1. 恵み深き天の父よ、私たちは再び御前に近づき、私たちの罪と咎の赦しを求めます。どうか、私たちを憐れんでください、父よ。
主よ、私たちのすべての過ちを赦し、光と命の道へと導いてくださいますように。そして主よ、私たちをそれほどまでに塩気のある者としてください。私たちが出会う人々が、クリスチャンになりたいと願うほどにしてください。
私たちは知っています。塩は、触れるならば、救う働きをするものです。父よ、私たちをその塩の力ある者としてください。そして、死にゆく外の世界に触れたいという願いを、私たちの内に強くしてください。それが彼らにとって救いとなりますように。
私たちは、「あなたがたは、すべての人に知られ、また読まれている手紙である」と教えられています。父よ、私たちがこの偉大なペンテコステの経験を持っていると告白する者として、私たちの生活がそのようなものとなりますように。世に対して塩気のあるものとなり、人々が「自分もそのようになりたい」と願うほどでありますように。
主よ、あなたの聖霊を私たちにお与えください。私たちの救い主に対する信仰が確かなものであることを、世に示すことができますように。主は死んでおられるのではなく、日々私たちと共に生きておられ、私たちを導き、方向を示し、養い、静かな水のほとりと、緑の牧場の陰を歩ませてくださるお方であることを示せますように。
今夜、御言葉のうちに私たちを祝福してください。病める者、苦しむ者を癒してください。失われた者を救ってください。あなたの偉大な御名に栄光をお受けください。私たちは、あなたの御名、イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。
どうぞお座りください。
2. 私がいろいろなことを表現し、語るからといって、まるでカリフォルニアにだけ罪人がいるなどと、私が思っているとは考えないでいただきたいのです。罪人は世界中にいます。そして私は……。
昨晩、こちらに向かって来る時のことです。午後、私は町のほうへ行っておりました。そして人々がどのようにしているかを見ました。それは、世界の他の地域とまったく同じでした。
そして昨晩、私はここへ入って来ました。すると、この講壇のところから――たしか聖歌隊のところからだったと思いますが――とても感じの良い若い女性が、あちらへ歩いて行きました。彼女はカナダ人で、本当に感じの良い小柄な女性でした。清らかな印象で、実に……本当に淑女らしい方でした。私のリベカも、彼女の年齢になった時には、あのようであってほしいものだと思います。カナダの娘さんでした。
それから今夜、私が入って来る時、壁のそばに小柄な女性が立っていました。私の息子と嫁、そして私が上がって来た時、彼女は寒い中、ただ私と握手をするために、そこに立って待っていたのです。アーカンソー州から来た方でした。
彼女は、私が何年も何年も前にホットスプリングスにいた時のことを覚えていると言いました。ハンバード家のことです。そういう人々に会うと、本当に、生きていることには価値があるのだと思わされます。
3. ある人々は、クリスチャンになると、人生から喜びがすべて奪われてしまうと思っています。しかし、それはまったく逆です。私は両方の生き方を経験してきました。
私が説教を始めて、今年で三十一年になります。そして私は……。たとえこの終わりに行くべき天国がなかったとしても、たとえお会いするイエス様がおられなかったとしても、私はこの人生をほかのものと取り替えたいとは思いません。
この生き方には、ほかのどんな生き方で十年過ごすよりも、たった一日でさえ、もっと大きな喜びがあります。たとえその後に何もなかったとしてもです。これは本当に、あなたがたの兄弟として、また神のしもべとして、私の心から申し上げていることです。
そこには、何とも言えない平安と満足があります。床に就いて、もし二度と目覚めなかったとしても、それが何だというのでしょう。分かりますか。あなたは救われているのです。
その錨は、どこかあちらの幕の内側にしっかりと掛かっています。そして、何かが私たちに告げているのです。「良いものは、ただ向こう側にあるのだ」と。
4. 「お父さん、いつか九時に終われるようにできると思う?」
私は言いました。
「いつかは、そうできたらいいと思っているよ。」
でも私は……あなたがたは本当に話しやすい、すばらしい方々なのです。そして……止めるところがないのです。
それで彼は言いました。
「でもまず最初に、お父さんは説教に入る前から三十分くらい話していたよ。」
私は言いました。
「さあ、ビリー、今夜はそれはしないよ。今夜はすぐに、まっすぐ説教に入るつもりだ。そうすれば皆さんを早く帰してあげられるからね。」
5. それからまたイリノイ州のブルーミントンへ行き、シカゴへ上がります。そしてさらに、ブリティッシュ・コロンビア北部まで行きます。そこでは本当に雪が降っています。
それから、主の御心なら、この夏のいつか、また海外へ行きたいと願っています。なぜなら、私の心はそこにあるからです。本当にそうなのです。あなたがたも、きっとそう思われるでしょう。
「それでは、あなたは私たちを愛していないのですか」と思うかもしれません。いいえ、私はあなたがたを愛しています。しかし、あなたがたはすでにキリストのうちにしっかりと錨を下ろしています。けれども、向こうの人々は……本当に飢え渇いているのです。
さて、もし私があなたがたのために働いていて、選ぶことができるとしましょう。私はベリーを摘んでいるとします。道のこちら側では、一日に五十ガロン摘むことができます。けれども道の反対側では、一日に二クォートしか摘めません。
では、私はどちらの畑で働くべきでしょうか。もちろんです。私が何を言っているか、お分かりですね。
6. いつか通りに立って説教している時、ひとりの小さな母親が、小さな赤ちゃんを抱いているのを見るまでは、あなたの心には突き刺さらないかもしれません。その赤ちゃんのお腹は、飢えのためにここまで膨れ上がっていて、死にかけているのです。そしてその母親は、その赤ちゃんをあなたに渡そうとする。彼女は、自分も飢えて死ぬことを知っているのです。
では、もしあなたがその子を受け取ったらどうでしょう。こちらにも一人、あちらにも一人、ここにも、そこにも、至るところにいるのです。分かりますか。それは本当に哀れなことです。
それから戻って来ると、私たちがゴミ箱に捨てているものだけで、あの人々を養えるほどだと思わされます。そして、そこには何か……世界の経済のどこかが、正しく釣り合っていないのです。正しくないのです。けれども、私たちには何もできません。それを見ることはできます。しかし……分かりますか、私はただ一人のアメリカ人にすぎません。そして……ただ一人のクリスチャンにすぎません。私たちは帰って来て、その話を伝えることはできます。
そして、今夜、多くの宣教師たちが一週間に一度か二度しか食事を取れず、足には靴もなく、ただ古びたぼろぼろのズボンか何かを身にまとって、ジャングルの中へ入って行き、この福音を、ここで私たちが説いているこの福音を宣べ伝えているというのは真実です。
それは正しくありません。本当に正しくないように思えます。とはいえ、彼らは不平を言いません。とにかく、そのまま進んで行くのです。それを見ると、本当に心が張り裂けそうになります。私は言います。
「あの人は……」
「彼は宣教師です。」
私たちが南アフリカのダーバンにいた時のことです。そこでは、おそらく主が私に与えてくださった中で最大の招きがありました。一度の招きで、三万人の回心者が記録されたのです。考えてみてください。三万人の、毛布をまとった原住民たちが、個人的な救い主としてキリストを受け入れたのです。彼らは、昨晩あなたがたがここで見たのと同じようなことが起こるのを見た時に、そうしたのです。
彼らは飢え渇いています。そして、何か本物の現実がそこにあるのを見る時……。
けれども、分かりますか。ここアメリカでは、私たちにはあらゆる種類の伝道者がいます。一人が気に入らなければ、その人を手放して、また別の人を呼ぶのです。ご存じのように、私たちには実に多くの選択肢があります。
そして気がつけば、それがすっかり当たり前になってしまい、ついにはそのことを忘れてしまうのです。しかし、あの人々は本当に神に飢え渇いているのです。
7. ある時、私たちは手作りのアイスクリームを持っていました。すると、そのうちの一人が近づいて来ました。私はそれを彼の手に置いてあげました。すると彼はそれを落として、叫び声を上げたのです。
私は、そばに立っていたその人に尋ねました。
「彼は何と言ったのですか。」
すると彼は言いました。
「旦那様、彼は『火傷した』と言っています。」
それは冷たかったのです。分かりますか。彼はそれまで、冷たいものに触れたことがなかったのです。だから彼は「火傷した」と言ったのです。
彼らが水を飲みに行く様子を見るのです……。そして、ワニが彼らを食い裂いてしまうのです。
また、私がそこへ行って病人のために祈ると聞くと、二か月も前から歩いて来る人々を見ました。彼らは、愛する者たちを手作りの担架に乗せて運んで来るのです。板で作ったものや、手に入るどんなものでも使って。
そして、途中で……ライオンが来ると、彼らは病人たちをどこかの木の上へ引き上げて、ライオンが去るまで待つのです。それからまた下ろして、ジャングルを抜けて進んで来るのです。何という犠牲でしょう。
そして彼らが、少なくとも町の四、五ブロック分ほども奥まで、終わりが見えないほどに横たわっているのを見るのです。そのように、ただそこに横たわって……。
8. 私は振り向きました。そして十五人もの通訳を通して話していました……。ですから、自分が最後に何を言ったかを書き留めておかなければならないほどなのです。
しかし、私が彼らに尋ねました。
「宣教師は、この偉大なイエスがどのようなお方であるかを、あなたがたに話しましたか。」
彼らは言いました。
「はい。」
しかし、その宣教師は同時に、奇跡の時代は過ぎ去ったとも彼らに教えていたのです。
私は言いました。
「では、その時、イエスはどのようなお方だったのですか。もしイエスが生きておられるなら、その時のお方であられたものは、今も同じであり続けるのです。」分かりますか。
そして彼らが、それが真実であることを証明されるのを見た時、私はただ一つの祈り、会衆全体のための祈りをささげました。
すると、F・F・ボズワース博士――どなたか彼のことを聞いたことがありますか。ほとんど皆さんご存じでしょう。私が人生で出会った中でも、最も尊い老聖徒の一人でした――彼の推定では、その時一度に、二万五千から三万もの自発的な奇跡が起こったのです。
9. 「ホテルの部屋から、海岸のほうの窓を見ていてください。」
私は言いました。
「何があるのですか。」
彼は言いました。
「間に合うように、そちらへ行けるか見てみます。もうこちらへ向かっています。」
それで私は、そこに座っていました。市長はいったい何を言っているのだろう、と思いました。
ちょうどその前の晩のことです。その日、向こうで一人の女性が亡くなっていました。彼の友人でした。私はその方のために祈りました。すると彼女は生き返ったのです。そのことを新聞が大きな見出しで報じました。そして私は上へ行きました……。
分かりますか。人々が本当に自分を低くし、ほかのすべてを忘れて、ただ主を信じるところでは、あらゆることが起こるのです。そして……。
しかし、信じなければなりません。それだけなのです。無理に力んで信じようとするのではなく、ただ単純に信じるのです。ただ、そのように。
10. 「すべてのことは可能です。ただ信じなさい。」
ボズワース兄弟は言いました。彼は以前、訓練された交響楽団を扱い、百数十人編成のオーケストラと共にマディソン・スクエア・ガーデンへ行ったことがあるそうです。けれども彼は、あのようなものは一度も聞いたことがないと言いました。訓練された声なら、ある人は一オクターブ高く、ある人は一オクターブ低く歌うこともあるでしょう。しかしそこでは……一人ひとりが、ただ歌っていたのです。彼らは、右手と左手の区別も分からないような人々でした。それなのに、完全な音楽だったのです。私は今でも、彼が眼鏡を外し、目を拭き始めた姿を見るようです。彼は言いました。「ブラナム兄弟、これを聞けたことは、私の戴冠式です。」
そして言いました。「これは聖霊です。彼らにこのように歌わせることができるのは、聖霊だけです。」
11. そしてその車には、古い板や杖や、前の日にその人々が歩くために使っていたものが、積めるだけ高く積み上げられていました。そして、その上を歩いていた人々が、今度はその後ろを歩いていたのです。町の何ブロックにもわたって。
そのような大きなバンが六台……いや七台、いっぱいになって、通りを下って来るのです。そして、その後ろには、前の日には足の不自由だった人々が、両手を空に上げて歩きながら歌っていました。
「すべてのことは可能です。ただ信じなさい。」
申し上げます。私の言っている意味が分かりますか。それは……彼らのもとへもう一度行きたいと思うと、心が血を流すようなのです。分かりますか。彼らのために何ができるかを見ると、心が躍るのです。
そして私は、ダーバンの新聞の一つを手にしました。そこには、ある部族、シュンギー族のことが書かれていました……。彼らが数週間後にどれほど持ち帰って来たか、私は忘れてしまいました。
そして彼らは……戻って来た時には、もう罪とは縁を切っていたのです。銃器や時計、そして自分たちが盗んだ物を持ち帰って来たのです。彼らは居住区で暮らしていて、ご存じのように、町へ入って来ると盗みをしていたのです。
12. 私たちは文明の国に住んでいるはずです。そして、私たちが語っているこの聖霊のバプテスマについてですが……私は、右手と左手の区別も分からないような人々が聖霊を受けるのを見てきました。
そして、彼らがそれを受けると何をするか分かりますか。あなたがたがそれを受ける時と、まったく同じように行動するのです。同じことをするのです。しかも彼らは、右手と左手の区別さえ分からないのです。
その地面の上には、女性たちが立っていました。生まれた時と同じように、身に何もまとっていないような姿で立っていたのです。若い人も年配の人も、皆同じように、そこに立っていました。
そして私は彼らに尋ねました。
「さて、私はあなたがたに聞きたい。このイエスを受け入れますか。この、全身が不自由だった人をまっすぐ立たせ、歩かせたイエスを。彼について語られたことによって……」
そして私は言いました。
「……あなたがたの呪術医たちは、私が彼の心を読んでいるのだと思ったでしょう。しかし今、天の神が彼を癒されたことが示されたのです。」
私は言いました。
「この方を、個人的な救い主として受け入れたい人はどれだけいますか。」
すると彼らは手を上げました。何千人もの人々が。
13. 「彼らは、肉体の癒しのことだと思ったに違いありません。」
私は言いました。
「もう一度、通訳を通して伝えてください。」
そして私は言いました。
「私が言ったのは、肉体の癒しのことではありません。キリストを受け入れるということです。あなたがたを愛してくださるお方を受け入れるということです。
そして私は、あなたがたがここで不当に扱われてきたことを分かっています。それは、神が置かれたその土地で、私たちのアメリカ先住民があちらで受けた扱いと同じようなものです。しかし」と私は言いました。「あなたがたは、ひどい扱いを受けてきました。
けれども、あなたがたに正義を与えてくださるお方がおられます。それが主イエスです。そしてあなたがたは、この方を自分の個人的な救い主として受け入れ、天の故郷へ帰れるようになる必要があるのです。」
そして私は言いました。
「手を上げてください。偶像を持っている人は、それを地面に打ち砕きなさい。」
すると彼らは自分たちの偶像を砕き、手を上げました。三万人の、毛布をまとった異教徒たちでした。
私は言いました。
「手を上げているそのままで、聖霊のバプテスマのためにイエスを受け入れなさい。」
そして彼らがそうした時、その人々は……。そこには、裸のまま、ただ腰布だけをまとって立っていた女性たちもいました。彼女たちがそこを立ち去る時、何をしたか分かりますか。彼女たちは腕を組み、身を覆うようにして歩いて行ったのです。
14. それなのに、私たちはクリスチャンの国だと言われていながら、絶えずそれを脱ぎ捨てていくのです。これを私に説明できますか。私はただ、そのことを尋ねたいのです。そしてすべて……。
私はこれを冗談で言っているのではありません。ここは冗談を言う場所ではありません。ここは神の机、神の講壇です。分かりますか。しかし、これは本当ではありませんか。これに筋の通った説明ができますか。
神について何も知らない原住民が、キリストが心に来られるやいなや、自分が裸であることに気づくのです。それなのに、クリスチャンであるはずの私たちは、法律によって通りから追い払われないぎりぎりのところまで、毎年ますます脱ぎ捨てていくのです。
どこかで、何かが間違っています。たぶんそれは……私かもしれません。間違っているのは、私なのかもしれません。私には分かりません。もし私が間違っているなら、御言葉も間違っていることになります。私は御言葉にとどまりたいのです。
15. たしか、ボーダーズ兄弟にいくつか読んでもらうことになっていたと思います……。ここにいくつかお知らせがありますが、少し後にしましょう。あまり遅くなってしまいますから。そして、できることなら九時には終わるようにしたいと思っています。
さて、創世記22章から読まれた聖句の中から、17節の最後の十語ほどを取り上げたいと思います。
「……あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」
16. そして先週の土曜日の夜、私たちはアブラハムのところで止まりました。神が彼とサラを若い男と若い女に戻されたところでしたね。あれはよかったでしょう。信じますか。彼らは若返り、そしてサラは子を産みました。
そして私たちは、聖書によって、サラが若い女性であったことを証明しました。なぜなら、あちらにいた若い王アビメレクが、彼女に恋をしたからです。
それについて、私は小さなメモを受け取りました。そこにはこうありました。
「ブラナム兄弟、あの時代の人々は、ただ今より長く生きていただけなのです。」
少し意見の違う方がいたわけです。もちろん、それはそれでよろしいのです。けれども、兄弟よ、その点をあなたにはっきりさせておきたいのです。
お気づきでしょうか。聖書は、「彼らは二人とも、すでに年老いていた」と言っています。分かりますか。彼らは年老いていたのです。
それで神は、彼らを若い男と若い女に戻されたのです。それは、神がアブラハムのすべての子孫に対してなさろうとしていることを示していました。
さて、私たちは、神が与えられたあの偉大な約束を見ているのです。
17. しかしその後……。アブラハム自身のからだは、ローマ人への手紙四章で聖書が言っているように、死んだも同然でした。それにもかかわらず、私たちは見いだすのです……。その四十年後、妻が亡くなり、彼が再び結婚した時、彼は娘たちのほかに、さらに七人の息子をもうけました。
ですから、分かりますか。行間を読むなら、神が彼らのために何かをなさったのです。その通りです。神は彼らを若返らせ、再び若い夫婦とされたのです。
私は、この機会を与えられていることを本当に嬉しく思います。そして、この世に存在する最も偉大な宝の一つを、人々に届けることができるのです。それは、私たちがこの約束において、アブラハムと共に相続人であると告げることです。
私たちはアブラハムの子どもたちです。では、どのようにしてそうなるのでしょうか。教会に加入することによってでしょうか。いいえ。キリストにあって死に、聖霊を受けることによってです。
その時、私たちはアブラハムの子孫となり、約束に従って彼と共に相続人となるのです。
クリスチャンの友よ、これを取り逃がさないでください。そこにとどまってください。
18. ある時、相手が私を打とうとして空振りしたので、私はにこっと笑いました。すると彼は、私の口をまともに打ったのです。それでここにある二本の歯がぐらつき、一本の角が欠けました。そしてつい先日、その詰め物が取れてしまいました。ですから、少し口笛のような音が出るのです。
ある時、それは困ったものだと思っていました。すると、グラハム夫人のことを思い出しました。有名な伝道者ビリー・グラハムの奥様です。彼女が言うには、彼の人生の中でも大変だった時の一つは……。彼は前歯が一本なくて、部分入れ歯をしているのです。
ある時、その歯をなくしてしまいました。しかも、ちょうど放送に出る時間が迫っていたのです。彼女によると、彼はひどく口笛のような音が出てしまうので、マイクのそばに立たなければならなかったそうです。
彼女は言いました。
「ああ、ビリーは本当に一生懸命祈っていました。」
そして、ポーターも、みんなも、ベルボーイたちも、あちこちをのぞき込んで、その歯がどこにあるのか探していました。結局分かったのは、それはズボンのポケットから落ちて、靴の中に入っていたのです。誰かが、彼の靴の片方の中から見つけました。彼女はルイビルにいた時、その話を彼について語ったのです。
そして彼女は、次に彼がよくやったこととして、お風呂から出た後にタオルを取って、それをドアの上にこう投げかけるのだと言いました。すると、大きな汚れた筋がついてしまうのです。彼女は背が低くて、そこまで手が届かず、拭き取れなかったのです。分かりますね。
ですから、私たちは皆、それぞれ欠点を持っているのです。私たち全員がそうです。どんなに立派な人であってもです。
19. その子が十二歳くらいになった時、神はアブラハムに、ご自分の子を山へ連れて行き、彼をいけにえとしてささげ、その命を取るように求められました。
しかしアブラハムは神を疑いませんでした。なぜなら彼は、神に従い続け、二十五年待った末に、その子を、死人の中から受け取った者のように受け取ったことを知っていたからです。
さて、それはどうでしょうか。あなたが年老いているかどうかに関係なくです。彼はその子を、死人の中から受け取った者のように受け取りました。そして、神は彼を死人の中から再びよみがえらせることがおできになる、と十分に確信していたのです。分かりますか。なぜなら、彼は死んだも同然だったからです。
男性としての彼の内にある命は死んでいました。そしてサラの胎も死んでいました。ですから彼は、その子をまさに死人の中から受け取ったようなものだったのです。それで彼は、神が約束を守られるなら、その子をよみがえらせることもおできになると知っていたのです。
それから私たちは、完全な従順が来た時を見るのです。彼がまさに自分の息子の命を取ろうとしたその時、主の御使いが天から呼びかけ、彼の手を止めました。そして彼の後ろには雄羊がいました。
彼は、その角をやぶに、あるいはつるに引っかけていた雄羊を取り、自分の息子の代わりにその雄羊をささげました。私たちはそのことを話し合いました。
この雄羊はどこから来たのでしょうか。さて、アブラハムは三日間旅をし、それから目を上げると、遠くにその山を見ました。彼は少なくとも、文明のある場所から七十五マイルから百マイルは離れていました。そして山の頂にいました。そこには草も水もありません。
彼は石を転がして、祭壇を整えました。そしてそこには雄羊はいませんでした。もし雄羊がそこにいたとしても、そのように迷い出ていたなら、動物たちがとっくに殺していたことでしょう。
それで彼らはその場所を「エホバ・イルエ」と呼んだのです。「主は、ご自身でいけにえを備えてくださる」という意味です。
私は、神がその雄羊を御言葉によって存在させたのだと信じています。そして私たちは、それが幻ではなかったことを見いだします。幻は血を流しません。彼はその雄羊を殺しました。そしてその雄羊から血が流れ出ました。彼は、自分の息子の代わりにそれをささげたのです。
その雄羊が誰であったか、お分かりですか。主イエス・キリストです。まさにその通りです。象徴的に言えば、それは主ご自身でした。
20. そして、神のもとに来るすべての子は、どうされなければならないのでしょうか。試されるのです。懲らしめられるのです。
多くの人が離れていくのは、そこなのです。なぜなら、その試練に耐えることができないからです。ある人がリバイバルの時に祭壇へ来ます。そして、少しの間見ていなさい。熱い試練が来始める時が来ます。
イエスははっきりとそれを教えられました。
「種まきが種をまきに出て行った。ある種は道ばたに落ち、ある種は石地に落ち、またある種はいばらやあざみの中に落ち、ほかの種は良い地に落ちた。」
そして主は、それが御言葉の出て行き方であると言われました。
ある人々は御言葉を聞いて出て行きます。すると鳥がやって来て、それをついばんでしまいます。分かりますか。彼らには何の実も結ばれません。
ほかの人々は一夜にして芽を出します。ああ、彼らは大きなことをするつもりでいます。しかし試練が来始めると、それが彼らを締めつけてしまうのです。
しかし、ある者は良い地までしっかりと進み、百倍の実を結ぶのです。
21. 今夜、このスピーカーにどこかショートしている部分があったらどうでしょう。あなたがたは私の声を聞くことができないでしょう。雑音だらけになってしまいます。私が何を言っているのか分からないでしょう。
それは、ちょうど私たちと同じです。それは、何かがその中で音を出させるまでは、ものを言えないものです。それ自体では語ることができません。
そして私たちもそのようなものです。私たちは天に属する事柄について、自分では何も知りません。しかし、聖霊が下って来て、幻のために私たちの目を用い、言葉と預言のために私たちの唇を用いてくださらなければならないのです。そして御言葉を語らせ、その事が起こるのを見せてくださるのです。
「あなたがたがわたしの名によって願うものは、何でもあなたがたに成される。」分かりますか。「あなたがたがわたしのうちにとどまり、わたしの言葉があなたがたのうちにとどまるなら、何でも願うものを求めなさい。そうすれば、それはあなたがたに成される。」「まことに、あなたがたに言います。もしこの山に向かって、『移れ』と言い、心の中で疑わず、自分の言ったことが成ると信じるなら、その言ったとおりになるのです。」マルコ11章22節、23節です。
さて、私たちはこれらのことが真実であることを知っています。
22. もし私たちが神の懲らしめに耐えられないなら、聖書は私たちを何であると言っているでしょうか。その時、私たちは私生児となるのです。いわゆる子どもではあっても、神の本当の子どもではありません。
神の子どもたちは、自分たちがどこに立っているかをはっきり知っています。自分たちの望み、信仰、信頼をどこに置いたかを知っています。何ものも、彼らをそこから揺り動かすことはできません。
「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来る。」その通りです。
そしてまた、
「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出さない。」
「わたしの言葉を聞き、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を持ち、決して裁きに至ることがなく、死から命へと移っている。」
そこに聖句があります。分かりますか。聖ヨハネ五章二十四節です。
彼らはそれを信じます。それを受け入れました。彼らの内に何かが起こったのです。彼らは新しい被造物となりました。新しい性質を持つ者となりました。新しい存在、新しい被造物となったのです。
ギリシャ語では「新しい創造」と言います。それは新しい創造なのです。あなたは、かつての自分から、神の息子、神の娘のかたちへと、もう一度造り変えられたのです。
それは本当に畏るべき……。罪人がクリスチャンとされる時、それはこれまでに起こった中で最も偉大な奇跡なのです。
23. さて、分かりますか。そのいばらの木を変えて、とげを取り去り、ただ開かせて、美しくなめらかな葉を付け、オレンジを実らせるようにするには、人間の働き以上の何かが必要なのです。
では、何が起こらなければならないのでしょうか。オレンジの木の命を、そのいばらの木の中に移し入れなければなりません。そうすれば、それは実際にオレンジを実らせるのです。なぜなら、その内側にある命がオレンジだからです。
もちろん、自然のままではそんなことはできません。そのようには交配しません。
しかし、それが私たちなのです。たとえば、私たちはかつてオナモミのような者でしたが、今では神の倉にある小麦、一粒の小麦となっています。そして神は、私たちをオナモミから小麦の粒へと変えてくださったのです。
それは実を変えます。あなた自身の思い、あなた自身の考えを変えるのです。
男であれ女であれ、人が神の御霊によって新しく生まれ、キリスト・イエスにあって新しい創造となる時、それはこれまでに起こった中で最も偉大な奇跡なのです。
24. 「あなたがこの事をしたので……」神はこの族長に、この大きな試練を与えられました。そして言われたのです。「あなたの子孫は、敵の門を勝ち取るであろう。」
敵――敵たちです。複数形になっています。
「彼らは敵たちの門を勝ち取るであろう。」さて、彼の子孫……。
では、神はその子孫について、誰のことを語っておられるのでしょうか。その子孫とは教会です。私たちは、どのようにして教会に入るのでしょうか。教会に加入することによってではありません。教会の中に生まれることによってです。
分かりますか。私は、私たちに組織があり、教派があることを認めています。そしてそれらのものは、それ自体としてはよろしいのです。しかし、それが私たちを教会の中に入れるのではありません。私たちはそれらすべてに加入することができるでしょう。それでもなお、教会の中にいないことがあり得るのです。あなたは教会に加入するのではありません。教会の中に生まれるのです。神の家族となるのです。私は51年間、ブラナム家の中におります。そして彼らは一度も、私に「この家族に加入しなさい」と求めたことはありません。なぜなら、私は生まれた時からブラナムだったからです。私はその家族の中に生まれたのです。私は……生まれによってブラナムなのです。
それが、あなたがクリスチャンになる方法です。生まれによってです。あなたが新しく生まれる時、キリスト・イエスにあって新しい被造物、新しい創造となるのです。そして古いものはすべて過ぎ去り、すべてのものが新しくなるのです。何とすばらしいことでしょう……。
私は教会に一つ尋ねたいのです。今夜、この地上で、これより偉大な宝を見つけることができるでしょうか。この希望と引き換えにしたいと思うようなものを、何か見つけることができるでしょうか。いいえ、どんなものも、どのような意味においても、この偉大な希望に触れることさえできないのです。
25. 「あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」
その子孫が勝ち取るのです。さて、神は今、アブラハムの子孫について語っておられます。
では、私たちはどのようにしてアブラハムの子孫となるのでしょうか。キリストにあって死ぬことによってです。ガラテヤ人への手紙三章です。私たちは……キリストにあって死ぬ時、アブラハムの子孫となるのです。分かりますか。私たちはこの世のものに対して死に、キリスト・イエスにあって新しい被造物として歩み始めます。
その時、キリストのうちにおられた聖霊が、私たちのうちにおられるのです。そしてそれが、私たちをアブラハムの子孫とし、アブラハムの信仰を与えるのです。分かりますか。
それが理由です……。人々は言います。
「ああ、私は神の癒しなど信じません。」
私はある牧師と話していました。その人に対して何か悪く言うつもりはありません。彼には自分の考えを持つ権利があります。私たちと同じアメリカ人です。
彼は言いました。
「ブラナム兄弟、たとえあなたが一万の奇跡を見せることができたとしても、それでも私は……私は癒しを信じません。」
私は言いました。
「もちろんです。それは不信者のためのものではありません。信じる者たちのためだけのものです。」分かりますか。
その通りです。それは不信者のためではありません。ただ信じる者たちのために意図されたものなのです。それだけです。
この聖霊は、信じる者たちのためのものです。神の癒しは、信じる者たちのためのものです。不信者ではありません。信じる者たちのためなのです。
26. そして、どれほど人々が「聖霊などというものはない」と語ったとしても、人々は同じように聖霊を受け続けているのです。分かりますか。彼らはそれを説明できないかもしれません。彼らは一インチの中に分子がいくつあるか、月まで何マイルあるかを説明できないかもしれません。しかし、自分たちが何かを受けたことを知っており、それを喜んでいるのです。
これは冗談ではありませんが、最近クリスチャン・ビジネスメンのある集会で語られた話です。一人の年配の黒人の姉妹が、証しをしたいと言いました。彼女は南部風の言い方で、こう言いました。
「わたし、証しをしたいんです。」
そして言いました。
「わたしは、なりたい自分にはまだなっていません。ならなければいけない自分にも、まだなっていません。でも、それでも、昔のわたしではもうありません。」
ですから、今夜、教会もそのように言えるのではないかと思います。
私たちは、なりたい自分にはまだなっていないかもしれません。そして、なるべき自分にもまだなっていないかもしれません。しかし、私たちは、何かが起こったことを知っています。私たちは、かつての自分ではありません。
私はそれを知っています。なぜなら、あなたがたは死から命へと移ったからです。何かが起こったのです。そして私たちはそれを知っています。私たちの人生の内側で、何かが起こったのです。
それが私たちをアブラハムの子孫とするのです。なぜなら、私たちはキリストのうちにあるからです。
27. さて、イエス様はその子孫について、こう言われました。アブラハムのこの子孫をつまずかせるくらいなら、首にひき臼をかけられて、海の深みに沈められるほうが、はるかによい、と。
「わたしを信じるこれらの最も小さい者の一人を……」それは……。
そして神はアブラハムに言われました。
「あなたを祝福する者を、わたしは祝福し、あなたを呪う者を、わたしは呪う。」
さて、今週の少し後のほうで、私は「神の印」と「獣のしるし」について取り上げるつもりです。そしてその二つを、二晩に分けて扱いたいと思っています。できるなら、ぜひ聞き逃さないでいただきたいのです。
あなたがたは、いろいろな図表や説明をたくさん聞いているでしょう。しかし、聖書がそれを明らかにする時、それがどれほど単純で、どれほど分かりやすいものかを見てください。
そして今……その賛否、両面について見ていきます。
28. それをユダヤ人の民の中で見てごらんなさい。何が起こってきたかを見てください。クリスチャンたちの間でも見てください。何が起こってきたかを見てください。いつもその通りなのです。
ですから、分かりますね。彼は敵の門を勝ち取るのです。
では戻って、ユダヤの契約のもとにあったアブラハムの子孫の中から、何人かの人々を見てみましょう。そしてそこから、ユダヤ人の時代から異邦人の時代へと私たちが接ぎ木されたところへ持って来ましょう。主がその御名のために一つの民を取られるためです。
さて、アブラハムの子孫であった何人かの人々を取り上げ、彼らが敵の門を勝ち取ったかどうかを見てみましょう。
29. 少しの間、イスラエルの子らが捕らえられてバビロンへ連れて行かれた時のことを話しましょう。
まず、試練が来なければならない時がありました。試練はいつでもあります。自然界でも、夜明け前がいつも一番暗いものです。そして勝利を得る前には、必ず試練があるのです。戦いがなければ、勝利もありません。
さて、あちらにいたヘブル人の子らは、あるところまで追い詰められていました。王が布告を出したのです。この像にひれ伏さない者は誰でも、燃える炉の中へ投げ込まれる、と。いや、正しく言えば、火の炉の中へです。
そしてその時、彼らは心の中で決めていました。自分たちを汚すことはしない、と。彼らは神の近くを歩んで生きようとしていたのです。
さて、三人のヘブルの若者、シャデラク、メシャク、アベデネゴ、彼らはアブラハムの子孫でした。彼らには、神の約束がありました。すなわち、アブラハムの子孫は敵たちの門を勝ち取る、という約束です。
30. 試練が来る時、神の子がまず避けどころとするものは何でしょうか。人類の手に与えられた最も偉大な武器です。それは祈りです。祈りは、あらゆることを変えます。かつては、神の御心さえ変えたことがありました。
神はご自分の預言者に、「上って行って、王に、彼は死ぬことになると告げなさい」と言われました。すると王は顔を壁のほうに向けて言いました。
「主よ、どうか私を顧みてください。私は全き心をもって、あなたの前を歩んできました。私には、あと十五年が必要です。」
すると神は、その命をさらに十五年延ばしてくださいました。祈りは物事を変えるのです。
それから私たちは、そのヘブルの若者たちが、その夜、祈祷会に集まった様子を見るのです。
「私たちはどうすればよいのか。」
そこには集まりがなければならず、決断がなされなければなりませんでした。疑いなく、彼らは夜通し祈ったことでしょう。そしてその決断は全会一致でした。なぜなら彼らは、試練の時に神に背を向けるわけにはいかない、と決めていたからです。
今、教会全体にとっても、それは良いことではないでしょうか。決断が迫られる時です。
「私はこの世のものに向かうべきだろうか。ほかの人々が行くように、私も行くべきだろうか。」
その決断は、すべてのクリスチャンにやって来ます。あなたにも日々やって来ます。
「私たちはどうするのか。」
あなたは、自分の決断をしなければならないのです。
31. そして彼らは王に告げました。
彼らは言いました……さて……人々は彼らに言いました。
「もしこの神にひれ伏さないなら、あなたがたをこの燃える炉の中へ投げ込む。」
すると彼らは言いました。
「王よ、永遠に生きながらえられますように。私たちの神は、私たちをその燃える炉から救い出すことがおできになります。神にはそれがおできになります。しかし、たとえそうなさらなくても、私たちはこの像にひれ伏すことはいたしません。私たちは心を決めました。私たちは、主と共に歩む、世に軽んじられた少数の者たちの道を選んだのです。そしてその道に真実に立ち続けます。」
ああ、なんということでしょう。教会が必要としているのは、まさにそれなのです。
32. 神が約束をなさいました。神はご自分の約束に対して責任を負っておられます。あなたがアブラハムの子孫である限り、神は答えなければならないのです。
さて、心の中に少しの疑いも入れてはいけません。その疑いを遠ざけなさい。今、まっすぐ十字架のもとにとどまりなさい。約束をなさったお方を、まっすぐ見つめなさい。
私はまだ一度も、主が失敗なさったのを見たことがありません。そして、主が失敗なさったと読んだこともありません。あなたも決して見ることはないでしょう。なぜなら、主は失敗することがおできにならないからです。主は神であられます。
主が約束をなさいました。主は創世記のずっとここで、その約束をなさいました。そこは種の章です。
「あなたの子孫は、敵たちの門を勝ち取るであろう。」
「一つの敵」ではありません。「敵たち」です。そのすべてです。一つ残らず、すべてです。
33. ですから、その朝のことを私は想像することができます……。少しだけ、この場面を劇のように描いてみましょう。私の心には、それを見る時、とても良いものに感じられるのです……。
ご存じのように、彼らが決断をした後のことです。私は、神は聞いてくださると信じています。しかし神は、必ずしもその場ですぐに祈りに答えなければならないわけではありません。分かりますか。神は、ご自身の時に答えてくださるのです。
もしあなたが神に願い、神を信じるなら、神はご自身の時に答えてくださいます。
ですから私は、栄光の中で……彼らが祈っていた時のことを想像します。神が座しておられる御座の周りに、御使いたちが立っていて、こう言っているのが見えるようです。
「彼らは祈っています。彼らは圧迫の中にいます。」
「そうだ。しかし彼らは最後まで真実に持ちこたえるだろう。わたしは彼らを信頼している。彼らは、わたしのしもべアブラハムの子孫だ。だから彼らは真実に立ち続ける。」
34. 「さあ、もう決めたか。私の神にひれ伏すつもりになったか。」
彼らは言いました。
「いいえ、私たちはひれ伏しません。」
「よし、それなら……。」
それで王の怒りは燃え上がり、炉をこれまで熱くしたことのないほど、七倍も熱くさせました。そして、屈強な男たちを何人か連れて来させました。彼らは三人を炉の中へ投げ込むために、そこへ歩いて行きました。
そして炉に近づいて行く時、まさに暗い時が来たように見えました。
それは、クリスチャンにも時々そのように見えるものです。誰かが……。若い女性が、本当に愛している男の子に説得されて、初めてのたばこを吸うように迫られる時。あるいは、働いている会社の上司のパーティーで、初めて酒を飲むように、初めてカクテルを飲むように、強いられる時。あるいは、家に妻と家族のいる男性が、不道徳な女性に誘惑される時。
あなたはその門のところで、そうした障壁に出会うのです。
けれども、もしあなたがただ……。神があなたを見捨てられたように見えるかもしれません。それでも、しっかりと歩き続けなさい。主を見つめなさい。ただ前へ進み続けるのです。
35. ご存じでしょう。慌ててしまうのは、私たちのほうなのです。あなたが夜ごとに癒しを受け入れていることについてはどうでしょうか。
あなたは思うかもしれません。
「ああ、明日には……。まだ咳が出ている。私の手はまだ不自由だ。」
しかし、それは何の関係もありません。あなたが本当に、正直に、心の奥底から、キリストがあなたのためになさった完成された御業としてそれを受け入れたなら、それは終わっているのです。それですべてです。はい、その通りです。ただそこにとどまり続けなさい。
さて、彼らは歩き続けました。私は想像できます。シャデラクがメシャクのほうを見て、こう言ったかもしれません。
「私たちはちゃんと祈り切っているよね。」
「ああ、もちろんだ。」
彼らはそのまま歩き続けました。炉はますます熱くなり、顔の皮膚がはがれそうになるほどでした。聖書でさえ、その炉の激しい熱が、彼らを投げ込んだ男たちを殺したと言っています。それは、最も暗い時のように見えました。
彼らは、ただ炉の縁までまっすぐ歩いて行きました。
しかし、ご存じでしょう。時に神は、あなたを試すために、物事をそこまで許されることがあります。アブラハムは、まず試されるまでは、敵の門を勝ち取ることは決してありませんでした。そしてあなたも、試練を通るまでは、敵の門を勝ち取ることは決してありません。
「ある者は水を通り、ある者は洪水を通り、ある者は深い試練を通る。しかし皆、血潮を通って行く。」
神はご自分の子どもたちを導かれます。分かりますか。あなたはまず、試されなければならないのです。
ああ、その時、私生児は試練の中で倒れます。しかし、神の真の子は真実に立ち続けます。彼は自分の所有がどこにあるかを知っています。自分がどこに立っているかを知っています。自分に何が起こったのかを知っています。死から命へと移されたことを知っています。そして、神が祈りに答えてくださることを知っているのです。
36. それは、どん底にまで行くことがあるのです……。私は、がんの患者がほとんど最後の息にまで近づくのを見たことがあります。
最近、一人の兄弟が関節炎で横たわっていました。彼の手はこのようになっていました。聖霊が彼に告げました。
「主はこう言われる。あなたは癒された。」
彼は家に帰りましたが、状態はさらに悪くなりました。それでも彼は言いました。
「どうしようもない。あの人は私を知らなかった。生まれて一度も私に会ったことがなかったのだ。」
彼はフェニックスに住んでいました。
「彼は生まれて一度も私に会ったことがなかった。それなのに、どうして私が誰であるかを告げることができたのか。あの人の話し方からして、教育を受けた人ではないことは分かる。だから、そこには何か超自然的なものがあったのだ。そして私は……それを受け入れた時、何かが起こったのだ。」
けれども、彼の状態はますます悪くなっていきました。枕を動かすことさえできないほどでした。彼の手のために枕を動かそうとすると、彼は言うのです。
「ああ、妻よ、妻よ。気をつけてくれ。」
ああ、彼はただ叫んでいました。
すると奥さんが言いました。
「あなた、私たちが信じているこの信仰そのものに、そしりをもたらしてしまうのではないかと恐くないのですか。」
彼は言いました。
「そんなことはできない。私は心の中で、それが起こると信じているのだ。」
そして状態は、そこまで悪くなりました。彼は仰向けに横たわり、小さな娘が彼の顔に濡れた布を当てようとしていました。彼は気が遠くなりそうでした。
そして彼が上を見上げた時、十字架の上のキリストが自分の前に来られるのを見たと言いました。そして……彼が頭を垂れて死のうとした時……。彼は、自分の息が去っていくと思いました。もう息ができなかったのです。関節炎が全身に広がっていました。
そして彼が死のうとして頭を垂れた時、キリストがそこで御頭を垂れられるのを見たのです。
その瞬間、彼は大きく跳び上がり、椅子から飛び出しました。そして部屋中を、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると歩き回ったのです。
なぜでしょうか。彼は十字架へ行った時、門を勝ち取ったのです。しかしまず、あなたは勝ち取らなければなりません。試練を受けなければならないのです。
37. 時に私たちは、本当に暗いと思うことがあります。しかし覚えておいてください。イエス様が通りかかられるのは、最も暗い時なのです。
ラザロの姉妹であるマリヤとマルタ、あの小さな姉妹たちもそうでした。クリスチャンの家庭でした。彼女たちは主イエスを信じるために、自分たちの会堂を離れました。そしてそれは、彼女たちにとって最も暗い時でした。彼女たちは自分たちの教会から出て来てしまったのです。もう戻ることはできませんでした。
イエスに従う者だと告白する者は、誰でも教会から除名されました。なぜなら主は過激な者、彼らの教会を引っかき回して歩く者のように見られていたからです。彼らはそれを望みませんでした。
それで彼らは言いました。
「もし誰かがあの人に従おうとするなら、その者を交わりから追い出す。」
ですから、彼女たちはその交わりの外にいました。もう教会へ戻ることはできませんでした。彼女たちは……異端者とされてしまうのです。
そしてその時、彼女たちがそのために出て来たまさにそのお方――主イエス――彼女たちがそのために出て来たそのお方に、人を遣わして、兄弟が出血して死にかけているので来て祈ってください、と頼みました。
しかし主は……来ることを拒まれました。彼女たちは二度目に人を遣わしました。それでも主は来ることを拒まれました。ああ、その時は何と暗い時だったことでしょう。
ついに真夜中の時が来て、その時が打たれ、その若者は死にました。彼らは彼を墓に納めました。彼はそこに四日間いました。すでに彼の体には腐敗が始まっていました。体の中には虫が入り、地の中から来た虫が彼の肉をはい回っていました。
彼女たちがこれまで見た中で、最も暗い時でした。まさにその時、イエス様が通りかかられたのです。その暗い時に、ちょうど来られたのです。
38. 「ブラナム兄弟……。」
私はラザロのよみがえりについて話していました。すると彼女は言いました。
「あなたは……イエスが神であることを、あまりにも誇張しすぎています。」
私は言いました。
「主は神であられました。そうです。」
彼女は言いました。
「では、あなたの聖書を使って、主が神ではなかったことを証明してみせます。」
私は言いました。
「どうぞ、やってみてください。」
すると彼女は言いました。
「ヨハネによる福音書11章には、イエスがラザロの墓へ行き、涙を流されたと書いてあります。」
私は言いました。
「それは何の妨げにもなりません。主は人であり、また神であられたのです。」
そして私は言いました。
「主が涙を流しておられた時、確かに主は人でした。しかし、四日も死んでいて、すでに鼻も落ち込み、虫がその体を食っている男の墓のそばに立ち、『ラザロよ、出て来なさい!』と言われた時、それは人以上のお方でなければできませんでした。」
はい、その通りです。
39. しかし、五つのパンと二切れの魚を取り、五千人を養われた時、それは人以上のお方でした。はい、その通りです。その人の中におられた神でした。はい、その通りです。
その夜、あの小さな舟の後ろのほうに横になっておられた時、主は人でした。海には四万もの悪霊がいて、主を溺れさせてやると誓っていました。あの小さな古びた舟は、まるで水に浮かぶ栓のように、波の上で揺さぶられていました。
悪魔は言いました。
「今こそ、あいつを捕まえた。眠っているぞ。溺れさせてやろう。」
主は人でした。疲れ果て、くたびれて、舟の後ろに横になり、どこかにあった枕をして眠っておられました。
しかし兄弟よ、ひとたび主が立ち上がられた時、ああ、なんということでしょう。舟べりに御足を置き、見上げて言われました。
「静まれ、黙れ。」
すると風も波も、主に従いました。それは人以上のお方でした。その人の中におられた神でした。
十字架の上で憐れみを叫び求めたのは、人でした。その通りです。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
主は憐れみを叫び求めながら死なれました。その通りです。
しかし三日目の朝、主が死の封印を打ち破り、三日目によみがえり、高き所へ昇られた時、主は人以上のお方でした。
これまでに何らかの価値あるものとなった者は皆、それを信じています。その通りです。詩人も、作家も、預言者も、その他誰であっても、それを信じているのです。
40. ご存じでしょうか。私たちはこの地上で起こっていることを見ています。しかし同じ時に、天でも何かが起こっているのです。私たちにはそれが見えないかもしれません。しかし、それでも起こっているのです。
失礼しました。
では今、私たちのカメラを天のほうへ向けてみましょう。私は、イエス様が御座に座しておられるのを見ることができます。夜が明けようとしています。炉からの煙が、空高く立ち上っています。私は、主がそこに座して、下を見つめておられるのを見るのです。彼らがどうするかを見ておられるのです。
それは、私たちが試される時、主があなたや私に対してなさることと同じです。
主は、アブラハムの子孫が敵の門を勝ち取ると約束されました。私はそれを信じています。
41. すると突然、一人の偉大な御使いが、主の右側に進み出て来ます。直立不動に立ち、剣に手をかけます。彼はガブリエルです。
彼は言いました。
「父よ、あそこをご覧になりましたか。彼らはアブラハムの子孫です。確かに、彼らはあなたを信じています。彼らは夜通し祈りました。そして今、自分たちの死の中へ入って行こうとしています。私を行かせてください。私が状況を変えてまいります。」
私は、彼ならそれができたと信じます。その通りです。
主は言われました。
「その通りだ、ガブリエル。あなたは良い御使いだ。ただそこに立っていなさい。」
すると、もう一人の御使いが進み出て来ます。彼の名はワームウッドです。彼はすべての水を司る御使いです。
私は彼が直立不動に立ち、こう言うのを見るようです。
「父よ、バビロンの下をご覧になりましたか。」
「そうだ。わたしは夜通し彼らを見守っていた。」
ああ、主の目はすずめの上にあり、私は知っています、主が私を見守ってくださっていることを。
「わたしは夜通し彼らを見守っていた。」
「今朝、あちらでは三人の人を焼き尽くそうとしています。あなたの御言葉をそのまま受け取り、勇敢にその上に立っているアブラハムの子孫たちです。ご存じでしょう、かつてあなたは私に、すべての水を解き放つようお命じになりました。私はその支配を任されています。私を行かせてください。バビロンを地図から洗い流してしまいましょう。」
彼にはそれができたでしょう。
私は、主がこう言われるのを聞くようです。
「その通りだ、ワームウッド。あなたはすばらしい御使いだ。わたしがあなたを創造して以来、あなたはわたしが命じたことを、すべてその通りに行ってきた。ガブリエル、あなたもそうだ。
しかし、分かるだろう。わたし自身が下って行く。これは、わたしの仕事なのだ。」
ああ、なんということでしょう。
42. 今夜、主が座しておられるところで、その祭司の衣が主のまわりに垂れています。それは血に染まっています。主は、私たちの告白の上にとりなしをしておられるのです。なぜなら主は、私たちが求めるどんなことでも成就させるために死なれたからです。
私たちの信仰は、この方のどこにあるのでしょうか。
そこに主が立ち上がられ、あちらへ合図されます。すると、大きな白い雲が主のそばへやって来ます。主はその上に乗られ、東の風、北の風、南の風、西の風を呼び寄せ、それらを馬のように走らせます。そして手を伸ばして、ジグザグに走る稲妻をつかみ、それを空に鳴り響かせます。
彼らがそこへ足を踏み入れる前に、主はすでにその炉の中におられました。燃える火の炉の中で、彼らと共におられたのです。
主はそこに立っておられました。命の木のあたりから取って来た大きなしゅろの扇を持って、燃え盛る炎を彼らからあおぎ払っておられたのです。そのようにして。
そして言われました。
「わたしは、あなたがた子どもたちと少し話したいのだ。あなたがたがアブラハムの子孫であることを、わたしは知っている。わたしがその約束を与えた。そして今、わたしはそれに答えるためにここにいる。」
そうして炎を彼らから遠ざけておられたのです。ああ、そうです。
彼らは炉を開けました。そして言いました。
「おまえたちは、何人をそこへ入れたのか。」
「三人です。」
彼は言いました。
「そこにはもう一人いる。そしてその方は、神の子のように見える。」
主ご自身だったのです。
なぜでしょうか。彼らは……試された後に、敵の門を勝ち取ったからです。アーメン。
43. 彼はカーテンを開け、日よけを上げ、いつものようにひざまずいて祈りました。はい、その通りです。いつものように祈ったのです。
そして何が起こったでしょうか。
彼らは試練を通りました。人々は言いました。
「おまえをライオンの餌にしてやる。」
しかもそのライオンたちは、何週間も飢えさせられていました。
彼は言いました。
「私の神は、あのライオンたちから私を救い出すことがおできになります。」
しかし、彼が試練を通った後、何が起こったでしょうか。彼は敵の門を勝ち取ったのです。
なぜでしょうか。彼は神に対して真実であったからです。
モーセもまた、神に対して真実であり、試練を通った後、イスラエルの子らを義務の道へと導いて来ました。
自然界のすべてが、それに反対して叫んでいるようでした。片側には山々があり、荒野があり、パロの軍勢が追って来ていました。そして紅海が彼らの行く手をふさいでいました。
まさに彼らは閉じ込められていたのです。まるで神が、あまりにも下手な軍略家で、彼らをその隅へ追い込み、そこで滅びるままにされたかのように見えました。
44. 神は、がんで死にかけている人、心臓の病を持つ人、目の見えない人、苦しめられている人を世話される準備ができています。その人がただ、そこに信仰を置くならばです。神はその人を死から命へと向きを変えさせ、証しをもって歩み出させてくださいます。神はそれをなさるのを待っておられるのです。
神は、あなたがどうするかを見るために、あなたをまさにその罠の中へ置かれるのです。神は彼らを、まさにあの罠の中へ置かれました。自然そのものが顔を隠しているように見えました。そうです。
ある著者がかつて言いました。
「彼らがその場所に来た時、モーセがどうするのだろうかと思われた。ただ一つの命令があった。前進せよ!」
もしあなたが義務の道にいるなら、何が道をふさいでいようとも……。
私がこれまでに経験した最も偉大な体験は、自分では越えることも、くぐることも、下を通ることもできないようなものにぶつかった時、ただそこに立って、神がその中に道を造られるのを見ることでした。
それがなすべきことです。ただ進むのです。進み続けるのです。鼻先をそこに押しつけるほどにして、ただ進み続けるのです。ただ前へ行き続けなさい。神が道を造ってくださいます。
45. 人が言いました。
「モーセ、おまえはなぜその聖書を持っているんだ。読めないじゃないか。」
彼は言いました。
「わしはそれを信じているんです。」
「では、どうしてそれが正しいと分かるんだ。」
彼は言いました。
「まあ、それは……。わしは表紙から表紙まで信じています。表紙も含めてです。」
そして言いました。
「そこに『聖書』と書いてありますから。」
相手は言いました。
「じゃあ、おまえはそこに書いてあることを全部信じるんだな。」
彼は言いました。
「はい、旦那様。」
「じゃあ、神がおまえに何かをせよと言われたら、何でもするというわけだな。」
彼は言いました。
「いたします。」
「では、もし神がおまえに、あの壁、あの石の壁を突き抜けて跳べと言われたらどうするんだ。どうやってそこを通るんだ。」
彼は言いました。
「もし神が跳べと言われるなら、わしは跳びます。わしがそこへ着く時には、神が穴を開けてくださいます。」
その通りです。ですから、それこそ私たちがしなければならないことなのです。神を受け取り、それを信じ、とにかく跳ぶのです。
もしあなたがそれを説明でき、理解できるなら、それはもう信仰ではありません。あなたの信仰とは、神があなたのために成し遂げてくださったと信じることです。
「信仰とは、望んでいる事柄の実体であり、まだ見ていない事柄の証拠です。」
あなたはそれを見ていません。説明することもできません。神を解き明かす方法などありません。ただ神を信じ、歩み続けなければならないのです。主がそう言われたのです。
それが、私が幻のために講壇に立つ時の立ち方です。それが……。主は、人間的には不可能に見えるあることを行えと私に言われます。そして皆さんも、それをご存じです。それは人間的には不可能です。しかし主が「それをしなさい」と言われるのです。
ただ進むのです。主がそれを引き受けてくださるお方です。そして主はそれをなさいます。はい。
ああ、主よ、あなたは何と偉大なお方でしょう。
46. ある著者だったと思いますが、こう言いました。神があの火の柱を通して、怒りのまなざしで見下ろされた、と。義務の道を歩んでいる神の子どもたちを遮ろうとしていた紅海を、神が見下ろされたのです。すると海は恐れて退き、彼らのために道を造った、と。
もし神が火の柱を通して見つめ、それをなさることがおできになったなら、御自身の御子の血を通して見つめられる時には、何が起こるでしょうか。
そこには、神が必ず面倒を見ると誓われた約束を持つ告白者が立っているのです。そして神は、アブラハムの子孫が敵の門を勝ち取ると誓われました。確かにそうです。
今夜、御自身の御子の血が憐れみの座の上に置かれているゆえに、神はそれをなさる義務を負っておられるのです。
ああ、私たちがこの地に縛られた考えから離れて、あちらを見上げることができるなら。約束をなさったお方が、創造の神そのものであることを見ることができるなら。はい。
ヨシュアも、カデシュで試練を受けた後……戻って来ました。牧師たちの90%は言いました。
「私たちにはそれを取ることはできない。」
47. 「私たちは十分にそれを取ることができます。」
彼とカレブです。そして彼は……250万人の中で、向こうへ渡ったただ二人のうちの一人でした。
彼は何をしたでしょうか。彼はヨルダン川まで来ました。それは彼を約束の地から締め出していました。しかし彼は、敵の門を勝ち取ったのです。
なぜでしょうか。彼が神の御言葉をそのまま受け取ったからです。彼は試練を通り、それを信じました。神が御言葉を守られることを知っていたのです。ですから彼は、敵の門を勝ち取ったのです。
私はこのまま、いくらでも続けることができます。しかし時間を過ぎてしまっています。
これらすべての偉大な戦士たちは、一人ひとり、大いなることを行いました。彼らは……大いなる奇跡を行い、羊の皮をまとってさまよい、荒野を歩き、貧しくされ、ある者はのこぎりで引き裂かれ、さまざまなことを経験しました。
ヘブル人への手紙11章が語っているように、これらすべての偉大な戦士たちは、皆、ついには死へと下って行きました。一人ひとりが、死へと下って行ったのです。
48. 主が地上を歩まれた時、主こそまことのアブラハムの子孫でした。主は地上を歩まれ、人々のために病の門を勝ち取られました。苦しみの門を勝ち取られました。すべてを……。
ゲッセマネの園で、またその朝の法廷で、主は誘惑の門を勝ち取られました。変貌山において、主はご自身が何者であるかを証明されました。
悪魔が主を別の山へ連れて行った時、主は敵に対する力を勝ち取られ、ご自分にそれができることを示されました。
「もしあなたが神の子なら、この石をパンに変えてみなさい。」
主はそうする必要はありませんでした。主は言われました。
「書いてある。人はパンだけで生きるのではない。」
主は神の御言葉を取られました。なぜなら主は、アブラハムの真の子孫であり、神が約束されたすべての祝福を所有しておられたからです。はい、その通りです。
主は誘惑の中に立ち、言われました。
「わたしは今すぐ父に願うことができる。そうすれば父は、十二軍団以上の御使いたちを送ってくださる。」
一人の御使いでさえ、どれほどのことができるでしょうか。十二軍団の御使いです。彼らが望むなら、状況を変えることができたでしょう。その通りです。
しかし主は、私たちと同じように、あらゆる点で誘惑を受けなければならなかったのです。
主はそこに立っておられました。ひげは顔からむしり取られ、血を流し、嘲りを受け、兵士たちの酒臭いつばが御顔に垂れていました。彼らは主の頭にこのように布をかぶせ、葦で頭を打って言いました。
「さあ、おまえは預言者だと言ったな。人の心を読めるのだろう。誰がおまえを打ったのか言ってみろ。誰がおまえを打ったのか言ってみろ。」
主には、それを言うことがおできになりました。しかし、そうしていたなら、悪魔の声に耳を傾けることになったでしょう。
主は敵の門を勝ち取られました。主は誘惑に立ち続けられたのです。
ああ神よ、このようなお方のゆえに。まことにその通りです。
49. しかし兄弟よ、三日目に、主は死と地獄と墓の門を勝ち取り、三日目によみがえり、そのすべてに打ち勝たれたのです。主は病、死、地獄、墓、そしてすべてのものを取られました。
私は、主がそれらの門を蝶番ごと引きちぎり、取り外して、高くよみがえり、高き所へ昇られたのだと信じています。
そして今夜、あなたがたは勝利者以上の者です。主の子孫は、敵の門を勝ち取るのです。はい、その通りです。
主はすべての門を勝ち取られました。あらゆる病に勝利されました。あらゆる罪に勝利されました。あらゆる誘惑に勝利されました。死に勝利され、地獄に勝利され、墓に勝利されました。主はそのすべての門を勝ち取られたのです。
そして、私たちは主のうちにあって、勝利者以上の者なのです。ハレルヤ。なぜなら、主が私たちのために勝利してくださったからです。
ああ、もし私たちが、アブラハムのまことの子孫とは何であったのか、それが私たちにとって本当は何を意味しているのかを、いつも知っているなら。
50. 少し前に話したように、悪魔が主を山の上へ連れて行った時、彼は思ったのです。
「まさか、そうなのか。この人はただの預言者ではないのか。本当に神の子なのか。」
そして彼は言いました。
「もしあなたが神の子なら。」
これは、彼が疑っていたことを示しています。
「もしあなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。あなたは空腹なのだから。四十日も断食していたのだから。食べなさい。」
イエス様は言われました。
「書いてある。人はパンだけで生きるのではない。」
それから悪魔は主を神殿の頂へ連れて行き、言いました。
「身を投げてみなさい。こう書いてあるではないか。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。あなたが足を石に打ちつけることのないように、彼らはあなたを支える』と。」
主は言われました。
「そうだ。しかしまた、こうも書いてある……。」
主はすべてにおいて、神の御言葉をもって悪魔に立ち向かわれました。なぜなら、主はアブラハムのまことの子孫であられたからです。
51. 主は人でした。あなたと同じように、私と同じように、人でした。主には結婚する権利がありました。家庭を持つ権利がありました。私たちが持つものを持つ権利がありました。衣服を持つ権利もありました。主にはそれができたのです。
水をぶどう酒に変えることのできるお方、魚の口の中に硬貨があることを知っておられるお方です。まことに、主は天と地を所有しておられました。それにもかかわらず、主はそれらのものを控えられたのです。
聖書の中で最も甘美な御言葉……それは主がこう言われた時です。
「父よ、わたしは彼らを聖別するために、わたし自身を聖別します。」
主は何をしようとしておられたのでしょうか。模範を示しておられたのです。
主は、世界を征服する福音を携えて、十二人を送り出そうとしておられました。そして主は、それを成し遂げるために、あなたと私に期待しておられるのです。
もし主がそのようにご自身を聖別されたのなら、なぜ私たちは、すべての失敗、すべての疑い、その他すべてのものを脇に置いて、自分自身を聖別しないのでしょうか。なぜなら私たちは、主を通してアブラハムの子孫であり、主を通して勝利者以上の者だからです。そうです。
主には結婚する権利がありました。家庭を持つ権利がありました。枕に頭を置く権利もありました。
しかし、
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には、頭を横たえる所もない。」
なぜでしょうか。
「父よ、わたしは自分自身を聖別します。彼らのために、わたしはそれをするのです。」
彼らのためでした。主がそうしなければならなかったからではなく、彼らのためだったのです。
主は、すべての敵に勝利されました。
52. 主は言われました。
「わたしは安息日の主です。」
そして主は、その通り安息日の主でした。彼らは、主がご自身を神としていると言いました。そして主は神であられました。
そこには、主に対するあらゆる偽りの訴えや、偽証人たちがいました。
ついに主は、大きな鞭で打たれ、肋骨が見えるほどにされました。そして背にまとっておられた小さな衣も、彼らははぎ取りました。主は柱に縛られて打たれたのです。
それは何だったのでしょうか。それこそ、アブラハムのまことの王なる子孫でした。
今夜、私たちが立つのはそこです。
私の信仰は、
イエスの血と義以外の
何ものにも築かれてはいない。
私の魂の周りのすべてが崩れる時、
主こそ、私のすべての望み、
私の支えであられる。
キリストという堅い岩の上に、私は立つ。
他のすべての地は沈む砂、
他のすべての地は沈む砂。
私が自分の希望を置くのは、まさにそこ、その堅い岩の上なのです。
アブラハムの子孫です。主はすべての門を勝ち取られました。死と地獄に至るまでです。
そこにおられる主をご覧なさい。嘲りを受けておられます……。あの女が再び主の足を洗おうとしているような……。彼らは主の顔に布をかぶせて言いました。
「もしおまえが預言者なら、誰がおまえを打ったのか言ってみろ。そうしたら信じてやろう。」
十字架の上では、彼らは言いました。
「もしあなたが神の子なら、降りて来なさい。そうすれば信じてやろう。」
しかし、主が何をなさったとしても、彼らはどうせ信じなかったでしょう。主は彼らに心を乱されませんでした。
53. あの朝は、恐ろしい朝でした。私たちは一つの部屋に戻っているとしましょう。さあ……この会衆の皆さんを、そこへ連れて行きたいのです。あるものを見ていただきたいのです。
窓のところへ行ってみましょう。わめき立てる群衆の声が聞こえます。何事でしょうか。カーテンを上げて、外を見てみましょう。
何かがぶつかりながら、通りを下って来る音が聞こえます。何でしょうか。それは十字架です。十字架が通りを引きずられ、古い石畳の上を、ゴトン、ゴトンと音を立てながら、ゴルゴタへ向かって行くのです。
それがアブラハムの子孫です。そこに、第二のアダムが行かれます。
エデンの園で、神が……ご自身の聖さと御言葉に真実であるゆえに、エバとアダムが悪を行った時のことです。神ご自身が園の中を行き巡りながら、呼ばれました。
「アダム、アダム、あなたはどこにいるのか。アダム、あなたはどこにいるのか。」
この人イエスが誰であったのかを知りたい人がいるなら、最初の失われた息子を探しに来られたのは、誰だったのでしょうか。神は御使いを遣わされたのでしょうか。いいえ、神ご自身が来られたのです。神ご自身が来られました。主はそのように来られたのです。
あなたがたは……
54. そして、もし正義がないなら、律法もありません。もしそれに伴う正義、裁きがないなら、律法を持つ必要などないのです。
信号を無視したら十ドルの罰金だという法律があるとしましょう。それなのに、「信号を無視してはいけません」と言うだけで、その背後に罰金もなく、支払うべき罰もなく、裁きもないなら、その法律に何の意味があるでしょうか。
裁きがなければ、正義はありません。
ですから、正義は死ぬことでした。だから、それが神にできる唯一のことだったのです。
55. 小さなエバがそこに立っていました。この世に存在した中で最も美しい女性でした。なぜなら、彼女は神ご自身の御手によって造られたからです。彼女の目は天の星のようでした。彼女を美しく見せるために、化粧品など必要ありませんでした。
そして彼女が……このように覆われていた時。
彼女はそこに立っていました。美しい小さな体に血が流れ落ちていました。そして、椰子の木々の間にかかる大きな光の中で、神の御顔を見つめていました。
「わたしの前から去れ。」
さあ、アダムが歩き出すところを見てください。血に染まった古い羊の皮が、彼の足にまとわりつき、ばたばたと打ちつけています。
神は、それに耐えることがおできになりませんでした。神は父であられるからです。
そして言われました。
「少し待て。わたしは、おまえの子孫と蛇の子孫との間に敵意を置く。」
56. ここを主は上って行かれます。この第二のアダム、神ご自身が下って来て人となられ、その丘を上って行かれるのです。悪魔はいつも、その御言葉を憎みました。しかしそれは真実です。はい、その通りです。主は単なる預言者以上のお方でした。
今日、人間中心のこの宗教を持つ人々は、イエスはただの善人であり、哲学者であり、その教えを聞くのはよいことだ、と言っています……。もし主が神でなかったなら、もしあれがインマヌエルの血でなかったなら、主は私と同じ一人の人間にすぎなかったことになります。そしてその時、私たちは失われています。主は神であられました。
神、すなわち聖霊がマリヤを覆い、一つの血の細胞を創造されました。そしてそれが、ユダヤ人の血でもなく、異邦人の血でもない、神ご自身の血を生み出したのです。
血は男性の性から来ます。しかしこれは、性とは何の関係もない、創造された血でした。そしてその神ご自身が、あの丘を歩いて上って行かれたのです。
主をご覧なさい。主の肩には小さな衣がかけられていました。それは継ぎ目なく、上から下まで織られていました。
主が歩いて行かれるのに私は気づきます……。私は信仰によって主を見ています。そして信仰によって、皆さんに主をお見せしているのです。あの衣の背中全体に、小さな赤いしみがついています。なぜそのようになっているのでしょうか。
主がさらに通りを上って行かれ、十字架がその肩をこするにつれて、その小さなしみが、だんだん大きくなっていくのに私は気づきます。それは何でしょうか。どうしたのでしょうか。
突然、それらはすべて一つの大きな血のしぶきとなりました。そして私は、別の何かが主の足に打ちつける音を聞きます――第二のアダムが、血に染まった衣を足に打ちつけながら、丘を上って行かれるのです。
57. 「分かるか。私は、あいつが預言者だとさえ、もう信じられない。あれが神であるはずがない。神なら、あんなふうにはなさらない。あのような酔っぱらいの嘲る群れに、自分を踏みにじらせたりはしない。彼らに『ホーリーローラー』などと呼ばせたりはしない。」
――私はあなたがたに話しているのです。
「彼らに『古臭いやつだ』とか、そんなふうに言わせたりはしない。『おまえは古い狂信者だ』などと言わせたりはしない。神なら、そんなことは決してなさらない。」
しかし、主は神であられました。主の御国は上からのものでした。そして主に属する者たちも同じです。彼らの国は上にあります。
彼らは上から来た者のように振る舞います。上のことを語ります。彼らの宝のあるところに、彼らの心もあるのです。彼らはそのことを語っているのです。
58. 「行って、今あいつを捕らえろ」と言いました。
「行って、あいつを捕らえろ。今こそ、あいつを捕らえる時だ。」
その蜂は、まるで大きな古い死の蜂のように、主の周りをぶんぶんと飛び回り始めました。主の周りを、うなりながら回っているのです。
そして言います。
「そうだ、見ろ。あいつは血を流している。見ろ、顔中につばをかけられている。見ろ、みんなが笑い、あいつをからかっている。」
私は、一人の小さな女性が駆け出して来て、こう言うのを見るようです。
「この方が何をなさったというのですか。どんな悪いことをなさったというのですか。この方は、私たちに福音を宣べ伝えた以外に、何をなさったのですか。あなたがたの病人を癒した以外に、何をなさったのですか。」
すると誰かが、彼女を払いのけるように打ちのけます。そして言います。
「あの気のふれた女の言うことを聞くのか。それとも、おまえたちの祭司の言うことを聞くのか。」
主と共に、さらに丘を上って行きましょう。彼らはまた主を打ちました。それでも主は丘を上って行かれます。
その蜂は言います。
「しばらくしたら、あいつを捕らえてやる。あいつを十字架にかけた時に。」
59. しかし、ご存じですか。あの蜂の一匹が、ひとたび自分の針を深く突き刺すなら、その針を引き抜いてしまうのです。
兄弟よ、死がその針をあの肉に突き刺した時、それはただの人間ではありませんでした。死はその針をインマヌエルの肉に突き刺したのです。そしてそうした時、死は自分の針を引き抜いてしまったのです。
申し上げます。今や、アブラハムの子孫に対して、死はぶんぶん飛び回り、音を立てることはできます。しかし、もはや針を持ってはいません。
死に向かっていたある人が言いました。
「死よ、おまえの針はどこにあるのか。墓よ、おまえの勝利はどこにあるのか。しかし、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださる神に感謝します。」
そうです。死はぶんぶん音を立て、大きな騒ぎをし、騒ぎ立て、病院へと引きずって行くことはできます。医者たちがそこに立ち、多くの人が嘆き、泣いている中へ連れて行くことはできます。
しかし、あなたは死の顔をまっすぐ見て、こう言うことができます。
「死よ、おまえの針はどこにあるのか。私はアブラハムの王なる子孫を指し示すことができる。その血によって私は生まれたのだ。主は死からその針を引き抜かれた。だから死よ、おまえには私のための針はない。墓よ、いつか私はおまえの中で朽ちるかもしれない。だが、おまえの勝利はどこにあるのか。しかし、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださる神に感謝します。」
そして、主の子孫はその敵たちの門を勝ち取るのです。主のすべての敵の門を勝ち取るのです。
そして主が来られた時、主はすべての門を勝ち取られました。病の門、死の門、地獄の門、誘惑の門、墓の門。主はすべての門を勝ち取られ、それを惜しみなく私たちに与え、私たちを、私たちを愛し、ご自身を私たちのために与えてくださったお方によって、勝利者以上の者としてくださるのです。
60. 今夜、もしこの建物の中に、この方を自分の救い主として知らない方がおられるなら、そして自分の人生が神の前に正しくないと分かっている方がおられるなら、手を上げてくださいますか。そしてこう言ってください。
「ブラナム兄弟、私のために祈ってください。この閉会の祈りの中で、私のために祈ってほしいのです。」
あちらの隅の方、神の祝福がありますように。ずっと後ろのご婦人、神の祝福がありますように。
ほかにもおられますか。バルコニーの方々はどうでしょうか。そちらで手が上がるのが見えますか。あちらの皆さん、神の祝福がありますように。こちらのご婦人、神の祝福がありますように。
ほかに、どなたか手を上げてくださいますか。害になることはありません。ただ手を上げて、こう言うのです。
「私は……」
あなたは自分自身のことを知っています。
「ブラナム兄弟、私はアブラハムの子孫ではありません。私は教会に属しているだけです。」
こちらの男性、神の祝福がありますように。
「私はアブラハムの子孫ではありません。」
こちらのご婦人、神の祝福がありますように。今夜、主があなたに豊かでありますように。私の右手のほう、はい、主の祝福がありますように。
ほかにおられますか。手を上げて、ただ手を上げて、こう言ってください。
「ブラナム兄弟、祈りの中で私を覚えてください。私は……私はアブラハムの子孫になりたいのです。」
覚えておいてください。もしあなたがアブラハムの子孫でないなら、あなたはその約束の中にいないのです。
61. しかし兄弟よ、姉妹よ、それはあなたの死の時にも、主イエスの来臨の時にも、少しも助けにはなりません。あなたはアブラハムの子孫でなければならないのです。
そして、あなたがアブラハムの子孫となる唯一の道は、自分自身を否み、自分自身に死に、聖霊によって新しく生まれることです。なぜなら、キリストのうちにあった命が、私たちをアブラハムの子孫とするからです。
私たちは、神の約束によって私たちに与えられた聖霊によって、その子孫にあずかるのです。
「この約束は、あなたがたと、あなたがたの子どもたち、また遠くにいるすべての者、すなわち、私たちの神である主が召される者すべてに与えられているのです。」
62. もしあなたが教会員であるなら、私たちはこの教会に加入しなさいと求めているのではありません。いいえ。私たちはただ、あなたがアブラハムの子孫となることを願っているのです。
兄弟よ、姉妹よ、私はこの人生において、もう二度とあなたに目を留めることはないかもしれません。しかし、あの裁きの座において、私はあなたと向き合わなければならないのです。分かりますか。
ですから、今夜を覚えておいてください。1961年2月13日、この夜を。
この日が、裁きの大空の幕の上に広げられる時、この集会のことがあなたの記憶によみがえるでしょう。
そちらの壁際の方、神の祝福がありますように。
「私はイエスを信じたいのです。今夜、アブラハムの子孫になりたいのです。」
聖書は、外面的なものがユダヤ人なのではなく、内面的なものこそがユダヤ人である、と言っています。
「その子孫は、敵たちの門を勝ち取る。」
今、私たちは敵を追い立てています。すでに十人か十二人ほどの手が上がりました。それは……私たちが敵を追い立てていることを示しています。
今夜、もう一人、私たちの隊列に加わる方はいませんか。そして手を上げて、こう言ってくださる方は……。
あなたに神の祝福がありますように、先生。神の祝福がありますように。
後ろのほうにおられますか。後ろの方、神の祝福がありますように。
はい、バルコニーの兄弟、主の祝福がありますように。はい。私たちの隊列に加わってください。
今、私たちは敵を走らせているのです。
63. 先週、私たちはただ戦い、切り込み、できる限りのことをしてきました。しかし、敵を動かすところまで来ました。分かりますか。
今、多くの人々がやって来ています。隊列の中へ、まっすぐ入って来ています。列に加わっているのです。そこに……。今夜、あなたも私たちと共に加わりませんか。今夜、あなたの手を神と結び、この世のものに対して死に、キリストをあなたの救い主として受け入れませんか。
祈る前に、手を上げてくださいますか。そして言ってください。
「私を覚えてください。」
後ろの方、神の祝福がありますように。ずっと後ろで、あなたの手が上がっているのが見えます。もう一人いませんか。
この近くにいる方で、まだクリスチャンでない方はどうでしょうか。こう言ってください。
「ブラナム兄弟、私を覚えていてほしいのです。あなたが祈る時、私のために祈ってください。ただ祈りの中で、私を覚えてください。」
私はそういたします。
よろしいです。では、頭を垂れたままでいましょう。
64. いつの日か、私はこの聖書を最後に閉じる時が来ます。いつか、私は最後に目を閉じ、頭を垂れる時が来ます。そして、ここにいる一人ひとりも同じです。主よ、私たちはその時がいつ来るのか知りません。
私たちは知っています。私たち一人ひとり、すべての人間の前には、大きな暗い部屋が置かれています。それは「死」と呼ばれています。
そして、あの『タナトプシス』の作者のことを思う時、私の心臓が一度打つたびに、私たちはその部屋へ一拍ずつ近づいているのです。私の心臓が一度打つたびに、時計が一つ刻むたびに、私たちはただ一拍ずつ近づいています。そしていつの日か、それは最後の一拍へと至るのです。
神よ、私たちは願いません……。私はこの人々のために嘆願しています。私たちは、その部屋へ、叫びながら、泣きながら、もっと命がほしい、悔い改めるためにあと数分ほしい、と願いながら入って行きたくはありません。
神よ、私たちは大胆さをもってそこへ入りたいのです。アブラハムの子孫として、心に約束を持って、そこへ入りたいのです。
このことを知りながらです。すなわち、私たちは主を、そのよみがえりの力のうちに知っているということを。そしていつの日か、主が呼ばれる時、私たちは死人の中から出て来て、よみがえり、主と共にいるために行き、永遠に主と共にいるのです。
65. 神よ、御言葉にはこう書かれています。「義人の熱心な祈りは大いに力がある」と。さて、私たちのうち、義なる者は一人もおりません。しかし私たちは、彼の義を受け入れているのです。そして私たちは、あなたの御前に彼の血を携えてまいります。あなたの御前に、彼の御言葉を携えてまいります。彼が言われたように、「わたしの名によって父に何でも求めなさい。わたしがそれをします」と。
今、私たちは信仰によって、この人々をあなたの御前へと、主よ、まっすぐにお連れしています。彼らはここにおります。彼らは罪を犯しました。間違ったことをしました。彼らは自分たちの罪の赦しを願っています。彼らはあなたに向かって手を挙げました。そして、私に彼らのために祈ってほしいと願いました。彼らは、自分たちがそうしてしまったことを悔いているのです。
主イエスよ、彼らをお赦しください。どうか彼らが、理解を超えた、あの本当に甘美な平安を見いだしますように。すなわち、神がそのひとり子をお与えになったほどに世を愛されたという理解です。そしてその理解によって、彼らが手を挙げる勇気を持つことができますように。
66. どうか彼らに分からせてください。父なる神が彼らのそばに立ち、彼らの心に語りかけておられ、そして彼らはこの選びをしたのだということを。また彼はこうも言われました。「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、死から命へ移っており、さばきに至ることはない。すでに死から命へ移っている。」永遠の命を持っているのです。父なる神よ、あなたは一人として退けることはなさいません。
そして私は、あなたがこの人々に憐れみをおかけくださるように祈ります。彼らを助けてくださるように祈ります。そして今、彼らに大胆さをお与えください。私がこの聖句を引用した後、彼らに手を挙げさせたのはあなたであったことを、彼らが知ることができますように。あなたがそう言われたからです。「父が引き寄せてくださらなければ、だれも来ることはできない。そして父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来る。」
そして、彼らに分からせてください。まさにその告白そのものが、あなたが彼らの罪を赦してくださることの証しであると。今、どうか彼らがそれを恥じることがありませんように。大胆に立ち上がり、こう言うことができますように。
「はい。私は今、彼の御言葉を土台として、それを受け入れます。私は、滅びに定められた者のさばきに入ることは決してありません。なぜなら、神が私の心に語りかけてくださり、私は彼を自分の救い主として受け入れるために手を挙げたからです。私は祈りの中で覚えていただきたかったのです。」
父よ、どうかそれをお与えください。
67. では、何があなたに手を挙げさせたのでしょうか。それはそこにおられる聖霊です。あなたに語りかけ、あなたが間違っていることを悟らせておられるのです。「そして、父がわたしに与えてくださった者、あるいは語りかけてくださった者はみな、わたしのもとに来る。」そしてあなたはそうしました。手を挙げたのです。
「私は罪人です。赦しがほしいのです。私は間違ったことをしました。」
「わたしは決してその人を追い出しはしない。……その人に永遠の命を与え、終わりの日によみがえらせる。」
さて、もう一つ、あなたにしていただきたいことがあります。「人々の前でわたしを告白する者を、わたしもわたしの父と聖なる御使いたちの前で告白します。」
今、私は神の恵みの中で、あなたに一つのことをお願いしています。神がどれほど善い方で、あなたに手を挙げさせてくださったか、考えてみてください。
68. そして彼女は言いました。「二度とあんなふうに私に恥をかかせないでください。」
私は言いました。「私はあなたに恥をかかせたつもりはありません。そうでなければよいのですが。」彼女は執事の娘でした。
彼女は言いました。「私はまだ若いんです。それをする時間は、まだたっぷりあります。」
私は言いました。「お嬢さん、もしそれが正しいことだと感じなかったなら、私は決してあなたに指を向けるようなことはしなかったでしょう。もしそう思わなかったなら、祭壇への招きをすることも決してなかったでしょう……。」
すると彼女は、ひどい剣幕で私を責め立てました。
69. 彼女は、かつては感じのよい若い女性でした。彼女が通りを歩いていました。これは二十五年ほど前のことです。そして下着のスカートがだらしなく下に垂れていました。ああ、なんと汚れた様子に見えたことでしょう。私は思いました。「まさか、あの執事の娘ではあるまい。」
すると彼女が私に気づきました。彼女は少し笑って、顔を横に向けました。私は彼女の近くへ歩み寄りました。
彼女は言いました。「こんにちは、説教者さん。」
私は言いました。「お元気ですか。」
彼女は少しの間、その角に立っていました。そして言いました。「私の部屋に一緒に来ない?」
私は言いました。「ありがとう。でも私は少し……急いでいますので。」
彼女はハンドバッグに手を入れて言いました。「タバコいる?」
私は言いました。「そんなことを言って、恥ずかしくないのですか。」
彼女は言いました。「それなら、一緒に一杯飲んでくれるかしら。飲んでくれるなら、私がおごるわ。」
私は言いました。「恥を知りなさい、お嬢さん。キリストのしもべに、そのようなことを頼んで恥ずかしくないのですか。」私はその場を立ち去ろうとしました。そして言いました。「あなたのために祈っています。」
彼女は言いました。「ちょっと待って。祈る必要はありません。」
私は言いました。「なぜですか。」
彼女は言いました。「あの夜のことを覚えていますか。あのバプテスト教会のわき、あのバラの茂みのそばに立っていた時のことを。」
私は言いました。「はい、覚えています。」
彼女は言いました。「私の父は今もあそこで執事をしています。」そして言いました。「あなたが望むなら、どこへ行ってもこのことを話してかまいません。」彼女は言いました。「あれが、私への最後の呼びかけでした。」
彼女は言いました。「ご存じですか、あの時以来、以前はいつも心の中に、神のもとへ来なさいという呼びかけを感じていたのです。」そして言いました。「でも、あの時以来、私はだんだん、ますます心がかたくなになっていきました。」
さて、これはその娘さんが実際に言った言葉です。彼女は言いました。「私の心は、神に対して、教会に対して、そしてすべてに対して、あまりにもかたくなになってしまいました。」そして言いました。「自分の母親の魂が地獄でパンケーキのように焼かれるのを見ても、私はそれを見て笑うことができるでしょう。」分かりますか。
70. 「はい、主よ、私は間違っていました。」
それは父なる神でした。では、あなたは彼を告白するだけの思いがありますか……。ただ立ち上がっていただけますか。ほかには何も求めません。ただ立ち上がってください。そうすれば、人々は、あなたの心をたたかれたのが神であったことを見ることができます。
さあ、覚えていてください。本当にまことの子どもたちはこう言うのです。
「神が私の心をたたいてくださいました。私は立ち上がり、人々にそれを知らせたいのです。」
神の祝福がありますように、兄弟。神の祝福がありますように、若い方。ほかに立ち上がる方はいませんか。そうです。
よろしいですか。
「私は今、信じます。」
ほんの少しの間、立ち上がってください。ほんの少しの間です。どうぞ、皆さん一人ひとり、ほんの少し立ち上がってください。結構です。
この時に、ほかに立ち上がりたい方はいませんか。そしてこう言うのです。
「彼が私の心をたたいてくださいました。私は手を挙げませんでしたが、今、彼のために立ち上がります。私は今、立ちます。彼のために、今、立とうと思います。なぜなら、彼が私の心をたたいてくださったからです。私は、自分の心があのようなひどい状態になることを決して望みません。心がまだ柔らかいうちに、私は立ち上がります。」
71. 「人々の前でわたしを告白する者を、わたしも父と聖なる御使いたちの前で告白します。」
私はあなたがたにお願いします。今まさにキリストにあってクリスチャンとなった愛する皆さん、アブラハムの子孫となる招きを受けた皆さん、良い教会を見つけて、バプテスマを受けてください。姉妹、そのように立ち上がってくださって、神の祝福がありますように。とても素晴らしいことです。
さあ、そのまま立っていてください。もう一度、あなたがたのために祈りたいのです。そして良い教会を見つけ、クリスチャンのバプテスマを受け、聖霊のバプテスマを求めてください。若い人たちが立っています。若い男性たちもいます。彼らは伝道者や宣教師にもなり得る人たちです。あなたがたの尊い人生に、神の祝福がありますように。
さて、頭を垂れている皆さん、目を開けて、振り向いて、誰が立っているのかを見てください。そして今、私たちが立つ時に、クリスチャンの信者として、彼らに交わりの右手を差し出していただきたいのです。そして「ようこそ」と言ってください。あなたの教会にお誘いするなどしてください。
さあ、皆さん立ち上がりましょう。彼らと握手しながら、こう言ってください。「今夜、神の御国へようこそ。」そして、「祝福された巡礼者である私の兄弟よ」と言ってください。皆さん一人ひとり、振り向いて、今この人たちと握手してください。私たちが歌う間に。
ありのままの姿で、何の申し立てもなく、
ただ、あなたの血だけを頼りに……
そうです、クリスチャンの皆さん、本当に優しくしてください。私はバルコニーの方を見ています。若い男性たちが泣いています。人々が握手をしています。
そして、あなたが私を御もとへ招いてくださるゆえに、
神の小羊よ、私は参ります、私は参ります。
72. そして、もしかすると皆さんの中には、まだ……。聖霊のバプテスマを受けていない方はどれくらいおられますか。求めている方は、手を挙げてください。あなたは受けたいのですね……。神の祝福がありますように。「だれでも望む者は来なさい。」そうではありませんか。
さて、今夜立ち上がり、キリストを告白した皆さん、幸いではありませんか。心の中で本当に良い気持ちがしているなら、人々に見えるように手を挙げてください。先ほど手を挙げた皆さんです。あなたがたは……。ご覧なさい、そこにいる一人ひとり、百パーセントです。そうです。その通りです。
今夜、自分がクリスチャンであることを喜んでいる方は、どれくらいおられますか。皆さん、手を挙げてください。
73. よろしいですか、姉妹。「私は主を愛します、私は主を愛します。主がまず私を愛してくださったからです。」さあ皆さん、ご一緒に。
私は主を愛します、私は主を愛します、
主がまず私を愛してくださったから。
そして私の救いを買い取ってくださいました、
カルバリの木の上で。
ああ、皆さん、主を愛しておられますか。さあ、まだ帰らないでください。皆さんにしていただきたいことがあります。今、もう一度この歌を歌う時に、前にいる方、後ろにいる方、右や左にいる方と握手をしてください。そしてこう言ってください。「神の祝福がありますように、巡礼者である兄弟、または姉妹。あなたと共に神の家にいられて嬉しいです」と。では、歌いながらそうしましょう。
私は主を愛します、私は主を愛します、
主がまず私を愛してくださったから。
そして私の救いを買い取ってくださいました、
カルバリの木の上で。
さあ、今度は手を主に向かって挙げながら、主に向かって歌いましょう。
私は主を愛します……
あなたがたを、あなたがたの牧師にお渡しします。