あなたはこれを信じるか?

Believest Thou This?

あなたはこれを信じるか?

ミネアポリス ミネソタ州 アメリカ合衆国

説教番号: 50-0716

日付: 1950年7月16日(50-0716)

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1. 今夜(今日の午後)、ここに来られて本当にうれしく思っています。
私たちが語るのは、この地上に生きた中で、そしてこれからも決して他に並ぶことのない、最も偉大なお方――主イエス・キリストについてです。
ある日、私が話していたときのことです。妻が言いました。
『あんなに大勢の人が来るの?』と。
私はこう答えました。
『福音ほど、人を引き寄せる力を持ったものは、この世に他にはないんだよ』と。
主ご自身がこう言われました。
『わたしが上げられるなら、すべての人をわたしのもとに引き寄せよう。』」

2. このテントの中は少し暑いですね。
私はもともと“説教者”というタイプではありませんが……私は御言葉について語るのが好きなんです。
『信仰は聞くことから来る。聞くことは、神の御言葉による。』
それが、私たちに信仰を与えるものです。
信仰を持つためには、まず信仰の土台がなければなりません。そうでしょう?
たとえば、あなたが結婚しようとするとします。
そのとき、相手の女性はあなたにこう言うでしょう。
『あなたを愛しています。あなたに誠実でいます』と。
あなたは、その言葉を受け取るわけです。
そして、あなたの信頼――あなたの“信仰”は、
その言葉が本当だと、どれだけ信じられるかにかかっています。
これは、すべてにおいて同じです。
信仰によって進むためには、
私たちは必ず、背景となるもの、土台となるものを持たなければならないのです。」

3. 先ほども言いましたが、私は説教者というより、御言葉について語るのが好きなだけなんです。
私はかつて――バプテストの説教者として最初に按手を受けたときのことですが、
あれは本当に、人生の中でも最も大きな時間の一つでした。
子どもの頃は、聖書を抱えて歩くなんて、弱々しい人がすることだと思っていました。
ところが、救われて、按手を受けた後は、
聖書を小脇に抱えて堂々と通りを歩いていたんです。
そして、誰かが私を『兄弟』なんて呼んでくれると、
もう胸がいっぱいになって、誇らしくなりました。
『自分は本物の説教者なんだ』と思ったものです。
もっとも、実際にはインディアナ州内だけで通用する、
いわゆる地方の勧め人(エクゾーター)の免許で、
説教をしたり、結婚式をしたり、葬式をしたり、バプテスマを授けたりできる、
それだけのものでしたがね。
それでも私は、自分を立派な説教者だと思っていました。
――ところが、ある日、本物の説教者の話を聞いたんです。
その瞬間、はっきり分かりました。
『ああ、私は説教者なんかじゃないな』と。」

4. 私の父は、野生の馬――ブロンコを馴らす仕事をしていました。
父はケンタッキー州の生まれで、母はオクラホマの出身です。母はテキサス州、パリスという町の少し北のほうに移り住みました。
父は西へ行って馬を馴らす仕事をしていて、
とても腕のいい乗り手でしたし、銃の名手でもありました。
その馬を馴らす仕事を通して、父は母と出会ったのです。
そんな話をいつも父から聞いていたので、
私はずっと『自分も騎手になりたい』と思っていました。
父が馬をどうやって馴らすか、皮をはいで道具を整え、
チームを組んで働く話を聞くたびに、胸が躍ったのです。
私たちは農場に住んでいました。
私は心の中でこう思っていました。
『もう少し大きくなったら、絶対に本物のライダーになるんだ』と。
何度か映画館にも行って、
いわゆるデュード・ランチを舞台にした映画を見ました。
そして私は思ったのです。
『ああ、きっと自分はヒーローになるんだ』と。」

5. あの年老いた馬を納屋の裏にある水桶のところへ連れて行くんです。
ここに田舎育ちの男の子はどれくらいいますか?
手を挙げてみてください。
――遠慮しないで。
そうだと思いました。いいですね。
私たちはその古い水桶のそばに行って、
私はゴボウの実(コックルバー)を一つかみ取って、
それを鞍の下に入れ、腹帯をぎゅっと締めました。
そして、その年老いた馬の真ん中に、よいしょっとまたがるんです。
ところが、その馬はもうクタクタで……一日中働き通しでしたからね。
足を地面から持ち上げることさえできない。
ただ鳴いて、ぐるぐる回るだけでした。
私は古い麦わら帽子を持って、
下には弟たちをずらっと並ばせて、こう言うんです。
『見ろよ、カウボーイだぞ!』って。
そして、その帽子で馬の背中を叩くんですが、
かわいそうに、その馬は……
背中に卵を乗せていたとしても、落とせないくらい動きませんでした。
それでも私は鞍の上で、
『よし、暴れてるぞ、バッキングしてるぞ』って思っていたんです。
――自分では、ですけどね。」

6. 『自分は本物のライダーだ』と。
そこで家を出て、西へ向かい、カウボーイになろうとしました。
たどり着いたのがアリゾナ州でした。フェニックスにいたんです。
ちょうどその頃、ロデオが開かれていましてね。
私はこう思いました。
『今は無一文だし、ここで少し金を稼ごう』と。
後になって分かったことですが、
その同じ頃、リンゼー兄弟もすぐ近くで福音を宣べ伝えておられたんです。
その時はお互い全く知らず、
後になって日程を照らし合わせて、初めて分かりました。
さて、そのロデオですが、ラウンドアップの後で開かれていて、
『誰でも馬に乗って腕を試せる、賞金も出る』
そんな話がされていました。
私は思いました。
『よし、その前にチャップスを手に入れなきゃ』と。
そこで装備品を扱う店に行き、
なかなか立派な一着を見つけました。
大きく A-R-I-Z-O-N-A (アリゾナ) と書いてあって、
牛の頭の飾りまで付いている。
それを身につけてみると、床には革がこんなに垂れ下がっていて……
私はまるで、羽をいっぱいぶら下げた小さな雄鶏みたいでした。
まあ、人がどう思うかなんて、その時は気にしませんでした。
ところが、値段を聞いてみると……
とても払える金額じゃなかった。
結局、私はリーバイスのジーンズを一着手に入れて、
そのまま馬の囲いのほうへ向かったんです。」

7. 脚がO脚の連中と一緒に、囲いの上に座っていました。
やがて名前が呼ばれて、
『次は、この馬に、この騎手が乗る』とアナウンスがありました。
私は思いました。
『ほう、ちょっと見てやろう。
あいつが乗れなかったら、俺が乗ってやる』と。
実は、私はロデオを見るのも、その時が初めてだったんです。
しばらくすると、その男が囲いの中に入り、
こんなふうに立って、
馬が飛び出した瞬間に“つかめるところをつかむ”構えをしていました。
そして馬に飛び乗った途端、
その馬は二、三度、凄まじく暴れました。
まるで無法者の馬でしたね。
その馬は、両足を洗面器に入れたままでも、
鞍を囲いの外へ放り投げられるような、そんな代物でした。
その男が馬に乗った瞬間、
馬は二、三度大きく跳ね、
横っ飛びするように暴れました。
すると、その男は空中に放り出され、
くるくる回って地面に叩きつけられました。
係の者が馬を押さえに入りました。
すると、その責任者が戻ってきて、こう叫んだんです。
『誰でもいい!
あの馬に一分間乗れたら、五十ドルやる!
五十ドルだ!』
彼はフェンス沿いをずっと見渡しながら、
『五十ドルだぞ、誰か乗る者はいないか!』と叫んでいました。
そして、まっすぐ私のところへ来て、こう言ったんです。
『あんた、ライダーか?』
私は答えました。
『いいえ、違います』。
……まあ、正直に言えば、
その時まで私は“ライダーだ”と思っていたんですがね。
――その瞬間までは、です。」

8. かつて自分は説教者だと思っていた時のことです。
聖書を抱えて歩き、ポケットには小さな免許証を入れて、
『自分は説教者だ』と思っていました。
ところがある日、ミズーリ州セントルイスにいた時のことです。
偶然、ペンテコステ派のキャンプ・ミーティングに出くわしました。
そこに、ドアハティという名のペンテコステ派の説教者がいたんです。
いやあ……あの人が説教を始めたときは、すごかった。
顔が真っ青になるほど叫び、
膝ががくがくして、そのまま床に倒れ込む。
そして立ち上がると、息を整えながら、
それでも二ブロック先まで聞こえる声で、なお説教し続けるんです。
すると、そばにいた人が私に近づいてきて、こう言いました。
『あんた、説教者か?』
私は答えました。
『いいえ、違います。いや、いや、とんでもない』
私のあの、ゆっくりしたバプテスト流のやり方では、
とてもあんな速さではついていけません。
だから私は、どうしても時間をかけてしまうんです。
ですから、本物の説教者がいるところでは、
私は決して自分のことを説教者だとは言いません。
……そのほうが、身を隠していられますからね。」

9. こうして外に出て来られるのが好きなんです。
その時は、自由があって、のびのびと、
説教したり、御言葉について語ったり、何でもできるからです。
そういう時間を、時々与えてもらえるので、
私はその中で、ただ喜ぶことができるんです。
一方で、癒しのための油注ぎが臨んでいる時には、
私はただ祈り、断食し続けます。
すると、あるところまで来ると、
とても神聖で、静かな感覚に包まれるんです。
それは喜びで跳ね回るようなものではなく、
深く、厳かな、聖なる感覚です。
しかし、聖霊について語る時には、
それは喜びとなり、幸福となり、
心の楽しみとなり、
主の臨在から来る回復とリフレッシュが伴います。
私は今日の午後、その恵みを持てることを本当にうれしく思っています。
さて、礼拝に入る前に、
“聖書箇所”と呼べるかどうか分かりませんが、
一つの御言葉を読みたいと思います。
その前に、はっきりさせておきたかったのです。
私は説教者ではありません。
――なぜなら、皆さんはここで、
本当に立派な説教者たちの話を聞いておられますから。
ですから、数分もすれば、その違いが分かるでしょう。」

10. 少しだけ神の癒しについてお話ししたいと思います。
多くの人は、神の癒しというと、
何か怪しげな、手品のようなものだと思っています。
しかし、そうではありません。
それはとても単純で、明確なもの――
キリストの福音そのものなのです。
では、もし私が今日の午後、
『この建物の中にいる病んでいる人は、すでに全員癒されています』
と言ったら、皆さんはどう思いますか?
――それは本当なのです。
神の側から見れば、あなたはすでに癒されています。
多くの場合、人々は議論したがります。
少し前にも、この写真が撮られた集会で、
ある牧師がこう主張しました。
『キリストは、罪のためには贖われたが、
病のためには贖っておられない』と。
しかし、友よ、ここが大切なところです。
これは、とても単純なことなのです。
ただ、理解しようとするなら。
今日の午後、病を持っている方はどれくらいいますか?
手を挙げてみてください。
……ええ、かなりいらっしゃいますね。分かっています。
はい、それで結構です。」

11. 今、私が語っていることを、しっかり受け取ってください。
そして、私が話し続けている間、そのことを握り続けていてください。
いいですか?
人は、自分が告白している以上のところには、決して生きることはできません。
あなたを救うのは、あなたの告白なのです。
主はこう言われました。
『人の前でわたしを告白する者を、わたしもまた、父と聖なる御使いたちの前で告白する。』
あなたが『私は病気だ』と言えば、あなたは病気なのです。
――ここで誤解しないでください。
私はクリスチャン・サイエンスを説いているのではありません。
私は神の力を語っているのです。
そして、そのことを聖霊ご自身が証ししておられます。
では、どういうことか。
あなたは、『自分が救われたと感じるから』主を受け入れるのです。
そして、人々にそれを語り、証しし、
その自分の証しを信じて歩む。
そうして、それが義を生み出します。
癒しも、まったく同じなのです。
――救いで起こったことは、
癒しにおいても、同じように起こるのです。」

12. 罪が、この世に病をもたらしたのです。
病気というのは、罪の結果なのです。
病がある前には、罪はありませんでした。
そして罪が入ってきたとき、
その結果として病が入ってきたのです。
だからこそ、イエスは来られました。
罪を取り除くために――そして、その結果も取り除くために。
この世に、
『イエス・キリストは私たちの罪のために死なれた』
ということを信じない福音説教者はいないでしょう。
それが、まさにここです。
――この一点なのです。
よく見てください。
ここで、代価は支払われました。
イエスが罪のために死なれたとき、
その死の結果として、病も一緒に処理されたのです。
たとえば、もし誰かの足を殺したいと思ったなら、
頭を打てば、足も一緒に死にます。
足は、頭と切り離されて生きることはできません。
同じように、
イエスが罪のために贖われたとき、
罪の結果もまた、贖われたのです。
病は、罪の属性です。
そしてイエスは、私たちの罪のために死なれました。
病、咎、すべてが、
罪のためのその死の中に含まれていたのです。
分かりますか?
ですから、
イエスが世の罪のために死なれたとき、
あのカルバリで、
あなたも、あなたも、あなたも――
ここにいる一人ひとりが癒されたのです。
あなたは、すでに癒されています。
あなたは、すでに罪を赦されています。
――ただ、それを受け取るなら、それでいいのです。」

13. 地獄から逃れる道を拒んだからです。
そこには回避路(バイパス)がある――それがキリストです。
病、早すぎる死、早すぎる墓場からの回避路もあります。
それもまた、キリストを通してです。
あなたは初めに罪を犯しました。
そして、キリストはあなたの罪のために死なれました。
それゆえ、キリストが死なれたとき、あなたは救われたのです。
同じように、
キリストが死なれたとき、あなたは癒されたのです。
なぜなら、主があなたの代わりに、その場所に立たれたからです。
ですから今、あなたがするべきことはただ一つ。
信仰によって、それを受け取ることです。
そうすれば、あなたは受け取ります。
分かりますか?
もう、何かを付け加える必要はありません。
あなたの癒しは、すでに代価が支払われているからです。
あなたは今日の午後、受け取ることができます。
今、この瞬間にでも受け取ることができます。
あなたの信仰が、
『キリストは私の病のためにも死なれた』
――『キリストは私の罪のために死なれた』
(それはカルバリで成し遂げられました)
その事実を信じ、
その土台の上に立って受け取るなら、
その瞬間、神の御前において、あなたは癒されているのです。
そして、その後は、それを証しし続け、信じ続けるのです。
私たちは、
見えるものを証しするのではありません。
見えないものを証しするのです。
『信仰とは、望んでいる事柄の実体であり、
目に見えないものの証拠である。』
私たちは、
見えるものではなく、見えないものを見るのです。」

14. 神を信じ、証し続けました。
百歳になっても、なお神を信じていたのです。
パウロも同じでした。
嵐がまだ静まる前から、
何が起こるかを知っていました。
なぜなら、彼は神の御言葉を持っていたからです。
そして今日の午後、
あなたもまた、神の御言葉を持っています。
そこで、私は皆さんにお願いしたいのです。
――いや、福音の奉仕者として、
一つのチャレンジをさせてください。
もし、今日の午後、あなたが信じるなら。
そして、祈っている最中に、
聖霊が私たちのただ中に下って来られ、
あなたの心の中で、
『神がこの祈りを受け入れてくださった』
と、はっきり感じるなら――
その一点に、しっかり立ちなさい。
それを信じ続けなさい。
もう、祈祷列に並ぶ必要はありません。
それ以上、何かを付け加える必要もありません。
その場で信じるなら、
それで病は終わりです。
あとは、堅い信仰をもって立ち上がり、
大胆に歩みなさい。
もし誰かが、
『どうして、あなたが癒されたと分かるのですか?』
と聞いたなら、こう答えなさい。
『神がそう言われたからです。
私は神の御言葉を信じています。
それだけです。』」

15. 救われたと感じるからではありません。
もし誰かがこう言ったとしましょう。
『自分が救われているのは、体がぞくっとしたからだ』とか、
『特別な感覚が走ったからだ』と。
しかし、それが救いの理由ではありません。
サタンは、感情の上では、
私を木の切り株の周りにでも振り回すことができますし、
あなたにも同じことができます。
――そのとおりです。
けれども、私がこう言って立つとき、
『主はこう言われる(こう書いてある)』
そのとき、私の信仰は
神の御言葉の上に築かれているのです。
そして、それをサタンは奪い取ることができません。
覚えておいてください。
イエスには、父なる神のすべての性質が宿っていました。
そう信じますか?
もちろん、そうです。
神のすべての尊い賜物は、
神の御子キリストのうちにありました。
なぜなら、イエスは神から生まれたお方だったからです。
しかし、ここをよく見てください。
イエスが、あなたの模範として、サタンと向き合われたとき、
一つの賜物も使われませんでした。
サタンが来たとき、イエスは言われました。
『それは書いてある。
人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る一つ一つの御言葉によって生きる。』
次に、サタンがイエスを神殿の頂に連れて行ったときも、
イエスは言われました。
『それは書いてある。』
さらに、高い山の頂に連れて行かれたときも、
イエスは言われました。
『それは書いてある。』
分かりますか?
――「それは書いてある」
それが、イエスの答えでした。」

16. よく見てください。今、これをしっかり受け取ってください。
書かれた神の御言葉は、
どこでも、いつでも、どんな場合でも、
サタンを打ち負かします。
――『それは書いてある』。
そこにすべてがあります。
すべての人が賜物を持っているわけではありません。
イエスは、この真理を、
賜物を持たない人でも、
信仰がそれほど強くない人でも
立てる場所にまで、下ろして来られました。
ただ、こう言えばいいのです。
『それは書いてある。』
そして、その御言葉の上に立ち続けるのです。
トウモロコシは、トウモロコシを実らせます。そうでしょう?
大麦は、大麦を実らせます。
小麦は、小麦を実らせます。
イエスは言われました。
神の御言葉は、蒔かれた種である。
そして、すべての御言葉は、
その種にふさわしい実を必ず結びます。
神の御言葉、
神のすべての約束は、
必ず、その約束にふさわしい結果を生み出すのです。
あなたは、それを信じますか?」

17. 小麦を蒔きます。
そして、収穫を期待します。
ところが、もし翌朝、畑に出て行って、
土を掘り返しながら、こう言ったらどうでしょう。
『おや、芽が出ていない。
何も起こっていないじゃないか。
じゃあ、小麦なんて出来るはずがない』と。
そんなことをしていたら、
――もし蒔いたものを何度も掘り返して、確かめ続けたら、
決して小麦は実りません。
ただ蒔いて、
そのままにしておくことです。
アーメン。
そこから先は、神の御業です。
実を結ばせるのは神です。
雨を降らせるのも神です。
そして、あなたの役割は、
神を、その御言葉のとおりに受け入れること。
ハレルヤ。
御言葉を成就させるのは、神ご自身です。
人は、自分の言葉以上の価値はありません。
そして神もまた、
ご自身の御言葉以上でも、それ以下でもないのです。
私は、信仰の挑戦として、こう言います。
神の約束はすべて、
あなたがそれに対して正しい心の姿勢を取るなら、
必ず成就します。
ただ、見つめなさい。
信じなさい。」

18. 皆さんの中には、何年も前に“グローリー・バーン”で知られていた
ジョンのことを聞いたことがある方もいるでしょう。
彼が、フランスのアルザス=ロレーヌ地方で、
ある日の午後、妻と一緒にキリストの像を見て歩いていたときのことです。
彼は立ち止まって、批判的にこう言いました。
『これのどこに苦しみがあるんだ?
とても大きな犠牲を払ったようには、何も見えないじゃないか』と。
すると案内人が言いました。
『ご主人、あなたは見方を間違えています。
こちらへ来てください』。
『ここに祭壇があります。
ここにひざまずいて、
そして、上を見上げてください』と。
彼が見上げたとき、思わずこう言いました。
『ああ……』
心が張り裂けそうになったのです。
分かりますか。
すべては、どこから見るか、なのです。
もしあなたが、
『御言葉はただ昔の話だ』
『キリストは遠い昔に生きただけで、今はおられない』
『昨日も今日も、いつまでも同じお方ではない』
――そんな見方をするなら、
あなたが受け取るのは、その程度のものです。
しかし、御言葉は歴史として遠くから眺めるものではありません。
ひざまずき、見上げ、信じるものなのです。
神の御言葉を、
あなたがどの位置から見るか――
それが、すべてを決めるのです。」

19. そして今、祈りの中で神にこう言ってください。
『主よ、今日の午後、私はここに座っています。病を抱えています。
私は、多くの牧師たちが御言葉を宣べ伝えるのを見てきました。
クリスチャンたちを見てきました。
遊女だった人が、気高い女性、聖徒へと変えられ、
道端の酔っぱらいが、立派な紳士となり、
神の聖徒となって、福音を宣べ伝える者になったのを見てきました。
私は、あなたがそれらの人々を遣わされたことを信じます。』
そして、こう言いなさい。
『父よ、私はまた、
神の癒しの賜物を主張する人を見てきました。
人の心の内を知る、その働きを見てきました。
そして私は、あなたがご自身の民の中に住んでおられることを知っています。
世界中で、あなたがご自身の民を通して働いておられることを知っています。
ですから今日の午後、
私はあなたを私の神の癒し主、
そして私の神の救い主として受け入れます。
私はそれを信じ、告白し、
どんなことがあっても、それに立ち続けます。
どうか今日の午後、私を祝福し、
このことを私の心の中で真実なものとしてくださり、
私が本当に信じることができるようにしてください。』
あなたは、その約束を神にしますか?
そうしますか?
病んでいるあなたは、こう言ってください。
『主よ、私は約束します。
今日の午後、ほんの小さな信仰でも、あなたが私に触れてくださるなら、
私はそれを信じ、
ここから出て行き、
一生、癒された者として歩みます。
私は、神の約束以外のものを見ることを拒みます。』
さあ、そのようにしなさい。
癒される道は、ただ信仰によるほかありません。
だから、それを受け取り、信じなさい。
そうすれば、神がそれを成し遂げてくださいます。
それでは、
頭を垂れて祈りましょう。」

20. 私たちは今、御言葉のために、しばしここに集まりました。
御言葉を語り、御言葉を聞くためです。
信仰は聞くことから来、聞くことは神の御言葉によるからです。
今、私たちが聖書を開き、御言葉を読もうとしていますが、
人はだれ一人として、この書を開くことができないことを、
私たちは知っています。
ヨハネはこう言いました。
『天にも地にも、地の下にも、
その書を開くことのできる者は一人もいなかった。
しかし、世の初めからほふられた小羊が、
御座に着いておられる方の御手から
その書を取るにふさわしく、
また、その封印を解くにふさわしかった。』
父よ、今、
神の小羊である主が、聖霊によって、
この午後の集会のただ中に来てくださり、
神の御言葉を取り、
一人ひとりの心の中に、それを開いてくださいますように。
そして、御言葉が受け入れられるとき、
どうか、あなたの僕の唇を割礼して、
語るべき言葉だけを語らせてください。
また、聞く者たちの心を割礼して、
御言葉を受け取れるようにしてください。
そして、その実が、
百倍の実を結びますように。
これらのことを、
あなたの愛する御子、イエスの尊い御名によってお願いいたします。
アーメン。

21. 聖マタイではなく、聖ヨハネの福音書――第11章です。
ほんの数節だけ、お読みしたいと思います。
書き留めたい方は、どうぞ印を付けてください。
これは皆さんもよくご存じの箇所で、
何度も牧師先生から語られてきた、
ラザロの復活の場面です。
20節から27節までをお読みします。
どうか、御言葉によく耳を傾けてください。
今日は午後になって、とても暑いですね。
しかし、友よ――
私たちは、ここよりも、はるかに暑い場所を回避するために、
ここに集まっているのです。
そこには扇風機もありません。
……そうです、
地獄と呼ばれる、あの大きな場所です。
私たちは、そこを回避したいのではありませんか。
それでは、
ヨハネの福音書 第11章、20節からお読みします。」。

22. 私はそれが本当に好きです。
とても素晴らしいことです。皆さんは、とても良い方々です。
正直に言えば、ここは町外れですし、
いろいろ困難もあって、
最初に思っていたほどの人数ではありませんでした。
しかし、ここに集まって来ている方々は、
本当に、実にすばらしい人たちです。
皆さんは、大きな信仰を持ち、従順で、
世界のどこへ行っても、
これほど話しやすい群れはないと言えるほどです。
ですから、どうか今、
御言葉によく耳を傾けてください。
――それでは、読みます。
(ヨハネ11章20〜27節)
「さて、マルタは、イエスが来られると聞くと、
すぐに出て行って、お会いした。
しかし、マリヤは家に座っていた。
マルタはイエスに言った。
『主よ、もしあなたがここにおられたなら、
私の兄弟は死ななかったでしょう。
しかし、今でも私は知っています。
あなたが神に求められることは、
何でも神はあなたにお与えになることを。』
(いい信仰ですね。皆さんも、そう思いませんか。)
イエスは彼女に言われた。
『あなたの兄弟はよみがえります。』
(見ましたか。
このような信仰が、何を生み出すかを。)
マルタはイエスに言った。
『私は知っています。
終わりの日の復活のときに、
兄弟がよみがえることを。』
イエスは彼女に言われた。
『わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、
決して死ぬことがない。
あなたは、これを信じますか。』
彼女はイエスに言った。
(ここ、よく聞いてください。)
『はい、主よ。
(ああ、私はこれが好きです。)
あなたがキリスト、
世に来られるべき神の子であることを、
私は信じております。』

23. 父なる神よ、
今、読まれたあなたの御言葉を祝福してください。
そして、これからそれについて語るとき、
御言葉が前進し、
聞く者一人ひとりの心の奥深くに沈み込みますように。
どうか、聖霊が働いてくださり、
身体の癒しのためにも、
魂の救いのためにも、
百倍の実を結ばせてください。
父よ、ここから、
古き良きリバイバルが始まりますように。
私たちは、それを切に願い、祈っています。
それが、今この世界に残された、
ただ一つの希望であることを知っているからです。
この世のすべての王国と力は、
やがて揺り動かされ、崩れ去ります。
しかし私たちは、
決して揺るがされることのない王国を受けています。
神よ、今日、私たちがこの王国を
人々に紹介することができますように。
そして、多くの人々が、
押し分けてでも、その中に入って来ますように。
これらのことを、
イエス・キリストの御名によってお願いいたします。
アーメン。

24. 主はこの世に生まれましたが、
正直に言えば、最初から決して良いスタートではありませんでした。
私はよく、こう考えるのが好きです。
――もしあなたが、
イエスが本当はどなたであるかを知るなら、
その偉大な犠牲を、もっと深く味わうことができるだろう、と。
まず、
イエスがどなたであるかを知らなければなりません。
イエスは、ただの正しい人でも、
ただの善人でもありませんでした。
神の御子だったのです。
だれ一人として、
天使であっても、
ほかの何者であっても、
その代わりになることはできませんでした。
ただ、主お一人だけが、それを成し得たのです。
そして主は、
私たちのために、進んで下って来てくださいました。
主はこの地上に生まれ、
家畜小屋という形で入って来られ、
そして、死刑という形で、この世を去られました。
それなのに、私たちは時々、
少しの試練や困難で、不平を言ってしまいます。
しかし、主に何が起こったかを、見てください。
――主が通られた道を、考えてみてください。」

25. それは、主が小羊だったからです。
小羊は家の中では生まれません。
小屋で生まれるものです。
そして、カルバリへ向かわれるときのことを思い出してください。
主は、ほふり場へ引かれて行くように連れて行かれました。
――それが、小羊に対してなされることなのです。
人は、小羊を引いて行きます。
主は、神の小羊でした。
神が備えられた小羊です。
それは、私たち罪人が、
このお方を通して、神に近づくことができるためでした。
さて、主が生まれたときのことを考えてみましょう。
その評判は、決して良いものではありませんでした。
人々は、主を私生児だと思っていたのです。
『ヨセフが父で、マリヤが母だ』
――人々はそう言いました。
しかし実際には、
ヨセフは主の父ではありませんでした。

26. 一人の男――年老いた罠猟師に出会いました。
彼はこう言いました。
『私は、ちゃんとした教育を受けた人間なんだ』と。
かつては科学者だったそうです。
彼は冬になると山に入り、罠猟をしていましたが、
その生活がとても気に入って、
静かで平和だからと、そこに住み続けていたのです。
その彼が、私にこう尋ねました。
『君は、あの処女降誕の話を信じているのか?』と。
私は言いました。
『一言一句、すべて信じています。』
すると彼は言いました。
『本気で信じているのか、ビリー?』
私は答えました。
『ええ、本気です。全部、信じています。』
彼は言いました。
『それは不可能だ。
あんな生まれ方があるはずがない。
それは、あらゆる科学的研究に反している。』
私は言いました。
『どんな科学研究に反しているのかは知りませんが、
神の御言葉には反していません。
神は、あの方を御自分の子だと言われました。
だから、私はそれを信じます。』
彼は言いました。
『それは、君が神を誰だと思っているかによる。
もしヨセフが神だと言うなら、それで説明はつくがね。』
私は言いました。
『ヨセフは、あなたや私と同じ、人間です。
しかし神は、エホバです。
地の上を覆っておられた、神の霊です。』
彼は言いました。
『それは不可能だ。
ビリー、トウモロコシだって、何もないところからは生まれない。
男女の交わりなしに、子どもが生まれるはずがない。』
私は言いました。
『おじいさん、年長者であるあなたの言葉に
逆らうつもりはありませんが……
その点では、あなたは間違っています。』
彼は言いました。
『本当に、その赤ん坊がそうやって生まれたと信じているのか?』
私は答えました。
『エホバなる神が、
マリヤという一人の若い処女を覆い、
男を知らずして、その胎に一つの血の細胞を創造された。
そして、そこから神の御子が生まれた。
私は、そう信じています。』

27. 性的な欲望によらず、
主の義なる、聖なる血によって生まれるのです。
主はカルバリで死なれ、
その血を流されました。
それは、私たちが罪から自由になるためでした。
兄弟よ、あなたはそれを信じますか?
もし信じないなら、
……はっきり言いますが、あなたは失われています。
それだけのことです。
すべては、その血にあるのです。
私たちは、神の血によって救われています。
私たちは、自分の父の血を受け継ぎます。
イエスは、御父の血を持っておられました。
それは、聖なる、混じりけのない血でした。
性的な欲望によってではなく、
聖霊によって生まれ、
マリヤの胎に宿り、
そして、この世に生まれて来られたのです。
私は、それを心から信じています。
彼は言いました。
『どうしても、そんなことが起こるとは思えない。
実際の接触なしに、命が生まれるはずがない』と。
何日も議論を重ねた後のことです。
ある日、男たちが集まっている、
古い小屋の中で、彼はまた同じ話を始めました。
私は言いました。
『では、こう認めてくれますか。
イエスには地上の母がいた、
しかし、地上では父と母なしに
何かが生まれることは不可能だ、と。』
彼は言いました。
『そのとおりだ。』
私は言いました。
『では、聞かせてください。
もし、創造主エホバなる神によって、
地上の父なしにイエスが存在することが不可能だと言うなら、
それでもなお、
イエスには地上の母がいたと言うなら――
最初の人間は、どうやって存在するようになったのですか?』
『どこかに父親と母親がいなければならないでしょう。
たとえオタマジャクシでも、サルでも、
何と呼ぼうと、
あなたの理屈では、
必ず父と母が必要なはずです。』
――彼は、
今日に至るまで、その質問に答えていません。
答えられないのです。
神、創造主が、
ご自身のかたちに人を造られた。
私は、そう信じています。
彼は言いました。
『ダーウィンは、こう言っている』と。
しかし私は言いました。
『私は、それを信じるほどの信仰を持っていません。
私は、神が言われたことを信じるだけです。
私の信仰は、
主が何と言われたか、
それに基づいているのです。』

28. そしてカルバリで、死刑という形でこの世を去られました。
罪のいけにえとしてです。
しかし、その誕生は栄光に満ちていました。
神の御使いたちが天から下って来て、
そのことを歌ったのです。
私は、時の初めから、
主は女の子孫として来られ、
蛇の頭を打ち砕くお方だと信じています。
主は、女を通して来られる救い主でした。
そして、よく見てください。
主が生まれる前から、
すでに大きなことが起こっていました。
神がメシアを遣わされると信じ、
期待し、信仰を持って待ち望んでいた人々がいたのです。
その数は、ほんのわずかにまで減っていました。
しかし、神はいつの時代にも、必ず残りの者を持っておられます。
(声が大きすぎますか?)
神の御言葉を信じる、
残りの者です。
あなたは、それを信じますか?
そして神は、今日もまた、
どこかに必ず、ご自身を信じる人を持っておられます。
私は、今日の午後、
私たち全員が、その群れの中にいることを願っています。

29. 神は預言者たちに語り、
主が来られることについて、すべてを前もって告げておられました。
時代を通して、だれ一人として、
その誕生について語らなかった者はいません。
バプテスマのヨハネも、そのことを語りました。
ヨハネは、とても特別な子どもでした。
彼の父ザカリヤ、母エリサベツは、
すでに年老い、子どもを産める年齢を過ぎていました。
しかしザカリヤは、
正しい人で、神を恐れる人でした。
――神よ、
今日もそのようなザカリヤを、
神を恐れる男女を、
どうか起こしてください。
彼らは家で祈り、
神の御前に、願いと祈願をささげていました。
ある日、ザカリヤは神殿にいて、
当番として、
香をたく務めをしていました。
それは、彼に割り当てられた務めだったのです。
そのとき、
神は御使いガブリエルを遣わされました。
天から下って来て、
祭壇のそばに立ったのです。

30. それは、正しい人でした。
正しい人というのは、罪を犯さない人のことではありません。
自分の過ちを神に告白し、
自分の義ではなく、神の義により頼む人のことです。
さて、その御使いは、祭司ザカリヤに告げました。
彼の務めの期間が終わったら、家に帰り、
彼の妻が身ごもり、男の子を産む。
そして、その名をヨハネと名づける、というのです。
ところが、よく見てください。
ザカリヤは祭司であり、
御言葉に仕える者であったにもかかわらず、
その御使いの言葉を信じることができませんでした。
そこで、御使いは言いました……。
覚えておいてください。
神が一度語られたことは、必ず成し遂げられます。
アーメン。あなたはそれを信じますか?
神は、必ず一つの教会を持たれます。
私は、そこに誰がいるのかは知りません。
しかし、神は
しみも、しわもない教会を持たれます。
それは、必ず存在します。
『彼らは、どこから現れるのですか?』
――それは、私には分かりません。
しかし、必ず存在します。
なぜなら、神がそう言われたからです。
そして、神は偽ることができないお方だからです。

31. 地上で何かが起ころうとするとき、
まず神は、使者を遣わされます。
そして、その使者は、御使いによって油注がれるのです。
御使いにも、さまざまな段階があります。
小さな務めの御使いもいれば、
重大な務めを持つ御使いもいます。
ここに来たこの御使いは、ガブリエルでした。
神の御前に立つ御使いです。
――これは、ただ事ではありません。
ガブリエルが天から来るとき、
必ず何かが起こります。
ガブリエルは、
イエスの初臨を告げました。
そして、イエスの再臨も告げるのです。
『神のラッパが鳴り響く』――
それは、御使いによってです。
さて、そのガブリエルが来て、
ヨハネが生まれることを告げました。
しかし、ここを見てください。
祭司であり、正しい人であったザカリヤが、
その時に必要な信仰を持てなかったのです。
分かりますか?
今日でも同じです。
『私は三十年間、クリスチャンです』
そう言う人がいます。
それは素晴らしいことです。
しかし、問題は“今のあなたの信仰”です。
神は、
あなたの過去の功績によって癒されるのではありません。
神は、あなたの信仰のゆえに癒されるのです。
『もし、あなたが信じるなら。』
ハレルヤ。
よく見てください。
主は異邦の女に、
ただ一つのことしか言われませんでした。
『もし、あなたが信じるなら。』
――それが問題です。
あなたは、神を信じ、
御言葉のとおりに受け取ることができますか?
ああ、もし私たちがそれをするなら、
この国じゅうに、
ハレルヤのうねりが起こるでしょう。
あらゆる所で癒しが起こるでしょう。
通りの上で、
片手で何かを支えながら、
もう一方の手を上げて、
『神が私を癒してくださった』
と告白する人々を見るでしょう。
その信仰に立ち続けなさい。
神は、それを必ず成し遂げてくださいます。
なぜなら、
神はご自身をその御言葉に縛られたからです。
神は、それを行うと誓われたのです。

32. 小羊や獣を取ってきました。
二人の人間が向かい合い、
その間で契約の内容を書き記したのです。
それから、その獣を殺し、
その上で、その契約書を二つに引き裂きました。
一人が一方を取り、
もう一人がもう一方を取るのです。
そして、この契約を確かなものとするために、
後になって、その紙切れを再び持ち寄らなければなりませんでした。
そして――ここが大事です――
その二つは、完全に一致しなければならなかった。
寸分違わず、ぴたりとかみ合わなければならなかったのです。
さて、神は教会と契約を結ばれました。
そして、その契約を書き記されました。
――それが、この聖書です。
そして、贖いの日に、
神はご自身の御子をほふられました。
あなたはそれを信じますか?
主は裂かれ、
その御身体は、威光の右に挙げられ、
そして、御霊が、契約のしるしとして、私たちのもとに送られたのです。
ですから、その日、
私たちの内に、同じ聖霊がなければ、
その御身体の中に入ることはできません。
これは、古臭い説教だと言う人もいるでしょう。
しかし、それがあなたを救うのです。
そのとおりです。
私たちは、
キリストの御霊を内に持たなければなりません。
あの御身体から出て来られた、
同じ御霊を持って、
その御身体を構成する者とされ、
そして、再び主と共に帰るのです。
ああ、なんということですか。
そのとおりです。
神は、私たちと契約を結ばれたのです。

33. 神を信じませんでした。
御使いを信じなかったのです。
すると、御使いは言いました。
『あなたが、私の言葉を信じなかったから、
――私は、神の御前に立つガブリエルである――
あなたは、その子が生まれる日まで、
口がきけなくなる。』
ザカリヤは外に出て来て、
身振りで人々に合図しました。
人々は、
『彼は御使いを見たのだ』
と悟りました。
彼は、
自分たちが住んでいた
ユダヤの山地へ帰って行きました。
すると、子を産める年齢を過ぎていた彼の妻が、
身ごもったのです。
そして彼女は、
自分が母となることを思い、
しばらくの間、人前から身を隠しました。
それから、六か月後のことです。
神は、再びガブリエルを遣わされました。
ああ、もう……
私は、この場面が大好きです。
時々、心がいっぱいになってしまうんです。
皆さんは、
『バプテストにしては、ちょっと騒がしいな』
と思うかもしれません。
でも私は、
聖霊を受けたバプテストなんです。
だから……
時々、声が大きくなるんです。
ですから、私を狂信者だと思わないでください。
私は、そうではありません。
もし、あなたが
私と同じように感じていたなら、
おそらく、
あなたも同じことをしているでしょう。

34. 神は、もう一度ガブリエルを遣わされました。
それも、この地上でいちばん取るに足りない町へです。
(ミネアポリスにも、まだ望みはありますね? いいでしょう。)
その取るに足りない場所――
ナザレです。
そして、神の御前にまっすぐに生きていた、
一人の小さな処女のもとへ。
彼女は貧しかった。
金持ちでもなければ、威張った人でもない。
神は、あなたのお金を見ません。
あなたの服装も見ません。
神は、あなたの心を見るのです。
ハレルヤ!
私は、この昔ながらの救いが大好きです。
この救いは、
作業着を着た人と、タキシードを着た人とを、
抱き合って「兄弟」と呼ばせます。
木綿のワンピースの人と、
絹のドレスの人とを並んで座らせ、
互いに「姉妹」と呼ばせます。
それは、
高ぶりを取り去る救いです。
今日の教会の問題は、そこです。
――堅くなりすぎ、誇りが強すぎる。
少し、低くなりなさい。
どうせ最後は、
六フィートの土の下に入るのです。
魂は、いつか必ず、神の前に立たなければなりません。
それが問題なのです。
それが、
ペンテコステ派の教会や、
聖潔派の教会にも起こっている問題です。
少し良い教会堂ができ、
立派な場所を持つと、
この世に合わせようとし始める。
神の民がいつもつまずくのは、
世に倣おうとしたときでした。
この世が私たちの型ではありません。
キリストこそ、私たちの型です。
ハレルヤ!
今こそ、
整えられる時です。

35. 隣の人も赤く塗るでしょう。
そのとおりです。
マーキュリーの車を買えば、
隣の人もマーキュリーが欲しくなる。
人は、合わせたがるものなんです。
でも私は、
ズボンと上着が合っているかどうか、
シャツとスーツが合っているかどうかなんて、
そんなことは気にしません。
私が気にするのは、
自分の体験が、神の聖書と合っているかどうかです。
それこそが、
クリスチャンが合わせるべき“一致”です。
『ジョーンズは大きな教会を持っている。
自分は小さい』
――そんなことは、どうでもいい。
私は、キリストが欲しい。
ハレルヤ!
そのとおりです。
友よ、
すべては、そこから始まるのです。

36. あの純真な若い処女マリヤ。
たぶん、その日は――
洗濯の日だったのかもしれませんね。
まあ、そう呼んでもいいでしょう。
うちでは、たいてい月曜日が洗濯の日でした。
私の妻が洗濯をする日で、
いつも大変な一日でした。
昔は、水を運んで来て、
家の裏で大きな桶に入れて沸かして……
分かりますよね。
それで洗濯するんです。
私も手伝いましたよ。
杉でできた古い桶でね……
でも、良い時代でした。
主を愛しているなら、
それで十分じゃありませんか。
それ以外に、何が必要でしょう。
幸せというのは、
この世の物をどれだけ持っているかではありません。
自分に与えられている分に、
どれだけ満ち足りているか――
それが、幸せというものです。
キリストを見いだしなさい。
そうすれば、あなたは幸せを見いだします。
もう、持っています。
それは、真実です。」

37. ガブリエルが、神の命令によって、天から降りて来ました。
その周りには、
おそらく身なりを整えた若い娘たちが、たくさんいたことでしょう。
髪を整えて……何て言うんでしたっけ、
まあ、いろいろと飾っていたのでしょう。
(言い方を間違えたかもしれませんが……
私はああいうことには、あまり詳しくありませんからね。)
でも、皆さん分かるでしょう。
しかし、
御使いが来たのは、
そういう人たちのところではありませんでした。
主は、
素朴で、飾り気のない、へりくだった信じる者のところへ来られたのです。
ハレルヤ!
それは、今日も同じです。
神は、あなたの服装で心を動かされるのではありません。
あなたの生き方、
あなたの考え方、
あなたの行いによって、心を動かされるのです。
神よ、どうか私たちを、
昔ながらの、聖霊の福音へと立ち返らせてください。
私は、それを信じています。
あなたも、そう信じますか?
古い時代の、素朴で、
天の青さのように澄んだ、
罪を殺す宗教。
――そのとおりです。
それは、あなたを助けます。
あなたを救うのです。

38. ――子どもたちにも分かるように、
ほんの少し、場面を描いてみたいと思います。
たぶん彼女は、
水を汲みに行くところだったのでしょう。
東方の習慣では、
大きな水がめを頭の上に載せて運びました。
両脇に取っ手の付いた、
あの大きな壺です。
私は、
十七歳くらいの若いマリヤの姿が見えるような気がします。
彼女は、
四十五歳くらいの男性と婚約していました。
子どもも何人かいたでしょう。
――ヨセフです。
彼女は、
その道を歩いて来ていました。
しかし彼女の心は、正しかった。
なぜなら、
ヨセフもまた、神の御前に正しい人だったからです。
正直に言えば、
もし今日の若い女性たちが、
こんな相手を選んだら、
もっと良いと思いませんか。
ポケットにタバコを詰め込んだ
どこかの若造よりも、です。」

39. あそこの幕屋(私の教会)に、
一人の若い女の子がいました。
とても純粋な、クリスチャンの女の子です。
ところが彼女が、
ポケットにフラスコを入れて、
タバコを吸うような男の子と付き合っていたんです。
正直に言って、
私はその男の子に、何一つ良いところを見いだせませんでした。
二、三年の間、
何とか彼をクリスチャンにしようとしましたが、
彼はまったく応じませんでした。
そこで私は、その女の子に聞いたんです。
『姉妹、
あの男の子のどこがいいんだい?』と。
すると、今どきの若者みたいな答えが返ってきました。
彼女はこう言ったんです。
『ブラナム兄弟、
あの人、足がとってもかわいいし、
それに、すごくいい匂いがするの。』
私は思いました。
『なんという理由で、夫を選ぶんだろうか』と。
私は言いました。
『もし私なら、
足が貨車みたいで、
スカンクみたいな匂いがしても、
その人がクリスチャンなら、
そっちを選ぶ。』
そのとおりです。
もし、その人がクリスチャンなら。
私たちは、
キリストの血によって救われているのです。
ハレルヤ!
もし彼が救われているなら、
神は彼に働きを与え、
紳士にしてくださいます。
神は、
外見で人を裁かれません。
心をご覧になるのです。
それは、真実です。」

40. 私はその時代を直接知っているわけではありませんが、
人々が集まって、
神を賛美し、
声を上げて喜び、
主をほめたたえていた――
そう聞いています。
それが、今はどうでしょう。
ああ……
その多くが消えてしまいました。
今こそ、立ち返る時です。(そのとおり。)
神が再び私たちを祝福してくださる時代へ。
さて、ドラマに戻りましょう。
マリヤは道を歩いていました。
おそらく、
賛美歌を口ずさみ、
詩篇の言葉を静かに唱えながら。
すると突然、
大きな光が、彼女の前に現れたのです。
その光の中に、
偉大な御使いが立っていました。
ああ、それは彼女を驚かせました。
――あなたでも、きっと驚いたでしょう。
私自身、御使いが現れたとき、
どんな思いをしたか、よく分かります。
御使いは言いました。
『マリヤ、恐れるな。』
――つまり、
『立ち止まりなさい。
あなたは女の中で祝福された者です。
あなたは、神の恵みを受けたのです。』
そして御使いは、
彼女のいとこであるエリサベツのことを語り始めました。
ヨハネとイエスは、
いとこ同士でした。
マリヤとエリサベツは、
従姉妹同士だったのです。
御使いは言いました。
『あなたは神の御前に恵みを受けた。
そして、男を知らずして、
身ごもり、子を産む。』

41. 御使いが祭司ザカリヤのところに来て、
『あなたの妻エリサベツが子どもを産む』
と告げたときのことです。
彼には、信じるための前例が山ほどありました。
ハンナは、子を産めない年齢を過ぎてから子どもを産みました。
サラは、百歳近くになってから、
いや、それ以上とも言える年齢で、子どもを産みました。
――信じる材料は、十分すぎるほどあったのです。
それなのに、
あの堅くなった祭司は、神を信じませんでした。
ところが、マリヤは違いました。
彼女は、一つも疑問を投げかけなかった。
彼女は言いました。
『ご覧ください。私は主のはしためです。
あなたのお言葉どおり、この身になりますように。』
よく見てください。
彼女は、
『確かに起こる』と分かるまで待ちませんでした。
何かを感じるまで待ちませんでした。
胎動を感じるまで待ったのでもありません。
約束を受け取ったその瞬間から、
神を賛美し始めたのです。
なぜなら、彼女は
神の約束を持っていたからです。
兄弟姉妹よ、
ここミネアポリスに、
もっと多くのマリヤを起こしてください。
何かを感じるまで待つのではなく、
何かが起こるまで待つのでもなく、
神の御言葉をそのまま受け取り、
それを信じて、喜び始める人たちを。
神は
『わたしは癒し主である』と言われました。
私は、それを信じます。
神は
『わたしがあなたを造った』と言われました。
私は、それを信じます。
神の御言葉を取り、
それについて喜び始めなさい。
ハレルヤ!
――それこそ、今、私たちに必要な人々です。

42. 自分が子どもを産むことになると、
みんなに言い始めました。
――まだ、何のしるしもなかったのにです。
でも、彼女には
しるしは必要ありませんでした。
彼女に必要だったのは、
ただ一つ、神の御言葉だけだったのです。
それで十分でした。
それが、私たちに必要なすべてです。
神がそう言われた。
それで、私には十分です。
あなたはどうですか?
信じなさい。
神を、その御言葉どおりに受け取りなさい。
そして、
『そうだ』と言って、
そのまま進みなさい。
必要なのは、
神の御言葉だけです。
御言葉は、
必ず実を結びます。
兄弟よ、信じますか?
その信仰に立ち続けなさい。
ハレルヤ!
そのとおりです。
立ち続けなさい。
それは、いつも結果をもたらします。
私は、
それが失敗するのを見たことがありません。
真実な心で神の御前に出て、
本気で向き合い、
神を御言葉どおりに信じ、
それを告白し、
見えないものを見つめ続けるなら――
神の約束は、
必ず求めたものを生み出します。
そのとおりです。」

43. 自分が男を知らずして子どもを産むことになる、と話していました。
そして、ほどなくして――
御使いが語ってくれた、
いとこのエリサベツのことを思い出し、
ユダヤの山地へ向かって出かけて行ったのです。
ああ、なんと素晴らしいことでしょう。
福音には、不思議な力がありますね。
良い知らせを聞くと、
誰かに伝えたくなる。
そうでしょう?
救われた人は、
誰かにそのことを伝えたくなります。
癒された人は、
誰かにそのことを語りたくなります。
マリヤも同じでした。
彼女は、
いとこに良い知らせを伝えるために出かけて行ったのです。
――自分が子を産むこと、
そして、
いとこもまた子を産むことになるという知らせを。
さあ、
彼女がその家に近づいて行く姿が、
私には見えるような気がします。

44. ちょっとしたドラマを描いてみましょう。
私は、
エリサベツが家の縁側に座っている姿が見えるような気がします。
何か仕事をしていたのかもしれません。
編み物をしていたのか、
あるいは、何をしていたのか分かりませんが。
そこへ、マリヤがやって来る。
マリヤが近づいて来た瞬間、
エリサベツは彼女に気づきました。
ああ……
二人とも、今日で言えば、
クリスチャンの女性です。
二人は駆け寄り、
互いに腕を回し、
抱き合い、
口づけして、
喜びのあいさつを交わしました。
私は、こういうのが好きです。
あたたかい交わりが好きです。
あなたも、そうではありませんか?
私は、
今のこの冷たくて、形式ばったやり方が好きではありません。
人々は、互いに距離を取りすぎています。
お互いを気にかけなくなっている。
それが問題なのです。
教会の中でも、同じことが起こります。
互いに気にかけなくなる。
誰かが間違いを犯すと、
引きずり下ろそうとする。
でも、そうではありません。
引きずり下ろすのではなく、
起こしてあげなさい。
助けてあげなさい。
そのとおりです。
批判して、
誰かに言いふらすのではなく、
その人のところへ行き、
腕を回してあげなさい。
今では、
人々は怖がって、
握手さえしなくなりました。
でも私は、
昔ながらの、メソジスト式の、
ポンプの取っ手みたいな握手が好きです。
――こう、ぐっと腰を入れて、
しっかりと握るやつです。」

45. ある集会にいたときのことです。
どこかの国の王女だか何だか、
よく分かりませんが、
そんな人が集会に来ていました。
彼女は、
ショットガンに詰める綿ほどの布しか
身につけていないような格好でした。
もし集会が始まる前に見ていたなら、
説教の途中でも、自分の上着を脱いで
彼女にかけてあげたでしょう。
そして集会が終わったあと、
彼女は、
柄のついたメガネをこう前に出して、
――なんとも奇妙な形のものでしたが――
ほとんど服も着ていないような姿で、
こちらに歩いて来ました。
そして言ったのです。
『ドクター・ブラナムにお会いしたいのですが。』
ドクター・ブラナム?
とんでもない。
私は医者でも何でもない。
私は、あなたの兄弟です。

46. すると、マネージャーの一人が彼女を私のところへ連れて来て、まあ、紹介するためにですね、
「こちらが〇〇さんです」と言ったんですが、やたらと長ったらしい名前でね。
すると彼女が、
「まあ、ブラナム博士、お会いできて光栄ですわ」
と言って、こんなふうに手を上げて、例の感じでやっているんです。
私は、その下がってくる手をつかんで言いました。
「その手を、こっちへ下ろしてください。
そうでないと、またお会いした時に、あなたが誰だか分かりませんからね……」
ああ、私はああいう気取った、よそよそしい作り物の態度が大嫌いなんです。
一体あなたは何なんですか?
あなたはいつか、神の御前に立って、
その罪ある魂について申し開きをしなければならない日が来るんですよ。
神の前で答えなければならないんです。
彼女は、そんなふうに、つんとした態度のまま、そこに立っていました。

47. 隣人が病気になったりすると、みんなで出かけて行って、その人のトウモロコシを刈ってあげたり、
冬なら薪を割って用意してあげたりしたものです。
ところが今では、隣の人が亡くなっても、
新聞を読むまで知らない、なんてことがある。
本当にそうです。
もう互いの間に友情がなくなってしまった。
これは悲しいことですよ。
愛……
「不法がはびこるので、多くの人の愛は冷えるであろう」
と、イエスはマタイによる福音書24章で言われました。
まさに、そのとおりです。

48. 私は、その二人のやり取りが聞こえてくるような気がするんです。
マリヤがエリサベツにこう言うのが聞こえるんです。
「まあ、あなたがご高齢で母になると聞いて、本当にうれしいわ。」
もちろんマリヤには、それが見て分かりましたし、分かっていたんですね。
すると、エリサベツがこう言うのが聞こえてきます。
「ええ、そうなの。ほんとうに、うれしいわ。
でもね、マリヤ、少し…少し不安なの。」
「もう六か月になるのだけれど、
私たちが知る限り、まだその子に命のしるしがないのよ。」
彼女は、まだ少し心配していたんですね。
小さなヨハネは、そこにいたわけです。
それは、まったく自然の摂理を超えたことでした。
分かりますか、それは普通じゃないんです。
普通なら、二、三か月もすれば、命の動きがあるはずです。
ところが彼女は、ずっとその時まで来ているのに、
まだ何の命のしるしもなかったのです。

49. 「御使いガブリエルが、私のところに来て、
私もまた男の子を産む、と告げてくれたのです。
そして、その名をイエスと呼ぶように、と。」
その瞬間です。
彼女が「イエス」という御名を口にした、その時、
母の胎の中にいた小さなヨハネが、跳ね上がり、躍り始めたのです。
兄弟よ、考えてみてください。
イエス・キリストという御名が、人の唇によって初めて語られたその時、
それは、死んでいた赤ん坊に命をもたらしたのです。
それなら、その御名が、
聖霊に満たされた教会において語られる時、
病と罪の力に対して、どれほどのことを成し遂げるべきでしょうか。
ハレルヤ!
そうです、その御名、イエス・キリスト。
それが初めて人間の唇から語られた時、
母の胎の中で死んでいた赤ん坊に、命が戻ったのです。
聖書はこう言っています。
彼は聖霊を受け、
母の胎からすでに、聖霊に満たされて生まれて来た。
ハレルヤ! ああ、なんということだ。
それなのに、今のクリスチャンはどうでしょうか。
ぐらぐらして、腰が定まらず、
まるでクラゲのようじゃありませんか。
背骨を入れなさい。
神と、正しいことのために立ち上がりなさい。
そして今日、
聖書が語っていることのために立ち、
心の底から、それを信じなさい。

50. すると聖霊がエリサベツの上に臨みました。
彼女は言いました。
「どうして、私の主の母が、私のところに来てくださったのでしょう。
あなたの挨拶の声が、私の耳に入ったその瞬間、
私の胎の子が、喜びに満ちて躍ったのです。」
ああ、なんということでしょう。
考えてみなさい。
イエスの御名が語られた時、
それは、死んでいた赤ん坊に命をもたらしたのです。
それなら、その御名は、
あなたの手足に、何をもたらすべきでしょうか、兄弟。
あなたの病に、何をもたらすべきでしょうか。
ここに座っているあなた方にも、
あそこにいるあなた方にも。
イエスの御名を、どこへ行くにも携えて行きなさい。
祈りの中で、どこでもその御名を息づかせなさい。
忠実でありなさい。
聖くありなさい。
神のために生きなさい。
そうすれば、神は御言葉を確かにされます。
ええ、主はそれをなさると誓われたのです。
ほら、そこです。
御言葉が耳に入った時、
その子は喜びのあまり躍り始めた。
彼女たちは、互いに抱き合っていたのです。

51. 何日か経ったあと、人々は考え始めました。
この小さなヨハネは、いったいどんな子になるのだろうか、と。
ヨハネが生まれてからのことですが……
私たちは、彼が八歳か九歳くらいの時だったと考えています。
彼は荒野へ連れて行かれたんです。
神学校へじゃありませんよ。
いわゆる神学の「墓場」へでもない。
神学校も、まあ、だいたい同じようなものですからね。
ええ、私も一つ見たことがありますよ。
それは事実です。
ところで、神学校出の説教者を見ると、
私はいつも何を思い出すか知っていますか?
兄弟、気を悪くしないでほしいんですが……
まあ、時々、そういう人もいる、という話です。
でもね、神学校出の説教者というのは、
私には孵卵器で孵ったヒヨコみたいに思えるんです。
ピヨピヨ、ピヨピヨ鳴くだけで、
母親がいない。
そのとおりです。
大きな……(まあ、とにかく、立派な設備やら何やらはあるんでしょうがね……)

52. 豆とコーヒーの区別もつかなくても、
心の中で神を知っている人に、
私の民を任せたい。
ラバが喉を詰まらせるほどの学問を持っていても、
神のことを何も知らない人より、
そのほうがずっといい。
そのとおりです。
神があなたを祝福してくださいますように、兄弟。
今、私たちに必要なのは、
昔ながらの、サッサフラスみたいな体験なんです。
私たちは「系図学(genealogy)」を知りたいんじゃない。
必要なのは、「膝学(knee-ology)」です。
これが、今の人間に必要なものです。
神のもとへ帰りなさい。
祈りの生活へ戻りなさい。
声に出して祈り、
成就するまで、神にしがみつきなさい。
神は、必ずそれをしてくださいます。
ハレルヤ!
さて、この「ハレルヤ」で驚かないでください。
「ハレルヤ」とは、
「私たちの神をほめたたえよ」という意味です。
神は、そのすべてに値するお方です。
アーメン。
私は、そう信じます。
「アーメン」とは、「そのとおりになりますように」という意味です。
それを言われたって、私はびくともしませんよ。

53. 今我々はここを話しています。
小さなヨハネは、生まれてから荒野へ連れて行かれ、神と共に過ごしました。
それから……
イエスが生まれましたね。
その誕生については、私たちはよく知っています。
六か月後のことです。
さて、ヨハネが荒野から出て来た時を見てください。
まあ、なんという姿だったでしょう。
私は、ヨハネが一体何を説教していたのか、よく考えるんです。
実に、たいした男でした。
人々は、彼の服装を見に出て行ったわけじゃない。
彼は、毛むくじゃらの古いズボンをはき、
ラクダの皮を細く裂いた帯で、
身にまとっていた古びた皮衣を結んでいただけでした。
古い獣の皮ですよ。
彼はヨルダン川の岸に立ちました。
そこには、座る椅子なんてありません。
地面は硬かったでしょうが、
そもそも、何もなかったんです。
それでも、彼はヨルダン周辺一帯を揺り動かしました。
考えてみてください。
神学校の経験もない。
「アーーーメン」と、
今にも死にそうな子牛みたいな声を出す方法も知らない。
しかし彼は――
神からのメッセージを持っていた。
そのとおりです。
彼は、空虚な人間の哲学を説いたのではありません。
キリストを説いたのです。
そして、それが国全体を揺り動かしたのです。

54. ああいうバプテストが、もっといてくれたら、
私は喜んで信じますよ。
アーメン。そのとおりです。
私は少し前に、ある司教にこう言いました。
「ヨハネのような人を、もう何人か連れて来てください。
彼は聖霊を説き、そして自分自身が聖霊を持っていた。」
そのとおりです。
彼は、少しも手加減しませんでした。
言うべきことを、そのまま、真正面から言ったんです。
そして彼は説教し、
ヨルダン周辺の全地域を揺り動かしました。
なぜか?
彼がキリストを説いたからです。
そのとおり。
キリストは、単純さの道を説かれました。
それが人々を揺り動かすのです。
それは神の力です。
「もしわたしが上げられるなら、
すべての人をわたしのもとに引き寄せよう。」
これは真理です。
よく注意してください。
イエスの後に……
――さて、急がなければなりません。
時間がなくなってきました。
あと十分ほどしかありません。
ああ、まったく。
このお方のことを語り始めると、
いつまでも語り尽くせないんです。

55. 私は、こんな情景が目に浮かぶんです。
――さあ、また少しドラマ仕立てで考えてみましょう。
イエスとラザロは、友だちで、一緒に遊んでいた。
互いに、自分たちが誰であるのかは、まだ分かっていなかったんです。
ラザロは――私たちが教えられているところによれば――
神殿で書記のようなことをしていた人で、
彼の姉妹たちは、タペストリーを織ったり、
裁縫仕事をしたりしていたのかもしれません。
そんな情景を思い浮かべてください。
イエスとラザロが、一緒に遊んでいる姿です。
すると、しばらくして、
ラザロが戻って来て、イエスにこう言うんです。
「ねえ、ヨルダン川のところに、すごい預言者が立っているよ。
自分よりも、もっと偉大なお方が来られるって語っているんだ。
その方は、聖霊と火でバプテスマを授けるって言ってる。
君も、行って見て来たらいいよ。」
しかし、その時ラザロは、
自分がまさに、そのお方ご本人に話しているとは、
夢にも思っていなかったのです。

56. 教会の中でも同じです。
あの人は失敗したかもしれない。
でも、その人は神の息子かもしれないし、神の娘かもしれない。
だから、突き放してはいけません。
助けてあげなさい。
そのとおりです。
腕を回してあげなさい。
少し支えてあげなさい。
あなたがほんの少し手を差し伸べるだけで、
神がその人を通して、何をなさるか分からないのです。
そのとおりです。
それから、しばらくして、
イエスがヨハネのところへ――
いや、ラザロと一緒に――
ヨルダン川へ下って行き、
そこでバプテスマを受けられた情景が、私には見えるんです。
そしてイエスは、荒野へ行かれました。
父なる神が語られ、
御子について証しをされ、
この方こそ、御心にかなう愛する御子であると公に示された後、
イエスは荒野へ出て行かれました。
御霊によって、試みを受けるためです。

57. 聖霊を受けると、真っ先に悪魔が試みを持ってやって来る。
あなたが癒しを告白すると、
悪魔はすぐそばに来て、
「それは違う」「そんなはずはない」と言い始める。
その時こそ、立つ時です。
なぜなら、
あなたは見たものや感じたもので証しをするのではない。
信じていることを証しするのです。
そのとおり。
それに留まりなさい。
イエスは荒野へ出て行き、
悪魔の試みを受けられました。
そして戻って来られ、
――私たちの本文の時点では(できるだけ急ぎますが)――
その御奉仕は、すでに大きなところへと進んでいました。
群衆が、あらゆる所から集まって来て、
癒され、
御口から語られる尊い御言葉に耳を傾けていたのです。
その奉仕は、あまりにも大きくなって、
もう収まりきらないほどでした。
ああ、なんということでしょう。
人々は集まって来た。
まるで、御口から滴り落ちる蜜を、
味わっているかのように。

58. 人々が御言葉を聞こうとして、
神の御言葉を聞くために、イエスに押し迫って来た、
なんと栄光ある光景でしょう。
今日の教会も、
神の御言葉を聞こうとして、あらゆる所で押し迫るべきです。
そして、その御言葉にとどまり続けるべきなんです。
私たちは霊的な教会です。
ちょうど、イスラエルが肉的な教会であったのと同じように。
私たちは、人間的な束縛から連れ出されました。
イスラエルがエジプトの束縛から連れ出されたのと同じです。
あなたは、そう信じますか?
私たちにも、出て来るための犠牲がありました。
門口のかもいと柱に塗られた血――
それは、完全に十字架を形作っていました。
ひとたび血の下に入ったなら、
出て行けという呼び声が来るまで、
誰もその血の下を出ることはなかった。
彼らはヨルダン川を渡り――
いや、紅海を渡った。
それは血の型であり、
神の聖別の力が、罪の性質を滅ぼすことを示しています。
後ろにあった罪、
追い立てていた監督たち、
タバコ、酒、盛り場、映画館……
あなたを悩ませ、
クリスチャンとしての歩みを妨げていたものは、
すべて、キリストの血の中で死んだのです。
そのとおりです、兄弟。

59. それらのものは、もう死んでいるんです。
もし、そうでないなら……
この世を愛し、この世のものを愛しているなら、
父の愛はあなたのうちにありません。
ここでは、少し厳しく聞こえるかもしれませんが、
それが真理なんです。はっきり言わせてください。
私は教会に物差しを持ち込んだりしません。
いいえ、まったくしません。
本当に、しません。
ここら辺にある、あの古いオークの木を見てください。
冬の間じゅう、葉っぱをつけたままでしょう。
でも、春が来ると、
古い葉を一枚一枚むしり取る必要はありません。
新しい命が入って来ると、
古い葉は自然に落ちるんです。
それと同じです。
キリストを心の中に迎え入れなさい。
そうすれば、
あとは、すべてが自然に整っていきます。
そのとおりです。
ただ、キリストを心に迎え入れなさい。
あとのことは、すべて任せて大丈夫なんです。

60. なんと美しい光景でしょう。
それは、今日の私たちの教会の型でもあります。
彼らは紅海を渡ったのです。
すると、モーセは御霊にあって歌い始めました。
ミリアムはタンバリンを手に取り、
踊り始めました。
まるで、昔ながらの聖霊集会のように――
踊り、歌い、主を賛美したのです。
なぜですか?
彼らは勝利を得たからです。
勝利を取ったのです。
(※テープ欠落)
そして翌朝、外へ出てみると、
地面一面にマナが落ちていた。
(※テープ欠落)
それは、天から神によって与えられたものでした。
彼らがそれを味わうと、
蜜のような味がした。
ああ、なんということでしょう。
蜜には、何とも言えない甘さがありますね。

61. 昔の羊飼いたちは、腰に小さな袋(スクリップ袋)を下げていたものです。
その袋の中に、蜜を入れていました。
羊が病気になると、
その蜜を取り出して、岩の上に注ぎ、
病気の羊に、その岩をなめさせたんです。
羊が蜜をなめると、
岩から石灰分も一緒になめ取ることになり、
それが羊を癒したんです。
さあ、兄弟たち、よく聞いてください。
私は、この袋いっぱいの蜜を持っています。
そして今、それを
「イエス」という名の岩の上に注ぎます。
病んでいる羊たちよ、
さあ、急いでなめなさい。
そうすれば、癒されないはずがありません。
ええ、そのとおりです。
できる限り、しっかりとなめなさい。
ハレルヤ!
兄弟よ、
私はそれを
バプテスト教会でも、メソジスト教会でも、
長老派教会でもなく、
キリスト・イエスの上に置きます。
それは、キリストに属するものだからです。
あなたの教会をなめるんじゃない。
神をなめなさい。
ハレルヤ!
約束は、そこにあるんです。
ドクター何某が何と言ったか、ではありません。
神が何と言われたか、です。
それを信じるんです。
ええ、そのとおりです。

62. それにしがみつくことなんです。
昔はね、
狂犬に噛まれた人が出ると、
その人を「狂犬石(マッド・ストーン)」のところへ連れて行ったものです。
もし、その石にしっかりくっついていれば、その人は助かった。
でも、くっつかなければ、死んでしまった。
私が知っている中で、
一番ひどい悪魔、いちばん悪い狂犬は、悪魔そのものです。
あいつは、私たちみんなを、何らかの形で噛んでいる。
そのとおりです。
でも、聞きなさい。
岩がある。キリスト・イエスという岩です。
そこへ行きなさい。
それにしがみつきなさい。
離れず、握りしめなさい。
ハレルヤ!
それは、必ずあなたを通り抜けさせてくれます。
「万古の岩なるキリスト、
私のために裂かれた岩よ、
あなたのうちに身を隠させてください。」
もし病んでいるなら、
命がけで、その岩につかまりなさい。
そして見ていなさい。
癒されないはずがありません。
ただ、その岩にしがみつきなさい。
それが、あなたを導き通してくれるのです。
そのとおり。
ええ、間違いありません。

63. 「その薄焼きパンは、岩の中の蜜のような味がした」と主は言われました。
それは、聖霊の型だったのです。
神はモーセに命じ、
アロンに一オメルのマナを取らせ、
それを至聖所に保存するようにされました。
それは、代々にわたって、
子々孫々がこう尋ねた時のためです。
「これは、何のためだったの?」
そして、祭司職の系譜に連なる者は、
祭司として召され、奥へ足を踏み入れたその瞬間、
最初に天から降った“あのマナ”を、ひと口味わう権利があったのです。
そうです、兄弟。
彼は、ひと口、味わうことができた。
祭司として按手を受け、任命されたその時、
初めに降った、あのオリジナルのマナを味わうことができたのです。

64. 聖霊は、教会を支え、運び続ける力なのです。
彼らは、マナを食べなければ死にました。
同じように、
私たちも、聖霊をいただかなければ、霊的に死んでしまう。
毎日、祈り通さなければ、
常に血の下にとどまっていなければ、
あなたのクリスチャンとしての歩みは、
やがて枯れて、死んでしまいます。
さて、友よ。
私たちのマナが注ぎ出された、五旬節の日のことを思い出してください。
彼らは皆、
一つの場所に集まり、心を一つにしていました。
メソジストだ、バプテストだ、ルーテルだ、
そんなことで議論してはいなかった。
彼らは、
神が御言葉を守られることを期待して、
心を一つにして集まっていたのです。
主はルカによる福音書24章49節で、こう言われました。
「見よ、わたしは、父の約束されたものをあなたがたに送る。
だから、上からの力を着せられるまで、
エルサレムの町にとどまっていなさい。」
そして使徒行伝1章では、こうあります。
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、
あなたがたは、わたしの証人となる。
エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、
そして、地の果てにまで。」

65. 上の部屋に集まって、
人々の中へ出て行くための力――
自分たちを支える力を待っていました。
すると突然です。
天から、激しい突風のような響きが起こり、
彼らの座っていた家全体に満ちた。
裂けた舌のようなものが現れて……
(テープ欠落)
――そして、彼らは通りへ出て行った。
そして、今ここではっきり言っておきます。
処女マリヤも、彼らの中にいたんです。
そのとおりです。
もし神が、
あの聖なる処女マリヤでさえ、
聖霊を受ける以外の方法で天に入ることを許されなかったとするなら、
女性よ、あなたはどうなんですか?
そのとおりです。
あなたも、同じ代価を払い、
同じ体験を受け、
あの初めに彼らが持っていたのと同じものを、
受けなければならない。

66. 神の力が降り始めた時、
彼らは体裁も、威厳も、すべて失いました。
彼らは通りへ出て行き、
まるで酔った人のようによろめきながら、
聖霊に満たされていたのです。
(テープ欠落)
そこでペテロは言いました。
「この約束は、あなたがたのためであり、
あなたがたの子どもたちのためであり、
遠く離れているすべての人々のためである。」
――ミネソタ州ミネアポリスの人たちも含めて、です。
「すなわち、主なる私たちの神が召される者すべてに。」
兄弟よ、私は断言します。
代価を払い、
キリストのために一歩踏み出すすべての人には、
そのバプテスマを受ける権利がある。
それは、作り物ではありません。
初めに降ったのと同じ、
五旬節の日に彼らが受けた、
あの“オリジナル”です。
ハレルヤ!
どうせ私は
「ホーリーローラー」と呼ばれるんでしょう。
だったら、もう慣れておいてください。
そのとおりです。
アーメン。

67. 聖霊は、本物です。
代用品なんて、受け取る必要はありません。
どうか、
五旬節の日に降った、
あの“オリジナルのマナ”を味わうまで、待ちなさい。
ハレルヤ!
ええ、そのとおりです。
彼らは、そこで聖霊を受けたのです。
それが……それだったんです。
では、今日の教会の何が問題なんでしょうか?
必要なのは、
昔ながらの、聖パウロのようなリバイバルです。
そして、聖書に基づいた聖霊の教えが、
もう一度、教会の中で語られなければならない。
そのとおりです。
天から火が降って来ることが必要なんです……

68. ある時、小川のそばを歩いていると、
年老いたカメを見かけたんです。
まあ、今まで見た中で、いちばんおかしな姿でした。
昔のテラピン(カメ)ですよ。
足をこんなふうに投げ出して歩いている。
弟と二人で、
「何だ、この歩き方は?」って見ていたんです。
近づいて行くと、
彼はすっと甲羅の中に引っ込んでしまった。
まるで、
冷たくて形式ばったクリスチャンみたいじゃありませんか。
神の癒しの話をすると、
「いやあ、ドクター何某が、それは間違いだと言ってましたよ」
なんて言う。
ああ、もう。
甲羅の中に引っ込んでしまう。
まあ、それでいいでしょう。
私は言いました。
「よし、もう一度歩かせてやろう。」
枝を一本取って、
叩いてやろうとした。
もう少しで叩き殺してしまうところでした。
でも、彼は歩きません。
叩いても、出て来ないんです。
ただ、甲羅の中で、
ふーふー息をするだけ。
そこで私は言いました。
「よし、分かった。
こうしよう。
水のところへ連れて行って、
ちゃんと“用意”してやろう。」
私はそのカメを小川へ連れて行き、
水の中へ入れました。
すると、
泡が二つ三つ、ぷくっと上がっただけ。
それで終わりです。
兄弟よ、よく聞いてください。
人は、
こうやってバプテスマを授けようが、
ああやって授けようが、
振りかけようが、
注ごうが、
前向きに沈めようが、
後ろ向きに沈めようが――
乾いた罪人として水に入り、
濡れた罪人として出て来るだけです。
彼は、まだ罪人のまま。
水のバプテスマが、あなたを救うんじゃない。
それだけは、はっきりしている。

69. 紙切れを一枚取って、
小さな火を起こし、
そのカメを、その上に置いたんです。
すると、どうなったと思いますか。
あのカメは歩きましたよ。
いやあ、歩いたなんてものじゃない。
そのとおりです。
今日、教会に必要なのは、
昔ながらの“火の福音”です。
聖霊の火が、祭壇に、
そして一人一人の心に降ること。
それがあれば、
必ず教会は変わります。
間違いありません。
ええ、そのとおりです。
神の力を、もう一度取り戻しなさい。
聖霊を、人々の心に取り戻しなさい。
そうすれば、
生きた信仰をもって、神を信じることができる。
神の癒しと言われたら、
「はい、私はそれを受け取ります。」
と答えられるようになる。
ハレルヤ!
そのとおりです。
聖書へ戻りなさい。
そして、聖霊へ戻りなさい。
ああ、なんと素晴らしいことでしょう……。

70. 人々は、その尊い御言葉を聞いていました。
しかし、ある時点で、
イエスはその家を離れなければならなくなった。
そして、イエスが出て行かれると、
悲しみと困難が入り込んできた。
それは今も同じです。
イエスがあなたの家から出て行かれると、
悲しみと問題が入って来る。
イエスがあなたの教会から出て行かれると、
混乱と背教が入り込んで来る。
だから、聞いてください。
問題が近づいて来ていると感じたら、
いつもイエスを、あなたのそばにとどめておきなさい。
さて、この場合ですが、
もちろん、イエスが追い出されたわけではありません。
御業そのものが、イエスをそこから引き離したのです。
そして、イエスが離れられたその直後、
胸の友であったラザロが、病に倒れ、死にかけました。
人々は、イエスに使いを送り、
来て祈ってくださるよう頼みました。
しかし、イエスは来られなかった。
そのまま進んで行かれたのです。
彼らは、もう一度、人を遣わしました。
それでも、イエスは進み続けられた。
まるで、それを無視しているかのように。
しかし、イエスは、
父が示されたすべてのことを、知っておられたのです。

71. (皆さん、もう時間がありません。)
もしあなたが病気になって、
牧師に来て祈ってほしいと頼んだのに来なかったら、
あなたはこう言うでしょう。
「なんだ、あの偽善者。
もうジョーンズの教会か、どこか別の所へ行こう。」
それが、あなたの牧師があなたのために何もできない理由です。
あなたは、
その人を神の人として信頼し、
信仰と確信を持たなければならない。
そして、
神を愛する者には、
すべてのことが共に働いて益となる
ということを、知っていなければならない。
そのとおりです。
ちなみに、
あなたの牧師が私に、これを言えと頼んだわけではありません。
でも、私はこれを知っています。
相手に信頼がなければ、
どんな関わりも、何の役にも立たない。
それは真理です。
あなたは、自分の牧師を信じなければならない。
彼は、神に救われた良い人で、
福音を説いている。
全力で彼の背後に立ちなさい。
もし、そうでないなら、
そうしている所へ行きなさい。
そのとおりです。
これで、両方の立場がはっきりしましたね。
では、これを覚えておいてください。
もし彼が福音を説いているなら、
その人と共にいなさい。
助けなさい。
なぜなら、
彼は神から遣わされ、
神によって任命され、
あなたの魂を養うために立てられた人だからです。

72. イエスはそのまま進んで行かれました。
私は、その時すでに、イエスは何が起こるかをご存じだったと信じています。
考えてみてください。
イエスがベテスダの池のそばを通られた時のことです。
そこには、大勢の人々が横たわっていました。
聖書が「大勢」と言う時、
少なくとも一万人はいたでしょう。
足の不自由な人、
体のきかない人、
目の見えない人、
やせ衰えた人、
口のきけない人――
彼らは皆、水の動くのを待っていたのです。
なぜなら、
ある時期ごとに、神が御使いを遣わされたからです。
そのとおりですね?
そして、
癒しは、御使いと共に来た。
そうでしょう?
癒したのは水ではありません。
御使いだったのです。
もし水が、
「見よ、私はなんと立派な水だ」
と言ったとしても、意味はありません。
水ではなかった。
御使いだった。
なぜなら、
御使いが去った後は、
それはただの水だったからです。
そのとおりでしょう?

73. あの大勢の群衆をご覧になりました。
そして、一人の人だけを癒された。
その人は、足の不自由な人ではありませんでした。
三十八年間、病を患っていた人でした。
イエスは彼を癒し、
そして、その場を去られた。
残されたのは――
そこに横たわっていた、あのすべての病人たち。
そのとおりでしょうか?
ヨハネによる福音書5章です。
彼らを、皆そこに残して行かれた。
一見すると、
イエスの憐れみに満ちた御心なら、
全員を癒されたのではないかと思えるでしょう。
おそらく、そうなさったでしょう。
しかし、同じ章の19節を見てください。
ユダヤ人たちが問い詰めた時、
イエスはこう言われました。
「まことに、まことに、あなたがたに言う。
子は、自分からは何もすることができない。
ただ、父がしておられるのを見て、それをするのである。」
そのとおりでしょう?
神がまず示さなければならなかった。
だから、イエスは
「わたしは神的な癒し主だ」と言って、
勝手に癒したのではありません。
父なる神が、
これから起こることを幻によって示された時、
そのとおりに行動された。
それから、
それを行われたのです。

74. 神が語られたことは、必ずそのとおりになります。
でも、神が先に語られない限り、
人は何も言うことはできない。
だから、もし誰かが――
この前、私はこんなことを言う人を聞きました。
「いやあ、そんなのは手品みたいなものだ(ホーカス・ポーカスだ)」って。
もしそれがホーカス・ポーカスだと言うなら、
イエス・キリストについては、どう考えるんですか?
そのとおりでしょう。
イエスご自身が、こう言われました。
「子は、自分からは何もすることができない。
ただ、父がしておられるのを見て、
それを子も同じようにするのである。」
イエスは、
まず神が示されるのを待たなければならなかった。
そして、示された後で、
それを行われたのです。
つまり、
神が先に示されない限り、
イエスは何もなさらなかった。

75. そのとおりです。
それでイエスは……
しばらくして、こう言われました。
「わたしたちの友ラザロは眠っている。」
弟子たちは言いました。
「眠っているなら、よくなるでしょう。」
するとイエスは、
彼らが分かるように、はっきりと言われました。
「彼は死んだのだ。」
でも、聞いてください。
ここが、私は大好きなんです。
イエスはこう言われました。
「そして、わたしは、そこにいなかったことを喜んでいる。
しかし、わたしは、彼を起こしに行く。」
イエスは、
父が何をなさろうとしておられるかを知っておられた。
だからこそ、
「わたしは彼を起こしに行く」と言われたのです。
そして、イエスは戻るために出発されました。
さて、その一方で――
ラザロの病状は、
どんどん悪くなっていきました。
そして、ついに人を遣わして、
イエスに来て祈ってくださるよう頼んだ。
ああ、なんと落胆したことでしょう。
彼らは、
自分たちの教会を離れ、
すべてを捨てて、
この方――神の癒し主に従って来たのです。
それなのに、
イエスが来られる気配は、まったくなかった。
彼は、その知らせを無視しているかのように、
ただ進み続けられた。
なんという暗い時だったことでしょう。
そして、やがて――
死が襲いかかり、
ラザロは命を落としました。
彼らは、
彼を運び出し、
墓に葬ったのです。

76. ああ、なんという暗さでしょう。
二日目が過ぎた。
暗い。
三日目、四日目……
すべての望みは消え去りました。
彼はすでに墓の中で腐り始め、
体には虫がわいていた。
希望は、どこにも残っていなかった。
失望――
牧師は彼らを失望させた。
愛する方が。
奇跡を行うお方が、彼らを見捨てたように見えた。
助けに来なかったのです。
そこには、
マリヤとマルタが残されていました。
父も母もいない。
今や、この世に残されたのは、
二人の娘だけ。
誰かが来て、
彼女たちを慰めようとしました。
彼女たちは、
荒布をまとい、黒いベールをかぶり、
兄弟のために泣き、嘆いていました。
そして――
まさに、最も暗いその時に、
イエスが来られたのです。
それが、主のなさり方です。
アーメン。
兄弟よ、
今が、あなたの人生で一番暗い時かもしれません。
でも、
イエスは、いつも最も暗い時に来られる。
考えてみてください。
血の病を患った女にとって、
あれは人生で一番暗い時でした。
財産をすべて使い果たしてしまった。
その時、イエスが来られた。
ヤイロにとっても、
あれは人生で一番暗い時でした。
小さな娘は、すでに死んでいた。
その時、イエスが来られた。
ペテロと使徒たちにとっても、
湖の上で、溺れそうになったあの時、
それは人生で一番暗い時でした。
その時、イエスが来られた。

77. 私がこれまでに見た中で、いちばん暗い時――
それは、二年前、メイヨー・クリニックにいた時でした。
一流の医者たちが入って来て、
こう言ったんです。
「ブラナム牧師、もう望みはありません。
あなたは、二度と回復しません。
人生は、もう終わりです。」
それが、私の人生で、
いちばん暗い瞬間でした。
その時――
イエスが来られたのです。
ああ、なんということでしょう。
ああ、私は主を愛しています。
ええ、そのとおりです。
主が、私にしてくださったことを思うと、
私は、これを思い出すんです。
驚くばかりの恵み
なんと甘い響き
罪人のこの私を
救ってくれた
かつては失われていたが
今は見いだされ
盲目だったが
今は見える
私は、本当に盲目でした。
人に腕を取ってもらわなければ、
どこへ行くのかも分からなかった。
それなのに、今は――
視力は20/20です。
あの時、私は
惨めで、哀れで、
死にかけて横たわっていました。
その時、イエスが来られた。
ああ、なんと素晴らしいことでしょう。
主は、いつも、
最も暗い時に来られるのです。

78. 「おい、あのラザロが生きている時に来なかった神の癒し主が、
今ごろ町にこそこそ戻って来てるぞ。
外にいるらしい。」
さて、よく聞いてください。
マリヤ――いや、マルタでしたね。
彼女は、シュネムの女が子どもを産んだ話を読んでいました。
あの女は、
神によって与えられた子を持ちましたが、
その子が死んでしまった時、
なぜ死んだのか分からなかった。
でも、彼女は一つだけ知っていました。
もし預言者エリシャのところへ行けさえすれば、
神がその預言者のうちにおられるということを。
そして、
神がこれをどういう意味でなさったのかを、
預言者に会えば知ることができると、
彼女は分かっていたんです。
そこで彼女は、
馬に鞍を置くよう命じ、
「止まらずに進みなさい」と言いました。
彼女は、そう命令したのです。
そして、預言者のもとへ行きました。
すると預言者は言いました。
「ここに、私の杖を与えよう。
これを行って、
その子の上に置きなさい。」
言い換えれば、
注がれた布を送ろう、というようなものです。
しかし、彼女は言いました。
「主が生きておられること、
あなたの魂が生きていることにかけて、
私は、あなたを離れません。」
彼女は知っていたのです。
神が、その預言者のうちにおられることを。
だから彼女は、
答えが分かるまで、
預言者から離れませんでした。

79. そして、その部屋を行ったり来たりし始めた。
祈ってはいません。
ただ、部屋を行き来していたのです。
それから、
自分の体を、その子どもの上に伸ばして覆いました。
その時――
主なる神が、エリヤのうちで働かれた。
ハレルヤ!
ああ、クリスチャンの皆さん。
あなたがたは、私が言っていることを、
まだ十分に分かっていないかもしれません。
いいですか、よく見てください。
神は、エリヤのうちにおられた。
そして……
エリヤ自身も、それを知っていた。
その女も、それを知っていた。
だから彼は、あの杖を送ったのです。
自分が触れるものは、すべて祝福されると、
彼は分かっていた。
なぜなら、神が彼のうちにおられたからです。
ああ、なんということでしょう。
分かりますか?
神が、彼のうちにおられた。
だから、彼が何かに触れれば、
それは祝福されたのです。
彼は、赤ん坊のために祈ったのではありません。
自分の体を、その子の上に伸ばした。
そして、
エリヤのうちにおられた神が働かれた。
すると、
その子に息が戻り、
七回くしゃみをして、
起き上がり、完全に癒されたのです。

80. 彼女は、こう確信していました。
もし神がエリヤのうちにおられたのなら、
なおさら、その御子のうちにおられるはずだ。
ああ、なんということだ。
彼女は分かっていたんです。
もし、このお方のところへ行くことができさえすれば、
兄がなぜ死んだのか、その理由が分かる。
彼女は、町を飛び出しました。
すると、人々の中には、
「おい、どこへ行くんだ?」
と言う者もいたでしょう。
でも彼女は、
あの古い批判者たちを押しのけて、
そのまま進み続けました。
イエスは、まだ町に入っておられませんでした。
それでも彼女は、
イエスのおられる場所にたどり着いた。
さあ、ここを見てください。
彼女には、
イエスを責める理由があるように見えます。
叱りつけて、
「どうして来てくださらなかったんですか?
あなたなら、癒せたはずなのに」
と言っても、おかしくなかった。
もし、彼女がそうしていたら、
奇跡は決して起こらなかったでしょう。
神からの賜物に、どう近づくか――
それが、結果を生むのです。
大事なのは、近づき方です。
そのとおりでしょう?
どんなことでも、
向き合い方次第なんです。

81. 外へ出て来て、ひざまずき、こう言ったのです。
「主よ……」
イエスの称号を軽んじなかった。
「主よ、もしあなたがここにおられたなら、
私の兄弟は死ななかったでしょう。」
ああ、なんという言葉でしょう。
それは、主の心に触れました。
彼女は分かっていたのです。
このお方の心に触れることができれば、
自分の求めているものを受け取れる。
彼女は続けて言いました。
「主よ、もしあなたがここにおられたなら、
私の兄弟は死ななかったでしょう。
しかし、今でも、主よ、
あなたが神にお願いになることは、
何でも神がしてくださいます。」
私は、この言葉が好きです。
『しかし、今でも、主よ。』
彼は死んでいる。
四日前に葬られた。
葬儀人が来て、体を処置し、墓に納めた。
もう四日経って、地の中で朽ち始めている。
それでも――
「今でも、主よ。
あなたが神にお願いになることは、
何でも神がしてくださいます。」
ああ、兄弟姉妹。
あなたは、この世でできることは
すべて試したかもしれません。
癒されようとして、
できることは何でもやったでしょう。
「しかし、今でも、主よ。」
「いつですか?」
「今夜の集会まで待ちますか?」
いいえ。
『今でも、主よ。
あなたが神にお願いになることは、
何でも神がしてくださいます。』
いつ?
今です。
主は今、
父なる神の右に座し、
今この瞬間も、あなたのために執り成しておられる。
「でも、ブラナム兄弟、私はずっと病気なんです。」
「しかし、今でも、主よ。」
「片耳が聞こえないんです。」
「しかし、今でも、主よ。」
「前にも祈ってもらいました。」
「しかし、今でも、主よ。
あなたが神にお願いになることは……」
「ブラナム兄弟、
私は長い間、聖霊を求めてきました。」
「しかし、今でも、主よ。
あなたが神にお願いになることは、
神がしてくださいます。」
そこです。
それが必要なんです。
それが信仰です。

82. イエスはこう言われました。
「あなたの兄弟は、よみがえる。」
さあ、ここで少し整理しましょう。
「あなたの兄弟は、よみがえる。」
今、預言的な力が一点に集まって来ています。
正しい場所、正しい人物、正しい時。
彼女はこう言ったのです。
「私の兄弟は死んで、墓に入っています。
でも、もしあなたがここにおられたなら、
彼は死ななかったでしょう。
それでも今、あなたが神にお願いになることは、
何でも神がしてくださいます。」
それが――
主の心を打った。
主に触れた。
それは、これまでに見たことのない信仰でした。
前例のない信仰。
イエスは言われました。
「あなたの兄弟は、よみがえる。」
すると彼女は答えました。
「はい、主よ。
終わりの日に、彼はよみがえることを知っています。」
当時のユダヤ人は、
一般的な復活を信じていました。
「ええ、彼はよみがえります。
良い人でしたから。
終わりの日に、よみがえるでしょう。」
しかし、イエスを見てください。
ああ、なんということでしょう。
聖書が言うように、
『見るべき麗しさもなく、
慕うべき姿もなかった。』
おそらく、
少し弱々しく見えるお方だったでしょう。
悲しみの人、病を知っているお方。
しかし、そのイエスが――
小さな体をまっすぐにされ、
こう言われたのです。
「わたしが、復活であり、命である。」

83. イエスは言われました。
「わたしは、復活であり、命である。
わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない。
あなたは、これを信じるか。」
彼女は答えました。
「はい、主よ。私は信じます。」
よく聞いてください。
「あなたが神の御子であり、
この世に来られると約束されていたお方であることを信じます。
あなたが、ご自分を何者だと言われたか、
そのとおりだと信じます。
神があなたにしてこられたことは真理です。
私は、その御言葉一つ一つを信じます。」
するとイエスは言われました。
「彼をどこに葬りましたか。」
ああ、なんという場面でしょう。
さて、少し前に、ある女性が私にこう言いました。
「イエスは神的なお方ではありません。
良い人で、良い教師だっただけ。
人々が生き方を学ぶための存在。
サンタクロースの話のようなものです。
でも、神ではありません。」
私は言いました。
「いいえ、イエスは神でした。」
彼女は言いました。
「いいえ、違います。」
私は言いました。
「イエスは神でした。」
彼女は言いました。
「証明できます。
ラザロの墓の前で、イエスは人間のように泣いたじゃありませんか。」
私は言いました。
「ええ、そうです。
私は、イエスが“人以上”であったと信じています。
神と人とのお方――ゴッド・マン(神人)だったと信じています。」
「神はキリストにあって、世をご自分と和解させられた。」
私は、神が御子のうちに住み、
御子を通して世を和解させられたと信じています。
あなたは信じますか?
私は、心から信じます。
イエスは、人以上でした。
地上におられた“神の御子”でした。
父なる神の持っておられたすべてが、
その時、イエスのうちにあったのです。
私は信じます。
イエスは人以上、神人(ゴッド・マン)でした。
確かに、墓の前では、
人として泣かれた。
それは事実です。
しかし――
石を取りのけよ、と言い、
「ラザロ、出て来なさい」と呼ばれ、
死者をよみがえらせた時、
そのお方は人以上でした。
その時、イエスは神でした。
泣かれた時は、人として。
死人をよみがえらせた時は、神として。
そのとおりです。
ええ、確かに――
イエスは、神でした。

84. あの夜、山から下りて来られた時、
イエスは人として空腹でした。
いちじくの木を見て、
何か食べるものはないかと探された。
その時、確かに――人でした。
しかし、
五つのパンで五千人を養われた時、
それは御子のうちにおられた神でした。
イエスは神人(ゴッド・マン)だった。
私は、それを知っています。
あの夜、湖の舟の中で横になっておられた時、
波が踊り狂い、
海の一万の悪霊が
「溺れさせてやる」と叫んでいた時――
イエスは、
疲れ果てて眠っておられた、人でした。
しかし、
立ち上がり、
舟の縁に足をかけ、
天を仰いで言われた時――
「静まれ。黙れ。」
それは、
御子を通して語られた神の声でした。
ハレルヤ!
私は信じます。
イエスは神人でした。
人以上のお方。
天から遣わされた、神の御方。
ええ、そのとおりです。
十字架で死なれる時、
岩は裂け、
空は暗くなり、
救い主は頭を垂れて息を引き取られた。
その時、イエスは人として死なれた。
それは事実です。
しかし――
三日目によみがえられた時、
ご自分が神であることを証明された。
そのとおりです。
神は御子のうちにおられ、
御子をよみがえらせられた。
イエスは、神的なお方でした。
私は、そのすべての御言葉を信じます。

85. あの場所を通って、墓のところへ歩いて行かれる姿が見えるようです。
そして言われた。
「石を取りのけなさい。」
もしイエスが、いわゆる“紳士的”なお方だったなら、
ご自分で石を取りのけられたかもしれません。
でも、女たちにそうさせた。
なぜですか?
あなたにも、果たすべき役割があるからです。
そのとおりです。
あなたは、あなたの分をしなければならない。
イエスは言われました。
「石を取りのけなさい。」
彼らが石を取りのけると、
あまりにもひどい臭いが立ちこめました。
人の死体が四日も経っているのですから、
息が詰まりそうになるほどでした。
その時――
私は、イエスが再び、
小さな体をまっすぐにされるのを見るんです。
そして言われた。
「父よ、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを感謝します。
しかし、これは、ここに立っている人々のために言ったのです。」
イエスは、すでに幻を見ておられた。
何が起こるかを、知っておられたのです。
それから、
大声で叫ばれました。
「ラザロ、出て来なさい!」
兄弟よ、私はこう信じています。
もしイエスが、
ラザロと名指しされなかったなら、
その場で一般復活が起こっていたと思います。
それほどのお方です。
もし、ただ
「出て来なさい」
と言われただけだったなら、
これまで死んだすべての者が、
墓から出て来ていたと、私は信じます。
しかし、イエスは呼ばれました。
「ラザロ、出て来なさい。」
私は今日、心から感謝しています。
私の名が、命の書に記されていることを。
「いつの日か、主はまた呼ばれる。
その時、私は応えるであろう。」
――ヨブが言ったとおりです。

86. 四日間も死んでいた人です。体はすでに朽ちていました。
その魂は四日間、どこかへ行っていたのです。
どこに行っていたのか?
私は知りません。あなたも知りません。
だから、そのことで議論する必要はありません。
しかし事実はこうです。
その人の魂は四日間いなくなっていた。
そして、戻って来た。
すると、死んでいた人が立ち上がり、再び生きたのです。
あなたはこれを信じますか?
はい、主よ。私は信じます。
私は、主が昨日も今日も、そして、いつまでも変わることのない方であると信じます。
あなたはこれを信じますか?
私は、主が海に向かって語られ、すると波が静まった、そのお方であると信じます。
あなたはこれを信じますか?
私は、主が御言葉の中で、
「わたしのするこれらのわざを、あなたがたも行い、さらに大きなわざを行う」と言われたことを信じます。
あなたはこれを信じますか?
私は、主がこう言われたことを信じます。
「もし、あなたがたがわたしにとどまり、わたしの言葉があなたがたのうちにとどまるなら、
何でも望むものを求めなさい。そうすれば、それは与えられる。」
あなたはこれを信じますか?
私は、終わりの時に、背教が起こり、人々は高慢になり、
神を愛するよりも、快楽を愛するようになると書かれていることを信じます。
そして、私たちは今、まさにその時代に生きていると信じます。
主は言われました。
「その日に、主の枝は美しくなる。」
また、主は、これらのしるしが、信じる者たちに伴う教会が現れることを預言されました。
マルコの福音書16章で、主はこう言われました。
「わたしの名によって、彼らは悪霊を追い出し、新しい舌で語り、
蛇をつかみ、また、たとえ死に至るものを飲んでも害を受けず、
病人に手を置けば、その人は癒される。」
私は、私たちが今まさに、その日を生きていると信じます。
あなたはこれを信じますか?

87. 私は、主がこう言われたことを信じます。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」
あなたはこれを信じますか?
私は、今ここに立っているすべての男も女も、
聖霊の油注ぎの下にあって、今すぐイエスを受け入れ、聖霊を受けることができると信じます。
あなたはこれを信じますか?
私は、もしあなたがただ主に触れるなら、
この建物の中にいるすべての人を、主は今すぐ癒すことがおできになると信じます。
あなたは……
これを信じますか?

88. それは、この部屋の中でありながら、この世の次元を超えた領域においてでした。
その御使いは私にこう言いました。
「もし、あなたが人々にあなたを信じさせ、
そして、祈るときに心から真実であるなら、
あなたの祈りの前に立ちはだかるものは何一つない。」
あなたはこれを信じますか?
私は、主が今ここにおられると信じます。
あなたはこれを信じますか?
私は、主が今すぐ癒したいと望んでおられると信じます。
あなたはこれを信じますか?
私は、主がこの癌の人たちを癒したいと望んでおられると信じます。
あなたはこれを信じますか?
私は、主があの足の不自由な小さな男の子を癒したいと望んでおられると信じます。
あなたはこれを信じますか?
私は、主が今この場所を、聖霊で満たしたいと望んでおられると信じます。
あなたはこれを信じますか?

89. ああ、ここに主がおられます……
あなたは聖霊を望みますか?
あなたは自分の人生にキリストを迎えたいですか?
あなたは癒されたいですか?
今、主がここにおられるうちに、
御言葉に基づいて、今すぐ主を受け入れなさい。
こう言いなさい。
「主よ、あなたの御言葉によって。
ここに私はいます、主よ。
私は今、あなたが私を癒してくださると信じます。
あなたが私を救ってくださると信じます。
あなたが私に聖霊を与えてくださると信じます。」
さあ、今、すべての手を挙げなさい。
祈る間、すべての心を神に向けなさい。
あなたは主を愛していますか?
私は主にお願いしました。
ここへ来る前、この午後、
あなたがたを聖霊で満たし、癒してくださるようにと。
私は、主がそれをしてくださると信じています。
あなたは信じますか?
あなたはこれを信じますか?
さあ、今、主に求めなさい。
あなたは主を愛していますか?

90. 私たちは、この午後、ただ一つの目的のために、ここに集まりました。
それは、あなたの御子イエスをあがめるためです。
そして今、主がこの建物の中を動いておられるこの時、
神よ、私たちはこの日を二度と見ることはありません。
この時は過ぎ去り、やがて私たちは、
この日をどのように用いたかについて、あなたの御前で裁きを受けることになります。
神よ、今、私は祈ります。
この午後を通して、聖霊が私たちに語られたとおり、
どうか今すぐ、彼らの心を満たしてください。
主よ、聖霊を注いでください。
今、この建物の中にいるすべての病人を癒してください。
彼らが御言葉を喜びをもって受け取り、
今すぐ、イエス・キリストの御名によって、聖霊で満たされますように。
どれだけの人が信じていますか?
どれだけの人が信じているでしょうか……?
「主を賛美します」と言いなさい。
それを受け取った人は、「主を賛美します」と言いなさい。
ハレルヤ!

91. 今ここにいるすべての人は、
そばに立っている人に手を置きなさい。
隣に立っている人に手を伸ばしなさい。
互いに按手しなさい。
さあ、神はこれをなさいます。
私はそれを知っています。
ああ……。
さあ、見てください、皆さん。
互いに手を置いています。
年老いた母親が、小さな赤ちゃんに手を置いている。
年老いた父親が、母親に手を置いている。
ああ、そこにあります。
それです。私が語っていたのは、これです。
さあ、受け取りなさい、皆さん。
そこにあります。
神よ、
尊い主の御使いよ、
今すぐ、聖霊で満たしてください。
彼ら一人ひとりと共に行ってください。
私は祈ります……
どうか、それを成し遂げてください、主よ。
主を信じなさい……