神に召された人

God-Called Man

神に召された人

ジェファソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国

説教番号: 58-1005E

日付: 1958年10月5日(58-1005)

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1. 実は、1時間半ほど前に別の用事でここを通ったのですが、そのときにはもう、入りきれずに帰っていく人たちがいました。
外でビリーに会ったのですが、彼が言うには、この場所は今日の午後からもう礼拝の準備が整っていたそうです。
ただ、これは本当に小さな集まりで、地元の新聞にも一切載せていません。
ですから、こうしてただ、しばらくの交わりの時を持っているだけなんです。
ご存じの通り、外から来られた方々には分かると思いますが、この“ホームプレイス”ではいつも忙しくて、あちこち動き回り、押し合うような状態なんです。
でも、私はだんだんそれにも慣れてきましてね。
できるだけ気にしないようにしているんです。

3. せっかく来てくださっても、中を少しのぞいて、そのまま車に戻って帰ってしまう方もおられますからね。
本当は、ここで数晩の集会を持つために、近くの高校を借りたいと思っていたのですが、ちょうど授業の期間中でして、その時期に使わせてもらうのは、私にはなかなか難しいんです。

4. 皆さんの素晴らしいご協力、そしてしてくださったすべてのことを、本当にありがたく思っています。
今朝の日曜学校でも、昨夜私にささげられた献金のことについて、皆さんに感謝を申し上げました。
それは、こちらからお願いしたものではなく、自発的にささげてくださった献金でした。
正直に言いますと、私はここの牧師である、愛するネビル兄弟や皆さんに、そういうことはしなくてもいいですよ、とお話ししたのです。
けれども、それでも皆さんはしてくださったので、そのことをここでご報告しておきたかったのです。
さて、ここは小さな会堂でして、たぶん300人も入らないと思います。
それで、献金は324ドルでした。
ということは、平均するとお一人につき1ドルほどささげてくださったことになります。
これは、人数から見て、私の生涯でいただいた中でも一番の献金です。
普通なら、一人当たり平均24セントほどなんです。
25セント、27セントでも、ひとり当たりとしては立派な献金なんです。
それなのに今回は、だいたい1ドルずつになるわけですから、本当に心から感謝しています。

5. 私たちは、階段のところに置かれていたゼリーの箱や、届けてくださった小さな贈り物を見つけました。
妻と私は、皆さんに心から感謝を申し上げたいと思います。
そして、私たちにできる最善のかたちで、そのすべてが神の御国のために用いられることを、確かにお約束したいと思います。
こういうことがあると、もっと大きな場所があって、そこで長い間ずっと集会を続け、人々に仕え続けることができたらどんなにいいだろう、と心から思わされます。
けれども、実は今晩もこの礼拝の後で出発することになっているのです。
今夜のうちには出られませんが、早朝にはここを離れなければなりません。
そして来週の土曜の夜に戻って来て、また日曜の朝にはコロラドへ向けて出発します。
そうして、次から次へと移動が続いていくのです。
それから、次の海外集会は1月に控えていて、オーストラリアとニュージーランド、そしてそのあたりを回る予定です。
ですから、どうか私のために祈ってください。
皆さんのお祈りを、私は本当に心から必要としています。

6. この時間の長さから考えても、この集会では、私がこれまでこの幕屋で持ったどの集会よりも、さらに多くのことが成し遂げられたと私は信じています。
主はまさに、祝福の扉を開いてくださったように思えるのです。
私はこの集会の間、ひとつの幻によって、自分のミニストリーが、さらに良い、さらに大いなるミニストリーへと変えられていくのではないか、と考えていました。
さて、それは、皆さんがこれまでに他の三つのミニストリーの預言を聞いてこられたのと同じように、必ずそのとおりに起こるでしょう……いや、あとの二つのミニストリーと言ったほうがいいでしょうか。
この新しいものも、ちょうどそれと同じように確かに起こりますが、ただ、それよりもさらに大きなものになるのです。
けれども、最初の夜には、私はただ人々をここ祭壇へ呼び、そのまますぐに識別の働きへ戻って行きました。
二日目の夜には、人々を部屋の中に導き入れ、やはりそのまますぐに識別の働きへ入って行きました。
…そして最後の二晩は、この演壇の上に連れて来て、ただそのまま真っすぐ識別へと入って行ったのです。

7. この演壇のところで、ひとりの盲目の牧師が視力を受けました。
また昨夜は、車椅子に乗っていた二人の小さな女の子がいました。
その病気が何であるのか、どの医者にも分からず、足はひどく腫れ上がり、足の指は落ちていき、手の指までも落ちていくような状態で、もう何ひとつしてやれることがなかったのです。
ところが、御霊の油注ぎが下っているそのとき、私はそちらへ行って、主イエスの御名によってその病をのろいました。
すると、あの子たちは車椅子から立ち上がったのです。
そして今朝、この幕屋の中を、ほかのどの子どもと同じように歩き回っていました。
そればかりか、今朝ここ、この水槽で、キリスト教のバプテスマを受けるためにこちらへ来たのです。

8. 昨夜、会衆の中で呼びかけの列ができていたとき、祈祷カードも何も持たず、ただそこに座って祈っていた婦人たちがいたそうです。
その中に、もうどれほど長い間だったか食事を取ることができなかった一人の婦人がいました。
胃の中が腫瘍でいっぱいになっていたのです。
けれども主はその人を呼び出し、癒してくださいました。
そして今朝、その婦人は起き上がって、普通の量の朝食を食べ、今夜もこのどこかに来ておられるのです。
また、ほかの人たちのこともいろいろ話してくれました。
ああ、本当に、私たちの主がしてくださったことを語ろうとすれば、とても時間が足りません。
「それは私たちに勇気を与えます。なぜなら、その時がもう近いこと、何か大いなることがまさに起ころうとしていることを知るからです。」

9. ですから、今晩もまた、そのようなことが起こることを期待しています。
どうか私のために祈ってください。
さて、これから神の祝福された御言葉をお読みしたいと思います。
その前に、少しの間、頭を垂れて主に語りかけましょう。

10. 今夜私たちは、肉体においては少し疲れているかもしれません。
けれども、ああ、私たちの霊は何と新たにされていることでしょう。
生ける神のしるしが、主が私たちと共におられることを示しています。
そして主は私たちを祝福し、私たちに約束してくださったもの、すなわち、私たちが求めるところ、思うところのすべてをはるかに超えて豊かに与えてくださっています。
そして、もし私たちが、あなたの御子、主イエスを信じることによって、御前に恵みを見いだしているのでしたら、今夜お願い申し上げます。
どうか再び、あなたの御霊の二倍の分をもって私たちを訪れてください。
ここにいる一人ひとりの上に、福音を信じ、またその人生のうちに聖霊の力を受けることができるよう、あなたの御霊が大いなる力と豊かな量りをもって注がれますように。
主よ、今夜、救われ得る者を救ってください。
そして癒しの備えのできている者を癒してください。
主よ、どうかそれをかなえてください。
必要でしたら、このあとに続く祈りも同じ調子でそろえて訳します。

11. 主が肉の姿をとって地上におられたあの日々にも、群衆の押し寄せ方はあまりにも激しく、人々はひとりの人を主のみもとに連れて行くことさえできず、ついにはその人を建物の屋根からつり降ろさなければなりませんでした。
神よ、今夜もまた、このようにして押し入るようにして来なければならなかった一人ひとりが、あの人と同じように報われますように、と私たちは祈ります。
どうか、今から読むあなたの御言葉を祝福してください。
そしてそれが、私たちの道のためのともしび、私たちの歩みのための光となりますように。
このことを、イエスの御名によってお願いいたします。
アーメン。

12. その人はアルコール中毒の女性で、シカゴの集会の中で呼び出された人でした。
そのとき彼女はバルコニー席に座っていたのですが、聖霊が彼女に語りかけ、その人がアルコール中毒であることを告げられたのです。
そして、シカゴの五人もの著名な医師たちが、もうその人はだめだと見放していました。
アルコホーリクス・アノニマスも、もう彼女を見放していたのです。
けれども、その人は「主はこう仰せになられる」によって呼び出され、癒されました。
そしてその時以来、彼女は一度も酒を欲しいと思ったことがないのです。

13. その人たちはカルメット・シティに住んでいたのですが、もしそこをご存じの方がおられるなら分かるでしょう、そこはフランスのパリよりもひどいと言われるほど、あらゆる悪が行われている境界の町なのです。
そして彼は、その若い女性に向かって、あなたは麻薬の売人であり、フレッド・アステアのためのダンサーである、と告げました。
彼女の父親はそのことをひどく嫌がりました。
けれども彼女は立ち上がって、こう言ったのです。
「お父さん、この方の言うことはまったくそのとおりです。」
その若い女性は今では結婚していて、夫と共に旅に出て、福音を宣べ伝えています。
ロゼラは、入ることのできるあらゆる 刑務所での集会や奉仕の場に出て行って、アルコール中毒の人たちに、望みはあるのだと語る奉仕者です。
そしてその望みは、キリストのうちにあるのです。

14. つい一昨日のことですが、十分ほどの個人的な面会の中で――この女性はこの四、五年のあいだ、集会を確かに支えてきた人ですが――トレーラーのところで短い報告をしてくれた際に、こう言ったのです。
「ブラナム兄弟、どうか何とかしてください。私は父のことで本当に深い重荷を感じています。父はあなたを愛してはいるのですが、どうしてもキリストのもとへ来ようとしないのです。」
私は言いました。
「ロゼラよ、神はそのなさり方をご存じだ。神は、どうすればお父さんにそうさせることができるかをご存じなんだよ。」
そして今入って来た知らせによると、彼は石灰石を積んだ貨車の下敷きになっているとのことです。
彼のために祈りましょう。
主よ、あの忠実な娘の口からこの願いが語られ、そして今、彼はあの下に閉じ込められ、そこで命を落とすかもしれない状態にあります。
神よ、どうか彼がそこで死ぬことがありませんように。
むしろ、その魂が上を見上げ、あなたが祈りに答えてくださる神であることを思い起こしますように。
石灰石の山の下であっても、あなたは祈りに答えることがおできになります。
それは、鯨の腹の中ででも、火の燃える炉の中ででも、また獅子の穴の中ででも、あなたが祈りに答えることがおできになったのと同じです。
あなたは今も変わることのないお方です。
主よ、彼をそこから出してください。
そして、洗い清められたクリスチャンとして出してくださいますように。
私たちは、神を愛する者たちには、すべてのことが共に働いて益となることを知っています。
ですから、これもまたその一つとなりますようにと祈りつつ、このことをあなたにお委ねいたします。
イエスの御名によって。
アーメン。

15. 主がつむじ風をもってエリヤを天へ取り上げようとされたときのことである。
エリヤはエリシャと共にギルガルを出て行った。
エリヤはエリシャに言った。
「どうか、ここにとどまっていてくれ。主が私をベテルへ遣わされたのだから。」
しかしエリシャは彼に言った。
「主は生きておられ、あなたのたましいも生きておられます。私はあなたを離れません。」
こうして彼らはベテルへ下って行った。
すると、ベテルにいた預言者の子らがエリシャのところへ出て来て、彼に言った。
「主が今日、あなたの主人をあなたの上から取り去られることを、ご存じですか。」
彼は答えた。
「ええ、知っています。どうか黙っていてください。」
エリヤは彼に言った。
「エリシャよ、どうかここにとどまっていてくれ。主が私をエリコへ遣わされたのだから。」
しかし彼は言った。
「主は生きておられ、あなたのたましいも生きておられます。私はあなたを離れません。」
こうして彼らはエリコへ行った。
エリコにいた預言者の子らがエリシャのところへ来て、彼に言った。
「主が今日、あなたの主人をあなたの上から取り去られることを、ご存じですか。」
彼は答えた。
「ええ、知っています。どうか黙っていてください。」
エリヤは彼に言った。
「どうか、ここにとどまっていてくれ。主が私をヨルダンへ遣わされたのだから。」
しかし彼は言った。
「主は生きておられ、あなたのたましいも生きておられます。私はあなたを離れません。」
こうして、二人はそのまま進んで行った。

16. 今夜の私の題は、「神に召された人々」 です。
そして、ほんの数分のうちに大きな祈りの列が控えていますので、できるだけ手短にお話ししたいと思います。
ただ、私たちが生きているこの時代がどのような時であるのかを、皆さんに少しだけ見ていただきたいのです。

17. そしてそれは、真実な心から発せられているのです。
「主よ、どうか私たちの時代にリバイバルを与えてください。」
また、世界中のクリスチャンからの手紙の中にも、この同じ叫びを聞くことができます。
そしてそれは、私たちの心に強く訴えかけてくるのです。
それは私たちを奮い立たせ、引き上げ、そして魂を生き返らせるものです。
主の民がリバイバルを求めて叫ぶその声は、私たちの魂を生かし、奮い立たせるのです。

18. 「わたしの名で呼ばれるわたしの民が共に集まり、祈るなら、わたしは天から聞く。」
ですから今夜、私たちはこのことを思いたいのです。
そして、このような叫びが満ちているそのただ中にあっても、神は、それを受け取る備えのできた人々がいなければ、リバイバルを送ることはおできにならない、ということを覚えたいのです。
神に召された人々、神によって訓練された人々が整えられないかぎり、私たちにリバイバルは来ません。
しかもそれは、神学や教育の学校で訓練された人々ではなく、神御自身の厳しい訓練の学校で育て上げられた、荒々しいほどの信仰の人たちです。
火に立ち向かうことを恐れない人たち、
神の御臨在の中に入り、神の力を知り、神の全能を知り、神の癒しの力を知っている人たち、
生ける神を知るように訓練された、そういう人たちです。
確かに、御言葉によって人を訓練することはよいことです。
しかし、文字は殺し、御霊は命を与えるのです。

19. それは、神によって訓練された人々 であって、このメッセージを運ぶための人たちです。
その人たちは、どんな反対があろうとも気にしません。
たとえ敗北の中であっても、火の燃える炉へ行くことであろうと、獅子の穴へ行くことであろうと、あるいはどこへ行くことであろうと、進んで行く用意ができています。
なぜなら、彼らは神の御臨在の中にいたことがあり、神がまことにおられることを知っているからです。
それが勝利に至ることであっても、また敗北に見えることであっても、彼らはなお同じように立ち続けるのです。
それこそが、神が人を訓練なさるその訓練です。
そして、神がそのような仕方で御自分の人たちを訓練なさるというのは、考えてみるととても不思議なことです。
けれども、神は実際にそうなさるのです。

20. 「ある者は水の中を、ある者は洪水の中を、ある者は深い試練の中を通る。けれども、すべては血潮を通して!」
神は御自分の民を大きな試練の中へ導かれます。
それは彼らをきよめ、練り清めるためであり、時にはそのために何年もかかることさえあります。
そして今夜、私自身としては、神はまさに今、そのような人々を、前線に立たせるために訓練しておられるのだと信じています。
足もとからすべてが揺さぶられるような時を通っている人たち、
時には、すべてが崩れ落ちていくように見えることさえある人たちです。
けれども、そのただ中にあっても、彼らは生ける神を知っており、顔を前に向けたまま、進み続けるのです。

21. 祈っているその人たち自身の祈りが、かえって祝福の井戸をふさいでしまっていることはないだろうか、と。
彼らが臆病であって、神を信頼することを恐れ、
御言葉のとおりに神を受け取ることを恐れ、
そして、神が今もなお生きておられることを信じるのを恐れているとしたら――
そのとき、聖書は明確に語っているではありませんか。
イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。

22. そうした人々にもその役割はありますし、彼らは立派な人たちです。
けれども普通、神が何かを成し遂げようとなさるときには、ABCさえろくに知らないような人を取り上げられるのです。
聖書を調べてみなさい。
歴史を見てみなさい。
神と共に何かを成した人々は、高い教育を受けた人たちではありませんでした。
教育はなくても、ただ心の中に神に仕えたいという願いを持っていた人たちだったのです。
神は、畑を耕す人、羊飼い、漁師、猟師――
自然の中に生き、その静けさと深い沈黙の中にいた人たちを取り上げられました。
そこで神は彼らに語ることができたのです。
そして、神が召されたのは、そのような人たちでした。

23. そしてしばらくすると、超自然的な現われが働き始める段になると、この世の人々との関わりの中で複雑になりすぎてしまって、そのようなものを受け入れられなくなるのです。
そのため、結局その人は一つの教派へ落ち着き、そこへ入って行って、ひとりの牧師になるという結果になります。
それも悪いことではありません。
そうする人に対して、私は何も反対するものではありません。
けれども、神が超自然の領域で何かをなさろうとされるときには、たいてい、御自分が信頼を置くことのできる人を取り上げ、その人に油を注ぎ、送り出されるのです。
しかもその人は、その務めにおいて何ものをも恐れません。
今日、私たちに必要なのは、そのような人たちです。
磨き上げられた学者ではなく、復活の力のうちに神を知っている人たち です。

24. 彼はあらゆる訓練を受けていました。
神学もすべて知っていました。
知るべきことは何でも知っていたのです。
もし教育が必要だというなら、彼はイスラエルの教師たちにでも――いや、エジプトの教師たちにでも――教えることができたでしょう。
彼には何一つ不足はありませんでした。
そして聖書は、彼がエジプト人のあらゆる知恵に通じていたと語っています。
そうです、彼は彼らの学者たちに教えることさえできたのです。
科学者たちにさえ教えることができたのです。
知性という点においては、まさに頂点に達していたのです。
しかしそれでも、神はそのすべてを彼の中から打ち出すのに、荒野の砂の中で四十年を要されたのです。
そして、神についての彼の知的な観念が、その荒野でことごとく打ち砕かれたとき、その素材はようやく新たに形造られる備えができたのです。
神はそのようにして、御自分の人を取り扱われます。
彼らの恐れを打ち出し、彼らの知性的なものを打ち出してしまわれるのです。
それから偉大な陶器師なる主が彼らをろくろの上に載せ、再び形造り始められるのです。
それが、働きにふさわしい職人、すなわち神の人です。
神御自身以上に、人を訓練することのできる方がほかにいるでしょうか。
神がどのように彼らを訓練されるかを、よく見てください。

25. 神は、ダビデがまだほんの少年であったころから、
彼を訓練しておられました。
預言者サムエルがやって来て、彼の頭に油を注ぎ、
彼に油注ぎをしたのです。
それは、神がダビデを力ある戦士として訓練しようとして
おられたからです。
そして、神が彼にどのような訓練をお与えになったかを見てください。
少し前に私は、あのグリーンズ・ミル――私がいつも祈りに行く
場所ですが――そこで、神がダビデに語られたこの言葉を
読んでいました。
「わたしはおまえを羊の囲いから取り、あの父のわずかな羊の群れを追っていたところから連れ出し、地上の偉大な人々のような大いなる名をおまえに与えた。」
そして私は、神がダビデに施された、
その厳しい訓練のことを思うのです。
神は彼を、どこかの学校で教育なさったのではありません。
神御自身の学校で、彼を訓練なさったのです。

26. そして詩篇の中で、青い牧場や静かな水のほとりについて書いています。
それは、彼がそこでただ一人でいたからです。
彼はこの世のものによって汚されてはいませんでした。
神は人をこの世のものから引き離し、静かなところへ導かれます。
それは、その人が神の声――あの静かな細い声――を聞くことができるようにするためです。
そしてひとたび神と交わりを持つなら、その人はもはや何も恐れなくなります。
人が何を言おうと気にしません。
なぜなら、その人は神の御臨在の中にいたからです。
そして、御復活の力のうちに神を知っているのです。
それからダビデを見てみましょう。
ある日、神は一頭の熊が来て、彼の羊の一匹を奪うことを許されました。
するとダビデは、その熊を追いかけて行ったのです。
おそらく彼は祈ったに違いありません。
というのも、後になって彼自身がそれを告白しているからです。
彼は祈り、神に求めました。
彼はその羊の管理者だったのです。
その羊を失うわけにはいかなかったのです。
どんな代価を払ってでも、その羊を救わなければならなかったのです。
そして彼は小さな投石器を手に取り、その熊に向かって行き、ついにそれを打ち倒しました。
彼はその羊を救わなければならなかったのです。
神が彼を何のために訓練しておられたか、お分かりでしょう。

27. あの羊たちを救うのです。
それから神は、ダビデがあの熊に対して勇敢であったのをご覧になりました。
そこで今度は、獣の力をもう少し強いものにされ、子羊の一匹を奪わせるために……いや、一頭のライオンを送り込まれたのです。
そしてライオンは、実に獰猛な獣です。
ああ、アフリカで私がそれを狩っていたときのことですが……
ライオンは、「あっ」という間に十人でも殺してしまうことができます。
ああ、何という力ある大きな獣でしょう。
その大きな咆哮をひとたび上げるだけで、人はもうなすすべもなく倒れてしまいます。
そしてライオンの力の下で死ぬ者は、痛みを感じることさえないのです。
あの吼える声を聞いたその恐怖があまりにも大きいからです。
あの巨大な足で、ほんの一瞬のうちに十人余りの人間をなぎ倒してしまうのです。

28. 聖書は、彼が血色のよい少年だったと言っています。
それは、まだほんの小さな子だったということです。
その小さな手には、ただ小さな投石器があるだけでした。
ご存じでしょう、それは革の小さな当てに、両側からひもがついている、あの投石器です。
その一方で、腹を空かせたライオンは、すでに口の中に血の味を覚えたまま駆け込み、一匹の羊をくわえて行ったのです。
ダビデは天を仰いで言いました。
「私はあの一匹を失うわけにはいきません。主よ、どうか助けてください。」
そして彼は、その投石器でライオンを打ち倒しました。
しかし、ライオンが再び彼に向かって立ち上がったとき――そのライオンは五百ポンド、いやそれ以上はあったでしょうし、その少年のほうは七十か八十ポンドほどだったでしょう――あの小さな少年は、自分の小さな帯からナイフを抜き取ったのです。
そしてライオンが立ち上がったとき――それは二、三度打ちつけるだけで十人でも殺せるほどのものです――その小さな少年はライオンのひげをつかみ、ついにはそれを打ち殺したのです。

29. 神は臆病者をお用いにはなりません。
御自分の御言葉をそのまま受け取り、それを信じることを恐れる者を、神は用いることがおできにならないのです。
神が求めておられるのは、大胆で勇敢な人たちです。
主が語られたこと以外には、何ひとつ顧みない人たちです。
神が働かれるのは、そのような人たちを通してなのです。
教会が何を言おうと、牧師が何を言おうと、教派が何を掲げようと、その人は揺らぎません。
その人は、神の側に立ち、義の側に立ち、御言葉の側に立つのです。
神がこの終わりの時代に、御自分の民が祈り求めているリバイバルのために送り出されるのは、そのような人たちです。

30. 指は十四インチもあるような大男で、誇らしげにこう言ったのです。
「さあ、だれか一人、私と戦いに来るがよい。
もしおまえたちが私に勝つなら、私は降伏しよう。
もし私が勝つなら、おまえたちが仕えるのだ。」
もちろん、降伏するほうが敗者になるわけです。
悪魔は、まさにそのようなやり方を好むのです。
自分があなたに対して優位に立ったと思うと、こう言うのです。
「おまえにはそんなことはできない。
メソジスト教会で神の癒しを説くことなどできるものか。
バプテスト教会でそんなことができるものか。」
しかし、メソジスト派の説教者たちよ、ただ一度でも本気で神をつかんでみなさい。
そうすれば、それができるかできないかが分かるはずです。
あなたがたの教わってきた神学では、それは決してできません。
神をしっかりつかみ、そして神がまことにおられることを知らなければならないのです。

31. 「ペンテコステの人たちは、数年前までは、ただ街角に立っているだけの一団で、入る建物さえなかったではないか」と。
しかし、この前の Life 誌に何と書かれていたか、あなたがたは読みましたか。
あの記事では、この時代が知る最も大きな現象の一つは、ペンテコステ教会の興隆である、と述べられていました。
まさにそのとおりです。
しかも彼らは、一年間に生み出す改宗者の数が、ほかのすべての教会を合わせた数よりも多いのです。
それは Life 誌がそう言っているのです。
確かに、彼らの中にはいくらか混乱したところもあるかもしれません。
けれども、兄弟よ、彼らは勇敢で大胆なのです。
彼らは真っ向から立ち、黒いものを黒い、白いものを白いと、はっきり言うのです。
そして、ひとたびリバイバルが本当に起こるなら、それは彼らの間に起こるでしょう。
よく見ていてごらんなさい、本当にそのとおりになります。
彼らも、いつの日かきちんと整えられるようになるのです。

32. 「ダビデよ、おまえがこのゴリアテ……あの巨人と戦おうというのなら、見てみろ、おまえはただの少年、まだ若者にすぎないではないか。
だが、あいつは若い時からの戦士だ。
どうしておまえに、あれと戦うことができようか。」
この小さなダビデの言葉を聞いてください。
彼はこんなふうには言いませんでした。
「サウル王よ、恐れながら申し上げます。父は私を文法学校へ行かせ、大学へ行かせ、高等教育を受けさせてくれました。私は博士号も持っています。私はそのための資格を備えています。私は頭の良い人間です。」
彼は決してそんなことは言いませんでした。
彼はこう言ったのです。
「王よ、私が向こうで父の羊を飼っていたとき、一頭の熊が来て羊を一匹奪いました。そこで私はそれを打ち殺しました。
また、一頭のライオンが来て羊を一匹奪いましたが、私はそれを打ち倒し、立ち上がって来たときには、それを殺しました。」
そして彼は言いました。
「熊の爪からも、ライオンの爪からも、私を救い出してくださった神は、あの無割礼のペリシテ人の手からも、私を救い出すことがおできになります。」
これこそが神によって訓練された人なのです。

33. 戦いについて知るべきあらゆる訓練を受けた人物です。
しかしダビデは、剣のことなど何も知りませんでした。
盾のことも何も知りませんでした。
それでもサウルは、自分の大きなよろいをダビデに着せたのです。
すると小さなダビデは、ほとんど足ががに股になるほどで、立っているのがやっとでした。
そのとき彼は気づいたのです。
あのような宗教的な装いは、神の人には合わないということを。
それは彼を押しつぶすだけだったのです。
そして私たちの信条やさまざまなものも、神の備えられる装備には決して合うことはありません。
ああ、まだまだ多くの例を挙げて語ることもできるでしょう。
しかし、急ぎますので、このテキストに戻りましょう。

34. そして神は、正直な人、善良な人を見つけておられました。
その名はエリシャでした。
さて、お気づきになるなら、一人の名はエリヤであり、もう一人はエリシャです。
神は、町の広場やそういう場所へ下って行って、神学の学校や当時の大きな高等教育の場で彼を探されたのではありませんでした。
では、どうなさったのでしょうか。
神は野へ出て行き、十二くびきの牛で耕しているひとりの人を見つけられたのです。
その耕していたエリシャは、まっすぐな畝を大事にすることを知っていました。
そして、もし振り向いて後ろを見れば、畝が曲がってしまうことも知っていました。
神は、まっすぐ畑を耕すことを知っている人なら、鋤に手をかけてから後ろを振り向いてはならない、ということも知っているはずだ、とご存じだったのです。
彼は教育を受け終わるまで待ったりはしませんでした。
そんなふうに道の上をふらふら進んで行ったのではありません。
あの外套が自分の上に掛けられるやいなや、彼は牛をほふっていけにえとし、すぐにエリヤについて出て行ったのです。
彼は備えができていました。
進んで従う心もありました。
神は、御自分が彼をふさわしい者にすることがおできになると知っておられたのです。

35. 彼はすでに、十二くびきの牛を一人で引いて畑を耕しながら、目を畝からそらさないことを学んでいました。
また、忍耐すること、辛抱すること、そしてその牛たちをまっすぐ一列に歩かせることも学んでいました。
そのあと彼は、人々を訓練しなければならなかったのです。
彼らを聖書の上に、御言葉の上に、神と一直線に並べ、まっすぐその線の中にとどまらせなければならなかったのです。
そしてそのためには、神御自身も彼をもう少し教えなければなりませんでした。
そこでエリヤは言いました。
「さあ、おまえはここにとどまっていなさい。私はギルガルへ行く。主が私を呼ばれたのだ。」
しかし、その力、すなわちエリヤのあの外套が自分の上に臨んだのを感じたこの預言者は、こう言ったのです。
「主は生きておられ、あなたのたましいも生きておられます。私はあなたを離れません。」
そして彼はギルガルまでついて行きました。
そこは、クリスチャンの告白とバプテスマの場所です。
それから彼は言いました。
「もうここにとどまりなさい。これで十分だ。
おまえは信仰を告白し、バプテスマも受けた。
それで十分ではないか。
私はベテルへ上って行くのだから。」
ベテルとは、「神の家」 という意味です。

36. 「おお、私は教会に入り、交わりも持つようになった。
それなら、もうここにとどまっていればよいではないか」と。
しかし、聞いてください。
エリシャは、そのようには考えることができなかったのです。
彼はすでに神の力を味わっていました。
そして、自分にはまだ先があること、さらに受けるべきものがあることを知っていたのです。
ですから彼は言いました。
「主は生きておられ、あなたのたましいも生きておられます。私はあなたを離れません。」
ああ、私はこの言葉が何と好きなことでしょう。

37. するとそこには、多くの学者たちがいました。
彼らは皆、よく訓練された説教者たちで、彼のところへ来てこう言ったのです。
「あなた、ご存じですか。あなたは今、とても不利な立場に立っていますよ。
エリヤはまもなくあなたから取り去られるのです。
彼はもう年を取りすぎていて、長くは生きられません。
やがて彼は去って行き、あなたはただの狂信者としてそこに取り残されることになりますよ。」
ここでひとつ言わせてください。
一度でも神を味わった人は、人の作った水ためによって、その渇きを満たすことなど決してできません。
できるはずがないのです。
あの預言者の学校で教えられていた、あらゆる神学も、神を実際に味わったその人の渇きを満たすことはできませんでした。
それでも彼らは彼を説得し続けたのです。
「いやいや、ここにとどまるべきですよ。
そうですね、六週間もあれば博士号だって差し上げられますし、
四年ほどここで学べば、正式に説教する資格も与えられます。
もし適性があると分かれば、私たちの教派から派遣することだってできますよ。」
しかし、それでは神の人は満足しません。
「あなたを立派な牧師に育てて差し上げますよ。
ここで四、五年、私たちと一緒に学びさえすればいいのです。」

38. 彼はあの泉へ向かっていたのです。
彼はすでに、そういうものを超えていたのです。
彼のたましいは、すでに天の味を味わっていたのです。
そして彼らが、
「あなたのかしらが取り去られるのを知っているのか」
と言ったとき――
彼が何と答えたかを聞いてください。
「ええ、知っています。けれども、どうか黙っていてください。」
言いかえるなら、こういうことです。
「息を無駄にしないでください。そんなことを私に言い聞かせようとしなくてよいのです。
私が何をしているのか、あれこれ言おうとしないでください。
私は、自分がどこへ向かっているのか、何を求めているのかを知っているのです。」
神が、私たちにそのような人たちを与えてくださいますように。
神によって訓練された人たち、
あちらへふらつき、こちらへそれて行くことのない人たちです。
「私は自分がどこへ向かっているかを知っている。
だから、そのことで私にあれこれ言わないでください。
ただ黙っていてください。
私を落胆させようとしても無駄です。
そんなことをしても、何の役にも立たないのです。」

39. 「おお、奇跡の時代はもう過ぎ去ったのだ。
あれは本物ではなかったのだ。
見ていなさい、また病気になるから。」
「どうか黙っていてください。そんなことを私に言わないでください。
私は前へ進んでいるのです。
リバイバルは来るのです。
神がそう約束してくださったのです。」
ああ、神の子らよ、あの領域へ踏み出しなさい。
恐れずに、恐れずに。
神の御言葉を、そのまま信じなさい。
「彼が取り去られることは知っています。
しかし、それは今、私が求めていることではありません。
あなたがたのところには、私の心を引くものは何もありません。
あなたがたの学位も、博士号も、文学士も、そのほかのどんなものも、私を満たすことはできないのです。
どうか黙っていてください。」
「だが、おまえは向こうへ行って、ついには駄目になってしまうぞ。」
「たとえ駄目になるとしても、駄目になるならそれでもいい。
私は自分の道を進んでいるのです。」
そう言って、彼は進み続けたのです。
「おまえには、それを成し遂げることなどできない。」
「ええ、自分では成し遂げられないことは知っています。
けれども、神が私を向こうへ渡してくださるのです。」
と彼は言ったのです。
「だが、エリヤはヨルダンへ行くのだぞ。」
「私は彼と一緒に行きます。」

40. ですから、エリヤはやって来て、こう言ったのです。
「さて、エリシャよ……」
――おそらく、こういう調子だったのでしょう。
「おまえはまだ若い者だ。
それに、たいした教育も受けてはいない。
文法学校の教育さえ、ろくに受けていないではないか。
おまえにできることといえば、畑を耕すことくらいのものだ。
だから、ここにとどまって、そうだな、文学士でも取りなさい。
ここに残って、学位を取るほうがよい。」
しかし、エリシャはそうではありませんでした。
ひとたび神に触れ、あの油注ぎの力をその身に感じた人は、そんなものでは止まりません。
彼は言いました。
「主は生きておられ、あなたのたましいも決して死ぬことはありません。私はあなたを離れません。」
彼には目的がありました。
彼は幻を見ていたのです。
そして、何が起ころうとしているのかを知っていたのです。

41. ヨルダンは「死」を意味します。
そこに立っていたのです――年老いた者と若い者が。
それはまことに、キリストとその教会を表しているのです。
そして彼らはヨルダンのほとりに立っていました。
見よ、それはユダヤの丘々から流れ下って来て、大きな波音を立てながら、激しくうねっていました。
そしてエリヤは、灰色の髪を背に垂らし、かすんだ老いた目でヨルダンの向こうを見つめていました。
一方、その若者は、彼の一つ一つの動きを見逃すまいとして見つめていました。
ひとりは――その若者は――神の御心を行うための幻を受けようとして待っていたのです。
もうひとりは、故郷へ帰ろうとしていました。
二人は共に、ヨルダンのところに立っていたのです。

42. エリヤは苦しい生涯を歩んできました。
あの女預言者――イゼベルとアハブによって、彼は大きな迫害を受け、石打ちにされるような苦しみの中を通って来たのです。
エリヤは疲れていました。
そして、自分が良い戦いを戦い抜き、走るべき道のりを終えたことを知っていました。
ヨルダンの向こうには、彼の安息が待っていたのです。
しかしエリシャは見つめていました。
あの御霊が彼の上にあったからです。
ですから、よく見てください。
すべての信者が、完全に自分を明け渡さなければならない場所に来るとき、ヨルダンの冷たい波が足元に打ち寄せるのを感じるようになるのです。
あなたは渡るのか、それとも渡らないのか。
ヨルダンとは「分離」です――引き離し、分けることなのです。

43. 「向こうへ渡るのはやめたほうがいい。おまえは行きすぎてしまうぞ。」
そういう言葉は、今日でもなお耳にするのです。
しかしエリシャは言ったのです。
「もし神がまことに神であられ、その預言者を支えておられるのなら、私はその人の場所を受け継がなければなりません。
そして、そのためには、あの人の御霊が私に必要なのです。
私には、あの人たちの学校は要りません。
もし彼らの学校でそれができるのであれば、彼らこそその人の跡を継いでいるはずです。
しかし、神は私をそのために召してくださったのです。
だから私は、あの人の御霊を必要としているのです。」
もし教会の学校というものが、イエスが差し出してくださったその地位と力を受け継ぐことができるのなら、メソジストも、バプテストも、カトリックも、長老派も、ずっと前にそれを受け継いでいたはずです。
しかし、それは決してできません。
必要なのは、イエス・キリストの御霊 です。
そしてあなたは、その御霊の後について、あらゆる教派を後ろに置き、そのほかのすべてを後ろに置いて、ヨルダンを渡り、ただ神と共にひとり立たなければならないのです。

44. エリヤは向こうを見つめ、あの先のどこかで神が自分を迎えてくださることを知っていました。
そして彼は自分の外套を脱ぎ、若者のほうをちらりと見てから、それでヨルダンを打ったのです。
するとヨルダンは開き、二人は乾いた地を渡って行きました。
ご覧なさい。
道を開いてくれるものがあなたと共にあるなら、ヨルダンはそれほど恐ろしいものではないのです。
ああ、そして二人が向こう岸に着いたとき――
あらゆる木立には、馬と戦車が備えられていました。
王の王が、エリヤを故郷へ迎え上げるための随行を遣わしておられたのです。
エリヤにとっては、もうすべてが終わったのです。
彼は十分に戦ってきました。
八十幾年ものあいだ、下のあの人々と格闘し、飢えを通り、争いを通り、そのほかあらゆることを通って来たのです。
彼はもう、故郷へ帰る備えができていました。

45. エリシャは幻を見たいと願っていました。
というのも、後ろには、彼がとどまろうと思えばとどまることのできる、あらゆる学びの場があったからです。
しかし、そうしたものでは何も前に進むことはできませんでした。
神は、御自分の方法で彼を訓練しようとしておられたのです。
それで彼が向こうを見たとき、あの茂みのあちらこちらに、火の戦車と火の馬とが備えられているのを見たとき、それはエリシャのうちに大きなものを起こしました。
彼は幻を見たのです。
そうです、兄弟よ。
そして神がエリヤを取り上げられたとき、エリシャはその御霊の二倍の分を受けて帰って来ました。
そのとき彼は、リバイバルのための備えができていたのです。

46. 彼はもともと、ただの畑を耕す若者にすぎませんでした。
しかし神は、彼の名を不朽のものとされたのです。
周りに立って彼を見ていたあの預言者たちも皆、ついには彼の足もとにひれ伏さなければなりませんでした。
なぜなら、神の力が彼の上にあったからです。
やがて時が来ます。
神はこの世を、ヨルダンを越え、この世のものから自らを引き離した男女の足もとに、ひざまずかせられるのです。
兄弟姉妹よ、今夜、何をするにしても、何を思うにしても、神と共にヨルダンを渡ってください。
向こう岸へ進み、この世を後ろに置いて離れてください。
そして神に、御自分の働きのためにあなたを訓練していただきなさい。
私たちは今、このリバイバルの直前の時代に生きています。
しかし神は今も、心を探しておられるのです。

47. 神はパウロという人を見いだされました。
彼は、いわば自らを誇るパリサイ人でした。
しかし、弟子となる前に、神は彼を徹底的に取り扱わなければならなかったのです。
時代を通して、神が人々に何をなさったかを見てみなさい。
神は彼らを取り扱い、その中にある神学を汲み出してしまわなければなりませんでした。
そしてパウロも、ひとたびあの幻を見たとき、彼を教えたあのイスラエル最大の教師、偉大なガマリエルのもとへ、エルサレムに戻って相談しに行ったりはしませんでした。
そうです、彼は十四年もの間、エルサレムへさえ行かなかったのです。
彼はエジプトへ下って行き、祈りの中に入りました。
そこで神は、彼に新約聖書の多くの書を書かせられたのです。
ご覧なさい。
神は人を探しておられるのです。
あの新約を書かせたい人を、神は持っておられたのです。
ですから神はパウロを選び、彼の中にあった神学をことごとく取り去ってしまわれたのです。
そしてパウロは、キリストを学ぶためには、自分がこれまで知っていたことをすべて忘れなければならなかった、と言っています。
神は今日も、私たちの中からこの世を取り除こうとしておられます。
私たち自身を空にさせ、神を愛し、神と共にとどまり、あの分離の線――ヨルダン――を渡ることのできる、恐れのない男女にしようとしておられるのです。
それは、神が私たちを御自身の栄光のために用いることができるようにするためです。

48. そして、もしあなたがまだこの場所を越えたことがなく、
もしまだこの境界線を渡ったことがなくて、なおもこう言っているのなら――
「まあ、私の母はある教会に属していましたから」と。
それはそれでよいのです。
しかし、それであなたの立つべき場所が果たされるわけではありません。
神は今日、男女を戦いの最前線へ召しておられます。
ギルガルへ召しておられるのでもなく、エリコやベテルへ召しておられるのでもありません。
そうしたところにとどまるなら、ついには滅びてしまうのです。
しかし神は、あなたにヨルダンを渡るよう召しておられるのです。
それは、御自分の力の学校の中へあなたを導き出し、あなたを造り変え、形造るためなのです。

49. 神が今ここで何をしておられるかを。
御子の御霊を注いでおられるのです。
そして、しるしと不思議と奇跡を行っておられます。
それは、この二千年の間、世が見たこともないようなものです。
科学の世界でさえ、その姿を写真に収めました。
あの火の柱――主の使い――は、今夜、ワシントンD.C.の宗教芸術館に掲げられています。
それは、科学的に写真撮影されたことが証明された唯一の超自然的存在であり、しかも今もなお、同じしるしと不思議とを現しておられるのです。
それは何でしょうか。
それは、ヨルダンを渡ることです。
神とだけ共にいることです。
神御自身の精錬の炉の中に身を置くことです。
あの偉大な陶器師のろくろの上に上り、神にあなたを形造っていただくことです。
今夜、私たちが祈るこのとき、
私たちがその場所へ近づいているこのとき、
あなた自身をまさにそのろくろの上に明け渡し、こう言ってください。
「主よ、ここに私がおります。あなた御自身のかたちに従って、私を形造り、私を造ってください。」
そうすれば、神はそのようにしてくださいます。
では、ひと言祈るために、しばし頭を垂れましょう。

50. 今夜、イエスと共にヨルダンのところまで下って行き、そこで向こう岸へ渡り、幻を見て、神が本当に何を意味しておられるのかを知りたいと、心から願う方は、この中にどれほどおられるでしょうか。
そのように願う方は、手を挙げてくださいますか。
神があなたがたを祝福してくださいますように。
見てください。
この会堂の中だけでも、二百ほどの手が挙がっているように思います。
神学校へ下って行くのではなく、ヨルダンへ下って行きなさい。
エリシャは、そのようなものを通り過ぎて行ったのです。
人々は彼に言いました。
「ここにとどまりなさい。」
しかし彼は言ったのです。
「私はそんなものを望みません。
それは人間が作ったものです。」
ああ、そのようなものでは、神を渇き求めている人の渇きを、決して満たすことはできません。
神学校での経験も、学位も、そのほかどんなものも、決して、決してその渇きを満たすことはできないのです。
いのちの泉から飲むまでは、その渇きは決して癒されないのです。

51. 愛する神よ、
このわずかな礼拝の時間の中で、壁際に立っている人たち、子どもたち、若い人たち、そして外で窓にもたれながら立っている人たちがいます。
暑さの中にありながらも、なおそこに立っているのです。
けれども、それは、あなたが彼らの心をとらえてくださったからです。
そうでなければ、彼らはもう立ち去っていたことでしょう。
主なる神よ、彼らは、自分たちがただの人間にすぎないことを知っています。
だからこそ、そのようにして立ち続けているのです。
そして私たちは新聞で読みました。
かつて尊敬を集めた元市長の一人が、副大統領の話を聞いていたその最中に、そのまま連れ去られてしまったことを。
また先日の球技場でも、名の知られたひとりの人が、突然この世を去りました。
そして今夜、その人たちのたましいは、どこかにあるのです。
神よ、いつの日か、それは私たちの行く道でもあります。
同じようなかたちではないかもしれません。
けれども、私たちもまた、必ずそこを通らなければならないのです。

52. あなたが求めておられるのは、御霊に満たされた人々、
新しく生まれ、切り出され、聖霊によって焼き入れられ、刻印を押された人々、
あの境界線を越えた人々、すなわち神に召された人々 なのです。
そして私たちは信じます。
ビリー・グラハムや多くの人々が祈っているそのリバイバルを、あなたは必ず送ってくださることを。
ただ、あなたが人々を、自分自身の中から連れ出し、
自分たちの神学の学校から引き離し、
自分流のあり方から引き離し、
何ものをも恐れない人々、
あなたと共に品性を持つ人々、
あなたを信じ、御言葉をそのまま受け取る人々にしてくださるときに、そのリバイバルは来るのです。

53. あの後ろに座って神学を語っている預言者の学校をも通り過ぎ、
ヨルダンへ進み、そこを渡ったときに開かれた幻の中で、生ける神が今もなお生きておられる ことを見いだすことができますように。
後になって、私たちはこの預言者が自分の周りを見回したとき、あの同じ火の御使いたちと火の戦車とが、かつてドタンで現れていたことを見るのです。
主よ、あれらは今夜もなお、ここにおります。
どうか、あなたの人たちを召してください。
あなたの女たちを、あなたの若者たちを、あなたの子どもたちを召してください。
主よ、その心に平安を語ってください。
そしてこの世のものを越えて、向こう側へ渡らせてください。
このことを、イエスの御名によって、またイエスのゆえにお願いいたします。
アーメン。

54. 主よ、御心のままになさってください。
主よ、御心のままになさってください。
私の存在のすべてを、絶対的に支配してください。
あなたの御心のままに、私を形造り、私を造ってください。
私は今、待ちながら、ゆだねられ、静まっています。
では今、皆でご一緒に、礼拝の思いをもって歌いましょう。
主よ、御心のままになさってください。
(今、その歌によって、あなた自身を神にささげてください。)
主よ、御心のままになさってください。
私の存在のすべてを、絶対的に支配してください。
あなたの御心のままに、私を形造り、私を造ってください。
私は今、待ちながら、ゆだねられ、静まっています。
今は静かに、礼拝のうちに。
あたりを見回さないで、ただ神を見上げてください。
主よ、御心のままになさってください。
(本当にその思いで。)
主よ、御心のままになさってください。
あなたは陶器師、私は土の器です。
あなたの御心のままに、私を形造り、私を造ってください。
私は今、待ちながら、ゆだねられ、静まっています。

55. あなたがたは、この礼拝を愛していますか。
メッセージはもう終わりました。
では、しばらくの間、頭を垂れて、この歌をもう一度、礼拝の思いで歌いましょう。
心からの思いで歌ってください。
主よ、御心のままになさってください。
主よ、御心のままになさってください。
あなたは陶器師、私は土の器です。
あなたの御心のままに、私を形造り、私を造ってください。
私は今、待ちながら、ゆだねられ、静まっています。

56. ここにいる小さな子どもたちから、最も年長の男の人、女の人に至るまで、あなたの神聖な御臨在の中にある一人ひとりの上に、どうか今、聖霊が働いてくださいますように。
そして、その信仰の上に働き、すべての疑いを、すべての小さなつまずきを取り去ってください。
そして、あなたの御心のままに、その人たちが形造られますように。
彼らがあなたの大いなる形造りのろくろの上にあるこのとき、私たちもまた、自分のたましいを献身のために差し出します。
もう一度、造り直してください。
神よ、どうかそれをかなえてください。
あなたの御子イエスの御名によって。
アーメン。

57. あなたがたもそうではありませんか。
こうして静かに聖霊を感じることが。
ああ、あの厳しいメッセージの後に、この聖霊のやさしさが来るのです。
それは御言葉から来るのです。
では、この歌を一節、歌ってみたいと思います……いや、できるだけ歌ってみます。
血が滴っている、そう、血が滴っている。
この聖霊の福音は、血が滴っている。
真理のために死んだ弟子たちの血が、
この聖霊の福音には滴っている。
最初にこの聖霊のご計画のために命をささげたのは、バプテスマのヨハネでした。
彼は人として死にました。
そして主イエスが来られ、彼らは主を十字架につけました。
主は、御霊が人々を罪から救うと宣べ伝えられたのです。
ペテロとパウロ、そして神学者ヨハネがいました。
彼らはこの福音が輝くために、その命をささげました。
彼らは、昔の預言者たちのように、その血を混ぜ合わせたのです。
それは、神の真の御言葉が、正しく語られるためでした。
ステパノは石で打たれました。
彼は罪に対して語り、人々を怒らせ、彼らは彼の頭を打ち砕いたのです。
しかし彼は御霊のうちに死に、息を引き取り、
いのちを与えるその群れに加わって行きました。
祭壇の下にいるたましいたちは叫んでいます。
「いつまでですか、主よ、すべての悪がさばかれるのは。」
しかし、なおも、この聖霊の福音のために、その紅の流れのために、
自らの命の血をささげる者たちが起こされるのです。
(さあ、ご一緒に。)
血が滴っている、そう、血が滴っている。
この聖霊の福音は、血が滴っている。
真理のために死んだ弟子たちの血が、
この聖霊の福音には滴っている。

58. 神が訓練し、神が召された人たち だったのです。
どうして神が、臆病な者に御自分の御言葉を託すことがおできになるでしょうか。
その人は恐れているのです。
だからこそ、その人は何も分かっていないのです。
しかし、神が聖霊によって割礼を施してくださった人たち、
神がその内に生きておられる人たちは違います。
その人は、自分のあかしを血によって封じることなど、何でもないことのように受け取るのです。
自分の証言を、自分の血をもって証しすることを、少しも恐れません。
そんなことは意に介さないのです。
なぜなら、その人のうちに生きているのはキリストだからです。
「私にとって生きることはキリストであり、死ぬことは益です。」
彼らはそのように感じているのです。
アーメン。

59. まだ早い祈りの列で、ちょうど八時二十分過ぎくらいです。
しかし、私たちは人々のために祈りたいのです。
そして今、あなたがたに申し上げたいのは、これまでどれほど多くの説教をしたとしても、神御自身からのひと言の御言葉には到底及ばない ということです。
それでは祈りの列を始めましょう。
私たちは、ここにいるすべての人のために祈ると約束しました。
神の御心ならば、そのとおりにいたします。
私たちは毎晩、祈りのカードを配ってきました。
そしてその中から毎晩、あるグループを識別のために呼び出してきました。
けれども、その夜のうちに帰ってしまう人たちもいたのです。
すばらしい集会があり、御霊が下り、人々がそのまま帰ってしまい、
そして次の晩には、また新しくカードを配らなければならなくなるのです。

60. 私はあの女性のことを覚えています。
あれは一九三二年ごろだったでしょうか……いや、もっと前でしょうか、とにかく彼女は結核で死にかけていました。
この町の医師は、もう助からないと見放していたのです。
そして彼女は喀血し続け、毛布も何もかも血でびっしょり濡れていました。
ある朝、彼女の夫と娘さんが私を迎えに来ました。
私はそこへ行き、主イエスの御名をもって彼女の上に呼びかけました。
すると、そのわずか数日後、冬の寒いさなかでしたが、私は川で彼女に主イエスの御名によるバプテスマを授けたのです。
そして彼女は、古い家畜運搬用トラックの荷台の後ろに乗って、その道をやって来ました。
びしょ濡れになりながらです。
しかし彼女は、今夜もなお生きているのです。
キリストがそれをしてくださったからです。
こうして彼女を見るのは、本当に何年ぶりになるでしょうか。
会衆を見渡していて、その姿が目に入ったのです。
神は今もなお生きておられます。
そのとおりです。
そして主は言われました。
「わたしが生きるので、あなたがたもまた生きるのである。」

61. もしそうしなければ、あなたがたは帰るときに、
「まあ、あれはよく分からなかった」
と言うことになるかもしれないからです。
さて、私が申し上げたいのは、こういうことです。
イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。
もし主が同じ方であるなら、その方は、あらゆる原則において同じでなければなりません。
力においても同じ、
権能においても同じ、
そして主がかつてそうであられた、そのすべてにおいて同じでなければならないのです。
そして、主がこの地上におられたとき、ある時、ギリシャ人たちが来てこう言いました。
「先生、私たちはイエスにお目にかかりたいのです。」
そして私は、それこそイエスのことを一度でも聞いたことのあるすべての男も女も抱く願いだと信じています。
すなわち、イエスにお会いしたい という願いです。
もし主が同じでないのなら、私たちは主を見ることはできません。
しかし、もし主が同じ方であるなら、私たちは主を見ることができるのです。
そうでなければ、主は誤ったことを言われたことになってしまいます。
主はこう言われました。
「もうしばらくすれば、この世はもはやわたしを見なくなる。
しかし、あなたがたはわたしを見る。
なぜなら、わたしは――この『わたし』というのは、この人格をもったわたし自身ですが――あなたがたと共におり、さらにあなたがたの内にいて、世の終わりまで共にいるからである。」
そしてイエスは、御自分の教会の中にあって、世の終わりに至るまで、あの時なさったのと同じことを行われると約束されたのです。

62. 最初のぶどうの木が現れた時……その木から最初に出て来た枝は、ペンテコステの枝でした。幻、力、癒し、聖霊のバプテスマ、偉大なしるしと不思議がそこにありました。次の枝も、同じ種類の枝でなければなりません。そして終わりに至るまで、ずっと同じでなければならないのです。イエスがそう言われたからです。
では、主が昨日どのようなお方であられたのか、見てみましょう。もし昨日の主がどのようなお方であられたかを見いだすことができるなら……(時間がないので、少し近道をして、五分ほど指示を与えることにします。)そして、主が昨日どのようなお方であられたのかが分かれば、主が今日どのようなお方であり、またいつまでもどのようなお方であるのかも分かるのです。それでよろしいでしょうか。」

63. さて、私たちは知っています。この世には三つの民族しかありません。ユダヤ人、異邦人、そしてサマリヤ人です。すなわち、ハム、セム、ヤペテの民――ユダヤ人、異邦人、そしてサマリヤ人です。
覚えていてください。ペテロはペンテコステの日に、御国の鍵をもって彼らのところへ行きました。つまり、ユダヤ人のところです。そして彼はこう言ったのです。『あなたがたは、おのおの悔い改めて、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。』」

64. それからコルネリオ――つまり異邦人ですが――は幻を見ました。そして、皮なめし職人の家に滞在しているペテロという人、すなわちシモン・ペテロを呼びにやるように示されたのです。
そしてペテロがそこへ来た時、ペテロがまだこれらの言葉を語っている最中に、聖霊が彼らの上に下りました。そこでペテロはこう言いました。『だれが水を拒むことができるだろうか。この人たちは、初めに私たちが受けたのと同じように、聖霊を受けたのだから。』
こうして、出て来る枝はみな、まったく同じなのです。お分かりでしょう。」
ブラナム兄弟らしい語り口を少し残すなら、こちらです。
「ピリポは下って行って、サマリヤ人たちに御言葉を宣べ伝えました。彼らはみな信じ、悔い改め、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けていました。ただ、まだ聖霊は彼らの上に下っていなかったのです。ペテロはその鍵を持っていました。そこで彼は下って行き、彼らの上に手を置きました。すると彼らは聖霊を受けたのです。
それからコルネリオ、すなわち異邦人ですが、彼は幻を見ました。そして、皮なめし職人の家に滞在しているペテロという人、つまりシモン・ペテロを呼びにやるよう示されたのです。
そしてペテロがそこへやって来た時、まだペテロがこれらの言葉を語っているその最中に、聖霊が彼らの上に下ったのです。その時ペテロは言いました。『だれが水を拒むことができようか。この人たちは、初めに私たちが受けたのと同じように、聖霊を受けたのだから。』
見てください。出て来る枝はみな、まったく同じなのです。」

65. さて、その時代に主が来られるのを待ち望んでいたのは、だれだったでしょうか。異邦人ではありませんでした。私たちは異教徒であり、アングロ・サクソンでした。私たちはローマ人であり、太陽などを拝んでいました。私たちは、どんなメシヤも待ち望んではいませんでした。しかし、ユダヤ人とサマリヤ人は違いました。
では、主は、ご自分を待ち望んでいたその人々に対して、どのようにご自身を明らかにされたのでしょうか。さあ、ヨハネによる福音書第1章に戻ってみましょう。ほんの少しの間、よく耳を傾けてください。」
少しブラナム兄弟らしい説教調を残すなら、こちらです。
「さて、イエスが出会われた時のことですが……主は異邦人のところには来られませんでした。それをご存じの方はどれほどおられますか。主は弟子たちに、異邦人のところへ行くことを禁じられたのです。それをご存じの方はどれほどおられますか。『異邦人の道に行ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。そして行きながら、“天の御国は近づいた”と宣べ伝えなさい。』――イスラエルの家の失われた羊のところへ、です。
さて、その日、主が来られるのを待ち望んでいたのはだれだったでしょうか。異邦人ではありませんでした。私たちは異教徒であり、アングロ・サクソンでした。ローマ人として、太陽などを拝んでいたのです。私たちは何のメシヤも待ち望んではいませんでした。しかし、ユダヤ人とサマリヤ人は待ち望んでいたのです。
では、主は、ご自分を待ち望んでいたその人々に、どのようにご自身を現されたのでしょうか。さあ今、ヨハネによる福音書の第1章に戻ってみましょう。ほんの少しの間、よく聞いていてください。」

66. それからすぐに、ピリポは回心して、ナタナエルを見つけに行きました。(山を回って三十マイルもある道のりです。)そして家に着くと、彼はこう言ったに違いありません。『ああ、ナタナエルの奥さん、ナタナエルはどこですか。』
『あの人なら、オリーブ園にいますよ。』
そこで彼は急いで走って行きました。『ナタナエル、どこにいるんだ。』そして彼を木の下に見つけたのです。ナタナエルは祈っていました。ピリポは、彼が祈り終わるまで待ちました。そして言ったのです。『やあ、ナタナエル。元気かい。作物の具合はどうだい。』――いや、そんなことではありません。彼にはメッセージがあったのです。イエスに出会った人は、まさにそうなのです。くだらないことに時間を使っている暇などないのです。彼は言いました。『来て見てくれ。私たちが見つけた方を。ヨセフの子、ナザレのイエスだ。』」

67. 『いや、そんなことはない。来て、自分で見てみなさい。』
彼は言いました。『何か良いものが……?』」

68. さて、その道を回って行く間に、私はナタナエルがこう言うのを……いや、ピリポがナタナエルにこう言うのを聞くことができます。『なあ、あの下の方にいた年老いた漁師のことを覚えているかい。君があれを渡した時――あの魚を彼から買った時、あの受け取りにさえ自分の名前を書けなかったあの人だよ。』
『ああ。』
『たしか、彼の名前はシモンだったと思う。』
『うん、そうだった。』
『私は先日、その人をあのメシヤの前に連れて行ったんだ。すると主は、彼を見るやいなやこう言われたんだ。“あなたの名前はシモン。あなたの父の名はヨナだ。” だから、君が主の前に出た時にも、主が君がだれであるかを告げられても、少しも不思議ではないと思うよ。』
彼は言いました。『いやいや、ちょっと待ってくれ。私のことはないだろう。』」
少しブラナム兄弟らしい説教調を残すなら、こちらです。
「彼は、その時どんな人にもできる最良の答えをしたのです。『来て、自分で見てごらん。』
さて、道を回って行くその途中で、私はナタナエルがこう言うのを……いや、ピリポがナタナエルにこう言うのを聞くことができます。『なあ、あの下の方にいた年老いた漁師のことを覚えているだろう。君があの魚を彼から買った時、あの受け取りにさえ自分の名を書けなかったあの人だよ。』
『ああ、覚えている。』
『たしか、あの人の名はシモンだった。』
『そう、それだ。』
『私は先日、その人をあのメシヤの前に連れて行ったんだ。すると主は、彼を見るなりこう言われた。“あなたの名はシモン。あなたの父の名はヨナだ。” だから、君が主の前に出た時、主が君がだれであるかを告げられても、私は少しも驚かないよ。』
彼は言いました。『いやいや、ちょっと待ってくれ。私のことはないだろう。』」

69. これは不思議な教えではありませんか。それが昨日のイエスだったのです。そして、もし主が同じであるなら、それが今日のイエスなのです。
すると、その人は立ち止まりました。私はナタナエルのそばで、ピリポが彼を軽くつついて、こう言うのが見えるようです。『どうだい、私が言ったとおりだろう。言ったとおりだっただろう。』」
少しブラナム兄弟らしい説教調を残すなら、こちらです。
「それで翌日、彼らはやって来ました。イエスはいつものように祈りの列におられ、病人たちのために祈っておられたのです。そして彼が機会を見て前へ進み、会衆の中から出て来た時、イエスは顔を上げられました。そして、ピリポがひとりの人を通路づたいに連れて来るのをご覧になったのです。主はその人を見て、こう言われました。『見よ、そこに偽りのないイスラエル人がいる。』
不思議な教えだと思いませんか。これが昨日のイエスだったのです。そして、もし主が同じであるなら、これが今日のイエスでもあるのです。
その時、その人は立ち止まりました。私はその場面を見ることができます。ピリポがナタナエルを軽くつついて、こう言うのです。『どうだい、私が言ったとおりだろう。どうだい。』」

70. 主は言われました。『ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがあの木の下にいた時、わたしはあなたを見たのだ。』」――山を回って三十マイルもある、その前日にです。何という目でしょうか。
さて、その人は何と言ったでしょうか。彼は言いました。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』」
少しブラナム兄弟らしい説教調を残すなら、こちらです。
「彼は言いました。『ラビ……』(それは“先生”という意味です。今日で言えば“教師”というところでしょう。本来の正しいヘブル語の意味は“先生”です。)そしてこう言ったのです。『ラビ、あなたはいつ私をご覧になったのですか。どうして私のことを何かご存じなのですか。私は生まれてこのかた、あなたにお会いしたことがありません。どうして私がイスラエル人だと分かるのですか。どうして私が正しく、正直で、真実な者だと分かるのですか。あなたはこれまで一度も私をご覧になったことがないのに、どうして私を知っておられるのですか。』
すると主は言われました。『ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたが木の下にいた時、わたしはあなたを見たのだ。』」――山を回って三十マイルもある、その前日のことです。何という目でしょうか。
「その時、彼は何と言ったでしょう。彼は言ったのです。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』」

71. ところが、その時代の神学者たち、祭司たち、そして偉大な教師たちが、主の話を聞きながらそこに立っていました。そして彼らが何と言ったか、ご存じでしょう。彼らはこう言ったのです。『あいつは占い師だ。あいつにはベルゼブルの霊がついている。』
彼らはそれを大声では言いませんでした。いいえ、決して。しかしイエスは振り向いて彼らを見られました。そしてこう言われたのです。『あなたがたは、わたしに対してそのように言っても、それで済まされる。しかし、やがて聖霊が来られる時が来る。そして、その方が同じことをしておられるのに対して、一言でも逆らって語るなら、それはこの世でも、来るべき世でも、決して赦されることはない。』
それでは、私たちはいったい何を相手にしているのでしょうか。」
少しブラナム兄弟らしい説教調を残すなら、こちらです。
「もしユダヤ人たちがそれを認めたとしたら……いや、ちょっと待ってください。あれは選ばれたユダヤ人だったのです。選びを信じる方はどれほどおられますか。ああ、それを決して受け入れない人たちが大勢いるのです。聖書がそう言っています。しかし、その人の内には神の御霊があった。それで彼は告白したのです。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』
ところが、その時代の神学者たち、祭司たち、偉大な教師たちが、主のそばに立って聞いていました。そして彼らが何と言ったか、ご存じでしょう。彼らはこう言ったのです。『あいつは占い師だ。あいつにはベルゼブルの霊がついている。』
彼らはそれを声に出しては言いませんでした。いや、決して。けれどもイエスは振り向いて彼らを見られたのです。そしてこう言われました。『あなたがたは、わたしに向かってそのように言っても、それは赦される。しかし、やがて聖霊が来られる時が来る。その時、その方が同じことをしておられるのに対して、一言でも逆らって語るなら、それはこの世でも、来るべき世でも、決して赦されることはない。』
それなら、私たちはいったい何を相手にしているのでしょうか。」

72. それでも彼らは、利口で、優秀で、敬虔な人たちでした。彼らは一本のわら一つ動かそうともしないほど、敬虔でした。安息日を破ることもなく、肉を食べることもありませんでした。彼らは敬虔な人たちでしたが、見抜くことができなかったのです……。ほら、彼らは人によって訓練されていたのです。神はご自分の人を、荒削りな仕方で訓練されます。そのとおりです。神に召された人たちを!」
少しブラナム兄弟らしい説教調を残すなら、こちらです。
「それがユダヤ人だったのです。本当に真実で正直なユダヤ人たちは、主がメシヤであることを信じました。では、教師たちや神学者たちは何だったのでしょうか。――私たちがこれまでたどって来たように、蛇の種だったのです。主は彼らにこう言われました。『あなたがたは、あなたがたの父、悪魔から出た者である。』
それでも彼らは、利口で、聡明で、敬虔な人たちでした。彼らはわら一本動かさないほどに厳格でした。安息日を破ることもなく、肉を食べることもありませんでした。実に敬虔な人たちでした。けれども、彼らは見抜くことができなかったのです。ほら、彼らは人によって訓練されていたのです。神はご自分の人を、荒々しい仕方で訓練されます。そのとおりです。神に召された人たちを!」

73. さて、あなたはこう言うでしょう。『サマリヤ人たちも、主が来られるのを待っていたのですね。』そうです、そのとおりです。しかし異邦人ではありません。ただサマリヤ人たちだけでした。
そして主が最初にサマリヤ人たちと会われた時のことです。主はサマリヤを通らなければなりませんでした。それで主はそこで立ち止まり、弟子たちを食べ物を買いに行かせられました。時は十二時ごろでした。主は井戸のそばに腰を下ろされたのです。するとひとりの女が出て来ました。さて、この国では、彼女は素行のよくない女、町の女、つまり売春婦として知られているような女でした。
彼女は出て来て、水をくもうとしてつるべを井戸の中に下ろしかけました。その時、彼女はこう言う声を聞いたのです。『女よ、水を飲ませてください。』
彼女があたりを見回すと、そこにはひとりの中年ほどのユダヤ人が座っておられました。主はまだ三十代そこそこでしたが、聖書は、主が五十歳ほどにも見えたことを示しています。彼らはこう言いました。『あなたはまだ五十にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか。』すると主は言われました。『アブラハムのある前から、わたしはあるのだ。』主はその働きのゆえに――その人としてのからだにおいて――いくぶん年老いて見えたに違いありません。」

74. すると主は言われました。『女よ、もしあなたが、だれと話しているのかを知っていたなら、あなたのほうでわたしに飲ませてくださいと願ったでしょう。そうすればわたしは、あなたに、あなたがここへ汲みに来る必要のない水を与えたでしょうに。』主は何をしておられたのでしょうか。彼女の霊に触れておられたのです。見ていてください。今、主はサマリヤ人にご自分を現そうとしておられるのです。
すると彼女は言いました。『あなたがたは“礼拝するのはエルサレムだ”と言い、私たちは“この山だ”と言っています。』
主は言われました。『この山でもなく、エルサレムでもなく、神を礼拝する時が来る。いや、今がその時なのだ。父は、霊と真理によって礼拝する者を求めておられる。』主は何をしておられたのでしょうか。彼女の霊を捉えておられたのです。」

75. 彼女は言いました。『私には夫はいません。』
主は言われました。『そのとおりだ。あなたには五人の夫があったが、今いっしょにいる男は、あなたの夫ではない。』
その時、彼女は立ち止まり、主を見つめました。さて、彼女はこうは言わなかったのです。『あなたはベルゼブルです、先生。あなたは占い師です。』いいえ。彼女は神について、ジェファーソンビルの牧師たちの半分よりも、なお深く知っていたのです。そのとおりです――しかも売春婦でありながら。彼女は言いました。『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。』見てください。『預言者』です。そしてその言葉をたどって行けば、それはモーセが来ると言った『あの預言者』に行き着くのです。『あなたがたの神、主は、わたしのようなひとりの預言者を起こされる。』彼女は言いました。『あなたは預言者だとお見受けします。』
彼女には、主がそれをほかのどんな方法でも知ることができないのが分かっていました。知るはずがなかったのです。それで彼女は言いました。『あなたは預言者だとお見受けします。』(では、ここをよく聞いてください。)『私たちサマリヤ人は、メシヤが来られる時には、このようなことを私たちに告げてくださることを知っています。』見えますか。彼らが待ち望んでいたしるしは何だったのでしょうか。メシヤのしるしです。『メシヤが来られる時には、このようなことを私たちに告げてくださるのです。では、あなたはどなたなのですか。』
すると主は言われました。『あなたに話しているこのわたしが、それである。』
その時、彼女は水がめを置いたまま町へ走って行き、こう言ったのです。『さあ来て、この人を見てください。私がして来たことを、みな言い当てた人です。この方こそメシヤではないでしょうか。』」

76. しかし今、異邦人時代の終わりがここに来ています。そしてロシア――共産主義者たち――は、それを終わらせるために、まさにあなたがたに向けて爆弾を向けています。心配するには及びません。それはやって来ます。聖書がそう言っているからです。それは、あなたがたの名がそこに記されているかのように、確実にやって来るのです。国全体が一秒のうちに粉々になってしまうでしょう。完全に滅ぼし尽くされるのです。」
少しブラナム兄弟らしい説教調を残すなら、こちらです。
「もしそれがあの時のメシヤのしるしであったなら、今日でもそれはメシヤのしるしでなければなりません。ここで覚えておいてください。その奇跡が異邦人の前で行われたことは、一度もありませんでした。それは禁じられていたのです。なぜか。異邦人には二千年にわたる“教会主義”の時代があったからです。
しかし今、異邦人時代の終わりがここに来ています。そしてロシア――共産主義者たち――は、それを終わらせるために、まさにあなたがたのほうへ爆弾を向けているのです。心配しなくてもよいのです。それは来ます。聖書がそう言っているからです。それは、あなたがたの名がそこに書かれているかのように、確実にやって来るのです。国全体が一秒のうちに粉々になるでしょう。完全な滅びです。」

77. もしそれがそんなにも間近に迫っているのなら、携挙はいったいどれほど近いのでしょうか。なおさらに近いのです。
ですから、なぜ私がこのように説教するのか、なぜ私ができる限り懸命に奮闘しているのか、なぜ神が選ばれた者たちにそれを強く押し込むようにしてでも、女の種を呼び出そうとしておられるのか、その理由がお分かりになるでしょう。そうして蛇の種が罰を受けるためです。まさにそのとおりです。それが、神がなさると約束されたことなのです。」

78. 主が昨日も今日も、いつまでも変わることのない方であるなら、最初になさったのと同じように、しるしと不思議をもって来られなければならないのです。私たちはその日に来ているのです。今まさに、ここにいるのです。聖書がそれを証しし、証人たちがそれを語り、御霊がそれを示し、科学さえもそれを証明しているのです。ああ、私に、それを人々の中へ押し込んででも見せる力があったなら、彼らにそれを見させることができるのに、と願います。」

79. では言ってみてください。『主はこう仰せられる』として語られたことで、正確に真実でなかったものが一度でもあったでしょうか。主がこれまでに語られたことで、外れたものが一つでもあったでしょうか。決してありません。それは真実です。そして今もなお真実であり、これからも常に真実なのです。」

80. さて、これから始めようと思いますが……ビリー・ポールはここにいませんでしたか。奥にいるのですか。こちらへ来るように言ってください。彼が配ったかどうか見たいのです……何の祈りのカードを配りましたか。Qですね。祈りのカードQです。ご自分の祈りのカードを見てください。Qの、1番から100番まであるはずです。
よろしい。一度に全員を前に出すことはできません。しかし、少しずつなら前に出すことができます。そうして最終的に全員をここへ上げるのです。一人ずつ前に来てもらい、全員のために祈りが終わるまで続けて行きたいのです。」

81. 私は皆さんをまた招きます。ネビル兄弟は勇敢な兵士です。彼は本当にキリストのしもべです。以前はメソジスト派の説教者であり、たしかアズベリーで学んだ人だったと思います。そして、神学者たちの教えること、神学校で教えられることを、十分に訓練され、経験して来ました。
けれども、ある日、彼は、自分には何か違うものが必要だと知る地点に来たのです。そして彼は一線を越えました。彼はここの牧師です。御霊に満たされた人であり、本当の説教者であり、本当の神学者です。
ですから私は、この町とこの地域の人々にお願いします。もしあなたがたに教会がなく、ほんとうの福音を聞きたいと願うなら、どうぞネビル兄弟の話を聞きに来てください。彼は、私が立っているのとまったく同じもののために立っている人です。まったくそのとおりです。本当に勇敢な兵士です。
ここにいる私たちは皆、ネビル兄弟を愛しています。彼は長い間、私たちと共にいてくれました。そして私たちは彼を愛しています。」

82. 私は、あなたがたがどの教会に属しているかなど問題にしません。そんなことは、何でもないのです……。
あなたがたはこう言うかもしれません。『では、メソジスト教会に行くのをやめろと言うのですか。』
『いいえ、決して。』
『バプテストはどうですか。』
『いいえ、決して。』あなたがたは、行きたいところへ行けばよいのです。神は、それらすべての教会の中にご自分の子どもたちを持っておられるのです。確かにそうです。そして、あなたもおそらくその一人でしょう。
そして私は、たとえあなたがブラナム・タバナクルの一員でなかったとしても、同じようにあなたを愛しています。私にとって、それは少しの違いにもなりません。そのことは、私のミニストリーによって、どこへ行ってもあなたがたの知っているとおりです。私は、神がご自分の子どもたちを、どんな看板を掲げていようとも愛しておられると信じています。問題は、あなたの心の中がどうであるかです。ただ私たちは、あなたをこの交わりへ招いているのです。どうぞ来てください。歓迎します。」

83. さて、町の外から来ている皆さん、私の言いたいことがお分かりでしょう。町の外から来た方で、私の集会に来たことがあり、そこで語られたことが、まさに言われたとおりに起こるのを見たことのある方は、ジェファーソンビルの人たちに向けて手を挙げてください。ほら。聖書はこう言っています。『二人または三人の証人の口によって、すべての言葉は確定される。』それは世界中でそうだったのです。
それなら、私たちはいったい何を待っているのでしょうか。私たちは、主イエスによって、すでにすべてをこの手の中に持っているのです。主はそれらすべてを、惜しみなく私たちに与えてくださったのです。」

84. 彼はこう言いました。以前は、それは心理的なものに過ぎないと思っていた、と。つまり、私が人の心を読んでいるのだと思っていたのです。しかし彼は言いました。『しかし、ブラナム氏、あのカメラの機械の目は、心理学を写し取ることはできません。』そしてこう言ったのです。『その光がレンズに当たったのです。』
私たちは、そのことがすべて書かれた書面を持っています。(それは写真と一緒に出されています。)その光が、レンズに当たったのです。」

85. そして、それはあの時語られたとおりのことをしたでしょうか。――すなわち、私が宣べ伝えることになるこのミニストリーが、キリストの再臨の直前に、世界中にリバイバルを起こすようになる、というあの言葉です。見てください。それが何をして来たかを。ほら、そこからオーラル・ロバーツをはじめ、これらの人たちが出て来たのです。ほら。そしてそれは世界中へ広がって行きました。あらゆる国へ、あらゆる民へ、あらゆる言語の中へ。リバイバルの火は燃えているのです。大いなる癒しの集会が行われています。ほら。
ですから、備えていてください。中にいる人も、外にいる人も、どこにいる人も、今夜キリストを受け入れてください。そうしてくださいますか。」

87. よろしい。2番の方、手を挙げてください。はい、こちらのずっと後ろに座っておられるご婦人ですね。はい、ご婦人、どうぞこちらへ出て来てください。皆さん、彼女が通れるように道をあけてあげてください。そこの若い人たち、案内係の方々が助けてくれるでしょう。」

88. さて、1番、2番……。3番を持っているのはどなたですか。手を挙げてください。3番、4番。ああ、それは本当にやさしいことですね、姉妹よ――そうしようとしていたあのご婦人がどなたであっても。分かりますね。でも、ほら、その人たちの番号が呼ばれたなら、その時に来ればよいのです。もし呼ばれなくても、私たちはちゃんとその人たちのことも見ますから。分かりますね。私たちは、あなたにもちゃんと順番があるように、あなたにはあなたの場所にいてほしいのです。お分かりですね。
では、3番、4番、5番。Qの5番、手を挙げてください。ずっと後ろの若いご婦人ですね。6番。はい、その若い男性です。7番。このすぐここにいる男性です。8番……」

89. この中にいる人は皆、前に来て祈ってもらいたいと思っているはずです。だれであっても、そう思う方は手を挙げてください。ほら、ご覧なさい。では、だれが最初に来るのですか。分かるでしょう。だれかが順番を取らなければならないのです。
ビリーがここへ下りて来て、あなたがたの前でこれらのカードを全部よく混ぜます。そして、祈りのカードを欲しい人にはだれにでも渡すのです。あなたが5番や6番を引くこともありますし、時には私たちは別のところから始めることもあります。どこから始めるかは、それほど問題ではありません。というのも、会衆の中にいる人たちのほうが、壇上にいる人たちより先に癒されることが、しばしばあるからです。それをご存じの方はどれほどおられますか。見知らぬ人であろうと、だれであろうと……。そうです、もちろんです。そんなことは少しも関係ないのです。」

90. では、9番。祈りのカード9番の方、手を挙げてください。外へ出ていて、入れなかったのかもしれません。もし入って来たら、その人を列に入れてください。
10番の方、手を挙げてください。ずっと後ろにおられるその男性ですね。どうぞ来てください。あなたが呼ばれて、後ろで立っておられるのを見られてうれしいです。手足がつっていて……。
10番、11番。祈りのカードQの11番を持っている方は、どなたでも手を挙げてください。はい、11番。12番、Qの12番、ずっと……はい。12番、13番。13番の方、どうか手を挙げてください。こちらから見えるようにです。祈りのカード13番、Qの13番です。14番、14番、15番……。
ビリー、何枚カードを配りましたか。100枚ですか。13番、14番、15番がいません。祈りのカード13番、14番、15番の方はおられますか。15番、16番、17番、18番、19番、20番。
最初はQで、そのあとJになって、それからそのまま順に呼んで行きます。たぶん、まずこちらを先に通そうとしているのでしょう。これを呼び終えたら、そのあとは、来るままにほかの人たちにも進んでもらいましょう。」

91. では、Qの15番、16番、17番、18番、19番、20番を持っているのはどなたですか。21番、22番、23番、24番、25番の方々も、この列が終わり次第すぐに動けるよう、どうぞ準備していてください。今ここにはすでに列がいっぱいできていますから、それが済み次第、すぐにそちらへ移ります。そのまま列を順に下って行き、それから残りのカード、つまり途中でやめたJのカードへ飛んで、最後までそのまま続けて行きます。
さて、ほんのしばらくの間、どうか本当に静かにしていてください。座る場所がもっとあればよいのですが。何とかそうできる方法があればと思うのですが、今はそれがありません。しかし……」

92. ですから今、どうか本当に敬虔でいてください。本当に静かにしてください。歩き回ったりしないでください。そして、この中で祈りのカードを持っていないけれども、それでも祈ってもらいたいと思っている方はどれほどおられますか。手を挙げてください。まあ、あちらこちらにおられますね。
では、祈りのカードを持っていない方々に、聖書の言葉を少しお示ししたいと思います。」

93. するとイエスは立ち止まって、こう言われました。『だれがわたしに触れたのか。』
するとペテロは主をたしなめて、こう言いました。『みんながあなたに触っているではありませんか。なのに、なぜ“だれがわたしに触れたのか”などと言われるのですか。』
しかし主は言われました。『わたしは弱くなった。力がわたしから出て行ったのだ。』見てください。それが人にどう作用するかを。幻です――『わたしは弱くなった。力がわたしから出て行ったのだ。』
そして主は、その女を見つけるまで会衆の中を見回されました。彼女は恐れていました。自分は何か悪いことをしてしまったのではないかと思ったのです。しかし主は彼女を見つめ、その血の漏れのことを告げて、こう言われました。『あなたの信仰があなたを救ったのです。』
それが真実であることを知っている方はどれほどおられますか。」

94. それをご存じの方は、どれくらいおられますか。
では、もし主が、私たちの弱さの感情に触れられることのできる大祭司であられるなら、昨日も今日も、いつまでも変わることのない方である以上、今どのように振る舞われるでしょうか。
主は、あの時と同じように行動されなければなりません。
そのとおりでしょうか。
さて今、主はもはや肉体の体を持っておられるのではありません。
その体は神の右におられるからです。
しかし主は、御自身が働かれるための私たちの体を持っておられます。
そして、主が言われたように、その御霊が私たちを通して働いておられるのです。
「わたしはあなたがたと共におり、あなたがたの内にいる。わたしのしているわざを、あなたがたもするようになる。これより大いなることをするようになる。わたしが父のみもとに行くからである。」
主は、いわば私たちの立場に立ってくださるのです。
お分かりでしょう。
しかし主は、御霊によって私たちに油を注いでくださるのです。

95. こう言ってください。
「主イエスよ、あなたは大祭司であり、今この建物の中にいてくださいます。そして私は、自分の弱さをもってあなたに触れたいのです。」
主にこう申し上げてください。
「私は病んでいます。どうかそのことを私に確認してください。そして、あなたの御霊によってブラナム兄弟を振り向かせ、あの女の人に語られたように、私にも語ってください。そうしていただければ、それで十分です。」
私は主の御名によって、あなたがたの信仰に、それをするよう挑みます。
さて、それが本当かどうか見てみなさい。
神にそのように求めてみて、それがまさにその通りになるかどうか、見てみなさい。
ですから、どうか本当に敬虔でいてください。

96. さて、ここには大勢の方々がおられます。私たちは、できるだけ人々を遠ざけるようにしているのです――ジェファソンヴィルの人たちを、ということですが――ただ…町の外から来た人たちが、入ろうとして押しかけて来るのです。
なぜなら、この種の列では、もしその人たちがこのジェファソンヴィル近辺の人であれば、こう言うでしょうから。
「なあんだ、ブラナム兄弟はあの人たちを知っているじゃないか。そういうことだよ。」しかしもちろん、その人たちは、アフリカやインドやアジアやヨーロッパ、また世界中のほかの場所でのことを見たことがないのです。
しかし私は、その…知っているわけではありません…。

97. 私にとって見知らぬ方であるなら、手を挙げてください。
よろしい、それで結構です。
では、会衆席におられる方々の中で、私にとって見知らぬ方、あるいは、あなたのどこが悪いのか私が知らないと分かっておられる方は、どれくらいおられますか――誰であっても構いません。
もちろん、皆さんそうご存じでしょう。
しかし、主はご存じです。
さて、私は主がそうしてくださるとは言いません。
けれども、もしそうしてくださるなら、それは主がまさにここに臨在しておられるということになります。
さて、ここにおられるこの男性は、たしか自分と私は互いに見知らぬ者同士だと示して、手を挙げられたと思います。
私たちは見知らぬ者同士です。
私はこの人を生まれて一度も見たことがありません。
そしてこの人も、たった今まで、生まれて一度も私を見たことがありませんでした。
私たちはこの建物に入って来て、今、初めて互いに顔を合わせたのです。

98. もちろん、この人がナタナエルだとか、私がイエスだとか、そういうことではありません。
どうかそんなふうには思わないでください。
しかし、それはあの時に与えられた約束によって、何年も後になって起きていることなのです。
そしてここにいるのは、生まれて一度も会ったことのない二人の人間であり、ちょうどあの時のその二人もそうであったのと同じです。
そしてもしイエスが昨日も今日も、いつまでも変わることのない方であるなら、この人は信仰によって自分の霊を委ねることができ、私もまた信仰によって、自分の霊をキリストに委ねることができます。
そうすれば、聖霊の神聖な賜物によって、同じ奇跡が行われ得るのです。
そのとおりでしょうか。
そしてそれは超自然的なことです。
「奇跡ですって?」
そう言われるかもしれません。
しかし、もし私がこの人を一度も見たことがないのなら、どうしてそれが分かるでしょうか。
ご覧なさい、これが私の手です。
私たちはこれまで一度も会ったことがありません。
こうして今、初めてここに立っているのです。
神はこの人をご存じです。
しかし、私は知りません。
ですから、どうか忘れないでください。私のために祈っていてください。
さて、こうした集会の中では時として……
御霊が油を注がれる時、そして最近それがあまりにも頻繁に起きているので、少し……ええ、とにかく、皆さんには静かに座っていていただきたいのです。
本当に敬虔でいてください。よく見ていてください。そして祈っていてください。

99. けれども、それが何であれ、もし主イエスが、あなたが自分で何も言わなくても、あなたが主に何を求めているのかを私に告げてくださるなら、それは主が、私の言ったとおりの方――昨日も今日も、いつまでも変わることのない方――であることを示すことになります。
あなたはそれを信じますか。
よろしい。
この方はそれを信じています。
そして今、会衆もそれを信じています。
しかも主は、聖書の中で、そうすると言っておられるのです。
さて、ここで私は、神の聖書によって真実を語っている者であるか、あるいは聖書が裏づけることのできない約束をしていることになるか、さもなければ私が偽善者であるか、そのどちらかです。
どちらか一方です。
そういうことです。
私が自分をどこに置いているか、お分かりでしょう。
私はこれを以前にも、幾千、幾万という人々の前でしてきました。
批評家たちの前でも同じです。
しかし私は、主が約束しておられることを知っていますし、主はその約束を守られるのです。
ほら、今まさにここで、それが始まりかけているのが見えます。
あなたの周りに、壇上にいる人々が見えます。
そして野外集会では、私たちの周りに誰もいないのです。
お分かりでしょう。
ここには病んでいる人々がいます。
始まりかけるやいなや、それを感じることができます。
それは聖霊です。
ですから今は、本当に敬虔でいてください。
ただ敬虔に。
では、このままお話ししていきましょう。

100. そして、私たちがこうして会うのは今回が初めてです……。
もしあなたに必要があるなら、神はその必要を満たすことがおできになります。
なぜなら、主はそうすると約束してくださったからです。
しかしこの方は、もし心において正直な人であるなら、今、何かが起きていることに気づいているはずです。
ただ、それが何であるのかを、はっきりとは説明できないだけです。
しかし、あなたが写真の中で見たあの御使いが、その人にますます近づいて来ており、そして私は、その人が私から遠のいていくように見えています。
そしてその人は心臓の病で苦しんでおり、さらに糖尿病を患っています。
そのとおりです。
これが「御霊がこう言われていること」なのです。
もしそれがそのとおりなら、手を挙げてください。

101. 何らかの形で、あの時に主が知っておられたのと同じように、ということです。
そのとおりでしょうか。
会衆の皆さんも、それを信じますか。
さて、これはただの当てずっぽうではなかった、ということが皆さんに分かるように、
少しだけ時間を取ってみましょう。
もう一つ別のことを取り上げて、聖霊がさらに何かを私たちに示してくださるかどうか、見てみましょう。
そこに立っておられるこの方と、ほんの少し話してみましょう。
この方の人生の中に、ほかにも何かあるのかもしれないし、あるいは別の悪いところがあるのかもしれません。
私は知りません。
本当に、私には分からないのです。
自分が何を言ったのかさえ、実はよく分かっていません。
後でここにある録音機で確かめなければなりません。
なぜなら、それは幻だからです。
ほら、その人がどこにいたかが見えるのです。
ああ、今見えます。血液に関する何かです。
糖です。
そうです、糖尿病です。
この方は糖尿病を患っており、それが進んで心臓の病にまでなっています。そしてそれが神経性の心臓の不調を引き起こしています。
この状態は、もうしばらく前から続いています。
そしてこの方はこの町の出身ではありません。インディアナ州から来ています。ある場所……ボーデンというような名前の場所の近くです。
ボーデンが見えます。
あなたはボーデンの方です。
これが「主が仰せになられていること」なのです

102. ほかにももう一つあります。
幻の中に一人の女性が現れているのが見えます。なぜなら、あなたは……それはあなたの奥さんだからです。そして奥さんも癒しを必要としています。
奥さんは、何か咳のようなものに苦しんでいます……。
喘息です。奥さんは喘息を患っています。
そして、あなた自身の生活の中にも、何とかしようとしていることがあります。
信仰の面では、あなたはペンテコステ派の方です。なぜなら、叫び声を上げ、手をたたいているペンテコステの集会が見えるからです。
そして、あなたはやめようとしていることがあります……。
あなたはたばこを吸っています。
あなたが断とうとしているのは、それです。
紙巻たばこを吸うことです。
まさにそのとおりです。
これが「主がこのように言われる」です。
それは真実でしょう。
あなたは、主が今ここにいてくださること、臨在しておられることを信じますか。
あなたは自分の癒しを受け入れる用意ができていますか。
では、頭を垂れましょう。
主なる神よ、今ここに臨在しておられるイエス・キリストをよみがえらせてくださった神よ、この人がここにいるのは、神の祝福が彼の上にとどまるためです。どうか彼の心の願いを与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
家に帰ってください。そして、あなたが信じたとおりになっているのを見いだしなさい。
そのようになるのです。
神の祝福がありますように。

103. この聖書を書かれた全能の神、その御霊が今ここに臨在しておられます。
そして、私がこの男性を、生まれてこのかた、少なくとも自分の知る限りでは、たった今この瞬間まで一度も見たことがなかったということを、神は知っておられます。
しかし、私には一つ分かっていることがあります。聖霊が、まさにここにおられるということです。
主が何をなさるかは分かりません。
けれども、主がここにおられることは分かっています。
この方がそのご婦人ですか。
よろしい。
私たちはお互いに見知らぬ者同士ですか。
あなたは集会で私を見たことはある。
しかし私はあなたを知りません。
そのとおりです。
よろしい。
では、あなたがここに来ておられるのには、何か理由があるわけです。
さて、この女性はここに来ていて……
あるいは、クリスチャンかもしれませんし、そうでないかもしれません。
批判的な人かもしれません。
もしそうなら、何が起きるか、よく見ていてください。
そして私は、この方が何のために来ているのか知りません。

104. 私がそのかわいそうな母を傷つけようとしているとでも思いますか。
私が人を欺く者として母の前に立つとでも思いますか。
そんなことは決してありません。そんなことをするくらいなら、私はこのまま壇を降りて家に帰るほうがましです。私はすでにメッセージを語ってきました。
しかし、メッセージにはそれだけでは終わらないものが伴うのです。
キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。
世がそれについて何と言おうと、そんなことは関係ありません。
とにかく私たちは、そのために立たなければならないのです。
神がそうしなさいと言われたからです。

105. しかし今ここにあるのは、ヨハネによる福音書4章の光景です。
一人の男と一人の女が、初めて出会う場面です。
すなわち、私たちの主とサマリヤの女とが出会った、あの時と同じです。
さて、主は彼女と語られました。
主は彼女の霊に触れ、何が彼女の問題であるかを知り、それを彼女に告げられました。
そして彼女は、主がメシヤであることを悟ったのです。
あなたも同じように受け取ってくださいますか。
あなたなら、そうしてくださるでしょう。
そして会衆の皆さんも、同じようにしてくださいますか――そこにおられるすべての女性の方々も。
神がそれをかなえてくださいますように。

106. それは長いこと、もう何年も前から続いています。
まだ若いころの彼女の姿が見えます。
しかし、彼女が私に祈ってほしいと願っている主なことは、それではありません。
彼女を不自由にしているのは関節炎です。
あなたが私に祈ってほしいと願っているのは、そのことです。
さて、信じますか。
この方ともう少し話してみましょう。
聖霊がこれをかなえてくださいますように。
この女性は、実際には外国系の血筋の方です。
名前はハンセンです。
そのとおりです。
ノルウェー系か、あるいはスウェーデン系、そのどちらかです。
あなたはこの町の出身ではありません。
カントンという所の方です。
そしてそこは、大きな国の中にあり、麦がたくさん実る所です。
それはミネソタ州です。
あなたはそこから来られました。
そのとおりです。
さあ、家に帰りなさい。あなたは癒されました。
イエス・キリストがあなたを良くしてくださいます。
主があなたにしてくださった良いことを、人々に語ってあげなさい。

107. 私はあなたを知りません。
しかし主は、あなたをご存じです。
あなたがここにおられるのには、何か理由があるのでしょうが、私はそれを知りません。
けれども、もし主イエスが、あなたがここに来ている理由を私に明らかにしてくださるなら、それが真実かどうかは、あなた自身が分かるはずです。
もし私がここに来て、
「あなたは病んでいますよ、ご婦人」
と言ったとしても、もちろん、あなたは祈りの列に立っているのですから、それだけであなたが……。
この文はここで切れているので、最後はおそらく
「何か必要がある人だと分かる」
という方向に続く言い回しです。
自然につなぐなら、こういう感じです。
もし私がここで『あなたは病気です、ご婦人』と言ったとしても、それは当然のことです。あなたが祈りの列に立っているのを見れば、あなたに何か必要があるのは分かるのですから……。

108. 医者は、それを肝硬変だと言いました。
そのとおりです。
(この方と少し話してみましょう。)
井戸のところでサマリヤの女に語られた主イエスが、今日も同じイエスであられると信じますか。
信じますか。
そうですか。
とても良い霊を持っておられるようです。
あなたはこの辺りの方ではありません。
東の方から来られました。オハイオ州からです。
そのとおりです。
デイトン、オハイオから、ここに来られました。
そのとおりです。
ああ、見えます……。あなたはほかの誰かのためにも祈っています。
それは男の子です。
その子は心臓の病を持っています。
そしてまた、潰瘍もあります――神経質なタイプの男の子です。
そのとおりです。
そしてあなたは、その子の魂のためにも祈っています。
なぜなら、その子はまだ救われていないからです。
これが「主がこのように言われる」です。
それは本当でしょう。
[それは私の息子です。]
あなたは癒されました。どうぞそのまま帰って行きなさい。
息子さんに、勇気を出すように伝えてください。イエス・キリストが……
最後は文が途中で切れているので、自然につなぐなら、
「イエス・キリストが彼を助けてくださいます」
あるいは
「イエス・キリストがその子にも働いてくださいます」
という流れです。

109. あなたのことは何も知りません。
しかし神は、あなたをご存じです。
もし神が、あなたのどこが悪いのかを私に告げてくださるなら、あなたは、私が神のしもべとして、ただ神を立証しているのだと信じますか。
ほら、私がしたいのは、祈りの列に上がって来るこれらの人々に、主がここにおられるのだということを分かってもらうことなのです。
集会の中で何かが起こりました。
眼鏡をかけた二人の女性が、そこに立っています。
誰かが、自分の弱さをもって主に触れたのです。
その女性が見えさえすれば……。
あなたの耳の不調は、もうなくなりました。
あのご婦人をご覧なさい。
どれほどこの方によく似ていることでしょう。
その二人はそこに立っていました。
私は二人とも見えていました。
けれども、一人はこうしていて、こちらの方には何もなかったのです。
その理由は、この女性が自分自身のためではなく、ほかの誰かのために立っているからです。
そのとおりです。
そしてその女性は、あなたの隣人です。
その人は関節炎を患っていて、あなたはその人のために立っているのです。
そして、あなたがその人のために祈っているのが見えます。
なぜなら、その人はまだ救われていないので、あなたはその人のために祈っているのです。
それは立派なことです。
今あなたの手に持っているそのハンカチを、その人に当ててあげなさい。
そして、その人に、疑わず、自分の人生をキリストに明け渡すように伝えなさい。
そうすれば、その人の関節炎は去ります。

110. 神を信じますか。
私が神のしもべであると信じますか。
神が、あなたが何のことで泣いているのか、またあなたの願いが何であるのかを、私に知らせることがおできになると信じますか。
もしそう信じるなら、手を挙げてください。
そのヘルニアが彼から去ると信じますか。
もし信じるなら、それは去ります。
ただ信仰を持ちなさい。
疑ってはいけません。
こんにちは。
どうやら私たちはお互いに見知らぬ者同士のようですね。
主イエスは、私たち二人のことを共によくご存じです。
あなたはとてもしっかりした若い女性です。
しかし、あなたは自分自身のためにここに来ているのではありません。
病院が見えます――ベッドが見えます。
あなたが祈っているのは、あなたのお母さんのためです。
そしてお母さんには、死の影が差しています。
お母さんは胆のうを患っており、腫瘍があります。
それだけでなく……
がんもあります。
がんの黒い影が見えます。
今、あなたが涙を流しながら持っているそのハンカチを取り、それをお母さんの上に置いてあげなさい。
そして主の御名を呼び求め、疑ってはいけません。
もし疑わないなら、神はお母さんをそこから救い出し、良くしてくださいます。
今、疑ってはいけません。
主の御名によって行きなさい。そして主を信じなさい。

111. 何かが……
ああ、あそこ後ろの席に座っている女性です。
その方は頭痛で苦しんでいて、そこでその子の世話をしながら、主に祈っていました。
主はあなたの祈りを聞いてくださいましたよ、姉妹。
もうすっかり終わりました。
ご婦人、立ち上がって、そのことで神をほめたたえなさい。
ただ神に賛美をささげなさい。
ほら、彼女は何に触れたのでしょうか。
彼女は私に触れたのではありません。
彼女はあの大祭司に触れたのです。
私はその女性を知りません。
生まれてこのかた、一度も見たことがありません。
しかし神は、たった今、彼女を癒されたのです。
それで、イエスが昨日も今日も、いつまでも変わることのない方であることになりませんか。
もちろん、なります。
「もし信じることができるなら、信じる者にはすべてのことが可能である」のです。
それが会衆の中に当たるのです。
誰かが祈っているのです。
ほら、それはどこで力が強く働いているかにかかっているのです。
御霊が……
私はただ従うことしかできません。そして主が言われるとおりに語るだけです。
私には分かりません。
泣きながら眼鏡をかけておられるその女性は何でしょう。
彼女が泣いていたのは、御霊が彼女の上にあるからです。
ほら、そこです。
あなたがこれまで苦しんできたその腸の不調は、信仰を持ちなさい、そうすれば去って、二度と戻って来ません。
私はその女性を知りません。
これまで一度も見たことがありません。
彼女は私に触れたのではありません。
彼女は大祭司に触れたのです。
「もし信じることができるなら。」

112. 見たい方は、どうぞこちらをご覧ください。
泣いているその女性を見てください。
その隣で普通に座っている別の女性を見てください。
そして、そのまた隣で泣いている別の女性を見てください。
その方は心臓の病を持っていました。
そこに座っている小柄なご婦人、しかめたような顔で私を見ておられるあなたです……。
ええ、そのとおりです。
あなたは心臓の病を持っていましたね。
それは、もうあなたから去りました。
あなたの信仰が神に向かって火花を放ち、あなたは主に触れたのです。
ああ、これはなんとすばらしいことでしょう。
ほら、そこに頭を垂れて祈っている女性が見えるでしょう。
白髪の女性です。
私には見知らぬ方が、そこに座っています。
ええ、あなたは振り向いてその女性を見ました。
その方は胆のうの病を持っています。
神がそれを取り去ってくださるようにと祈っていました。
そして、その時こう祈っていました。
「主よ、あの人に私を呼ばせてください。」
そのとおりです。
もしそれがそのとおりなら、手を挙げてください。
どうして私があなたの祈りを知ることができたのでしょうか。
それはもう、あなたから去りました。
あなたの信仰があなたを癒したのです。
家に帰って、健やかでいなさい。
信じますか。
もし信じることができるなら、すべてのことは可能です。
しかし、あなたは信じなければなりません。

113. ちょうどここ、端から二人目の方、高血圧です。
もし心から信じるなら、姉妹よ、もう終わりました。
神を信じますか。
主の御言葉をそのまま受け取りますか。
よろしい。
手を挙げてください。
あなたが祈っていたのは、そのことでした。
「主よ、この高血圧のことで、次は私を呼ばせてください。」
そう祈っていたのです。
私はあなたにとって見知らぬ者です。
もしそれがそのとおりなら、手を振ってください。
よろしい。
それはもうあなたから去りました。
家に帰って、健やかでいなさい。
何であるか、お分かりですか。
それは信仰です。
もしあなたがそれを信じることができるなら、です。
信じますか。
あそこにいるあの人たちを見てください。
祈りのカードも何も持っていません。
あなたがたは信じる用意ができていますか。
主イエスが地上におられた時も、そのようにされたのではありませんか。
さて。
こちらへ。この方ですか……この男性が来られたのですか。
よろしい。
皆さん、それがあなたがたに、またブラナム・タバナクルに、どれほどのことをもたらすか分からないでしょう。
さあ、ここを見てください。
この手の上をご覧なさい。
ねえ。
あなたがたも、私が普段こういうふうにはならないことを知っているでしょう。
これは何でしょうか。
主の御霊です。
油注ぎです。
多くの人は、「油注ぎ」というものが何を意味するのか分かっていません。
それは叫ぶことだと思っています。
それは喜びです。
力は、厳かなうちに来るのです。
それが主の喜びです。
しかし、こちらは主の力です。
癒しが人を健やかにするのです。
この前の晩、足の不自由だったあの小さな女の子に、それがどんなことをしたか見てください。
あの盲目の男性にも、ほかの人々にも、
あらゆる所で、同じようになされたのです。

114. 私たちはお互いを知りません。私はあなたを知りませんし、あなたも私を知りませんね。もしそのとおりなら、手を挙げてください。
よろしい。私たちが会うのは今回が初めてです。
今は敬虔にいてください。ここにこの男性がいます。そして彼と私は……彼は私よりもずっと若い方です。
私たちは神の前に向かって互いに手を挙げ、これが初めての出会いであることを示しています。
イエスはこの男性をご存じです。
そして、彼がそこに立っている以上、何か問題があるに違いありません。
しかし私は知りません。
けれども、もし私が真実を語ってきたのであり、しかも神が多くの証人によって、私があなたがたに真実を語ってきたことを確認してくださったのなら、
あなたがたは、主の打たれた傷によってすでに癒されたのです。
それは過去形なのです。
あなたがたは、こうしたものを乗り越えていくための、あの揺るがぬ信仰を持たなければなりません。
今夜ここで、がんが消えていくのを見てください。
そのことについての証しが次々に届くのを、あなたがたは見ることになるでしょう。
あの黒い影は死を表しています。
あなたの愛する医師は、あなたの命を救うためにできる限りのことをしてくれたかもしれません。
しかし、神が何かを言われるなら、それで決まりなのです。
それは私ではありません。
私はそれに何の関わりもありません。
さて、ここには祈ってもらうために、およそ二百人ほどいます。
ですから今、少しだけ休ませてください。
それから、人々のために祈り始めましょう。
その人たちをこちらに連れて来てください。
ただ列の中をどんどん通すのではなく、
ここに立って、一人一人のために祈るようにしましょう。
祈ってほしいと願うすべての人のために、私は祈りたいのです。
しかし会衆の中でも、この壇上でも、あなたがたには、イエス・キリストがここにおられることを認めていただきたいのです。
皆さん、それを自覚していますか。
皆さん一人一人が、それを自覚しているのです。

115. ここにいるこの男性と私は、神に向かって手を挙げています。
私たちが会うのは今回が初めてです。
もし主が、井戸端の女に対してなさったように、あるいはピリポに対してなさったように、またそのご自身の働きの中で何度もなさったように、この人の心の秘密を語ってくださるなら……それによって、それがまさに主イエスご自身であることが、あなたがた皆に確認されるでしょうか。
あなたにとってもそうですか、ご主人。
私は、あなたのどこが悪いのか知るすべがありません。
まったく見当もつきません。
あなたが罪人なのか、クリスチャンなのかさえ、私には分かりません。
私には、それを言うことはできません。
主はご存じです。神はご存じです。
しかし、私には分かりません。
けれども、もし主が私に告げてくださるなら……。
しかし、あなたはクリスチャンです。
なぜなら、あなたの霊が、私の上にあるこの御霊の油注ぎに触れた瞬間、それを歓迎したからです。
ですから、私はあなたがクリスチャンであると分かるのです。
そしてあなたは、深い影の下にあります。
それは血液に関する何かの異常です。
そして、あなたは医者たちのもとへ行きました。
すると彼らは、手術をしたいと思っています。
その手術は……。
今、その声が聞こえます。
二人の医者が互いに相談していて、あなたの体の中から一つの臓器を取り出したいと考えています。
それは脾臓と呼ばれるものです。
そのとおりです。
そして、あなたはこの町の人ではありません。
しかし、あなたは大きな町から来ています。
そこには、ある種の宗教に関する大きな機関があります。
それはウィートンです。
そして、あなたの名前はカール・ローズです。
カール・ローズ、そんな名前です。
よろしいです、ご主人。
もし心から信じるなら、あなたは家に帰ることができます。そして神はあなたの命を助けてくださいます。
それを信じますか。
では、祈りましょう。
主イエスよ、今、私はこの悪を私たちの兄弟から追い払います。
そしてイエス・キリストの御名によって、彼が神の栄光のために生きることができますように。アーメン。
神の祝福がありますように、兄弟。
喜びつつ、その道を行きなさい。

116. では、祈ってもらうのはこの方たちで全部ですか。
よろしい。
では、あなたの腰の痛みは、そこに座っている間に去りました。
ですから、そのまま喜びながら帰って行ってよいのです。
「良い主に感謝します」と言いながら進んで行きなさい。
あなたは夕食を食べに行きなさい。
列に入って来る間に、あなたの胃の不調は去りました。
ですから、そのまま行ってよいのです……。
ただ心から信じなさい。
あなたの関節炎も、もし信じるなら、もうあなたを悩ませません。
どうかそのまま喜びつつ、神を賛美しながら進んで行きなさい。
よろしい。
心から信じますか。
神を信じる方はどれくらいいますか。
さて、私はここにちょっとだけ進み出て……。