1. 恵み深い天のお父様、私たちはこの歌を感謝いたします。
あの素晴らしい福音の歌――「ただ信ぜよ」、「その時イエスが来られた」――を聞くと、どれほど私たちの心が震わされることでしょう。それは私たちを、さらに前へ進ませてくれます。
私たちは、主イエス・キリストを感謝いたします。
この大いなる軍勢の大将であられるお方です。私たちはカルバリーへと進み行き、古き人、肉を十字架につけ、そして主の存在のうちに、新しい人としてよみがえらせていただくのです。
2. どうか聖霊が、ここにいる一人ひとりの心を完全に支配してくださいますように。
私たちを導き、案内し、私たちを通して語り、また私たちに語ってくださいますように。聖霊が望まれるどのような方法によってでも、どうか働いてください。
私たちは自分自身をあなたに委ねます。
そしてこの午後、あなたの御国の栄光と建て上げのために、私たちを用いてくださいますように祈ります。
どうか私たちの罪と咎を赦してください。
そして今日、罪の赦し、私たちの体の癒し、私たちの魂の救いをお与えください。
そしてこの旅路の終わりに、私たちはへりくだって頭を垂れ、あなたに感謝と賛美をおささげいたします。
イエスの御名によって、お願いいたします。
アーメン。
3. 主が皆さんお一人おひとりを祝福してくださいますように。
本日の午後、ニューヨーク、また各地からこの小さな集まりにお集まりくださった皆さん、こんばんは。
おそらくここには、さまざまな場所、州、町々から来られた方々が代表されていることでしょう。
今日、皆さんを私の聴衆としてお迎えできることは、実に私にとって特権であります。
言うなれば、皆さんは「選りすぐりの方々」です。
そして私は、それを誇って言っているのではありません。
皆さんを喜ばせようとして言っているのでもありません。
それは、私の心から出ていることなのです。
私は本当に、クリスチャンの人々を愛しています。
私の兄弟姉妹である皆さんを、心から愛しているのです。
4. それでも私は、同時に「人に仕える者」であり、「神に仕える者」であることはできません。人々に仕えるためには、神によって仕えるためには、私は自分自身を離しておかなければならないのです。祈りの中にいるためです。
幻や、そうしたことがあるからです。それが、面会などを許していない理由なのです。その時間は、祈りと、ひとりでいることに費やされなければならないからです。
そして夜、聴衆の前に出て行くときには、時には何千、何千という人々の前に立つことになります。そしてその時、その……
5. そして、誰もが――いや、誰もがではありません。クリスチャンはそうしないでしょう。しかし未信者は、あなたが生きている限り、そのことを指さし続けるのです。いつまでもそれを持ち出してくるのです。
日曜日の午後は、たいてい私が話す時間として与えられています。
私は、自分が大した話し手だなどとは公言しません。雄弁さにも欠けていますし、話し方も良くありませんし、学もありません。
私はただのケンタッキーの田舎者です。
「hit」だの、「hain't」だの、「tote」だの、「fetch」だの、「carry」だの、そんな言葉遣いをする者です。
どうか、そこは大目に見てやってください。
それが……
6. 「ブラナム兄弟、私たちはあなたに……」
私はその時、西海岸におりました。大きな団体の方からでした。
その方は言いました。
「私たちは、あなたに名誉学位を差し上げたいのです。あなたはいくつか本も書いておられますから、LL.D.かD.D.のどちらかを差し上げましょう。」
私は言いました。
「ああ、いやあ、兄弟。正直なところ、あなたが何をおっしゃっているのか、私にはほとんど分かりません。」
すると彼は言いました。
「では、私たちがあなたに博士号を差し上げるとしたら、そう思われませんか……?」
7. 「はあ、私が『here 'tis』だの、『hain't』だの、『fetch』だの、『carry』だのと言っているのにですか。」
そして言いました。
「人々は賢すぎますよ。分かっていますからね……私が神学博士なんかではないことを、みんな知っています。」
私は言いました。
「私はむしろ、このままの、年季の入ったサッサフラスの説教者でいたいのです。今の私のままで、主が望まれるそのままに、このままでいたいのです。」
そうすれば、皆さんは私がどんな者か分かります。
私は何かを装っているのではありません。
ただ、私自身でいるだけです。
そして、それこそ私たち皆がそうあるべき姿です。
ただ、自分自身であることです。
8. けれども私には、それがありません。ですから、あれこれ自分を大きく見せようとして言う必要はないのです。私は、ただそういう者ではありません。
もし自分がそうだと言ったとしても、人々はそれ以上のことを分かってしまうでしょう。
神の癒しについても、そこが本当のところなのです。
人々は、あなたが本当に心からそう思っているのか、それともそうでないのか、分かるものです。見抜くことができるのです。
私は人生の歩みの中で、そのことを学びました。
何かのふりをして、通り抜けることはできないのです。
あなたは、ありのままの自分でなければなりません。
さて、私はそのことをよく考えてきました。そして私は……
9. ここにフル・ゴスペルの方々はどれくらいおられますか。
手を見せてください。フル・ゴスペルの方々、どうぞ手を高く上げてください。
少しだけ、秘密を知りたいと思われますか。
もしそうなら、もう一度手を上げてください。
少しの間だけです。よろしいですか。
10. すべてのことの秘密は、神の愛なのです。
その一つひとつ、すべての秘密は、愛です。
自分で無理に愛そうとして、愛を作り出すことはできません。
あなたは、愛を持っていなければならないのです。
愛というものは、動物の命にも働きます。
人間の命にも働きます。
そして神の御前でも、働くのです。
11. 「たとい私が人の異言、また御使いたちの異言で語っても、愛、すなわち慈愛がなければ、何の益にもなりません。たとい神のすべての奥義を理解するほどの知識を持っていたとしても、愛がなければ」――たとえそれができたとしても――「私には何の益にもなりません。また、山を動かすほどの信仰を持っていても、愛がなければ、私には何の益にもなりません。
異言があるなら、それはやみます。預言があるなら、それはすたれます。そして……これらのものはすべて過ぎ去ります。しかし愛が来たなら、それは永遠に耐え続けるのです。」
愛です。私はその力を見てきました。
12. 兄弟と姉妹がそれを販売しております。
ただし、今日は販売しておりません。
私たちは日曜日を、復活の日として尊んでいるからです。
私はこれまで、日曜日に物を売ったことがありません。
私は、それを良いことだとは信じていないのです。
もちろん、もし皆さんがそうなさるなら、それはそれで構いません。
多くの兄弟たちは、日曜日にもそのまま自分たちの本を販売しています。
そして、「これは福音の一部です」と言います。
それはそれでよろしいのです。私はそれに対して何も反対はありません。
けれども、もし……私自身は、どうしてもそれができないのです。
13. 川に仕掛けていた延縄の釣り糸も引き上げ、餌を外しました。
日曜日に魚を捕ることにならないようにするためです。
しかも、それは私がまだ罪人であった時のことです。
ですから、クリスチャンになった今は、なおさら、その思いを守っていきたいと願っているのです。
14. 皆さんはこの本の中でお気づきになったでしょう。
この本を読まれた方はどれくらいおられますか。
手を見せてください。
あの狂った男のことに、気づかれましたか。
ウッド兄弟、あなたが持っているのは、たしかその本でしたね。
そうですね、それです。
オレゴンで、あの狂った男が、私を殺そうとして壇上へ駆け上がって来た時のことです。
その本で読まれたのを覚えておられますか。
15. 神の愛です。
私はあの人を軽蔑しませんでした。
あの時、私の内に何かが起こったのです。
私は彼を愛したのです。
私はこう思いました。
「ああ、かわいそうな人だ。
この悪霊に縛られているのだ。
だから彼は、私を殺したいような気持ちにさせられているのだ。
この人自身が、そうしたいわけではない。彼も一人の人間なのだ。」
そういうことだったのです。
16. 彼は以前、インディアナのほうで猟区監視員をしていました。
ある日のこと、彼はある場所へ訪問に行く途中でした。
いつものように野原を横切って行く時、彼はたいてい銃を持っていました。
なぜなら、そうしなければならなかったからです。
それは、警察官が勤務中にそうするのと同じようなものです。
法律であり、規則なのです。
17. 彼は、その雄牛がその畑にいることを知りませんでした。
この土地の持ち主がその牛を買ったことは知っていましたが、そのことを忘れていたのです。
彼が畑を進んで行くと、その大きな牛が身を起こしました。
その牛は、六か月ほど前に、バーク農場のほうで一人の黒人男性を殺していたのです。
そして今は、こちらの別の農場に移されていました。
その牛には長い角があり、角の先は切り落とされていました。
けれども、それは恐ろしいほどの……確かに立派な種類の動物ではありましたが、非常に危険な、人を殺す牛でした。
その黒人男性を突き殺してしまったのです。
それで、その牛は売られていたのでした。
18. 柵からも、木からも、ほかに逃げ込めるようなものからも、二百ヤードほど離れた場所でした。
小さな茂みの群れの中から、その大きな牛が身を起こし、鼻を鳴らして、この牧師に向かって突進して来たのです。
その牧師は、聖霊のバプテスマを受けていると告白している人でした。
そして彼は、走って逃げたり、叫んだりする代わりに、その動物を愛したのです。
彼は、その動物を自分が驚かせてしまったことを、気の毒に思いました。
19. 頭を低く下げ、鼻を鳴らし、角を地面に突き立てるようにして。
牛を扱ったことのある方なら、多くの方がご存じでしょう。
そういう仕草をするものです。
そして、その牛がこちらへ向かって来ました。
まあ、おそらく二十ヤードほどの距離まで近づいたでしょう。
逃げようとしても、もうどうしようもありません。
そもそも逃げ切れるものではありません。
身を隠す茂みも、よじ登る木もありません。
ただ立って、それに向き合うしかなかったのです。
それだけでした。
その牛は人間より速く走れますし、柵までは二百ヤードか三百ヤードもある。
木は一本もない。
ですから、その牛は、そのまま突進して来たのです。
20. その雄牛を憎んだり、殺したいと思ったりする代わりに、完全な平安が下って来ました。
私は思いました。
「ああ、かわいそうに。私がこの牛を驚かせてしまったのだ。」
そしてその牛が、本当に近くまで迫って来た時、私は言いました。
「さあ、私はあなたを驚かせてしまって申し訳なかった。
私は主のしもべである。
そして、私たちの創造主であられる主イエス・キリストの御名によって、あなたに命じる。
あちらへ行って、横になりなさい。」
21. まっすぐに突進して来たのです。
けれども、どういうわけか、私は少しも恐れていませんでした。
今ここで、愛しいクリスチャンの皆さんの前に立っているのと同じくらい、何の恐れもありませんでした。
その牛は、私が立っている所からおよそ十フィートほどのところまで近づいて来ました。
私はただそこに立ち、その牛を見つめていました。
ちょうどここに座って、私を見ておられる、この柔和そうな小柄な婦人を恐れないのと同じように、私は少しも恐れていなかったのです。
22. 私のすぐそばまで来た時、彼は足を突っ張るようにして、そこで止まったのです。
そしてこちらを見て、あたりを見回しました。
すっかり力が抜けたようになり、向きを変えて、向こうへ歩いて行き、茂みの下に横になりました。
何がそうさせたのでしょうか。
分かりますか。
今日の問題は、人々が恐れているということなのです。
23. 家の前庭で草を刈っていた時のことです。
私は小さな草刈り機で刈っていました。
私の家に来たことのある方ならご存じでしょうが、前庭がかなり広いのです。
その時私は、古い――私たちはそれを「オーバーオール」と呼びますが、北部の皆さんはたぶん「ダンガリーズ」とか何とか呼ぶのでしょう――それを着て、庭に出て草を刈っていました。
すると、祈ってもらうために、人々を乗せた車が一台やって来るのです。
私はそっと裏へ回り、家の中に入って、別の服に着替え、出て行って病人のために祈りました。
そしてその人たちが帰ると、また戻って着替え、草刈りを再開する。
おそらく二回りほど刈ったかと思うと、また別の車いっぱいの人たちがやって来る。
それで、また私は中へ走って行くのです。
そんな具合でしたから、裏庭にたどり着く前に、前庭の草がもう伸びてしまうほどでした。
私が刈るより先に、草のほうが伸びていくようだったのです。
24. 裏庭で草を刈っていました。
そこには小さな柵が通っていて、私は子どもたちのために、小さなムクドリ用の巣箱のようなものをそこに取り付けていました。
ところが、その箱の中に、大きなスズメバチの群れが住みついていたのです。
私はそのことを忘れていました。
裏庭でしたから、誰にも見られないと思い、上半身は腰のところまで脱いで、ただオーバーオールだけを着ていました。
それにしても、本当にひどく暑い日でした。
私は草刈り機を押していました。
小さな古い機械が、プット、プット、プットと音を立てていました。
そして草を刈っているうちに、その柵にぶつかってしまったのです。
すると、気がつく間もなく、私はスズメバチだらけになっていました。
皆さん、スズメバチがどんなものかご存じでしょう。
あの大きなやつです。
それが群れをなして、私の体じゅうにたかって来たのです。
25. 私は思いました。
「これは不思議だ。私は……」
さて、これは子ども向けのお話のように聞こえるかもしれません。
けれども、そういうつもりで話しているのではありません。
そして、裁きの日に私たちを裁かれる全能の神が、そのことをご存じです。
私は言いました。
「小さな君たち、君たちを驚かせてしまって申し訳なかった。
私は今日の午後、君たちと遊んでいる時間がないのです。
だから、私たちの創造主であられる主イエス・キリストの御名によって、急いで戻りなさい。
自分たちの箱の中へ戻りなさい。
私はもう、それにぶつかりません。
そこから離れますから。」
26. 天の神――これが真実であることをご存じのお方――その神の御前に言いますが、あの小さな者たちは私の周りをぐるりと回り、それから一直線に飛んで行って、まっすぐその箱の中へ戻り、静かに収まったのです。
まさに、その通りなのです。
27. 動物をごまかすことはできません。
私が何を愛しているか、ご存じですか。
今日の午後、もし時間があるなら、私は自然について説教したいほどです。
なぜなら、自然こそ私にとって最初の聖書だったからです。
私は、どれほど自然を愛していることでしょう。
なぜなら、神は自然の中におられるからです。
神は、ご自身の花の中におられます。
神は、ご自身の宇宙の中におられます。
神は、どこにでもおられるのです。
そして、動物をごまかすことができないのと同じように、動物はあなたが自分を恐れているかどうかを知っているのです。
おそらく、皆さんにはまだそのことが十分に伝わっていないかもしれません。
28. 神が彼に、ローマへ下って行くと告げられた時のことです。
彼がその途中で難船し、そこにいた時、火にくべるために枝を拾い集めました。
すると、大きなまむしが彼の手にかみついたのです。
普通なら、ほんの数分のうちに確実に命を落とすような出来事でした。
しかしパウロはそれを見ても、少しも恐れませんでした。
まるで何事でもないかのように、火のそばへ行き、そのまむしを火の中へ振り落とし、そのまま何も害を受けない者のように歩み続けたのです。
人々は初め、彼が倒れて死ぬだろうと思っていました。
けれども後になって考えを変え、彼を神だと呼びました。
分かりますか。
彼は恐れていなかったのです。
29. 恐れてはいけません。
もしあなたの心の中に、神の完全な愛を持つことができるなら――
そして、これが真理であること、神があなたの父であられること、神があなたを守ってくださっていることを知っているなら――
あなたを害することのできるものは、何一つありません。
「わたしは彼らに力を与える。彼らは蛇を踏みつけるであろう」
そのように語られています。
そして、どんなことがあっても、彼らを害するものは何もないのです。
30. ただ、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛するのです。
そして、自分自身を愛の包みにくるんでしまいなさい。
そうすれば、あなたが好きではなかったあの人が、あなたを好むようになるのを見てごらんなさい。
31. 良い人であるにもかかわらず、その人のそばにいるのが、どうにも耐えがたいように感じる人を見たことがあるでしょう。
さて、それが本当であることは、皆さんも分かっておられますね。
そうではありませんか。
また一方で、ただその人のそばにいることが嬉しくなるような人々も、私は見てきました。
皆さんも、そういう人を見たことがあるでしょう。
あなたがたは、自分たちが神の子であることを分かっていますか。
あなたが生きているその雰囲気、その空気によって、あなたは自分の周りに一つの状態を作り出しているのです。
それは、人を引き寄せることもあれば、押しのけてしまうこともあるのです。
32. そして、私が読もうとしていた箇所を読むことにしましょう。
皆さんが、まだそのことを受け取っておられないように思うからです。分かりますか。
それは、教会がこれから学ばなければならない、より深い事柄なのです。
その通りです。より深い事柄です。
私たちは儀式的なものや、そうしたものの中で教えられてきました。
それは私たちのために、きちんと置かれ、型どおりに整えられてきたものです。
けれども、本物のところに来ると、それはどこか遠くにあって、理解できないようなものではありません。
それは、あなたの手があなた自身に近いのと同じくらい、すぐ近くにあるのです。
あまりにも単純なので、かえってその上を見過ごしてしまうのです。
分かりますか。
それが、そうさせているのです。
33. 私がここに入ってから四十五分ほど経ったら、そのことを知らせていただけますでしょうか。
今夜もまた別の集会がありますので、私たちは……。
この午後の時間は、いつも私に与えられているものです。
ですから、私はただ少し肩の力を抜いて、話すことができます。
これは癒しの集会ではありません。
ただ、人々に語りかけることのできる集会です。
そうすると、心が楽になるのです。
そして、この機会が与えられていることを、私は本当に感謝しています。
34. 今日の主題のために、ヨエル書を開きましょう。
ヨエル書の第一章、第一節から読み始めて、御言葉を少し読んでいきたいと思います。
そしてまた、ヨエル書第二章からも、本文を取るつもりでおります。
35. 「アーメン」と言ってください。
よろしいです。
皆さんが主を愛し、御言葉を愛する方々であることを、私は嬉しく思います。
なぜなら、私は御言葉を信じているからです。
さて、ヨエル書一章一節から、このように読みます。
「ヨエルに臨んだ主の言葉。
老人たちよ、これを聞け。
この地に住むすべての者よ、耳を傾けよ。
このようなことが、あなたがたの日にあったか。
また、あなたがたの父たちの日にあったか。
これを、あなたがたの子どもたちに語れ。
あなたがたの子どもたちは、その子どもたちに語れ。
またその子どもたちは、次の世代に語れ。
噛み食らう虫が残したものを、いなごが食べ、
いなごが残したものを、若いいなごが食べ、
若いいなごが残したものを、毛虫が食べた。」
36. 「わたしは、あなたがたに償おう。
いなごが食い尽くした年々を、
噛み食らう虫、毛虫、そして、わたしがあなたがたの中に送ったわたしの大いなる軍勢が食い尽くした年々を。
あなたがたは豊かに食べて満ち足り、
あなたがたに不思議なわざを行われた、あなたがたの神、主の御名をほめたたえるであろう。
そして、わたしの民は決して恥を見ることがない。」
37. 私たちはページをめくることはできるかもしれません。
けれども、それを開くことのできるお方は、ただお一人だけです。
それは聖霊です。
そうではありませんか。
イエス・キリストです。
38. そして彼は泣いたのです。
なぜなら、天にも、その書物を取るにふさわしい者はおらず、
地にも、地の下にも、その書物を取るにふさわしい者、
またその書物を開き、その封印を解くにふさわしい者が、一人もいなかったからです。
39. 御座に座しておられる方の右の手から、その書物を受け取られました。
そして、それを開き、その封印を解かれたのです。
なぜなら、そのお方こそ、ふさわしい方であられたからです。
そして、その小羊こそが、この午後、私たちにそれを開いてくださるお方なのです。
そうではありませんか。
40. そして、しばし主に語りかけ、この御言葉を開いてくださるようお願いしましょう。
恵み深い天のお父様、
私たちは、あなたの御子、主イエスの、すべてに満ち足りた御名によって、御前に近づきます。
このお方こそ、ふさわしいお方です。
今日、あなたの憐れみが、私たちすべての上にとどまりますように祈ります。
そして今、書物を開くことのできるお方、
それを受け取るにふさわしかったお方が来てくださり、
私たちに御言葉を開いてくださいますように。
私たちの理解が開かれ、照らされ、
御国の栄光のために、私たちが励まされ、
より良いクリスチャン生活を歩み、
良き勇気を持つことができますように。
聖なる父よ、この午後、説教を通して、あなたの御言葉から私たちを慰めてください。
今、語る唇を割礼し、聞く耳を割礼してください。
そして、すべての心が御言葉を受け取ることができますように。
どうか聖霊が今、神の御言葉を取り、
私たちに必要なとおり、一人ひとりの心へ届けてくださいますように。
イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
アーメン。
41. どうか少しの間、私にお付き合いください。
私の息子が来て、ここに時計を置いてくれました。
それで、私にもちゃんと時間が分かるようにしてくれたのです。
では、よく注意して聞いてください。
そして、どうか私の文法の間違いは大目に見てください。
おそらく聖霊がそれを取り、皆さんの心の中に置いてくださることでしょう。
42. 「主はこう仰せになられる。わたしはあなたがたに回復させる」
であります。
43. そして神は、いつもご自分の民を木になぞらえられます。
「木の命のように、わたしの民もそうである」と。
ユダヤ人は、栽培されたオリーブの木と見なされ、
異邦人は、野生のオリーブの木と見なされました。
そして、たしかゼカリヤ書だったと思いますが、そこでは……
野生のオリーブの木が、栽培されたオリーブの木に接ぎ木されたのです。
またパウロもローマ人への手紙などで、
同じことについて語っています。
それぞれのオリーブの木と、その働きについてです。
それから主はここで、
毛虫、若いいなご、噛み食らう虫、いなごと呼ばれる軍勢が地に来て、
この木を食い尽くしていくことを語っておられます。
44. 今日、地上にあるすべてのものは、創世記から来ているのです。
創世記こそが始まりです。
「Genesis」という言葉そのものが、「始まり」「開始」を意味しています。
そして創世記の中に、今日この世にあるすべてのカルト、
今日存在しているすべての霊が、
その始まりにおいて起こっていたのです。
45. 妻が言うには、このマイクでは、どうも音がこもって響くようなのです。
後ろのいちばん奥のほうまで、ちゃんと聞こえていますか。
聞こえているなら、手を上げてください。
バルコニーの皆さんも、よく聞こえていますか。
ありがとうございます。
もしかすると、私が少し後ろへ下がって立ったほうが、良いかもしれません。
46. 今日、私たちが持っているすべてのカルト、
今日、私たちが持っているすべての宗教は、
創世記において始まったのです。
すべての植物の命、木、
私たちが持っているあらゆるものは、創世記に始まりました。
人間の命も始まり、
動物の命も始まり、
すべてのものが創世記において、
その初めに始まったのです。
47. たとえば、バビロンのようなものです。
バビロンは、初めの書である創世記に現れていることが分かります。
バビロンは、ハムの子であるニムロデによって建てられました。
初めは「楽園の門」と呼ばれましたが、後には「混乱」と呼ばれるようになりました。
バビロンは創世記に現れ、
聖書の中ほどにも現れ、
さらに黙示録にも現れます。
それは偶像礼拝の起源であり、始まりでした。
それはあの時に始まり、ずっと続き、そして黙示録において終わりに至るのです。
バビロンです。
これらすべてのことが何を意味しているのか、よく考慮しなければなりません。
48. 種まく者が出て行って種をまいた、と。
そして、その種がどのように始まり、芽を出し、
それぞれの時代を通って成長していったかを語られました。
先日、ある人が私に尋ねました。
その人は言いました。
「ブラナム兄弟、あなたは、昔ながらのメソジストやバプテストの人々――
賜物の回復など、この大いなる光が地上に来る前の時代に生きた人々――
彼らが復活にあずかると思われますか。」
49. 「アーメン。もちろん、彼らはそうなります。」
農夫がとうもろこしを植えた時、
そのとうもろこしから最初に小さな二枚の葉が芽を出します。
その時、農夫はそのとうもろこしを見て、できる限り喜ぶのです。
とうもろこしが成長していくにつれて、ほかの葉も出てきます。
そして先の葉は古くなり、しおれていきます。
けれども復活において、とうもろこしから実が取り出される時、
それらの葉もまた再び現されるのです。
ルター派の教会は、その時代において世の光でした。
それからウェスレーの時代が来ました。
そしてペンテコステの時代が来ました。
もしイエスがなお遅く来られるなら、
それはさらに次の時代へ、また次の時代へと進んでいくでしょう。
50. 地に落ちたとうもろこしの粒の中にあった同じ聖霊が、今日も同じ聖霊なのです。
それは雄穂へと進み、実へと進んでいきます。
雄穂は、ペンテコステ時代のようなものです。
花粉が出始めたのです。
そして今、実の時代が入って来ようとしているのです。
アーメン。
51. 私は組織そのものに反対しているのではありません。
けれども、宗教を組織化すること――
かつて最初に組織化された宗教は、カトリック教会でした。
その時までは、組織化されたものはありませんでした。
それからプロテスタント教会も、それぞれ自分たちの群れを組織していきました。
そして各々の群れが、それぞれの形を持つようになったのです。
しかし、それらすべての組織の中から、
神は心の清い者を取り出されるのです。
アーメン。
52. 「そのとおりです」「そうなりますように」という意味です。
ある人が言いました。
「ブラナム兄弟、あなたが説教していた時――たしかデンバーだったと思いますが――皆が『アーメン、アーメン』と叫んでいて、どうやって自分の話していることが分かったのですか。」
私は言いました。
「もし誰もそう言っていなかったなら、私は少し心配になったでしょう。」
アーメンとは、「そのとおりです」という意味なのです。
ですから、誰かが「おお、アーメン」と言っても、それで私が興奮するのではありません。
むしろ、それは私を励ましてくれるのです。
誰かが、語られていることを信じているのだと分かるからです。
53. 神がよしとして助けてくださるなら、皆さんに一つの絵をお見せしたいと思います。
アダムとエバによって、最初の罪が犯された後のことです。
私たちは、この世界が完全であったことを知っています。
しかしそこへ、サタンが蛇の中に入りました。
それは爬虫類ではなく、一つの獣でした。
そして母エバを欺いたのです。
そこから罪が入り、
創世記からそれが広がり始めました。
では、少なくとも創世記から二つの霊を取り上げ、
それを教会の流れに沿ってたどっていき、
今日、私たちがどこに生きているのかを見出していきましょう。
54. 昨日、私が語ることになっていると知っていた時に、神がこのことを私に扱ってくださったからです。
それは、フル・ゴスペルの教会が持っている名声、また立場のゆえであり、
そして、どれほど容易に……
55. 「終わりの日には、二つの霊が非常に近いところまで来るので、
もしできることなら、選ばれた者たちをも惑わすほどである。
しかし、その実によって、あなたがたは彼らを見分けるであろう。」
56. それがカインであり、悪魔から出た者でした。
二番目の息子はアベルでした。
皆さんはこう言うかもしれません。
「ブラナム兄弟、あなたはカインが悪魔から出た者だったと言うのですか。」
もちろんです。
彼は悪魔の子でした。
注意して見てください。
また、こう言うかもしれません。
「でも、エバは『私は主によって男子を得た』と言ったではありませんか。」
57. 確かにその通りです。
神だけが創造主であられます。
しかし、彼がその身に受け入れた霊を通して、そうなったのです。
カインの内にあったあの悪いものを、神に結びつけることはできません。
彼は、あの嫉妬深い性質をどこから受けたのでしょうか。
彼の父であるサタンからです。
彼は、あの殺人の霊をどこから受けたのでしょうか。
最初の殺人者の霊です。
それが神から出たなどとは言えません。
それは悪魔から出たものでなければならないのです。
彼は悪魔から出た者でした。
そしてアベルは神から出た者であり、アダムから出た者であったのです。
58. この二人の息子たちは、エデンの園から出て来た後、自分たちが死すべき者であることを悟りました。
そして、自分たちは死ななければならないのだと知ったのです。
なぜなら、神はすでに、すべての死すべきものの上に死を宣告しておられたからです。
彼らは死ななければならなかったのです。
ああ、どうか皆さん、この絵を見ていただきたいのです。
そして、神がよしとしてくださるなら、この午後、ここで一つの実例を示したいと思います。
それでできるかどうかは分かりませんが……。
こちらを「カイン」と呼び、こちらを「アベル」と呼ぶことにしましょう。
子どもたちにも分かるようにです。
59. さて、この二人の息子たちは、自分たちが年を重ねていくこと、
また自分たちが死すべき者であり、いつか死ななければならないことを悟りました。
父と母が衰えていくのを見ていたからです。
カインは土を耕す者となり、
アベルは羊を飼う者となりました。
そして、その少年カインには彼の霊があり、
アベルにはアベルの霊がありました。
この二つの霊は創世記から来ており、今日もなお存在しているのです。
同じ二つの霊が、今日ここニューヨークにも生きているのです。
私はそれを神の御言葉によって証明しましょう。
その通りです。
それらは……から出て来たのです。
60. 今度、私が海外から帰って来て、神の助けによって、ここでいくらか教える時間を持つことができるなら、
皆さんが名前を挙げるどのカルトであっても、
私は神の御言葉によって、それが創世記の中にあることを示すことができます。
その通りです。
それがどこから始まったのかを、示すことができるのです。
61. それはみな、ずっと前からあったものなのです。
ただ、違う名前の下に、姿を変えて隠れていただけです。
たとえば今日、人々はそれを「てんかん」と呼びます。
「てんかんの人だ」と言うのです。
しかしイエスは、それを「悪霊」と呼ばれました。
それは同じ霊なのです。
その少年は水の中に倒れ、口から泡を吹くなどしていました。
けれどもイエスは、それを「悪霊」だと言われたのです。
62. 「devil」という言葉は、「苦しめる者」という意味です。
そして、それこそまさにその正体なのです。
それは悪霊です。
今日では、「cancer」という言葉は、ギリシャ語――いや、むしろラテン語から来ており、
「蟹」のようなものを意味します。
脚が外へ広がっていくようなものです。
それは医学上の名前です。
けれども神は、今なおそれを「悪霊」と呼ばれます。
そしてそれは今もなお、悪霊なのです。
「わたしの名によって、彼らは悪霊を追い出すであろう。」
63. この二人については、一週間でも語り続けることができるでしょう。
けれども今は、要点だけを見ていきましょう。
注意してください。
こちらにいるこの人、カインです。
さて、この人は誰ですか。
カインです。
皆さん、一緒に言ってください。
「カイン。」
そして、こちらは「アベル」です。
64. 不思議に思われるかもしれませんが、
この二人の息子は、どちらも宗教的でした。
二人とも献身的な人だったのです。
カインは、共産主義者でも、不信仰者でもありませんでした。
彼は信じる者でした。
これは皆さんに衝撃を与えるかもしれません。
ですから、しっかり身構えていてください。
よろしいですか。
65. 偽りの信者ではなく、エホバなる神を本当に信じる者でした。
ですから、もし神が人に求めておられるものが、ただ告白すること、また信じることであるだけなら、
神はこの子を救い、あの子を罪に定めるなら、不公平なお方になってしまいます。
そうではありませんか。
もし神への信仰だけが、人に必要なすべてであるなら――
つまり神が求められるものがそれだけであるなら――
この子が神を信じ、あの子も神を信じていたなら、
神が一方を罪に定め、もう一方を受け入れるのは、不公平ということになります。
確かに、そうなってしまうでしょう。
そこで皆さんは言うでしょう。
「ブラナム兄弟、私は教会に属しています。私は神を信じています。」
それは、あなたが栄光の家へ行くかどうかとは、何の関係もありません。
あなたは言うかもしれません。
「ブラナム兄弟、もし私がイエス・キリストは神の御子であると公に告白するなら、私は救われているのですか。」
「いいえ、そうではありません。」
66. そして、今立ち上がって出て行かないでください。
最後まで待っていただければ、なぜ私たちの愛するビリー・グラハム兄弟や、そのほかの方々が、その働きを正しく成し遂げられていないのかが分かるでしょう。
その理由は、人々を十分なところまで導いていないからです。
ただ人々を立ち上がらせて、
「私はイエスを私の救い主として受け入れます。これで決まりです」
と言わせているだけなのです。
67. そこでは三万人の回心者があったと言われていました。
ところが六週間後には、信仰を保って残っている人を三十人も見つけることができなかったのです。
なぜでしょうか。
それはただ、冷たく、涙のない告白にすぎなかったからです。
神が求めておられるのは、死と再生なのです。
そこが問題なのです。
この男は信者でした。
悪魔でさえ、前へ出て来て、はっきりとイエス・キリストを告白し、こう言いました。
「私たちはあなたがどなたであるかを知っています。神の御子です。」
けれども彼らは救われていませんでした。
彼らは悪霊だったのです。
68. それは恥ずべきことです。
私たちは悪の時代に生きています。
そして悪は、たいてい講壇から出て来るものなのです。
もし講壇が清く、まっすぐであり続けていたなら、
今日、これほどのものが世界中に広がることはなかったでしょう。
そして人々が、今しているような振る舞いをしたり、
不信仰の中で生きたりすることもなかったはずです。
69. そして、向こうに大きな教会を持っている、ある人物のことをしきりに話していました。
彼は言いました。
「ブラナム師、あなたはあの人がクリスチャンだと思われますか。」
私は言いました。
「私は、その方がクリスチャンであると信じる以外に、別の理由を持っておりません。」
70. 「あなたがたが話している、その神の癒しだの何だのというものですが……」
そして言いました。
「ご存じでしょう、ずいぶん前のことですが……」
それは立派な、大きな教会でした。
私はその名前を挙げません。
誰かについて語ることを、私は好まないからです。
彼は言いました。
「私たちは西海岸で、最も大きな教会を持っていました。
ところが、あのクリスチャン・サイエンスというカルトがやって来たのです。
そして、どうなったと思いますか。
彼らは私たちの教会から人々を奪っていきました。」
私は言いました。
「もしあなたがたの大きな教会が、イエス・キリストの原則にとどまり、
聖書が教えているように神の癒しを教えていたなら、
そのカルトが海岸にやって来る必要など、なかったでしょう。」
71. 兄弟、飢えた子どもたちは、ごみ箱からでも食べ物をあさるものです。
彼らに神の御言葉を与えなさい。
そうすれば、彼らはいるべき場所にとどまるのです。
それが真実です。
確かにその通りです。
72. もしあなたの教会でそれを教えず、
その人の魂に必要な救いを与えないなら、
彼は堕落した状態にあるとはいえ、神の子なのです。
そして彼は、向こう側を見たいと願っています。
それを見たいと、心から慕い求めているのです。
神が私たち奉仕者を助けてくださいますように。
人々に、まことの生ける神を紹介できるところまで、私たちが至ることができますように。
そして、彼らが告白し、クリスチャンとなった後に、
その魂が飢え渇いて求めているものを、示すことができますように。
73. 彼は神を信じていました。
神を敬っていました。
彼は礼拝するためにやって来て、祭壇を築きました。
おそらく園の東側に祭壇を築いたのでしょう。
なぜなら、そこに、いのちの木を守るため、炎の剣を持ったケルビムが置かれていたからです。
そしておそらく彼らは、園の東側へ上って行ったのでしょう。
そこから主、救い主が来られるのです。
エデンにあった、いのちの木であられるお方です。
そして彼らが、その木の側へ――いや、むしろその守りの所へ上って行った時、
カインは祭壇を築きました。
アベルが祭壇を築いたのと、まったく同じようにです。
言い換えるなら、カインは教会を建て、アベルも教会を建てたのです。
74. 神はこの人を罪に定め、こちらの人を受け入れるなら、不公平なお方になってしまいます。
二人とも礼拝者でした。
カインも、アベルとまったく同じように、ひざまずいて神を礼拝したのです。
それだけではありません。
二人とも、犠牲をささげる者でした。
カインも、アベルが犠牲をささげたのと同じように、犠牲をささげました。
ですから、もし神を信じる者であること、
教会に属すること、
祭壇で祈ること、
犠牲をささげること、
宗教的になること、
それだけが神の求めておられるすべてであるなら、
神はあの人を罪に定めるなら、不公平なお方になってしまうのです。
75. 人々はこう言います。
「教会に行っていればよい。何かの信仰に属していればよい。教会員であれば大丈夫だ。」
それは間違いです。
「人が神の御霊によって新しく生まれなければ、決して御国に入ることはできない。」
その人は永遠に失われているのです。
たとえ手を上げたり、あらゆることをしたとしてもです。
76. 彼は言いました。
「ブラナム兄弟、私はこの五年間、ずっと主を求めようとしてきました。
グラハム先生の集会に行きました。
先生は私に、手を上げてイエスを受け入れなさい、と言われました。
私はそうしました。
けれども、同じ状態のまま出て行きました。
それから、フリー・メソジストの教会へ行きました。
そこでは、叫ぶほど喜びに満たされなければならない、と言われました。
それで私は、そうしました。
けれども、なお満たされないまま帰って行きました。
また、別の人の集会にも行きました。」
皆さんもその方をご存じですね。
ロバーツ兄弟です。まさにそうです。
私の仲間であり、友人です。
彼は言いました。
「ロバーツ兄弟は、『異言で語るまでそこにとどまりなさい。そうすれば、それを受けたのです』と言いました。
それで私は、異言で語るまでそこにいて祈りました。
けれども、それでもなお、私はそれを得ていないのです。」
77. 「私の兄弟よ、ビリー・グラハムがあなたに語ったことは真実です。
そして、フリー・メソジストの人たちがあなたに語ったことも真実です。
また、オーラル・ロバーツがあなたに語ったことも真実です。
しかし、キリストを受け入れるということは、
あなたが叫んだかどうか、
手を上げたかどうか、
そういうことではありません。
それは、人格を持ったお方、キリスト・イエスご自身を、
あなたの心の中に受け入れることなのです。
そして、それらのことは、その後について来る性質、しるしなのです。」
その通りです。
78. 私はりんごを手に取ることはできます。
けれども、それだけでは木を持っていることにはなりません。
キリストです。
新生です。
まずそれを受けるのです。
そうすれば、これらの性質はその木に伴って現れてきます。
その木が、それを生み出すのです。
私の言っていることが分かりますか。
キリストを受け入れるとは、
主イエス・キリストという人格を持ったお方を、
人間の心の中に受け入れることなのです。
アーメン。
79. ああ、メソジストの人々は、叫べばそれを得たのだと思いました。
けれども、やがてそれが間違いであったことを知りました。
ペンテコステの人々は、異言で語りさえすれば、それを得たのだと思いました。
けれども、やがて彼らも、それが間違いであったことを知りました。
彼らは異言で語りながら、どのような生活でもしていたのです。
しかし、主イエスという人格を持ったお方を心の中に受け入れる時、
そのお方はあなたを新しい造られた者、新しい存在にしてくださいます。
その後で、あなたは叫ぶこともできるでしょう。
異言で語ることもできるでしょう。
それは、あなたが主イエスという人格を持ったお方を受け入れたからなのです。
80. 彼は自分の誓いを果たしました。
神を礼拝し、上って来て、自分の犠牲をそこに置き、
ひざまずき、手を上げて、
「エホバよ」と言って、神を礼拝したのです。
まことに、礼拝の形式において神を礼拝していました。
おそらく、こちらの人と同じくらい宗教的であり、同じくらい誠実でもあったでしょう。
しかし、ただ一つ、違いを生んだものがありました。
こちらの人には、神が求めておられるものについての、霊的な啓示があったのです。
81. どうせ今日の後には、皆さんは私を「ホーリー・ローラー」と呼ぶことになるでしょうから、
今からそう呼び始めてもよろしいでしょう。
見てください。確かにそうです。
私はそうなのだと思います。
私はバプテストです。
その通りです。
私はナザレンでもあります。
それも本当です。
私はピルグリム・ホーリネスでもあり、
長老派でもあり、
そしてホーリー・ローラーでもあります。
兄弟よ、私は信じています。
神の御霊によって生まれたすべての人は、神の子であると。
その通りです。
82. 彼には霊的な啓示がありました。
救われるのは行いによるのではなく、恵みによるのだ、という啓示です。
そして、それこそが皆さんがその違いを知る唯一の方法なのです。
今日ここにおられる、私の長老派の方々、ルター派の方々、バプテストの方々よ。
皆さんがそれを本当に知る唯一の方法は、
神が聖霊の力のうちに、ご自身を個人的にあなたに現してくださることです。
そうでなければ、あなたは決してそれを知ることはありません。
イエスご自身が言われました。
聖書もこう教えています。
「聖霊によらなければ、だれもイエスをキリストであると言うことはできない。」
83. あなたは、御言葉が言っていることを口にしているだけかもしれません。
牧師が言っていることを言っているだけかもしれません。
母親が言っていたことを言っているだけかもしれません。
しかし、聖霊が入って来て、あなたをキリスト・イエスという人格を持ったお方の中へバプテスマしてくださる時、
その時あなたは、個人的な経験によって知るのです。
イエス・キリストは神の御子であり、
死者の中からよみがえられ、
あなたの内に生きておられる、
栄光の望みであると。
アーメン。
84. カインには、霊的な啓示がありませんでした。
そして今日の教会の間にも違いを生んでいるのは、まさに同じことなのです。
85. 「人々は、わたしをだれだと言っていますか。」
彼らは答えました。
「ある人は、あなたをエリヤだと言っています。
またある人は、モーセだと言っています。」
すると主は言われました。
「しかし、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
ペテロが答えました。
「あなたはキリスト、生ける神の御子です。」
86. 「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。
なぜなら――神学校があなたにこれを教えたのではない。
あなたが人間の神学から学んだのでもない――
血肉がこれをあなたに明らかにしたのではなく、
天におられるわたしの父が、あなたにこれを明らかにされたからです。
そして、わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる。
黄泉の門も、それに打ち勝つことはできない。」
生ける神の教会全体は、
イエス・キリストについての霊的な啓示の上に建てられているのです。
アーメン。
それなのです。
ああ、何ということでしょう。
今、私は叫びたくなるバプテストのような気分です。
この時間になると、どうも信仰心が燃えてくるようです。
87. それは、そうさせるに十分なものです。
それはあなたを、まったく違った気持ちにさせるのです。
これが、あなたの内側も外側も清めます。
そしてあなたを、キリスト・イエスにあって新しい造られた者にするのです。
ギリシャ語で言うなら、
新しい創造です。
88. 自分は宗教的なことを全部しているから、正しいのだと思っていたのです。
彼は自分の教会へ行き、祈りをささげ、十分の一献金を払い、
さらに少し余分に献金もしました。
彼は立派な教会に属していました。
花や何やらで美しく飾られた、見事な教会です。
それこそ、今日、悪魔が教会をそのようにしてしまったやり方なのです。
89. これは、ただ言っているのではありません。
この講壇の背後に立つ者として、
神は、私が語る一つひとつの言葉について、私に答えを求められるのです。
なぜなら、私の前には、主の血によって買い取られた人々がいるからです。
ですから私は、どの教会も、どの信条も、知る必要はありません。
ただ聖霊が私に語れと言われることを、説教しなければならないのです。
なぜなら、これはノートによるものではないからです。
私は生涯、説教用のノートなど持ったことがありません。
ただ、見えるところでそれをつかみ取り、手を伸ばして受け取り、それを差し出すだけなのです。
荒削りに聞こえるかもしれません。
けれども信じてください。
それは、霊的に言えば、あなたがたを肥えさせるものとなるのです。
注目してください。キリスト、栄光の望みです。
90. 彼は美しさをもって主を礼拝しました。
よく注意してみますと、
美しさそのものが、まず悪魔の側から始まっているのです。
彼は北へ行き、ミカエルをしのぐほどに輝く王国を自分のために築こうとしました。
悪魔はいつも、美しさを扱ってきたのです。
91. この角の小さな伝道所に立っている、年老いた説教者たちのことを見て、
彼らを愚か者の集まりだとか、ホーリー・ローラーだとか呼ぶのです。
しかし彼らは知らないのです。
そこに立っているのが、生ける神の教会であることを。
あの小さな伝道所や、そうした場所の中にこそ、
生ける神の教会が立っているのだということを、彼らは知らないのです。
92. 柔らかな豪華な座席に腰かけ、パイプオルガンの音に包まれ、
あらゆる威厳や、取り繕った姿の中に座っています。
しかし、その始まりがまさに悪魔から来ていることに気づいていないのです。
その通りです。
これは少し、皆さんの気分を悪くさせるかもしれません。
けれども、それは皆さんのためになるのです。
もしそれがあなたの気分を悪くさせないなら、
あなたに何の益ももたらさないでしょう。
93. 私たちは、小さな古い農場で、貧しく育ちました。
母は肉の皮を大きな古い入れ物に入れ、それをかまどの中へ戻し、煮出すというか、脂を取り出したものです。
朝になると、その脂をコーン・ポーンに入れるためでした。
ニューヨークの皆さんには、コーンブレッドとか、そういうものの食べ方は、あまりお分かりにならないかもしれませんね。
94. 大きな古い杉の桶に熱いお湯を注いで、そこでお風呂に入るのです。
それも、皆が同じお湯に入るのです。
私たち子どもは、みんな同じお湯でした。
そしてその後に、大量のひまし油を飲まされました。
私はそれをあまりにもたくさん飲まされたので、今でもその匂いを嗅ぐことさえできません。
私はよく母のところへ行って言いました。
「ああ、お母さん、その匂いを嗅ぐだけで吐き気がするよ。」
すると母は言いました。
「気分が悪くならないなら、効き目はないんだよ。」
95. もしそれが、あなたの宗教的な胃袋をかき回さないなら、
つまり少しも痛みを感じさせないなら、
それはあなたをあまり助けることもないのです。
少し締めつけられるようにしなさい。
こちらの角も、あちらの角も、少しつままれるようにしなさい。
アーメン。
よろしいです。
私は自分で自分にアーメンと言っているのではありません。
けれども、私は自分でも、それを信じているのです。
その通りです。
96. この二人は、どちらも宗教的な息子たちでした。
けれども、神の力は、主イエス・キリストについての霊的な啓示によって知られるのです。
何かの行いによってではありません。
ほかの何かによってでもありません。
それは神ご自身が、あなたの心の中に、
ご自身の人格であられるキリスト・イエスを現してくださることなのです。
そこにこそ、それがあるのです。
97. 後の時代には、それはユダとイエスにほかなりませんでした。
カインが祭壇のところでアベルを殺したように、
ユダもまた、祭壇のところでイエスを殺したのです。
そして注意してください。
アベルは……
98. おそらく百合の花や果物を置き、それらをきちんと並べたのでしょう。
ああ、何と美しいことでしょう。
彼には本格的な儀式がありました。
もし彼が今日の時代に生きていたなら、
その名前の後ろに、D.D.D.だの、ダブルL.D.だの、そうした肩書きを持っていたことでしょう。
彼はひざまずいて言いました。
「エホバよ、私はあなたのために、これらすべてをいたしました。
私の誉れと敬意はあなたに向けられております。
どうか、これをお受け取りください。」
しかしエホバは、彼に背を向けられたのです。
99. 家畜小屋、畜舎のほうからです。
その時代に麻の縄があったとは思いませんので、
おそらく彼は、ぶどうのつるをその小さな子羊の首に巻きつけて、引いて来たのでしょう。
子羊は鳴きながら、十字架から離れようとしていました。
しかしアベルは、その子羊を岩の上に投げ上げました。
彼には槍もありませんでした。
ですからおそらく、鋭い石を拾い、
その小さな頭を後ろに引き、
首を切り始めたのでしょう。
その血が流れ出し……
子羊は鳴き、血を流し、死んでいきました。
100. それは、これまで聞いた中でも、もっとも胸を締めつけられるようなものです。
小さな子羊が死んでいく声を聞くというのは。
そしてアベルは、その子羊の頭を後ろに引き、
その小さな喉を、そのように切っていました。
血が岩の上に、また彼の手の上に、勢いよく流れ出していました。
その小さな白い羊毛も、血に浸されていったのです。
神は見下ろして言われました。
「それだ。」
ハレルヤ。
「それなのだ。」
101. それは、四千年後に、首に麻の縄をかけられて引かれて行く、神の小羊を語っていたのです。
あの十字架の上で、あざけられ、唾をかけられ、
血に染まった髪の房が肩のあたりに垂れ、
血を流し、うめきながら、
死んでいかれるその時、異なる言葉で語っておられた、あのお方を指し示していたのです。
102. いいえ、できませんでした。
彼はその声を知っていました。
けれども、その言葉までは分からなかったのです。
同じように、あのお方が十字架の上で死んでいかれる時、
異言で語っておられた時、
そのお方は、失われた罪人たちのために、
世の基の置かれる前からほふられていた、神の小羊であられたのです。
103. アベルは、自分の子羊が死んだその同じ岩の上で死にました。
そして、イエス・キリストのもとへ来るすべての人――
男であれ、女であれ、少年であれ、少女であれ――
その人は、イエスが死なれたのと同じカルバリーで死ななければならないのです。
自己犠牲です。
その「とこしえの岩」の上に身を横たえ、
自分自身を犠牲としてささげるのです。
自分自身の考え、
自分の理論、
そしてすべてのものを捨て、
完全に聖霊へと明け渡すのです。
確かに、その通りです。
104. その二つの霊が上って来る時、
もし時間があるなら、それらをたどっていきたいところです。
たとえば箱舟の中でもそうです。
鳥の命を通して、それを見ることができます。
また、動物の命を通しても、それを見ることができます。
まだら毛の馬、栗毛の馬、赤い馬などを通してもです。
箱舟を見てください。
ここに箱舟があります。
その箱舟の中には、烏と鳩が座っていました。
どちらも鳥でした。
一方が飛べるところへ、もう一方も飛んで行くことができました。
一方ができることは、もう一方もできたのです。
105. 烏は死んだものを食べて満足しました。
そして、それを平気で消化することができたのです。
けれども鳩は、胆のうを持たない鳥です。
そのようなものを消化することができません。
ですから、鳩は箱舟へ戻って来ました。
それは何だったのでしょうか。
烏は初めから烏であり、
鳩は初めから鳩だったのです。
そして、神の御霊によって生まれたすべての人は、
もはやこの世のものを消化する胆を持っていないのです。
106. 大事なのは、キリストがカルバリーまで持ちこたえてくださった、ということです。
私が何者であるかではありません。
私がキリスト・イエスのうちにあって何であるか、なのです。
なぜなら、主が私のために死んでくださったからです。
私の聖さではありません。
あなたの聖さでもありません。
私たちがその中に立っているのは、主の聖さなのです。
はい、その通りです。
107. 今、もう一つ美しい絵が私の心に浮かんできます。
イスラエルの子らがエジプトから導き出され、
そこを渡り越えて、新しい地へ、
彼らが向かっていたその地へと進んで行った時のことです。
ああ、彼らは上って来ました。
彼らは決して一つの教派ではありませんでした。
彼らは神の民と呼ばれていたのです。
召し出された時、彼らは神の教会だったのです。
108. 神は、ご自身の教会を一つに集めておられます。あらゆる教派の中から呼び出し、ご自身の御名のための民を集めておられるのです。
呼び出された者たち――
「彼らの間から出て来なさい」と。
呼び出され、分離された者たち。
ご自身の御名のための教会なのです。
よく聞いてください。
109. それは何でしょうか。イスラエルとは、こちら側にいるこの群れのことでした。
さて、エデンから出て来た二本の木を見てください。今、私たちがどこに生きているのかを見てみましょう。
こちらにカインが、自分の霊を持って現れます。そしてこちらにアベルが、彼の霊から現れます。彼らはずっと進んで行きます。
さて、イスラエルはここから出て来て、こちら側のものを表しているのです。さあ、彼らを見てください。
彼らが出て来たとき……
110. 彼らが紅海を渡り、敵に対して勝利を得たとき、モーセは御霊の中で歌いました。そしてミリアムはタンバリンを手に取り、岸辺を走り下り、踊りながらタンバリンを打ち鳴らしました。イスラエルの娘たちも彼女に続き、タンバリンを打ち鳴らし、御霊の中で踊ったのです。
もしこれがホーリーローラーの集会でないなら、私は今まで一度も見たことがありません。
彼らはホーリーローラーだったのです。
111. あなたがそれを「ホーリーローラー」と呼ぶのです。私は、生まれてこのかた、そんな名前の教会など聞いたことがありません。
けれども、彼らはそれにそういう烙印を押したのです。それは悪魔が付けた名前です。悪魔がそれをかぶせたのです。
112. 集会の中で、そういうものを見たことがありますか。そういうものを見たことのある人は、どれくらいいますか。手を挙げてください。
ええ、もちろんです。同じ御霊なのです。
それは、あのエデンの園のところで始まりました。そして今日まで続いて来ているのです。
113. 彼らがさらに進んで来たとき、もう一つの群れがありました。彼らが約束の地へ入るためには、モアブを通って行かなければならなかったのです。
そして彼らがそうした時――
さて、モアブ人たちは宗教的な人々でした。モアブは、ロトの娘たちの子どもたちから出て来た者たちです。父と娘から生まれた系統です。
そしてモアブはこちら側にいました。ここにモアブの霊があります。
さあ、見てください。こちらからイスラエルが来ます。そしてこちらにモアブがいます。イスラエルは人を遣わして、そこを通らせてもらえるかと尋ねました。
彼は言いました。「いいえ、だめです。」
分かりますか。彼はこの者に反対しているのです。
それで彼らには、向こう側に一人の預言者がいました。非常に宗教的な人でした。そこで彼らは、その預言者を呼びに行き、この民を呪わせようとしたのです。
114. 根本主義的な教会とフル・ゴスペルの対立です。
根本主義――ええ、私はここにいる、ただ儀式ばかりを重んじるような人たちのことを言っているのではありません。根本主義的な教会のことを言っているのです。
カインは根本主義者でした。
115. モアブ――エホバなる神を信じている者たちです。
イスラエル――こちらもエホバなる神を信じている者たちです。
ここにイスラエルが、山々のふもとに宿営していて、その地を通らせてもらいたいと願っています。
そこに彼の兄弟であるモアブがいて、こう言うのです。
「それはできません。」
116. そして彼がそこへ向かう道の途中で、らばが異言で彼に語り、それをしてはならないと告げました。
そういうことです。
けれども彼は、それでもなお進んで行きました。そうでしょう?
そして彼が、その者のいる所まで下って来たとき……
117. その説教者は言いました。
「私のために七つの祭壇を築きなさい。」
七は神の完全数です。
「そして、その上に七頭の雄牛をいけにえとしてささげなさい。」
清い犠牲です。
そしてイスラエルも、七つの祭壇を持っていました。神が求められたものです。彼らも七頭の雄牛を持っていました。
根本主義と言うなら、彼らはどちらも根本主義でした。
それから彼は言いました。
「ここに七頭の雄羊も置きなさい。」
雄羊は何を語っているのでしょうか。宗教を教える者なら誰でも知っているように、雄羊は「主イエスの来臨」を語っていました。
ですから彼らには、いけにえがありました。こちらに七頭の雄羊、あちらにも七頭の雄羊があったのです。
118. ここに一人の人がいて、七つの祭壇の上に、七頭の雄羊、七つの清いいけにえをささげています。
七つの祭壇、七頭の雄羊、七頭の雄牛――まったくその通りです。
どちらも同じでした。根本主義という点では、両方とも、できる限り根本主義的だったのです。
119. もし神が求めておられるものが根本主義だけであるなら、なぜ神は彼らを、こちらの人々と同じように受け入れなかったのでしょうか。
もし教会で教えられている根本主義こそが、神の求めておられるすべてであるなら、神が彼らのいけにえを拒み、こちらのいけにえを受け入れるのは、不公平なことになってしまいます。
神が不公平になってしまうのです。
分かりますか、その霊が。
さて、初めにいたのは誰でしたか。カインです。
その霊が生き続けて、上がって来ているのを見てください。
120. そして、どちらもひざまずき、同じ神に祈っていました。その通りです。どちらも同じ神を信じていたのです。
これは今日の、根本主義的な教会と、フル・ゴスペルの教会を表す、実に美しい絵なのです。
まさにその通りです。
121. 「では、何が違うのですか。」
ちょっと待ってください。聖霊にそれを明らかにしていただきましょう。
ここにそれがあります。
彼らは、こちら側の人々と同じくらい、まったく根本的な形でいけにえをささげていました。
さあ、見てください。
こちら側にいるこの型の人々は、組織された集団でした。彼らは自分たちの国を持っていました。
122. 彼らはどこにも属していませんでした。自分たちの国も持っていませんでした。彼らはさまよう者達であり、旅人であり、巡礼者(寄留者)達でした。ハレルヤ!
彼らには何もありませんでした。彼らは組織化されていなかったのです。
123. 彼らはそちらを眺めて、こう言ったのです。
「見ろ、あのならず者たちを。まあ、彼らには何もないではないか。国でさえない。あれはただのヒッチハイカーの集まりだ。通りすがりに、手に入るものを何でも取って行こうとしているだけだ。」
けれども彼らは、少しも分かっていませんでした。
それこそが、生ける神の教会だったのです。
124. 「我々は偉大な国だ。では、彼らは何者だ。残りかすのような連中、ホーリーローラーの一団ではないか。」
そして言いました。
「我々はエホバがどなたであるかを知っている。もちろん、我々はその方を信じている。ここには巻物も全部そろっている。すべてがここにある。いけにえもささげているし、神を礼拝している。」
そして言いました。
「よし、あそこへ下って行って、あのホーリーローラーの一団を呪ってやろう。」
また言いました。
「彼らが何をして来たか見てみろ。自分たちの母親と共に生活し、あらゆる無教養なことをして来たではないか。」
125. しかし、彼らが見落としていたものが、ここにあります。
彼らは、青銅の蛇を見落としていました。
打たれた岩を見落としていました。
そして、火の柱を見落としていたのです。
彼らが見落としていたのは、そこでした。
それで彼は、そこへ上って来ました。なぜでしょうか。
彼らは、ただ根本主義的でさえあれば、それでよかったのです。
それ以外のことには関心がありませんでした。
そして今日も、それと同じなのです。
126. 彼は、主の誕生を信じています。処女降誕を信じています。
主の死、復活、昇天を信じています。
イエス・キリストの再臨も信じています。
彼は、できる限り根本主義的なのです。
聖書について彼と議論しようとしてはいけません。
彼は、自分の言っていることをよく分かっています。
私もその教会から出て来た者ですから、分かるのです。
はい、その通りです。
彼は、どんなフル・ゴスペルの人にも劣らないほど、根本的なことを信じています。
けれども、彼は完全な福音を受け入れることができないのです。
それを腹に収めることができないのです。
その通りです。
彼の理解が正しくないのです。
アーメン。
127. よろしいですか。注目してください。
今、私たちがこれを神の栄光のために、しっかりと打ち込んでいく間、どうか聖霊が静かに臨んでくださいますように。
128. ここに、礼拝している人々がいました。
ここに、地上の諸部族、諸集団が礼拝していました。
一方は、谷の下にいました。
ホーリーローラーの一団としてです。
もう一方は、丘の上にいました。
偉大で、威厳ある国としてです。
129. 彼は、すべての高官たちを呼び集めました。長い立派な衣をまとった人々、すべての君たちが周りに立ちました。
そして、神が求めておられた通りに、祭壇があり、いけにえがありました。彼らは祭壇に火をつけ、火が燃え始めました。
すべての高官たちは手を上げて、こう言っていました。
「偉大なるエホバよ、あなたは私たちをご存じです。この偉大な国をご存じです。私たちがどれほどあなたを愛し、どれほどあなたを礼拝しているかをご存じです。
そして今、下の方を通って来るこの一団をご覧ください。どうか、あの一団を呪ってくださるように祈ります。」ただただ、宗教的でした。
130. 下の方にいて、組織されておらず、ただ天幕に住む者たちの集まりでした。そこには罪もあり、いろいろなこともありました。
それでも、彼らは同じいけにえをもって、神を礼拝していたのです。
もし根本主義だけが神の求めておられるすべてであるなら、この人もイスラエルと同じように正しいはずでした。
分かりますか。
違いを生んだのは、ここなのです。
131. 神はもう彼に言っておられたのです。
「あの民を呪いに行ってはならない。わたしが彼らを祝福しているからである。」
それなのに、彼はどうしてもそれをしに下って行きます。
強情だったのです。
金が欲しかったのです。
誇りが欲しかったのです。
自分の名前に神学博士号でも付けたかったのでしょう。あるいは何か、そういうものを欲しがっていたのです。
彼は大物になりたかったのです。私たちが言うところの、「大物気取り」になりたかったのです。
この表現は失礼かもしれません。世間で使われる言い方ですから。しかし、その方があなたがたには分かりやすいでしょう。
注目してください。
彼はそこへ下って行きました。自分を何者かにしたかったのです。
それで彼は、名を上げ、名声を得るために下って行きました。
そして、神に会おうとして進み始めたのです。
神は彼に会われました。
132. 王バラクは彼をこちらへ連れて戻り、イスラエルの最も端の部分、イスラエルの後ろの方を見せました。
そうでしょう、聖書を読んでいる皆さん?
最も端の部分、いちばん悪く見える部分です。
彼は、この部分を見せたくなかったのです。
だから、最も端の部分だけを彼に見せたのです。
133. 私たちを「狂信者だ」「頭がおかしい」などと呼ぶ人々は、ただ一番悪い部分だけを指さそうとしているのではないか、と。
彼らは言います。
「私は、他人の妻と逃げたホーリーローラーの説教者を知っているぞ。」
ええ、そして私も、同じことをしたバプテストや長老派の人々をたくさん知っています。
けれども、あなたがたはそれを黙って隠しておけるほど大きいだけです。
しかし、神はそのすべてをご存じです。
その通りです。
さて、彼らは言いました。
「ただ、その一番端の部分を見てみろ。」
134. 「さあ、戻りなさい。」
彼は彼らを呪うために戻って行こうとしていたのです。
しかし神は言われました。
「あなたは引き返して戻り、わたしがあなたの口に置くことだけを、そのまま語りなさい。」
アーメン。
私はそこが好きです。ああ、本当に。
135. 彼はそこへ戻って行き、その民に呪いをかけようとしました。
ところが、呪う代わりに、彼はイスラエルを祝福したのです。
そして神は言われました。
「わたしはあなたを山々の頂から眺めた。
そして、あなたのうちに不義を見ない。」
ハレルヤ!
そこなのです。
それは選びです。
神は言われたのです。
「わたしは、こんな小さな場所から彼を見たのではない。
わたしは彼を山の頂から見たのだ。
そして、まったく不義を見ない。」
ハレルヤ。
そこに、真の教会があるのです。
はい、その通りです。
136. もし彼らがどちらも原理主義であり、どちらも聖書に立つ教会であり、どちらも同じ教理を教え、どちらも同じであったなら、何が違いを生んだのでしょうか。
神が、しるしと不思議によってイスラエルを認証されたのです。
137. フル・ゴスペルと原理主義の間で、神はご自分の教会を、しるしと奇跡によって認証しておられるのです。
生ける神の教会が動いている時には、神はいつも、そこに癒しがあり、力があり、しるしがあり、奇跡があるようにされました。ハレルヤ!
彼らには、以前から持っていたものがありました。青銅の蛇がありました。彼らの前にはキリストがありました。彼らは言います。「私たちにも、それはある。」
けれども、神はそれを認証されませんでした。神は言われたのです。「ここに、それがある。」
138. 神は、フルゴスペルを認証しておられます。
しるしと不思議と奇跡を彼らに与えることによってです。
ところが、こちらの人々はそれを否定するのです。
ハレルヤ!
ああ、本当に!
それを思う時に!
私はあの木から離れて、こちらに乗り移った時、幻を見たのです。
今日、私はホーリーローラーであることを喜んでいます。
今日、私は神を信じていることを喜んでいます。
しるし、不思議、奇跡、そしてそのようなものを信じていることを喜んでいます。
それは、生ける神の認証なのです。
ハレルヤ!
それが違いだったのです。
139. 彼らは、こちらの人々がささげていたのと同じいけにえをささげていました。
しかし神は、上から見下ろしておられました。
ちょうどカインとアベルの時とまったく同じようにです。
神は彼らを退け、こちら側にご自分のしるしを置かれたのです。
栄光!
140. 学がないかもしれません。
しかし、神がどなたであるかを知るだけの分別は持っています。
神が彼らのただ中に来られる時、彼らは神に自由に働いていただくのです。
そして、その働きには、しるしと不思議が伴うのです。
ハレルヤ!
それは真理です。
神はいつも、ご自分の教会を、しるしと不思議によって認証されます。
それはいつの時代にも、神のしるしでした。
王の陣営には、勝利の叫びがあるのです。
今日、王は陣営の中におられます。
一群の民のただ中におられるのです。
141. ニューヨークのような、七百万人もの人がいる町で、午後の集会にここに座っているのは、おそらく千人ほどです。
そこに、その人々の心がどこにあるかが表れています。
そこに、その人々の宝がどこにあるかが表れているのです。
142. その人が、どこかの偉大なハートフォード大学を出たとか、あるいは英国のオックスフォードを出たとか、そういうことで、ここに立たせるのです。
そうすれば、何万人もの人々が群がって来るでしょう。
その人に尋ねてみなさい。
「あなたは神の癒しを信じますか。」
「いや、とんでもない。信じるはずがありません。」
「しるしと奇跡を信じますか。」
「ああ、それは昔の時代と共に過ぎ去ったものです。」
143. 「しばらくすれば、世はもはやわたしを見なくなる。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしは世の終わりまで、あなたがたと共におり、しかもあなたがたの内にいるからである。」
ここに、その方がおられるのです。こちら側にです。
ハレルヤ!
さて、人は言うでしょう。
「彼らは教育を受けていない。」
しかし主は言われました。
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである、と主は言われる。」
神学校によるのではありません。
学位によるのでもありません。
わたしの霊によって、わたしはわたしの教会を認証するのだ、ということです。
アーメン。
あなたは言うでしょう。
「ブラナム兄弟……」
144. 見てください、上って行くのです。
そしてそれは、パリサイ人たちの中に入りました。
彼らは、できる限り宗教的な人々でした。
彼らは、原理主義的なものをすべて持っていました。
この木から来られたイエス・キリストと同じくらい、原理主義的だったのです。
しかし、イエスがそこにおられた時、主はパリサイ人たちのように大群衆を呼び集めることはできませんでした。
彼らなら、いつでも二百万のユダヤ人を集めることができました。
けれども、イエスの小さな群れは、千人から、多くても五千人ほどでした。
主のことばを聞いた、貧しいガリラヤの人々だったのです。
145. 彼らはどちらもイザヤ書を読んでいました。
どちらもエレミヤ書を読んでいました。
しかし神は、しるしと不思議によって、イエス・キリストを認証されたのです。
ペンテコステの日に、ペテロが彼らにそう告げたではありませんか。
彼は言いました。
「イスラエルの人々よ。ナザレのイエス、神によってあなたがたに認証された人――」
どのようにしてでしょうか。
その神学によってでしょうか。
その偉大な学識によってでしょうか。
「あなたがたの間で行われた、しるしと不思議と奇跡によって」です。
アーメン!
146. 海を越えて向こうの国々へ行くと、人々がやって来て、こう言います。
「私は宣教師です。」
彼らは、そういうものにはもううんざりしているのです。
その通りです。
向こうへ行って、何か新しい神学を教えようとするのです。
彼らは、私たちが国になる前から、聖書を知っていました。
彼らは言います。
「私たちは宣教師だとか、新しい神学など求めていません。
私たちが求めているのは、神の御言葉を生きたものとし、それを語ることのできる人なのです。」
147. よみがえられたイエス・キリストが、ご自身の存在を教会の中に力として現してくださることです。
世界が見たいと願っているのは、まさにそれなのです。確かにそうです。
どれほど根本主義的であっても、どれほど神学が整っていても、どれほど聖書を通してそれを訓練してきたとしても、もし神がそれを証ししてくださらないなら、それは間違っています。そして、あなたも間違っているのです。
「文字は殺し、御霊は生かす。」
アーメン。
148. けれども覚えておいてください。私は、次にあなたがたに会うのは、裁きの時になるかもしれないのです。
私はこれまでずっと、あなたがたに正直に語ってきました。
そして今も、正直に語っています。
私はこれらのことについて、裁きの時に答えなければならないのです。
よく見てください。
根本主義的なもの――カインとアベル、イスラエルとモアブ。
さあ見てください。イエスが来られました。
では、イエスはどの木から出て来られたのでしょうか。
アベルの系統からです。
149. まさにその同じ群れが、主を十字架につけました。
彼らは、あなたがたを殺すことさえ、神に仕えることだと思って行う、と言いました。
それは、私たちにとって、なお将来にあることです。
その通りです。
そこに、その群れがいるのです。
同じように宗教的で、同じように根本的で、聖書を教えている。
それはどこから始まったのでしょうか。
[テープに空白箇所]
150. 神はご自分の人を取り去られますが、決してご自分の御霊を取り去られることはありません。
悪魔も自分の人を取り去りますが、その霊を取り去ることはありません。
同じ御霊が、エリヤの上にあり、エリシャの上に臨みました。
それから何百年も後に、バプテスマのヨハネの上に現れました。
そして終わりの日に、再び来ると預言されています。
分かりますか、どれほど根本的でしょうか。
どうしてそうなるのでしょうか。
けれども神は、しるしと不思議によって証ししてくださるのです。
151. ――急いで進めますが――
偉大な聖パウロは、死ぬ前にテモテへ手紙を書いて、こう言いました。
「終わりの日には」
――この日です。この時代です。あなたがたは、今が終わりの日だと信じますか?――
「困難な時代が来る。人々は自分自身を愛する者となる。」
「さあ、ちょっと言わせてもらおう。私は学位を持っているんだ。」
「自分を愛する者……」
「私は一番大きな教会に属している。我々は……」
「自分を愛する者、誇る者、高ぶる者、神をそしる者、向こう見ずな者、思い上がる者、神を愛するよりも快楽を愛する者、契約を破る者、偽りを言いふらす者、自制のない者、善を憎む者となる。」
「ああ」と、あなたは言うでしょう。
「ブラナム兄弟、それはきっと共産主義のことですね。」
いいえ、違います。
それは根本主義者たちのことです。
「ああ、何ですって? その人たちが? いや、彼らは悪魔のような者で、彼らは……」
152. 聖書はこう言っています。
「彼らは敬虔の形を持っているが、その力を否定する。」
そうでしょう?
聖霊がそう言われたと信じる人は、どれくらいいますか?
まさにその通りです。
彼らは敬虔の形を持っているのです。
ちょうどカインが、自分の礼拝を持っていたように。
ちょうどモアブが、自分の礼拝を持っていたように。
ちょうどカヤパが、自分の礼拝を持っていたように。
そして今日の根本主義者たちも、自分たちの礼拝を持っているのです。
「敬虔の形を持っているが、その力を否定する。」
その力は、アベルからずっと流れて来たものなのです。
アーメン。
153. ただ、こちら側へ来てごらんなさい。
こちらがどんなものか、味わってみてください。
私が小さな男の子だったころ、よく走って行って、水の中へ飛び込んだものです。
最初に入った者が手を上げるのです。
もし水が冷たければ、指を一本立てて、
「うう、冷たいぞ」と知らせました。
もし指を二本立てれば、水は暖かいという意味でした。
さあ、来てください。入ってごらんなさい。
私は今日の午後、指を二本立てています。
水はいい具合です。
さあ、入って来てください。
どんなものか、見てください。
今、水は動いています。
聖霊が動いておられるのです。
ああ、何ということでしょう。
154. そこに神の教会があります。そこに神が住まわれるのです。
神がおられるところには、しるしと不思議が伴います。
こちらには、敬虔の形はありますが、これを否定しているのです。
さて、今日、大きな教会へ行けば――バプテスト、長老派、ルーテル、メソジスト、長老派、どこへ行っても、カトリックでも、どこでも――実際にはこちら側のことを信じている人が大勢います。
けれども、彼らはそれを受け取ることができません。
自分の教会を離れない限り、できないのです。
それで、主イエスを受け入れる代わりに、教会にしがみついているのです。
155. 小さな年老いたヤイロを見てください。彼はイエスを信じたので、教会がイエスを追い出すのでイエスのところに来ることができませんでした。しかし、彼は一度必要になり、癒しを求めて来なければなりませんでした。
そこにいるわ。彼らの多くは、境界線の説教者、今日では秘密の信者です。そこにいるわ。
156. ああ、降りて乗ることをお勧めします、兄弟。創世記から、彼らはそこにいる。私たちは今、この種の中に身を置いている。
162. それから聖霊は私にこれを明らかにし始めます: “ご存知ですか、かつて彼らは大きな木でした?なぜ彼らは今動けないのですか?”
163. 私は思いました。「その通りです、主よ。まさにその通りです。これこそ今日の教会です。彼らは大きく高くそびえる尖塔を立て、そこに大きな名を掲げています。何か大きな教会のように見えるのです。
しかし、メソジスト派が残したものをバプテスト派が食い、バプテスト派が残したものを長老派が食い、長老派が残したものをルーテル派が食ったのです。
そして気がつけば、すっかり剥ぎ取られてしまい、そこにはただ、大きな古い墓石のようなものが立っているだけなのです。」
まさにその通りです。
164. そして私は言いました。「主よ、その通りです。あなたは天から風を送られます。ペンテコステの日に下った、あの激しい大いなる風です。
そしてそれが、あの古い教会たちに当たると、そこから出て来ることができるのは、ただこういう声だけなのです。
『ううう、奇跡の時代は過ぎ去った。
ううう、神の癒しなどというものは存在しない。
ううう、あの人たちには近づくな。』
まさにそのようになるのです。
そして私は思いました。『確かに、彼らもかつては木でした。しかし、今は死んでいるのです。』」
165. しかし、時代が経つにつれ、また食い尽くす虫や、かみ食らう虫、そして教会の倫理規定や、その他もろもろのものが、教会の中から、いのちを与える源をすっかり食い尽くしてしまったのです。
彼らは奇跡を取り去ってしまいました。
166. 私はウェスレーの教科書を、自分で持っているのです。
彼がここアメリカにいた時、ある女性のために祈りに行こうとして、馬に乗っていました。すると、その馬が倒れて脚を折ってしまったのです。
彼は馬から降り、自分の油注ぎの油を取り、その馬に油を注ぎました。そして、その馬に乗って去って行ったのです。
ハレルヤ!
それが、教会が動いていた時代なのです。
167. 寄生虫が教会の中に入り込んだのです。別の新しい世代が起こって来て、こう言いました。
「神の癒しなどというものは存在しない。そんな馬鹿げたことはやめた方がいい。この叫んだり騒いだりするような、こういうことは全部やめた方がいい。教会をもっと教養あるものにしなければならない。」
168. それを教会から取り去ってしまえば、教会からいのちを取り去ることになります。そうすれば、教会は成長をやめてしまいます。その通りです。
そして神が、ペンテコステの日になさったように、聖霊を下してくださる時、あの激しい大いなる風のように臨まれる時、教会がすることといえば、ただうめき、呻りながら、こう言うだけなのです。
「そんなものは存在しない。」
169. それは、あなたが死んでいるからです。まさにその通りです。
なぜでしょうか。そこにいのちがないからです。
あなたはただそこに立っているだけで、風が真正面から吹きつけて来るのです。
そしてあなたがたは言います。
「新聞にしるしが出ている。
『この人は昨夜、通りに出て来た時には足の不自由な人だった。しかし今日は歩いている。
昨夜、壇上に目の見えない女性がいた。しかし今日は見えている。』」
170. 「おお、それは精神感応だ。奇跡の時代は過ぎ去ったのだ。」
そして聖霊は、彼らのすぐ上を吹き渡っておられるのです。
私は思いました。
「おお神よ、望みはあるのでしょうか。」
すると、
「ヨエルは言った。『わたしは回復する、と主は言われる。』」
私は思いました。
「では、なぜあなたは回復されるのでしょうか。」
171. 新しい木々の群れが生えて来ていました。小さな、小さな木々です。しかも、それらは緑だったのです。ああ、風がそれらに当たるたびに、それらはしなやかに揺れていました。いのちに満ちていて、喜ぶことができたのです。
私は言いました。
「ハレルヤ! これです、主よ。昔ながらの聖霊の集会が近づいて来ています。あなたは新しい下生えを起こしておられるのです。」
「わたしは回復する、と主は言われる。」ハレルヤ!
「わたしは回復する、と主は言われる。」
172. 私は思いました。「あの小さな木々は、何のために揺れているのだろうか。」
その風がそれらに当たると、小さな木々はただ風と共に動いていました。風がどのようにそれらをねじっても、後ろへ、前へ、ぐるりと、逆さまにさえなっても、気にもしません。ただ風と戯れていたのです。
そして、新しく生まれた教会とは、まさにそのようなものです。聖霊が彼らに臨む時、彼らはあらゆる仕方で喜び踊るのです。ハレルヤ!
「それはなぜでしょうか。」
神は言われました。
「わたしは回復する、と主は言われる。毛虫が残した日々、彼らが食い尽くしてしまったものを、わたしは回復する。」
173. 「確かに彼らはまだ若く青いです、主よ。けれども、風に身をゆだねることを知っているほどには、十分に青いのです。」
そして私は思いました。
「あの風は、何のために彼らを吹くのだろうか。」
それはただ、彼らをゆるめて、もう一つ大きな根を張らせるためなのです。根が下へ伸びていけるように、地面をゆるめるのです。そうすることで、その小さな木はさらに深く掘り下げ、よりしっかりと根を張ることができるのです。
そして、聖霊が吹き抜けるたびに、しるしと不思議を伴う大きなリバイバルを送られるたびに、それはただ、人の心をキリスト・イエスのうちに、より堅く据えるのです。
そこなのです、友よ。そこなのです。
174. 私が責めているのは、あの冷たく、儀式的で、形式的なものです。それが人々の魂を地獄へ引きずって行っているのに、彼らはそれに気づいていないのです。
「信心深い形は持っていながら、その力を否定している。」
メソジスト教会の中にも、神の癒しと神の力を信じている人々がいます。バプテスト教会の中にも、同じようにいます。長老派教会の中にも、そしてほかのすべての教会の中にも、同じように信じている人々がいるのです。
175. あなたのいるべき場所はここです。こちら側です。イエス・キリストの中です。
そこでは、あなたは生きており、神があなたがたの間で、しるしと不思議と奇跡を行っておられるのです。
「わたしが回復させる、と主が仰せになられる。」
176. それらはエデンから出て来たのです。ここにあります。
その二つの霊は、そのまま上って来ました。まったく同じように、原理的には正しいところまで上って来たのです。私の言っていることが分かりますか。
彼らは原理的には正しいのです。神を信じ、神を礼拝し、教会に行き、十分の一を納め、犠牲をささげ、聖書全体を信じています。
けれども、神の力を否定しているのです。異言を語ること、叫ぶこと、解き明かすこと、しるしと不思議と癒しがあることを否定しているのです。
「信心深い形は持っているが、その力を否定している。」
聖書は言いました。
「そのような者から離れなさい。」
その通りです。
ここに、入るべき教会があります。
「ブラナム兄弟、どうやってその中に入るのですか。ペンテコステ派の領域に加わるのですか。」
いいえ、違います。ペンテコステ派の領域も、それに関しては、あの人たちと何ら変わりません。彼らも同じように組織化され、同じように冷たく、儀式的になっているのです。
177. それこそが、本当の、真実な、生ける神の教会です。
長老派であっても、メソジストであっても、カトリックであっても、その他どこに属していても、神の御霊によって生まれているなら、その人々はその教会の中にいるのです。聖霊のバプテスマによって、その教会に入っているのです。アーメン。
彼らの教派の札など、それとは何の関係もありません。
彼らは、神の選びによって、神の力によって、彼らの内におられる復活されたイエス・キリストによって、神の子どもたちなのです。
彼らは、教会がそれについて何と言おうとも、超自然を信じているのです。
私は、ずいぶん信仰的な気持ちになってきました。アーメン。
ああ、私はどれほど主を愛していることでしょう。どれほど主をほめたたえていることでしょう。どれほど主を見ることを愛していることでしょう。
178. 「ブラナム兄弟、あなたはほかの教会を責めているのですね。」
いいえ、違います。私はそうしていません。私はその人々を責めているのではありません。
私が責めているのは、それらの組織です。人々に、信心深い形だけを教え、その力を否定するように教えているからです。
しかも、その人々自身は、これが真理であると信じているのです。
179. あなたが心を尽くして神を信じ、主イエスをあなたの心に受け入れるならよいのです。
形式的なものの中にいるときには、信じることはできません。そこには、信じるためのいのちがないからです。
少し前に、立派な教会員の方が私に言いました。
「ブラナム師、何が起ころうとも、私はそのようなことは一切信じません」と。
180. 「もちろん信じられないでしょう。これは信じる者のためのものです。不信者のためではありません。信じる者のためなのです。
『信じてバプテスマを受ける者は……そして、これらのしるしが……』
“たぶん”ではありません。確かに、です。
『これらのしるしは、信じる者に伴う。』
これはイエスご自身のお言葉です。そうではありませんか?」
すると彼は言いました。
「いや、ブラナム兄弟、それは使徒たちだけのためのものでしょう。」
181. イエスはこう言われました。
『あなたがたは全世界に出て行き、すべての造られた者にこの福音を宣べ伝えよ。』
世界の三分の二は、まだそれを一度も聞いたことがないのです。
『これらのしるしは、全世界において、信じる者に伴う。わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい異言を語り』、そのほかにも、『病人を癒す』のです。
敬虔の形を取りながら、その力を否定する者たち。
そのような者たちからは離れなさい。」
182. そして、どこで終わろうとしているか分かりますか。ここです。
原理主義的でしょうか。イエスは、それがあまりにも近いものなので、もし可能なら、選ばれた者たちをも惑わすほどである、と言われました。
183. 「私はメソジストにはなりません。バプテストにもなりません」などと言ってはいけません。
兄弟よ、もしあなたがペンテコステ派であっても、ただ「ペンテコステ派だから」というだけで、敬虔の形を持ちながら、その力を持っていないなら、あなたも彼らと同じように死んでいるのです。
その通りです。
ペンテコステ教会があなたを救うのではありません。
あなたを救うのは、イエス・キリストです。
その通りです。
あなたは言うでしょう。
「でも、ブラナム兄弟、私はどうしてもそこまで行けません。」
184. 私がこれまで出会った中で、信仰をいちばん大きく否定した人は、ペンテコステ派の説教者でした。
私が南部にいた時、大きな集会を開いていました。主が祝福してくださっていて、大きな会場でした。
そして彼は、ペンテコステ派の中でも最大級の組織の一つに属する、数百席もの椅子を持っていました。
そこで私のマネージャーたちが彼のところへ行き、その椅子を一日一脚五十セントで借りることができるか尋ねました。
すると彼は言いました。
「この神の癒しを信じるような人間を、私の椅子に座らせるつもりはありません。」
ペンテコステ派の人が、です。
ですから、「自分はペンテコステ派だ」などと言って、思い上がってはいけません。
あなたはキリストに属していなければなりません。そうでなければ、失われているのです。
その通りです。
187. さあ 見て。見えますか?私の言っていることがお分かりでしょう、エデンからあの二つの霊が来るのがお分かりでしょう、それをご覧になれば、たとえば、“アーメン”
これがいかに基本的なものであるかがわかりますか?それは根本的に消えます。
そしてこれは基本的なことであり、さらに、しるしと驚異である神の力の正しさの証明でもありました。あれが見える?教会があります。私の言いたいことがわかりますか?信者です。
190. そして私は言いました、「“聖書にはそんなことをした女性が一人いました。」。女性は神に会うために顔を描いたことはなく、男性に会うために顔を描きました。そしてそれがイゼベルでした。イゼベルは彼女の顔にペンキを塗り、頭に丸いタイヤを巻き付けて、ある男に会いに行きました。”
191. 私は冗談のためにそれを言ったのではありません;私は冗談を信じていません、ここは説教壇です。でも、言っておくけど、兄弟、あなたたち女性のやり方は恥ずべきことだ…そして彼女たちは…
193. 兄はよく歌っていました:
私たちは鉄格子を下ろした、鉄格子を下ろした、
私たちは罪と妥協します
私たちは鉄格子を下ろし、羊は出て行きました、
しかし、ヤギはどうやって入ったのでしょうか?
あなたはバーを失望させました;それがやったことです。その通り。
198. ああ、あなたは今私を愛していませんが、兄弟、審判の日に私があなたに真実を話したことはわかるでしょう。そうだね。
203. 彼は言った、「“わたしの血は、ここ何年も、あなたの罪のバンパーとして機能してきました。」”
私は思いました、“主よ、私の罪はそんなことをしたのでしょうか?”
言った、“はい。” 私がそこに横たわっているのを見ると、そこには罪についての古い本が横たわっており、私の名前が書かれていました。
205. 彼は言いました。“さて、私はあなたを許しますが、あなたは彼女を非難しています。”
私は言いました、「“神よ、私を憐れんでください。」。私は彼女を非難しません。主よ、私はもう彼女を非難しません。”
そこです。それは世界が切望している愛です。私はあなたの教会を非難しているわけではありません、兄弟。
私は彼女のところへ行き、ビジョンが終わった後、降りた。男たちは立ち上がってトイレかどこかに出かけました。そして私は言いました、“レディ?”
彼女は言いました、“こんにちは、ハニー。” 彼女は私の周りに腕を回し始めました。
私は言いました、“ちょっと待ってください、お嬢さん。” 私は彼女の手を取った。私は言いました、“あなたは母親ですか?”
彼女は言いました、“ああ、はい。どうして分かったの?”
私は言いました、“あなたに聞きたいことがあります。” 私は言いました、“私はブランハム牧師です。聞いたことありますか?”
“ああ、” 彼女は言いました、“このアリーナにいる男。うん。” 言った、“知り合えて嬉しいよ。”
そして私は言いました、“あなたはクリスチャンだったことがありますか?” そして私は彼女の目が色づいているのを見ました、すぐに彼女は泣いていました。
206. そして先に進み、話し始めてください、と私は言いました、“お嬢さん、イエスはまだあなたを愛しています。” 私は彼女にビジョンを話しました。
彼女は言いました、“今彼が私を連れて行ってくれるということですか?”
219. 私たちが立っている間、バーグ兄弟にここで祈り続けてほしいとお願いしたいと思います。バーグ兄弟。