1. しかし、ムーア兄弟から緊急の電話が入ったので、誰かがとても具合が悪いのだと思ったのです。
ところが実際はそうではなく、ただ集会を開いてほしいということだったのです。それで私は、あちらでその電話を早く切ろうとしていただけでした。
彼は、感謝祭の頃にルイジアナに来て、そこで彼らのために集会を開いてほしいと言っていたのです。
去年私たちがそこに行った時、主がリバイバルを始めてくださいました。そしてそのリバイバルは、まだ終わっていないのです。今もなお続いています。
その後この一年の間に、そこで何百人もの人々が救われたのだそうです。正確な数は覚えていませんが、あのリバイバルの後もずっと、多くの人が救われ続けているのです。
2. 実は私自身も知らなかったものですから、皆さんご存じのような人々の間にも、特に広告や知らせは出していませんでした。ただ質問に答えるために、ふらっと立ち寄ったような形になったのです。
私はいつもこう思うのですが、牧師というものは、人々が質問をすることで、その人たちの心に何があるのかを知ることができます。そういう方法で、人々がどんなことを考えているのかが分かるのです。
さて、今朝始める前に、赤ちゃんの奉献があると聞きました。ビリーが、赤ちゃんの奉献があると言っていました。もしそうでしたら、その小さな子をここに連れて来てください。主におささげいたしましょう。
それから質問に答え、その後で病気の方々のために祈ることにいたします。
3. 周りの人たちは、もっと悪くなっているのではないかと思っているようですが、私はそうは思っていません。私は、母はだいたいこれまでと同じような状態だと思っています。
そして神が、母が死ぬのだと私に告げない限り、私はそれを信じるつもりはありません。神が「もう行くのだ」と言われるその時まで、私は母のために信仰を持ち続けます。
もちろん、神が今まさに母を連れて行こうとしておられるのかもしれません。私は分かりません。もしかしたら、私が心配しすぎないように、そのことを私に知らせないでおられるのかもしれません。
けれども、私は神が母を良くしてくださると信じます。どんな状態であろうとも、です。
母はもう三週間、ほとんど食べていません(ブドウ糖だけです)。それでも私は、きっと良くなると信じています。
4. さて、これは…ここにもう一人の説教者が現れる希望かもしれませんね。小さなウッズ君です。(フルネームは何と言うのですか?)
これは、あちらのウッズ家に新しく加えられた小さな贈り物です。もちろん、おばあちゃんのかわいい子でしょうね。
ウィリアム・デイビッド・ウッズ・ジュニアです。本当に元気そうな良い男の子です。
その小さな拳も…(不明瞭)。ほら見てください、指をぎゅっと握っています。引き金を引く指がありますね。
リス狩りをする子になるかな?
片目でこちらを見ていますね。ちょっと恥ずかしがり屋なのかもしれません。
私たちは知っています。このような小さな子どもたちは、神が私たちの家庭に送ってくださるものであり、私たちはそれを感謝して受け取り、そしてこの子どもたちを育てる責任を与えられているのです。
そして、この家族の上に神の恵みが続くなら、この赤ちゃんは神の訓戒のうちに育てられることでしょう。
では、頭を垂れましょう。
天の父よ、
今朝、私たちはこの小さなウィリアム・デイビッド・ウッズを、主イエスの御名によってあなたの御前にお連れします。
聖書に書かれているように、主が地上におられた時、人々は幼い子どもたち、赤ちゃんたちを主のもとに連れて来ました。主がその子どもたちの上に手を置き、祝福されるためでした。
もし主が今朝、肉体をもってここにおられるなら、私たちの兄弟姉妹は、この恵みのしるしであるこの子を主のもとに連れて来たことでしょう。
しかし今日、私たちは福音を宣べ伝えることによって主を代表している者です。それで人々は赤ちゃんを私たちのもとに連れて来るのです。
それゆえ私たちは信仰によって、この小さなデイビッドをイエスの御名によってあなたにおささげします。
主よ、この子を祝福してください。
神よ、もしあなたの来臨が遅れるなら、この子があなたのしもべとなるようにしてください。どうかそうしてください、主よ。
彼に健康と力を与えてください。
彼の父と母を祝福してください。
そして、もしあなたの神の御心であるなら、この小さな男の子が将来、福音を宣べ伝える者として立ち上がるようにしてください。
主よ、それをかなえてください。
私たちはこの小さなウィリアム・デイビッド・ウッズを、あなたの栄光のために、イエス・キリストの御名によっておささげいたします。
アーメン。
5. いつも落としてしまいそうな気がするんですよ。
私は思うのですが、小さな赤ちゃんと年老いた人というのは、どこか似ていますね。
長い人生を歩んできた年配の方でも、あるいはまだ小さな赤ちゃんでも…。
どちらも、とても無垢で純粋な感じがするでしょう。
その人たちには、何か特別なものがあります。私はそういうところが本当に好きなんです。
(この説教壇のマイクを使いましょうか。ネヴィル兄弟、どこでしたかね。ああ、ここにありますね。)
6. しかも、これらの質問は今朝渡されたばかりなので、質問に関係する聖書箇所を調べる時間もありませんでした。
ほんの数分前に受け取って、ざっと目を通しただけで、いくつかの質問を見ただけなのですが、「これはどう答えたらよいかな…」と思うものもありました。
しかも、その中には…。
これまで受け取った中でも、いちばん難しい質問の集まりかもしれません。
ざっと見ただけでも、これはなかなか大変になりそうだと思いました。
ですから、もし私の答えが、皆さんの信じておられる理解と一致しない部分があったとしても、どうか覚えておいてください。
私が持っている知識の範囲で、できるだけ答えているということです。
また、答える中で、聖書の箇所を引用することもあると思いますが、その場で調べる時間がないかもしれません。
ですから、皆さんが家に帰ってから、その箇所を調べてみてください。
もし私が引用を間違えていたなら、それは私の間違いです。
もちろん、意図して聖書を誤って引用するつもりはありません。
ただ、言葉というものは、ちょっとした違いで、別の言い方になってしまうことがあります。
皆さんもご存じのように、そういうことは起こりやすいものです。
しかし私たちは、できるだけ正確に引用することを目標にしています。
もし、今週質問を受け取って、来週の日曜日に答える形にできれば、一週間の間にすべてをよく調べる時間も取れるのですが。
7. それで今日は、病気の方々にこの幕屋に来ていただき、ここで彼らのために祈るのがよいと思ったのです。
私たちは知っています。祈りは物事を変えるのです。
祈りは、私たちのために何かをしてくれます。
そして私は、祈りによって今日ここに生きているのです。
神の恵みによって、祈りを通して生かされているのです。
今朝は少し疲れていて、弱っている感じもあります。
ですから、どうか私のためにも祈ってください。皆さんの祈りを願っています。
8. そこで話しているときに、ふと一つの思いが心に浮かんできたのです。
外の森を眺め、木々を見ていると、それらが枯れつつあるのが分かりました。そして私は思いました。
「なんと美しい木々だろう。枯れつつあるのに、こんなにも美しいのだ」と。
ときには、木が青々として一番元気なときよりも、枯れていくときのほうが、かえって美しく見えることさえあります。
それは、もしかすると天の父にとっての私たちの姿を表しているのではないでしょうか。
聖書にはこう書かれています。
「主の聖徒の死は、主の目に尊い。」
父なる神が、ご自分の子どもが御もとへ帰ってくるのをご覧になるとき、それはどれほど美しいことでしょう。
その人がキリストのうちに自分の立場を保ち、信仰と告白をしっかりと握っているならばです。
「私は神の恵みによって救われています。」
そう告白して立ち続けるのです。
死の時が来てもなお、私たちはこの信仰の告白を保つことができます。
私たちは救われているのです。
9. 証しというのは、気分がよく、健康で、力に満ちているときだけするものではありません。
むしろ、落ち込み、弱り、困難の中にあるときこそ、その証しが本当に価値を持つのです。
そのことを考えながら、私はこんなことを思っていました。
死というものは、命と結びつくものではありません。命と死は同時に存在することができないのです。
木の葉が枯れて落ちる前には、まず木の中の樹液が引いていきます。
つまり、葉が枯れる前に、命の流れが木から離れていくのです。
ですから、人間の世界に当てはめて考えるなら、死というものは罪と結びついていると言えるでしょう。
なぜなら、私たちに罪が存在する前には、死というものは全くなかったからです。
しかし死があるところには罪があり、罪があるところには死があります。
死は罪の結果だからです。
そして聖書にはこう書かれています。
「罪を犯す魂は、それが死ぬ。」
しかし、私たちが神の御霊によって新しく生まれるとき、私たちは永遠の命を持ち、もはや死とは関わりを持たなくなるのです。
死は命と結びつくことができません。
命もまた、死と結びつくことはできないのです。
10. 「もしあなたが道の上に立っていて、時速九十マイルでコントロールを失った車がこちらに向かって来たら、どうしますか。あなたはできるだけ早くその道路から離れようとするでしょう。飛びのいたり、滑りこんだり、とにかく何でもして、その車から逃げようとするはずです。」
クリスチャンにとって、罪というのもそれと同じであるべきなのです。
なぜなら、罪は死と結びついているからです。
ですから、どんな形であれ罪を見たなら、すぐにそこから飛びのき、離れなければなりません。
何をしなければならなくてもよい、とにかくその場から離れるのです。
悪の見える形からさえ、離れなさい。
なぜなら覚えておかなければならないのは、罪と関わることは死であるということです。ちょうどそこに立ったまま、その車にぶつかられるのと同じなのです。
「どうなるか見てみよう」などと待っていてはいけません。
とにかくその道から離れるのです。
悪の見える形を見たなら、すぐにそれを避けなさい。
誘惑が近づいてきたり、罪が近づいてきたりしたのを見たなら…。
それが間違ったことであると分かるなら、その背後には死が潜んでいるのです。
だから、時速九十マイルで車が迫って来るときに逃げるのと同じように、すぐにそこから離れるのです。
すぐに道から離れたいと思うでしょう。
飛びのいても、滑り込んでも、走ってでも、どんな方法でもいい。
とにかくそこから離れることです。
11. 私たちは罪をとても憎むので、そこには死が結びついていることを知り、その見える形からさえ避けるのです。
どんな方法でもよい、とにかくそこから離れます。
飛びのいたり、走ったり、何でもして罪から遠ざかろうとするのです。
なぜなら、罪の中には死があるからです。
そして私たちは、死と関わるものに少しでも関わりたいとは思わないのです。
ですから、そういうものからは離れていたいのです。
昨日、クリスチャンたちと話しているときに、このことがふと心に浮かびました。
そして、これは今朝、教会の皆さんにも分かち合うのに良い思いだと思ったのです。
特に、ここに若い人たちも座っていますし、そのような誘惑に多くさらされる年代ですから。
12. ただ覚えておいてください。罪であるものには、すぐそこに死が伴っています。
そして、その罪にあずかるなら、あなたは死にもあずかることになるのです。
ですから、それから離れていなさい。
では、罪とは何でしょうか。
それは 不信仰 です。
不信仰であるものはすべて避けなさい。
聖書を軽んじるもの、神の御言葉を無視するもの、そのようなものからは離れなさい。
もしこれらの質問を終えて、癒しの祈りの前に少し時間があれば、そのことについて少しお話ししたいと思います。
つまり、御言葉を軽んじることについてです。
13. 天の父よ、
今朝、私たちはイエスの御名によってあなたの御前に参ります。
そして、私たちはこの世のものから自分自身を切り離したことを告白いたします。
主ご自身が言われたように、「神とマモン(この世)とに仕えることはできない」からです。
一方を憎んで他方を愛するか、あるいは一方を愛して他方を憎むか、そのどちらかだからです。
今朝、私たちは信仰によってイエス・キリストを受け入れ、そして聖霊が私たちの人生の中に住み、私たちを導いてくださっているという証しを持っていることによって、永遠の命にあずかっていると信じています。
そのことを私たちは本当に感謝しています。
そして、どんなに小さく見える罪でも、どんなに魅力的に見えるものであっても、罪を見るとき、私たちの内にはそれから飛びのき、離れようとする何かがあります。
それは、先ほどお話ししたように、ものすごい速度で車が近づいて来るときに道から飛びのくのと同じです。
私たちは、罪の中に捕らえられたいとは思いません。
どうか私たちを、そこから遠ざけてください。
14. どうか彼らのために祈らせてください。
特に今朝この幕屋にいて、祈りの列に来る人々に信仰を与えてください。
彼らがあらゆる重荷を捨て、すべての不信仰を取り除き、そこからすぐに離れ、信仰をもって主イエスのもとへ走り寄ることができますように。
どうか信じることができますように。
また、病院や療養所にいる人々のためにも祈ります。
そして主よ、私の母のためにも祈ります。
今のところ、主よ、あなたは母を私たちのもとにとどめてくださっています。そのことを私たちは感謝しています。
信仰をもって、私たちは手を伸ばします。
まず第一に、神の御心を知りたいのです。もし母が行くことが神の御心であるなら…。
もしそれが御心なら、私たちの願いもまたそれです。
しかしまず知りたいのです。もしサタンがこの悪いことを行い、それがあなたを愛する者たちの益となるように、私たちに試練を与えるために働いているのなら…。
そのとき、主よ、私たちは自分の持ち場に勇敢に立ち続けたいのです。
15. また、どこにいる私たちの愛する者たちも祝福してください。
そして今日、質問に答える務めが与えられていますが、主よ、私たちはこれらが人々の心にある深く真剣な事柄であることを知っています。
彼らは軽い気持ちでこれらを尋ねたのではありません。
真理を知りたいという思いから尋ねているのです。
あなたの御言葉こそ真理だからです。
ですから父よ、今朝、私たちの思いをこの真理、すなわち御言葉に結びつけてください。
そして主よ、この教えの家を出るとき、今日、私たちがよりよく理解することができるよう助けてください。
それが私たちの魂の益となりますように。
私たちはこれを、神の栄光のために、あなたの御子イエス・キリストの御名によって願います。
アーメン。
16. できるだけ早く、少しの間それらのためにも祈ることにしましょう。
今、時間としては大体一時間半ほどあります。
先ほども言いましたが、これらすべての質問に答えられるかどうかは分かりません。
ですが、今日の予定としては、まず質問に答え、それから人々の信仰を助けるために短いメッセージを少しお話しし、そのあとで病人のために祈るという流れにしたいと思っています。
そして今夜の集会、また週の祈祷会、男性の集まりなども覚えていてください。
それから来週の日曜日のことですが…。
もし主がお許しになるなら、教会に語りたいと思っている一つのテーマが心にあります。
今週、私の心に与えられたとても印象的なことがあり、それについてメッセージを語りたいと思っています。
福音的なメッセージです。
それについては、主が導いてくださるまま、もう少し様子を見てみましょう。
そして、どうか私のためにも祈ってください。
いくつか大きな決断をしなければならないからです。
ロイ・ボーダーズ兄弟(今朝ここに座っていると思いますが)は、集会の予定を管理してくれています。
そしてここ数か月の間に、多くの場所から招待が来ており、集会を開いてほしいという依頼がたくさんあるのです。
それで皆さん、どうか祈ってください。
神が私に正しい決断をさせてくださるように。
私がどんなことをするにしても、それが正しいことであり、実を結ぶものとなりますように。
17. これはかなり率直なものになると思います。
質問に答えるために、今回このような形にしたのです。
癒しの集会などを特に宣伝したわけではありません。ただ教会の皆さんが集まっているだけです。
それは、皆さんの心に何があるのかを知るためでもあります。
そして、ここに座っているネヴィル兄弟、私たちの大切な兄弟であり牧師です。
神の王国の中で彼が成長しているのを見ることができて、本当に感謝しています。
ここ数年の間に、彼はそれまでの年月すべてを合わせた以上に前進したのではないかと思います。
主が彼を祝福してくださっているのです。
私はそれを本当にうれしく思っています。
そしてこれは、彼の前ではあまり言わないことですが…(まあ、後ろでは言うんですが、皆さんもご存じでしょう)。
私はネヴィル兄弟を、私がまだ少年の頃から知っています。
そして私はこう思っています。
ネヴィル兄弟も、私たちと同じように間違いをすることはあります。
私たちは皆そうです。まだ人間ですから。
しかし、それは彼の心から出るものではないと思います。
私はそう信じています。
彼は誠実な人であり、いつも非常に誠実な心を持ってきました。
18. その当時は、今のようにこれらのことをまだ十分理解してはいませんでした。
しかし彼の誠実さ、そして自分を低くしてそれをよく調べ、敬虔な心でそれに向き合おうとする姿勢がありました。
そして今では、しっかりとした基盤を持つようになったと思います。
今彼が立つとき、自分がどこに立っているのかをよく分かっているのです。
それで私は、この幕屋のために本当にうれしく思っています。
それから先日、この教会で集まりがあり、新しい幕屋を建てるか、それとも今の建物を拡張して大きくするかについて話し合われたそうです。
そして日曜学校の部屋も作る計画です。
教会は全会一致で、拡張することを決めました。
こちら側に新しく増築して、建物を大きくし、日曜学校の教室を作り、それぞれのクラスが使えるようにするという計画です。
そして床にはカーペットを敷き、内装にはバーチ材を使ってきれいに整え、外側はベッドフォード石で仕上げる予定だそうです。
教会はそのように決定しました。
建築家たちもすでに作業に取りかかっていると思います。
そして明日、そのための会議があるそうです。
この建物を後ろのほうへ拡張して、いろいろと整備し、もっと大きな教会にする計画です。
そのことを、私たちは主に感謝しています。
19. 文字を一つ一つ読みながら理解しなければならないものもあるかもしれません。
それは皆さんの字が悪いのではなく、私の教育があまり十分ではないからです。
質問:
「私たちは使徒行伝2章38節によるバプテスマを信じていますが、他のバプテスマについて人々にどのように答えたらよいでしょうか。彼らは救われているのでしょうか、それとも救われていないのでしょうか。また、その光を受けないまま亡くなった人々はどうなのでしょうか。」
これは良い質問ですね。
ここでもう一度言っておきますが、もし私の答えが皆さんの考えと少し違っていたとしても…。
私は、自分の知っている限り、聖書に最も近い形で答えるようにします。
できるだけ聖書に基づいて答えたいと思います。
20. それは使徒行伝2章38節、そして聖書の他の箇所にも見られます。
しかし今日、多くの人々、そしてほとんどすべての教会は、最初にその方式を始めた教会の影響を受けて、
「父の名、子の名、聖霊の名によって」人々にバプテスマを授けています。
しかしそれは誤りによって行われているのです。
聖書のどこにも、そのような命令はありません。
そのような形の命令は、聖書の中にはまったく見つかりません。
人々はマタイ28章19節を引用します。
そこにはイエスがこう言われたと書かれています。
「それゆえ、あなたがたは行って、すべての国の人々を弟子とし、父、子、聖霊の名によって彼らにバプテスマを授けなさい。」
しかし、ここで言われている「父」「子」「聖霊」は名前ではなく称号です。
父、子、聖霊の名前は、主イエス・キリストなのです。
そして聖書全体を見ると、すべての人が主イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けていました。
その流れは歴史の中で続いていきましたが、やがて…。
ラオデキヤ…いや失礼、ニカイア公会議、すなわちローマで開かれたカトリック教会の会議の時代に至るまで続きました。
21. 一方は、書かれた御言葉、すなわち聖書にとどまろうとする人たちでした。
もう一方は、組織化された古典的な教会を望む人たちでした。
それはコンスタンティヌスの治世の頃のことでした。
コンスタンティヌスは宗教的な人物ではありませんでした。もともとは異教徒でした。
しかし彼は政治家であり、国を一つにまとめようとしていたのです。
当時、ローマの半分はクリスチャンで、もう半分は異教徒でした。
そこで彼は、異教の要素とキリスト教の要素をいくらかずつ取り入れて、いわば一つの「古典的な教会」を作ろうとしました。
そして彼らは自分たちの宗教体系を作り上げたのです。
その結果、聖書を無視するような形になりました。
カトリック教会は、「神は教会に、聖書を変えたり、好きなように決めたりする権威を与えた」と信じています。
もしそれが本当に神のしたことであり、カトリック教会が正しいのだとしたら、
私たちはカトリック以外はすべて間違っていることになります。
もしカトリック教会が正しいなら、メソジスト教会も正しいことになります。
バプテスト教会も正しいことになります。
つまり、すべての組織教会が正しいということになります。
それぞれが自分たちの教会の権威で好きなことを決めることができるからです。
もしカトリック教会に、聖書の教えを別の教理に変える力があるなら、「アヴェ・マリア」のような教えを作ることもできるでしょう。
同じように、メソジスト教会も「浸礼は間違いだ。私たちは滴礼にする」と言う権利があることになります。
そうなると、すべての教会が正しいことになります。
それぞれが好きなようにできるからです。
では、その場合、教会とはいったいどこなのでしょうか。
メソジストでしょうか。
バプテストでしょうか。
長老派でしょうか。
カトリックでしょうか。
いったいどこが教会なのでしょうか。
22. すべての知恵の源である神が、そのようなことをされるはずがありません。
そこには常識すらありません。ましてや、超自然の神の知恵などなおさらです。
正しいものは一つだけです。
それは 御言葉 です。
御言葉が正しいのです。
もしカトリック教会が今朝こう言ったとしましょう。
「これからはバプテスマを全部やめて、毎朝角砂糖を一つ食べることにしよう。それを罪の赦しのためにするのだ。」
もし神が教会にそのような権威を与えたのなら、それも正しいことになってしまいます。
しかし私にとっては、御言葉こそが正しいのです。
なぜなら聖書の最後に、神は御言葉の中でこう言われているからです。
「もしこの書の言葉から一つでも取り除く者があれば、神はその者の分を命の書から取り除かれる。また一つでも付け加える者があれば…」
ですから、私にとっては 御言葉が基準 なのです。
23. そのようなものは聖書には存在しないのです。
なぜなら、父は名前ではなく、子も名前ではなく、聖霊も名前ではないからです。
父、子、聖霊の名前は、主イエス・キリストなのです。
それは使徒たちも、そして歴史の中を通して信者たちが認めてきたことです。
さて、次の質問に移りますが…。
もちろん、これは聖書的に正しいことです。
これは真理です。
聖書の中で、もし人々がイエス・キリストの御名以外の方法でバプテスマを受けていたことが分かった場合、その人たちはもう一度、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるよう命じられました。
そしてその後で聖霊を受けました。
使徒行伝19章5節です。
その通りです。
それが聖書的な真理なのです。
ですから、このことに反対して何かを言えるような
司教も、大司教も、牧師も、だれもいません。
なぜなら、それが真理だからです。
24. 彼らはそこで討論するために集まっていたのです。
そして主が私に語られ、幻を与えてくださり、私たちがどこに行き、何をすべきかを示してくださいました。
私は三百人の三位一体派の牧師たちの前に立って、こう言いました。
「もし私がこの教理についてそんなに間違っているのなら、ここにいる誰かが立って、聖書によって私がどこで間違っているのか示してください。教科書ではなく、聖書によってです。」
「もし私が教えてきた“蛇の種”などの教えが間違っているなら、ここに来て聖書で示してください。」
しかし、誰一人として動きませんでした。
なぜなら、それはできないからです。
それが真実だからです。
人と違うことを言おうとしているのではありません。
ただ真理だからです。
それは御言葉なのです。
そしてそこにあるのは…
だれもそれを論破することはできません。
それは神の御言葉だからです。
だれもそれに反論することはできないのです。
25. 「では、このようなバプテスマを受けていない人たちは救われているのでしょうか。それとも救われていないのでしょうか。また、この光を受けないまま亡くなった人たちはどうなのでしょうか。」
さて、私はこう信じています。
神はご自分の民を召し、ご自分の教会を定め、そこに入るすべての人を世界の基が据えられる前から定めておられたと。
聖書はそのように教えていると私は信じています。
そして、心から神を愛する人は、必ず真理を求めるようになるとも信じています。
神を心から愛する人は、必ず真理を探し求めるものです。
また、もしある人が間違った方法でバプテスマを受けたとしても、それが無知のゆえであり、自分が間違っていると知らなかった場合…。
これははっきりと聖書の言葉として言えるわけではありませんが、私は心からこう信じています。
もし人が正しいことを知らず、自分の知っている範囲で最善のことをしたのなら、神はそれを見過ごして、その人を救ってくださるのではないかと思います。
なぜなら、その人にはそれ以上の光が与えられていなかったからです。
思い出してください。
ウェスレーの時代、そして宗教改革のルターの時代…。
神が用いられた偉大な人々がいました。
神は彼らを尊び、実際に彼らを用いておられました。
そして彼らは、自分たちに与えられていた光の中で信仰を保ったまま、この世を去っていったのです。
26. 今朝、「オールド・ファッションド・リバイバル・アワー」でチャールズ・フラーの説教を聞いた人はいますか。
彼は私の好きな聖書教師の一人です。もうかなり高齢ですが…。
それでも私は、彼は本当に素晴らしい聖書の教師だと思っています。
そして今朝、彼はこう言っていました。
(確か預言について語っていたと思いますが)
これから先、教会がまだ知らないような大きなことが、人々に明らかにされるだろう、と。
私はそれを聞いて「アーメン」と言いました。
私はそれを信じています。
これからまだ大きな光が来ると信じています。
いつの日か、それは短い期間、もしかすると数か月ほどの間かもしれませんが、地上を満たすような光になると思います。
私は、大きな光が来ると信じています。
そして私はこう信じています。
どんな人でも、自分の持っている光の中を誠実に歩み、信仰をもって神に従っているなら、その人は救われるのです。
27. 主は、自分に与えられている光の中を歩んでいる人を見つけられました。
あのローマの百人隊長のことを覚えていますか。
「彼は良い人ではないか。
彼は私たちの民のために会堂を建ててくれた。
これまで多くのことをしてくれた人だ。
だから、この願いを聞いていただくにふさわしい人だ。」
そのように言われていましたね。
神は理解のある父です。
あなたの心を知っておられます。
あなたが本当に光を見ているのか、まだ見ていないのか、神はそれを知っておられるのです。
そして私は心からこう信じています。
この質問に対する正しい答えは、正しいバプテスマはイエス・キリストの御名によるバプテスマであるということです。
しかし、それとは違う形でバプテスマを受けていたとしても、その人の心が…。
つまり、ただ頑なになって
「そんなことは関係ない。私はそれに従うつもりはない」と言っているのではなく…。
もし本当に知らなかっただけなら…。
その場合、その人のことは神とその人との問題になります。
しかし、もしその人が本当に知らなかったのなら、私はその人は救われていると信じます。
心からそう信じています。
なぜなら、その人にはそれ以上の光が与えられていなかったからです。
この問題については、まだ長く話すこともできますが、
できればすべての質問に答えていきたいと思います。
28. 「ヘブル人への手紙6章4節と6節を説明してください。またヘブル人への手紙10章26節〜39節も説明してください。これは聖霊を受けた人たちを指しているのでしょうか、それとも聖別された人たちを指しているのでしょうか。その違いを説明してください。」
さて、その人が指している箇所を見てみましょう。
ヘブル6章4節ですね。
私はこういう聖書の質問が大好きなんです。
こういう質問は、自分だけでは気づかなかったことを引き出してくれるからです。
なぜなら、他の人が何を考えているのか、心の中に何があるのかが分かるからです。
そうすると、どんなことで悩んでいるのかも分かります。
では見てみましょう。
ここにヘブル10章がありますね。
そしてこちらがヘブル6章4節です。
読みます。
「一度光を受け、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、
神の良い御言葉と、来るべき世の力とを味わった者が、
もし堕落するならば、再び悔い改めに立ち返らせることは不可能である。
彼らは自分で神の子をもう一度十字架につけ、さらしものにしているのである。」
これが一つの箇所です。
次にヘブル10章26節です。
「もし私たちが真理の知識を受けた後で、故意に罪を犯し続けるなら、
もはや罪のためのいけにえは残されていない。
ただ、さばきと、敵対する者を焼き尽くす激しい火を恐れて待つばかりである。
モーセの律法を退けた者は、二人または三人の証人によって、あわれみを受けることなく死刑に処せられた。
それならば、神の子を踏みつけ、
自分を聖別した契約の血を汚れたものとみなし、
恵みの御霊を侮った者は、どれほど重い罰に値すると思いますか。」
29. この質問をした人のために、これを説明したいと思います。
ここでヘブル6章4節を見ると、こう書かれています。
「一度光を受けた者は…」
これは、先ほど読んだもう一つの聖書箇所と関係しています。
もしあなたが光を受けていながら、その光から離れてしまうなら、その人が再び元の立場に戻ることは不可能である、と言っているのです。
ヘブル書は、このような拒絶の後にどのような裁きが来るのかを語っています。
キリストを拒むこと、
聖書の光を拒むことほど、恐ろしいことはありません。
30. 「一度光を受け、聖霊にあずかった者が、もし離れてしまうなら、再び悔い改めに立ち返らせることは不可能である。」
ここです。
「一度光を受け、天からの賜物を味わった者…」
よく見てください、“味わった” と書いてあります。
つまり、すぐそばまで来ているということです。
「天からの賜物を味わい…」
その境目のところまで来ているのです。
ここで気づくことがあります。
彼らはまだ聖霊のバプテスマを受けていたわけではありません。
彼らはそれについて光を受けていたのです。
「天からの賜物を味わい…」
つまり、少し触れた、少し経験したということです。
「聖霊にあずかった」
それは、それを味わうことによってです。
そして
「神の良い御言葉と、来るべき世の力を味わった。」
つまり、その一部を経験したということです。
しかし、その後に
「もし彼らが離れてしまうなら、再び…」
と続いているのです。
31. 「モーセの律法を退けた者は、二人または三人の証人によって、あわれみを受けることなく死刑に処せられた。
それならば、神の子を踏みつけ、イエス・キリストの血を汚れたものとみなし、その血によって聖別されたのに、それを軽んじた者は、どれほど重い罰に値することでしょうか。」
さて、この二つの箇所を合わせて、この質問に答えるために、
聖書の中に出てくるある人物の例を見てみましょう。
そうすると、理解しやすくなると思います。
今日の教会は、すべて型(タイプ)とその実体(アンチタイプ)の関係になっています。
私たちはそれを知っています。
つまり、旧約には「型」があり、
新約にはその「実体」があるのです。
イスラエルがエジプトから出て、パレスチナの地へ向かって旅をしたことは、
今日、教会が霊的に約束の地へ向かって旅をしている姿の類似象徴なのです。
皆さんもそれに同意しますよね。
神学者たちも、このことについては一致しています。
それが類似であるということです。
32. エジプトはこの世を表しています。
そして彼らは出て来て、紅海で水を渡りました。
それは分離の水、すなわちバプテスマを表しています。
彼らはその向こう側に渡り、喜びながら神を賛美しました。
そして律法を受け取り、そこから約束の地へ向かって進んで行ったのです。
ところで気づきますか。
彼らは約束の地に入る直前まで来ていました。
実際には、そこまでほんの数日だったのです。
十日か十一日ほど、もしかするとそれより少ないくらいだったでしょう。
距離にしても四十数マイルほどしかありませんでした。
もしそのまま進んでいれば、すぐに約束の地に入ることができたのです。
彼らは、私たちが歩んできた霊的な旅のすべての段階を通ってきました。
紅海を渡りました。
後ろではパロの軍隊が海に沈みました。
彼らは敵から解放されたのです。
そして荒野を進み、ついに約束の地の境目、すなわちカデシュ・バルネアまで来ました。
しかし、そこで彼らは失敗したのです。
なぜでしょうか。
なぜ彼らは失敗したのでしょうか。
33. それぞれの部族から一人ずつ代表を出し、その地を偵察させなさい、と。
その土地がどのような状態なのかを見てくるためでした。
これは、ちょうど今日のあなた方の位置と同じです。
教会はこれまで、いくつかの段階を通って来ました。
まず ルターによる義認。
次に メソジストによる聖別。
そして今、約束の時代に来ています。
その約束とは、御霊のバプテスマです。
それは旧約でも新約でもずっと約束されてきたものです。
「見よ、わたしは父の約束をあなたがたに送る。」
ペテロもペンテコステの日にそのことを語りました。
これがその約束なのです。
約束の地とは、聖霊の地に生きることです。
それは神が教会に与えた約束であり、御霊の力の中に生きることです。
それは別の世界です。
別の国です。
そこに入るためには、今までいた状態から出て来なければなりません。
そこから出て、この約束の地に入る必要があります。
その約束を受けるためです。
覚えていますか。
「あなたがたは、聖霊があなたがたの上に臨むとき、上からの力を受ける。」
ペテロは、この約束は旧約からずっと続いてきた約束だと言いました。
そしてその約束は、ついにペンテコステの日に実現し、
彼らはその約束の中に入ったのです。
34. そしてモーセは、それぞれの部族から一人ずつ代表を送り、その地を偵察させました。
その人たちが戻ってきたとき…。
その中のある者たちは、向こうへ行こうとしませんでした。
しかし二人は実際にその地に入りました。
彼らが戻ってきたとき、二人で担がなければならないほど大きなぶどうの房を持って帰ってきました。
それまで彼らはぶどうを味わったことがありませんでした。
彼らは荒野にいたからです。
荒野には果物がありません。
彼らは天から降ったマナや、うずら、そして野にいるものなどで養われていました。
しかし、彼らが偵察してきたその地では、
二人で担がなければならないほど大きなぶどうがあったのです。
その二人はその地に入り、戻ってきて、そこにいた他の人たちにもそのぶどうを味わわせました。
では、その人たちはどうしたでしょうか。
そのぶどうを味わったのに、
喜ぶ代わりに…。
彼らは自分たちの部族のところへ戻ってこう言いました。
「しかし、あの地には大きな城壁のある町がある。
ペリシテ人やヒッタイト人、ペリジ人…いろいろな“〜人”たちが住んでいる。」
そしてこう言いました。
「彼らは巨人だ。
私たちはそのそばに立つと、まるで小さなバッタのように見える。
とてもあの地を取ることなどできない。」
「なぜ私たちをここへ連れて来たのか。」
聖書はこう言っています。
彼らは皆、荒野で滅びた。
一人残らず死んだのです。
なぜでしょうか。
彼らは境界線の信者だったからです。
彼らは本物のところまで来ました。
約束を見ました。
その味も味わいました。
しかし、その約束を取るだけの信仰がなかったのです。
35. 人々は 義認 を通り、そして 聖別 を通って来ます。
聖書にはこう書かれています。
「自分を聖別した契約の血を踏みつけた。」
つまり、聖別された人たちが、あるところまで来るのです。
そして彼らは 聖霊のバプテスマ を見るところまで来ます。
しかしそこでこう言うのです。
「それは狂信だ。
私たちはそれを受け入れることはできない。」
「そんなことをすれば、私たちは自分たちの仲間から追い出されてしまう。
自分たちの立場から外されてしまう。
教会から追い出されてしまう。」
「そんなことはできない。
それは私たちの教会の教えに反しているからだ。」
このようにして、彼らは イエス・キリストの血を軽んじるのです。
その血が彼らをここまで導き、
約束の封印の直前まで連れて来たにもかかわらず、
そこから立ち去ってしまうのです。
聖書は言います。
そのような人が、再び救われることは 完全に不可能である と。
しかし、それは
すでに約束の地に入った人たちのことではありません。
36. あの二百五十万人ほどの人々の中で、約束の地に入ったのはヨシュアとカレブの二人だけでした。
なぜなら、彼らは実際にその地に入り、祝福を見て、戻って来てこう言ったからです。
「私たちはあの地を取ることができる。
神がそう言われたのだから。」
そして彼らはその信仰に立ち続けました。
なぜでしょうか。
他の人々は 状況 を見ていました。
しかしヨシュアとカレブは 神の言葉 を見ていたのです。
神はこう言われました。
「わたしはその地をあなたがたに与えた。
行ってそれを取れ。」
今日でも同じです。
人々はこう言います。
「もし私がイエス・キリストの御名によってバプテスマを受けたら、
もし聖霊を受けたら、
もし異言を語ったり、預言したり、
あるいは教会で証ししたり、叫んだりしたら、
教会から追い出されてしまう。」
しかし、そのまま進みなさい。
37. 「でも私はクリスチャンとして生きています。
良い、清い、聖別された生活をしています。」
それは確かにそうかもしれません。
しかし、あなたは今 決断の場 に来ているのです。
境界線 のところに来ているのです。
もしそこで背を向けるなら…。
「一度光を受けた者が…」
という言葉が当てはまるのです。
例えば、こういうことです。
ある人が義認を受けます。
そしてこう言います。
「私は御言葉を伝えたい。」
彼は救われます。
そしてこう言います。
「私は罪に疲れた。」
それは良いことです。
しかし彼はまだタバコを吸っているかもしれません。
あるいは心に欲望を持っているかもしれません。
しばらくして彼はこう言います。
「神よ、これはクリスチャンとしてふさわしくありません。
ましてや説教者として、女性を間違った目で見ることや、タバコを吸うことは良くありません。」
あるいはこう言うかもしれません。
「仲間と一緒に少しビールを飲むこともあるし、
私の会衆もそれをしているけれど、どうも正しくないように思う。
主よ、私を聖別してください。」
すると主は彼を聖別します。
その欲望や習慣を取り去ってくださいます。
そして彼は 聖別された器 になります。
そのとき神は、彼に 聖霊のバプテスマ を示されます。
しかしそれを受けるためには、
彼は今まで一緒にいた仲間の中から 出て行かなければならない のです。
そこで彼の本当の姿が現れます。
彼はそこで後退します。
では、彼が後退するとき、何をしているのでしょうか。
彼を聖別した イエス・キリストの血を踏みつけ、
それを汚れたもののように扱っている のです。
その血は彼をその向こうへ導くことができたのに、
彼はそこへ進もうとしません。
そのとき聖書は言います。
その人が救われることは 不可能 であると。
そして残るのは、
燃える怒りと裁き だけです。
これで分かりやすかったでしょうか。
もしまだはっきりしないところがあれば、また別のときに知らせてください。
まだ質問がたくさんありますので…。
38. 「ブラナム兄弟、ヨハネ21章15〜17節で、イエスがペテロに『あなたはわたしを愛するか』と尋ね、そして『わたしの小羊を養いなさい』と言われました。またそのあと『わたしの羊を養いなさい』と言い、17節でも再び『わたしの羊を養いなさい』と言われました。これはどういう意味でしょうか。」
これは、簡単に言えばこういうことです。
キリストは羊飼いです。
そしてキリストはこれから去ろうとしていました。
そこで、ご自分の羊の世話をする責任を残して行かれたのです。
羊飼いは羊を養います。
その羊とは、キリストの群れ、すなわち教会のことです。
キリストは去ろうとしておられたので、
この羊の群れを養う責任を、弟子たちに託されたのです。
つまり、彼らが羊飼いとなり、
羊を養い続けるようにされたのです。
39. 今朝ここにいる皆さんを見てください。
私が今していることが、それなのです。
羊は羊の食べ物を与えられてこそ成長します。
もし大きなハンバーガーを焼いて羊に与えたとしても、羊はそれでは成長できません。
なぜなら、それは羊の食べ物ではないからです。
また、おいしいTボーンステーキを焼いて羊に与えたとしても、それも羊の食べ物ではありません。
羊はそれを食べることができないのです。
なぜなら羊だからです。
しかし羊は、羊の食べ物を好みます。
ですから、神の群れを養うときには、
人が作った神学を与えてはいけません。
御言葉を与えなさい。
羊が成長するのは、そこからなのです。
御言葉を与えなさい。
羊飼いとなりなさい。
真の羊飼いとなりなさい。
「わたしの羊を養いなさい。」
小羊とは小さい者たち、
羊とは大人たちです。
ですから、若い者にも年長の者にも、
神の群れを養いなさい。
そしてそれを御言葉で養うのです。
御言葉こそ真理だからです。
イエスはこう言われました。
「人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。」
その通りでしょう。
ですから、人が生きるためには、
そして彼らが神の群れ、すなわち教会であるなら、
彼らは神の御言葉というマナによって養われなければなりません。
これが神のマナなのです。
40. イエスは隠されたマナです。
キリストは教会のマナなのです。
ではマナとは何でしょうか。
旧約聖書では、マナとは天から毎晩降って来て、
旅の途中にあるイスラエルの民を養うために与えられたものです。
その通りですね。
では新約聖書における隠されたマナとは何でしょうか。
「しばらくすると、世はもはやわたしを見ない。
しかし、あなたがたはわたしを見る。
わたしはあなたがたと共におり、あなたがたのうちにいて、世の終わりまで共にいるからである。」
キリストこそ、天から神によって与えられる隠されたマナなのです。
しかもそれは、毎日新しく与えられます。
私たちはこう言うことはできません。
「二週間前、私は神との素晴らしい体験をした。」
では今はどうでしょうか。
毎日です。
毎日、新しい祝福、
毎日、新しい恵みが、神から与えられます。
それが、天から降って来る隠されたマナ、
すなわちキリストなのです。
私たちはこのマナ、すなわちキリストをいただきながら、
旅を続けていきます。
そしてついに、
向こう側の国(約束の地)に到達するまで
キリストが私たちを支えてくださるのです。
41. もしこのことについて話し続けたら、他の質問に進めなくなってしまうでしょう。
これは私にとって本当に好きなテーマなのです。
キリストがマナであり、羊の食べ物であるという話をするのは、とても好きなのです。
羊には、御言葉の中のキリストを与えなさい。
ここに書かれているキリストの御言葉を、そのまま羊に与えるのです。
誰が何と言おうと関係ありません。
「羊にはハンバーガーが必要だ」などと言う人がいても、
そんなことを信じてはいけません。
羊に必要なのは、ここにあるものです。
これです。
これを与えなさい。
これが羊の食べ物です。
これが羊を成長させるのです。
聖霊は、この御言葉を通して働きます。
これは神の御言葉であり、神の命令です。
御言葉は種です。
種は植物を生み出します。
そして私たちはその植物を食べます。
同じように、御言葉が植えられると、そこから霊的な命が生まれます。
そして教会がその中で成長していきます。
聖霊はその教会の中で働き、喜ばれるのです。
なぜなら、人々が神の御言葉を信じ、
神が約束されたことを彼らの中で働かせているからです。
神がご自分の教会が成長しているのを見るとき、
つまり羊が養われているのを見るとき、
聖霊は栄光を受けられるのです。
それが「わたしの羊を養いなさい」ということです。
もしこれでまだ十分でなければ、
また後で知らせてください。
42. 「ブラナム兄弟、少し前に祈りの列を通ったとき、油注がれた手が私の上に置かれ、救われていない夫のために祈りがなされました。そのとき私は主の力によって倒れました。これは、夫が必ず救われるという確かな印なのでしょうか。」
さて、これはきっと女性からの質問でしょう。
姉妹よ、それが必ずご主人が救われるという確かな印だとは、私は思いません。
もちろん、私は神が…
ええ、私はご主人が救われると信じています。確かにそう信じています。
しかし、それをはっきりと
「これは主がこう言われる(Thus saith the Lord)」
と言えるかどうかとなると、慎重でなければなりません。
なぜなら、それはあなたがキリストの立場に立って祈ったことに対して、聖霊があなたを祝福してくださった可能性があるからです。
43. それは、異言を話していて、教会に通訳がいない場合と同じです。異言を解釈する人がいない限り、教会では話すべきではありません。しかし、異言を話していて通訳がいない場合は。..。 なぜ、あなた。..。 あなたが祈っている場所—家でもどこにいても—はいつでも話してください。なぜなら、未知の言語で話す人は自分自身を啓発するからです。それは彼に慰めを与えます、ほら。彼はそこに立って祈っているので気分が良いです。まず、聖霊が彼に臨み、彼らは異言を話し始めます。そして、彼らは異言を話していたので、彼らの魂は喜び、幸せでした。
それは、神があなたが祈っていた祈りに答えてくださるという単なるしるしではなく、聖霊があなたの声を聞いているというしるしでした。彼はあなたのことを知っており、あなたと一緒にいます。それは私がこれに適用するのと同じことであり、聖霊があなたに祝福を与えます。
44. そして私は祈っていましたが、心が重荷になりすぎて、そんな風に教会に行くことができませんでした。そして、ほら、通常、神は私にビジョンを与え、何かが起こることを示してくれることがありますが、そのとき神はそれをしませんでした。そして、私はそこの部屋でただ祈っていたのですが、誰かが話しているのが聞こえました。祈るのはやめた。聞いてみると、玄関に誰かがいました。彼らは。.. ドイツ語や低地オランダ語などの外国語のように聞こえました—とても速くて、おしゃべりでした。もう一度聞いて、こう思いました。“そうですね、誰かがそこに来て、ドイツ語でモーテルの男と話しています。たぶん彼は返事をしてくれるでしょう。”
そして私はただ祈るのをやめ、このように椅子にもたれかかりながら耳を傾け、そして椅子はただ話し続けました。私は思いました、“まあ、なぜ誰かが返事をしないのか不思議です。” そして私は耳を傾けました。私は思いました、“さて、それは奇妙ではありませんか。”
45. それで私はビリーと呼ばれる教会に行きました。そして教会に着いたとき。..。 当時、バクスター氏は会議のマネージャーでした。そして彼は。..歌って待っていました。30分以上遅れました。そして私は彼に、ただ遅れただけだと言いました。そして彼は私が泣いているのを見て、「“どうしたの?”」と言いました
46. そして道を渡ります。。。。 彼らは彼女に、少しでも腫れがあれば出血するだろう、それで終わりだと言った。そして彼女は出血しました。そして彼らは彼女を連れ出し、草地の上に置きました。そして聖徒たちはそこに立って女性のために祈っていました。そして彼女はただ。..。 彼女が呼吸するたびに、ゴボゴボと音がして、口から血が噴き出すんです。
そして突然、彼女はすぐに治りました!そして彼女はそこから飛び上がって喜び始めました、教会に来てください。そして彼女は後ろで証言していました。
私は言いました、“それは何時でしたか?” そして彼女が時間を割いてくれたとき、それはまさにその言葉が私を通して流れていた時間でした。さて、それは何でしたか?そこの女性のためにとりなしをしたのは聖霊でした!私の言いたいことがわかりますか?
47. そして女性はすぐに治りました。私たちはそれから長い間彼女から話を聞きました。彼女は完全に元気です、大丈夫です。
さて、神はそれらのものがどこにあるのかを知っており、それを実行する方法を持っていることがわかります。彼には独自のやり方がある。私たちは神の行いにただ服従しなければなりません。そして、そこに到達したときに難しいことは、狂信の小さな刃先から真実まで自分自身を守ることです。
さて、もしあなたが見なければ、悪魔はあなたを狂信の集団に投げ込み、あなたはすべての経験と他のすべてを失うでしょう、ほら、あなたがそうするとき。しかし、もしあなたが堅固な真理を守り、聖書を見て、それに従い、柔和で謙虚であり続けることができれば、もしあなたがそのまま留まるなら、神はあなたをカルバリーに向かって、そのように道を進み続けるでしょう。それ。
49. 彼はここで 2 つの質問があります。それは本当です。それは本当です。女性が牧師になって教会で話すのは正しくありません。そうです、コリント人への手紙第一、第 14 章です。
もちろん、ここにいる教会全員、皆さんもこれを知っています。そして、今朝ここにいるのは見知らぬ人かもしれません、わかりません。しかし、女性が奉仕するのは正しくありません。それは本当です。
ここで読んでみますので、わかります。そうすればわかるでしょう:コリント人への手紙第一、第 14 章、私は信じています。見つけられれば、すぐに手に入れます。。。。 はい、ここにあります。
あなたの女性たちは教会で沈黙を保ちましょう。なぜなら、彼女たちが話すことは許されないからです。しかし、律法にもあるように、彼女たちは従順に従うように命じられています。[当時、法律では女性司祭などは認められていませんでした。参照]
そして、もし彼らが何かを学ぶなら、家で夫に尋ねさせてください。女性が教会で話すのは残念だからです。
50. さて、彼らは異言を話し始め、彼らの間で素晴らしい贈り物を手に入れた後、彼に手紙を書きました。そうですね、これらの女性たちは宣教を続けるべきだと考えていました。
51. 何だって?神の言葉があなたから来ましたか?そしてあなただけから来たのですか?
もし誰かが自分を預言者、あるいは霊的だと考えているなら、私があなたに書いたことは主の戒めであることを認めさせてください。
しかし、もし彼が無知であるなら、ただ無知にさせてください。
さて、そうでなければ、女性たちです。。。。 さて、この手紙の歴史を考えてみると、教会の女性たちは、自分たちが女神ディアナの司祭であったのと同じように、宣教を続けるべきだと考えていました。God is not a woman; God is a man。神は女性ではない;神は男性である。そして、実際にはたった一人、それは男性です。女性は男性の副産物です。男は女のために作られたのではなく、女は男のために作られたのです。精神的な理解を開くことができれば、見てください。
52. 彼女は統治者になるべきではなかった!彼女がそれを始めたとき、彼女は人類全体の滅亡を引き起こしました。ああ、それもそうでした。。。。 彼女が転倒の原因だった。そして神は彼女を連れて行き、女性によってキリストを通して命をこの世に戻しました。しかし、教会では女性が牧師になることを許された場所はどこにもありませんでした。
53. さて、私は本物の説教者だった女性たちを何人か見たことがあると知っています。エイミー・マクファーソンやそこにいる多くの女性たちのように、彼らも説教することができました—。でも、少しの間これに手を置いてください、ほら。今朝、この教会に座って異言を話せる人を私は知っています。通訳がいなかったら、あえてそうしないでしょう、ほら。
女性は特定の血統のもとに生まれたということを忘れてはなりません。あなたの誕生はそれと大きく関係しています。それは。…..あなたの名前、あなたのすべて、それが何であれ、それにメイクが施されています。
54. 彼らが書き留めて言ったとき、“なぜ、聖霊は私たちに言いました!” ポールは言いました、“何ですか?あなたから神の言葉が出てきましたか?そしてそれはあなただけから来たのですか?もしあなた方全員の中に。…..もしあそこに預言者がいるなら、彼らは私の言うことが主の戒めであることを認めるでしょう、見てください。[そうです!] しかし、もし反対したい、無知になりたいということを示す人がいるなら、ただ無知にさせてください、見てください。彼を放っておいて、放っておいてください。それに反することはしないでください。” しかし、覚えておいてください、彼女は教会で話すべきではありません。
55. それが、私が人々にイエス・キリストの名において再びバプテスマを受けるよう命じる理由です。パウロはそうして言いました。「“もし天から天使が来て、他のことを教えたら、その人は呪われなさい。」” そして、これはここでもすでに教えられていることです。もし誰かが来たら。..。 もし天使が天から来て、「“女たちは説教し、説教者となり、奉仕者に定めなさい」と言ったら、聖書は「”彼を呪わせなさい」と言いました。“ これがここでの主の戒めです。
56. いいえ 先生!いや、確かに!いいえ 先生!兄弟よ、あなたは一人の女性にキスをします。それはあなたの妻、あるいはあなたの子供です。
“それは正しいですか。.. 。” それが正しいかどうか見てみましょう!“クリスチャンの男女が挨拶でキスをするのは正しいことでしょうか?”
いいえ 先生!いや、確かに!それを決して始めないでください!はい 先生!いいえ 先生!あなたは女性から遠ざけてください!彼らから離れてください!まさにその通りです!
さて、彼らは私たちの姉妹ですが、… 。今、彼らはそれを持っています。それはペンテコステでも起こりました、そしてそれは“自由愛と呼ばれています。” そして、そのようなものを受け取ったら、そこから遠ざかります。そうだ!
あなたがどれだけ清潔であっても構いません。あなたは私の兄弟です、そして私はあなたが善良で神聖で聖なる人かもしれないと信じています。あなたがどれほど神聖であるかは気にしません、あなたはまだ男です。そして、彼女がどれほど神聖であるかは気にしません、彼女はまだ女性です。結婚するまではそこから離れてください。あなたはただそれをするだけです!
57. 男性も女性も、人間はそれぞれ異なる種類の腺を持っています。メスにはメス腺、性腺があります。男性には男性腺、性腺があります。そしてそれらの腺は人間の唇にありました。そうだね。
そして、ここで別のことが取り上げられるかもしれません、男性たちが口の中でキスをし合っています。汚いぞ!それは汚物だ!そしてそれは何をするのでしょうか?同性愛者が始まります。そこから離れて!あなたは言います。..。
58. 今では、私たちはお互いに握手しています。もしそうしたいなら。..。 兄に腕を回して首にキスしたり、兄があなたの首にキスをしたりしても大丈夫です。でも、あの女性にキスしないでください、そしてあの女性にキスさせないでください、ほら。そうだ!あなたは彼女の手を取って、こう言います、“ちょっと待ってください、お姉さん、ここでちょっと待ってください、ほら。これをはっきりさせましょう!” それで、今あなたはそれをします。
59. 男らしく、女らしく。女性たちのために少し時間をとります。それは珍しいことですよね?彼らは言います、“ああ、女性がそれを引き起こしました!ああ、それは女性のせいだった。もし彼女が自分の場所から逃げていなかったら、まあ、その男は自分の場所から逃げられなかったでしょう。” それは本当です。そうだと言います。彼女は自分の場所から出て行きます。悪い女性がいない限り、男性は悪い人になることはできません。しかし、悪い男性でなければ悪い女性は存在できないことを忘れないでください。そうだ!
60. そして、大崩壊は最初から始まったのです。それはイブと一緒にいたサタンでした。それが人類の没落をもたらしたのです。
そして、もしあなたが神の子なら、強くなり、本物の人間になりましょう。そうでない場合は、そうなるまで祭壇に留まってください。そして悪の姿そのものを避けなさい。そして、今は挨拶を始めないでください。。。。
61. 女性、若い女性、近づいてきて、男性が女性にキスをしています。そんなことしないで!あなたはそこから遠ざかります。それを覚えてるだろ!彼女が若かったり、独身だったり、あるいは何であれ、いつか誰かの妻になるでしょう。そして、あなたにはそんなことをする仕事はありません。彼女から離れてください。彼女に挨拶したいなら、神の子になって、握手してこう言いなさい。“どうしますか、姉さん。” そして、それをそこで解決させてください、ほら。
それらのことから離れてください。それは汚物であり、すぐにあなたをトラブルに巻き込むでしょう。あなたはただ。..ああ、それはただ。..。 罪はとても簡単です。とても食欲をそそり、とても心地よく、すぐに夢中になれるほどです。最善の方法は、その非常に均一な外観、それから離れることです!戻れ!本物のクリスチャンになれ!
62. 兄に会いたいなら、首にキスしたいなら、どうぞやってください。でも、口の中で人にキスしないでください。それはうまくいきません。それは正しくない!そしてそれは倒錯を始めるだけです。それは同性愛者や物事から始まります。
そして、その中でそのようなことを行うことは 2 つだけです。始めるなら。..。 男にさせてください。..。 ああ、人々の中で彼らが降りてくるのを何度も見てきました。.. 。私は教会を見てきましたが、説教者が入ってきて、妹全員に手を伸ばして掴み、抱きしめ、キスをし、降ろしました。“お姉さん、調子はどうですか?ハレルヤ!” 手を伸ばしてこれを手に入れて彼女にキスしてください。そんな感じで教会を通り抜けてください。私にとってそれは間違っています!
63. それで、彼らは私たちをフィンランドのサウナに連れて行ってくれると言い、私たちはYMCAに行きました。そして私たちはサウナに行くためにそこへ行きました。それはあのフィンランドの有名なフィンランド風呂です。以前にも食べたことがありますが、美味しかったです。“まあ、YMCAに行くから大丈夫だろうな、と思いました。”
しかし、私があそこから始めたとき、聖霊は私にこう言いました。“やらないでください。” ああ、聖霊を持つことはとても良いことです!“やらないで。”
そうですね、私は。..ちょうどそのとき、私は言いました、“今朝はお風呂に入りたいとは思えません。”
博士。ムニオンと彼らは言いました、“ああ、ブランハム兄弟、” 言いました、“私の、大きなガラスの部屋がいくつかあります、” そして言いました、“それは美しいです。” 言った、“そうではありません。。。。”
64. そうですね、ハワード、私の兄弟、バクスター兄弟、そして全員がそこに行きます、そして兄弟。..残りの全員、ご存知のように、全員が話しています、ご存知のように、上がります。それで、聖霊が「“やめなさい」と言われたので、私はちょっと不安になりました。”
65. “ああ、” 彼は言いました、“あのスクラブ女たち、ブラナム兄弟。”
私は言いました、“彼らが何であるかは気にしません。間違ってる。それは正しくありません。” 私は言いました、“そして自然そのものがあなたに教えてくれます。”
彼は言いました。“そうですね、ブランハム兄弟、彼らはアメリカの看護師と同じように、子供からスクラブまで育てられています。そういうことです。”
私は言いました、“彼らが何であるかは気にしません;それはまだ間違っています。絶対に。それは男性と女性であり、彼らは分離され、互いに服を着なければなりません。” アーメン。
そこから始めたくないのですが、しばらくすると説教することになりますよね?よし。
66. それは一つの質問です。質問は1つ、2つ、3つあります。使徒信仰とは“使徒たちの信仰を意味します。” それが使徒信仰の意味であり、聖書に留まるということです。さて、今日使徒信仰と呼ばれているものの多くは聖書に留まりません。しかし、使徒的とは—使徒的信仰、聖書の使徒的信仰を意味します。よし。
67. さて、分かりません。ほら、それにどう答えればいいのか分かりません。さて、“これらのグループは保存されていますか?” 知らんよ。
精神と。..の違いを説明してください。
まあ、それは今は別の質問です。
この2 つのグループは救われているのか?さて、分かりません。ほら、それにどう答えればいいのか分かりません。さて、これらのグループは救われていますか?知らんよ。御霊の違いを説明してください。。。。 それは今別の質問です。この2 つのグループは救われているのか?それをもう少し賢明にして、私には分からないと言わせてください。知らないだろう。さて、覚えておいてください、これが私の考えです。間違っているかもしれない。私の考えは、ローマカトリック教徒であろうと、メソジスト派であろうと、長老派教会であろうと、キリスト教会であろうと、ルーテル派であろうと、主イエス・キリストを信じ、その救いのために厳粛に信頼するなら、私は彼が救われたと信じているということです。
しかし、ご存知のとおり、ローマカトリック教会はそんなことはしません。彼らは教会が自分たちを救ってくれると信じています。彼らの救いは教会にあります。この司祭が、他に救いはない、キリスト[テープの切れ目]だけだと言ったために、少し前にここで放送を先延ばしにされたように、そうです。教会によってではなく、キリストによって。
さて、これらの使徒や原理主義者が今、自らをそう呼んでいるとしたら。..。
68. 私は言いました。“そうですね、カルヴァンが聖書に載っている限り、私は彼と一緒にいます。” 私は言いました。“私はただ聖書に従うだけです。カルヴァンが聖書に留まるなら、しかし彼が聖書から離脱するなら、私はただ聖書を信じて、ただ進んでいきます。”
彼は言いました、“そうですね” 彼は言いました、“あなたに何か言いたいことがあります。あなたは、一度救われた人は決して失われることはない、と言ったのを聞いたことがあります。”
私は言いました、“それはまさに聖書に書かれていることです:「彼は永遠の命を持っており、決して非難や裁きを受けることはありませんが、すでに死から命に移っています。」 ” 私は言いました、 “それは私が言ったことではありません。それはイエス・キリストが言ったことです。”
彼は言いました。“それでは、あなたに聞きたいことがあります。” 言った、“サウルが救われたと信じますか?”
私は言いました、“サウル、サウル王?”
彼は言いました、“はい。”
“なぜ、” 私は言いました、“確かに。”
彼は言いました。“覚えておいてください、彼は預言者でした。”
私は言いました、“そうです、聖書には彼が預言者たちと預言したと書かれています。彼には預言の才能があった。彼は預言者ではありませんでしたが、預言者たちが預言していたとき、彼は預言者たちと一緒にそこにいたので、預言の賜物を持っていました。しかし、サムエルがその日に預言者であったことは分かっています。しかしサウルは預言者たちとともに預言していました。”
彼は言った、「“それでは、もし彼が預言者だったら、彼は救われたのでしょうか?”」
私は言いました、“もちろんです!”
彼は言いました。“では、あなたに聞きたいことがあります。” 言った、“ちょっと聞きたいことがある。” 言った、“そして、あなたはサウルが救われたと言い、聖書は主が彼から離れ、彼は神の敵となり、自殺し、そして救われたと言ったと言いましたか?”
69. 彼は言いました。“まあ、サウルは神の敵になっても救われません。”
私は言いました、“サウルは救われました。”
“ああ!” 彼は言った。..。
私は言いました、“彼は預言者でした、彼は救われなければなりませんでした、ほら。神は彼を救った。そして、私たちが言うところの神はインドからの援助者ではない。彼はしません。..。 まあ、もし神がここであなたを失うことを知ってあなたに聖霊を与えるなら、そもそも神があなたに聖霊を与えるのはなんと愚かなことでしょう。”
70. 一度。…..本当に聖霊を持っているなら、あなたは永遠に救われます。私は聖書を通してそれを証明することができますし、私たちも何度も証明してきました。しかし、これらの質問を受ける時間を節約するために、私はこう言うかもしれません。この男は言いました、“では、ソールについて何と言いますか?”
私は言いました、“確かに、サウルは救われました。” 私は言いました、“覚えておいてください、ソールは後退しました。それは認めるわ。彼は貪欲だったので、後退して神から離れました。彼はお金が好きだった。” サムエルが神の言葉を通してすべてを滅ぼすように言ったとき、彼はそれらすべての犠牲や物を持ち出しました。しかし、彼は王を救い、多くのものを救い、それを取り上げました。。。。 ほら、神の言葉に書かれているとおりに従うのではなく、そこに自分の意見を入れるのです。後退する場所があります。“
宗派や物事について私はそう思います。彼らは御言葉に従わないので後退します。そして、あなたは彼らに御言葉を見せます、彼らはそれから背を向けます、たとえば、“そうですね、私たちの教会はこれを教えています。” それは正しくありません; それは神が言うことです!
71. そしてサミュエルは死んだ。そして約2年後、ソールはそれを手に入れました。。。。 神の霊は彼から去りましたが、彼は失われませんでした。確かに、彼はそうではありませんでした。彼から油注ぎが消えた。さあ、見て、今だったかどうかを確認してください。
サウルは戦いに行くまで神から遠く離れていました。。。。 彼は戦い始めた。そして彼は戦いに行くことを心配し、主に夢を求めました。主は彼に夢を与えませんでした。その日、この地には預言者はいませんでしたし、預言者もいませんでした。サムエルは預言者でした。彼らには預言者がいたなど、しかし彼は神から答えを得ることができませんでした。彼はウリム・トンミムまで行ってそこで尋ねました。そして、ウリム・トンミムに降りかかった稲妻の閃光は彼にさえ答えませんでした。そして彼は何をしたのでしょうか?彼は魔女と占い師がいる洞窟に這い出て行った。そしてこの魔女。..。 彼は従者のように変装してそこに行き、こう言いました。“預言者サムエルの霊を私に神としてくださいませんか?”
そして彼女は言いました。“さて、サウルが何を言ったかはご存じでしょう。”(彼女はソールと話していましたが、知りませんでした。) 言った、“ソールは、慣れ親しんだ霊がいるものはすべて殺さなければならないと言いました。”
彼は言った、「“私はあなたをサウルから守りますが、サムエルの霊を私に神聖にしてください。」”
そこで魔女は魔法にかけられ、まずサムエルが立ち上がるのを見たとき、彼の霊が彼らの前に現れて、こう言いました。“神々が地上から昇るのが見えます。”
72. 彼女は言いました、“あなたは私を騙しました。”
そこでサウルは言った、「“サムエル、どうすればいいのか分かりません」。明日は戦うつもりですが、聖霊は私から去ってしまいました。” 彼は言いました、「“主から夢さえ見ることができません、そしてウリム・トンミムは私に話しかけてくれません。」。ひどい状態です。”
彼は言った、“あなたが神の敵になったのを見て、”言った、“なぜあなたは私を休息から呼び出したのですか?” サミュエルはそう言った。言った、“あなたが神の敵になったのを見て、なぜ私の休息から私に電話したのですか?” そして彼は先に進んで彼に言いました。彼は言った。..。 しかし、彼は主の言葉を彼に話しました。そして彼がそうしたとき。..。 覚えておいてください、彼は亡くなって2年経っていました、ほら。しかし彼は言いました、“言っておきます。.. ..” 彼は彼に主の言葉を語った。言った、「“明日、あなたは戦いで倒れるでしょう、そしてあなたの息子ジョナサンもあなたと一緒に倒れるでしょう。」 そして、” 彼は言いました、“明日の夜のこの時までに、あなたは私と一緒にいます。” もし彼が失われたなら、預言者サムエルも失われたでしょう。それが原理主義です—なぜそう呼ばれるのかがわかります。彼は言いました、「“明日の夜、この時までにあなたは私と一緒にいます、”ほら」。そして、サウルが失われたなら、サムエルも失われたでしょう。なぜなら、彼らは両方とも同じ場所にいたからです。
74. まあ、それは難しいことです。しかし、まず第一に、あなたは父、子、聖霊と同じように三位一体の存在です。父、子、聖霊は、イエス・キリストという一人の人に与えられる 3 つの称号です。そして、あなたは魂、体、精神ですが、あなたを作るにはその3つが必要です。そのうちの 1 つだけで、あなたはあなたではありません。あなたを作るには3人が必要です。
先日言ったように、“これは私の手、これは私の指、これは私の鼻、これは私の目ですが、私は誰ですか?” これが属する私は誰ですか?それは私の内側にあるものです—それが知性です。
もしこの目、この手、この体が今日と同じようにここに立っていたら、私はできるのに。。。。 私の体はここにあるかもしれないが、私はもういないかもしれない、私が何者であるか。私の中にいる人は誰でも続けてきました。それが精神の部分です。魂はその霊の性質であり、聖霊があなたに臨むとき、それは何もしません。。。。 それはあなたの精神を変えたり、別の魂に変換したりします。そして、その魂はその精神にある別の性質です。つまり、魂はあなたの精神の性質なのです。
最初は意地悪で、邪悪で、憎しみで、悪意で、争いでした。今ではあなたは愛情深く、優しく、親切です。違いが見えますか?それはあなたの性質です。私はそれをそう呼んでいます。変わったのはあなたの魂です。古い魂は死に、新しい魂、つまり新しい性質があなたの中に生まれました。
75. さて、少し遅れてきたので急がなければなりません。さて、これで解決することを願っています。
77. そして今、それが一つになったとき、やるべきことは、これらの才能ある人々が特定の時間に自分たちのために集まり、御霊が彼らに何を言っているかを見なければならないということです。そしてプラットフォームから配布することもできます。そして人々。..。 それは教会の啓発のためです。
78. 私は壇上に座って、説教者の説教を聞き、彼がその場所に着くのを見ました。。。。 ああ、立ち上がって彼を助けたかったので、どうしたらいいのか分かりませんでした。そして、あなたも同じことをしました—私たち全員がそうしています。でも 何なんだよ?それは不遜だ。座る。兄貴をよろしく。
79. でも、もし女性がいたら私は信じます。。。。 問題は、その女性が異言の才能を持っていて、話したいかどうかでした。その時が来たら、彼女には異言の賜物で声を上げる権利があると私は信じています。しかし、説教したり、人間に対する権威を奪ったりすることはできません。彼女が説教者であるとき、もちろん彼女は男性を超えています。
80. さて、兄さん、これがあなたにできる唯一の方法です。さて、これは素晴らしいテーマであり、いつか私はそうしたいと思っています—もし教会が組織され、本来あるべき場所にまっすぐにされるとしたら、あるいは。.. 。。 敬意を持って言います。教会には結婚と離婚の二つの派閥があり、一方が一つの派閥を持ち、もう一方がもう一方の派閥を持っています。そして私の意見では、神とその聖書の前で心に恵みがあるのですが、どちらも間違っています。しかし、そこには真実があります。
81. イエスはマタイ 5 章でこう言っています。“妻を捨てて他の人と結婚し、淫行の原因(結婚前にそうしなければならなかったが、そのことを彼に話さなかった)を救う者は、彼女に姦淫を犯させる。彼女と結婚して捨てられた者は姦淫の中で生きる。” だからそんなことしないで。いいえ、最初の妻が再び結婚した場合、その妻のところに戻ることはできません。でも、もし彼女があなたと離婚してあなたを遠ざけてしまったら。..。
82. いいえ 先生!レビの法則に従ってください。あの女性のところに戻ってください、彼女は他人の所有物です。あなたはこれまで以上に汚し、自分の状況を悪化させてきました。いいえ、他の人と結婚した妻を連れ戻すべきではありません。
さて、“以前に結婚した彼女に頼ってもいいですか、それとも自由になるべきですか?” あなたは自由です!自由でいて!そうだ、もう戻らないでね。いいえ 先生!彼女は他の人と結婚しています;彼女から離れてください。そうだ!それは汚れます。。。。。 分かってるだろ。もう少し時間があれば、それに入ります。でも、あなたの質問のために、兄弟、あなたが誰であろうと。いいえ 先生!あなたと結婚してから2、3回結婚しているあの女性を連れ戻さないでください。それは間違っています。
84. そうですね、そうでないとしても、十字架はすべて同じだと思います。。。。 それを調べたほうがいいよ。しかし、それはIRNIを持っています。つまり“ユダヤ人の王、ナザレのイエス”を参照してください。もしそうなら、彼らが他に特別なものか何かを持っているとは知りませんでした。しかし、それらの文字は“ユダヤ人の王、ナザレのイエス”を意味します IRNI、それが十字架にあるものです。よし。
85. さて、ここで教会にとってちょっとした感動的なことを紹介します。いいえ、正しくは十分の一税は大臣に渡されるということです。そうだ!聖書には、旧約聖書で建物のドアに箱が置かれていました。この箱は人々が修理のためにそこに入れた基金でした。… あなたは旧約聖書の中で何度もそれを読んだことがあります。彼らは建物などを維持しました。。。。 建物の修理はすべてその基金から賄われました。しかし、その十分の一—十分の一の十分の一—は、すべての十分の一が祭司や牧師の手に渡りました。はい、十分の一税は他に何の役にも立ちません。
人々が十分の一税を取って未亡人の女性に渡すのを私は知っています。それは間違っています。未亡人の女性に何か与えるものがあるなら、彼女に与えてください。しかし、彼女にお金のお金は与えないでください。そもそもそれはあなたのものではありません—それは神のものです。
86. 10番目は、神の祝福の約束と証拠を持って倉庫に持ち込まれる十分の一献金です。彼は言いました、「“信じられないなら、来て私を証明して、私がやらないかどうか見てください”」。そうだね。
十分の一税は牧師のために教会に納められ、そのようにして生き続けます。そして、建築基金などはまったく別の基金です。さて、それは聖書的なことです。
ある時、話を始めたら、一晩過ごしたいことがあります。。。。 私は少し前、幕屋を出る前にここに行き、そのようなテーマについて約2、3週間かけて、それを徹底的に調べて、教会にある十分の一税が何であるかを示しました。
87. いいえ 先生。あなたはどこにいてもクリスチャンです。あなたがどこにいるかは気にしません、あなたはまだクリスチャンです。
88. さて、私は信じません。..。。 継続性を実現できるかどうか見てみましょう。“どのように感じるかが最善の方法です [なるほど。そこはコンマであるべきだと思います。] 。。。いくつかの重要な事柄において主の御心を見つける最善の方法は何だと思いますか?”
親愛なる友人よ、いくつかの重要な事柄において神の御心を見つける最善の方法は祈りです、ほら。
さて、させてください。。。。 ここに素晴らしい小さなものがあります。非常に重要な問題がある場合は、ここで私のやり方を示します。私はそれを主の前に受け取ります、そしてそれは常に私の力でした。私は主を待ち、主が何を言われるかを見ます。そして私はただ中立を保ち、どちらの側にも立たずにこう言います。“さあ、天の父よ、それはできます。”
89. それで、もし私があなたの立場にいて、主の前に幻を見ていなかったら、私はただ主を待ちながらこう言うでしょう、“主よ、今、あなたは私に何を決断すべきかを示してくださいます。” そして、あなたが感じていることがそれを行うきっかけとなり、少しだけ待ってください。それからもう少し待って、御霊がどちらに、どちら側に傾くか、どちらに傾くかを見てください。。。。 言ってください、“さて、父よ、私の心の中ではそれは問題ではないことはわかっていますが、私はあなたがそれについて何をしたいのか知りたいのです。”
会議に関しては時々そうしています。私は、ある種、このように、あるいはあっちへ導かれたように感じ、そしてあっちへ進んでいきます。それがやり方です。なぜなら、それは祈りの中にあるからです。できる限りのことをしています。
91. まあ、眠っている処女はもちろん救われます。彼女は判決で救われるだろう。彼女は決して花嫁にはなりませんが、裁きを受ける救われた人々のグループであり、花嫁には含まれません。しかし、彼らが処女である限り、彼らは神の前にいます、見てください。彼らは救われるべきです。彼は別れる。..。 彼らは神の右側の羊となり、救われない者は偉大な白い玉座の裁きで神の左側のヤギとなる。
それには多くの時間を費やすこともできますが、少し遅くなりました。
92. ああ、そう!はい 先生!そう、聖霊に満ちた人。..。。 あなたはまさにこれらのものに追い回される場所にいます。あなたはただ自分自身にターゲットを設定するだけです。あなたがそこで悪魔に仕えているとき、悪魔はあなたが望むように前かがみになることを許しますが、一度キリストのために立ち上がると、あなたは反対側にいます。彼はあなたの周りにあらゆる銃を訓練します。あらゆる誘惑、あなたに投げかけられるすべてのもの、そしてあなたはそれを手に入れました。でも、何を持ってるの?“あなたの中にある神は、世にある神よりも偉大です。” ほら。
さて、あなたはここで戦っているのではなく、ただ滑っていただけです、ほら。しかし今、あなたは片付け、ドレスアップし、髭を剃り、髪をとかし、制服を着て、手に銃を持っています。“行くぞ!” ほら?あなたは見せびらかすためではなく、戦うために戦っているのです、戦ってください!確かに、誘惑が立ち上がるとき、聖霊—信仰の盾を持って、身をかがめて先に進んでください。そうだね。ああ、神の武具をすべて置いてください。戦わないならなぜ鎧を着るのですか?兵士は皆、戦うための服装をしています。見せびらかしたり、出て行って「“私は誰々です」と言ったりしないでください。さて、私はクリスチャンです。私が誰であるかわかりますか?私は誰々に属しています。ハレルヤ!先日の夜、聖霊を受けました。確かに、もう何も気になりません。” うーん!ああ、兄弟、戻ってもう一度試してみたほうがいいと思います、ほら。
94. 見てみましょう、マタイ 16:10。今はあまり確信が持てません。マタイ 16:9 と 10—16:9 と 10 のところを見てみましょう。ここにいる。
あなたは。.. 理解できませんか、5 つのパンも 5,000 個も覚えていませんか、そして何個のバスケットを取りましたか?
7斤でも4000斤でもなく、何個の籠を取りましたか?
さあ 見て。この前に少しだけ考えてみましょう。
そこでイエスは彼らに言われた、「パリサイ人とサドカイ人のパン種に気をつけなさい」。
そして彼らは彼らの間で推論して言った、「それは私たちがパンを取っていないからでしょうか」。
イエス [さあ見て!] イエスはそれを認識したとき[彼らの考えを捉えたのです]、彼らに言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜあなたがたはパンを持ってこなかったのに、あなたがたの間で理性を働かせるのですか。」?
あなたは。.. 理解できませんか、5 つのパンと 5,000 個も覚えていませんか、それとも何個のバスケットを取り上げたか覚えていませんか?
95. 彼らが紅海を渡ったときのように、神はそのように道を開き、紅海をそのように開いて、そこを歩きました。彼はすぐ反対側に来て、水がなくなるとすぐに彼らはつぶやき始めました。そうか?彼らはパンがなくなるとすぐに叫び始めました、“私たちにはパンがありません、”ほら。言った、“紅海での奇跡について考えませんでしたか?降りてこなかったのか。..?” 彼ら全員が紅海のそばの場所に入ったとき、“ああ、”彼らは言いました、“私たちは死ぬべきでした。エジプト人が今、私たちに襲い掛かっています。ここです、どうするつもりですか?”
言った、“誰がそこで疫病で地球を打ちましたか?ゴシェンで太陽を輝かせ続けたのは誰ですか?” ほら?私たちはそれらのことを覚えておかなければなりません、神は神であることを忘れないでください!ハレルヤ!いずれにしても、彼は依然として神です。彼は確かに何でもできる。
96. いいえ。さて、まずこれを理解できるかどうか見てみましょう、コリント人への手紙第一、すぐに、コリント人への手紙第一、第 12 章、わかりました、そして 27 節です。
そしてあなたがたはキリストの体であり、特に会員です。
そして、次の聖句はどこにあったのでしょうか?黙示録 21:9、黙示録第 21 章と第 9 節。はい、来ました。
すると、最後の七つの災いが詰まった七つの小瓶を持った七人の天使の一人が私のところに来て、私と話して言った、「ここに来なさい。そうすれば、小羊の妻である花嫁を見せてあげます」。
97. さて、キリストの体はイエスの体から取り出されました。私たちはイエスの霊であり、肉であり、骨だからです。なぜなら、私たちは神の体に生まれてくるからです。そして、ここにあるこの体は神のものですが、罪の中で生まれたものであるため、神はそれを贖ってくださいました。神は終わりの日にそれをよみがえらせ、私は永遠にその中で生きるでしょう、ほら。それじゃ。よし。
99. 質問: “聖書には、主を愛する人々にとって、すべては善のために働くと書かれています。では、もしあなたが神を愛し、この世に戻るなら、神はあなたを罪の中で死なせるでしょうか、それとも神があなたを連れ去る前に神と和解させるでしょうか?”
その女性はそれに自分の名前を署名したので、それは女性だったと思います、ほら、彼女は自分の名前に署名したからです。はい、姉さん。生まれたら。..。 さて、これを理解させてください。一時的に、マイナーなことですが、私たち全員が 1 日に何度も後退します。私たちはそれを知っています。私たちは皆有罪です、私たち一人一人、私たちの誰も完璧ではありません。そして、私たちがこの体の中にいる限り、私たちはまだです。。。。 人々がどれだけ伝えようとしても、“私は聖別されているので、この女性にキスしたり、そうしたりすることができます”彼は嘘をついています。彼はできない。さて、それだけです。
私はこう言おうとはしません。“主よ、私がどれだけ近づけるか見てみましょう。” それは、“主よ、私をできるだけ遠ざけてください、”ほら。できるだけ遠くにいてください。。。。 覚えておいてください、あなたはまだ人間です、ほら。
100. そして、もしあなたが何か悪いことをしたとしても、それはあなたを非難するものではなく、あなたはそのように続けます、覚えておいてください、あなたは最初は救われませんでした。そうだね。あなたは救われなかった。あなたはただ空想しただけで、救われなかったのです。しかし、救われると、あなたは別の精神を持つようになります。あなたは別の性質であり、キリストにある新しい生き物です。そして古いものは過ぎ去り、死んで物忘れの海に埋もれてしまいました。分かりますか?
しかし、あなたがこの世界に住んでいるということは、どこにでも罠が仕掛けられており、あなたはキリストに目を向けて歩いているということです。そして、間違いを犯したとき、本物のクリスチャンは必ずすぐに和解のために戻ってくるということを忘れないでください。
101. さて、しかし彼が鳩を追い出したとき、彼女が降り始めたとき、ふぅ、彼女はそれに耐えられませんでした。彼女はどこにも行くことができず、足の裏を休めることもできなかったので、箱舟に戻りました。そして、それが現状です。
102. どこへ行く、何をしますか?クリスチャンじゃなかったらどうするか教えて!もし私がクリスチャンでなかったら今朝どうするか教えてください。今朝は何ができるでしょうか?そして、母は病院でその状態で意識を失って横たわっており、私の心の中では説教壇に立って説教し、自分の道を進むことができましたが、私はそうではないようです。あまり注意を払っていません。母が救われたことを知っているからです、ほら。彼女が救われたことは知っている。誰を信じたか分かってる。私は、私がその日に対して神に誓ったことを神が守ってくださると確信しています。
103. 先日、私たちが彼女をそこに置いたとき。..彼女をそこに連れて行き、ブドウ糖を与えました。..。 彼女の体内にあるのはブドウ糖だけです。彼女は飲み込むことができず、麻痺しています。そして彼女は言いました。“ビリー、あなたに知ってほしいことが一つあります。” 彼女は私とデロレスがそこに立っていること、彼女の子供たちや物、そして私の兄弟数人が酒を飲んでいることについて話しました。
そして私は言いました、“そうですね、彼らはあなたの心を傷つけました。”
彼女は言いました。“でも、ビリー、母親にとっては、すべてがうまくいくのよ。” 彼女は言いました、“でも私は救われました。” そして彼女は言いました、“私は行く準備ができています。”
私は言いました、「“ママ、あなたはジェファーソンビルからユティカまで届く家、宮殿を私たちに残してくれたかもしれません。」 あなたがいなくなった後、あなたは私たちに1,000万ドルを残して大騒ぎし、争ったかもしれません—それが起こるすべてです。でもママ、あなたは私たちに、誰も残すことのできない最大の宝物、川の向こうのあの土地でまた会えるという確信を残してくださいます。” そうだ ほら。
104. さて、今日ここに出ると、誰かがあなたのところに来て、「“ねえ、彼らはあなたが聖なるローラーの一人だと言っています」と言ったとします
すぐにサタンは言います、“彼を平手打ちしてください!”
“聖なるローラーであるかどうかは分かりません。私はクリスチャンです。” ほら?そして常に悪とともに、善とともに悪と出会いなさい。そして覚えておいてください、今、これを受け入れてください、これを覚えておいてください。善と悪に出会うとき、悪は善の存在に耐えることができません。それはできません。
105. 聞いてください、夜がどれほど暗いかは気にしません。感じるまではとても暗いかもしれません。このように手を上げても、どんな種類の影も見えませんでした。少しでも光が当たれば、その暗闇は露出します。確かに。それが死の存在下での人生のやり方です。それが、間違ったことがあれば正しいことが行う方法です。それが、疑いがあるときの信仰のやり方です。散乱させてしまうのです。
107. 私たちは神の恵みによる光の子です。ですから、光が点滅したとき、私たちは神に感謝し、目を開けて歩き、自然な目では見えないものを見ます。なぜなら、信仰は望まれるものの本質であり、見られないものの証拠だからです。アーメン!それが大好きだ。
108. 主を愛する人は何人いますか?アーメン!さて、これらの質問の後、それらのいくつかは鋭く、すべてが揃っており、おそらく答えられるでしょう。。。。 聖書を調べる時間がなかったので、おそらく私はそれについて正しい仕事をさえしなかったのでしょう。もしそうなら、新聞に書いてもらっていただろう。皆さんが満足してくれることを願っています。そうでない場合は、もう一度私に書き直してください。完全に答えられなかったと思われる場合は、勉強する時間を与えてください。
109. 私は彼を愛しています、私は彼を愛しています、
なぜなら、彼は最初に私を愛していたからです
そして私の救いを購入しました
カルバリーの木に。
さて、私たちが再び歌うときは、今、あなたの周りの誰かと握手してほしいのです。
私は彼を愛しています、私は彼を愛しています、
なぜなら、彼は最初に私を愛していたからです
そして私の救いを購入しました
カルバリーの木に。
さあ、このように手を上げて目を閉じましょう。
私は彼を愛しています、私は彼を愛しています、
なぜなら、彼は最初に私を愛していたからです
そして私の救いを購入しました
カルバリーの木に。
110. 今朝私たちが崇拝しているこの古い建物は、どれだけ直してもいつかは落ちてしまいますが、その建物に住んでいる神は永遠です。私たちは今、感謝と賛美を捧げるためにあなたと向き合うために来ています、父よ。
そして、人々の心にあるこれらの質問に対して、彼らはこれをすべきかあれをすべきか疑問に思っていたことがわかります。そして、父よ、私は、すべての優しいクリスチャンの心の中で、その答えは何が真実であるかを理解させる何らかの方法であったと信じています。許してください、主よ。そしてもし私が失敗したなら、許してください。失敗するつもりはなかったんです。なぜなら、それはあなたの子供たちであり、彼らはそのような質問をしているからです。そして、父よ、私が知っていることをすべて彼らに伝えたいのです。まるであなたがここに立って、私の言ったことで私を判断していたかのように。
111. そして私たちは神の言葉を聞きます、“私が子供たちのパンを取り出して犬に与えるのはふさわしくありません。”
ああ、神様、どうやら彼女を犬と呼ぶことだけでなく、なんときっぱりと拒否しているのでしょう。しかし、彼女はそれについて傲慢になる代わりに、とても優しく謙虚にこう言いました。“主よ、それは本当です。” 真実だったから。彼女は言いました。“主よ、それは本当です。しかし、犬たちは主人の食卓から落ちた残り物を食べるでしょう。” それが仕事をしたことです。彼女は子供のテーブルから出てくるスクラップだけを受け取るつもりでした。そして神様、それが今の私たちの態度です。私たちはあなたが私たちに対してやりたいことは何でもするつもりです、お父さん。私たちはあなたの手の中にあります。
112. 父よ、今朝私たちの中には病気で困窮している人たちがいます。彼らは祈りの列を通過するつもりです。彼らが来て、「“まあ、あなたが私に何の役にも立たないと思います。」と言わないように。” 主よ、それが態度ではなく、神が言われたことを思い出しに来てくださいますように。“これらのしるしは信じる者たちに従うでしょう。もし彼らが病人に手を置いたら、彼らは回復するでしょう。” 約束したでしょ そう言ったでしょ。
彼らが聖なる敬意を持って来て、祈りが捧げられ、手が加えられるとすぐに、質問を書いたこの親愛なる妹のように聖霊が彼らに臨んでくださいますように、聖霊はそのような方法で彼女の定命の者を殺しそうになったと言いました。神の臨在の途方もないバプテスマ。
それが今朝来るすべての人に影響を与えますように、主よ。付与する。彼らが癒されますように。あなたが約束し、嘘をつくことができないことを疑いの余地なく知り、彼らが来てくれますように。そして、光が差し込むとすぐに、暗闇と疑いは逃げ去ります。許可してください、お父さん。私たちは今、イエスの御名によって彼らのために祈りながら、彼らをあなたに託します。アーメン。
114. さて、私たちは何をしているのでしょうか?私たちは病人に油を注ぎ、彼らのために祈るために来ています。さて、聖書を引用しましょう。“もしあなた方の中に病気の人がいるなら、教会の長老たちを呼び、油を塗って祈らせてください。信仰の祈りは病人を救い、神は彼らをよみがえらせるでしょう。何らかの罪を犯した者は赦されるであろう。自分の欠点を互いに告白し、癒されるように互いに祈りなさい。”
さて、残りの部分はこちら側にあります。希望するときは、そこ、その場所、その通路の線の下に着いたらすぐに後ろに下がってください。さて、ここの教会の長老が油注ぎと祈りをします。祈って病人に手を置きます。そして今、友人の皆さん、祈りの列に立っている皆さんを思い出してください。今こそ、自分がここに立っているものを信じていることを証明する時です。元気にならなければなりません。
それが母(そして彼女は老婦人)をずっと抱いていたのは、私が心から信じているからだと信じています。神が私に言うまでは。..彼女は死につつあるかもしれないが、神が私に言うまでは、私は彼女が死んではいないと信じている、ほら。そして今、私は彼女が行かなければならないことを知っています、そして彼女は行ける年齢であり、行きたいと思っています、そして行こうとしています。しかし、それでも私は—彼が私に教えてくれると信じています。今、私は彼が私に言うだろうと信じています、ほら。今、彼はそうではないかもしれません。わかりません、彼がそうするとは知りませんが、私はただ彼がそうすると信じています、見てください。しかし、これまでのところ、彼はそれについて私に何も言いませんでした。そして私はそれを信じています。そしてもしあなたが。..?…
115. そしてそれは毎日起こります。ほら?何かが起こるだろう;私はただそれを許しただけです。神はそれが真実であることを知っています。ほら?起こること、それを示し、伝えること。何かが現れてこう言うでしょう。“この言葉をこのように言うだけで、ここでこのようなことが起こるでしょう。” そして私はこう言います、“まあ、そうしましょう。” それから私は見ます;ここがここにあります。ほら?うん。
そうですね、もし神が物体、物質、生命のないものを作ることができるなら、神の言葉に移ってください。なぜなら、私たちはそう言ったからです。神はあなたと私をこれ以上私と結びつけることができるでしょうか。あなたは私と一緒にいます;あなたは私のものです—あなたは私の病気の兄と妹です。そして、もし私たちがこれらの言葉を言うなら、“神の力がこの人を癒しましょう”なぜ、それは起こらなければなりません。さて、その資料には、“いいえ、疑っています。” と言うことはできません さあ、やってみます。しかし、“まあ、そう思うのですが”と言うことはできますが、それは起こりません。ほら?でも、もしあなたが今、自分の考えに正しく従ってくれるなら、“私は癒されるでしょう。” 持たなければなりません。それを信じますか?
116. ですから、このハンカチが置いてある人々を癒してくださいますように。彼らの要求を彼らに伝えてください。イエス・キリストの御名において、私はそれを尋ねます。アーメン。
117. そして、私たちは少しの間、神がどれほど偉大であるか、そして神が私たちのために何をしてくださったかを考えてみましょう。神なしでは私たちは何ができたでしょうか?私たちが神をどのように見てきたか、ただ神が私たちに語ってくださったことは一つもありません。.. 彼は私にビジョンを与えてくれました。そして今朝、私はあなたに質問します、あなたはそれを見たことがありますか、しかし神は何を成就しましたか?まさに彼が言ったこと、彼はそうするだろう、まさに今。それなら彼は神です。それなら彼は私たちの父です。彼は私たちを愛しています。そして、神の天国がどこであろうと、私たちはいつかそこに行くに違いないことを知っています。私たちは彼が今ここにいることを知っています。私たちはそれを認識しています。
118. さて、今私たちは何をしますか?さて、あなたがそのように祈られると、神はあなたを癒すと約束されました。そうなると、今は少しも違いを感じないかもしれませんが、彼は決して。.. それ—それはまったくそうではありません。ほら?とにかく私たちはそれを信じています。
119. しかし、なぜなら、目に見えないものを目で見る必要があるからです。心で見ますね。あなたはそれを信じ、目に見えないもの、しかし自分が信じていることを証言します。それは信仰だからです。“そして信仰とは、望まれるものの本質であり、目に見えないものの証拠です。”
120. それが愛する人を勝ち取る方法であり、忠実であることです。忠実であることが愛する人を勝ち取る方法です。信念を貫きなさい。神に対して正しいことを確認し、そこに留まりましょう。ただそれを正しく続けてください。正しく行動すれば、何もあなたをそこから動かすことはできません。
122. あなたは心から彼を愛していますか?彼は素晴らしい人ではないでしょうか?神なしでは何ができるでしょうか?さて、何ができるでしょうか?もっと素晴らしいことを何か教えていただけますか?それ以上のものを私に見せてくれるなら、私は—私は—手に入れたものを売り飛ばします、そしてあなたがこれよりも大きなものを見せてくれることを切望します。はい 先生。これは私が知っている最大のことであり、私たちが救われているという確信を持って知ること、天と地を造られた神そのものがご自身を謙虚にし、降りてきて私たちの間に住み、私たちのためにしてくださることを知ることです。
123. 科学の言葉で、科学的な方法で教えてください。それが起こる前に、今後数年または将来起こるであろうことを誰もがどのように予言できるでしょうか。それが起こる前にそれを予知する力、それがどこにあるのかを示してください。あなたが望むものは何でも元に戻すことができる人間の心を教えてください。そして、あなたが何かを見て、それが起こったことを予言できる方法を教えてください—それはそうです。ほら?ない。
124. 私たちは死から生へと移ったことを知っています。私たちは救いがあることを知っています。私たちはクリスチャンであることを知っています。そして、私たちは天国に行くことを知っています。なぜなら、神は約束をされたからです。そしてここで、神は私たちが神を見る方法で—私たちと一緒に動いています。
125. そして私たちは日の出の中に神を見ることができます。私たちは夕日に彼を見ることができます。私たちは花の中に神を見ることができます。私たちは彼を。..の中で見ることができます。私たちはどこにでも神を見ることができます。なぜなら、私たちはこの地に縛られた状態の下位要素から神の栄光のこの上位要素に移行し、神の美しさを見ることができるからです。
数日前、私がこの旅行でアラスカハイウェイの—in にいたとき、狩猟旅行に行ったとき、私はそこに戻って疑問に思いました、“なぜですか?なぜ?” 神がどれほど本物であるかを見てください—。さて、どこにでも病気の人がいますが、それでも神は知っています。
126. さて、聖霊の優しさを見てください。彼はずっと前にそれを知っていました。それで、神は私を手放す代わりに、振り返って私にビジョンを与え、そこに送って、コロラドでは行けない狩猟旅行の一つを私に与えてくれました(わかりますか?)。なぜなら、動物たちはコロラドにはいないからです。そんな。振り返って、ビジョンでそれを私に与えて、コロラドへのこの旅行では神が私を遠ざけなければならないことを知っていたので、それを私に与えました。善と慈悲について話してください。じゃあ どうして?それからずっと前に、彼は私の母が苦しむことを知っていました。彼は私の母が入院することを知っていました。もし神がそれを許すなら、神は私が何も知らない何らかの良い目的のためにそれを行っていることになります。しかし、主を愛する人々にとって、すべてが善のために協力していることはわかっています。
たまには立ち止まって、教会に行って、私たちの神に会えたら。.. ただ立ち止まって慌てふためきから離れ、神の御霊の御前で数分間立ち止まってください。そうすれば、神がどこにでも動いているのが見えます。彼がどれほど優れているかわかりますか?
130. 自分の家族のところに来なければならないまで、それが何を意味するのかわかりません。分かりますか?彼を知ることは人生です。神を知ることは、この人生のレースが走ったとき、私たちは向こうの空の向こうに家を手に入れたことを知る満足感です。それが何なのか、分かりません。どう言えばいいのか分かりません、なぜなら私自身も分からないからです。しかし、いつか神の恵みによって私たちはそこへ旅立つだろうと私は知っています。
131. そして今、私たちの大切な牧師であるネビル兄弟がここに来てください。確かに私は。.. ここには—家の人以外に誰もいません、ご存知でしょう。私たちは皆、いわゆるホームフォークです。私はネビル兄弟がこの福音の真理を擁護していることに感謝しています。私は人々の前での彼の忠誠心と誠実さに感謝します。そして先日、彼が話していたとき、私はそれに気づきませんでしたが、彼が霊感を受けて預言をしている間、彼は私を霊感を受けて預言者と呼びました。それは彼が私をそう呼んだのではなく、聖霊でした。それは私に、神とともにさらに深く、より高い高みへと進む勇気と信仰を与えてくれるのです。感謝するよ ネビル兄弟。神はあなたを祝福してくださいます。そして、またあなたに会うまで、神はあなたとともにいてくださいますように。