「罪の残酷さと、それを私たちの人生から取り除くために要した代価」

The Cruelty Of Sin, And The Penalty That It Cost To Rid Sin From Our Lives

「罪の残酷さと、それを私たちの人生から取り除くために要した代価」

ジェファソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国

説教番号: 53-0403

日付: 1953年4月3日(53-0403)

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1. 今夜ここへ来るために、ほとんどベッドから這い出すようにして来ました。インフルエンザにかかっているのです。それでも、ここに来ると約束していました。そこで私はネヴィル兄弟に、コックス兄弟を上がらせて伝えてもらうように言いました。私は言ったのです。
「ネヴィル兄弟に、集会をそのまま進めてくださいと伝えてください。私は声がかすれていて、ほとんど声も出せないほどですから。」
すると彼は戻って来て、こう言いました。
「ビル兄弟、やはり上がって来たほうがいいと思います。きっとそのほうが良いと思います。」
ですから、私はいつでも、何とか努力しようとする者です。本当に声がかすれていて、皆さんに説教するには無理がありますが、この小さな器具の助けを借りて、少しの間だけお話しすることはできます。
インディアナに来るたびに、私は声がかすれてしまいます。なぜかは分かりませんが、毎回そうなのです。風邪をひいてしまいます。この辺りはとても低い所にあります。ここに下りて来ると、どうも避けられないように思えるのです。祈るのですが、それでも来てしまうようです。
けれども私はいつも、自分に与えられているもので、できる限り最善を尽くそうとしてきました。それが、私がいつも努めてきたことです。私たちにできる最善を尽くすことです。それだけを神は尊ばれ……いや、期待されるのです。失礼しました。神が期待されるのは、それだけなのです。

2. 集会は明日の夜も続きますね。そうですね、ネヴィル兄弟? 明日の夜もそのまま続きます。
私はここへ来なければならず、それからここを出て、ルイビルへ行き、宣教師の一団に向かって話すことになっています。宣教大会で、十七か国、あるいは二十七か国だったと思いますが、いくつもの国々から代表者が来ているのです。彼らは、明日の夜、私にそこで数分話してほしいと言ってきました。
日曜の朝は……。

3. [ひとりの男性が言う。「今ここで、この方のために祈っていただけますか?」]
兄弟、その方の上に、あなたの手をそのまま置いてください。
天におられる私たちの父よ、今この時、あなたの愛する御子イエスの御名によって祈ります。今夜、私たちにあなたの憐れみが差し伸べられますように。そして、そこに座っておられる、今とても具合が悪そうに見える私たちの兄弟に、癒しが与えられますように。
あなたは言われました。
「互いに過ちを告白し合い、互いのために祈りなさい。そうすれば癒される」と。
今夜、私はこの方々と共に、主イエスの御名によって祈ります。どうか、今この時、私たちの兄弟を癒してください。
私たちの兄弟がそこに立ち、その方の上に手を置いています。その手は、私たちの主イエスの御手を表しています。そして私たちは共に祈りを合わせ、キリストの御名によって、その祈りをあなたのもとへ送ります。どうか、この兄弟が、今かかっているこの病から速やかに回復しますように。アーメン。
主があなたを祝福してくださいますように、兄弟。
皆さん、その方に少し空気を通してあげてください。少しそこに詰め込まれているようですから。ええ、歩いて出られるようにしてあげてください。もし外へ出たいのでしたら、どうぞそのまま行って、建物の後ろのほうの、空気の通る席にお座りください。
さて、主イエスは、私たちのすべての悩みをご存じです。主は、私たちの重荷を負ってくださる方です。

4. それで、主の御心なら、私が日の出礼拝を持ちます。時間は六時から七時までです。それから皆さんはいったん家に帰って朝食をとり、また戻って来てください。そして九時半には、通常の日曜学校の礼拝があります。ネヴィル兄弟がここにおられます。
そして日曜学校の礼拝の直後、イースターの日曜日の朝に、バプテスマを受けることになっている方々のために、私がバプテスマ式を行います。
もしあなたが、まだ浸礼によるバプテスマを受けておらず、それを望んでおられるなら、また、あなたがクリスチャンであり、イエス・キリストが神の御子であるという神性を信じておられるなら、そして、私たちの交わりの中に自分の場所を取り、バプテスマを受けたいと願っておられるなら、イースターの朝、十時半ごろ、浸礼のためにここへ来てくだされば、私たちは喜んでお迎えします。
着替えをお持ちください。もしお持ちでなければ、もちろん、特に女性の方のためには、あちらにローブがあり、婦人用にいろいろなサイズが用意されています。男性全員の分までは、まだそろっていないと思います。
けれども、イースターの朝、皆さんが私たちと共にここに来てくださることを、私たちは大変うれしく思います。

5. 葬儀場から私のところへ電話がありまして、私とネヴィル兄弟、そして私たちの何人かに来て、賛美をし、日曜日の午後二時に、モッタズ葬儀場で礼拝を持ってもらえないかと頼まれました。
その婦人のことは覚えていません。イースト、イェーツ、あるいはイースト……。今夜、新聞でご覧になった方も多いと思います。
[ひとりの姉妹が言う。「ビル兄弟?」]
はい。
[「以前はエドナ・ジャスティスという名前で、ここによく来ていました。」]
エドナ・ジャスティスですか。ご存じの方もおられるでしょう。おそらく若い女性ですね。そうですか、姉妹?
[「二十九歳です。ええ。」]
若い女性です。確か……彼女のお母さんが私に電話をしてきて、彼女には二、三人の小さな子どもが残されたと言っていました。本当にお気の毒なことです。

6. そして、いつの日か、あなたも私も同じ道を旅しなければなりません。しかし私たちは、ヨルダンをひとりで渡る必要はありません。なぜなら、主が私たちの救い主だからです。
もしモタズ葬儀場においでになりたい方がいらっしゃるなら、そこはメープル通りにあります。ウォルナット通りと……いや、たしかローカスト通りとウォール通りの間だったと思います。西へ向かって行くと右側にあります。番地は……いくつだったでしょうか。[誰かが「221です」と言う。] 221番地です。そこは昔、スコット・アンド・コームズ葬儀場があった所です。
それは日曜日の午後二時からです。

7. そして、その次の週に主が何をなさるのか、私たちにはまだ分かりません。集会が続くのか、それともどうなるのか、来週のことは分かりません。来られる方は皆さん、日曜日にここにいてくださることを願っています。
周りに多くの説教者の方々がおられるのが分かります。どなたかが、以前私たちの集会に来ておられたフラーさんがここにいると教えてくれました。その方はおられますか?フラー兄弟、あなたは以前ニューヨークで、私をあちこちの集会へ連れて行ってくださった方ではありませんか?お会いできてうれしいです、フラー兄弟。主があなたを祝福してくださいますように。
それから、トム兄弟が知らなかった、もう一人の若い説教者がここにおられるのを見ました。私はその青年の名字までは知りませんが、向こうではジュニアと呼ばれていることは知っています。ジャクソン、ジャクソン兄弟、ジュニア・ジャクソン兄弟です。ジャクソン兄弟、手を挙げてください。あなたが私たちと共にいてくださることをうれしく思います。
彼はエリザベスの辺りから来ています。あちらのメソジスト教会の方で、主のみこころなら、私がまた働きの場へ戻る前に、近いうちに集会を持つことになっています。
さて、インドへの大きな召しがあります。そしてすべてのことが、日ごとにますます重く、濃くなってきています。どうか私のために祈ってください。

8. けれども今日一日、人々はあの昔からの同じ道を上って行きました。おそらく十字架が引きずられ、その担い手の血の足跡が残されたであろう道です。彼らの魂は涙に打たれ、泣きながら歩んだのです。今日、多くの大聖堂などでも、この偉大な記念の時を祝ってきました。
もし世界が祝うべき時があるとするなら、それは今です。この悩みの時、この時なのです。
それから、姉妹がこの小さな古いオルガンを見ておられるなら……。私はオルガンが好きなんです。私はどうも少し昔風な人間でしてね。もしできるなら、あの曲の和音を弾いていただけないでしょうか。
「イエスよ、十字架の近くに私を保ってください」
昔、長いあいだ私たちが歌っていた、あの懐かしい、心にしみる歌の一つです。皆で一緒に歌えたらと思います。私はこの歌が大好きです。
尊い泉がある、
すべての人に無償で与えられる、癒しの流れ、
それはカルバリの山から流れている。
どなたか、この歌の一節でもご存じの方はいますか。よろしい、では私と一緒に歌ってください。
さあ今、私たちの周りの幕を下ろすようにして、心をおよそ千九百年前のこの午後へ向けましょう。
なんという犠牲でしょう。世界はそのようなものを、かつて知ったことがありませんでした。それは全世界を揺り動かしたのです。
そして今、あなたはその場所の近くに留まっていたいとは思いませんか。主との交わりと祝福の場所、その近くにいたいとは思いませんか。

9. トム兄弟、一緒にリードしてくれますか。今、私はあまり声が出ませんから。はい、よろしい。
イエスよ、十字架の近くに私を保ってください。
そこには尊い泉があります。
すべての人に無償で与えられる、癒しの流れ、
カルバリの山から流れ出る泉です。
十字架に、十字架に、
私の栄光がいつまでもありますように。
恍惚とされた私の魂が、
川の向こうで安息を見いだす時まで。
頭を垂れてくださるなら、そのまま、ゆっくりとハミングしましょう。
十字架のそばで、私は見守ります……
望みつつ、信頼しつつ、いつまでも。
黄金の岸辺にたどり着くまで、
川のすぐ向こうにあるその岸辺へ。
[トム兄弟が、もう一度「十字架の近くに」のコーラスを静かに歌い続ける。]
今この時に、そうしたいと思われる方はいませんか。誰かがあなたのためにするのではありません。あなた自身が、今、もう一度自分の人生をキリストに献げ直したいと思われませんか。
「主よ、私を覚えてください。あなたが私のために疲れ、苦しまれ、血を流し、死んでくださったことを、私は感謝します。私はふさわしくありません。でも今、そっと手を挙げます。主よ、あなたには私が見えています。私の人生をもう一度、あなたに献げ直したいのです。」
神があなたを祝福してくださいますように。神があなたを祝福してくださいますように。
「主よ、今このグッド・フライデーに、私は自分自身をもう一度あなたに献げ直したいのです。」
神があなたを祝福してくださいますように。

10. 私たちはカルバリを思っています。神であり、私たちの救い主であるお方が、恥を負われました。そして十字架から降ろされ、裕福な人の手に渡されました。その人はピラトに願い出て、主の御体を引き取り、清い亜麻布に包んで墓に納めたのです。
ああ神よ、その時、あの貧しい弟子たちの上には、どのような思いがあったことでしょう。彼らには、その時、すべてが敗北したように見えたのです。あれほど信頼していたお方が、今や去ってしまわれたのです。
しかし、それは長くは続きませんでした。ただ血を流す犠牲であった、それだけのことでした。やがて、数時間の後に、主はよみがえられました。そして喜びが来たのです。

11. そして私たちの魂が……。主よ、今夜、私たちが自分自身をあなたに献げ、私たちの魂が深く打たれますように。あちらを見上げて、何があったのかを見る時に……。
ああ神よ、なんという恐ろしいことでしょう。罪とは、どれほど残酷なものなのでしょうか。父よ、今、私たちを共に祝福してくださるように祈ります。
そして、神よ、ここに立っているあなたの僕である私を助けてください。私は今、とても弱い声しかありません。それでも、あなたの子どもたちは、御言葉から何かを聞こうとして待っています。
主よ、私を助けてください。そして、いのちのパンを、一人ひとりに惜しみなく裂いて与えさせてください。私たちが自分の人生と心を、もう一度あなたに献げ直すこの時に。
その犠牲を思う時、私たちの心の涙は、胸の奥深くにしたたり落ちます。
どうか今、私たちを助けてください。キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。

12. おそらく私たちは今日、ラジオ放送などを聞いたことでしょう。
私は今日、ただキリストのことを思っていました。どこかへ出て行って、ひざまずかずにはいられませんでした。そして、思わず泣かずにはいられなかったのです。私の思いがカルバリで起こったことへ戻って行った時に。
私はラジオ番組を聞くことはできませんでしたが、おそらく彼らは福音の中から語ったことでしょう。そして、もしかすると明日の夜には、私たちもその観点から近づいていくことになるかもしれません。

13. イザヤ書五十三章です。主が来られる七百十二年前、油注がれた預言者が、次のように語りました。
だれがわれわれの聞いたことを信じたであろうか。
主の腕は、だれに現されたであろうか。
彼は主の前に若枝のように、
乾いた地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見るべき姿も麗しさもなく、
私たちが慕うような美しさもなかった。
彼は人に侮られ、人々に捨てられ、
悲しみの人で、痛みを知っておられた。
人が顔をそむける者のように、彼は侮られ、
私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの悲しみを負い、
私たちの痛みを担われた。
それなのに私たちは、彼を神に打たれ、
神に撃たれ、苦しめられた者と思った。
しかし彼は、私たちのそむきの罪のために傷つけられ、
私たちの咎のために砕かれた。
私たちに平安をもたらす懲らしめは彼の上にあり、
彼の打ち傷によって、私たちは癒された。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道へ向かって行った。
しかし主は、私たちすべての咎を、
彼の上に置かれた。
彼は虐げられ、苦しめられたが、
その口を開かなかった。
屠り場に引かれて行く小羊のように、
また毛を刈る者の前で黙っている羊のように、
彼はその口を開かなかった。
彼は捕らえられ、裁きによって取り去られた。
だれが彼の時代のことを語り得ようか。
彼は生ける者の地から断たれた。
わが民のそむきの罪のために、彼は打たれたのである。
彼は悪しき者たちと共に墓を定められ、
その死においては富める者と共にされた。
それは、彼が暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったからである。
しかし主は、彼を砕くことをよしとし、
彼を苦しめられた。
彼の魂を罪のための供え物とする時、
彼はその子孫を見、その日々は長くされる。
そして主のみこころは、彼の手によって成し遂げられる。
もし今夜、聖書箇所として一つ選ぶなら、私は第六節を取りたいと思います。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道へ向かって行った。
しかし主は、私たちすべての咎を、
彼の上に置かれた。

14. 私たちはいつも、主の喜びが私たちのただ中にある時、本当に幸せです。そして私も、皆さんと共に大いに喜んでいます。
しかし、それを持つために、どれほどの代価が払われたのか、立ち止まって考えたことがありますか。その背後にある代価を、本当に悟ったことがありますか。裁きとは何であったのか、罪の刑罰とは何であったのか。
罪とは、どれほど残酷なものなのでしょう。神の御子をカルバリへ行かせ、神が彼を打ち、御顔を彼から背け、彼を打たれ、彼が苦しまなければならなかったのです。彼がどなたであったかを見てください。
さて、私は皆さんに、少しだけ絵を描くようにお話ししたいと思います。今夜、私たち皆で、小さな船に乗って旅をしてみましょう。小さな宇宙船、あるいは飛行船に乗るようにして。
世界が存在する前、星さえも、何一つ存在しなかった、一億年前へ戻ってみましょう。そこには、ただ空間しか見えません。そしてそのすべての空間が、神でした。初めに神がおられたのです。
そして今、小さな白い光が存在へと現れてくるのを見てみましょう。それを、光輪のようなものと呼ぶことにしましょう。それが神の御子、初めに神から出て行かれたロゴスでした。

15. そして主は言われました。
「光あれ。」
すると、一つの原子が裂け、動き出し、原子的な力が放たれました。最初の原子的爆発です。そして、それらの原子が集まり始め、燃えかすのようなものとなっていきました。水分――それが何であったにせよ――が分かれ始め、原子が裂けていったのです。
そしてしばらくすると、一つの星が現れました。飛び散った破片のようなものが飛び出し、空間を進んで行ったのです。主はそれを、おそらく何百万年もの間、見ておられたのでしょう。そして、それを止められました。
主は急いでおられませんでした。主には十分な時がありました。永遠がありました。主は初めから終わりまでおられるお方でした。主にとって、時間というものはありませんでした。
そしてまた別のものが飛び出して行きます。主はそれをこちらの方で止められます。

16. これまでに書かれた最初の聖書は、空に書かれたもの、すなわち黄道十二宮でした。それはおとめから始まります。主が最初に来られたのは、そのようにしてでした。そして、それは獅子、しし座で終わります。第二の来臨です。主は、ご自身の最初の聖書を書いておられたのです。
第二の聖書は、エノクによって書かれ、ピラミッドの中に置かれました。
第三の聖書、そして最後の聖書は、これです。
神はいつも三つによって物事をなさいます。神は三において完全です。神は完全なお方です。
[ブラナム兄弟が咳をする。]
失礼しました。
神は、父、子、聖霊において完全です。義化、聖化、聖霊のバプテスマにおいて完全です。神は、ご自身の三つにおいて完成されています。
私たちは神によって造られた者ですから、私たちも三つにおいて成り立っています。魂、体、そして霊です。そして私たちの体は、神経、血、そして細胞、つまり肉によって支配されています。三つです。すべて三つにおいて整えられているのです。

17. 私は、この小さな光輪がこの世界の上を動いていくのを見ることができます。その世界は、ただの燃えかすのようなもので、凍りつき、大きな氷山のようにそこにぶら下がっていました。
そして主は、それを太陽の近くへ動かされました。それから、その世界を太陽の周りで、このように回し始められました。すると、それは溶け始め、大きな氷河が引き裂かれて離れていきました。テキサスが形づくられ、あの平原も形づくられていったのです。私たちが教えられているように、氷山がその辺りを通って下ってきたのだと、最も優れた年代学者たちは考えています。
そして全地は、それがメキシコ湾などへ流れ下っていった後、水で満ち始めました。
「地は形なく、むなしく」――今、私たちは創世記一章にいるのです。分かりますね。
その時、神が動かれ、水の間から大空を分けられました。そして光を造られました。
それから主は、すべての被造物を造られました。そして、それを造られた後、すべての木々が生え出し、植物なども現れました。
なんと美しい備えだったことでしょう。主はそれを愛されました。それは美しいものでした。そして主は、それを良しとされたのです。

18. そこで主は言われました。
「われわれは」――複数です――「人を造ろう」。
「われわれのかたちに、人を造ろう。」
それで、神が最初に人を造られた時、その人は霊の人でした。神に似た存在、あるいは神の御子、ロゴスに似たようなものでした。それが最初の人でした。
それから主は、その人に支配権を与えられました。すべての動物のいのちを導くためです。ちょうど今日、聖霊が信者を導かれるのと同じです。
「ここへ行きなさい。これをしなさい。」
さて、もし私たちが聖霊に完全に従順であるなら、神は聖霊によって私たちを導かれるでしょう。ちょうど、あの日のアダムが動物たちを導いたようにです。

19. まだ土を耕す人はいませんでした。働く者もいませんでした。肉体を持った存在がまだいなかったのです。そこで主は、地のちりから人を造られました。
さて、ここで私は、植物学者、あるいは科学とキリスト教は、互いに矛盾していないと思うのです。科学は、人間はさまざまな生命から来たと言います。そして私たちは、ここにいる人間を見る時、人は神のかたちにあると言います。
けれども初めにおいて、この肉体は神のかたちではありませんでした。これは動物的ないのちのかたちでした。そして進化論者たちは、私たちが……と議論します。私は、彼らが言うような、すべてが一つの細胞から来たという進化の連鎖は信じていません。
しかし、私たちが発展してきたということは、確かに信じます。一人の人間から別の人間へと続いてきたという意味での発展です。
けれども、神がそれらすべてを造られ、人をその中に置かれた時……。

20. さて、あなたが新しく生まれる時、新しい霊を受けるのではありません。その霊の新しい性質を受けるのです。同じ霊ですが、その性質が新しくされるのです。二人の男を並んで立たせることができます。二人とも見た目は同じです。しかし、一人は罪人で、もう一人はクリスチャンです。一方の人が言うでしょう。「私にもあなたと同じ霊があります」と。そうですね。けれども、その一人は違っているのです。彼の魂、彼の性質が違うのです。彼は変えられたのです。

21. けれども、その感覚は、神と接触するためのものではありませんでした。
神と接触するための彼の感覚は、彼の霊でした。彼の魂は……「罪を犯す魂、その魂は死ぬ」とあります。
さて、私はあることにたどり着くために、ずいぶん遠回りをしています。けれども、皆さんがその一つ一つの点を受け取ってくださることを願っています。そうすれば、神がカルバリーで何をしなければならなかったのかを、はっきり見ることができるのです。

22. そこには美しい象徴があります。すべてが象徴なのです。神がキリストの脇から花嫁を取られた、ということです。そうでしょう。神はアダムの脇を開いて、あばら骨を取り出されました。体の構造において、男は女よりあばら骨が一本少ないのです。
そして今、神はカルバリーでキリストの脇を開かれ、そこから花嫁を取り出されたのです。教会は、キリストの血を通して、キリストのからだの中へ入ってくるのです。
私たちが入る方法は、そのようにしてなのです。他に道はありません。あなたがどの教会に属していようと、どれほど良い男性であろうと、どれほど良い女性であろうと、神のすべてに十分な犠牲、神が備えられた道を受け入れなければ、あなたは失われているのです。その通りです。
あなたが入ることのできる唯一の道は、そこを通ることだけなのです。さて、道はただ一つです。それが門なのです。

23. さて、東洋の習慣ではこうでした。花婿が人々を招く時、もし五十人を招いたなら、五十着の衣を用意していたのです。そして彼は、どこか入口のところに立っていて、人が入って来るたびに、金持ちであろうと貧しい者であろうと、その衣を着せたのです。そうすると、その人が金持ちなのか貧しいのか、誰にも分かりません。みな同じ衣の下で、同じように見えたのです。
そして、それが今日、神がなさる方法なのです。神は聖霊を与えてくださいます。それがその象徴なのです。神が招かれるすべての人は、私たちはみな同じです。この人があの人より少し優れているからとか、あの人がこの人より少し高いから、ということではありません。婚礼の晩餐に招かれた者は、神の御前ではみな同じなのです。

24. 彼は言いました。「友よ、あなたはここで何をしているのですか。なぜ礼服を着ていないのですか。」
すると、その人は何も答えられませんでした。彼は窓から、あるいは何か別の道から入って来たのです。門を通って来なかったのです。
そして、キリストを通して、キリストのからだの中へ入って来るすべての人は、聖霊、すなわちその衣を受けるのです。あなたが入って来るとすぐに、それを着せるために、主はまさにそこに立っておられるのです。そうでしょう。それが主の約束であり、主がなさることなのです。

25. 時々、雑誌などに、画家が描いた絵がありますね。あれは、実に乏しい霊感によるものです。もしエバが、髪をあんなふうに突き出していて、まあ、なんとも恐ろしい姿をしていて、「これが私たちの母です」と言うなら、世界中の誰も、その姿を美しいとは思わないでしょう。
私は、エバは地上に存在した中で最も美しい女性だったと信じています。その通りです。アダムが彼女を見た時、それはもう……。なぜなら、それはその性質が、今日の人間の中にもずっと受け継がれていることを示しているからです。もしそうでなければ、逆になっていたはずです。

26. さて、ここで私が示したい情景があります。神が気づかれた時……あるいは、どこかの天使か、何かの存在がやって来て、神にこう告げたとします。「あなたの息子が失われました。彼は罪を犯しました。彼は堕落しました。」
さて、人間の性質を見てください。最初にすることは、自分で宗教を作ることです。人間は……何かしらの宗教を持っているものです。
先日、この町で、ある有名な方と話していました。その人は言いました。「ブラナム兄弟、私の宗教は、黄金律を守ることなんです。」それは良いことです。
しかし兄弟よ、人は新しく生まれなければ、滅びるのです。新しく生まれなければなりません。黄金律は結構なものです。道徳的な人なら、それを行うことができます。しかし、それはすべて、超自然の領域に入らなければならないのです。そして、私たちが超自然的に生まれることができるように、神が何をなさらなければならなかったのか、それを皆さんは見ることになるでしょう。

27. さて、注目してください。アダムのいちじくの葉は、神の御前に出る必要がない間は、それでよかったのです。しかし、神の御前に出なければならなくなった時、彼は自分のいちじくの葉では何の役にも立たないことを悟りました。
そして今、友よ、あなたは自分をなかなか良い人間だと思っているかもしれません。そうですね。そして、実際そうかもしれません。その通りです。けれども、神の御前に立つ時、もしあなたのために神が備えてくださった犠牲を受け入れていないなら、あなたは失われているのです。そしてその時、あなた自身もそれを知ることになるのです。

28. 私は言いました。「先生、どうか、もう少しだけその薬を控えてください」と。そうすると、自分では正しいと思っている人たちの声を聞くことになるのです。
「人には正しいと思われる道がある。しかし、その終わりは死の道である。」
そして、神によって再生されていないすべての人は、その滅びの道へ行くのです。避けることはできません。自分自身の魂があなたを導いていくのです。もしあなたが新しく生まれているなら、あなたは必ず上へ行きます。もし新しく生まれていないなら、下へ行かなければならないのです。あなた自身の魂が、そうさせるのです。
ちょうど、どこかの扉を開く魔法の杖のようなものです。もしその杖を持っていなければ、扉は開きません。そして、もしあなたが新しく生まれていないなら、あなたは自動的に拒まれるのです。それだけのことです。
さて。

29. そして、教会に行くすべての男性や女性も同じです……。今日、私は考えていました。大聖堂の鐘が鳴り響き、鐘が打ち鳴らされ、人々が教会へ行き、身支度をし、女性たちはイースター用の帽子を買ったりしている。これは一体どうなってしまったのでしょうか。まったく、うさぎが復活と何の関係があるのか、私には理解できません。そうでしょう。いいえ、ありません。クリスマスツリーがキリストの誕生と何の関係があるのかも分かりません。
友よ、それは異教のものです。私たちはどこかで道から外れてしまったのです。その通りです。
しかし、本当に新しく生まれた男性や女性は、それが分かるのです。なぜなら、あなたの内にある命が、それは間違っていると告げるからです。そうではありませんか。

30. 少し前のことですが、あの大きなメソジストの会議で、メソジストの賛美歌集から、血に関する賛美歌を全部取り除こうとしていたそうです。彼らは言いました。「これは、屠殺場の宗教ではない。」また言いました。「私たちは、もっと上品で品位あるものが欲しいのだ」と。
兄弟よ、それは神が受け入れられる道ではありません。
それは、「わたしが血を見る時、あなたがたの所を過ぎ越す」ということなのです。血です。神が備えられた唯一の身代わりは、ただそこにあるのです。「命は血の中にある。その肉は食べてもよい。しかし、その血、それはその命であるから、地に注がなければならない。」そうです。命を食べてはならないのです。
注目してください。何と美しいことでしょう。私はそのことを考えるのです。それから神は思われました。「さあ、ここへ出て来なさい、アダム、エバ。しかし、あなたがたを出して来る前に、わたしは何かをしなければならない。」
そこで神は、あの丘の斜面へ行き、一匹の羊を取られました。そしてそれを殺し、その皮をはぎ、その羊を死なせられたのです。

31. それが、処女マリアが他の人たちと同じように、ペンテコステの日に上って聖霊のバプテスマを受けなければならなかった理由です。なぜなら、彼女は定命の者としてここで生まれ、その前に生まれ変わらなければならなかったからです。天国に行くことができた。アーメン。

33. そして、ここに、栄光へ至る神の設計図があります。これをよく調べなさい。そこにあります。その道は初めから終わりまで、血が注がれているのです。血に従って行くなら、道を見失うことはありません。アーメン!ただ血にしっかりとついて行きなさい。そうすれば大丈夫です。なぜなら、その道の一歩一歩に、血に染まった足跡があるからです。

34. 神は言われました。「それを食べる日に、あなたは必ず死ぬ」と。それで永遠に決まったのです。
それから私は、神がそこでその羊を殺された姿を見るのです。あなたが言うかもしれません。「それは羊だったのですか、ブラナム兄弟。」私はそう信じています。キリストは、世の基の置かれる前からほふられた小羊であられたからです。
そして、それは羊の皮でした。神はそれを取って、茂みの中へ投げ入れ、彼らに言われたのです。「これにくるまって、出て来なさい。そして受けなさい」と。

35. 神は言われました。「アダム、あなたはわたしではなく、あなたの妻の声に聞き従った。それゆえ、わたしはあなたをちりから取ったのだから、あなたはちりに帰る。」
そして、「エバ、あなたはわたしではなく、蛇の声に聞き従った。それゆえ、あなたは命を……命をこの世から取り去ったので、あなたは命をこの世に産み出さなければならない。わたしはあなたの苦しみを大いに増す。あなたの願いは夫に向かう」といったことを言われました。
それから神は言われました。「蛇よ、あなたはこれをしたので、歩いて来た……。」彼は爬虫類ではありませんでした。彼は獣でした。野のすべての獣の中で、最も狡猾なもので、直立して歩いていたのです。私の言うことを証ししてください、それは聖書です。彼は人のように歩いて来て、彼女を欺いたのです。
そして神は言われました。「あなたがこれをしたので、あなたの足は取り去られ、あなたは一生の間、腹ばいで進むことになる。そして、ちりがあなたの食物となる。」
そこに、裁きがありました。神はご自分の裁きを守らなければなりませんでした。なぜなら、神がそれを語られたからです。そして神は神であられます。神はそれを取り消すことはできません。神はそのままでいなければならないのです……。神であるために、神はご自分の御言葉を守らなければならないのです。その通りです。

36. エバ……。そしてアダムは、そのたくましい体で彼女を抱き寄せ、自分の胸にもたれさせました。そこに涙が混ざり合い、流れ落ち、羊の皮を伝っていきます。血が滴り落ちているのです。血、ずっと血です。そこです。
そして神は言われます。「あなたがたは、わたしの臨在から出て行かなければならない。」
そして私は、エバとアダムが互いに腕を回し合いながら、こうして出て行くのを見るのです。その古い羊の皮が彼らの足にまとわりつき、血に染まって、足に打ちつけているのです。

37. 私は、その大いなる空間全体が、このように一つに動き始め、漏斗のような形になって下って来るのを見るのです。そしてそれは、ずっと下って来ました。神が、あの小さな二人がエデンの園を下って行く姿を見つめ始められた時です。血に染まった皮が、彼らの足にまとわりついていました。
神はそれに耐えることができませんでした。そしてそれは下って来ました……。ああ、それは神のまさに御心の奥底まで下って来たのです。その御心には、l-o-v-e、「愛」と綴られていました。「神はそのように愛された……。」神は、彼らが去って行くのを、そのまま見ていることができなかったのです。
神は彼らを呼び戻して言われました。「わたしは、あなたのすえとサタンのすえとの間に敵意を置く。」
そして、それが成し遂げられたのがカルバリーでした。神ご自身が、女を通して下り、処女からお生まれになった時です。

38. そして今夜、私は思うのです。今日の教会の問題も、そこにあるのではないでしょうか。違反のゆえに、すべての祝福が断ち切られているのです。そこなのです。

39. さて、注目していただきたいのです。ここに、カインとアベル、アダムとエバの二人の息子が、捧げ物をするために進み出て来ます。私は、あの偉大なケルビムが門の東側にいて、その剣が行ったり来たりと回りながら、エデンへ入るその門を守っていたのだと信じています。
注目してください。火です。聖霊の火が、その門を守っていたのです。
そして今日も、その門を守っているのはそれなのです。もしあなたが聖霊と火を恐れているなら、決して中へ入ることはできません。燃えるような、神の剣です。神は焼き尽くす火であり、その木、いのちの木を見張り、守っておられるのです。

40. 私は、彼らがその門のすぐそば、御座のところに祭壇を築いたのだと信じています。そこで礼拝することができたのです。
注目してください。ここにカインがやって来ます。彼はおそらく一年中働き、労苦し、自分にできるすべてのことをして、一番大きなりんご、あるいは一番大きなかぼちゃ、または自分の持っていた何かを得ようとしたのでしょう。そしてそれを門のところまで持って来ました。
彼は神の御前、その門のそばに、自分のために祭壇を築きました。そして自分の果物をすべて、また大きなカラーの花や、あらゆるものをそこに置き、それらをきちんと祭壇の上に並べました。それからひざまずいて、神を礼拝したのです。

41. もし神があなたに求めておられるのが、ただ教会へ行くことだけなら、カインもアベルと同じように正しい者だったことになります。カインは主のために祭壇を築きました。
あなたは言うでしょう。「でも、ブラナム兄弟、私はそれだけではありません。私は犠牲も払っています。海外宣教のために献金していますし……。」それらはみな良いことです。良いことなのです。けれども、神はそれ以上のものを求めておられます。
カインはそれを自分で行ったのです。分かりますね。彼は捧げ物を持って来ました。主を礼拝しました。ひざまずいて主に賛美をささげ、こう言いました。「主よ、私はここにおります。あなたに捧げ物を持って参りました。祭壇を築きました。」アーメン。
言い換えれば、「私は教会の会員です」ということです。底まで届きましたか。見てください。「私は教会の会員です。私はあなたを信じています。」今、それは底まで届くでしょう。深く染み込ませてください。
「私は神を信じる者です。私は祭壇を築きました。私は犠牲を持って来ました。そして、主よ、私はここにおります。私はあなたを礼拝しています。」
しかし、神はそれに背を向けられました。その通りです。

42. 「説教者さん、私が復活祭の朝に何をするか知っていますか。」
私は言いました。「何をするのですか。」
彼は言いました。「私は、会衆の皆さんに『メリークリスマス』と言うんです。」
私は言いました。「なぜですか。」
彼は言いました。「次の復活祭まで、もうその人たちに会わないからです。」
復活祭になると、みんな出て来ます。ただそれだけです。新しい帽子を買い、新しい服を買うのです。それがキリストと何の関係があるのでしょうか。ああ!
そして今年も、明日、プロテスタントの世界で、何百万ドルものお金が、百合の花に費やされることでしょう。大きく美しい百合です。会員たちは一人ひとりやって来て、それを祭壇に置くのです。
しかし、神は祭壇の上の百合など気にしておられません。神が望んでおられるのは、あなたが祭壇の上にいることなのです。
百合ではありません。彼らの捧げ物ではありません。祭壇の上にいるべきなのは、あなた自身なのです。そこが違いです。神が求めておられるものを祭壇に置くこと、それはあなた自身なのです。

43. これは、巡礼者であり、旅人であるあなたがたの何人かに、本当に大きな励ましとなるはずです。私たちは時に、「ああ、私たちの教会でもこれができたらいいのに、あれができたらいいのに」と言わなければならないかもしれません。
満足しなさい。ハレルヤ!
私は、神のおられない大聖堂で礼拝するよりも、どこか裏通りにある古びた小さな部屋で、そこに神がおられるなら、そちらで礼拝したいのです。その通りです。確かにそうです。
そこです。彼は貧しい人でした。注目してください。
それからカインは、自分の捧げ物を持って来て、そこに置きました。注目してください。彼はサタンの系統から来ていたのです。なぜなら彼は、それが美しい果物であり、自分自身が行った何かであったために、神がそれを受け入れてくださると期待していたからです。

44. それはみな結構なことです。
しかし、「人は新しく生まれなければ、決して御国に入ることはできない」のです。そこに注目してください。
そうした慈善のわざは立派です。しかし、それはまだ、神が備えられた道ではありません。カインは自分自身の道を通って来ました。そして今夜も、多くの人々が自分自身の道を通って来ているのです。

45. さて、あなたは言うかもしれません。「ブラナム兄弟、つまり私は、あそこへ降りて行って、聖霊に満たされ、ほかの人たちのように振る舞わなければならない、ということですか。」
もしあなたが、そのほかの人たちと共にいることを望むなら、そうしなければなりません。それだけです。それだけのことです。
あなたは……。
ナアマンも同じことでした。神は預言者に言われました。「彼にこう言いなさい。『下って行って、七度身を浸しなさい』と。」
彼は言いました。「こちらの水の方が、もっときれいで、もっと良いのではありませんか。」
しかし、それはヨルダンの水でなければならなかったのです。時には、あまり良く見えないこともあります。

46. あなたは言うかもしれません。「では、トム兄弟や他の人たちが“ホーリーローラー”と呼ぶ、あの人たちと一緒にならなければならないのですか。」
兄弟よ、私は世界をほとんど三度巡ってきましたが、まだ一度も“ホーリーローラー”などというものを見たことはありません。いいえ、ありません。私は聖さを見たことはあります。しかし、“ホーリーローラー”などは見たことがありません。
それは悪魔が教会に貼りつけた名前なのです。神は言われました。「聖くなければ、だれも神を見ることはできない」と。あなたはそれについて、自分の好きなように考えればよいのです。しかし、それが神の道なのです。アーメン。

47. 兄弟よ、それがそうなのです。
「でも」とあなたは言うでしょう。「私には、それは狂っているように見えます。」
だからこそ、あなたは新しく生まれなければならないのです。新しく生まれたなら、それはもう「狂っている」ことには見えません。あなたも私たちと共にいるようになるのです。
彼らもかつては、あなたと同じように考えていました。その通りです。彼ら自身がその中に入るまでは、あなたと同じように考えていたのです。
それは変化であり、回心なのです。「回心する」とは、何かが「変えられる」という意味です。そして、人が自分自身に死んで、「主よ、私はそれについて何も分かりません。ただ私を受け入れてください」と言わない限り……。アーメン。そうすれば、神がそれをなさるのです。そうでしょう。

48. そして、あなたはこう思うかもしれません。「まあ、私は早天礼拝に行くのだから、新しい帽子が必要だわ。」
ある時、一人の娘さんが私の集会で歌おうとしていました。彼女は言いました。「ブラナム兄弟……。」彼女のお母さんは、生計を立てるために洗濯桶に向かって洗濯をしていたのです。それなのに彼女は、髪にあの“くるくる”したものをしなければならないと言うのです。分かりますね。
あれは何と言うのでしょう。マニキュアですか。それとも、髪にするあれは何と呼ぶのですか。何であれ、あの髪にするものです。私はそれが間違っていることは分かっています。ただ、その名前がどうしても思い出せないのです。私はそういうことにあまり詳しくありません。[誰かが「トニ?」と言う。]パーマです。それでした。
彼女は、聖歌隊で歌う前に、髪にそれをかけなければならないと言ったのです。哀れな年老いたお母さんは、彼女を養うために洗濯桶の前で洗濯をしているのにです。彼女が行ってパーマをかけた時、私は彼女に歌わせないと言いました。なぜなら、彼女が髪にそんなことをした時点で、歌うにふさわしくなかったからです。その通りです。

49. さて、聞いてください、兄弟。私は、昔ながらの、サッサフラスのような経験を信じています。ずっと奥の茂みの中で、苦い根をすべて掘り起こし、土をかき混ぜるような経験です。その通りです。そして、そこに種を植えるのです。
さて、注目してください。カインは考えました。「美しさだ」と。
人々も考えます。「さあ、私たちの教会だ。新しい教会を建てよう。」それは結構です。美しいものはみな結構です。ただし、そこに主イエスを共に携えているならです。そして、まず主を第一にするなら、主がそのほかのことは面倒を見てくださるのです。

50. 私は言いました。「兄弟、春が来ようとしています。ここにある低い樫の木はどれも、去年の秋につけていた葉を、まだそのままつけています。しかし、新しい葉を出させるために、私たちが古い葉を一枚一枚むしり取る必要はありません。ただ新しい命が上がって来るのを待てば、古い葉は落ちるのです。」その通りです。アーメン。
聞いてください。これも言わせてください。もし古い葉が落ちないなら、それは新しい命がまだ来ていないことを示しているのです。
今、私に腹を立てないでください。私はイエスについて語っているのです。
よろしい。そういうことです。よろしい。

51. そこへカインが来て、自分の捧げ物をささげました。彼は礼拝しました。教会へ行ったのです。彼は、隣の人と同じくらい立派でした。
エサウも同じでした。エサウは、その性格においては、ヤコブよりも良い人でした。より紳士的でした。彼は父を愛していました。彼がしたことを見てください。
しかし、神はヤコブを選ばれたのです。

52. アベルがやって来ます。彼は働いて、自分の行く町で一番大きな教会を探そうとはしませんでした。一番立派な人たちの集まりを見つけて、そこに交わろうともしませんでした。アーメン。彼はただ、自分の持っているものを取って来たのです。それだけです。
彼は羊飼いでした。ですから、ただ手を伸ばして一匹の小羊を取りました。そして、それを縛りました……。その時代には麻ひもなどなかったでしょうから、おそらくぶどうのつるを取って、それを小羊の首に巻いたのでしょう。
しかし、それは何を語っていたのでしょうか。彼らは主をカルバリーへ引いて行ったのです。主は小羊でした。
「なぜ主は馬小屋でお生まれになったのですか」と言うなら、羊は家の中で生まれるものではありません。羊は家畜小屋で生まれるのです。そして、彼らは引かれて行きました……小羊のように、ほふり場へ引かれて行ったのです。そして彼らは主を連れて行き、カルバリーへと引いて行きました。
主は、世の基の置かれる前から、神の小羊であられました。アーメン。そのことを思う時、そこに見るのです。アベルの小さな小羊がやって来ます。そして、神の小羊がやって来るのです。

53. しかし、時至って、キリストは私の身代わりに死んでくださいました。あの美しい方が、軽んじられ、拒まれた者となられたのです。それは、私が神の御前に受け入れられるためでした。私の身代わりにです。
ああ、私はそのことを思うと、どうしてもそれを乗り越えることができません。主がどうして私のためにそれをしてくださったのか、想像することさえできないのです。私はいったい何者だったのでしょうか。
すると、あなたは言うでしょう。「主はあなたのためにそれをなさったのですか。」
そうです。
ある日、聖霊が来て、私を見つけ出してくださり、こう言われました。「主はそれをあなたのためになさったのだ」と。そして私は主を信じました。私は主を信じたのです。はい、その通りです。私は主を受け入れました。そして、それが真実であることを知ったのです。
人々が何を言おうとも、「あの人たちは狂信者だ」とか、何であろうとも、私は神を信じました。そして神は、ご自分が言われた通りのことをなさったのです。

54. さあ、彼がやって来ます。その小羊を引いて来るのです。そこには、あまり美しさはありませんね。彼はそれを引っ張って来ます。そして、その門の東の端にある大きな岩のところまで連れて来たのです。さて、注目してください。
カインはおそらく、一年中労苦して、自分にできる限り最上の作物を作ったのでしょう。そして、それによって神を喜ばせることができると思ったのです。

55. そこなのです!
神は、あなたが新しいページをめくることなどを求めておられるのではありません。神は、あなたの心をキリストへ向けることを望んでおられるのです。そして、主があなたを造り変えてくださるようにすることです。
あなたが何をするかではありません。私たちが救われるのは、良い行いによるのではなく、主のあわれみによって買い取られたからです。
「行いによるのではありません。だれも誇ることがないためです。」
私たちが神のものとされているのは……。それは、私が何者であるかによるのではありません。私自身が何をするかによるのでもありません。神のうちにあるキリストが、私のために、そしてあなたのために、何をなさったかによるのです。

56. 彼がやって来ます。小さな小羊を引いて、引っ張って来るのです。私は、その小さな子が倒れながら来る姿を想像できます。おそらく、近づいていることを何か感じていたのでしょう。小さな足を引きずりながら来るのです。
それは、十字架を引きずって行かれたキリストの完全な象徴です。神の小羊が、弱り、倒れながら、エルサレムを下って行かれたのです。
その小さな子羊が、鳴きながらやって来ます。そして彼がその小羊を大きな岩のところまで連れて来ると、それを岩の上に横たえました。そして鋭い石のかけらを取りました……。よく分かりませんが、その時代にはナイフはなかったのでしょう。
彼は小羊をそのように横たえ、後ろから頭をつかみ、このように引き上げました。そしてナイフ……いや、その石を取り、小さなのどを切り始めたのです。その石が小羊ののどを打ち裂いていきました。
その岩の上で、小羊は死にました。血を流しながら、鳴きながら。血が飛び散り、小さな動脈が切られ、血があたり一面に飛びました。小さな白い羊毛は、その時、血に浸されて赤く染まったのです。
神は天から見下ろして言われました。「それだ。今、あなたは分かった。それが道なのだ。」
小さな血管から、血がほとばしっていたのです。

57. 主は牢から引き出されました。裁きの座へ連れて行かれ、そこから鞭打ちの広間へ、そしてそこからゴルゴタへ、丘を引き上げられて行かれました。クレネ人シモンが、主の十字架を負うのを助けました。
そしてそこで、主は「とこしえの岩」の上で死なれたのです。ご自分の血を打ち出されながら。主の御体には、むちの跡がありました。ハレルヤ!
大きなかたまりのような、あざける兵士たちのつばが、主の御顔にかけられました。
そして主は言われました。「もしわたしの王国がこの世のものであったなら、わたしは父に願い、父はわたしのために戦う天使の軍勢を遣わしてくださったでしょう。しかし、わたしの王国はこの世のものではありません。」
しかし、「御国が来ますように。御心がなりますように。」
そして、それはもう間もなくここに来るのです。
「御国が来ますように。御心がなりますように。」
ああ、何ということでしょう。

58. カヤパはそばで見ていて、こう言いました。「彼は他人を救ったが、自分自身を救うことはできない。」
それは、主に対してこれまで払われた中で、最も大きな賛辞でした。もし主がご自分を救われたなら、他の者を救うことはできなかったのです。ですから主は、他の者を救うことができるように、ご自分の命をお与えになったのです。ハレルヤ!アーメン。
「われわれはみな羊のように迷い、おのおの自分の道へ向かって行った。しかし神は、われわれすべての者の咎を彼に負わせられた。彼は羊のようにほふり場へ引かれ、毛を刈る者の前で黙っている羊のように、その口を開かなかった。それでも彼は、われわれのそむきの罪のために傷つけられ、われわれの咎のために砕かれた。われわれに平安をもたらす懲らしめは彼の上にあり、その打たれた傷によって、われわれは癒された。」
どうして、これほど比べるもののない愛を拒むことができるでしょうか。
主が丘の斜面をよろめきながら登って行かれる姿を見てください。哀れな、小さく、弱く、もろい御体が、その重荷の下でかがんでおられるのです。

59. 裂ける岩々と暗くなる空のただ中で、
私の救い主は御頭を垂れて死なれた。
開かれた幕は道を示した、
天の喜びと終わりなき日へ至る道を。
何という救い主でしょう。ああ、何ということでしょう。どうして私たちは……どうして私は、そのような比べるもののない愛を拒むことができるでしょうか。私とあなたのために、そこまでしてくださったお方の愛を。

60. そのお方は今夜、よみがえられた贖い主として、父の右に立っておられます。そしてこの建物の中にいるすべての罪人がご自分のもとへ来るように、願い、懇願しておられるのです。それを見てください。
私は、あなたがそうしてくださることを信じています。この復活祭を、そのまま過ぎ去らせないでくださることを信じています。
親愛なる友よ、私たちは道の終わりに来ています。私は心からそう信じています。私たちは道の終わりまで来ているのです。
主イエスがあなたを祝福してくださいますように。今夜、主があなたを、ご自身のうちにある新しい造られた者としてくださいますように。それが私の祈りです。主があなたを導いてくださいますように。
ある時……

61. その小さな鳩たちは、人々の前に出て、互いに小さく宙返りをするような芸をしたそうです。そして人々はそれを見て……彼は杯を差し出していました。通りかかる人々は、その小さな山鳩たちがかわいらしく宙返りするのを見て、年老いた盲目の物乞いである彼のために、硬貨を入れてくれたのです。
彼には妻があり、小さな娘がいました。彼はその娘を、生まれてから一度も見たことがありませんでした。彼女は十二歳か十四歳くらいでした。今、私たちが彼の人生に入っていこうとしている時期のことです。そして彼は座っていました……。
ある夜のこと、彼の小さな娘が病気になったと言われています。彼は主のもとへ行き、こう言いました。「主よ、もしあなたが私の小さな娘を癒してくださるなら、明日、私はこの二羽の鳩をあなたに捧げます。」
すると主は彼の小さな娘を癒してくださいました。そして彼は、その二羽の鳩を捧げたのです。

62. 「神よ、もしあなたが妻の命を助けてくださるなら、明日、私は私の小羊をあなたに捧げます。」
さて、今日では、盲人が犬に導かれているのを見たことがあるでしょう。人々はその犬を訓練して、盲人を導かせます。しかし、その時代には、羊を訓練して人を導かせていました。それで彼には、自分を連れて歩いてくれる一匹の小羊がいたのです。
そして彼は言いました。「主よ、もしあなたが妻を癒してくださるなら、明日、私はこの小羊をあなたに捧げます。」
すると、彼の妻は良くなったのです。

63. 「盲人バルテマイ、どこへ行くのか。」
彼は言いました。「大祭司よ、私は宮へ上って行くところです。私の小羊を捧げるためです。もし主が私の妻を癒してくださるなら、この小羊を主にお捧げすると、私は約束したのです。」
するとカヤパは言いました。「バルテマイ、その小羊を捧げてはいけない。その小羊は、あなたの目なのだから。私がお金をあげよう。宮の中の売り手たちから、別の小羊を買いなさい。」
しかしバルテマイは言いました。
「大祭司よ、私は神に“一匹の小羊”を約束したのではありません。私は“この小羊”をお約束したのです。」
ああ、何ということでしょう。

64. 今夜、そのすべてに十分な小羊を見て、こう思ったことはありませんか。
「主よ、もし私を良くしてくださるなら、私はあなたに仕えると約束します。私にできることは何でもします。」
「もし私の赤ちゃんを生かしてくださるなら……。」
あるいは、あなたの母が墓に下って行こうとしていた時、あなたの父、または愛する人がそうであった時、あなたは立ってこう言ったかもしれません。
「神よ、私は彼らに会います。必ずまた彼らに会います。」
あなたは本当に、その言葉を心から言ったのでしょうか。
この復活祭が、あなたの約束したことを果たさないまま、ただ来て過ぎ去っていくことになるのでしょうか。

65. すると、彼が戻って来た時に、人々は言いました。「バルテマイ、そんなことをしてはいけない。」
また、その小羊を受け取ろうとした祭司も言いました。「これは受け取れません。この小羊を犠牲にすることはできません。」
そして言いました。「盲人バルテマイよ、その小羊があなたの目であることを知っているのか。」
彼は言いました。
「はい、それは分かっています。けれども、私は神に約束したのです。そして神は、盲人バルテマイの目のために、小羊を備えてくださるでしょう。」

66. 彼は言いました。「この騒ぎは何ですか。」
主のおられるところには、たいてい騒ぎがあるものです。
彼は言いました。「この騒ぎは何ですか。」
すると人々は言いました。「ナザレのイエスという方が通っておられるのです。」
彼は自分の上着を投げ捨てました。それがどこへ行くかなど見てもいませんでした。その時はもう、そんなことはどうでもよかったのです。神が小羊を備えてくださったのです。彼はその小羊のところへ、まっすぐ向かいました。
彼は叫びました。「ああ、イエスよ、ダビデの子よ、あわれんでください。あわれんでください。」
金持ちたちや、その預言者、その王に近づこうとして周りに立っていた人たちは言いました。「ああ、静かにしなさい。あの方には聞こえない。」
しかし彼は、なおいっそう大声で叫びました。
ある人たちは言いました。「奇跡の時代は過ぎ去った。今日、そんなものは存在しない。」
それでも彼はさらに大きな声で叫びました。
「ダビデの子よ、私をあわれんでください。私をあわれんでください。」
神は小羊を備えてくださったのです。

67. 聞いてください、友よ。思い出してください。アベルは自分の群れの中へ行き、小羊を取って来て、それを犠牲の岩の上で殺しました。そして――[テープに空白]――ここをよく受け取ってください。アベルは、自分の小羊が死んだその同じ岩の上で死んだのです。
今夜、あなたは自分自身に死ぬ覚悟がありますか。自分についてのすべての思いに死ぬ覚悟がありますか。ただ、あなたの小羊と共にその岩の上に横たわり、死ぬのです。そして言いなさい。「ああ神よ、あわれんでください」と。
私は、誇りのことばかり考えている男たちや女たち、若い男たちや女たちが、自分の命をそうしたものに明け渡してしまうことを思う時、また年を重ねた人々でさえ、自分の仕事や名声、近所づきあい、そうしたもののことを考えているのを見る時――ああ、なぜ今夜、あのカルバリーへはい上がって行かないのでしょうか。ハレルヤ!
あなた自身の命をそこで切り裂かれ、主と共にあの十字架で死なせていただきなさい。そして、「とこしえの岩、私のために裂かれた岩よ、私をあなたの内に隠してください」と、その岩に腕を回してすがりなさい。
「水が近くまで押し寄せ、嵐がなお激しく吹き荒れる時も、私を隠してください。ああ、私の救い主よ、私を隠してください。世がしたいことをするなら、させておけばよいのです。神学者たちがしたいことをするなら、させておけばよいのです。私は彼らの神学など欲しくありません。私が欲しいのは、私の心の中におられるイエス・キリストです。私を、私の小羊と共に死なせてください。」

68. “私はキリストとともに十字架につけられました。それでも私は生きています。私ではなく、キリストが私の中に生きています。” いつかその輝かしい復活の中で、神が来られるとき、私の体は向こうの芝生の下で休んでいるかもしれません。しかし、そうなると、草が後ろに動くのが見えるでしょう、そして私は彼らの多く(ハレルヤ)に加えて、神の偉大な輝かしい姿となって出てくるでしょう、なぜなら私は神の復活の力について神を知っているからです。
今夜、あなた方全員がそうしていると信じています。今夜、向こうのゴルゴタを這い上がってください。今からちょっと旅行に行こう。
妹よ、もしよろしければ、あなたは私たちに、より近い、わが神、あなたの鍵をくれるでしょう。私たちがいる間。…
あなたは言います、“それは葬儀です。” そうですね、兄弟、もし私たちが葬儀を必要とした時期があるとすれば、それは今、人々が自分自身とプライドのために死ぬときです。
もしよろしければ、彼女が私たちに小さな和音をくれる間、静かに頭を下げましょう。

69. あの小羊が、彼らによって切り裂かれた姿を思います。そうです。彼らは主の頭にいばらを置き、それを押しつけました。兵士たちは主の御顔につばを吐きかけて言いました。「王よ、さあ、何かしてみろ。」
主は預言者の中の預言者であられました。彼らは主の顔に布を巻き、葦の棒で頭を打って言いました。「さあ、預言してみろ。誰がおまえを打ったのか、言ってみろ。」
しかし預言者は言いました。「彼はその口を開かなかった。」主は、すでにそれを語っておられたのです。
彼らは主の両手を後ろで縛りました。そして少し離れて立ち、大きな鞭で主を打ちました。主の尊いあばら骨が、背中から見えるほどに打たれたのです。血が脇腹を流れ落ち、地面に滴っていました。
今、私は主が歩かれる音を聞くようです。主のサンダルの中で、血がぬかるむように音を立てているのを聞くのです。
それはインマヌエルでした。
それは神でした。
神の血だったのです。

70. わめき立てる群衆は笑い、主をあざけって言いました。「あの預言者が行くぞ。あの偉大なイエスが行くぞ。あの神の癒しを行う者が行くぞ。」
しかし、主は私の主です。
ああ神よ、私を主と共に登らせてください。
主は丘を登って行かれます。私は、若い、半ば裸のような女たちが走り回り、あざけっているのを見るのです。その恋人たちは互いに抱き合いながら、丘を登って行きます。けれども主よ、今もあまり変わってはいません。
私は、立派な教会員たちがこう言っているのを見ることができます。「見ろ。あれが、私たちの教会を壊そうとしていた男だ。私たちの牧師に逆らって説教していた男だ。今の姿を見てみろ。」
しかし、預言者は、それがそのようにならなければならないと語っていました。
主は神の小羊であられたのです。

71. 主よ、私は今、信仰によって、主と共にその道を歩きたいのです。主の背に手を置いて、こう言いたいのです。「主よ、私はここにおります。ただ、何をすればよいかお命じください。私はそれをいたします。主よ、どれほどあなたに感謝していることでしょう。」
あの丘の上で、彼らが主を横たえ、尊い御手を引き伸ばした時のことです。
その御手は、熱病を止めた御手でした。あの哀れなやもめの息子に対して、そのひたいに触れた時……いや、彼が横たえられていた棺に触れた時、その息子は生き返ったのです。
そのお方は、ドルカスを命へと呼び戻されたお方です。
そのお方は、ヤイロの娘を命へと呼び戻されたお方です。
そのお方は、「ラザロよ、出て来なさい」と言われたお方です。
その御唇が、今は血を流し、渇ききって、叫んでおられるのです。

72. 「彼らはわたしの手と足を刺し貫いた」と、預言者はそれが起こる七百年前に語っていました。
それは何だったのでしょうか。
それはアベルの小羊でした。
そこで彼らは、主を地面へ投げ下ろしました。肉は裂け、哀れな御体は震えました。
主は言われました。「わたしは渇く。」
彼らは主に酢を与えました。
彼らは主をののしり、あざけり、からかって言いました。「偉大な奇跡を行う者よ、今こそ何とかしてみろ。」
しかしその時、空は暗くなり始め、稲妻がひらめき始めました。神が御顔を隠しておられたのです。もうそれ以上、見ていることができなかったのです。
ああ神よ、罪とは何と残酷なものなのでしょう。何と残酷なのでしょう。あの尊いお方に、そこまでさせたものが罪なのです。
それほどの代価を主は払われ、神ご自身さえ御顔を隠されたのです。天使たちは自分たちの顔を覆い、背を向けて、主と共に泣きました。月も星も、それ以上進むことができませんでした。もう輝くことができなかったのです。
それらを創造されたまさにその神が、十字架の上で死んでおられたのです。
そして主は、御頭を垂れられました。

73. 主は言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」
すべては愛の中でした。アダムの小羊、神が備えられた小羊、世の基の置かれる前からほふられた小羊です。
そこに主は死なれました。友もなく、神ご自身にさえ見捨てられて。神に、そしてご自分の父に見捨てられて。鳴いておられたのです。
それなのに私たちは、まるで何も起こらなかったかのように、笑い、浮かれ、歩き回っているのです。
ああ神よ、それはあの血でした。
あの病院で、医者が「彼は死にかけています」と言った時、私を癒したのは、あの血でした。
このあたりを走り回っていた、哀れな罪人の少年だった私の罪を赦したのも、あの血でした。
私が暮らしていた堕落した場所から私を取り出し、私を立たせ、あなたの息子としてくださったのも、あの血でした。
ああ、死にゆく小羊よ、あなたの尊い血よ。
主よ、私を十字架のそばに保ってください。

74. 「わたしに来る者を、わたしは決して外に捨てない。」
神よ、今夜ここにいる一人ひとりが、このことを心に留めて家に帰りますように。そして思い巡らしますように。何という犠牲だったのか。贖うために、どれほどの代価が払われたのか。神にとって、どれほどの代価だったのか。
私たちには何の代価もかかりませんでした。
しかし神には、御子を差し出すという代価がかかったのです。
神には、最も大きな代価がかかったのです。
キリストには、ご自身の命という代価がかかりました。
主はシャロンのばらでした。しかし、ばらから香りを取り出すには、それを砕かなければなりません。主の美しい命は、三十三歳半の若さで砕かれました。それは、私たちが生きるためだったのです。
わが神よ、御そば近く。
主よ、私の近くにいてください。私の近くにいてください。
そして、私がこの道の終わりに来る時、私の人生が終わろうとする時、主よ、あそこで死んでくださったお方が、その時、私の近くに来てくださいますように。
ここにいる一人ひとりにも、同じようにしてくださいますように。

75. ああ神よ、あわれんでください。今夜、この建物を出て行くすべての男性、すべての女性が、それぞれの家へ帰る時、真剣に考えながら帰りますように。
「私の腕には何も持たず、ただあなたの十字架にすがるのみ。」
そして、一人ひとりが、その十字架の上で死にますように。
主よ、今夜、私がこの講壇、この小さな古いコンクリートの建物の中に立っている間に、私は自分の命をあなたにお捧げします。あなたが私にしてくださったことを感謝します。そして、この十字架の夜の記念の時に、私は自分自身を新たにあなたにお捧げします。
主よ、私をお取りください。私のすべての過ちと悩みをお赦しください。主よ、私を神の御霊にあって強く、力ある者としてください。魂をあなたのもとへ勝ち取ることができますように。
そして、この会衆を祝福してください。私たちは御名によってお願いいたします。すべての罪人をお赦しください。すべての後戻りした者を取り戻してください。

76. あなたがたは、ブラナム兄弟は厳しいと思ったかもしれません。しかし私は、あなたがたを愛しています。私は、あなたがたが今出発しているその場所に、自分も座っていたことがあるのです。それがどういうものか、私は知っています。だからこそ、そう言ったのです。あなたがたが私たちの主を愛するようにならないかと願っていたのです。
私のために祈ってください。これが私にとって、献身の時となるように祈ってください。母親である方々、父親である方々、年配の方々の中にも、この時を献身の時としてください。今、主をあなたの心に受け入れてください。魂を尽くして主を信じてください。
さて、すべての頭が垂れられている間に、祈りの中で覚えてほしい方はいらっしゃいますか。そうであれば、ただ手を挙げてください。そして言ってください。
「ブラナム兄弟、私を覚えてください。私は今、もっと神に近づきたいのです。」
たくさんの手が挙がっています。

77. 私たちの頬を涙が伝い、ここへ滴り落ちています。私の涙も、この講壇の上に落ちています。ある人たちはハンカチで涙をぬぐっています。ここには、大きくたくましく、荒々しく見える男たちも座っていますが、そのしわのある頬を涙が流れています。
主よ、私たちを受け入れてください。この神聖な臨在の中にいる、私たち一人ひとりをお赦しください。愛する神よ、今夜、私たちを赦してください。主よ、若い者も年老いた者も同じように赦してください。
その日に私たちが救われ、あなたの御国へと連れて行かれますように。私たちは御名によってお願いいたします。アーメン。
さて、静かに立ち上がってください。
そのまま頭を垂れていてください。ゆっくりと。
わが神よ、御そば近く、
さらに御そば近く。
たとえ私を引き上げるものが
十字架であったとしても、
なお私の歌はすべて……
[ブラナム兄弟は人々のために静かに祈る。]
「神よ、わが神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
主よ、来てください。これらの心を祝福してください。
[ブラナム兄弟は人々と共に祈り続ける。]

78. [会衆が静かに建物を出始める間、ブラナム兄弟はしばらく沈黙する。]
「われわれはみな羊のように迷い、おのおの自分の道に向かって行った。しかし主は、われわれすべての者の咎を彼に負わせられた。彼はわれわれのそむきの罪のために傷つけられ、われわれの咎のために砕かれた。われわれに平安をもたらす懲らしめは彼の上にあり、その打たれた傷によって、われわれは癒された。それなのに、われわれは彼を、神に打たれ、撃たれ、苦しめられた者だと思った。」
[ブラナム兄弟は、人々のために静かに祈り続ける。]