1. それで、私たちがこれをあまり大々的に宣伝しなかった理由は、人々を入れる場所がなかったからです。ほんとうに……夜ごとに、人々は入りきれずに帰って行かなければならなかったのです。それも、ほとんどが私たちの地元の人たちです。ですから、ただここにいる私たちの仲間の間で、このことを知らせただけだったのです。
それから、先ほどの、そのバスケットのための献金のことですが、あれは地元の人たちのために意図されたものです。あれは私たちの教会の働きなんです。これは、いつもの日曜学校なんです、わかりますね。ですから……もちろん、もしどなたかがそのような形で助けたいと思われるなら、私たちはそれがほんとうに困っている人たちのところへ行くように、必ずいたします。この町には、何ひとつ持っていない家族がいるのです。そしてクリスマスにも、何もないままなんです。そういう人たちはこの教会を頼りにしているのです。ですから、それはその目的のために使われるのです。執事の一人に、それが何のためなのか言ってくださればいいですし、あるいは、後ろにいる私の姉妹がそれを受け取ります。」
2. ですから、今夜の礼拝が終わりましたら、すぐにもう一度バプテスマ式があります。何人かは、どうしてもバプテスマを受けなければならないと言っていました。
それで、つい先ほどビリーが駆け上がって来て、私にこう言ったんです。『すぐには来ないでください。ネビル兄弟が先にバプテスマをしなければならなかったんです』と。それで、『すぐに帰らなければならない人たちが大勢いたんです』とも言いました。そして、今朝バプテスマ式があるかどうか、皆よく分かっていなかったのです。
覚えておいてください。この水槽はいつでも開いています。いつでもです。昼であれ夜であれ、どの時間でも、バプテスマの用意ができています。ほかの牧師たちもここに来て、この水槽を使ってバプテスマを行っています。ですから、私たちはそのことをとても嬉しく思っているのです。」
3. 私は言いました。『“バプテステリー”なんて言うのは、メソジストにはちょっと難しいでしょうね。』
あちらには、ほら、パラパラと振りかけるための小さな器があるだけでしょう、ちょこんと置いてあるような。だから私は、『“バプテステリー”なんて言葉は、メソジストにはちょっと言いにくいんですよ』と言ったんです。そう言ったんですよ。
すると彼は、『私たちもここらに一つあったらいいんですがね。私はどちらかというと、あれを信じてるんですよ』と言いました。
ですから覚えておいてください。メソジストでも、バプテストでも、長老派でも、誰でも使いたい人がいたら、そこにあります。開いていますよ。水は自由です。
それで、そこに小さな棒を一本入れてあるんです。小さな湯沸かし棒みたいなものを入れて、少し温めようとしてるんですがね。けれども、言っておきますが、あれじゃ温まりません。あれは私がこれまで生きてきて触った中で、いちばん冷たい水です。
私はこれまで何度も、川の氷を足でガンガン割りながら、その小川の中でバプテスマを授けたことがあります。そうしてから家まで歩いて帰って、着替える場所まで行こうとしたんです。歩いているうちに服が凍りついたこともありました。もう一歩一歩進むのがやっとでね。ズボンの裾なんか、凍って固まってしまって、足を運ぶたびにガチガチしていたんです。それでも、これほど冷たくはなかったんですよ。
これはほんとうに、私が生まれてこのかた見た中でいちばん冷たい水です。こんな水は見たことがない。ケリー兄弟、あそこに入るたびに、もう少しで凍え死ぬところですよ。ほんとうに。まあ、その……そうなんです。気分が良いときには、それほどでもないんでしょうけどね……。ケリー姉妹は、『調子が良いときには、そうでもないですよ』と言ってますけどね。」
少しだけさらにブラナム兄弟っぽく整えるなら、
4. ここにはメソジストもいれば、バプテストもいる、ナザレンも、ピルグリム・ホーリネスも、カトリックも、エホバの証人も、クリスチャン・サイエンスも、ペンテコステ派もいる。もう何もかも一緒に集められているんです。ユダヤ人さえおられる。主をほめたたえます。そのことを感謝します。私たちはユダヤ人の方がおられることをとても嬉しく思っています。そうですとも。もしユダヤ人がいなかったら、私たちが今どこにいたか分かったものではありません。ほんとうにその通りです。いや、実にすばらしいことです。
天国もそのようになるんです。まさにその通りです。天国では、あらゆる教派からの者たちがみな一つに集められるのです。だからこそ私たちは今、天的な場所に共に座っているのです。
さて、ドク、それはちょっとした心理学でしたな。そうだったのは分かっています。私はそれに十分近づいていなかったんですよ。」
5. それで、昨夜また、この集会に関する質問がいくつか届いております。主が望まれるなら、今夜のいつもの説教の前に、それに手短にお答えしたいと思っています。ですから、できることなら、ぜひ今夜も来てください。
そして主が許してくださるなら、今夜はこのリバイバルの締めくくりとして、とても大切な主題について語りたいと思っています。もちろん、それは今のところのことであって、もし聖霊がさらに導かれるなら、その先はまた別ですが。」
6. そして、皆さんに楽しいクリスマスと、すばらしい新年がありますようにと願っています。神が皆さんと共にいてくださり、皆さんが求め、また飢え渇いているその新しいいのちを、さらに豊かに与えてくださいますように。私自身もまさにそうなのです。もっと神を求めて、飢え渇いているのです。
それから、いくつかの質問が……。ちょうど先ほど、部屋で少し受け取ったばかりなのですが、昨夜、ある兄弟が私の息子にいくつかの質問を渡してくれたのです。でも、それに目を通す時間がなかったんです。ただポケットに入れただけで、もうずいぶん遅い時間でしたからね。
それで、そのうちのいくつかは、またあのマタイ……違った、ヘブル人への手紙6章4節のところに関するものなんです。」
7. それは、御霊に満たされたクリスチャンのことを言っているのではありません。もしヘブル人への手紙10章を見てくだされば、そこで彼が言っていることが違うのが分かるでしょう。あそこでは、クリスチャンに対する赦されない罪のことを語っているのです。しかし、ここで言っているのは……御霊に満たされた人のことではなくて、境界線上にいるような信者のことなんです。ただ味わっただけの人です……。
私たちはそういう人たちを、どの教会にも見ます。ただ教会に来て、そして……ああ、主がしてくださることをありがたいとは思っている。でも、その中へ自分から入って行こうとは決してしないんです。誰かが癒されるのを見るのはありがたいと思う。でも、自分で出て行って病人のために祈ったり、病院を訪ねたり、あるいは正しいことを何かしようという、その一歩を決して踏み出さないんです。そういう人たちを見たことがあるでしょう。彼らは味わったんです。見たんです。」
8. でもヨシュアとカレブは、自分たちにはできると知っていたのです。なぜなら、彼らには神の約束があったからです。
それで、パウロがそこで語ろうとしているのは、まさにそのことなんです。そこに非常に近づいて来た者たちのことを指しているのです。ほんとうにすぐ近くまで来ているのに、自分ではそれに手を伸ばそうとしない。彼らはただこう言うんです。『ああ、私は教会へ行っていますよ、ああいう教会へね。聖潔派の教会にも行くし、ペンテコステ派の教会にも行くんです。私はこういう教会にも行ってます』と。
『でも、あなたが信じてから後、聖霊を受けたのですか?』
『ああ、いえ、まだそこまでは受けていないんです。』
ほら、そこなんです。
でも、本当の信者は、それに入るまでは休んではいられないんです。どうしてもそこへ出て行って、その中に入らなければならないのです。分かりますか。いわば、ただ境界線のところにいるだけなんです。今、パウロが語っているのは、そういう人のことなんです。」
9. それから皆さんに知っておいていただきたいのです。今、帰らなければならなくて今夜の礼拝に残れない方々もおられるでしょうが、もしこのあたりを通ることがあったなら、いつでもここに立ち寄って、私たちの牧師の話を聞いていただきたいのです。私たちのこのタバナクルには、本当にすばらしい牧師がおります。オーマン・ネビル兄弟です。
私がこう言うのは、彼がここに座っているからではありません。私はもう何年も彼を知っていますが、彼は少しも変わっていません。今でも変わらずオーマン・ネビルです。主のしもべなんです。彼のことは頼りにしてよいのです。実に忠実で、真実で、すばらしい説教者なんです……」
少しだけさらにテープ調を強めるなら、こんな言い方もできます。
「私は、彼がここに座っているから言っているんじゃないんです。私は長年彼を知っていますが、彼は少しも変わっていない。今でもオーマン・ネビルその人です。主のしもべなんです。彼なら安心して任せられます。忠実で、誠実で、ほんとうにすばらしい説教者です……」
10. 私はここへ来るたびに、彼の説教から十五個くらいはテキストをもらって帰るんです。書き留めながらね。家に帰っては、『ああ、これはメッセージになるぞ。おお、これもメッセージになるぞ』ってね。そうして書き留めるんです……。
ですから、どうぞまた来て、ネビル兄弟の話を聞いてください。そして、ここの人たちと交わってください。この人たちは貧しい人たちです。ほんとうに貧しい人たちです。でも、主を愛しているんです。そして、皆さんのことも愛してくれます。ですから、皆さんが私たちと一緒にいてくださったことを私たちは嬉しく思っていますし、神が皆さんを祝福してくださるようにと祈っています。
それでは今、御言葉に近づく前に、しばらく頭を垂れましょう。」
少しだけさらにテープ調を強めるなら、次のようにもできます。
「私は後ろに座って聞いているんです。世界中の説教者たちの説教を聞いて来ました。しかし、ときどき彼の語ることには、もう驚かされるんです。言っておきますが、彼の使うああいう小さな事柄の中に、すうっと持って行かれてしまうんですよ。ほんとうにそうなんです。
私はここへ来るたびに、彼の説教から十五くらいのテキストを持って帰るんです。書き留めながらね。家へ帰っては、『おお、これはメッセージになる。おお、これもメッセージになる』と言いながら、書き留めるんです……。」
11. 私たちは、この過ぎた一週間の間にあなたが私たちのためにしてくださったことを、心の底から感謝いたします。悲しんでいた多くの心が喜びへと変えられました。多くの人々が喜ぶ者とされました。そして、御言葉のことで戸惑っていた多くの人たちが、今ではイエス・キリストを通して勝利を叫んでおります。私たちはこれらのことを感謝いたします。
そして主よ、今日もまた、あなたがご自分の民を訪れてくださる時となりますようにと祈ります。私たちはここに集められております。さまざまな……そうですね、いろいろな教派の教会から来ている者たちです。中には、聖書についてそれぞれ違った信じ方をしている人たちもおり、多少の解釈の違いはあるかもしれません。けれども、それが少しも隔てにはなっていないのです。先ほども、ひとりのユダヤ人の姉妹が手を挙げておられました……。私たちはキリスト・イエスのうちにあって、天のところに共に集められているのです。」
12. そして、病んでいる人々、苦しんでいる人々、助けを必要としている人々を癒してくださるようお願いいたします。ここには車椅子に座っている方がおられます。また、ほかにも、心臓の病を持つ人、あるいは癌を患っている人たちもおられることでしょう。その人たちは死に瀕しております、主よ。そしてこの国の尊い医者たちは、その病状を診断し、自分たちにできる限り深くまで調べ、あるいは手術までもして来たのでしょう。けれども、それでもなお、その悪魔はしがみついて離れないのです。その者は、その人のいのちを取ろうと固く決めているのです。
医者たちは、その人を助けようとして、やさしい手でメスを入れるかもしれません。しかし、その悪霊は、するりと別の小さな片隅へ逃れて、そこでまた現れて来るのです。医者の目からはうまく隠れることができるのです。しかし神よ、それはあなたから隠れることはできません。あなたは、それがどこにいるかを正確に知っておられます。そして、あなたの信仰と力のひと言によって、それは動かなければならないのです。
ですから今日、神よ、すべての悪しきものを人々から去らせてくださるよう祈ります。人々が健康を得て、私たちの神、主の祝福を喜ぶことができますように。私たちはこれをイエスの御名によってお願いいたします。アーメン。」
13. それでは今朝、イザヤ書1章に開きましょう。イザヤ書1章です。御言葉の一節をお読みする間、どうぞ皆さんもそこを開いておいてください。そして、この箇所を開いていただいている間に、これから行われる癒しの集会について少しお話ししたいと思います。
さて、私たちはここで神の癒しを主要なものだとは言おうとしているのではありません。神の癒しは副次的なものだからです。そして、副次的なものを主要なものにすることは決してできません。しかし、私たちは、イエス・キリストの働きの八十六パーセントは神の癒しであったと信じています。そして、神の癒しによって人々の注意を引くことで、人々は、あの方が神であるということに気づかされたのです。
そして主はこう言われました。『もしあなたがたが、わたしをそのようなお方として信じることができないなら、わたしのしているわざを信じなさい。もしわたしがわたしの父のわざをしていないなら、わたしを信じなくてもよい。しかし、もしわたしが父のわざをしているのに、あなたがたがわたしを信じることができないのなら、そのわざを信じなさい。』」
14. それで主は、『もしわたしを信じることができないなら、わたしのしているわざを信じなさい。』と言われたのです。ほら、そのわざが神から出ているのだということを信じなさい、というわけです。
さて、今日でも同じことです。この地上に神である人間などひとりもいません。もちろん、そんなことはありません。私たちは皆人間です。ひとり残らず、罪の中に生まれ、不法のうちに形造られ、偽りを語りつつこの世に来たのです。
しかし、今週ずっと、とてもはっきりと見て来たように、罪のゆえに、神はかつてご自分の被造物の上に住まわれていました。それから神は、その被造物と共に住まわれるようになりました。イエス・キリストというからだの姿を取り、私たちと共にその幕屋を張り、私たちと共に住まわれ、私たちと同じ肉となってくださったのです。そして、私たちが受ける罪や痛み、苦悩、そうしたものを受けてくださったのです。
それから神は、ご自分が宿ることのできる教会を聖別されました。ですから、それは、私たちの上におられる神、私たちと共におられる神、そして私たちのうちにおられる神なのです。
イエスはこう言われました。『その日には、わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられ、そしてわたしがあなたがたのうちにおり、あなたがたがわたしのうちにいることを、あなたがたは知るようになる。』
分かるでしょう。神がそのようにして働いておられるのです。ですから、人が聖霊に完全に明け渡されて語るとき、それはその人が語っているのではないのです。私はそれを経験によって知っています。」
15. ハッティーが後ろに座っていますね、あの婦人です。先日、この新しいミニストリーが……私は今朝それが来ることを信じているのですが……。皆さんもそのことはもう聞いておられるでしょう。そして、私たちが座っていた時、その場には少なくとも八人か十人ほどが、今ここにこうしておられますが、その時そこに座っていたのです。
その時、聖霊がその婦人のほうを向かれて、彼女に、願うことは何でも求めなさい、そうすればそれが与えられる、と告げられたのです……。皆さん、私がそんなことを言ったと思いますか。もし言えるなら、今すぐにでも言いますよ。しかし、私はそんなことは言えなかったのです。私は震えました。あまりにも力が抜けてしまったのです。バンクス・ウッド兄弟が――そこに立っておられますが――その時、私の隣に座っていました。そして私の両手から汗が流れ落ちるほどで、あまりにも弱ってしまって、私は立ち上がって家を出たのです。それほど恐ろしく感じられたのです。
しかし、その婦人は、人が願いうる中でも最も大きなことの一つを願い、それを受けたのです。
ほら、それは神だったのです。人ではなかったのです。人にはそんなことはできません。イエスはあの木に向かって、『今後いつまでも、だれもおまえから実を食べることがないように。』と言われました。
すると弟子たちは、次の日に……。それがどんなにすぐ働き始めたかです。その次の日には、もう枯れ始めていたのです。そして彼らは言いました。『ご覧ください、木がなんと早く枯れてしまったことでしょう。』
すると主は言われました。『神を信じなさい。まことに、あなたがたに言います。もしあなたがたが――わたしが、ではなく、あなたがたが、だれであっても――この山に向かって、「動いて行け」と言い、少しも疑わず、自分の言ったことがそのとおりになると信じるなら、自分の言ったそのとおりになるのです。』それがあなたのうちにおられる神なのです。山を動かせるのは、神のほかにだれがいるでしょうか。あのように物事を成就させることができるのは、神のほかにだれがいるでしょうか。」
16. たぶん使徒たちも、いつでも全部が一致していたわけではなかったでしょう。だれがいちばん偉いのか知りたがったこともありましたし、ほかにもいろいろなことがありました。ヨハネ、マルコ、そしてパウロ、あそこには……ペテロとパウロの間にも意見の違いがありました。
しかし、愛のきずな(つながり)なのです。それこそ、今日私たちが保とうとしているものなのです。すべてのメソジスト、バプテスト、長老派、ルーテル派、何であろうと、私たちはみな、クリスチャンとして一つのからだの中に共にあるのです。
今、私たちは御霊に満たされて、もっと神に近づいて行こうとしているのです。それが、ビジョンなのです。」
17. 『あなたがたの新月の祭りと定められた例祭を、わたしのたましいは憎む。それらはわたしにとって重荷であり、わたしはそれを負うことに疲れた。
あなたがたが手を差し伸べても、わたしはあなたがたから目を隠す。そうだ、たとえあなたがたが多く祈っても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血に満ちている。
あなたがたは身を洗い、身をきよめよ。あなたがたの行いの悪を、わたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめよ。
善を行うことを学べ。公義を求め、しいたげられている者を助け、みなしごを正しくさばき、やもめのために弁護せよ。
さあ、来たれ。共に論じようと、主は言われる。たとえあなたがたの罪が緋のようであっても、雪のように白くなる。たとえ紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
もしあなたがたが喜んで従うなら、この地の良い物を食べることができる。
しかし、もし拒み、背くなら、あなたがたは剣に食い尽くされる。主の口がこれを語られたからである。』」
18. そしてこの国でも、多くのことがそのような話し合いや会議の上に成り立っています。少し前のことですが、私はよく覚えていますし、多くの人たちも覚えておられるでしょう、あの四大国会議です。平和を願う世界の偉大な指導者たち四人が集まり、会議を開いたのです。そしてその中で、何をするのが最善かを決めようとしたのです。
それから近ごろではジュネーブ会議がありました。ジュネーブで、世界平和を願う人々が集まり、世界の平和について互いに話し合ったのです。
そして、もし私の間違いでなければ、少し前にはパリ会議もありました。彼らはパリに集まり、諸問題を話し合い、平和をもたらそうとしたのです。」
19. そして新聞には、彼が多くの場所で歓迎されていることや、彼が来るときにはアメリカの歌が歌われたり、旗が掲げられたり……いや、旗が揚げられたりすること、また、さまざまな人たちが贈り物をしたりすることなどが書かれています。それは平和を愛する国々の人々なのです。
ですから私は、アイゼンハワー氏のために祈るべきだと思います。彼らは、私たちがこのような集会を持てる国、この自由な国を保とうとして、あらゆる努力を注ぎ出しているのですから。アメリカは、そのあらゆる罪にもかかわらず、そのあらゆる問題にもかかわらず、それでもなお、この世界が持っている中で最もよいものです。私はそう信じています。
そして神がこの国を助けてくださり、これからもそのようであり続けさせてくださるようにと願います。私たちには、実に尊い原則があるからです……。この古い地は、それらの原則を守るために血で洗われて来たのです。
ですから私は、神がアイゼンハワー氏と共にいてくださるように、いつも祈るべきだと思います。年も取っておられ、健康もあまり良くなく、あのような社会的立場にあって、演説をし、最善を尽くしているあの人のためにです……。たとえ政治的に彼と意見が違っていたとしても、今は彼のために祈ってください。かかっているのは、あなたの国なのですから。」
20. 人々があちらこちらにいて、それぞれ違った考えを持っている。そして、こちらで小さな問題が持ち上がり、あちらでも何かが起こり、また別のところでも問題が出て来る。そうすると、彼らは一つに集まって会談を持ち、それに対してどうするかを決めなければならないのです。だから会談は開かれるのです。
そして、その決定……いや、その会談が設けられると、その会談を開くためのある場所が必要になります。そして気づくでしょうが、彼らはいつも、どこか美しい場所を見つけようとしているのです。
私は、ジュネーブ会議が開かれたジュネーブにも行きましたし、パリにも行きましたし、国際会議が開かれたさまざまな場所に行ったことがあります。国連の建物にも行きました。ああ、本当に美しいものです。特にジュネーブはそうです。
そして、ああいう所では……。私は思うのですが、彼らはそういう場所を選ぶのです、あの引きつけるものがあるからです……。何かそういうものがあるのです。平和で、しかも人を引きつけるような場所だと、それが人の心に働きかけるように思えるのです。私はそれは本当だと思います。
私自身でも、何度も、山に登って夕日を眺めたりすると、ただそれだけで心が震えるのです。まるで自分の中のいろいろな違いが、みな落ち着いてしまうように感じます。場所です、その会談が持たれなければならないために選ばれた場所なのです……。そしてその場で、決められなければならない事柄があるのです。
それから、会談について、もう一つ皆さんに受け取っていただきたいことがあります。それは、重大な必要がない限り、国際会議は開かれないということです。こういった国際会議というのは、切迫した時にこそ開かれるのです。」
21. だからこそ、会談というものが開かれるのです。そして、彼らがそれを選ばれた場所で行う理由も、また、そうした会談を持たなければならない理由も、そこにあるのです……。私たちは会談へと追い込まれるのです。そういうふうにして彼らは集まるのです。そして、そうした大きな会談がこれまで持たれて来たのです。そのことに、私には何の疑いもありません。
そして、私の声のこともありますし、時もそれを許しませんので、私がこれまで読んで来た、時代を通してのほかの大きな会談――パロの時代のことや、そのほかいろいろ――について語り続けることはできません。しかし、この世界の体制の中で、大きな会談というものが確かに持たれて来たのです。」
22. この地上に関して私が最初に思い起こすのは、エデンの園におけるその出来事です。神の御使いたちが泣きながら帰って来て、『あなたの子が堕ちました。罪を犯しました。そしてあなたの戒めを破ってしまいました』と言ったのです。
何かがなされなければなりませんでした。神の被造物は恵みから落ち、その神、また造り主の御前から永遠に引き離されるべきものとなってしまったのです。重大な時でした。天の王が、『それを食べるその日に、あなたは必ず死ぬ』と言われていたからです。神はご自分の子に信頼を置いておられたのに、その子は戒めを破ってしまったのです。
何かがなされなければなりませんでした。それは神ご自身の創造であり、ご自身の御手のわざであり、御心の愛するものであり、目の中のひとみのような存在だったからです。何かがなされなければならなかったのです。それで、そのような語り合いの時が持たれなければならなかったのです。」
23. そして、そこでは一つの決定がなされました。語り合いの場には、いつでも決定が伴うものです。そこで神は決定を下されました。エバについては……神が彼女を証人台に立たせられたとき、彼女は世に死をもたらしたのだから、今度は世にいのちをもたらさなければならない、ということでした。
そしてアダムについて、また蛇についてもです……。そしてもちろん、アダムは人類のかしらであったので、その下にいる全人類が、アダムと共に堕ちたのです。」
24. けれども、自分がしてしまった過ちのゆえに、それを自分の手で処理しようとしたその時に……。神の指示に従う代わりに、彼はひとりの人を殺してしまったのです。そしてパロを恐れ、その脅しのゆえに、彼は荒野へ逃げ込み、そこで四十年を過ごしたのです。
そしてエジプトの奴隷たちは、その重荷があまりにも大きく、背中は痛み、心は打ち砕かれ、ついにその叫びが神の御前に届くほどになりました。そうして神は、その場を持たれなければならなくなったのです。
そういうふうにして、そのような時が来ることがあるのです。あなたの人生においてもそうです。ついに白黒をつけなければならない時が来るのです。」
25. そこで神は、すでに世の基の据えられる前から、その民を救い出すために、ひとりの人を小羊のいのちの書に記しておられました。すべてのことは神によってあらかじめ定められていたのです。その人の名はモーセ、神のしもべでした。ですから、世の基の据えられる前から、モーセはその民を救い出すために選ばれていたのです。けれども、モーセは神に失敗したのです。
しかし、それは私たちに確信と勇気を与えるはずです。神に失敗してしまった私たちにも、なお望みがあるのです。私たちは教会として神に失敗しました。民としても神に失敗しました。だからこそ、一つの語り合いの時を持とうではありませんか。神と語り合おうではありませんか。神が私たちに何を語られるのかを見ようではありませんか。そして、私たちがどのような結論へ導かれるのかを見ようではありませんか。」
26. それで神は荒野へ、あの砂漠の奥深く、シナイの近くへ下って行かれ、山の頂と一本の柴、すなわち、ある特別な場所を選ばれたのです。神はこう思われたのです。『わたしはモーセをここへ呼び上げよう。ここならよい場所だ。彼の羊からも離れ、妻からも離れ、子どもたちからも離れ、すべての人々からも離れている。ここでわたしは彼と向き合おう。』と。
そしてそこで、神がその預言者に語られた時、ついにその中心の事柄に至ったのです。『わたしはわたしの民の叫びを聞いた。それでわたしはあなたを呼んだのだ、モーセ。わたしはあそこでのわたしの民の叫びを聞いた。そして、わたしが守らなければならない約束をしていたことを思い出した。だから、あなたをあそこへ遣わすのだ。』」
27. すると、この語り合いの中で、神はモーセに言われました。『人の口を造ったのはだれか。人が語るようにしたのはだれか。耳しいを造ったのはだれか。口のきけない者を造ったのはだれか。』と。
それでもモーセはなおも言い続けました。彼は神の栄光を見たかったのです。すると神は言われました。『モーセ、あなたがわたしがだれであるか知りたいのなら、わたしは奇跡を行う神だ。あなたの杖を地に投げなさい。』するとそれは蛇になりました。次に神は言われました。『あなたの手をふところに入れて、引き出してみなさい。』するとそれはらい病になっていました。そしてもう一度それを戻してから引き出すと、今度は癒されていたのです。
神は言われました。『モーセ、これでわたしがだれか分かるだろう。わたしは奇跡を行う神だ。病んでいる者、苦しんでいる者を癒す神だ。わたしは主なる神、エホバだ。』と。
するとモーセは言いました。『私はあなたの栄光を見ました。けれども、この語り合いが終わる前に、もう一つ知りたいことがあります。私を遣わしたのはだれだと、パロに告げればよいのでしょうか。』
神は言われました。『“わたしはある”という者が、あなたを遣わした、と告げなさい。わたしは“いた”ではなく、“いるであろう”でもなく、永遠に今おられる者、昨日も今日も、いつまでも変わることのない者だ。“わたしはある”なのだ。』
“AM” は現在形です。それは未来も、現在も、過去をも含んでいます。『“わたしはある”という者が、あなたを遣わしたのだ。』」
28. それが今朝も同じことです。世から呼び出された者たち、どんな教派の名札が付いていようと、もし呼び出されているなら、その人たちは神のために分けられた者たちであり、神の大いなる教会の一員なのです。
それでこの民は、小羊の血をささげることによって、自分たちを分けたのです。そして、その血を戸口の鴨居の上に塗ったのです。それはヒソプをもって塗られました。」
29. その草は信仰を表していました。ただ神を信じる信仰です。どこかほかへ行く必要はありません。ただ神への信仰を取って、その血をあなたの心に適用しなさい。『私はこの世のものから分けられています。なぜなら、今朝、信仰によってこの血を自分の事柄に適用するからです。私は癒されます。なぜなら、私の心の鴨居の上にその血を塗るからです。私はもう二度と疑いに打たれることはありません。なぜなら、私は自分のヒソプ、すなわち信仰によって、イエスの血を自分の戸口の上に塗るからです。そうすれば、どんな敵も中に入ることはできません。私はもう二度と神の御言葉を信じないようなことはしません。』ということです。
それほど単純なことなのです。」
30. 生ける神の教会が立ち止まる時、そこにサタンが入り込むのです。教会は絶えず進み続けなければなりません。すみやかに、シオンへ向かって進軍し続けなければならないのです。生ける神の教会が、立ち止まったという罪を負うようなことがあってはなりません。
それで彼らは立ち止まり、『これはどうしたことだ』と言いました。そして立ち止まって天幕を張り、しばらく休み始めるとすぐに、車輪のとどろきを聞いたのです。彼らに残されていたただ一つの逃げ道は、後戻りすることだけでした。すると、そこへパロの軍勢が迫って来たのです。道をふさぎ、逃げ場を断とうとしてです。」
31. 友よ、これは今日、約束の地へ向かって進んでいる私たちにも示しているのです。敵は、ほんの一跳び二跳び後ろにいるのです。このリバイバルで立ち止まってはいけません。ここで進軍停止を命じてはならないのです。ただ進み続けなさい。前へ進みなさい。あなたがたには、一昨夜も昨夜も、聖霊の臨在が共にあったのです。ですから、その中へ絶えず進み続けなさい。立ち止まってはいけません。敵はすぐ後ろまで来ているのですから。」
32. けれども、その中にひとり、取り乱す理由などないと知っていた人がいました。彼はこれまでにも、そういう時を神と持ったことがあったのです。神をつかむには何が必要かを知っていたのです。
そこでモーセは――そう言ってよければ――丘の上へ、ある岩のところへ上って行き、ほかのイスラエルの子らから身を避け、そこで神と語り合ったのです。『主よ、私はここまで進んでまいりました。けれども一つの障害が私たちを止めています。私たちは進軍を止めなければなりませんでした。』」
33. そこでモーセはある場所の後ろに上がって、神と会見したと言えます。彼は何をすればいいのか分かりませんでした。
どうしたらいいのかわからないのかもしれません。もしかしたらあなたは罪人で、たくさんの罪を犯したことがあるかもしれません。もしかしたら、もうタバコを吸えなくなるまでタバコを吸って、やめられなくなるかもしれません。もしかしたら、もう飲めなくなるまで飲んで、やめられなくなるかもしれません。もしかしたら、あなたは、見るすべての女性を見なければならないまで、罪と欲望に満ちている場所に来るかもしれません、間違っています。あるいは、自分自身の天然資源を歪曲した可能性もあります。ブロックに来たのかも。あなたがどこにいるかは気にしません;神はまだ会議であなたのところに来て、あなたと話し合う準備ができています。
34. けれども覚えていてください、兄弟、姉妹よ。それでもなお、あなたには神と語り合う権利があるのです。そうですとも。神とそれを語り合いなさい。神は悩みの時に、まことに身近な助けだからです。
さて、モーセもまた、そのような時を持ちました。おそらく、こんな語り合いだったのでしょう。『ああ、イスラエルの偉大な導き手よ、私はあなたのご命令のとおりに、これらすべてを行って来ました。私はあなたが仰せになったとおりに、この民を導いて来ました。私は民を血によって覆いました。私は天から災いを下しました。私はあなたが命じられたことを、すべて行いました。それなのに、今ここで私たちは閉じ込められています。主よ、私はどうしたらよいのでしょう。私はあなたとこのことを語り合わなければなりません。』
そしておそらく、モーセが祈っていたその選ばれた場所、あの重大な時に、岩の上に座っていたのか、あるいは岩の裂け目のそばに立っていたのでしょう……。
何かがなされなければなりませんでした。そうでなければ、彼らは戦車の車輪の下で踏みにじられてしまうところだったのです。ヘブル人の小さな子どもたちは、ひとり残らず押しつぶされていたでしょう。幼子たちはみな岩に頭を打ちつけられていたでしょうし、その母たちは切り裂かれ、辱められ、その父たちは虐殺されていたことでしょう。まさに重大な時だったのです。」
35. そして、その語り合いの時が持たれたとき、神はモーセのそばの岩の上に立たれて、こう言われました。『モーセ、宿営に戻りなさい。おまえが出て来たその場所へ、そのまま戻りなさい。わたしは神だ。下って行って、民に前進するよう告げなさい。道を造る時が来れば、わたしが道を造る。わたしは道を開く神なのだ。』
モーセは、その語り合いが終わり、神の御前から“前進せよ”という命令を受けて帰されると、下へ降りて行ってこう言いました。『恐れてはならない、イスラエルよ。今日、立って私たちの神の力を見なさい。海に向かって進みなさい。その命令から離れてはならない。命令は「前進せよ」だ。約束の地は私たちのものなのだ。この敵が道をふさいで、私たちを閉じ込めている。けれども神は、「前進せよ。進み続けよ」と言われたのだ。』」
36. 神のうちには、立ち止まる場所なんてありません。教派のための場所などないのです。ある一定の標準のところで止まってしまうような場所もありません。大事なことは、前進することなんです。神の御言葉を語って、前進しなさい。ただ進み続けなさい。動き続けなさい。神が正しいと言われるなら、それは正しいのです。あなたには委任が与えられているのです。
もしあなたが、『でも私は自分の教会へ行きました。そうしたら、“あのタバナクルへは行くべきではない”と言われました。だから私は今、聖霊を受けるべきかどうかで、すっかり混乱しています。』と言うのなら――その約束はあなたのものです。それはあなたに、あなたの子どもたちに、そして遠くにいる者たちに与えられているのです。すなわち、私たちの神である主がお召しになる者すべてにです。
では、どうするのか。神の御言葉を語るのです。『神がそう言われた。』それで前進するのです。敵が散って行くのを見なさい。紅海が開くのを見なさい。神と語り合いなさい。そして前進しなさい。必ず道は開かれるのです。」
37. 紅海でのあの語り合い……。それから、ずっと後になって、もう一つ少しだけ触れたいことがあります。今、私たちが入ろうとしているこのクリスマスの季節、果たしてクリスマスがあるのかどうか、ということでした。けれども天では、一つの語り合いが持たれたのです。この贖いの計画をどうするか、ということについてです。
そして神によって、こう定められました。神ご自身が人となられ、ご自分で下って来て、そののろいをご自身の上に負われる、ということです。神が御使いを遣わすのであれば、それは公正ではありませんでした。ほかのだれかを遣わすのでも、公正ではありませんでした。たとえご自分に息子がいたとしても、その子を遣わすのは公正ではなかったのです。
私だって、自分のさばきによることのためにヨセフを苦しませるようなことはしません。そんなことをしたら正しくありません。もし私がさばきを下し、それを贖いたいと思うなら、ただ一つできることは、自分でそれを負うことなのです。それこそが、そのしるしです。それこそが、サタンへの致命傷となるのです。」
38. それこそが悪魔への致命傷になる痛手だったのです。悪魔は高ぶり、自分の王国をミカエルのものよりも美しく築き上げました。彼の子カインもまた、果物やいろいろなもので美しい祭壇を作ろうとしたのです。
しかし神は、そういう種類の美しさの中には住まわれません。けれども神が罪に致命傷を与えるためには……見てください、神はどのように来られたでしょうか。神はどのように来ることを選ばれたのでしょうか。天では一つの語り合いがありました。『どのようにして下って行かれるのですか。どのようにしてそれをなさるのですか、父よ。』と御使いたちは言いました。
すると神は、『わたしは彼らの一人になるのだ。わたしの贖いの律法は近親の贖い主によるものだからだ。だから、わたし自身が人とならなければならないのだ。』と言われたのです。」
39. しかし、その語り合いの中で、主は幼子として来ることをお決めになったのです。イザヤ書9章6節に、私たちはこう見ます。『ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子が、わたしたちに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は「不思議な助言者、平和の君、力ある神、とこしえの父」と呼ばれる。その支配は増し加わり、終わることがない。』これがあなたがたへのしるしとなるのです。ひとりの幼子です。〔神ではなく〕赤ん坊なのです。
見てください、どこでお生まれになったかを。主が本当に人であることが明らかになるように、どこで生まれるかも、その語り合いの中で定められなければならなかったのです。主は馬小屋でお生まれになりました。象牙の宮殿の衛兵に囲まれて来ることを選ばれたのではなく、御使いたちの護衛を伴うこともなく、天の栄華をまとったケルビムに囲まれて来ることもなく、家畜の糞の上、この世の汚れと不潔のただ中にある馬小屋の中へ、ご自分を低く置かれたのです。」
40. 皆さんは、集会の中で識別のしるし、すなわち生ける神の臨在を見ます。至るところに主のしるしを見るのです。しかし、兄弟、姉妹よ、これだけは言わせてください。御使いたちが羊飼いたちに告げたあのしるしほど、人の心を打つしるしは、かつてありませんでした。『あなたがたは、馬小屋で、布にくるまっているその方を見いだすでしょう。』という、あのしるしです。そこに、神がどういうお方であるかが見えるのです。」
41. それに、ある牧師のことを語る時には、その人が大した教育を受けていて、たいそう流ちょうなことばを語り、難しいことばで人の知性をくすぐるように話す、だから偉大だ、と言う。けれども、そんなことばは貧しい人たちにはとうてい分からないのです。それなのに、あなたがたはそれを“すばらしい”と呼ぶのです。
分からないのですか。神はへりくだりの中におられるのです。『これがあなたがたへのしるしである。あなたがたは、布にくるまれて飼葉おけに寝かされている幼子を見いだすであろう。』家畜の糞の上、牛や羊のいるその場所にです。ああ、何ということでしょう。それがしるしなのです。『これがあなたがたへのしるしである。あなたがたは、そこにその幼子を見いだすであろう。』」
少しだけさらにブラナム兄弟っぽく締めるなら、こうもできます。
「分からないのですか。神は謙遜の中におられるのです。『これがあなたがたへのしるしである。あなたがたは、布にくるまれて飼葉おけに寝かされているその幼子を見いだすであろう。』牛や羊の糞のあるあの場所にです。ああ、それがしるしだったのです。『これがあなたがたへのしるしである。あなたがたは、そこにその幼子を見いだすであろう。』」
42. けれども、神はまさにそこにおられるのです。布にくるまれている、そのへりくだりの中におられるのです。
あなたがたは、何か偉大な形で来るのだと思っているのです。もし本当に神と語り合いたいのなら、そういう人たちを集めて、それから神と語り合ってみなさい。
神の働きがどういうものか、分かるでしょう。神は何かの彫刻家や、偉大な芸術家や、そういう人を取り上げて、知的な演説を与えられたのではありません。神は、何でもないようなものを取られたのです。そして最初の時と同じように、ご自分でそこへ下って来られたのです。」
43. では、なぜユダヤ人の宗教指導者たちはそれを持っていなかったのでしょうか。
主は宮殿でお生まれになったのではありません。馬小屋でお生まれになったのです。身に着けるための刺しゅう入りの衣があったのでもありません。ただ牛のくびきに掛けられていたぼろ切れのようなものが、糞の山の上に敷かれていたのです。その中に、神の御子が、その中に神が住まわれたその幕屋が、横たわっておられたのです。主はそのようにして来ることをお決めになったのです。
それなのに私たちは、折り返し襟や燕尾服や、大きくて立派な教会や、金色の尖塔を求めるのです。
『これがあなたがたへのしるしである。あなたがたは、布にくるまれて飼葉おけに寝かされているその方を見いだすであろう。そこにあなたがたへのしるしがある。』
神は華やかさの中ではなく、へりくだりの中に住まわれるのです。それはいつでも悪魔の考えのほうが、華やかさなのです。神はへりくだりの中に来られるのです。それがしるしなのです。」
44. まさにそれが、悪魔への致命傷の一撃だったのです。あらゆる教派に対しても、華やかさに対しても、この世のいっさいの虚栄と栄光に対しても、それは致命傷だったのです。天の神が、そのようにして来ることを選ばれた――それ自体が致命傷だったのです。
それが、あの語り合いの場で起きたことでした。そこで決められなければならなかったのです。そして主は、そのようにして来ることを選ばれたのです。そうしなければならなかったわけではありません。あの方は天の神であられたのです。けれども、幼子として来ることを選ばれたのです。そのようにして来ることを選ばれたのです。それが天でのあの語り合いの場において決まったことだったのです。」
45. そして、ひとつの時が来ました……。
……その小羊を導いていた御霊、すなわち鳩です。小羊と鳩との間に、一つの語り合いが持たれなければなりませんでした。そして、そのための場所が定められたのです。その夜、食事の後で、彼らはケデロンの小川か、どこかそのあたりを渡って行き、その小川を越えて、ゲッセマネと呼ばれる園へ入って行きました。そこで語り合いが持たれなければならなかったのです。神とキリストとは、それを語り合わなければならなかったのです。小羊と鳩とは、共に座らなければならなかったのです。
鳩が小羊に語らなければならなかったのです。そして、それは小羊の死に関わることだったのです。さて、彼らがあの岩のそばに座ると、天からすべての御使いたちが、その語り合いに耳を傾けようと降りて来ました。ああ、そこにはガブリエルがあり、ミカエルがあり、そして幾千幾万の者たちが、その岩のまわりに座っていたのです。」
46. そして……その語り合いの時が定められたのです。小羊は、若く、美しいいのちを持っていました……。あのようないのちは、かつてなく、またこれからも決してないでしょう。小羊はそのようないのちを持っていたのです。
けれども今、父はこう言われました。『あなたはそれを願うか。あなたの兄弟たちへの愛は、それほどまでに大きいのか。あなたが生まれて来たその罪深く、悪臭を放つ世界を、あなたはそれほどまでに愛しているのか。自分のいのちを捨てるほどに、彼らを愛しているのか。彼らの身代わりとなり、彼らの罪を負い、あの最も厳しい死を受けるほどに、彼らを愛しているのか。』
あのような死を死ぬことができたのは、ただ主おひとりだけでした。そして、その語り合いの中で、そのような決断がなされたのです。そのために、主の額から血のしたたりが落ちました。主は大きな重圧の下におられたのです。世の罪が主の上に置かれていたのです。そしてその時、主は鳩の御顔を見上げて、こう言われたのです。『わたしの思いではなく、あなたの御心がなりますように。』
ああ、今朝、私たちの心の中にも、その決断を持つことができるでしょうか。あなたは、その小さな汚れた自分のいのちを明け渡すことができるでしょうか。あなたは御顔を見上げて、こう言う気があるでしょうか。『私の思いではありません。私は酒飲みですが、もう二度と飲みません。私は賭け事をする者でしたが、もう二度とそのようにしません。私は不道徳な者でしたが、もうそのような生き方はしません。私はうそつきでしたが、今日それをやめます。私は汚れた者でした。しかし今朝、この語り合いの時に、私の道を開くために私のために死んでくださった私の主のように、あなたの御顔を見上げて言います。私の思いではなく、あなたの御心です。たとえそれが私の家庭を失うことになっても、夫を失うことになっても、妻を失うことになっても、父を、母を、交わりを、教会員としての立場を失うことになっても、どんな代価がかかろうと、今朝この語り合いの中で、私はあなたの聖霊が私のうちに生きることを願います。私はそのことを聞いて来ました。私はあなたが私のうちにいてくださることを願います。私の思いではなく、あなたの御心、それが私の決断です。』
神は、どこか高い頂のような場所ではなく、今にも倒れそうな、へりくだった小さなタバナクルをその場として召かれました。私たちは今、向き合う時を持っているのです。」
47. 彼らは、その語り合いの時を持たなければなりませんでした。何かがなされなければならなかったのです。なぜならイエスはこう言われたからです。『もう教えるな。もう歌うな。もう外へ出て奉仕するな。ただ、わたしはあなたがたと一つの語り合いの時を持ちたいのだ。そして、その中で、わたしは聖霊をもたらす。だが、エルサレムの町へ上って行きなさい。そして、わたしが戻って来るまで、そこで待っていなさい。わたしは天へ上って行かなければならない。あそこで彼らを喜ばせるために。そして、わたしは至高者の御座へ上って行かなければならないのだ――あのからだ、イエスが。しかし、わたしは行くのだ……。あそこで、わたしたちは一つの語り合いの時を持つのだ。わたしのうちに住んでおられる神は、わたしが再び戻って来ることができると約束された。そして、わたしはあなたがたのうちに、あなたがたと共に、あなたがたのうちに、世の終わり、その完成の時に至るまでいるのだ。すべてが終わるその時まで、わたしはあなたがたと共にいる。そして、わたしのしているわざを、あなたがたもまたするようになる。』と。
それで彼らは、どうしたらそれが成るのか分からないまま、ペンテコステへ行ったのです。そして百二十人が屋上の間に入り、戸を閉めました。そして、待ち、また待ったのです。」
48. 『さあ、来て、共に語り合おう。ペンテコステへ上って行きなさい。わたしはそこで、あなたがたと語り合いたいのだ。ただ上って行って待ちなさい。』
彼らは十日間、座り、立ち、祈り、あらゆることをしながら、その約束を待っていたのです。
すると突然、天でのその語り合いの結果が下って来ました――聖霊です。激しい風が吹いて来るようにして、それが彼らの座っていた家全体を満たしました。彼らは聖霊に満たされ、そして御言葉を宣べ伝えながら前進して行ったのです。」
49. けれども、神が語り合いの時を召かれるときには、断食があり、身をきよめることがあり、祈りがあり、命令を受け、そして前進することがあるのです。それが神の語り合いなのです。ごちそうではなく、断食です。汚れたものにふけることではなく、神の御前に出る時に、あらゆる不義から自分を分け、きよめることなのです。
ヒソプをもって血を適用することにより、信仰によって自分をきよめ、心をきよめて、神の御前を歩みつつ、その語り合いの時に入るのです。それこそが、神とお会いする時の語り合いなのです。
そうすると神があなたに命令を与えられます。それからあなたは前進するのです。そして神があなたと共に行かれるのです。」
50. 近いところでも、そのような時がありました。宗教改革の時代、マルチン・ルターの時にも、一つの語り合いの時があったのです。神はマルチン・ルターを召して、義認を宣べ伝えさせられました。そして彼はそれを宣べ伝えたのです。
イングランドでは、ウェスレーの時代に、聖化を宣べ伝えるための語り合いの時がありました。そしてウェスレーについて言えば……。
私は彼が最後に着ていたその上着、あのローブを着たことがあります。毎朝五時に千五百人に説教していた、その説教壇に私は立ちました。そして、彼が死んだその部屋でひざまずき、彼の生涯のために神に感謝したのです。まさにその部屋でです。そこで御霊が私の上に臨み、私はこう思いました。『そうだ、ウェスレーは真実だった。』
神の聖なる御使いたちと神ご自身との間で、今こそ聖化を宣べ伝える時だという語り合いが持たれたのです。そして神はウェスレーを選ばれ、彼はそれに忠実でした。
それから次に、ペンテコステが来ました。今度は、ペンテコステの回復の時でした。天では一つの語り合いが持たれました。『今こそ御霊の満ち満ちた注ぎを与える時ではないか。』そしてそれは下ったのです。彼らはそれを宣べ伝えました。そして私たちはそれを受け、聖霊を受けたのです。」
51. 私は、その“会議”が今まさに進行していると信じています。決定がなされているのです。そして主の御霊は、非常に力強く地に臨み、集会の中に立って、人の思いを見分けるほどになるでしょう。聖書が言っている通りです。「神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、骨の髄にまで刺し通し、心の思いやはかりごとを見分けるものである。」
さて、ピリポが来て回心し、ナタナエルを連れて来た時のことです。ナタナエル、そのユダヤ人がイエスの前に連れて来られました。ピリポは彼にこう話していました。
「ねえナタナエル、つい数日前のことだが、ひとりの無学な漁師がこの方のところに来たんだ。するとこの方は、その人の名前を言い当て、彼が誰であるかを告げたんだよ。私たちの預言者が来ると言っていたあのメシアは、預言者であるはずだと知っているだろう?そうだ、神の預言者だ。その方がここにおられるんだ。この方こそ、その方なんだ。」
ナタナエルはきっとこう言ったでしょう。「そんなことは信じられない。自分で確かめに行こう。」
しかし、彼がイエスの御前に来たとき、イエスは言われました。
「見よ、まことのイスラエル人だ。そのうちに偽りがない。」
それを聞いてナタナエルは言いました。
「ラビ、いつ私をご存じになったのですか?」
イエスは言われました。
「ピリポがあなたを呼ぶ前、あなたが木の下にいたとき、わたしはあなたを見ていた。」
そのとき彼は言いました。
「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
52. 「水を飲ませてください。」
ご覧なさい。主は人として渇きを覚えておられたのです。主は人でした。その肉体においては人であり、御霊においては神でした。神はキリストの内に住み、ご自身と世とを和解させておられたのです。
主は言われました。
「水を飲ませてください。」
すると女は言いました。
「どうしてそんなことを…。」
言い換えれば、こうです。
「私たちの間には隔てがあるのです。あなたが私にそんなことを求めるはずはないでしょう。」
すると主は言われました。
「もしあなたが、だれと話しているのか知っていたなら…。」
ああ、今朝、私たちはこの部屋に何がおられるのかを知っているでしょうか。もし私たちが本当に知っていたなら。すなわち、私たちのために証しすることも、またさばきの日に私たちに不利な証しをすることもできる、その聖霊ご自身が、今この部屋におられ、私たちの思いを知っておられるのだということを。
「もし、あなたに話しているのがだれであるか知っていたなら、あなたのほうがわたしに飲み水を求めたでしょう。」
彼女は言いました。
「この井戸は深いです。」
主は彼女の霊をつかまえるまで、なおも語り続けられました。そして言われました。
「行って、あなたの夫を呼んで、ここに来なさい。」
彼女は言いました。
「私には夫はいません。」
主は言われました。
「その通りです。あなたは五人の夫があった。そして今いっしょにいる者も、あなたの夫ではない。」
すると彼女は言いました。
「主よ、あなたが預言者であることがわかります。私たちは、メシヤが来られる時には、このようなことをなさると知っています。でも、あなたはどなたなのですか。」
イエスは言われました。
「あなたに話しているこのわたしが、それである。」
ああ、何ということでしょう。ただ水を求めておられるひとりの人。天から下って来た何か大げさで華々しいものではないのです。そこに白い御座が置かれているのでもない。ただ渇きをいやすために水を求めておられるひとりの人。しかしその方が言われたのです。
「あなたに話しているこのわたしが、それである。」
すると彼女は町へ走って行って言いました。
「さあ、来て見てください。私のしたことをみな言い当てた人がいるのです。これこそメシヤのしるしではありませんか。あの方こそが、そのお方ではないでしょうか。」
53. 「その日は…」と。
言い換えれば、人々はただ教会に加わり、教会へ行き、かなり善良な人々として生きるようになるのです。そして組織や、さまざまなものを持つようになる。しかし、
「それは薄暗い日となる。暗くもなく、明るくもない。だが夕暮れ時には光がある。」
と、そのように言われたのです。
これらの預言は、必ず成就しなければなりません。
昨夜のことを思い出してください。あの天での会議のことです。神はすべての御使いたちを集めて会議を開かれました。どうすれば預言者の言葉を成就させることができるのか、どうすればエリヤを…いや、アハブをそこへ引き出して、彼を死に至らせることができるのか、そのためでした。
さて、今、天では会議が進んでいるのです。
夕べの光はここにあります。
原子爆弾や、そうしたものが至るところにぶら下がっています。
そして私たちは終わりの時にいます。
この世の会議は終わりに来ました。
神の会議の時が来ているのです。
これらの言葉は、異邦人に対して成就しなければなりません。
「わたしのしているわざを、あなたがたもするようになる。」
その時は、もう来ているのです。
会議はすでに開かれました。
御霊はここにおられます。
54. さて、言っておきますが、私はこれまでに開催される最後の会議について話します。神は憐れんでくださいますように。和解してそこに立つのはただ一つ、それが判決だ。そして、あなたが和解できるのは、イエス・キリストの血を赦しとして受け入れ、その御霊に満たされたときだけです。
すべての男性が集まり、すべての女性が集まり、すべての子供が集まる会議があります。その会議が開催される場所が選ばれます。そして、偉大な白人の王位判決が下されるでしょう。神は預言者たちが中を見ることを許可し、こう言いました。“本が開かれ、別の本、つまり命の書が開かれました。何万倍も、何万もの牧師や天使が神に仕えます。” そしてこう書かれていました。“もし義人がほとんど救われないなら、罪人と不敬虔な者はどこに現れるでしょうか。”
その会議でのあなたの立場は何ですか?あなたは生涯を通じてそれらすべてを回避してきたかもしれません。今朝このドアから出て、このドアを迂回してもいいでしょう。でも、友よ、あなたはそれを決して回避しません。あなたはそこにいるつもりです。“かつては人々に死ぬことが定められていたが、その後裁きが下されたからである。” 私たち全員が団結して、今朝開催したこの地上の会議について今朝説明する素晴らしい会議が開催されます。
55. そして、あなたはこう言うかもしれません。“聖霊よ、ほら、こんな感じです。…” モーセは紅海会議でそう言いました。“こんな感じです、主よ。ここまで来たけど、これ以上は行けない。何か邪魔だ。” 何か邪魔があるかも。しかし、神はモーセにこう言われたことを思い出してください。“行って、イスラエルの子らに語りかけ、前に進みなさい。”
あなたは祈りの言葉で記憶に残りたいと思っていますが、手を挙げてこう言ってくれませんか。“私のために祈ってください、兄弟。” 神のご加護がありますように。私の、建物全体に何十人もの手が。
56. “しかし主よ、私は罪を犯しました、”と罪人は言います。“たくさんやってきました。主よ、あなたが私を許してくれるとは信じていません。私は大酒飲みです;私は売春婦です;私は。..ああ、悪名高い人です。主よ、私にはチャンスがあるとは信じていません。”
すると、美しい言葉が戻ってくるのが聞こえます。“あなたの罪は緋色であっても、雪のように白くなります。赤くても深紅になります。(多くの小さな赤ちゃんが生まれる前に命を奪い、恐ろしいことをします。); 赤くても深紅ですが、子羊の毛のように白くなります。” なんという慈悲でしょう!“一緒に推論しましょう、” 今、神は言われます。
57. 主よ、私の神であり、私の父よ、私はそれらをあなたに託します。もう無理だ。私はただのあなたの説教者です。そして、もうできません。彼らはあなたのものです。父よ、彼らの心のニーズに応じて彼らに対処してください。私たちは彼らを許します。..あるいは、あなたの御子イエス・キリストの名において彼らをあなたに託します。アーメン。
58. ですから、手を挙げた親愛なる皆さん、バプテスマを受けていないなら、次に取るべきステップは、罪の赦しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けることです。それは、王国の鍵を持っていたサイモン・ピーター博士が入国方法を教えてくれる医師の処方箋です。
ペンテコステの日、彼らは言いました、「“救われるためには何をしなければなりませんか?”」
彼は言いました。「“皆さん一人一人を悔い改めなさい(それがあなたが今行ったことです。)。それから、罪の赦しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。” あなたがイエス・キリストの死、埋葬、復活を信じていることを人々と世界に示すために。彼は皆さんの罪を取りました。」 “そのとき、あなたは聖霊の賜物を受け取るでしょう。なぜなら、その約束はあなたとあなたの子供たち、遠く離れた人々、さらには私たちの神、主が召されるほど多くの人々に対するものだからです。”
59. もし彼らが小さなことを教えているなら、おそらくあなたは教えていないでしょう。。 そうじゃないよ。… 言ってください、“そうですね、ブランハム兄弟はそんなことは教えませんでした。” まあ、とにかく違いを生まないでください。聖霊を持っているなら、先に進んでください。彼らと付き合いなさい。押し続ける。
いずれにせよ、私たちは皆、一つに来るつもりです。ソロモンの神殿が世界中で切り取られたとき、それは世界中から切り取られ、さまざまな面白い見た目の石やその他のすべてが切り取られました。しかし、それらが集まり始めたとき、のこぎりの音やハンマーの音はありませんでした。寺院の建設に40年を費やしましたが、彼らはハンマーの音を一度も聞いたことがなく、ブンブンという音も一度も見たことがありませんでした。それらはすべてちょうどよく切り取られていました。
聖霊を受けたこれらすべての偉大な教会は、その日、携挙のためにキリストの体の中で適切な場所で一緒に移動するでしょう。だから、彼らが福音を信じるところに行きましょう。
60. 私たちには病人のために祈るだけの時間があります。私たちは彼らにそれを約束しました。さて、1分だけです。15分だけお時間をいただければ。あと 15 分だと思いますので、その 15 分を私の時計で受け止めます。
61. 彼らは何もできない患者を診ており、優秀な医師もたくさんいます。「もちろん、私は彼らの名前を控えます。」 もしかしたら彼らは聖霊などで満たされていないかもしれませんが、彼らは良い人たちです。彼らは言います、“ブランハム兄弟、その件に関しては私にできることは何もありません;もしあなたがそれを受け入れてくれるなら。..”
私は言います、“送ってください。できない。私はそれをイエスに許します。..それをイエス・キリストに託します。彼にやらせてください、”ほら。だからそれでいい。
62. それは医者がそれに関与していないとは言わないでください; はい、彼は持っています。腕を骨折したら、その腕のセッティング方法を知っている医者に行くのが私の義務です。しかし、彼はその腕を治すことができません。彼はそれをセットし、骨を元の位置に戻すことしかできません。そして神はカルシウムなどを与え、私の腕の中でカルシウムを再び成長させる物質を創造します。神は癒し手です、ほら。
63. ユダヤ人の司祭であるヤイロの娘が亡くなったとき、彼はイエスにこう言いました。「“さあ、私の子供に手を置いてください。そうすれば彼女は生きるでしょう。」 彼女に手を置いてください。”
しかし、神がローマの百人隊長のところに行ったとき、彼は言いました、「“私はふさわしくない、あなたは私の家の下に入ってください。」。あなたがいる場所に立って、ただ御言葉を話してください。” 彼はイエスが持っていた権威に気づきました。彼は言いました、「“私は権威の下にある男です」。私は。…”を持っています 彼は百人隊長でした。それは彼の下に100人の男性がいることを意味しました。彼は言いました。“もし私がこの男に「これをしなさい」と言ったら、彼はそれをします。そしてあの男は「それをしなさい」と言ったら、彼はそれをします。” 彼は言った、「“そしてあなたはあらゆる病気、あらゆる苦しみ、そしてあらゆるものに対する権威を持っています。」。彼らは皆あなたの命令に従っています。あなたは偉大な司令官です。” ああ、それが好きだ!それはイエスの心にも響きました。
そして彼は彼ら、ユダヤ人の方を向いて言った、「“私はイスラエルでそのような信仰を見つけたことがありません。”」
64. そして彼は彼女の信仰を試しました。“なぜ、” 彼は言いました、“子供のパンを取り出して犬に与えるのは会うことではありません。” 彼女を犬と呼ぶなんて。… そして当時、犬は豚のような、最も卑しい存在でした。言った、“私が子供たちのパンを取り、それをあなたたちの犬に与えるのはふさわしくありません。”
彼女は言いました、“それが真実です、主よ。” ああ、それが好きだ。“それが真実です。” “でもね、テーブルの下の犬が子供たちのパンくずを食べてるんだよ。” それが彼に感動を与えた。彼女は先日あなたがしたように、ハッティ、それは正しいことだと言いました。
彼は振り返って言った、「“このことわざのために、悪魔はあなたの娘を残しました。」” 彼女のところに行って手を置く必要はありませんでした。
65. それからペテロはコルネリオの家に行きました。彼は彼らに手を置かなければなりませんでした。エフェソスのユダヤ人の集団がいたとき、使徒行伝 19 章を見てください。彼は彼らが聖霊を受けるために彼らに手を置かなければなりませんでした。しかし、彼がコーネリアスの家にいる間、彼がこれらの言葉を話している間に、聖霊が彼らの上に降りました。手を置くことはありません。彼らが真実を聞いたとき、聖霊は倒れました。彼らはお腹が空いてそれを待っていました。
66. 神はどのようにしてご自分を人々の救世主、ユダヤ人の救世主であると宣言されたのでしょうか?神はユダヤ人にどのようにそれを行ったのでしょうか?彼らの心の秘密を話すことによって。彼らは彼を救世主だと認識しました。それが真実だと知っている人は何人いるでしょうか?確かに。
ペテロが来ると、彼は言いました、「“あなたの名前はペテロです。”」 そして言いました。..または、“あなたの名前はケファスです。” 言った、“あなたはピーターと呼ばれるでしょう。あなたのお父さんの名前はジョナスでした。” それで決着がついた。彼はそれがメシアであることを知っていました。
フィリップがナタナエルを探しに行ったとき、彼は言いました。“あなたは正直者ですね。”
彼は言いました、「“さて、ラビ、いつ私を知りましたか?”」
言った、“フィリップがあなたに電話する前に、あなたが木の下にいたとき、私はあなたを見ました [山の周りを15マイル—1日の旅。] あなたを見たわ。”
彼は言いました。“あなたは神の子、イスラエルの王です。”
67. 彼女は言いました、“私には夫がいません。”
彼は言いました、“あなたは5つあるので、よく言いました。”
彼女は言いました、“先生。…” つまり、こんな感じです。“私たちは救世主が来ることを探していました。そして彼は神の預言者になるでしょう。そして、神が来られるとき、神は私たちにこれらのことを語ってくださることを私たちは知っています。だからあなたはある種の預言者に違いありません。”
彼は言いました、「“私は救世主です。」。私はあなたが話している彼です。”
彼女はその水壺(売春婦で絶望的な人)を置いていった。彼女はなんと。..状態だったのでしょう。)そして街に駆け込み、あの男たちに言いました、「“さあ、私の心の中にあるものを教えてくれた男に会いましょう」。それがメシアじゃないか?それがメシアではないですか?”
68. ユダヤ人は今、世界を支配する国にいる。かつてはそうでした。彼らは戻ってくるわ。あのイチジクの木が向こうに芽を出しているのを見てください。ユダヤ人がどこにいても、神の暦を見れば、それがわかるでしょう。彼は決してイスラエルを見捨てないだろう。しかしイスラエルは盲目にならなければならなかった。私はここに座っているこのユダヤ人を代表してこれを言っているのではありません。しかし、私たちにチャンスを与えるためには、イスラエルは盲目になる必要がありました。私たちは彼らを愛しています。心配しないでください;彼らは再び開花するでしょう。
“ヤシムシが残したものは毛虫が食べ、毛虫が残したものはイナゴが食べた。しかし、わたしは回復する、と主は言われる。” それは私たちが連れてこられるように、ただ呪文のために食べられただけです。私たちの目は開いています。
70. ビリーは私に、たくさんの祈りのカードがあると言ったと思います。ここにはたくさんの人がいます。… それらすべてを持ち出すことはできません。それは分かってるだろ。それを証明するために。… あるいは、ただ見えるかもしれないということ。.. さて、神はこれをする必要はありません。みんな知ってる?イエスは地上にいたとき、誰も癒す必要はありませんでした。知ってたのか?しかし、預言者が語ったことが成就するために神はそれを行われました。そうか?彼は御言葉が成就するためにこれを行います。“ソドムの時代と同じように、人の子の到来でも同様です。”
71. 時計。男はそこに座って、外国から来た見知らぬ人で、服に埃をかぶっていて、子牛の一部を食べ、母親からの牛乳を飲み、アブラハムと一緒にコーンケーキを食べたところだったと語った。おそらく、彼がそれをしている間、ハエの茂みにハエを追い払わせたのはなぜでしょうか。そこに座って食べています。… そして彼が去った後、アブラハムは彼を全能者エロヒムと呼びました。しかし、神よ、彼は民の中の人でした。
72. 知らせ。しかし、この方は選ばれた教会、アブラハムとそのグループ、割礼を受けた者たち、本物の者たちとともにそこに立っていました。ロットは。… 都会に住んでいて、大変な時期を過ごしている人。そして、彼の娘たちがどうだったか、息子たちがどうだったか、その他すべてを見てください。それは今日の世界と同じです。ソドムの罪とすべて。それが教会の名目上のものです。しかし、教会の霊性は、分離された、呼びかけられたグループです。
彼らのところにどんな天使が来るのでしょうか?さあ 見よう。さて、覚えておいてください、あなたの主は言われました、“当時と同じように、人の子の到来時も同様です。” イエスはそう言われました。“天地は滅びる。しかし、わたしの言葉は決して消えることはない。” さあ、よく聞いて静かにしてください。
73. そしてアブラハムは言いました、“彼女はあなたの後ろのテントの中にいます。”
彼は言った、「“アブラハム、あなたが神を信じ、世界の相続人になるのを見て、すべての異邦人、そしてすべての人があなたの子孫によって王国に連れてこられるでしょう。」 約束はあなたに行われます。私はあなたから何も隠しません、アブラハム。” ああ、それが大好きです。“私はこれをあなたに隠しません、アブラハム。でも、あなたは25年間、その赤ちゃんのために私を信じてきました。さて、あなたは100歳、彼女は90歳です。しかし、アブラハム、人生の時期に応じて。…” 聴衆が混在している場合、私が言いたいことはわかりますが、28 日間です。彼女は50年以上も活動を停止していた。… そう、その60年前です。言った、“サラとの人生の時期によると、私は再びあなたを訪ねるつもりです、そしてあなたはその赤ちゃんを連れてくるつもりです。”
そしてサラは、彼の後ろのテントの中で、羽ばたきを閉めて、心の中で笑いました。ただ…… そして心の中で言いました、“主と楽しく過ごせますか?” 夫を何て呼ぶの?“私が年老いて、彼も年老いているのを見て、私は再び主と喜びを感じることができるでしょうか?”
すると天使は背を向けて言った、「“なぜサラは笑ったのですか?”」 何が彼女を笑わせたのか?
見ないの?そこの選ばれた教会を訪れたのは、どんな御霊、どんな天使だったのでしょうか。さて、イエスは来られる直前に同じことが起こると言われました。それは神の来臨のしるしとなるでしょう。
74. 時計。祈りのカードを持ってここに上がらないとしても、それは何の意味もありません。挑戦します。
アブラハムの子孫であるイエスが地上にいたときにしたことは次のとおりです。ある日、イエスは群衆の中を通りかかったとき、全員が「“こんにちは、ラビ」と言いました。おはようございます、先生。元気ですか、牧師?お会いできてうれしいです、牧師、ここに来てくれて嬉しいです。あなたがここにいる間に会議を開くつもりですか?”
そして、貧しい小さな女性にはニーズがありました。そこで彼女は群衆の中を滑り抜け、神の衣服に触れました。なぜなら、彼女は自分自身の中でこう言ったからです“もし私がその聖なる人に触れるだけなら。” 彼女の信仰、見てください。“彼に触れると、私は良くなります。” そこで彼女は彼に触れ、群衆の中に戻りました。彼女は言いました、「“ああ、きっと治ったと思います、なぜなら私はそれを信じているからです。」。信じたんだ。治ったって分かってる。血液問題はもう止まっていると思います。ただ信じているだけです。”
イエスは立ち止まって言いました、「“ねえ、誰が私に触れたの?”」
なんという質問でしょう!ピーターは言いました。… つまり、“主よ、あなたはどうしたのですか?” 聖書には彼が彼を叱責したと書かれています。言った、“それはどういう意味ですか?だって、みんながあなたに触れているんです。あなたはどのようにして「あなたは救世主だ」と言うようになったのでしょうか。この人たちの前でここで自分をさらけ出すのではないかと心配していませんか?誰が私に触れたの?そして、土壇場であなたに触れたのは500回だったと思います。なぜそんなことを言うのですか?”
彼は言いました、“しかし、これは別のタッチでした。自分が弱くなったと認識しています。美徳。…” 美徳は“強さ”であることは誰もが知っています “弱ってしまいました。力が私から出て行った。” そして彼は周りを見回しました、周りを見回しました。ほら、どこかに信仰があるよ。彼は周りを見回した。そして彼はその小さな女性を見つけました。神の中に満ちていた聖霊は、神を小さな女性に正しく導きました。そして彼女が抱えていた血液の問題、彼は言いました、“あなたの信仰。… さて、私はあなたを癒したことはありません。私はそれとは何の関係もありませんでした。しかし、誰に対するあなたの信仰は。.. そして、私が代表している神よ、あなたの信仰があなたを完全なものにしました。”
75. さて、聖書はヘブライ語で、イエス・キリストは今、私たちの弱さの感情に触れることができる大祭司であると述べています。それを知っている人は何人いますか?さて、もし彼が同じ大祭司なら、もし触れられたら同じように行動しないでしょうか?私たちは何ですか?彼のマウスピース。私たちは神に服従しますが、私たちの言葉は私たちの言葉ではありません。“あなたが何を言うかは考えないでください。話すのはあなたではないからです。” それはあなたの中に住んでいる父です。彼は話します。
76. 私があなたのことを何も知らないことを知っている人がここに何人いますか?手を挙げて。
77. しかし、神にできる唯一のことは、あなたに衝撃を与えること、あるいは神が依然として神であり、約束を守っているという理解に導くことです。
そうすることで、神は説教者に油を注いでくださいます。それはこの辺に立っている立派な男たちであり、後ろにも多くの人がいます。神は彼らに油を注いで説教します。私は説教者の代わりとしては貧弱です;代わりに彼は私の説教のためにこれを私に与えます(ほら);なぜなら私は教育を受けておらず、何も知らないからです。。 そして、学者、あるいは学生になるということ、私が何を意味しているのかを知ってください。しかし、神はこれらの人々にそうする機会を与えてくださいます。そして彼らはインスピレーションを受けてそこに上がり、「ああ、彼らは私が1時間で言える以上のことを5分で言えるだろう」と説教します。なぜなら、インスピレーションの下では、それは大砲や機関銃のように、トリップハンマーで運転するように急速にそれを打ち倒すからです。ほら、私の贈り物は別のものです。時間をかけて勉強しなければなりません。… そして、何が聖なるのか待って見てください。。 [テープ上の空白部分。]
78. さて、その男は詐欺師かもしれません。偽善者かもしれない。異教徒かもしれない。聖人かもしれない。私は彼について何も知りません;彼はただそこに立っているだけです。しかし、聖霊が来て彼に明らかにされるなら、それ以来彼を裁判官にしてください。彼は知っている。もし聖霊が彼の人生に何が起こったのかを彼に伝えることができれば、それが本当なら、彼は自分の人生に何が起こるかを信じることができるでしょう。そうか?もし神がこれまで何があったのかを知ることができるとしたら、どうなるのでしょうか?今、彼はそれが正しいかどうか、正しかったかどうかを知るでしょう。
79. 聖霊は今ここにいます。灰色の頭の男が、ここのアバロン モーテルに滞在しています。あなたは自分の側に何かがあることに苦しんでいます。そもそもあなたはここの出身ではありません。あなたはカナダ、ブリティッシュコロンビア州、バンクーバー出身です。あなたはフィンランド出身です、キートス。神のご加護がありますように、家に帰ってください、元気です。イエス キリストはあなたを元気にしてくださいます。
信じますか?私はその男を知らない。私が彼に何を言ったのか今は分かりません。それは聖霊が語っていたのです。
80. 見知らぬ人。… まず第一に、あなたは救いを求めています。あなたはアルコール依存症です。まさにその通りです。あなたはこの街の出身ではありません;あなたは別の都市、インディアナ州の都市の出身です;私はそれがニューカッスルだと信じています、そのようなものです。その通り。ああ。あなたは。…と一緒にいます どういうわけか、誰かが見えます。。 あなたは女性と一緒です。つながってる。ライル ウッドはどこだ?彼の妻だ。彼女は今ここにいます。彼女も祈られたいと思っています。はい 先生。あなたの悩みが何なのか神が私に教えてくれると信じていますか?心臓のトラブル。彼女は心からそれを信じるでしょう、彼女は癒されるでしょう。私はあなたの中に酒を飲ませる悪魔を非難します。イエス・キリストの名において家に帰り、二度とそれを飲まず、罪を取り除いてイエスの尊い名においてバプテスマを受けなさい。And I condemn the devil; may he pass from you。そして私は悪魔を非難する; 彼はあなたから渡りますように。アーメン。帰れ。神のご加護がありますように、先生。あなたの罪は今赦されています。行って、もう罪を犯さないでください。
神を信じる。疑わないで。あなたの中にあるすべてのものを信じてください。
81. 私はこの女性の命を奪っている悪魔を非難します。イエス・キリストの復活に基づいて、私は今サタンに挑戦し、彼は敗北した存在であり、イエス・キリストがカルバリーで彼を打ち負かしたと伝えます。そして神の僕として、聖霊の油注ぎの下、天使から私に与えられた使命の下で、私はこの女性の命のためにこの悪魔を非難します。主よ、彼女を生かしてください。アーメン。家に帰って喜び、幸せになり、主に感謝してください。今は疑わないで。心の中に疑いを抱かないでください。
82. さて、小さな女性はここで何かを感じました。なぜなら、二人の間には精神があるからです。分かりますか?あなたのも大丈夫です。心から信じてください。
ところで、彼女の隣にいる小さな女性は、そうです、それはあなたがそこに座って見上げながら祈っているのです。ああ。あの背中のトラブル。… 心から信じてください。
あなたも腰痛に悩まされていましたね。だから、ただ上に行って、今すぐ家に帰ってください;元気になってください。
83. 女性がいる 見えれば。彼女は目を閉じ、ハンカチを上げ、祈り、目を拭いています。何か触ったね、お姉さん。あなたは私に触れたのではなく、彼に触れたのです。さて、静脈瘤、女性の問題、あらゆる種類の合併症があります。そうですよね?それが本当なら手を挙げてください。よし。さあ、家に帰って、元気になってください。
彼女は何に触れた?聞きたいのですが、あの女性は何に触れたのですか?大祭司 は。神の子イエス・キリストが出席していることを認識できますか。信じられるなら。… The Spirit's in the audience; be believing。御霊は聴衆の中にあります。この写真に写っている火の柱が観客の中で動いています。
84. 彼女のすぐ後ろに座っている男。ケンタッキー州キャンベルズビルについて、別のことが彼と関係していた。ああ。あなたも神経疾患を患っています、前立腺、高血です。心から信じますか?もしそうなら、それらのことが正しいなら手を挙げてください。何に触れた?あなたは誰かに触れました、大祭司。行って、信じて、元気になってください。
ここに、ちょっと重たい体格の女性、手を上げて座っています。.. 私はその女性を知っていると思います。どこかで彼女を見たことがある。彼女は祈っています。彼女は頭に問題がある。そしてすぐに、ほんの数分前に私が他の女性に“頭”と言ったとき、それは彼女に影響を与えました。彼女も頭のトラブルを抱えている。私はその女性をどこかで見たことがある。彼女を配置することはできませんが、私は彼女を見たことがあります。ああ、はい、そうです。今では霊的にもわかっています。彼女はケンタッキー州ルイビル出身のローズ・オースティンです。今 信じて。家に帰りなさい。元気で。
86. 彼女のすぐ後ろに立っているのは親戚です。あの若い女性はどういうわけか親戚ですが、結婚しているだけです。結婚による姪。彼女も自分の救いを気にしています。そうだね。そして彼女は糖尿病を患っています、若い女性。まさに真実です。
信じますか?神に手を挙げましょう。おお、天と地の創造者、命の創造者、あらゆる良い賜物の与え主よ、今、あなたの臨在を民の中に送りなさい。主よ、彼らの心の願いを彼らに与えてください。私たちはこれに感謝し、私たちの主イエス・キリストを通してこれらの人々を祝福し、必要なものを与えてくださるよう祈ります。アーメン。
87. さあ、私を神の僕として信じてください。私はあなたが落ち着きがないことを知っています; あなたは疲れています。疑わないで。今、これが神であると信じてください。ペンテコステの日に上の部屋で吹いたあの突風は、それが起こったときにこれらの人々に影響を与えたものと同じです。なぜなら、それは同じ聖霊だからです。それは今、皆さんの上を移動しています。群衆の中には聖霊があなたたちの間を動いています。
何個。… 私の目の前にあるこの聖書と同じように、私にも正直に言ってほしいのです。何かが起こったばかりのような、本当に奇妙な感覚を感じる人はどれくらいいるでしょうか。それが聖霊です。それが彼だ
88. さあ、私があなたに何をしてほしいのか教えてください。どこにいても、私ではないことがわかるように、お互いに手を置いてほしいのです。ご存知のように、あなたも同じくらい効果的です。あなたは信者です。もしあなたがその聖霊を感じるなら、それはあなたの上にあります。おそらくこのような贈り物ではなく、その聖霊があなたの上にあります。
誰かが誰であろうと、誰かに手を置いて頭を下げてください。誰かに手を置いて頭を下げてください。こんなことをさせられたような気がします。あなたの癒しの時が来たと感じています。信じられるなら。… ああ、聖霊が聴衆の上を移動しています。。
89. さて、あなたは自分自身のために祈らないでください; あなたはあなたが手に入れた人のために祈ります。そうすれば、皆さん一人一人がお互いのために祈るようになります。
さて、死からよみがえった神の子、主イエスよ、ポンテオ ピラトの脅威やローマ政府の印章でさえ、あなたを墓に閉じ込めることはできませんでした。全能の神が復活祭の日に降りてきて、石を転がして封印を解きました。そしてあなたは立ち上がって弟子たちと一緒に40日間滞在し、彼らにこの世に行って今行われていることをするように命じました。それは2000年前のことです。
主よ、あなたは神です。失敗することはできません。あなたはここにいるわ。今朝私たちが開催したこの会議では、これらのことについて一緒に議論しました。私たちはあなたが神であると推論し、あなたが神である理由、そしてあなたがここにいる理由を推論しました。そして今、私たちはあなたから互いに手を繋ぐという使命を受けています。それがあなたが私たちに依頼したことです。あなたは言った、“これらのしるしは信じる者たちに従うであろう:もし彼らが病人に手を置けば、彼らは回復するだろう。” それが会議からの私たちの依頼です。さて、主よ、従順は犠牲よりも優れており、雄羊の脂肪よりも耳を傾けます。
90. サタン、あなたはただのハッタリです。私たちはあなたの手を呼びました。イエス・キリストが異邦人の前でご自身を現される時が来ました。さて、サタン、あなたは敗北しました。ある時、あなたは人を抱きました。あなたには今、法的権利がありません。イエス・キリストは、カルバリーであなたが持っていたすべての権利を剥奪されました。彼は全額を支払って言いました。“終わりました。” すべての完全な救いの計画、すべての癒しはすべてカルバリーで完了しました。そして、あなたは罪と堕落によってかつて持っていたすべてのものをあなたから奪われました。今、私たちはイエスの血によって贖われており、あなたはもう私たちを抱くことはできません。私たちは言います、“主イエス キリストの名において私たちを残してください。”
91. 私たちは何週間も説教を続けることができました。それは今は何の違いももたらさないでしょう;聖霊はここにいます。いつでもできることはそれだけです、今すぐここにいてください。
“今、私は聖霊が私に現れ、神がここにいることを証明してくれると信じています。私は彼を信じています。完成した作品です。持ってる。それは私の所有物です。私は今、聖霊で満たされています。私の病気、痛み、痛みは消えつつあります。私の苦しみはすべて私から離れつつあります。” それが頭を下げ、目を閉じて祈る方法です。(信じるだけ。)
今、頭を下げてください。これから静かに歌います。
信じるだけ。……….
山から降りてくる。… てんかん児…。 弟子たちはそこで相談していました。…