。
あなたがたが赦す罪は赦され、
あなたがたがそのままにしておく罪は、そのままにされる。
では、初代教会では、どのように罪を赦したのでしょうか。
彼らを悔い改めへと呼び、罪の赦しのために、イエス・キリストの御名によってバプテスマを授けたのです。
告解室の中でではありません。
いいえ、決してそうではありません。
彼らはそこに立ちながら、心の中で神の御前に悔い改め、そして信じたのです。
信じた者はみな、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受け、聖霊で満たされた。
アーメン。
あなたは主を愛していますか。
では、立ち上がりましょう。
160. ほかに来たい方はおられますか。ほかに信じた方はおられますか。どうぞ来てください。どちら側からでも構いません。男性は左へ、女性は右へ。
あなたの心を尽くし、あなたの内にあるすべてをもって、主イエスを信じなさい。
では、皆で頭を垂れましょう。今、私は不思議なほど強く導かれているように感じますので、この模範の祈りを一緒に唱えたいと思います。
頭を垂れながら、私と共に祈ってください。
[ブラナム兄弟と会衆が声を合わせて祈る。]
天にまします我らの父よ、
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものなればなり。
アーメン。
161. そして、ネヴィル兄弟に来ていただき、祝祷をしていただきたいと思います。彼の心にあることを語っていただき、それから今、準備されているバプテスマ式について案内していただきます。
神が皆さんを祝福してくださいますように。これが私の祈りです。
私は皆さんのために祈ります。皆さんも私のために祈ってください。私は本当に、皆さんの祈りを必要としています。