1. 今夜、神の家において、神の病める子供たちに仕えることができますことを、私は大きな特権と考えております。
そして、皆さんのために十分な座席を用意できていないことを申し訳なく思います。私たちが通りを上がって来た時、三、四台の車が帰って行くのを見ました。そしてこちらへ来ると、教会から離れて行く人々の列がありました。中に入る場所がなかったのです。
もしかすると、来週の日曜日までに、私たちが一生懸命に努力すれば、この下の講堂を最終夜のために借りることができるかもしれません。そうすれば、皆さん全員が中に入れるでしょう。
人がぎっしり詰まった群衆になりますと、その場所は人々を神経質にさせるようになります。そして会衆が神経質になると、聖霊は働くことができません。
神のもとへ来る時には、ただ敬虔に、静かに、信じながら、何の妨げもなく来なければなりません。そうすれば、聖霊は……私たちを取り扱うことが、ずっと容易になるのです。
2. 礼拝の中で、アブラハムについて語ってまいりました。今夜の癒しの集会のために、信仰を築き上げるためでした。そして今、この礼拝のこの部分を、病人のために祈る時として委ねたいと思います。
さて、まず皆さん一人ひとりに、神の御言葉をしっかりと握っていただきたいのです。なぜなら、癒しは神の……それは贖いの中にあるものだからです。
もし古い贖いが癒しをもたらしたのであれば、これははるかに優れた贖いですから、当然その中には癒しが含まれているはずです。そして聖書はこう言っています。
「彼は私たちの背きのために傷つけられ……その打たれた傷によって、私たちは癒された。」
さて、癒しは人間の中にあるものではありません。癒しとは、神の贖いによる祝福であり、すでにカルバリであなたのために買い取られたものなのです。
救いも、今夜初めて起こる何かではありません。あなたの救いは、キリストがカルバリであなたのために死なれた時、1900年前にすでに買い取られたのです。そこに、あなたの救いが買い取られた場所があるのです。
3. あなたはこう言うのです。
「私は罪人です。そしてキリストは私のために死んでくださいました。主が死んでくださったのは、この私のためです。ですから今夜、私は流された血を根拠として進み出て、自分の救いを受け入れます。自分自身の内には、何一つできることがないと知っています。そして今夜、私は完全に、まったく主に信頼し、主の約束に従って、主が私を救ってくださると信じます。」
その時、あなたは救われているのです。何かを感じても、感じなくても関係ありません。あなたは、カルバリで成し遂げられた御業を信じる信仰によって救われているのです。
さて、癒しもそれと同じです。あなたが……。
さて、あなたはこう言うかもしれません。
「それなら、救われるために教会へ来る必要さえない、ということですね。」
その通りです。あなたがどこであっても、神の求められる条件にかなうなら、そこがあなたの救われる場所です。あなたがどこであっても、神の求められる条件にかなうなら、そこがあなたの癒される場所なのです。
4. 私たちはいつもそのことを語っています。私たちの信仰は、ただ厳粛に主の御言葉の上に置いているのです。なぜなら、神が何かを語られたなら、それを取り消すことはおできにならないからです。
神は神であられ、無限なるお方です。すべての決定は完全です。
さて、もし神がここで決定を下され、それが完全であるなら、別の時代において、さらに完全な決定を下すことはできません。同じ決定を下されなければならないのです。なぜなら……もし別の決定を下されるなら、この時の決定に何か欠けたものがあったことになってしまうからです。
そして、もしその時に間違った決定を下されたのだとしたら……いや、つまり、もしここで下された決定と、こちらで下された決定が違うなら、こちらで間違った決定をされたことになります。そして、もし神が間違いをなさったなら、神ではあり得ないのです。分かりますか。
ですから、主が何かを語られたなら、それはまさにその通りになるのだ、ということを覚えていなければなりません。
5. さて、私はこれまで何度も、人々が信仰をつかもうとして、何とか手を伸ばそうとしているのを見てきました。多くの場合、人々はそれを難しく考えすぎて、通り越してしまうのです。
信仰というものは、とても単純なものです。ただ……。
聖書の中で、彼らが血を何で塗ったか、お気づきになりましたか。それはヒソプでした。ヒソプとは、ごく普通の草です。エジプトでも、またパレスチナでも、それは土壁の割れ目などに生えているのを見つけることができます。地面のすぐ近くに生えている、小さな緑色の、三つ角のような形をした……ひし形の葉に、小さな花をつけたものです。どこででも摘むことができるようなものでした。それがヒソプでした。
彼らはそのヒソプで、戸口の鴨居に血を塗ったのです。ヒソプで。
それが雑草のようなものであった理由は、それが信仰を表しているからです。
では、あなたはどのようにして血を適用するのでしょうか。信仰によってです。何か特別で超人的なものではありません。あなたが持っているような、ごく普通の信仰によってなのです。それが、血を適用する方法です。
たとえば、あなたがこう言うようなものです。
「私はこれから車に乗って家に帰ります。」
どうしてそれが分かるのですか。絶対に確かとは言えません。ほとんど確かだと思っているでしょう。でも、あなたはそうなると信じているのです。だから、そのまま行動し、進んで行くのです。
癒しもそれと同じです。ただ主イエス・キリストを信じるのです。そして、主の流された血を根拠として、主をあなたの癒し主として受け入れるのです。
主はあなたの背きのために傷つけられ、その打たれた傷によって、あなたは癒されたのです。
これから癒されるのではありません。すでに癒されたのです。過去形です。あなたは主の打たれた傷によって、すでに癒されているのです。
私は、これは実に素晴らしいことだと思います。主の打たれた傷によって、私たちは――過去形で――癒されたのです。
6. そして、そこが私に対する批判の来るところです。
「あなたは十分に祈っていない。」
さて、これらのクリスチャンの兄弟たちは、私は彼らが神からの務めを持っていると信じています。そして彼らは、一晩に何百人、何百人もの人々のために祈ります。さて、それはおそらく……。
私は心の底から、彼らが神に命じられたことをしているのだと信じています。それが彼らの務めなのです。
しかし、少しだけ私の話を我慢して聞いてくださるなら、私は、手を置くことよりも、キリストに到達するもっと高い道があると信じています。なぜなら……。
お気づきでしょうか。患者はこう言うことができます。
「誰々兄弟が私に手を置いてくれました。私は神の力が彼の手を通して来るのを感じました。」
分かりますか。それでは、また人間がそこに入ってしまうのです。
7. お気づきでしょうか。あの小さな祭司は言いました。
「私の娘のところに来て、手を置いてください。そうすれば娘はよくなります。」
ヤイロのことです。彼はユダヤ人でした。
しかし、ローマ人、異邦人は言いました。
「私は、あなたを自分の屋根の下にお迎えする資格などありません。ただ御言葉をお語りください。そうすれば、私のしもべは生きます。」
分かりますか。そのローマ人の信仰がどこにあったかを。それはイエスを……。
彼は続けてこう言いました。
「私も権威の下にある者です。」
彼は百人隊長でした。つまり、ローマ軍において、百人の兵士を治める立場にあったのです。
彼は言いました。
「私がこの者に『行け』と言えば、行きます。別の者に『来い』と言えば、来ます。」
彼は、自分の管轄の下にあるものはすべて、自分が支配権を持っており、それは従わなければならないことを知っていました。
では、彼がキリストを告白した時、それによって何を言っていたのでしょうか。
「私の……に言ってください。」
彼はこう言っていたのです。
「あなたは、どんなものに対しても、どんな病に対しても権威を持っておられます。ただ御言葉をお語りください。」
それについて、イエスは何と言われたでしょうか。主は振り向かれ、そのローマ人を確かに尊ばれました。
主は言われました。
「イスラエルの中にも、これほどの信仰を見たことがありません。」
分かりますか。
「来て手を置いてください」ではなく、
「ただ御言葉をお語りください。」
今、私たちが人々をそこへ導こうとしているのです。主が……それは誰か人間なのではありません。あなたの主、イエス・キリストなのです。主があなたのためにしてくださったことなのです。
8. それは間違いです。
聖書は、主は昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です、と言っています。そして主は生きておられます。もし主が今も生きておられ、今もなお生きておられるなら、主はその性質においても、力においても、態度においても、同じでなければなりません。
主は同じイエスなのです。ヘブル人への手紙13章8節です。昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。
もし私にできる方法があるなら、その時は……。私は医者ではありません。医学や手術については何も知りません。私は医学も手術も尊重し、信じています。それらは神が私たちに送ってくださった祝福だと信じています。
しかし時には、医学の科学では対処しきれないところまで来ることがあります。そのような時、あきらめて死ぬのではなく、私たちには偉大なる医者のもとへ来る権利があると、私は思うのです。
9. それが、私がここにいる理由です。医者の患者を奪うためではありません。医者の患者であり、神の子であり、私の友であるその人のために祈るためです。それが、私がここにいる理由なのです。
さて、薬は癒すものではありません。私たちは皆、それを知っています。癒すと主張できる薬はありません。医者もそのようには主張しません。薬は自然の働きを助けるものです。神こそが癒し主なのです。
薬によって癒された人など、かつて一人もいません。それはできないのです。癒しとは組織が造り上げられることであり、組織を造り上げることができるのは命だけです。組織を発達させるのは命なのです。
さて、私たちは骨を整復することによって、大きな助けをすることができます。しかし、それが骨を癒すわけではありません。ただ元の位置に戻すだけです。そうして神がそれを癒してくださるのです。その骨を癒すためには、カルシウムなどを生み出す何かが必要なのです。
さて、医者は……。あなたが……あなたのすべきことは、医者のところへ行き、骨を整復してもらうことです。しかし神がそれを癒されなければ、それは決して癒されません。
もし悪い歯があれば、医者はそれを抜くことができます。しかし、抜いた後の穴や、抜く時に傷つけた組織を癒すことはできません。盲腸や、脇腹の腫れ物か何かを取り除くことはできるかもしれません。しかし、それが取り出された場所を癒すことはできません。医者は取り除くことはできますが、癒すことはできないのです。
薬は癒しません。どんな薬も癒しません。ただ、神が癒しておられる間、清潔に保つだけなのです。
そして私たちは、そのことを心に留めておかなければなりません。
10. ここにおられる方々の中で、ヘブル人への手紙13章8節に、
「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。」
と聖書が述べていると信じる方は、どれほどおられますか。手を挙げていただけますか。
ありがとうございます。
それを信じるなら、聖書がそう言っているなら、聖書の言うことは真理である、ということを覚えていなければなりません。
さて、イエスは地上におられた時、ご自分では何一つわざを行っていない、と言われました。私たちは皆、そのことを知っています。
主は言われました。
「わざをしているのはわたしではない。わたしの内に住んでおられる父が、そのわざをしておられるのです。」
それは真実ですね。
11. そして主は、一人の人が寝床に横たわっているのを見つけられました。主は、その人が三十八年もの間、その状態にあったことを知っておられました。そしてその人を完全にされ、そのまま歩み去られました。その大勢の人々を、そこに横たわったまま残して行かれたのです。
それで主は問いただされました。
もし今夜、主が肉体を持って私たちの間を歩いておられ、同じことをなさったなら、きっとまた、私たちの権威者たちから問いただされることでしょう。
そして主はこの言葉を語られました。どうか心に刻んでください。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、自分からは何一つ行うことができません。ただ、父がなさるのを見ることを行うのです。父がなさることは何でも、子も同じように行うのです。」
さて、これが聖書の真理であることを知っている方は、どれほどおられますか。
それなら、イエスは、神がまず幻によって何をすべきかを示されるまでは、決して奇跡を行われなかったのです。
もしそうでないなら、主は真実ではないことを語られたことになります。そしてそれは、聖書が間違っていることになってしまいます。そうなれば、私たちはどこに立てばよいのでしょうか。
主は決して、行き当たりばったりにそれをなさったのではありません。預言者たちも、決して行き当たりばったりに行ったのではありません。ただ神が語り、神が何をすべきかを示された通りに行っただけなのです。
12. また旧約聖書も、メシア的なしるしがあることを示していました。そして主は、ご自身がメシアであることを、そのメシア的なしるしによって人々に証明されたのです。
彼らがそれをどのように知ったかと言えば……主が神の預言者であられたからです。彼らが従ってきたモーセは、こう言いました。
「あなたがたの神、主は、私のような預言者をあなたがたのために起こされる。」
私たちはそのことを知っています。そのことを承知しています。
そして主は、ユダヤ人たちとサマリヤ人たちの間で、このしるしを示されました。しかしもちろん、異邦人たちの間では示されませんでした。なぜなら、その当時、私たち異邦人、ローマ人たちは異教徒だったからです。
私たちはメシアを待ち望んでなどいませんでした。そしてメシアは、ご自分を待ち望んでいる者たちにだけ現れるのです。それがそのあり方です。主を待ち望む者たちに、主は二度目に現れてくださるのです。
ですから今夜、私たちは主を待ち望み、主を見張っているべきです。主が来られる時に、それを見逃すことのないためです。
13. 「しばらくすれば、世はもうわたしを見なくなります。」
さて、そこで言われている「世」とは、コスモスという言葉で、これは「世の秩序」という意味です。分かりますか。
「世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。」
それは教会のことです。
「なぜなら、わたしは世の終わりまで、あなたがたと共におり、さらにあなたがたの内にいるからです。」
さて、私たちは皆、聖書がそう言っていることを知っています。そうであるなら、それはイエスを、昨日も今日も、いつまでも変わることのない方とするのです。
さて、見てください。
「わたしのしているわざを、あなたがたもするようになります。そして、さらに多くのことを……。」
欽定訳では「より大きな」となっていることは知っています。しかし、もしエンファティック・ダイアグロットを見れば……。誰も、それ以上に大きなわざをすることなどできません。主は死人をよみがえらせ、自然を止められました。
「さらに多く」と言うべきなのです。なぜなら、その時、神は一人の人、キリスト・イエスの内におられたからです。聖書は、神性の満ち満ちたものが、形をとって主の内に宿っていた、と言っています。
第一テモテ3章16節にはこうあります。
「疑いもなく、敬虔の奥義は大いなるものです。神は肉において現されました。」
主はインマヌエルと呼ばれました。神はただ一人の人の内におられたのです。しかし主は……。
この一人の人、神の子であるお方は、ご自分の命を与えて教会を聖別されました。それは、主が聖霊の形で戻って来られ、ご自分の教会の内に、普遍的におられるためでした。
「わたしのしているわざを、あなたがたもするようになります。」
同じ種類のわざです。
「そして、これよりもさらに多くのことをあなたがたはするようになります。わたしが父のもとへ行くからです。」
それは、主が聖霊の形で戻って来られ、全世界にあるご自分の教会の内におられるためだったのです。
14. しかし、私たちの多くの信条が、主を外へ押し出してしまいました。聖書にある通りです……。
私たちは、ラオデキヤ教会時代、最後の教会時代を見ます。それは、今私たちがいるペンテコステの時代です。その時代において、イエスはご自分の教会の外に立たされ、戸を叩き、もう一度中に入ろうとしておられました。
「わたしは愛する者を責め、懲らしめる……。もしだれでも戸を開くなら、わたしはその人のところに入り、彼と共に食事をする。」
さて、このことに基づいて、この告白に基づいて……。
もし今夜、この建物の中で、イエスが今もなお生きておられることを見ることができるなら、そして神の御子イエス・キリストが、聖霊の形において、まさにこの建物の中におられることを、疑いの影もないほどに証明することができるなら――
もし主が、昨日も今日も、いつまでも変わることのない方であるなら、主は昨日なさったのと同じように、今日も、そしていつまでも同じように働かれるはずです。
主の憐れみと愛も、同じであるはずです。
15. 「わたしは、父がわたしに示される通りに行う。」
あの女が主の衣に触れた時のようにです。力が出て行きました。主は群衆の中を見回され、ご自分に触れた女を見つけられました。そして主は……彼女に言われました。彼女の長血は止まったのだ、と。なぜなら、彼女の信仰が彼女を救ったからです。
その「救った」という言葉に注目してください。聖書全体を通してそれを追ってみてください。同じギリシャ語ではないかどうかを見てください。Sozoです。
それは「肉体的に救われる」こと、あるいは「霊的に救われる」こと、そのどちらも意味します。ギリシャ語では、どちらの場合も同じ言葉として訳されています。Sozo――「あなたの信仰があなたを救った。」何から救ったのでしょうか。罪からです。何から救ったのでしょうか。長血からです。
「あなたの信仰があなたを救った。」そして、それはすべて信仰に基づいているのです。
16. 聖書の中にそのことがあるのを覚えておられる方はいますか。よろしい。
イエスは言われました。
「そのことについては、あなたがたを赦します。しかし聖霊が来て、同じことを行う時、それに逆らって語るなら、この世でも、来るべき世でも、決して赦されることはありません。」
そして主は、異邦人の時代の終わりに、ユダヤ人の時代が閉じようとしていた時、またサマリヤ人の時代が閉じようとしていた時と同じ種類のメシア的なしるしが現れる、と約束されました。
三つの種類の人々――ハム、セム、ヤペテの子孫です。
そして異邦人の時代の終わりに、もし主がユダヤ人たちの終わりとサマリヤ人たちの終わりに、ご自身がメシアであることをその方法で証明されたのであれば、主は異邦人に対しても同じように働かれなければなりません。
もし私たちがただ神学だけで通り過ぎるのだとすれば、主はご自身を誤って示されたことになってしまいます。なぜなら、彼らにはその方法でご自身をメシアとして証明しながら、私たちには同じしるしを与えない、ということになってしまうからです。
17. 今ならはっきりと理解できましたか?彼はあなたの意志に反してあなたを癒すことはできません。彼はあなたの意志に反してあなたを救うことはできません。しかし、神は約束の中でご自身を知らせることができます。それからあなたはそれに基づいてそれを受け入れます。今、それを理解している人は何人いますか?それでは、祈りながら頭を下げましょう。
18. さて、天の父よ、今週、期待を込めて建物に座って、この夜が来るのを待っている人がたくさんいます。数百人が建物から立ち退かされたと言われています。父なる神よ、あなたがこれらの人々に自分のことをはっきりと示し、私たちの中に弱者が一人もいないように祈ります。
19. 救われていない人々が救われ、病人が癒されますように。そして、死の影の領域に座っている人々に、大きな光が降り注ぎますように。彼らが立ち上がって家に帰って元気になりますように。そうすれば、神の栄光が西海岸で知られるようになります。それは、彼らの子供たち、彼らの愛する人たち、そして彼らの周りに、イエスがまだ生きていると言われるためです。
20. 今晩も、そのような状態にある人が多くいます。教会は失敗した、と思っているのです。そして、確かに教会は失敗しました。しかし、あなたは失敗しておられません。
その道の途中で、道端からお一人の方が歩み出て来られ、彼らに語り始め、聖書を説き明かしてくださいました。彼らの悲しみと敗北について尋ねられたのです。その方は、さらに先へ行かれるような様子をなさいましたが、彼らはぜひ一緒に泊まってくださいと強く願いました。
そして、その方が家の中に入り、戸が閉じられた時、十字架にかかられる前になさったのと同じようなことをなさいました。すると、彼らはただちに、それが主であると分かったのです。そして主は、どこか裏口から出て行かれたかのように、彼らの目の前から消え去られました。
すると彼らは、心も軽く、足取りも軽く、急いでエルサレムへ戻って行き、人々に、まことにイエスは今も生きておられる、と告げ知らせました。そして彼らは互いに語り合って言いました。
「道々、私たちに語ってくださった時、私たちの心は内に燃えていたではないか。」
21. 今晩、この壇上に、私たちのただ中に立ってくださり、ご自身が同じイエスであることを示してください。そうすれば、病の人々も急いで家へ帰りながら、こう言うことでしょう。
「御言葉が語られていた時、私たちの心は内に燃えていたではないか。何か不思議だったけれど、ずっと何かが私に語りかけていた。」
父よ、どうかそれをお与えください。そうしてくださるなら、私たちは生きている限りあなたをほめたたえ、いつまでもそれを覚えております。私たちは、イエス・キリストの御名によって、心からこれを願い求めております。アーメン。
さて、ほんの数分の間マタイによる福音書14章27節に、皆さんの注意を向けたいと思います。
しかし、イエスはすぐに彼らに語って言われた。
「しっかりしなさい。わたしである。恐れることはない。」
22. 彼らは、主に命じられて、向こう岸へ渡ろうとしていたのです。その間、主は群衆を帰らせておられました。
そしてシモンは、おそらく彼らの中で一番大柄だったのでしょう。その小さな舟を岸から押し出すと、ほかの使徒たちのいる舟の中へ乗り込み、舟の真ん中あたりに腰を下ろし、手に櫂を取りました。
そして彼らは、おそらく二、三度ほど漕いだあと、岸に残してきた会衆に向かって手を振ったことでしょう。岸辺の人々の中には泣きながら、
「また戻って来て、私たちに会いに来てください。私たちも一緒に行けたらどんなによかったでしょう。」
と言う者たちもいたのです。
なぜなら、彼らはその人々の心を勝ち取っていたからです。人々はこの人たちを愛していました。彼らと共に働かれる神の御手を見ていたからです。そして、この人たちが神のしもべであることを知っていたのです。
23. そして私は、それは若いヨハネだったに違いないと思うのです。彼は彼らの中で一番若く、おそらく三十代の人だったでしょう。彼らが少し休むために手を止めた時、その舟は重い木で作られており、櫂も大きく重たいものでした。一人が大きな櫂を一本持って漕ぐのですから、それは大変なことでした。
おそらく夕方の静けさの中で、風もおさまり、湖面にはさざ波一つ立っていなかったでしょう。彼らはかなり一生懸命に漕いできたのです。
ヨハネは櫂を引き上げて、こう言ったに違いありません。
「兄弟たち……」
さあ、彼らの会話の中に入ってみましょう。彼はこんなふうに言ったかもしれません。
「私たちは、自分たちが何かの惑わす者に従っているのではない、ということを確信してよいと思います。
皆さん、私は小さな子どもだった頃のことを覚えています。母が聖書の巻物を手に取り、座って、私たちの民の物語をよく話してくれたのです。神が彼らに与えられたこの地へ、私たちの民がやって来た時のこと、そして、その道のりがどれほど偉大なものであったかを話してくれました。
どのようにして彼らがエジプトから出て来たのか、そしてエホバが荒野で四十年の間、彼らを養われたことを話してくれたのです。
私はよく言ったものです。
『お母さん、荒野でどうやって食べ物を得ることができたの?』」
24. 『ヨハネ、私のかわいい子よ、神様は毎晩、天から彼らのパンを降らせてくださったのよ。』
すると私は母に、こんなふうに言ったものです。
『お母さん、神様はそのパンを焼くために、どこでそんなに大きなかまどを手に入れたの?』
母は答えました。
『いいかい、愛しい子よ。神様は創造主なのよ。神様には、かまどなど必要ないの。神様はただ語られるだけで、創造なさるのよ。神の御言葉は創造する力を持っているの。』
そして兄弟たち、今日、私があの方の後ろの岩の上に立って、あの方が五つの小さなビスケットと二匹の魚を取り、そのパンを裂いて五千人を養われるのを見た時、私は分かったのです。あの方は、創造することのできるエホバと、何か関わりのあるお方なのだと。
分かりますか、兄弟たち。もしあの方が、私たちの信じている通りのお方であり、そして私たちは確かにそうだと知っているのですが、神の御子であるなら、その御業は神の御業と同じであるはずです。なぜなら、あの方はこう言われたからです。
『もしわたしが、わたしの父のわざを行っていないのなら、わたしを信じてはならない。』」
25. 兄弟たち、あの方はそれを料理したのではありません。焼いたのでもありません。魚を捕るために海へ行かれたのでもなく、その魚を料理されたのでもありません。ただ、すでに焼かれた魚の一切れを裂かれたのです。そして、もう一度手を伸ばされると、そこにはまた、すでに焼かれた魚があったのです。
ここで、この会衆の皆さんに一つお尋ねしたいのです。あの時、あの方はどんな原子を解き放たれたのでしょうか。
あの方は麦を育ててパンを作られたのではありません。ただ、そのビスケット、あるいは小さなパンを取って、それを二つに裂き、シモンに渡されました。そして、アンデレに渡すために振り返って見ると、また別のパンがそこに増えていたのです。
私は、あの方がそれを5000回、あるいはそれ以上なさるのを見ました。私にとって、あの方はエホバです。創造主です。
ああ、私の母が生きていて、それを見ることができたなら、あるいは今日ここにいて、それを見守ることができたなら、どんなによかったでしょう。私は母のところへ行って、腕を回し、こう言いたかったのです。
『お母さん、あの方こそ、あなたが話してくれたあのエホバです。あの方は創造主なのです。ご自分の子どもたちがお腹をすかせていました。荒野で彼らが飢えていた時と同じように。すると、あの方は天からパンを備え、250万人の人々を養われたのです。』
そして今日ここで、地上に立ち、ご自身の御子、私たちの救い主である主イエスの姿を取って生きておられるその方を、私は見たのです。その方が御父の力をもってパンを裂き、それを配られるのを見ました。同じ創造の力です。
ですから、私は知っているのです。あの方はまことに神の御子であると。私はそう信じています。」
26. ご存じのように、クリスチャンたちが集まって証を始めると、そこには終わりがないものです。彼らは語り続けるのです。誰かが何かを言わずにはいられません。なぜなら、主はあまりにも私たちに良くしてくださるので、何とかしてそれを表したくなるからです。そして、どこで止めたらよいのか分からなくなるのです。主があまりにも善いお方だからです。
あの大柄でたくましい漁師シモンが、自分の証をしている姿が、私には思い浮かびます。彼は言いました。
「ああ、私の兄弟アンデレが、ちょうど私の前に座っています。私は覚えています。彼が私に、ある種の預言者に会った、と話してくれたことを。そしてある日、私を迎えに来て、その集会へ連れて行ったのです。
その時、私は父が私に言っていたことを思い出しました。兄弟たちも知っているように、私の父はパリサイ人でした。そして私もパリサイ人でしたから、自分たちの教派にとどまっていたのです。父もパリサイ人だったのです。」
27. 「皆さん、何があったか分かりますか。私は、父がこの地を去る前に話してくれたことを覚えています。
父が年を取り、髪も白くなっていた頃のことです。ある日、父は私を舟のそばに座らせて、こう言いました。
『シモン、私の小さな息子よ。お父さんはずっと、メシアを見る日まで生きていられると信じてきた。しかし、今となっては、それができるかどうか分からない。私はいつ呼び出されて、申し開きをしなければならないか分からないのだ。
だがシモンよ、私の父がこのことを私に伝えてくれた。そして今、私はそれをお前に伝える。
真のメシアの日には、シモン、多くの偽りのものが起こって来るだろう。』」
そして私たちは、聖書がそれが起こると言っていることを知っています。いつもそうなのです。
「『しかしシモンよ、もしそれがお前の時代に来ても、だまされてはいけないよ、息子よ。シモン、お前はその方を知るために、聖書にまっすぐ立っていなければならない。
誰かがそれについて何と言うかを、そのまま受け取ってはいけない。シモン、聖書にとどまりなさい。』」
28. シモン、このメシアは預言者であられる。そして、その方がご自分が預言者であり、メシアであることを示すしるしは、預言者のしるしであるはずだ。
シモン、お前も知っているように、私たちはいつも預言者を信じてきた。なぜなら、預言者が語り、その言ったことが実現する時、神は私たちに、その預言者に聞き従いなさいと告げられたからだ。
“わたしは彼と共にいる”と。』
『しかし、もし彼が語っても、それが実現しないなら、その預言者を恐れてはならない。だが、もしそれが実現するなら……。
シモン、最後の預言者以来、すでに四百年が過ぎている。私たちは知っている。次に立ち上がる預言者こそ、メシアであるに違いないのだ。
だから、その方を見張っていなさい。その方は、預言者のしるしを行われるはずだ。』」
29. 私たちが舟を岸へ引き上げていると、湖畔の小さな小屋々から、女たちも男たちも集まって来るのが見えました。私は、いったい何事だろうと思いました。
するとアンデレが言いました。
『シモン、今日は私と一緒に来なければならない。メシアが今日、ここで語られるのだ。』
さて、私は、その方がメシアであるなどとは信じていませんでした。しかし、父が私に言ってくれたことを思い出したのです。
そして私がその方の御前へ歩いて行き、そこへ着く前にその方が語っておられるのを聞いた時、何かが違っていました。その方は、自分が何を語っているのかを知っている人のようでした。律法学者のように語っているのではありませんでした。何を語っているのかを知っている人のように語っておられたのです。
そして、その方は振り向いて、私が来るのをご覧になりました。私を見るやいなや、私の顔を見て、こう言われたのです。
『あなたの名はシモンである。ヨナの子である。』
兄弟たち、それで私には永遠に決着がつきました。あの方は、私を知っておられただけではありません。私にこのしるしを待ち望むように言ってくれた、あの敬虔な年老いた父のことまで知っておられたのです。
ですから私は、あの方がメシアであると分かったのです。なぜなら、それは父が、聖書によればメシアに伴い、その方がメシアであることを示すと言っていたしるしだったからです。
ですから私は、あの方がメシアであると知ったのです。」
30. 「ナタナエル、私が証しましょうか。それとも、あなたがしますか。」
ああ、ナタナエルはいつも礼儀正しい紳士でしたから、こう言いました。
「どうぞ、そのことについて証してください、ピリポ。」
「さて」と彼は言いました。
「私がシモンに起こったことを見た時、私は確信しました。あの方こそメシアである、と。なぜなら、あの方はメシアのしるしを示しておられたからです。
ですから、私は知っていました。ここにいる私の古い良き友、ナタナエルは、聖書にとても通じた人であり、聖書をよく読んでいる人だと。彼は、メシアがどのようなお方であるかを知っていました。
そこで私は、山を回って十五マイルほど歩き、ピリポの家へ——いや、むしろナタナエルの家へ着きました。そして戸をたたきました。すると彼の妻が、彼は果樹園の奥にいると教えてくれました。
私はそこへ行き、彼がひざまずいて祈っているのを見つけたのです。
『イスラエルの神よ——』
人が祈り始める時、そこに何かが起こるのです。
『どうか、私たちに解放をお送りください。』」
31. 彼が立ち上がり、衣についたほこりを払った時、私は言いました。
『ナタナエル!』
すると彼は言いました。
『ピリポ、会えてうれしいよ。』
私はすぐに彼に言いました。
『私たちが見つけた方を見に来なさい。』」
本物のメシア、神の御子イエス・キリストに触れると、そこには何かがあるのです。黙っていることができなくなります。誰かに伝えずにはいられないのです。それがあなたの心を震わせます。あなたはもう、以前と同じではいられません。
「私たちが見つけた方を見に来なさい。ナザレのイエスです。あの方こそメシアです。ヨセフの子です。」
さて、ナタナエルはご存じの通り、とても学識のある人で、また真のパリサイ人でした。それで彼は言いました。
「ちょっと待ちなさい。ちょっと待ちなさい。ピリポ、まさか君は何かに熱狂して、極端なところへ走ってしまったのではないだろうね。
君も知っているだろう。もしメシアが来られたなら、その方は私たちの組織のところへ来られるはずだ。私たちにご自身を知らせるはずだ。大祭司カヤパのところへ行かれるはずだ。
ナザレでお生まれになるなど、あり得ない。あのような聖なる騒ぎをする人々の群れなどと関わられるはずがない。君も分かっているだろう。もしその方が来られるなら、私たちの教会へ来られるはずだ。なぜなら、私たちはパリサイ人なのだから。」
32. 神は来られます。神は、どこかの組織に来なければならないわけではありません。ただ人々のところへ来られるのです。
そこで私たちは分かるのです。彼は言いました。
「まあ、とにかく来て見なさい。」
すると彼は言いました。
「さあ、よく聞いてくれ、ピリポ。私は君がよく聖書を知っている人だと思っている。だから、君がどうしてそんなことに引っかかるのか、私には分からない。」
「そこで私は彼に言いました。
『一つ尋ねたいことがあります。あなたは聖なる聖書を知らないのですか。』
『もちろん知っている。子どもの時から学んできた。』
『よろしい。では、あなたが聖書を知っているなら、教えてください。メシアが来られる時、その方はどのようなお方なのでしょうか。』
『それは、処女から生まれるお方だ。』
『では、どのような生涯を送られるのでしょうか。私たちにどのようなしるしを与えられるのでしょうか。あなたも知っている通り、私たちはユダヤ人です。私たちはしるしを求めます。神は私たちに、預言者を見張り、その語ることを見るように告げられました。もしそれが実現するなら、その人は神の預言者でした。では、メシアはどのようなしるしを持つのでしょうか。』
『そうだな、聖書によれば、その方は預言者であられる。』」
33. 「ええ。ああ、彼の名はシモンでしたね。そうです。私はここの会堂で、彼の年老いた父親を知っていました。」
「さて、そのシモンが、このナザレのイエスの御前に歩み寄った途端、あの方は彼の顔をまっすぐに見て、彼の名を告げ、さらに彼が誰の子であるかまで告げられたのです。
ナタナエル、あなたがあの方の前に歩み出たなら、あの方があなたが誰であるかを告げられたとしても、私は驚きませんよ。」
「おお」と彼は言いました。
「ナザレから、そのような良いものが出ることがあり得るだろうか。」
さて、私は彼が良い答えを返したと思います。誰にとっても十分納得できる答えです。彼は言いました。
「来て見なさい。」
家に座ったまま批判していてはいけません。来て、確かめなさい。自分自身で見に来なさい。それくらいの関心は持つべきです。
来て見なさい。聖書によってそれを調べなさい。それが何であるか、見てみなさい。
34. 彼は祈りの列の中にいたのかもしれません。あるいは、ただ会衆の中に立っていただけだったのかもしれません。しかし彼が近づいて来るやいなや、イエスは彼の方をご覧になり、彼を呼ばれました。
ご存じのように、あの聖句には何かがあります。
「わたしの羊は、わたしの声を知っている。」
イエスは彼の目をとらえ、こう言われました。
「見よ、まことのイスラエル人である。その人の内には偽りがない。」
私が以前そのことを言った時、ある人がこう言いました。
「もちろんだ。彼はイスラエル人らしい服装をしていたからだ。」
いいえ、彼らは皆、同じような服装をしていました。アラブ人も、ユダヤ人も、ギリシャ人も、皆同じような東方の衣を着ていたのです。
イエスは言われました。
「見よ、まことのイスラエル人である。その人の内には偽りがない。」
それで彼は、すっかり勢いをそがれてしまいました。
ナタナエルが何と言ったか、見てください。
「ラビ——つまり、教師、先生という意味です——ラビ、あなたが私を見るのはこれが初めてです。私もあなたを見たのは、これが初めてです。どうして私をご存じなのですか。」
イエスは言われました。
「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたが木の下にいた時、わたしはあなたを見た。」
それで決まりました。彼は言いました。
「あなたはキリスト、生ける神の御子です。あなたはイスラエルの王です。」
もしそれが昨日のイエスであり、そしてその方が今日も同じであるなら、それは今日のイエスです。皆さん、信じますか。もちろんです。
35. 祈りの列に入る前に、できればもう一つだけ聖句に触れたいと思います。もう一つだけ取り上げましょう。
ピリポが証し終えると、アンデレが……。彼らはおそらく、また舟を漕ぎ出そうとしていたのでしょう。その時、彼は言いました。
「ちょっと待ってください、兄弟たち。私にも証をさせてください。」
ご存じのように、そこには何かがあります。本当にイエスに触れたなら、人はいつも証したくなるものです。
彼は言いました。
「私たち皆のために、私に証をさせてください。そうすれば、私たち皆が分かるでしょう。」
「覚えていますか。あの朝、あるいはその前の日に、あの方が私たちにこう言われた時のことを。
『明日、私たちはエリコへ下って行く。』
さて、エルサレムからエリコへ行くには、山をまっすぐ下って行くのです。山を越えて、そのままエリコへ下って行くのです。
ところが、あの方にはサマリアを通る必要がありました。私たちはよく不思議に思ったものです。なぜエリコへ下って行く前に、わざわざサマリアまで上って行こうとなさるのだろうか、と。
けれども、あの方は行く必要があると言われました。なぜでしょうか。御父があの方を遣わしておられたのです。
そして覚えていますか。私たちは昼ごろそこに着きました。あの方はとても疲れておられ、私たちはそのことを心配していました。あの方は、小さな公共の井戸のそばに腰を下ろされました。そこは、少し見晴らしのよい場所で……。
あの方はそこに座られました。私たちは、あの方が水を飲まれるのだと思いました。しかし、そこには水をくむものが何もありませんでした。そこで、あの方は私たちを町へ遣わして、食べ物を買いに行かせたのです。
36. すると、評判の悪い一人の女が井戸へやって来ていました。私たちは耳を傾けました。
兄弟たち、ここで私はその時のことをそのまま引用します。皆さんも覚えているでしょう。」
アンデレがそう言っているのが、私には聞こえるようです。
「覚えていますか。その女が水を汲むために、つるべを下ろしました。そして水を汲み上げた時、私たちはその声を聞き、そっと見ていました。あの方が、この評判の悪い女について何と言われるのかを見ようとしていたのです。
彼女は教会の外にいた人でした。外側の人でした。ちなみに、彼女はサマリア人でした。大きな隔たりがありました。サマリア人とユダヤ人は、互いに付き合いをしなかったのです。
私たちはその女を見ました。見た目には美しい女性でしたが、その服装から、彼女が評判の悪い人であることは分かりました。
そして彼女が水を汲み上げた時、私たちはあの方がこう言われるのを聞きました。
『女よ、わたしに飲ませてください。わたしに水を飲ませてください。』」
37. すると、その女は言いました。
『先生、あなたはユダヤ人でありながら、サマリアの女である私に何かを頼むというのは、普通のことではありません。』
そして、あの方が何と言われたか覚えていますか。
『もしあなたが、自分が誰と話しているのかを知っていたなら、あなたの方からわたしに飲ませてくださいと求めたでしょう。そしてわたしは、あなたがもうここへ汲みに来なくてもよい水を与えたでしょう。』
すると彼女は言いました。
『井戸は深く、あなたには汲むものがありません。』
兄弟たち、覚えていますか。その会話が、ユダヤ人とサマリア人のことについて続いていったことを。」
さて、私はこう思います……。こう言いましょう。イエスは、彼女に語りかけながら、彼女の霊に触れようとしておられたのだと思います。御父があの方をそこへ遣わされたのです。
この点を、皆さんの心の中ではっきりさせておきたいと思います。今まで私が語ったことを、すべて心に留めておいてください。ここを明確にしたいのです。
御父が……。あの方は言われました。
「わたしは、父が示されるまでは、何も行わない。」
ですから、御父があの方をそこへ遣わされたに違いありません。そして、こう言われたのでしょう。
「その井戸を見つけるまで上って行きなさい。」
あの方は、それまで一度もそこへ行かれたことがありませんでした。
「そこに座って待ちなさい。わたしがあなたをそこへ遣わす。そこへ着けば、あとは整えられる。」
38. 覚えておいてください。イエスは、心の思いと意図を見分けることがおできになりました。そして、私たちの聖書は言っていないでしょうか。ヘブル人への手紙4章で、神の言葉は両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り分けるまでに刺し通し、心と思いの意図を見分けるものである、と。神の言葉です。
イエスは、その御言葉でした。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。……そして、言は肉となって、私たちの間に宿られた。
そこに、神の御言葉がありました。その御言葉が、あの女の魂の中へ刺し通し、彼女の問題がどこにあるのかを見つけておられたのです。
今晩、私のこのクラスの中で、彼女の問題が何だったか分かる人はどれくらいいますか。手を挙げてください。もちろんです。彼女には五人の夫がいたのです。
それであの方は言われました。
「行って、あなたの夫を呼んで来なさい。」
「まあ」と彼女は言いました。
「私には夫がありません。」
そしてアンデレは言いました。
「兄弟たち、私たちがその時どう思ったか覚えていますか。
ああ、ああ。これはいけない。今度ばかりは、あの方は間違われた。あのサマリア人については、確かに間違っておられる。ユダヤ人には通用するかもしれないが、サマリア人についてはどうだろうか。
今度こそ、あの方は確かに間違われた。なぜなら、彼女自身が夫はいないと言っているのだから。」
39. 神の御使いが、人の肉体を取ってソドムとゴモラへ下って行かれた時、そこにはユダヤ人女性の女王の一人、サラがいました。
現代で言えば、ビリー・グラハムやオーラル・ロバーツのような者たちがソドムの町へ下って行き、福音を宣べ伝えました。しかし、そのうちのお一人は後ろに留まり、選ばれた教会に語っておられたのです。その方はソドムの教会へは下って行かれませんでした。呼び出された、選ばれた教会、アブラハムのもとへ来られたのです。
私たちは、ちょうどそのことを見てきたばかりです。
そして、その方がアブラハムに語っておられた時……。さて、その方は見知らぬ人でした。それなのに、その方は言われました。
「アブラハム……」
覚えておいてください。その方は彼をアブラムとは呼ばれませんでした。ほんの数日前に、彼の名はアブラムからアブラハムに変えられたばかりだったのです。
その方は言われました。
「アブラハム、サラはどこにいるのか。」
サライではありません。サラです。彼女の王女としての名であり、それもほんの数日前に与えられたばかりでした。
「あなたの妻サラはどこにいるのか。」
40. アブラハムは言いました。
「彼女はあなたの後ろの天幕の中におります。」
その方は言われました。
「わたしはあなたを訪れる。わたしはそれを成就させる。あなたはこの子のために二十五年待ってきた。わたしは、命の時にしたがって、彼女によってあなたを訪れる。」
すると、彼の後ろの天幕の中にいたサラは、心の中で笑いました。そして心の中で思ったのです。
「私のような、ほとんど百歳にもなる年老いた女が、また私の主、私の夫と楽しみを持つことができるだろうか。私が年老いた女で、百歳になろうとしており、彼も百歳ほどであるのに、私がまた彼と楽しみを持つことができるだろうか。そんなことはあり得ない。」
そして、その御使い、その人間であった方、肉を食べ、乳を飲み、とうもろこしのパンを食べておられたその方——そしてアブラハムはその方を神と呼びました——その方が言われたのです。
「なぜサラは天幕の中で笑い、心の中で『どうしてそんなことがあり得ようか』と言ったのか。」
彼女は疑ったのです。
41. 「ソドムの日にあったように、人の子の来る時にもそのようである。」
つまり、アブラハムがエロヒムと呼んだ、人の肉体の中に現されたあの同じ霊です。
エロヒムとは何を意味するか、分かる人はいますか。もちろんです。全能者、自ら存在されるお方、という意味です。
族長アブラハムは、その方をエロヒムと呼びました。その方は肉の体の中にご自身を現され、ほかの人間と同じように食べ、飲まれました。そしてソドムを滅ぼされる前に、選ばれた教会に対して、そのしるしをなさったのです。
ああ、兄弟たち、これを見落としてはいけません。その時が来ているのです。
エロヒム。
イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。
その御体は、教会のために執り成しをするため、御父の右の座に着いておられます。しかし、その同じ御霊が、ご自分の民の内に住んでおられるのです。
神が、聖霊の形でご自分の民の内に現され、同じことを行っておられるのです。分かりますか。異邦人に対して、同じことをなさっているのです。
42. 「夕暮れの時に光がある。その日は、昼とも夜とも呼ばれない日となる。」
さて、太陽、s-u-n は東から昇り、西に沈みます。そして御子、S-o-n は……神の太陽、s-u-n のように、この方は神の御子、S-o-n です。あの方は最初に東へ来られました。
私たちは、どんよりとした一日を過ごしてきました。教会に加わり、組織を作り、人々をそこへ入れ、名簿に名前を書き、罪の赦しを受ける、それだけのものは持ってきました。
しかし預言者は言いました。
「夕暮れの時に光がある。」
私たちは今、まさに西海岸にいます。水辺から半マイルも離れていません。もしここからさらに向こうへ渡れば、また東へ戻ることになります。
それが、罪がはびこっている理由です。波がそれをここまで運び上げ、そこはすっかり汚染されてしまいました。
しかし、あの方は言われました。
「夕暮れの時に光がある。」
43. 彼女はそれを否定した。彼女は言いました、“私には夫がいません。”
しかし、彼の言ったことを聞いてください。アンドリューがこう言うのが聞こえます。“しかし、兄弟たち、彼が言ったことを覚えていますか?彼は言った、「あなたは真実だと言いました。」。あなたには5人の夫がいますが、今一緒に住んでいるのは夫ではありません。よく言ったね。'
“さて、私たちはこのサマリア人の女性が邪悪な性格なので、(よく訓練された説教者たちがしたように)「そうですね、あなたはベルゼブブに違いありません」と言うだろうと考えました。」” 彼女は今日の多くの牧師よりも神についてよく知っていました。彼女は言いました。“先生、私はあなたが預言者であると認識しています。” さあ、彼女の言葉を聞いてください。読んでください、聖ヨハネ 4: “私はあなたが預言者であることを認識しています。私たち(私たちサマリア人)は、メシアが来ることを知っており、メシアはこれらのことを私たちに教えてくれるでしょう。それがメシアのしるしとなるでしょう。でもあなたは誰ですか?”
彼は言いました。“私はあなたに語りかける人です。”
そして彼女は街に駆け込み、「“私がしたことを話してくれた男に会いに来てください」と言いました。まさにメシアではないでしょうか?それはメシアが示すはずだったしるしではないでしょうか?
そして聖書には、サマリアの男たちが彼を信じたのは、女性が彼に言ったことのためであると書かれています。昨日はイエスだったのか?もし彼が同じメシアなら、それは今日のイエスでしょう。(私たちはさらに多くのことに行くことができました。時間がありません。)
44. ご存じのように、彼らが証をしている間は、舟の中はとても静かでした。しかし、彼らが証をやめた頃——ちょうど教会が証をやめ、神に賛美と栄光を帰すことをやめる時のように——サタンが丘の向こうから顔を出して、こう言ったに違いありません。
「ああ、ちょうど思い通りのところに来た。彼らは、あの方なしで出て行ったのだ。」
私は、今日の教会もそれをしてしまったのではないかと恐れています。
あなたがたは、自分がフォースクエアに属しているのか、アッセンブリーズに属しているのか、ワンネスなのか、トゥーネスなのか、あるいは何であれ、そういうことにあまりにも関心を持ちすぎています。
ほかのところより少し大きな建物を建てようとか、何か少し大きなことをしようとか、より大きなキャデラックを持とうとか、ほかの人たちより良いものを持とうとか、そういうことに心を奪われているのです。
私は、私たちの大きなプログラムや団体活動の中で、私たちはあの方なしで出て行ってしまったのではないかと思います。
サタンはそれを見て、毒の息を吹き始め、水を荒れ立たせました。そして言いました。
「彼らを溺れさせてやろう。」
45. 私は、神の癒しについての考えをすっかり捨ててしまったペンテコステの人々を、たくさん知っています。確かに、彼らはそれを信じていません。
少し前、私はあるペンテコステ教会へ、椅子を借りに行きました。私たちは兵器庫のような大きな会場を使っており、外には何千人もの人々が立っていました。それで私は、そのペンテコステの兄弟のところへ行きました。彼は五百ほどの椅子を持っていました。
私は言いました。
「兄弟、その椅子をお借りできませんか。」
彼は言いました。
「癒しの集会を開いているのですか。」
私は言いました。
「はい、そうです。」
すると彼は言いました。
「神の癒しを信じるような人を、私の椅子に座らせるつもりはありません。」
ほら、そこです。それがペンテコステです。バプテストの人々を笑ってはいけません。
彼の毒の息です……。あなたがたは、あまりにも教派の端の方へ行きすぎました。大きなことを追い求めすぎました。ハリウッドに倣おうとし、この西海岸で行われていること、あるいはどこの海岸であれ、世のやり方に倣おうとしているのです。
彼は、あなたがたがそれを持たずにいるのを見たのです。どこかの学校の群れから孵化したような、孵卵器育ちの説教者たちです。その通りです。
46. 今日、私たちが説教者を世に送り出すやり方も、それと同じです。心理学の学位によって送り出しているのです。
私たちの偉大で有名なペンテコステ運動も、今では宣教師が海外へ行く前に——偉大なペンテコステ運動だというのに——その人の知性が正常かどうかを見るために、精神科医の前に出なければなりません。
そうなった時点で、あなたがたは後退しているのです。その通りです。
私たちの知性とは誰でしょうか。それは聖霊です。イエスです。
しかし私たちは、彼らを医者や精神科医、世の人々の前へ連れて行き、その人の知性が宣教師になるのに十分強いかどうかを調べさせているのです。はあ! ああ、何ということでしょう。
毒の風は、確かに吹いています。それは教会を、もはやペンテコステの人々をほかの人々と見分けることができないところまで連れて来てしまいました。皆、ほとんど同じように見えます。
あちこちを見てください。私たちの女性たちは、みっともない古びたような服を身につけています。そして私たちの兄弟たちの多くは、外へ出て行くと、酔った船乗りでさえ口にしないような冗談を、通りに立って話しているのを見かけます。
また、二人、三人と違う妻を持ちながら、教会の中で生活し、しかも執事やその他の役職に就けられているような人たちも見ます。
外へ出れば、まるで世の人と同じように振る舞っています。もう昔ながらの祈祷会も聞かれません。神に向かって叫び求める声もありません。すべて忘れられてしまったのです。過ぎ去ってしまったのです。分かりますか。
私は恐れています。私たちは、あの方なしで出て行ってしまったのではないでしょうか。皆さんもそう思いませんか。
47. そして、ついには望みがすべて尽きたようなところまで来ました。舟はまさに沈みかけていたのです。
本当はここで少し立ち止まりたいところですが、そうしないと約束しましたから。彼らは波に打ちつけられ、もうだめになりかけていました。
しかし、ご存じでしょうか。ここで皆さんに慰めとしてお伝えしたいことがあります。あの方は、それほど遠くへ去っておられたわけではありません。
あの方が何をなさったか、ご存じですか。あの方は、それが起こることを知っておられました。彼らがそのような状態になることを知っておられたのです。そして、あなたがたもそのような状態になることを知っておられました。確かにそうです。
あの方は何をなさったのでしょうか。彼らを見守ることができるように、その地方で一番高い山に登られたのです。高く上れば上るほど、遠くまで見ることができます。
そしてあの方は山の頂に登り、そこにおられました。山の頂から、沖で漕いでいる彼らをずっと見守っておられたのです。
48. 主は、あなたの労苦と悩みを見ておられます。あなたがどれほど病んでいるかを見ておられます。主は、あなたの弱さに同情することのできるお方です。
あの方は、ただ山に登られただけではありません。カルバリに登られました。そして月と星のさらに上へと昇られ、神の御座に着いておられるのです。そこから宇宙全体を見渡すことがおできになります。あの方は見守っておられます。待っておられます。ちょうど真夜中の時刻、すべての望みが尽きた時、小さな舟は海の上でコルク栓のように投げ回されていました。その夜、海の一万もの悪霊が、「あの弟子たちはあの方なしで出て行ったのだから、今夜こそ溺れさせてやる」と誓っていたかのようでした。それが今日、サタンの言っていることです。
「私はあのペンテコステの群れを捕まえた。私は彼らを揺さぶっている。彼らは互いに争っている。彼らの間には一致がない。彼らは世と同じだ。私はできる限り激しく、彼らを前後に揺さぶっている。まもなく彼らを、冷たく形式的な群れへと振り落としてやる。」しかし、その大いなる時、まさにその時に、あの方は海の上を歩いて、彼らのもとへ来られたのです。
49. その時に起こったのと同じことが、今も起こっているのです。彼らを助け、安全なところへ連れ戻すことのできる唯一のものを、彼らは恐れてしまいました。それは彼らには不気味に見えたのです。彼らは、それを霊だと思いました。
そして今日も、キリストがご自身のメシア的な力をもって、ご自身のメシア的なしるしをもって、言われた通りに私たちのところへ歩いて来られる時、私たちは言うのです。
「それはテレパシーだろう。あるいは占い師かもしれない。何かそういう類のものだろう。」
彼らは、聖書がその約束をしていたことを知らないのです。
イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。
そして、もし今晩あの方が語られるなら、病んでいるここにいるあなたがたを慰めるために、あなたがたの心にこう言われるでしょう。
「恐れることはありません。わたしです。恐れてはなりません。」
ここに、その約束を与えているあの方の御言葉があります。ここに、あの方が語られたことがあります。あの方は約束されました。
私は、あの方が今ここにおられると信じています。皆さんも私と同じように信じますか。
50. もし今晩、あの方が私たちのただ中へ歩いて来られ、ご自身がメシアであることを証明されたなら、あなたは恐れてこう言えないでしょうか。
「主イエスよ、私はあなたを私の癒し主として受け入れます。私は恐れません。医者は、私の時はもう尽きたと言いました。真夜中です。私は癌です。心臓の病があります。私は死にかけています。」
あるいは、
「私は足が不自由です。人々は、私はもう二度と歩けないと言います。でも、私はあなたを恐れません。」
すると、あの方がこう言われるのを聞くでしょう。
「恐れてはなりません。わたしです。わたしは、これを行うと約束しました。あの日々にあったように……。」
51. 父よ、今晩どうか私たちを助けてくださいますように。
今晩、もしあなたが私たちのただ中を歩んでくださるなら、父よ——この少し途切れ途切れのメッセージの後で——人々が聖書によって、あなたがどのようなお方であられたのか、そしてあなたの約束が何であるのかを見ることができるようにしてください。
あなたはご自身を現し、ご自身を証明されました。そしてそれは、あなたがメシアであることを、サマリア人にもユダヤ人にも証明されたしるしでした。
しかし、あなたは異邦人の前では、それを一度もなさいませんでした。一度もです。
けれども、あなたは終わりの日にそれをなさると約束されました。ただ……ノアの時のようにではなく、火が下る前のソドムの時のようにです。その時、あなたはそれをなさいました。その時、あなたはアブラハム、すなわち呼び出された教会に対して、そのしるしをなさったのです。
52. 私は心の底から信じています。あなたの教会は、あらゆる組織、あらゆる教派から呼び出された者たちであると。メソジスト、バプテスト、カトリック、長老派、その他何であってもです。
彼らは教会です。なぜなら、彼らはキリストの神秘的な体の中へ生まれ入れられたからです。父よ、今晩ここには、その多くの方々が代表としておられます。
私たちが願い求めている祝福を、どうかお与えください。
主よ、私は十分な者ではありません。もう私に言えることはありません。私はただ、あなたの御言葉を引用することしかできません。ただ、それが書かれている通りに人々に引用し、語るだけです。
今、それが真実であったかどうかを証ししてくださるのは、あなたにかかっています。
どうか、それをなしてくださいますように。ここにいる一人ひとりが、あなたを抱きしめるように受け入れ、こう言うことができますように。
「主よ、私の小さな舟の中へお入りください。」
53. 「すると、舟はすぐに目的の岸に着いた。」
ああ神よ、彼らがあなたをお招きし、あなたが彼らの内側に、彼らの小さな舟の中に入ってくださるなら、彼らが癒され、健やかにされ、あるいは救われるのに、ほんの少しのことしか要りません。彼らが人生という厳かな大海を航海しているその小さな舟の中に、あなたが入ってくださるなら。
主よ、今晩ここにも、きっと多くの方々がおられます。病の波、癌、結核、心臓の病が彼らを打ちつけています。彼らは沈みかけ、すべての望みが尽きようとしています。
しかし主よ、今晩、彼らが恐れることのないようにしてください。私たちは、あなたの御言葉を通して、あの慰めに満ちた御声を聞くことができるからです。
「わたしです。元気を出しなさい。恐れてはなりません。」
父よ、今、私たちはあなたに耳を澄ませます。
これはあなたの御言葉です。あなたが約束されたのです。
54. あなたがご自分の郷里へ行かれた時、彼らの不信仰のゆえに、多くの力あるわざを行うことがおできになりませんでした。その時、あなたは言われました。
「預言者は、自分の郷里、自分の地域、自分の国のほかでは、尊ばれないことはない。」
主よ、今晩、あなたの御言葉を尊んでください。そして、この人々の前で、それを新たに生きたものとして現してください。
父よ、彼らをご覧ください。彼らは病んでおり、必要を抱えています。この暑い部屋の中に横たわっている人々がいます。何百人もの人々が入れずに帰されました。そして、立ち続けているために、手足がこわばり、痛んでいる人々もいます。
神よ、今、サタンをこの場所から退かせてください。神のまことの信仰が入って来ますように。彼らが理解できますように。
私たちは、自分自身とこの会衆をあなたに委ね、イエスの御名によって願い求めます。アーメン。
ただ、あの歌に耳を傾けてください。
「ただ信じなさい。」
55. 彼らはおそらく叫び、足を踏み鳴らし、油を注ぎながら、
「出て来い、この悪霊よ!」
と叫んでいたことでしょう。しかし、その悪霊はただそこに居座ったままでした。
そこへ、丘を下って来られたのが、人の子、神の御子でした。サタンはそれを知った時、自分が相手にしているのは、もはやあの使徒たちではないと分かったのです。
父親は言いました。
「主よ、私の息子を憐れんでください。彼は悪霊にひどく苦しめられています。何度も火の中や水の中に倒れ込み、彼を滅ぼそうとするのです。私はあなたの弟子たちのところへ連れて来ましたが、彼らには癒すことができませんでした。」
では、なぜ彼らは彼を癒すことができなかったのでしょうか。
力を持っていなかったからではありません。
信じていなかったからです。
今晩、もしあなたが病のままここを出て行くなら、それは神に力がないからではありません。また、神がそれをあなたに与えておられないからでもありません。あなたがそれを信じないからです。それだけです。同じことです。
イエスは言われました。
「あなたが信じるなら、わたしにはできる。」
そうではありませんか。
あなたは信じなければならないのです。
56. 祈りのカードは、Bの1番から100番です。さて、係の者たちがカードを配った時、ここにいた方はどれくらいいますか。手を挙げて見せてください。
皆さん、ご存じですね。彼らはカードを持って来て、それをよく混ぜます。欲しい人は誰でもカードを受け取れるようにするためです。あなたは1番を受け取るかもしれませんし、別の人は8番、また別の人は16番、また別の人は32番を受け取るかもしれません。どこから始まるかは分かりません。
ですから、その係の者も分かりません。祈りのカードについて、何も知りません。そして彼が降りて来た時、あなたがこう尋ねたとしても、
「今晩、あなたのお父さんはどこから呼び始めるのですか。」
彼には分かりません。私にも分かりません。ただ、聖霊が私の心に置かれるところから呼ぶのです。
以前は、小さな子どもたちを呼んで、
「さあ、坊や、ここへ来て数えてごらん。あなたが止まったところから始めましょう。」
と言ったこともありました。しかし、お母さんがその子にどこで止まるかを教えてしまうのです。ですから、それでは……分かりますね、うまくいかないのです。
だから、この方法なら主権的なのです。
57. 私たちはただ……一人でも十分なはずです。あるいは、あなたに信仰さえあるなら、前に出て来る必要さえありません。いずれにしても、ここ前方よりも、あちらの会衆席で癒される人の方が多いのです。
今晩は別のところから始めましょう。
(1、2、3、4、5。)
そうですね、どこから始めましょうか。1番から100番までのうち……。とにかく始めるために、1番以外のところから始めましょう。
Bの1番から100番まで配りましたね。祈りのカードBです。祈りのカードB。
では、35番から始めましょう。35、40、45、50。そこで15人になります。
祈りのカードB35番、どなたがお持ちですか。
(確かですか。失礼?)
ああ、こちらですね。すみません。こちらへ来てください、婦人。
小さな皆さん、少しこちらの後ろへ動いてもらえますか。子どもたち、よかったら、ここから祭壇の周りを回って、こちらの後ろへ来てくださいね。かわいい皆さん。私が説教している間、とても静かに座っていてくれて、本当に立派でしたよ。
B……何番でしたか。35番ですね。分かりました。
では、36番をお持ちの方はどなたですか。祈りのカード36番、B36番。はい、婦人。
37番。37番をお持ちの方はどなたですか。はい、婦人。
38番、38番。38番をお持ちの方はどなたですか。
38、39。祈りのカードB39番をお持ちの方はどなたですか。はい。
40番。はい。
41番、42番。42番は見えませんでした。
さて、耳の聞こえない方がいて、聞こえていないかもしれません。
58. ただし、それで癒されるという意味ではありません。必要なのは、神へのあなたの信仰です。私はそのことをお伝えしてきました。神へのあなたの信仰です。
40……ええと、私は何番から始めましたか。36番……?
42番から始めましたか。いいえ、35番から始めました。
35、36、37、38、39、40、41、42。
42番ですか。
どこかにおられるはずです。B42番です。
隣の方を見てあげてください。その方は耳が聞こえなくて、立てないのかもしれません。私の声が聞こえていないのです。42番、B42番。
もしかすると、外へ出てしまったのかもしれません。
43番、B43番。こちらですね。
44番、45番。手を挙げてください。そうすれば見つけやすいです。
45番ですか。ずっと後ろですね。分かりました。
45番、46番。こちらですね。
47番。はい、分かりました、兄弟。
48番。こちらですね。
49番。よろしい。
50番。ずっと後ろの隅ですね。分かりました。
さて、これで……。
まだこれよりもっと多く呼ぶことができるかもしれません。
ではここにいる皆さんの中で、祈りのカードを持っていない方、そして病んでいる方は、手を挙げてください。祈りのカードを持っていない方です。
はい、分かりました。
59. 彼らがその方々を集めている間、今、私に注意を向けてください。どうか誰も緊張しないでください。そして、どうか会場を出て行かないでください。お願いします。ただ静かに、本当に静かに座っていてください。
皆さんが静かにしていてくだされば、あと十五分で終わります。本当に静かにしていてください。
分かりますね、聖霊が……。
さて、その写真を見たことのある方はどれくらいいますか。今では全国にあります。世界中にあります。ワシントンD.C.にも掲げられています。火の柱です。
FBIの指紋・文書鑑定部門の責任者であったジョージ・J・レイシーが、その写真を撮り、二重露光その他すべてについて調べました。そして彼は言いました。
「その光はレンズに当たったのです。」
そして、それについて宣誓供述書に署名しました。彼は言いました。
「これは心理的なものではありません。なぜなら、このカメラの機械の目は、心理的なものを写すことはできないからです。」
60. 荒野でイスラエルの子らに従っていた火の柱がキリストであったことを、どれくらいの方が知っていますか。確かにそうでした。御使いです……。
では、あの方がここにおられた時、こう言われました。
「アブラハムのある前から、わたしはある。」
そうではありませんか。
それでは、あの方が肉の体をもって地上におられた時、あの方が何であったか分かりますね。
今、本当に静かに聞いてください。そうしないと、これを聞き逃してしまいます。
あの方がここにおられた時、何をなさったか分かりますか。あの方は、ご自身がメシアであることを明らかにされました。そうではありませんか。私たちは、ちょうどそのことを見てきました。
さて、あの方は言われました。
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしはあなたがたと共にいる。わたしは神から出て来て、神へ帰る。」
聖書がそう言っていることを、どれくらいの方が知っていますか。
では、あの方は何から出て来られたのでしょうか。
あの火の柱から、ここへ下って来て、肉の内に宿られ、そして再びその火の柱へ帰って行かれたのです。
あの方がそうなさったと、皆さんは信じますか。
61. そして、その方は言われました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
彼は言いました。
「主よ、あなたはどなたですか。」
その方は言われました。
「わたしはイエスである。」
そうではありませんか。
ペテロが牢の中にいた時、牢の中へ、鉄格子を通って入り、扉を開けて彼を連れ出したものは何でしたか。
光です。火の柱です。
それなら、もし私たちが持っているその同じ火の柱が……。
62. レイシー氏は言いました……。彼は知っているはずです。彼は政府の人間であり、FBIの責任者、指紋や文書鑑定などを扱う部門の責任者でした。
彼は言いました。
「これまで、超自然的な存在が写っていると科学的に証明された写真は、一枚もありませんでした。」
その通りです。それは彼の文書に、はっきりそう記されています。私たちはそれを、ここに持っています。そのうちの一枚は、ワシントンD.C.の宗教芸術殿堂に掲げられています。写真に撮られた唯一の超自然的存在です。
アーガンブライト兄弟が私と一緒にいました。ここにおられます。アーガンブライト兄弟を知っている方はどれくらいいますか。誠実な良い方です。
彼はそこに立っていました。
「それはどこでしたか、兄弟。ドイツでしたか。」
ルツェルンで、彼らはそのドイツ製のカメラでそれが写るかどうか知りたがっていました。
私は言いました。
「たぶん写るでしょう。」
63. すると彼らは写真を撮り始めました。そして、それが写ったのです。降りて来られる時、油注ぎが臨んだ時、そして戻って行かれた時まで、ドイツ製のカメラで撮られたのです。
ああ、それは至るところにあります。ですから、たとえ私が今晩死んだとしても、科学の世界は、それが真実であり、神から来たものであることを知っているのです。
世界中の教会も、それが神から来たものであることを知っています。なぜなら、それは私たちの主イエスの内に宿っていた時と同じしるしを持っているからです。
そして私たちは、あの方を通して、養子縁組によって神の息子、娘とされた者たちです。あの方の内にあった御霊が、私たちの内にもおられるのです。
「わたしが行うわざを、あなたがたもまた行うようになる。」
皆さん、はっきり分かりましたか。
64. まあ、ほとんど全体ですね。
では、本当に敬虔にしていてください。少しも物音を立てないでください。本当に敬虔にしていてください。魂の中を、ただ静かで麗しい状態に保ってください。
そして、こうしてください。こう言うのです。ここで少し聖句をお伝えしましょう。
「主よ、私は、群衆を押し分けて進んだあの女のようです。彼女は長血を患っていました。そして、あなたを見て、あなたを認め、心の中でこう言いました。
『あの方の衣に触れることさえできれば、私は健やかにされる。』」
皆さん、その話を覚えていますか。
おそらく彼女は祈りのカードを持っていなかったでしょう。しかし、彼女は群衆を通り抜けたいと願い、押し分けて進みました。そして、あの方の衣に触れたのです。
それはゆったりと垂れた衣でした。パレスチナの衣です。ですから、あの方が肉体的にそれを感じることはなかったはずです。それは証明されています。彼女はそのようにあの方に触れ、そして戻って座りました。
するとあの方は振り向いて言われました。
「わたしに触れたのは誰ですか。」
65. 「そんなことを言うとは、どういう意味ですか。それは理にかなわない質問です。どうしてそのようなことを言われるのですか。皆があなたの周りに腕を回し、あなたの手を握り、『ラビ、お会いできてうれしいです』と言っているではありませんか。どうしてそんなことを尋ねられるのですか。」
分かりますか。今日、人々がしていることもそれなのです。
しかし、あの方は言われました。
「だが、これは違う触れ方だった。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ。」
さて、そのような一つの触れ方が神の御子を弱らせたのなら、恵みによって救われた罪人である私には、どれほどのことをするでしょうか。
なぜなら、先ほど私が皆さんに訳してお伝えしたように、
「わたしが行うこれらのことを、あなたがたも行い、さらに大きなことを行う」
とあるからです。
あの方が私の力です。けれども、それは人を弱らせるのです。ダニエルは一つの幻を見ただけで、多くの日の間、頭に悩みを覚えました。
さて、あの方は振り向かれました。そして、その女を見つけるまで見回されました。それから、彼女の問題が何であるかを告げられました。そして彼女は癒されたのです。
66. 今晩ここにいる伝道者の中で、イエス・キリストが今、私たちの弱さに同情することのできる大祭司である、という聖句を読んだことのある方はどれくらいいますか。どれくらいの方がそれをご存じですか。
よろしい。
それなら、もしイエス・キリストが昨日も今日も、いつまでも変わることのない方であり、同じ大祭司であるなら、昨日なさったのと同じように行動なさるはずです。同じ大祭司であるなら、そうでなければなりません。そうではありませんか。神は変わることがおできにならないからです。分かりますね。
では今、ただ……緊張しないでください。誰も立ち上がらないでください。ただ静かに座っていてください。そうすれば緊張することはありません。私たちは静かに見ていきましょう。
あなたは言うかもしれません。
「ブラナム兄弟、あなたに触れに行ってもよいですか。」
それは、そこの長椅子に触れるのと少しも変わりません。それに触れるよりも、私に触れることで何か良いことがあるわけではありません。私には……私について何もありません。私はただ、神の恵みによって救われた、取るに足りない罪人にすぎません。
あなたの夫に触れても、妻に触れても、兄弟に触れても、ほかの誰かに触れても、それは同じことです。あなたが触れているのは人なのです。
67. あの方が今もなお、同じ大祭司であられないかどうか、見てください。
兄弟たち、もしあの方がそれをなさるなら、あなたがたの心の中のもつれは、すべて取り除かれて当然だと思えます。そうではありませんか。あまりにも完全なことのように思えます。そこには、それを語っている御言葉があるのです。分かりますね。
今、あなたがそれを受け取ることを妨げている唯一のものは、ひどい鈍さです。
「ああ、もう家に帰りたい。とても疲れた。ああ、気分が悪い。早く終わってくれないかな。」
分かりますか。そのようでは、あなたは何も受け取れません。
あなたは目を覚ましていなければなりません。見張っていなければなりません。敬虔に見張り、信じていなければなりません。
「主よ、これは私の時です。主よ、私は来ています。あなたに触れさせてください。あの人は私のことを知りません。」
68. 祈りの列にいる方々の中で、私があなたにとって見知らぬ者であり、私があなたを知らない、という方はどれくらいおられますか。手を挙げてください。
全員ですね。会衆全体にわたってそうです。
今ここで私が見ている人、あるいは私の目に入る範囲のどこを見ても、私が知っている人は一人もいません。一人もです。
後ろの方で私が知っているのは、そこに立っている私の息子、ここにいるアーガンブライト兄弟、この伝道者、こちらで握手をしたこの兄弟、私のフィールド・セクレタリー、そしてここに座っているマネージャーの一人だけです。
この建物の中で私が知っているのは、その人たちだけです。そして、もし彼らに何か問題があったとしても、私は彼らには語りません。それはそのままにしておきます。昨夜、奥の部屋でそうであったように、それはその時まで置いておきます。
69. 「御言葉がそう言っている」と言える方はどれくらいいますか。見せてください。
イエスが言われたことを、そのままの意味で語られたのだと信じる方はどれくらいいますか。あの御使いが、選ばれた教会のために、再び地上に戻って来るということです。
さて、
「わたしの羊はわたしの声を聞く。」
不信者は立ち去り、首を振って、
「いや、違う」
と言うでしょう。しかし、あの方はその人のところへ遣わされたのではありません。アブラハムのような信者のところへ遣わされたのです。
あの方はソドムへは下って行かれませんでした。選ばれた教会、呼び出された教会、分離された教会のところへ行かれ、彼らにそのしるしを示されたのです。そして、あの時そうであったように、イエスは同じことが起こると言われました。
では、それが真実であり、今がその時であり、その時間であると信じる方はどれくらいいますか。
もしあの方が来られて、ここに並んでいる人々に、また会衆の中にいる人々に、ここやその周り、どこであっても、あの時と同じことをなさるなら、あの方が同じことをなさるなら、どれくらいの方がこう約束しますか。
「私の持っている信仰をすべて用いて、それを受け入れます。」
そう願う方は、皆さん手を挙げてください。
私は、その場所を見つけようとしているのです。
では、少しの間、静かに「ただ信じなさい」を歌いましょう。姉妹、音を取ってくださるなら。
ただ信じなさい。
今、皆さん、敬虔にしてください。祈りの中にいてください。
ただ信じなさい。
すべてのことは可能です。ただ信じなさい。
ただ信じなさい。ただ信じなさい。
すべてのことは可能です。ただ信じなさい。
今、神の御子イエス・キリストの御名によって、神の栄光のために、この中にいるすべての魂を、私の支配の下に置きます。
動き回らないでください。本当に敬虔にしていてください。
よろしい。祈りの列を始めてください。
70. さて、会衆の皆さん、私は今まで説教していましたので、これからこの婦人と話したいと思います。
では、皆さんのために、これを聖書的に土台づけましょう。私が話していたところを取り上げましょう。ええと、ヨハネによる福音書4章ですね。
ここに一人の男と一人の女がいます。あなたは、私たちがお互いに見知らぬ者同士であることを示して、手を挙げられたと思います。
[姉妹が答える。「はい。」]
私たちは見知らぬ者同士です。
ですから、会場のずっと後ろの方にいる皆さんにも、私たちが見知らぬ者同士であることが分かるように、私たちは二人とも手を挙げて、お互いを知らないことを示しました。
71. 私たちの主は井戸へ来られ、一人の女に出会われました。主は彼女をそれまで見たことがなく、彼女も主を見たことがありませんでした。しかし主は、その女の状態が何であるか、彼女の問題がどこにあるかを言い表されました。
すると彼女はすぐに言いました。
「あなたは預言者に違いありません。私たちは、メシアが来られることを知っています。そしてメシアが来られる時、その方はこれらのことを私たちに告げてくださいます。」
これが真実であると知っている方はどれくらいいますか。
さて、姉妹、私は先ほど申し上げたばかりだと思います。あの方はエリコへ向かっておられたのですが、サマリアを通る必要があったのです。そして御父があの方をそこへ遣わされました。
さて、私たちはお互いを知りません。私はあなたを見たことがありませんし、あなたも私を見たことがありません。これが私たちの初めての出会いです。
それなら私は、神が私をここへ遣わされたのだと信じます。そこにいるアーガンブライト兄弟が私に電話をして、ロングビーチに来てくれないか、またアーニー・ヴィック兄弟のところにも来てくれないかと頼みました。私は行きますと答えました。
すると、何らかの理由で、その両方の週がここに組まれたのです。ですから私は、それは神がなさったことだと信じています。
72. ですから、もしメシアが……。私は一人の人間であり、あなたの兄弟ブラナムにすぎません。あなたについては何も知りません。神と、ここにある神の御言葉が、それをご存じです。
しかし、もしメシアが来られて私に油を注がれるなら、あの方は、あそこでなさったのと同じことをなさるでしょう。あなたの問題が何であるかを知り、それをあなたに告げることがおできになるのです。
さて、もしあの方ご自身が、私ではなく、あの方が、この場にご自身で立っておられたとしたら、どうでしょうか。あなたは言うでしょう。
「主イエスよ、私を癒してください。」
しかし、あの方はそれをなさることはできません。こう言われるでしょう。
「わたしの子よ、あなたのために死んだ時、わたしはすでにそれを成し遂げた。」
けれども、あの方はこう言われるでしょう。
「あなたが、わたしがその方であることを知るために、わたしは地上にいた時に行ったように行いましょう。なぜなら、わたしは変わることができないからです。分かりますね。
もし御父が、あなたの問題が何であるかをわたしに示してくださるなら、その時あなたは、わたしがメシアであると信じますか。」
あなたは言うでしょう。
「はい、主よ。」
そしてあの方は、おそらく以前なさったのと同じことをなさるでしょう。そうせざるを得ないのです。あの方は同じお方だからです。
73. あの方は、それを量りなく持っておられました。神性の満ち満ちたものが、肉体をもってあの方の内に宿っていたのです。私は、ただ小さなスプーン一杯ほどを持っているだけです。私たちが持っているのはそれです。量りに応じて持っているのです。
しかし、もし私が海からスプーン一杯の水をすくい取り、ここへ持って来て、その中の成分を調べたなら、海全体にあるのと同じ成分が、そのスプーン一杯の中にもあります。ただ、その量が多くないだけです。
分かりますか。私が話している間、私は何かを見つめています。あなたは、何かが起こっていることに気づいていますね。
今、もし会衆の皆さんにそれが見えるなら、私とこの婦人の間に、皆さんが写真で見ているあの光が立っているのです。そこにあの方がおられます。
今、私は心が安らぎます。あの方がここにおられることが分かるからです。最初は少し心配していましたが、今、あの方はここにおられます。
あなたは、何かが起こっていることに気づいています。もしそうであるなら、会衆に証ししていただきたいのです。
少し前に、とても優しく、慰めるような感じが来ましたね。とても心地よい、穏やかな感じです。そうですね。