イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事のない方

Jesus Christ The Same Yesterday, Today, And Forever

イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事のない方

サウスベンド インディアナ州 アメリカ合衆国

説教番号: 58-0207

日付: 1958年2月7日(58-0207)

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1. 祝福に満ちた父よ、私たちは今夜、この偉大なサウスベンドの町にいることを、まことに特権として感謝いたします。そして、それ以上に大きな特権は、今夜、あなたの血によって買い取られたこの人々と共に集められていることです。
どうか、あなたの御臨在の大いなる訪れをもって、私たちを訪れてください。そして今夜、私たち皆を、神を意識する者とならせてください。あなたがいつも近くにおられることを、心に覚えさせてください。
この教会の牧師を祝福してください。また働き人たち、共に働く者たち、訪問者たち、そして今夜ここに集められているすべての人々を祝福してください。
病の者が癒されますように。後戻りした者が、今夜ふたたび家へ帰る道を見いだしますように。まだ救われていない者が救われますように。
どうか、ご自身に栄光をお受けください。
イエスの御名によってお願いいたします。アーメン。
お座りください。

2. それは、ある幕屋でのことでした。私はたしか、ミシガン州のダワジャックあたりから下って来ていました。そこはこの近くです。古い友人のところに行って、釣りをしていたのです。そして通りかかった時に、この大きな集会を見かけて、立ち寄りました。
皆さんの多くは、私の生涯の証しを読んでくださっていると思いますが、私はその当時、まだ若いバプテストの伝道者でした。そして、ペンテコステ派の集会に入ったのは初めてで、彼らが手を叩いたり、会堂中を走り回ったりしているのを聞き、また見たのです。
私は思いました。
「ああ、なんという教会での振る舞いだろう。」
ところが後になって分かったのです。私は自分でも知らないうちに、その一人だったのです。まるで手にぴったり合う手袋のように、私はそこにぴったり合っていたのです。

3. 私はその大会全体の中で、下から二番目に若い伝道者でした。ただ一晩、彼らと一緒に集まっていただけでした。すると、その黒人の青年が言いました。人々はずっと、私がどこにいるのか尋ねていたのです。
私は小さなTシャツを着て、薄いしじら織りのようなズボンをはいていました。ご存じの通り、それは大恐慌の時代でしたから、誰も私を伝道者だとは思いませんでした。それで私は、ただ本当に静かに座っていたのです。
すると、その黒人の青年が言いました。
「彼が誰だか知っていますか?」
私は言いました。
「はい、知っています。」
すると彼は言いました。
「では、行って彼を連れて来なさい。」
私は言いました。
「見てください。私がその者です。でも、それを言わないでください、分かりますか。」
すると彼は言いました。
「ここにいます。この人です。」
私は、自分の説教題を決して忘れることがありません。私は「そして彼は黄泉で目を上げた」という題で、あの金持ちについて説教しました。
そして私は言いました。
「彼が叫んだ理由は、そこには神がおられなかったからです。それで彼は叫んだのです。」
また私は言いました。
「そこには子どもたちもいませんでした。それで彼は叫んだのです。そこには説教者もいませんでした。それで彼は叫んだのです。」
それから、私も泣きました。
そうして私は、御霊の中で完全に巻き込まれてしまいました。そしてその時、自分が彼らの一人であったことを知ったのです。

4. さて、数週間前のことです。私はシカゴの美しいレストラン……いえ、レストランではなく、シカゴのマリン・ガーデンズで朝食を取っていました。その時、皆さんの尊敬すべき牧師先生の隣に座るという特権にあずかりました。
彼らが私をその方に紹介してくれました。私は以前にも彼をお見かけしたことがありました。そして、私たちは話し始めました。
彼は私に、こちらへ来るよう招いてくださいました。そしてこう言われたのです。私の個人秘書であるムーア兄弟が、いつか彼が自分の所へ来てくれるなら、私たちはこちらへ来ると伝えていた、ということでした。ところが、ムーア兄弟はサマロール兄弟との約束を果たしていなかったのです。
私は言いました。
「では、私はあなたを訪問する義務がありますね。」
そして言いました。
「これまであまりにも多くの場所があり、予定がとても詰まっていますので……三晩ほどでもよろしいでしょうか。」
すると彼は言いました。
「何でも結構です。」
それで、私たちはこうしてここにいるのです。
ひとつ申し上げたいことがあります。彼がここに座っておられるから言うのではありません。しかし、私は本当にここに来られて嬉しく思っています。そして、このような霊がこの場所にある理由がよく分かります。
私は、これから行く先々で、多くの人々に彼のことを話してきました。
しかし、皆さんの牧師先生について、こう申し上げたいのです。彼が去った後に花輪を捧げるより、今、小さな薔薇のつぼみを差し上げたいのです。
私は、サマロール兄弟について悪く言う人を、まだ一人として聞いたことがありません。その誠実さ、そして何と素晴らしい方であることか。私は、彼が本当の説教者であることを知っています。なぜなら、あの朝、彼の話を聞いたからです。
明日の午後には、このあたりにいる私の人々も皆、この午後の集会で彼の話を聞くために集まって来ます。皆さんも、ここにいて彼の話を聞くことを、きっと喜ばれることでしょう。

5. 主は何年も前に、神の病める子どもたちのために祈るよう、私を召してくださいました。そして私は、それを敬虔な心で行おうとしているのです。
ですが、私は自分を癒し主だとは主張しません。誰かがそれを聞いているなら、私は癒し主ではありません。私は人々を癒すなどとは言いません。率直に言って、私は人を癒すことのできる者がいるとは信じていません。なぜなら、それは神の御業であり、しかも神はすでにそれを成し遂げておられるからです。分かりますね。
その打たれた傷によって、私たちは癒されたのです。御子がカルバリで、私たちの咎のために傷つけられた時、その打ち傷によって私たちは癒されたのです。過去形です。
ですから、人々はしばしば「神の癒し」について語ります。しかし、癒しで神によらないものなどありません。癒しは神から来るものだけです。それ以外の癒しはありません。神の癒し以外にはないのです。
薬が、どんな症例であれ、それ自体で癒したことは一度もありません。手術が、それ自体で癒したことも一度もありません。分かりますね。
手術は助けです。薬も助けです。そして私たちは、それらを良いものだと思っています。私たちに与えられているすべての助けのゆえに、神に感謝します。しかし、癒し主は神なのです。分かりますね。
詩篇103篇3節には、こうあります。
「わたしは、あなたのすべての病を癒す主である。」

6. 私はただ、御言葉を信じています。それは神のご計画です。私は、聖書が教えている以上のものを欲しいとは思いません。しかし、聖書が教えているものは、すべて欲しいのです。私はそのすべてを欲しています。ですから、それは神の御言葉なのです。それは必ず成就しなければなりません。
さて、神はご自身の御言葉に書かれていないこともなさることがおできになる、ということを私は知っています。神は神です。ご自分の望まれることは何でもおできになります。
けれども、それが御言葉から出ていると分かる時、私には、すべてが大丈夫だという確かな安心が与えられるのです。私はそれが本当に好きなのです。
さて、私たちは今夜、主が私たちを祝福してくださるよう願っています。
そして、神の癒しについて、もう一言だけ申し上げます。私は、皆さんのお医者さんの代わりになるために来たのではありません。分かりますね。いいえ。
私が来たのは、このためです。神の子どものために祈るためです。その人は医者の患者であり、私の兄弟であり姉妹です。私はそのために来たのです。分かりますね。
そして今、このことの中で、肉体の癒しについて語る時、実に多くのことが見えてきます。人々の動機や目的が、しばしばひどく混乱し、間違っているように見えるのです。

7. 「あの外科医のところへ行ってはいけません。彼はただの肉切り職人です。あなたを切り刻むだけです。骨切り屋ですよ。」
すると今度は外科医が、その内科医についてこう言い返すでしょう。
「あなたに必要なのは砂糖玉ではありません。手術が必要なのです。」
そして、彼らは二人とも言うでしょう。
「あのカイロプラクターとは一切関わってはいけません。」
分かりますね。
「それはただの心理的なもの、気のせいにすぎません。」
するとカイロプラクターは整骨医に向かって言うでしょう。
「あなたに必要なのは骨の調整であって、筋肉を揉むことではありません。」
そして彼らは皆、説教者には反対するのです。
そういうわけです。
しかし、私が思うに、そこにある動機と目的が正しくないのです。分かりますね。

8. もしすべてが正しく、人が正しい動機と正しい目的を持ってそれに向かっているなら、私はこう思います。私たち一人ひとりが、手術が良い働きをすることを知っています。薬も良い働きをします。聖書もそう言っています。
そして、カイロプラクティックや整骨のようなものも、多くの場合、人々の助けになることを私たちは知っています。それは良い助けであり、支えなのです。
ですから、私たちがすべきことは、一人ひとりが手を取り合い、心を合わせて前進することです。そして、この人生の旅路にある私たちの人々のために、できる限りのことをして、人生を少しでも心地よいものにすることです。互いに助け合い、この旅路を歩んでいる一人ひとりの益となり、生活を少しでも良くするために、私たちにできるすべてをすることです。
私がここに来ているのは、その目的のためです。それを行おうとしているのです。皆さんの医者と手を取り合い、カイロプラクターと、外科医と、牧師と、隣人と、すべての人と手を取り合って、人生をほんの少しでも良くするためなのです。

9. ただ三晩だけの、ほんの小さな交わりです。少し互いに知り合うための時です。私はずっと、ここに来たいと願っていました。
そして、もしかすると後になって、主のみこころなら、暖かい季節に何かできるかもしれません。このあたりのどこかに大きなテントを張って、時間をかけた良いリバイバル集会を持つこともできるでしょう。
さて、このことにおいては、新しい種類の働きを持って来て、それをたった三晩で紹介しようとするのは、なかなか難しいことです。本当のところ、人々にそれが御言葉であると分かっていただくには、その紹介だけで三晩かかってもよいくらいなのです。

10. そして、来てすぐ第一夜から人々のために祈り始めようとすると、それは難しくなります。ですから、私がお願いしたいのは、皆さんの信頼です。
私が実際に近づいて行って、手を置くことで接する人は、ごくわずかです。私の働きは、それが中心ではありません。もちろん、手を置く働きが偉大な働きであることは、私たちも分かっています。
しかし、手を置く働きは、ユダヤ人へのしるしでした。ご存じのように、ヤイロは言いました。
「来て、私の娘の上に手を置いてください。そうすれば娘は生きます。」
しかし、ローマの百人隊長は言いました。
「ただ御言葉をお語りください。」
それだけでした。異邦人ですね。分かりますか。
「ただ御言葉をお語りください。」
イエスは振り向いて言われました。
「わたしは、イスラエルの中にも、このような信仰を見たことがない。」
分かりますね。
「ただ御言葉をお語りください。」
なぜでしょうか。ここをよく心に留めてください。そのローマ人は、すべての病と疾患が、主の御言葉に従うものであることを知っていたのです。
さて、あなたも同じことを悟ることができるなら、それで終わりです。分かりますね。
すべての悪霊、すべての病、すべての疾患、すべての苦しみが、神の御言葉に従うものであると悟ることができる時――
「ただ御言葉をお語りください。そうすれば、私のしもべはよくなります。私は、あなたを私の屋根の下にお迎えする資格のない者です。」

11. けれども、その中で、人々が主イエスを愛するようになるために、この働きを届けようとしているのです。神が皆さんと共におられますように。そして神が皆さんを助け、私たち皆を助けてくださり、私たちがここに来てあがめようとしているお方を、今、共にあがめることができますように。
今夜、少しの間、神の御言葉から読みたいと思います。新しい集会で、こうして入って来て、最初は少し緊張するものです。分かりますね。私は世界中で何度も多くの集会を持ってきましたが、それでも、何かに向き合う時には、そこにある神聖さを感じるものです。神がそれを遣わされたのです。サタンは、どこかに少しでも欠けたところがないかと、いつも探しているのです。
さて、もし人々がまだ御言葉にしっかり縫い付けられていないなら、たとえ口に出して言わなくても、口に出す必要はありません。神は、それが心の中にある時にご存じです。すると、あなたはそれを感じるのです。分かりますね。
しかし今、もしあなたが……もし私が何かをするのを見て、あるいは聖霊が何かをなさるのを見て、それが聖書の中にないものであるなら、どうか私たちに知らせてください。分かりますね。

12. ある晩、そこで伝道者たちの朝食会がありましたが、そこにはかなり硬い霊がありました。彼らは、どうもそれをつかむことができないようでした。長老派、ルーテル派、そのほかの人々の間でのことでしたが、とても硬い霊でした。
私はそのことで、ただ打ち砕かれるような思いでした。主は大いなることをなさっておられたのに、人々はただ座っているだけだったからです。彼らの思いの中にあるものが、分かるのです。分かりますね。何であるか、何を考えているのかが。
そして、それは実に難しいものにしてしまうのです。もし彼らが皆、あなたと共におらず、一つ所で、心を一つにしていないなら。分かりますね。

13. それでこちらにおられるベイル博士の方を見ました。彼は、女性がパイプオルガンの空気の流れを逆にしてしまったのか、何かそういうことかと思ったようでした。それはどこか遠くから雷鳴が響いて来るような音でした。雷がとどろきながら近づいて来るような音だったのです。
ビリーは飛び上がりました。そして私は、こちらにいるマーシェ兄弟の方を見ました。彼は録音係の青年で、ゴード兄弟や私の息子たちと一緒に、祈りのカードを配っている人です。彼は自分が何かしてしまったのかと思ったのです。そして、私が彼を見たのを見ました。彼は、心臓が止まりそうだったと言っていました。何が起こっているのか分からなかったのです。
すると突然、それが建物の中をまっすぐ通って来ました。風のように来たのですが、実際には風ではありませんでした。風のようなうなりであり、建物を揺さぶるようにして降り、会衆の上へ出て行ったのです。
そして、それが会衆の上を波のように通って行く時、人々の顔が青ざめていくのが見えました。まさにペンテコステの再現のようでした。激しい大風のような響きのようでした。
しかし、それは風ではありませんでした。ただ、そのような感化、影響のようなものが、さっと出て行ったのです。
そして私は、聖書にこう書かれていることに気づきました。
「天から、激しい大風が吹いて来るような響きが起こった。」
分かりますね。
それで私は確認し始めました。なぜなら、聖霊は決して無秩序なことをなさらないと知っているからです。聖霊はいつも正しいのです。
ですから私は、それを御言葉と照らし合わせ始めました。すると私は、ヨハネによる福音書十二章に目を向けました。そこでは、ある時、私たちの主が祈っておられました。そして主が祈っておられた時、周りには主を批判する者たちもいましたが、天の神が御子に答えて語られたのです。
そばに立っていた人々は、それを雷が鳴ったのだと言いました。また、ある人々は御使いが語ったのだと言いました。
しかしイエスは言われました。
「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。」
分かりますね。
ですから、主はいつでも、必ず聖書にあっているのです。

14. そして、もし皆さんが祈りの中で、自分の持っているものをすべてそこに注ぎ、それを支えてくださるなら、私たちは……主がすべての病める者、苦しむ者を癒してくださると信じています。そして、素晴らしい集会となるでしょう。
ヨハネによる福音書12章20節からです。少しよく知られた箇所です。
さて、祭りで礼拝するために上って来た人々の中に、あるギリシヤ人たちがいた。
彼らはガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、願って言った。
「先生、私たちはイエスにお目にかかりたいのです。」
そして本文として、通常この伝道集会の主題としているのは、ヘブル人への手紙13章8節です。
「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。」
さて、この御言葉に基づいて、少しの間、皆さんにお話ししたいと思います。
創造主の御言葉に対して、誰かが、あるいはこの世が疑問を投げかけるというのは、実に尋常ではないことです。しかしそれは、この世が不信仰に支配され、敵の霊どもに支配されているために、人々が信じられないようにされているからなのです。

15. 私は多くの外国で説教する特権にあずかってきました。そして、大勢の人々が福音を聞くために集まって来ました。しかし、私の人生の中で、イエスについて聞いていながら、その方にお会いしたいと願わなかった人を、私は一人も見たことがありません。
人間には、何かそのようなものがあるのです。まるで、ミズーリ州の古い標語のようです。
「見ることは信じることだ。」そして私たちは、視覚という感覚に非常に頼っています。五つの感覚が身体を支配していますが、その中で視覚は、魂への門なのです。
プロテスタントの人々がそれを知らないのは残念なことです。カトリックはずっと以前からそれを捉えていて、聖人たちの小さな像や記念物などを用いてきました。
しかし、目、すなわち魂への門……。

16. 彼らは言いました。
「先生、私たちはイエスにお目にかかりたいのです。」
さて、彼らは主の御業を見たいと願ったのではありません。ただ、イエスにお目にかかりたいと願ったのです。
そして、ヘブル人への手紙13章8節は――「もし」ではありません、それは真実なのです――
「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。」
であるなら、主が同じお方である以上、私たちも今日、彼らがその時に見たのと同じように、主を見ることができるはずです。
さて、聖書が、主は昨日も今日も、いつまでも変わることのない方であると言っているなら、主は原則においても同じでなければなりません。力においても同じであり、行動においても同じであり、動機と目的においても同じでなければなりません。
主はあらゆる点において同じでなければならないのです。ただ一つ、肉体としての身体だけは別です。

17. そしてこの身体は、贖いのためにカルバリで死に渡されました。そこにおいて、主は私たちの咎のために傷つけられたのです。その打ち傷によって、私たちは癒されました。
そして神は、三日目にその身体をよみがえらせ、再び生かされました。そして今夜、そのお方は栄光のうちに神の右に座しておられ、私たちの告白に基づいて、とりなしをしておられます。
主は私たちの大祭司です。私たちが告白するところにおいて、主は私たちのためにとりなしてくださるのです。
そして、カルバリにおける完全に十分な犠牲の中で主がなされたこと、贖いの中で主が成し遂げられたこと、そのすべてについて、主は私たちがそれを信仰によって受け取り、求めることができるように、代価を払ってくださいました。
そして主は、私たちが「主がそれを成し遂げてくださった」と告白するそのことに基づいて、父の御前でとりなしをしておられるのです。

18. もし聖書が、
「その打ち傷によって、私たちは癒された」
と言っているなら、それを告白するとは、同じことを告白することです。
「その打ち傷によって、私は癒されました。その打ち傷によって、私は癒されています。主は私たちの咎のために傷つけられ、その打ち傷によって、私たちは癒されました。」
さて、その肉体としての身体において、主が神の右に座しておられた後……聖霊が地上に送り返されました。キリストの霊が、教会のうちに住むために送られたのです。
皆さんはそれを信じますか。
私たちはキリストの教会です。では、私たちはどのようにして教会に入るのでしょうか。教派によってではありません。他のどんな方法によってでもありません。ただ霊的なバプテスマによってです。コリント人への第一の手紙十二章です。
一つの御霊によって、私たちは皆、一つのからだへとバプテスマを受けたのです。
水のバプテスマによってではなく、霊的なバプテスマによってです。私たちは霊的なバプテスマによって、キリストのからだの中へ導き入れられ、そのからだの肢体となるのです。

19. 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
さて、ぶどうの木そのものが実を結ぶのではありません。ぶどうの木はただ、枝にいのちを送り、力づけるのです。そして枝が実を結びます。
教会は、そのぶどうの木につながれた枝であり、実を結ぶためにあるのです。分かりますか。そして枝は、ぶどうの木によっていのちを受け、力づけられなければ、実を結ぶことはできません。
そして、ぶどうの木の中にどのようないのちがあるかによって、枝は、そのいのちの源から受けているいのちに従った実を結ぶのです。
それがかぼちゃなら、かぼちゃを結びます。
それがすいかなら、すいかを結びます。
それがぶどうの木なら、ぶどうを結びます。
そして、もし教会がキリストのうちにあるなら、キリストに似た霊、キリストに似たわざ、キリストに似た信仰を結ぶのです。
もしそれが正しくつながれているなら、つまり、切り離されてぶら下がっているのでもなく、枯れかけているのでもない、健全な良い枝であるなら、まことに健やかな良い枝としてぶどうの木につながれているなら、その枝は御霊の実を結ぶのです。
私たちは、それが真実であることを知っています。

20. 「わたしのしているわざを、あなたがたも行うようになる。」
また主は言われました。
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる。」
ここで言う「世」とは、「この世の秩序」のことです。
「世はもうわたしを見なくなる。しかし、あなたがたはわたしを見る。」
「あなたがた」とは信じる者のことです。「世」とは信じない者のことです。
「なぜなら、わたしは」――この「わたし」は人格を表す代名詞です――「わたしはあなたがたと共にいる。」
どれほど長くでしょうか。
「世の終わりまで。」
私、すなわちキリストが、ご自身の教会の中におられ、その教会にいのちを与え、力づけておられるのです。そして、主が地上におられた時になさったのと同じことを、今ももたらしておられるのです。
過ぎ去ったすべての時代において主がそうなさったように、今夜も主はご自身の教会の中におられ、同じことをなさるのです。
実に残念なことに、私たちは線を引き、垣根を作り、いろいろな小さな感覚や主義に捕らわれてしまいました。ただ神が真理だと言われたことを受け取ればよかったのです。
その通りです。

21. 覚えておいてください。主がユダヤ人に現れた時、弟子たちにこう言われました。
「異邦人のところへ行ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」
そして私たちは、イエスご自身が異邦人の前でご自身を現されたり、異邦人にご自身を示されたりはなさらなかったことを見いだします。また、その時点では、ご自身の教会を異邦人のもとへ遣わすこともなさいませんでした。
しかし、それは後に来ることになっていたのです。福音は後に、異邦人に宣べ伝えられることになっていました。パウロは、ユダヤ人たちに何度も拒まれた後で言いました。
「見よ、私たちは異邦人の方へ向かう。」
さて、主が昨日どのようなお方であったのか、その現れを見ることによって、主が今日どのようなお方であるかを知るためには……もし主が、昨日と同じように今日も同じお方であるなら、その現れも同じでなければなりません。
これは、通常の神学校的な流れからすると、少し変わって聞こえるかもしれません。しかし結局のところ、イエスはこう言われたのです。
「わたしのしているわざを、その人も行うようになる。」
これはヨハネによる福音書、たしか十四章七節だったと思います。
「わたしのしているわざを、その人も行うようになる。さらに大いなる……」
正しい訳は「より多くの」です。質において、それ以上に大いなることをすることはできません。量において、より大いなるのです。質においてではありません。
主は死人をよみがえらせ、自然を静め、実にすべてのことをなさいました。ですから、それは「これより多くの同じわざ」という意味です。なぜなら、その時には聖霊が、全世界にわたって教会を通して働かれるからです。
「あなたがたは、同じわざをさらに多く行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。そして、わたしは再び来て、あなたがたと共に、あなたがたの内にいる。」

22. もし今夜、私が長老派の皆さんに、
「あなたがたはこれを信じますか。」
と言うなら、
「はい、信じます。」
と答えるでしょう。
メソジスト、ペンテコステ派、その他の皆さんも、それぞれ信じるでしょう。そして、自分の教会がそれを行っていると思うでしょう。ええ、それでよいのです。私もそう信じます。
私は、どの教派に属しているからといって、誰かの神への信仰を軽んじるつもりはありません。なぜなら、キリストは人をかたより見るお方ではなく、教派によって分け隔てなさるお方でもないからです。主は、ご自身を礼拝する者を求めておられるのです。
しかし今、考えてみましょう。
ペンテコステ派、フル・ゴスペル、ナザレン、ピルグリム・ホーリネス、メソジスト、バプテスト、その他すべての人々にとって、このことについて本当に正しい姿を得る唯一の方法は、もしイエスが昨日も今日も、いつまでも変わることのない方であるなら、まず戻って、主が昨日どのようなお方であったかを確かめることです。
そうすれば、主が永遠にどのようなお方であり、また今日どのようなお方であるかが分かります。
過ぎ去った日々において、主がどのようなお方であったのかを見いだしましょう。

23. まず、少し引用するために、ヨハネによる福音書から始めましょう。聖霊が主の上に来られ、神が主のうちに住まわれた後のことを見ていきます。
そして、イエスはご自分を癒し主だとは主張されませんでした。それを知っている人はどれくらいいますか。確かに、主はそうはされませんでした。
イエスは言われました。
「子は、自分からは何もすることができない。」
また、
「わざを行っているのはわたしではない。わたしのうちに住んでおられる父であり、その父がわざを行っておられるのです。」
そして主は言われました。
「子は、自分からは何もすることができない。」
ヨハネによる福音書五章十九節です。
「ただ、父がなさるのを見ること、そのことを子も同じように行うのです。」
さて、これは真実でしょうか。神の御子が偽りを言うことができるでしょうか。いいえ、決してできません。これは真実です。
そうであるなら、イエスは、神がまず何をすべきかをお示しにならない限り、一つの奇跡も行われなかったのです。そうでなければ、主はヨハネ五章十九節で間違ったことを言われたことになります。
さて、人々はいつも心の中で、神の預言者たちやキリストが、癒したいと思った所で誰でも癒していたのだと思ってきました。いいえ、決してそうではありません。それは人間の肉に与えられたものでは一度もありませんでした。
預言者たちを試してみてください。カルメル山のエリヤを見てください。彼がそれらすべてを整えた時、彼は言いました。
「主よ、私はあなたの御命令によって、これを行いました。」
すべては、神が動かれ、ご自身のみこころと、何をすべきかを示しておられたのです。

24. 覚えておいてください。キリストは、量りなく御霊を持っておられました。私たちは量りに従って持っています。今夜、教会の中にある賜物は、主の偉大な御霊に比べれば、ほんのわずかなものにすぎません。それは、偉大な大海からすくい取った一杯の水のようなものです。
けれども、もし大海から一杯の水をすくい取り、それを実験室に持って行って調べるなら、その海の中にあるすべての成分が、その一杯の水の中にも表されているでしょう。
それは同じ種類の水です。ただ、量が違うだけなのです。

25. 主の弟子たちは、てんかんの症例において完全に敗れていました。その少し前に、主は彼らに、悪霊を追い出し、病人を癒し、死人をよみがえらせる力をお与えになっていました。それにもかかわらず、彼らはてんかんの症例でまったく敗れてしまったのです。
その父親は言いました。
「私はこの子をあなたの弟子たちのところに連れて来ましたが、彼らは癒すことができませんでした。」
そして彼は言いました。
「主よ、もしおできになるなら、私たちを憐れんでください。」
イエスは言われました。
「その子をここへ連れて来なさい。あなたが信じるなら、わたしにはできる。」
そして、その霊が神のその偉大な力を見た時、弟子たちの中に見いだした一杯の水ほどのものよりも、はるかに大きなものがそこにあることを知ったのです。そしてもちろん、その霊は打ち破られました。
その霊は、おそらくその子がこれまで経験した中で最も激しい発作を起こさせ、地面に転げ回らせました。それでも、イエスが言われた時、
「彼を起こして、何か食べ物を与えなさい。彼は大丈夫です。」
さて、一章の中で、ひとりの人が回心し、自分の友人であり兄弟であるペテロ――アンデレを連れて来たことを見いだします。
そしてペテロが主イエスのところに来た時……よく注意して見てください。ヨハネによる福音書一章です。ペテロがイエスのところに来た時、イエスは彼を知っておられただけではありません。彼の父が誰であるかも知っておられました。
イエスは言われました。
「あなたはシモンである。しかし、あなたはペテロと呼ばれるようになる。」
それは「小さな石」という意味です。
そして主は言われました。
「あなたの父の名はヨナである。」
聖書はそう言っています。主はペテロを知っておられ、彼の名を知っておられ、さらに彼の父の名までも知っておられたのです。

26. 当時とまったく同じです。テレパシーか何かだと言うでしょう。
それから、その少し後の箇所に、ピリポという名の人がいました。彼は回心しました。それで彼は出かけて行きます。彼は、ペテロとその兄弟アンデレと同じ町の出身でした。そして山を回って行き、良い友人であるピリポ……いえ、ナタナエルを見つけました。彼はナタナエルを見つけたのです。
ナタナエルは、おそらく祈っていたのでしょう、木の下にいました。ピリポがそこへ来た時、彼を見つけたのです。
そして注目してください。ナタナエルが膝から立ち上がった時、私はピリポがナタナエルにこう言うのが聞こえるようです。
「来て、私たちが見つけた方を見てください。」
そこには、何か特別なものがあります。真の回心が、何か本物を見つけ、そのことによって変えられたなら、その人はそれを自分だけのものにしておくことはできません。誰かほかの人に、それを語らずにはいられないのです。

27. 彼は言いました。
「来て、私たちが見つけた方を見てください。ナザレのイエス、ヨセフの子です。」
言い換えるなら、預言者たちが語っていたそのお方です。
「私たちはその方を見つけたのです。」
さて、この正統派の信仰者にとって、それがどれほどの衝撃だったか想像できますか。私は、彼が身を起こし、膝についたほこりを払いながら、こう言う姿が見えるようです。
「ナザレから、何か良いものが出ることがあり得ようか。」
今日なら、人々はこう言うでしょう。
「あの聖霊派の人たちの中から、何か良いものが出ることがあるのか。あんな集団から、何か良いものが出ることがあるのか。」
そして私は、ピリポが人として答え得る最高の答えをしたと思います。
彼は言いました。
「来て、見なさい。」
それが最も説得力のあることです。
「来て、見なさい。」

28. ナタナエルが「“さあ、ちょっと待ってください」と言うのが想像できました。どんな深いところでやってしまったの?どうしたの?私がそんなことを信じることを期待していますか?”
“そしてナタナエル、さあ、来て、自分の目で確かめてください。”
それで、私たちの主が列に並んで、おそらく病人のために祈っていたとき、ここでフィリポがナタナエルと一緒にやって来ました。そして、私たちの主の目が彼に降りかかるとすぐに、彼は言った、「“見よ、悪意のないイスラエル人よ。”」

29. 彼は言いました、「“ラビ、いつ私を知りましたか?」 初めてのお会いです。なぜあなたは私を見たことがないのですか。あなたは私のことを何も知りません。そして、私が正直で公正な人間であることをどうして知ることができたのでしょうか?”
イエスは言いました。“フィリポがあなたを呼ぶ前に、あなたが木の下にいたとき、私はあなたを見ました。”
それが聖書であることを知っている人は何人いますか?確かにそうです。それが昨日のイエスでした。もし彼が今日同じなら、彼も同じことをしなければなりません。
そしてもちろん、当時は不信者たちが立っていました。そして、マークの記録があります。そして不信心なユダヤ人たちは。… さて、フィリップは何と言ったでしょうか。..それとも、ナタナエル、それとも?彼は言いました。“ラビよ、あなたは神の子です。” 彼らはそのようなものを探していたに違いありません。“あなたはイスラエルの王です。”
そしてイエスは言われた、「“私があなたにそう言ったから、あなたは信じますか?」 そうすれば、これよりも大きなものを見ることができます。”

30. そこで彼は言いました。“彼はベルゼブブです。” そして彼らはそれを声に出して言いませんでした。
しかし、イエスは彼らの考えを認識されました。それは聖書が言ったことです。そう思ったユダヤ人のグループに彼は何と言ったでしょうか?言った、“人の子に対して、それは赦されるであろうことを言いなさい。” しかし、よく聞いてください、“聖霊が来られるとき、”(言い換えれば、同じことをすること)、“それに対する一言も、この世でも来世でも決して許されません。” 聖書にそう書かれていることを知っている人は何人いるでしょうか?本当だ。
信者がそれを受け入れました。今夜、彼の名前は永遠に消えるだろう。それを信じなかった不信者がいました、そしてあなたは彼らに何が起こったのか知っています。さて、もしそれが昨日のイエスの態度だったら、今日も同じでなければならず、永遠に同じでなければなりません。さて、彼はそうしませんでした。。 それによって彼らは信じたのです。さあ、見てください。まさにそれが神がユダヤ人にご自身を紹介した方法です。

31. そして、彼らがいない間に、間違いなく、美しい見た目の若いサマリア人の女性が水を取りに出てきました。まあ、それは彼女が一晩中外出していたか何かだったのかもしれませんが、彼女はそのとき出てきただけです。
そして、ここにあるような小さなパノラマ、その周りに生えている蔓。イエスは壁に向かって座っている彼女を見つめました。もしあなたが東洋に行ったことがあり、彼らがどのようにして井戸に来るかを見たことがあるなら。.. そして彼は言いました、「“女よ、飲み物を持ってきてください。」”
なぜかというと、当時ユダヤ人とサマリア人の間には隔離があったのです。そして彼女は言いました。“ユダヤ人がサマリア人にそんなことを尋ねるのは習慣ではないのです。” 言った、“私たちはお互いに取引がありません。”
そして彼は言いました、「“でも、誰と話しているのか知っていたら、私に飲み物を頼むでしょう。」 そして、あなたがここに描くために来ない水を持ってきます。”

32. しばらくして、彼は彼女の問題がどこにあるのかを見つけました。そして彼は言いました。「“行って、夫を連れてここに来なさい。」” 彼女にはトラブルがあった。
彼女は言いました。“先生、私には夫がいません。”
彼は言いました、“そうです。あなたには5人いますが、今いるのは夫ではありません。よく言ったね。”
女性を見てください。This is not a Jew now; this is a Samaritan。これは今ユダヤ人ではない;これはサマリア人だ。彼女は彼を見た。そして彼女は言いました、「“先生、私はあなたが預言者であることを認識しています。」。メシアが来ると、私たちにすべてのことを語ってくださることを私たちは知っています。”
彼は言いました。“私はあなたと話す神です。”
彼らが何を探していたか見てください。彼らはメシアのしるしであるそのしるしを探していました。イエスはユダヤ人より先にそれをしました。真のユダヤ人は言いました。“あなたは神の子です。”
そして今、サマリア人の女性を見てください。彼女は言いました。“さて、私たちはこれをするために来るメシアを探していますが、あなたは誰ですか?”
彼は言いました。“私はあなたと話す神です。”
彼女は水鍋を出て街に駆け込み、「“さあ、私がしたことを教えてくれた男に会いに来てください」と言いました。これがメシアではないのか?”

33. 私はディスペンセーション主義者ではありませんが、聖書は異邦人が終焉を迎えたと語っています。聖書を手に取る必要のない人は、新聞を買ってラジオをつけてください。最後に私たちがどこにいるかわかります。我々には希望がない。
教会はもうすぐ家に帰り、世界は再び塵と化すでしょう。まさに神が言われた通りのことが起こるでしょう。彼女は太陽の周りの軌道から、そこに揺れるでしょう。今度は、前回軌道から離れて水で破壊されたかのように燃えます。終わりだ。そして、私たち異邦人は、学位やあらゆるものを持って歩き回り、自分は誰かだと思い込んでいて、自分の日々が終わりに近づいていることを知らないのです。

34. 慈悲は常に裁きの前に呼びます。We must have mercy give to us first; and if we spurn mercy, there's nothing left but judgment。私たちは慈悲を最初に私たちに与えなければなりません。私たちはそれを自分たちで持ち込みます。それが昨日のメシアでした。

35. すみません、怒鳴るつもりはありません。ただ、誰がそれをコントロールしているかは。..
…神の衣服の縁に触れてください。彼女は本当に信じていた。そして彼女は群衆の中を通り抜け、神の衣服に触れました。そして彼女は、おそらくこの規模の人々の群衆の中に戻りました。そして彼女が群衆の中に戻ると、イエスは立ち止まって言われた、「“誰が私に触れたのか?”」
そしてペテロは彼を叱責して言った、「“主よ、まあ、誰もがあなたに触れています。」”
彼は言いました。“しかし、私は自分が弱いと感じています。” あるいは、ジェームズ王はこう言いました。“美徳。” 神から美徳が消え去った。それは神を弱めた強さを意味する。
“私は自分が弱くなったと認識しています。美徳は私から消え去った。” 彼は周りを見回した。何だったんだ?その女性は神に触れたのです。そしてイエスは、彼女が聴衆の中に立っていたり座っていたりしているのを見つけるまで見つめ、彼女の信仰が彼女を元気にしてくれたと彼女に説明しました。

36. あなたは言います、“ブランハム兄弟、新約聖書にはそう書かれていますか?” 絶対に。新約聖書にはこうあります。“彼は私たちの弱さを感じることで感動できる大祭司です。” もし彼が向きを変えなかったら、どうしてあなたが彼に触れたとわかるでしょうか?
彼はどのように働いていますか?枝を通して。当時主蔓を通して行ったように、神は枝を通して働き、今日では教会を通して働きます。彼は教会に、この問題を解決するために用意した素晴らしい贈り物をたくさん持っています。確かに。私たちに秘密を明らかにし、神の知恵を私たちに落とし込み、何をすべきか、どのようにすべきかを教えてくれます。
神は、イスラム教徒や仏陀の宗教のような、ある種の信条の宣言ではありません。神は生ける神であり、死んではいませんが、ガリラヤを歩いたときと同じように今夜生きています—教会に住んでいるように。そして、もし神が同じように行動しないなら、あなたは間違ったことをしていることになります。聖書にはこう書かれているからです。“彼は同じです。そして、わたしが行う業は、あなたがたにも行うであろう。”

37. わかりますか、神は時代を超えて常に神の癒しのための資源を持っていました。そして神はこの池に天使を送り、水を荒らされました。多くの人が狂信者とみなされていました。歴史家たちは、その水が荒れていたとき、その水に入ろうとしてお互いを刺したと語っています。
一方、批判的な人々はこう言いました “ああ、水の中に入ってください、しかし風が壁に当たり、水が吹き飛ばされます。あのプールに歩いて行ったことはありますか?古い場所はまだそこにあります。そして言いました。”それは単に風向きが変わっただけです。“
しかし、信じた人々にとって、それは天使でした。そして聖書はそれが天使であると宣言しています。だから結局彼らは間違っていなかったのです。しかし、彼らは介入するでしょう、信仰を持った最初の人は介入すれば癒されるでしょう。

38. さて、北部の皆さんがパレットが何であるかを知っているかどうかはわかりません。私は一つで育てられました。パレットが何であるかを知っている人は何人いますか?さて、皆さんはケンタッキー州のどの地域の出身ですか?パレット。ああ、古いわら枕の上にドアのところに横たわること。それが何なのか知っているかどうかはわかりません。古いダニにわらを詰めてパレットに横たわらせました。

39. 彼は歩くことができた。彼には見えた。彼は話すことができた。彼は食べることができた。しかし、神の子がそれらの人々全員の周りを歩き回り、彼のところに行ったのは奇妙です。ああ、彼は父に対してとても従順でした。“私は自分自身では何もしないということ。”
知らせ。そして、彼がこの男に言ったように、“あなたは完全にされますか?”
彼は言いました。“水辺まで手伝ってくれる人がいません。”
彼は言いました。“ベッドに上がって家に入りなさい。”

40. したがって、イエスは次のことを言われました。“私が行う業はあなたにも行われます。しばらくすると、世界はもはや私を見なくなりますが、それでもあなたは私を見るでしょう、なぜなら私はあなたと一緒にいるからです。” そして、“I” は再び代名詞、または人称代名詞です。“…あなたと一緒にいてください。” ある場所でイエスはこう言われました。“あなたの中にも世の果てまで。”
それでは、キリストが来られたなら。… もし時間があれば。… あなたは言います、“ブランハム兄弟、時代を超えて。” そうだね。使徒の時代から歴史の中でそれを見つける場所はありません。なぜ?これが異邦人へのメッセージの最後の締めくくりです。

41. 私がよく言ってきたように、もしこの世代の人々、この傲慢なアメリカ、私たち全員が国民であるならば、もしアメリカが神の裁きを逃れるならば、神はソドムとゴモラを育て、彼らを焼き払ったことについて彼らに謝罪しなければならないでしょう(そうです)。彼はただの神だ。正直な神だ。そして神は、ご自分の子供たちをすべて同じように扱います。なぜなら、彼らは皆、神の創造物の生き物だからです。
そしてここは異邦人の時代の終わりです。私たちは終わりにいます。キリストは当時と同じようにご自身を現し、生きていることを証明し、死ななかったことを証明しますが、キリストは永遠に生きて、働き通せる器の中でご自身を現します。

42. わかりませんか、神はご自分の人を連れて行きますが、決して御霊は連れて行かれません。御霊はエリヤの上にありました。エリシャの上に来てください。洗礼者ヨハネの上に。そして多くの場合、主の霊は、それを持っている人がいなくなるまで知られていません。 そんなこと考えたことある?神は正しい。
ちょっと時間を取って、預言者を過ぎ去った時代の中に入れてみましょう。彼らはそれを認識しませんでした。そして今夜ここにいる皆さん、認識してください。ああ、神様、彼らの理解の目を開いてください。終了時間です。
彼らは洗礼者ヨハネが死んで埋葬されるまで、彼が誰なのか知りませんでした。弟子たちでさえ、「“なぜ預言者たちは、最初にエリヤが来なければならないと言うのですか?」と言いました
イエスは言いました。“彼はすでに来ていますが、あなたは彼を知りませんでした。” それから彼らは、イエスがヨハネについて話したことを知りました。

43. そして、あなたたちカトリック教徒にとって、あなたはジャンヌ・ダルクが誰なのか、幻視を見て霊的な女性だったあの小さな女性を知りませんでした。カトリック教会は彼女を魔女のように火あぶりにした。そして200年後。..あるいは数年後、彼らが彼女が聖人であることに気づいた後、司祭の遺体を掘り起こし、悔い改めをするために川に投げ込みました。
そして、生ける神の霊が今日全地を動いていますが、人々はそれが何なのか知りません。しかし、神は公正です。彼は何かを宣言するために御霊を送ります。私たちはでんぷん質に座って心をかたくなにし、無関心です。では、判断以外に私たちに何が残っているのでしょうか?キリストは御言葉に対する義務を負っていますが、それは御言葉以上のものではありません。彼には御言葉に従う義務があります。

44. 今夜、私がここの壇上に立っていて、私の後ろには私の知っている本物の学者が 2 人、そのうち 3 人いることに気づきました。そして、それ以上のものがあると思います。でも、一つ聞きたいことがあります。
旧約聖書では、彼らは預言者が真実を語ったのか、それとも夢想家が真実を語ったのかを知る方法を持っていました。それがウリム・トンミムでした。そして私たちはそれがアロンの胸当てだったと信じています。
そして預言者が預言していたとき、もしそれらの光の集合体が連携してその大きな輝かしい光を作ったとしたら、預言者は真実を語っていたことになります。それがうまくいかなかったとしたら、預言者は真実を語っていなかったことになります。

45. そしてどうだった?それは超自然的な反射でした。男が話すと、どうやってさまざまな石がその虹色を発散させるのでしょうか?預言者が預言しているときだけ、どうやってそれを行うのでしょうか?もし彼が偽りだったら、それは休眠状態になるだろう。彼の言葉は戻ってこなかった。しかし、もし彼が真実であれば、その預言者が真実を語っていることを人々が知るであろうという超自然的な兆候を認識し、発しました。
神の言葉が何かを預言し、神が超自然的なものを取り上げてそれが真実であることを証明するなら、それはウリム・トンミムです。それを受け取り、神を信じる時が来ました。

46. ここにいる何人が手を挙げて、こう言うでしょうか。“ブランハム兄弟、それは私を困惑させるかもしれませんが、神がそうするなら、それが真実であることがわかるでしょう。なぜなら、御言葉がそう言っているからです。” やりますか?手を挙げて言ってみる?素晴らしい。それはよかった。ご清聴ありがとうございました。
さて、今、私の立場がわかりますか?次に行動するのは神次第です。そうでない場合、御言葉はそうではないことを宣言し、私は偽りの言葉の偽りの証人を見つけました。[テープ上の空白部分。]

47. しかし、私たちアメリカ人はこう言います、“まあ、それは何か間違っているかもしれません。フィリップ・ジョーンズ博士か何かでしょうか…。 彼が私に、これはテレパシーがたっぷりあると言っているのをご存知でしょう。” ああ、友達、心を開いてください。祈って言ってください、“神よ” 会議中のあなたは、“神よ、私に話しかけてください、と言ってください。知らせてください、主よ。この最後の日にあなたの慈悲を楽しませてください。”
終わりの時だから。壁に手書きの文字があります。空にスプートニクがあるのがわかります。私たちは今、世界が本当に揺さぶられていることを知っています。そして、何でも起こり得る。そしてイエスは何と言われたのでしょうか?“天と地にはしるしがあるでしょう。” イエスは、「“人の子がご自身を明らかにするとき」と言われました。” 彼は今、教会に慈悲を与え、拒絶した世界に裁きを与えています。さあ、祈りましょう。

48. そして、主よ、あなたのしもべは非常に貧しく、その仕事に非常に適任ではありませんが、主よ、誰が適任であるかを彼らに知らせてください?どんな定命の者が存在するでしょうか、どんな時間の生き物でしょうか?しかし、主よ、それらのことを行い、現れるのは私たちではなく、聖霊です。
さて、主よ、今夜この教会には多くの人が座っています。偉大な人々が説教し、マイクを通して偉大な声が届けられたこの説教壇に立って、多くの人がこの時間が来ることを予言しました。
そして主よ、あなたが今夜、これほど大きなほとばしりを込めてイエスを遣わしてくださるよう祈ります。そうすれば、私たちの中に弱者が一人も残らず、罪人がキリストのもとに来て、足の不自由な人々が歩き、目が見えず、病気になることができるようになります。癒され、明日、この町全体が証言の大きな場所となり、神の子がこの日に彼らに明らかにされるようになります。許可してください、主よ。
私たちを一緒に祝福してください。今すぐすべての不信仰を止めてください。反対のものはすべて追い出してください。敵の精神を打ち破り、汝自身に栄光あれ。私たちは主イエスの名においてそれを求めるからです。アーメン。

49. 聖書には、教会には最初の使徒、預言者、伝道者、教師、牧師がいると書かれていますか?奉仕の贈り物が 5 つあることを知っている人は何人いますか?確かにあります。使徒、預言者、伝道者、教師、牧師。神がこれらを設定しました。
そして、異言で話すこと、異言の解釈、知恵、さまざまな賜物など、体に入る9つの霊的な賜物があります。9 つの賜物を定めるコリント人への手紙第一 12 章があります。彼らは今夜この人、明日の夜あの人、そして次の夜あの人、そして建物のいたるところにいるかもしれません。それは地元団体だけのものです。

50. 彼はすべてを知っている。したがって、神はどちらかが生まれる前にヤコブを愛し、エサウを憎むことができました。彼は誰かが滅びることを望んでいません。いいえ 先生。しかし、神の予知は、彼らがいずれにせよ滅びることを神に知らせ、神がすべてを神の栄光のために働くことを運命づけることができるようにしました。
さて、人々を私のところに連れてくためです。..今夜ここに来て、祈りの列が始まるかどうかを確認してください。。 今では毎晩、私たちは祈りのカードを配っています。祈りのカード、それは数字が書かれた小さなカードです。それは人々を整列させるためです。

51. 私が言ったことを知っている人は何人いますか。彼は、私が誠実であれば彼らの心の秘密さえ知っているだろうと言いましたか?そう言われたら同じ人が手を挙げますか?さて、あなたはそれを見たことがないかもしれません。
でも聞いて。これを超える別の動きがこれから起こります。さて、それはすぐに起こると信じています。今、神の教会は前進し続けています。敵が洪水のようにやって来ると、神の霊はそれに対する基準を高めます。そうだね。

52. そして栄光のために家に帰ったばかりのボズワース兄弟。.. FF ボズワースを知っている人は何人いますか?私が知っている今日の最も偉大な聖人。彼は先日、80代になってイエスに会うために家に帰りました。彼は今夜家にいます。彼は亡くなる約1時間前に昏睡状態に陥り、立ち上がって、何年も前に説教した、もういなくなった人々と握手し始めた。ただ神を喜び、賛美して、こう言っています。“もう何年もあなたに会っていません。”
偉人の人生はすべて、別れが私たちに残し、時の砂に足跡を残し、私たちの人生を崇高なものにできることを思い出させます。そうだね。はい。私の終わりをそんな風にしましょう。

53. そうですね、私は言いました、“私たちはただそれをやります。” 数百枚のカードを印刷して、私は言いました。“そこへ行きます。” そして、私たちがそこに誰かを連れて行った最初のことは、祈りのカードを配って売ることだったので、私はそれを止めなければなりませんでした。
そこで私は言いました。“では、牧師たちに、協力してくれるたくさんの祈りのカードを送ります。” そうですね、最初の牧師がグループに参加しましたが、それが牧師間の厳しい感情から始まりました。それはできなかった。
そこで私は言いました、“さて、言っておきますが、私たちはただ降りて祈りのカードを配るだけです。そして誰かを捕まえるでしょう。.. 私は兄を一緒に行かせましたが、兄がそんなことはしないことはわかっていました。それで兄を送り込んだ。彼は祈りのカードを配り、彼らは[不明瞭な言葉]私がおそらく10枚、15枚、25枚以上の祈りのカードから乗り越えられなかったことを知った場所に到着しました。もし彼らのカードがそれを超えていたら、彼らはそれを床に投げ捨てるだけです、”私はそれを望んでいません。私は決して呼ばれません。“ ほら?

54. それから私は言いました、“私たちが何をするかお話します;私たちは祈りのカードを配るだけです。..” 祈りのカードを持っていなければなりませんでした。私は言いました、“最前席に小さな女の子か小さな男の子が座って、ここに立って数え始めます。彼が数えるのをやめるところ、あるいは彼女、まさにそこから始めます。奇妙なことに、ママには自分の番号で立ち止まるジュニアがいたので、それはうまくいきませんでした。
だからどうすればいいのか分かりませんでした。そこである夜、カナダに渡った主は私に幻を与え、「“毎日、毎日、下って祈りのカードを配ってください」と言われました。そして、その夜。..”、それを配っていた少年たちは、ビル兄弟、あるいはレオ、ジーン、ビリー・ポール、私の息子、彼らの誰かが祈りのカードを配ることができました。

55. したがって、カードは不変であり、カードを渡す前に、指示会議を聞くために立たなければなりません—神の癒しを受ける方法について指導を受ける必要があります。そして少年たちはカードを配るためにそこにいます。
そして、5 から始めて、5 から 10 まで走るかもしれません。そして次の夜、私は95からスタートし、この道—どこにでも、ここに立っているときに思い浮かぶところならどこでも戻ってきます。それは全員へのメッセージです。そうだね。

56. それから聖霊は集会を通して、どこにいても、どこにいても、人々を呼びます。彼らをそこに呼びなさい。..
あなたはただ神の衣服に触れて、神が私に言わないかどうか見てみましょう。そういうわけだ ほら。
そして、最近私の会議に出席したことがある人なら誰でも、聴衆の中に10対1が癒され、プラットフォーム上の内容に呼びかけられていることを知っています。私の遅い会議に出席したことがある人はいますか、それが本当だとわかっているなら手を挙げてください?はい、見てください。10対1。
祈りのカードはあなたの癒しとは何の関係もありません。あなたの祈りのカードには何の意味もありません。それはあなたにとってただ。..という意味です。あなたはただここに呼ばれたのです。.. 何だったんだ?私は贈り物を操作しません。あなたの信仰がそれを実現します、ほら。

57. 目に雑巾をかぶせ、棒で頭を殴ったあのローマ兵はどうなったでしょうか、「“さあ、預言者よ、誰があなたを殴ったのか教えてください。」” 彼は決して美徳を感じなかった。彼には何も言われなかった。彼は今夜、そのような態度で苦しんでいると思います。

58. 彼は言いました。“あそこにいなくてよかったです。” 言った、“彼は4日間死んでいます。” 父が彼に言ったこと。彼は父が言うまで何もしなかったと言いました。墓の前でイエスは言われた。“父よ、感謝します。あなたはすでにわたしの話を聞かれましたが、私はただ傍観している人々のためにそう言っただけです。” ほら、彼はそこで弱くなったとは決して言いませんでしたね?いいえ。
それは神の衣服に触れた女性よりもどれほど大きかったことでしょう。しかし、そのとき神はご自身の賜物を使っていました。これは女性が神の贈り物を使用していたときでした。ただ…… あなたの信仰がそれを実現します。もうそれを止めることも、何も生み出さないこともできませんでした。それはあなた自身のそれに対する信頼です。
それがそうだと信じないなら、神を見てください。緊張しないで。ただ神に目を向けてこう言いなさい、「“主なる神よ、私は心からそれが真実であると厳粛に信じています」。そして、私はこれこれのものを必要としています。” 神が何をするかを見てください。ここで言うには素晴らしい言葉ですよね?そうだね。
しかし、私は誰を信じたかを知っています。私は彼が約束したことを守ることができると確信しています。神が何かを言うなら、神は御言葉を守ります。そして彼は昨日も今日も、そして永遠に同じです。私はテープなどを通じて記録に残しますが、神の神聖な約束に対する正しい精神的態度がそれを実現すると言います。それを覚えておいてください。それに対して正しい精神的態度をとれば、約束が実現します。主がそれを許してくださいますように。

59. 3番?よろしければ、ここのこちら側に来てください。4番?そこの紳士か?5、5番を持っているのは誰ですか?レディ。6 か?カードを見ればいい。6番はお持ちですか、お嬢さん?紫色のドレスを着てここに来る女性:6番?5番。
6番、6番を持っている人はいますか?手を挙げますか?1、2、3、4、5。祈りのカード番号6。多分それは。… ほら、ここに車椅子に乗った女性、小さな女の子がいます。そこで彼女のカードをチェックして、それがそれかどうかを確認してください。6番。J番号6。よし。ここですか?手を挙げますか?
たぶん誰か。… 隣人を見てください、もしかしたら耳が聞こえず、聞こえない人もいるかもしれません。彼らはカードを逃すでしょう。隣人のカードを見てください。建物の中に何枚の祈りのカードがあるか、手を挙げてください。50歳くらいのはずです。よし。

60. よし。1、2、3、4、5。6、祈りのカード番号6?次に、隣人を見て、それが聴覚障害者かどうかを確認してください。歩けない人かどうか見てみましょう。もしそうなら、誰かを捕まえて育て、案内係を捕まえて、ここに荷物をまとめて来てください。6番?よし。
7番。あなたは7番ですか、お嬢さん?7番。8番。8、9、10、11。あなたは11歳ですか?10、11。戻って。12、12。手を見たか?よし。13、14。それらは建物のいたるところ、どこにでもあります。少年たちは、使い果たされるまで、欲しい人に配るだけです。みんなが集まって一か所に向かって突進しないように、あちこちにいくつかあげてください。
よし。今は15くらいまで上がったと思います。兄弟たち、15人くらいって何人ですか?15?よし。祈りの列を始めて、ただ。..そして、私たちが。..かどうかを確認しましょう。よし。さて、ちょっとだけ。これらがどのように来るか見てみましょう、そして。..

61. そして聖霊は私たち一人一人を同じように愛しておられます。そしてあなたは言います、“主よ、私はあなたに厳粛な信仰を置きます。そして、あなたには、振り返って私に電話して、私が何を祈っているのか、彼のようなことが何をしているのか教えてくれる人がいます。..聖書でやったように。” 自分にそんなことが起きてほしいと願うあなたは、手を挙げて、それを高く上げて、すべてを信じますか。..?知る由もない。どこにでもあるだけです。よし。ただ今信じてください。ただ信じてください。祈りのカードを持っていないなら。… もちろん、あなたは呼ばれませんが、祈りのカードを持っていたら、何が起こるかはわかりません。さて、今がその時です。皆さんに言いたいのは、明日の午後の礼拝を思い出してください。

62. 言っておきますが、私は説教者ではありません。あなたの牧師やここにいる人々のようにそれを扱うことができる言葉として、見てください。しかし、私はその本をあまりよく知らないかもしれませんが、著者のことはよく知っています。それだけです。私は彼を知っています。しかし今、私が言ったことはここで終わりです。。
今夜私が言ったことが真実であり、それが言葉であると信じている人は何人いますか?それが言葉です。まあ ありがとう。そんな精神でいてくれたら、この3晩で素晴らしいことが見えてくるよ。確かにそうするでしょう。
さて、その天使の写真を見た人は何人いますか?見てみましょう。… 彼らはテキサスでそれを倒した。少年たちは。… 皆さん、ここに写真を持ってきましたか?ほら、もし私が今夜死んだとしても、証言はまだ正しいよ。明日いつか[不明瞭な言葉]であなたに伝えます、もしできるなら、見てください、見てください。それは光です。

63. ダマスカスへの道でパウロに会ったとき、再び火の柱に戻り、パウロの目を消したことを知っている人は何人いるでしょうか?よし。ほら、彼は昨日も今日も、そして永遠に同じです。
さて、もし私が教会に伝えようとしたその霊が。.. 私が生後 18 か月の赤ん坊だったとき(そうです。) 初めて話し始めたとき、最初に覚えているのはビジョンです。それは何百回も行われてきましたが、一度も失敗したことはありませんでした。そしてそれはできません。もしそうなら、それは神ではないでしょう。しかし、それは神なので、失敗することはできません。
そこで私は、インドのボンベイで一度に50万人、アフリカで約20万人、異教徒などあらゆる人々の前に立ってきました。そしてイスラム教徒に挑戦し、片手にコーラン、もう片手に聖書を持って、「“彼らのうちの1人は正しく、もう1人は間違っている」と言います。約束をした神に語らせなさい。” そうだ ほら。

64. それらの人々の世話をしてください。そして、あなた方の多くは毎日神とともに歩んできましたが、それが何なのか理解していませんでした。彼を愛する者たち、クレオパスとその友人はエマオに行きます。彼らは一日中歩いて彼と話していました。彼らは彼が誰なのか知りませんでした。彼の復活の日、十字架を見守る3日前、そしてここに同じ男がいました。。
神が目を閉じることも、目を開くこともできるということを知っている人は何人いるでしょうか?確かに彼はできる。確かに彼はできる。さあ、今夜彼にあなたのものを開けさせてください、見てください。
そして、イエスがエマオに着いた後、通り過ぎるかのように作られ、彼らの何人かがイエスを説得して入るようにしました。私たちが今夜ここにいるように、神が彼らを部屋に連れて行き、ドアを閉め、閉じ込めたとき、神は死ぬ前にやったまさにその方法、つまり埋葬をされました。そうか?
そして彼らは認識し、目が開き、いつも話していたのが神であることを認識しました。今夜、ここを離れるときの私たちの心も同じになることを祈ります。“道中で神が私たちに話しかけてくださったとき、私たちの心は私たちの中で燃え上がらなかったでしょうか?”

65. さあ、敬虔になってください。この写真は撮影されました。それはここにあります、もしあなたがそれを望むなら、あなたは今夜か明日の夜、次の夜ではなくそれを手に入れることができます、わかりますか。さて、少年たちはここにテープや本などを持ってきました。さて、これは私たちが彼らに得るものとしてはまったく平坦です、ただ。.. スポンサーとなるラジオ番組はあまりありません。
私はお金のためにここにいるわけではありません。それは分かってるだろ。聞いたでしょう。… 批評家が言えないことの一つはお金についてです。なぜなら、私は人生で一度も供物を捧げたことがないからです。そして私は大臣を26年間務めてきました。私の人生で一度も供物を捧げたことはありません。
スポンサーがもらえるテレビやラジオなどはありません。主が私に望むなら、私は10人か10万人の教会を持っている人々に説教しに行くことができます。だから、神が私を遣わすところならどこへでも、私はただ自由に行けると感じているのです。プログラムも何もないし、何もする事もない…。

66. そしてドイツでは、油注ぎのとき、戻るときにそれを降ろしました。彼らはスイスでそれを手に入れました。それは世界中で知られています。そしてその御霊の実はイエス・キリストの命を宿します。そうすれば、それはイエス・キリストの御霊でなければなりません。
さて、男として。… 私は男です。それは他の皆さんと同じです。しかし今、もし私たちが聖霊が動かしてくれる賜物に服従できるなら、次は聖霊次第です。
ですから、父なる神よ、これからはあなたの御霊を動かしてください。信じる心を油を注ぎ、私を油を注いでください、主よ、私はこの目で、あなたがこれらの人々に知ってほしいことを見ています。永遠の神よ、イエスの名においてあなたの栄光のために働きなさい。アーメン。

67. 私があなたを知らないことを知っている人はどれくらいいるでしょうか?手を見よう。サマーオール兄弟、息子、ヴェイル博士、そしてマカリスター兄弟がここにいます。そして、少し前にどこかでメノナイトの友人の一人がウォータールーの集会に出席しているのを見ました。しかし、話している間にそれがどこにあるのか忘れてしまいました。彼はここ建物のどこかにいます。先週ウォータールーで行われた集会にはメノナイト派の兄弟が参加していました。
今は分からない。彼は出かけたかもしれない。彼はここのどこかにいました、メノナイトの兄弟です。彼はペンシルバニア州出身だと思います。彼は私の家にいて、私たちは一緒に親睦を深めてきました。彼は建物のどこかにいます。しかし、ご存知かと思いますが、彼はメノナイトの聖職者コートを着ています。誰も知らない。
それで今、あなたは今キリストに目を向け、「“主よ、私はただ信じています」と言います。私はただ信じているだけです。” ただ心の中で信じてください。本当に敬虔になって、私のために祈ってください。なぜなら、私はあなたの主を御言葉を通して代表するためにここにいるからです。

68. さて、もし神の霊が来て、当時と同じようにこの女性の悩みを見つけるなら、そのとき何人が心を込めてそれを信じるでしょうか、たとえば、“私は信じると約束します。”?
さて、まず最初にこれを言いますが、私は手を挙げて誓いません、聖書によれば、私は人生でその女性を見たことがありません。私はその女性を知りません。彼女を見たことがない。そして私たちは奇妙です。。 初めてお会いするんですか、お嬢さん?彼女は私を見た。
会議に座っていただけですか?10年前、アリゾナ州フェニックスで息子と一緒に祈りの列を歩いた。そして、私が彼女について何を知っているか想像できるでしょう。私は一度も。… それ以来、私は多くの人、さらには何百万人もの人々に会ってきました。わけがない。… もし祈りの列だったら、どうせ分からないだろう。何が起こるかを知る唯一の方法は。…

69. 私が何を言ったかを知る唯一の方法は、そこでそのテープをキャッチすることでした。私たちは人々に言われたことをすべて知っています。書かれていることに注目してください。もし彼が何が起こったのか知っていたら。.. この女性に言うなら。… 彼女は病気かもしれない;彼女は病気ではないかもしれない。彼女は他の人のためにここに立っているかもしれません。彼女は経済状況のためにここにいるのかもしれない。彼女は家庭内のトラブルでここに来たのかもしれない。知らんよ。ほら 言えないわ。でも、もし私がこう言うなら、ただこう言ってください、“お嬢さん、病気ですか?”
あなたはこう言うでしょう、“はい、先生。”
私は彼女に手を置いて、「“主を讃えなさい、あなたは元気になるでしょう」と言いました。ハレルヤ。信じなさい。” まあ、彼女にはそれを疑う権利があるだろう。まあ、彼女がそうするかどうかに関係なく、彼女はそれが本当にそうなのかどうかを心の中で疑問に思う機会があるでしょう。
しかし、聖霊が彼女に、すでに人生で知っていること、ずっと前にやったこと、ここに来る前に最初にやったこと、あるいは何かを教えてくれたら、それが正しいかどうかの判断を彼女にさせてください。そしてあなたもそこで同じことをします。そうすれば、もし神が何があったのかを知っていれば、何がなるのかも必ずわかるでしょう。そうか?だからそれが証明している。それが奇跡だ。

70. でもこの女性は?彼女は強そうに見える。ここの女性たち、この男性たち、あるいはそこにいる誰かが、がっしりと健康そうに見えるのはどうでしょうか。奇跡があります。さあ、本当に敬虔になってください。
あなたは言います、“ブランハム兄弟、あなたは失速しています。” わかってる。まさにその通りです。私は彼を待っています。まさにその通りです。もし神が助けてくれなかったら、私のところに来てください、私は祈りか[不明瞭な言葉]で聴衆を追い出すだけです。私は彼を待っています。
“信じるだけです、” 望むなら、お姉さん。本当に敬虔な皆さんです。本当に敬虔になってください。さて、女性と少し話しましょう。もしかしたら彼は話すかもしれない。

71. さて、ああ、あなたは数年前にアリゾナ州フェニックスのプラットフォームにいたと言ったと思います。素晴らしい日々でした。私はそれらを覚えています。ある日の午後、アリゾナ州フェニックスで3,000人が列を通ってやって来たのを覚えています。彼はまだ同じ主なる神です。彼は素晴らしいよ。彼はすべてのことをすることができます。
さて、イエス・キリストの名において、すべての霊は聖霊に従います。敬虔であれ。彼はここにいる。
あなたを知るために、私はしません。もしあなたが病気だったら、あなたを癒すことはできません。私にできる唯一の方法は。… もし私たちの主イエスが私に与えてくださったこの服を着てここに立っていたら、あなたが病気になっても癒すことはできません。神は御言葉に応えてここにいることをあなたに知らせるために何かすることしかできませんでした。
ですから、神は霊の形をとって、しもべの体を同じことに使うことができるのです。それを信じますか、お嬢さん?私が聖書の真実を語ったと信じますか?厳粛に信じるんですか?

72. そして女性は重篤な状態にある。まず最初に、彼女を見かけます。… 彼女は部屋を通って私のところにやって来ます。彼女は脇腹をこすっています。彼女は椅子から立ち上がるのが本当に簡単になりました。彼女はリウマチに苦しんでいます。そうだね。それは“主はこう言われる”
言われたことが正しかったかどうかは彼女に判断してもらいましょう。そうだったか お嬢さん?手を挙げれば。よし。さて、それが何だったのか、私にはわかりません。でもほら、ここに立っている女性のように、それが何であれ、その声は聞こえましたが、それは私のものではありませんでした。
さて、私たちは二人とも手を挙げて、お互いのことを知らないし、会ったこともない、ただ彼女が祈りの列を通り過ぎただけだと言いました。しかし今、10年前、牛を群れで追い越すのと同じくらい速く牛が通り抜けていたのかもしれません。.. ほら?
でもここを見て。今ここにあります。彼は彼女に、テープに何があったとしても、何かを話します。彼女はそれが真実であることを目撃します。信じるかどうかはあなた次第でした、ほら。それはあなた次第です。

73. さて、女性と話せば話すほど、より多くのことが言われるでしょう。私たちはそれを認識しています、ほら。ここに立っているこの女性として、皆さんも少しだけ彼女と話したいと思いませんか?それを望みますか?それとも、彼女をそのまま列に並べたいですか?よし。ちょっとだけその女性と話しましょう。敬虔であれ。
さて、お嬢さん、私が知る唯一の方法は。.. 捕まえてるよ、レオ、ほら。よし。私が知る唯一の方法はそれです。そこにあるテープに何が入っているとしても。さあ、もう一度見て、心から信じてください。
あなたの心を読んでいないわ。いいえ 先生。建物から思いつきました。さて、それを信じないでください。私はその女性の心を読んでいるわけではありません、いいえ、確かに。私はただ彼女の霊と連絡を取っているだけです。彼女はクリスチャンの女性です。彼女の精神は歓迎されていると感じます。彼女は批評家かもしれない、ほら。しかし、彼女はクリスチャンであり、真の信者です。

74. そしてその女性もこの国の出身ではありません。女性は大きな湖の近くにある、果物がたくさん育つ大きな場所の出身です。それは北です。ミシガン州ベントンハーバーです。女性の出身地です。そして彼女の名前はマンスフィールド夫人です。それは“主はこう言われる”

75. 天の父よ、あなたの子供たちは信じています。ああ、私の。女性は困っている。そして私たちは、彼女が何を望んでいるとしても、主よ、それが今彼女に届き、彼女を作ってくださいますようにとお願いします。。 何でも。… 彼女が病気なら、治してください。もし彼女に他の欲望があるなら、それを彼女に与えてください、主よ。私たちはイエス キリストの御名によってこれを尋ねます。アーメン。
聖書はこう言っています。“これらのしるしは信じる者たちに従うであろう。もし彼らが病人に手を置けば、彼らは回復するであろう。” 行け 今信じて。あなたは心から信じますか?あなたが信じたように、あなたは求めたとおりにそれを受け取るでしょう。

76. 私たちはお互いには見知らぬ人だと思います、お嬢さん。私はあなたにとって見知らぬ人です。あなたは私の家にいました。神は私があなたのことを覚えていないことを知っています。私の知る限り、私はあなたに会ったことがありません。何百、何百、何百もそこにやって来ます。
さて、見てみましょう。あなたが何のためにここにいるのか分かりません。全く分かりません。それはその部分としてご存知でしょう。もし主があなたの悩みを私に明らかにしてくださるなら、あなたはそれを受け入れますか?そうしますか?観客は信じるでしょうか?

77. そのハンカチに触って欲しいのね。そのハンカチはあなたには向いていません。しかし、それはあなたの愛する人たちのためのものです。義理の妹だ。そして彼女はこの州ではなくオハイオ州の州立病院に入院しています。それでは、イエス・キリストの名において、そうありましょう、主よ。アーメン。よし。神のご加護がありますように。さあ、あなたが求めたものを受け取りに行きましょう。
私たちはお互い見知らぬ人だと思いますか?初めて会った。ここに私が見たことも会ったこともない男がいます。先生、聴衆に座ったことがありますか?彼はシカゴでの会議に出席していて、壇上から私を見ました。初めて一緒にいたときのこと。それについては、何について、誰について、あるいは何も知りません(参照)。

78. あなたは彼を信じますか?じゃあ祈ってるんでしょ?あなたは死にかけの状態です。そうだ 癌。それは本当です。しかし、あなたはその時彼に触れました。あなたは彼に触れましたが、私に触れたことはありませんでした。信仰を持ちなさい[不明瞭な言葉]。ただ信仰を持つ。疑わないで。
あなたはここにいて、彼女のそばに座っていて、彼女を見渡しました。私はあなたを知りません。それは分かってるだろ。頭が痛いよ[不明瞭な言葉]。それが正しければ、このように手を前後に振ってください[不明瞭な言葉]。それはもうあなたから消え去った。あなたの信仰は彼に感動を与えました。
ただ信仰を持つ。疑わないで。心を込めて信じろ。信じられるなら、求めたものを手に入れることができます。

79. 聴衆にまだ私の声が聞こえるなら、ここにいるこの男は重篤な状態です。彼は暗闇の影に覆われており、医者から来たばかりです。そして彼はここであなたを殴って何かをしています。彼らは何かを置いています。… それは心臓の問題です。そういうことなのです。それは心臓の問題です。
そして、彼が「見た目は強い男だ」と言っているのを聞きます。そして彼は、あなたが再び仕事に戻るまでには数週間かかるだろうと言います。そうだね。心臓発作は何度かありました:7回。そして、お腹に水をかけることさえできなくなるまで、時々気分が悪くなることがあります。あなたはそれを吐き戻します。それは“主はこう言われる” 信じますか?
イエスを死からよみがえらせた永遠で祝福された神は、私たちがあなたの名において祝福するこの人を祝福してくださいます。そして、彼が求めたものを受け取りますように。それはイエス・キリストの名において私たちが求めるものだからです。アーメン。今は疑わないで。信じる。あなたの癒しを願います。信じに行きなさい。
信仰を持ちなさい。疑わないで。動くな。さあ、じっと座ってください。本当に敬虔になってください。私たちの主は素晴らしい方ではないでしょうか?とても良い。

80. この方向では何かが起こり続けています。どこかの部屋の後ろに戻っているはずです。本当に信仰を持っている人、私をそのように描き続けます。
主があなたの悩みを私に明らかにしてくださると信じていますか、そうすればあなたはそれを受け取るでしょう?さて、聴衆の中で、心を込めて神を信じる人が何人いるでしょうか?ああ、ほら。さて、それは何ですか?もし神がその言葉を守らなければならないなら、神はこれまで言った他のすべての言葉を守ります。彼はそれをしなければなりません。彼が今行っていることは、あなたの状態を癒すことよりもどれほど素晴らしいことでしょうか?彼は御言葉を守ります。彼は神の言葉に縛られた義務を負っています。

81. さて、あなたは今、何も違うことを知らなかったことをしましたが、それは間違っていました。あなたが受け取ったこの祈りのカードは、友人があなたのために買ってくれたものです。そうだね。それは会議では行われません。私たちが説明していなかったので、あなたは何も知りませんでした。
誰かが手に入れた。彼らがあなたにそれを与えているのが見えます。それはそうあるべきではありません。どうしたんだ ビリー?どうやってそれを逃したのですか?よし。でも今は大丈夫です。あなたは罪を犯していません。あなたは何も悪いことをしていません。
さあ、あなたが手に持っているその小さなハンカチを、お母さんの上に置き、お母さんの上に置き、心から信じてください。神が彼女を癒してくださいますように[不明瞭な言葉]。神のご加護がありますように。

82. 私はあなたを知りません。私たちはお互いに見知らぬ人ですか?人生で一度も会ったことがない。すみません、別のことが起こっています。彼らはそれがどこへ向かうのかを見守ればいいのです。よし。ここです。お互いに戦っている、ほら。背中に問題があります。最後にも背中のトラブルがあります。心から信じていただければ。… そうだね。じゃあ終わりだ。

83. このように、この霊が女性を抱きしめようとすると、同じことが互いに叫び始め、黒い筋がこちらを横切って走ります。その時、それが何なのか分かりました。そして、私はその女性の幻を見ました;私もここに男性が現れるのを見ました;そして、それが当時ここに座っていたことを知っていました。どこにあったか知ってる。
心から信じますか?背骨に問題がありますね。それは自動車事故が原因でした。そしてココモに戻ってよくなりたいですか?よし、ココモの家に帰って元気になろう[不明瞭な言葉]。
もし信じられるなら。… 聖書はこう言っています。“信じられるなら。” 心から信じますか?

84. 今、それを信じる人は何人いるでしょうか?彼は今、あらゆることをできる。信じますか?よし。よし。お互いに手を合わせなさい。これ以上進む必要はありません。今こそ、あなたのすべての癒しの時です。お互いに手を置いて信じなさい。祈りの列に並んでいるあなた[不明瞭な言葉]。これから同じことをするだけです。ただお互いに手を置きましょう。さて、ここにいます。
私はすべての罪人が、この祈りが捧げられ次第、ここの祭壇に急いで上って欲しいのです。主イエスの臨在がここにあります。生ける神の子がここにいます。

85. TBさん、神のご加護がありますように。もう全部終わった。行ってよく作ることができます。そうだね。ただ今、信仰を持ちなさい。信じる。
もし神がここから祈りを聞いてくださるなら、神はそこでそれを聞いてくださいます。神は聖書の時代にまさにそうしていたのでしょうか?それから神は祈りを聞きます。今、お互いに手を置いて、建物のあちこちで祈りましょう。

86. そしてあなたはナタナエルに言った、「“あなたはこれよりも大きなものを見るでしょう」。今すぐそれを許してください、主よ。キリストがすべての言葉とすべての約束を守ってくださることを彼らが意識してくださいますように。聖霊が今この聴衆に力強く臨んでくださいますように。そして、もしどこかに疑いの影があるなら。..
サタン、あなたは戦いに負けました。あなたは暴露されています。生ける神の子がここにいます。そして私はイエスの名においてあなたに誓います、ここから出発してください。すべての病気、すべての苦しみを手放してください。私は悪魔に尋ねます。..あるいは、イエス・キリストの名において悪魔を追い払います。出てきてください、サタン、この人々を放っておいてください。神の子キリストの名において。アーメン。
立ち上がれ。神を賛美してください。ここに座って苦しんでいる人は、耳に指を入れてください。それが何であれ、神に賛美を与えてください。神の霊がその場所を動き回り、聴衆全員を癒します。。