彼の復活の証拠
ジェファソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国
説教番号: 55-0410M
日付: 1955年4月10日(55-0410)
1. 【ネヴィル兄弟がブラナム兄弟を紹介する】ありがとうございます、
ネヴィル兄弟。
おはようございます、皆さん。今朝、またこのタバナクルに来て、
主イエス様を礼拝できることは、本当に嬉しいことです。
今日ここにいる多くの方々にとって、これは二度目の礼拝ですね。
今朝早くから私たちはここに集い、主が驚くべき方法で私たちに
臨んでくださいました。
私はただ皆さんに少しお話しするつもりでここに降りてきたのですが、
特にメッセージの準備をしていたわけではありません。でも、
気づけば説教を始めてしまっていて(笑)、とても素晴らしい時間
を過ごすことができました。本当に、主に感謝します。
この小さなタバナクルでは、座席が十分でないために立っておられる方々
がいて、本当に心苦しく思います。申し訳ありません。けれども、
今はこれが私たちにできる精一杯のことです。ですので、今日はあまり長く
は引き止めません。皆さんに、ささやかですが、イースターのご挨拶を
お届けしたいと思っています。
それから今朝は、病のある方々のためにお祈りもいたします。
既に案内された通りです。どうか、私たちが行うすべてのことに、
主の祝福が豊かにありますように。私たちがここに集っている目的は、
ただ一つ――神ご自身が私たちとともにいてくださり、
私たちを祝福してくださるためなのです。
そして、今晩の集会は「バプテスマ式(洗礼式)」となっています。
まだバプテスマを、つまり「水に沈めるかたちでの洗礼」
を受けておられず、
それを望んでおられる方は、ぜひ今晩おいでください。どうぞ準備をして、
バプテスマ用の衣をお持ちになってください。私たちは、今晩、
すばらしい洗礼の礼拝になることを期待しています。
今日はイースターでもありますし、皆さんの中には、
すでにご自分の教会で礼拝を済ませておられる方や、
今朝の「サンライズ礼拝」に出席された方もおられることでしょう。
そうした中で、私たちのこの礼拝の一部に加わってくださったことを、
とても嬉しく思っています。
2. さて今朝は、イースターにふさわしい短いメッセージとして、
皆さんの心を聖書の御言葉へと向けてみたいと思います。
開いていただきたいのは、《ヨハネによる福音書》第21章の3節と4節、
そして次に《ルカによる福音書》──正確には24章ですね──
そちらの49節あたりからです。
まず、ヨハネ21章。
シモン・ペテロが言った。「私は漁に行く」。彼らは言った。
「私たちも一緒に行こう」。彼らは出て行って舟に乗ったが、
その夜は何もとれなかった。
しかし夜が明けたとき、イエスが岸辺に立っておられた。
しかし弟子たちは、それがイエスだとは知らなかった。
この御言葉に、主の豊かな祝福がありますように。
続いて、ルカの24章、27節からお読みします。
そして、モーセとすべての預言者からはじめて、
聖書全体にわたって、ご自身について書かれている事を彼らに説明された。
彼らが行こうとしていた村に近づいたとき、イエスは、
なお先へ行こうとなさるふうであった。
しかし彼らは強いて引き止めて言った。「私たちと一緒に
お泊まりください。もう夕方になり、日も傾いていますから」。
それで、イエスは彼らと共に泊まるために中へ入られた。
食事のとき、イエスはパンを取り、祝福して割き、彼らに渡された。
すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かった──
[なんという対比でしょうか。一方では主が誰かわからず、
こちらでは、主がなされたある行動によって、
主だと分かったのです]──そしてイエスは彼らの前から見えなくなられた。
彼らは互いに言った。「道々お話しくださったとき、
また聖書を解き明かしてくださったとき、
私たちの心は燃えていたではないか」。
それでは、このひととき、私たちの頭を垂れ、
祈りの時を持ちましょう。
3. 優しく、恵み深い天の父なる神様、
今朝、この素晴らしい機会を与えてくださり、心から感謝いたします。
復活のキリストの御前にともに集い、
神聖な交わりを持つことができるこの時、
私たちは確信をもって、
キリストの十字架に共にあずかり、
この世のものに対して共に十字架につけられ、
新たに永遠の命へとよみがえらされたことを、感謝します。
この希望は、今、私たちの内に確かに生きています。
昔の預言者が言ったように、
「私たちは知っています。私たちの贖い主は生きておられる」と、
私たちも今、告白します。
今も生きておられ、いと高き方の右に座しておられる大祭司、
ご自身も苦しみを味わわれた方、
私たちの告白のためにとりなしをしてくださる方──
この方を、私たちは心から感謝します。
私たちの心は、燃え立ちます。
今も生きておられるお方が、
偉大な全能の神の御前で、私たちのために立ってくださっている。
主は死んでおられません。
生きておられ、御座にいて、
すべての場所におられ、すべてをご存知であり、
全能にして、力強く、あらゆることがおできになる主です。
この偉大で栄光に満ちた真理を、
私たちは今日、胸に抱き、深く感謝しています。
主は、私たちの弱さをも理解してくださるお方、
なぜなら、主ご自身が私たちのために苦しまれ、
カルバリで私たちの病を負ってくださったからです。
それを今日、確かに知ることができること、
主が今も生きておられ、私たちのために語り、
私たちを愛してくださっていることを、知ることができることに、
なんと幸いなことでしょうか。
どうかこの日も、
その御臨在が絶えず私たちと共にありますように。
このイースターが、本当に「本物のイースター」となるように、
私たち一人ひとりの心に触れてください。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
4. そして、神様──
今朝この場におられても、まだあなたを知らない方々のために、
キリストの復活の恵みをまだ知らず、
あなたから離れて生きている方々のために、心から祈ります。
どうか、主よ、あなたの完全にして荘厳な力をもって
彼らの罪を取り去り、
その代わりに、神の素晴らしい恵みをお与えください。
主よ、それが今日、この場にいるすべての不信仰な方々に
実現されますように、どうかお与えください。
また、この復活の日を記念して、
世界中で行われているすべての礼拝に、
あなたの祝福が豊かにありますように。
今、主よ、無益なしもべではありますが、
どうかこの身をあなたにゆだねる私を助けてください。
ここにおられる一人ひとりを、どうか祝福してください。
そして礼拝が終わるとき、
かつてエマオへの道を歩いた弟子たちのように、
「道すがらお話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」
──そう、私たちも心から言えるようにしてください。
これらすべての願いを、
主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
5. 神の偉大なる永遠の救いのご計画、その摂理の中で──
昔、神が人をお造りになったとき、
神ご自身を礼拝する存在として、そうなるようにお造りになりました。
人はそのように創られたのです。
礼拝への渇望、神を慕い求める心を内に持って。
そして、人類の歴史を通して、
人は常に、
この世とその先の世界を隔てている“幕”の向こう側を見たいと、
切に願ってきました。
紀元603年、イングランドの王が、
聖アウグスティヌスによって、主イエス・キリストの御名において
洗礼を受けたときのことです。
ある晩、暖炉の前で彼にキリストについて語っていたそのとき──
一羽の小さなスズメが光の中に飛び込んできて、
しばらくあたりを舞い、そして再び闇の中へと飛び去っていきました。
その時、聖アウグスティヌスは王にこう言いました。
「彼はどこから来て、どこへ行ったのでしょうか?」
そして言葉を続けました。
「それが人間というものです。
人はこの世に生まれ、
わずかな時間、意識を持って歩みますが、
自分がどこから来たのか、どこへ行くのか、
はっきりとは分からない。
そのことを真に教えてくれる唯一の書物──
それが、聖書なのです。」
その言葉に打たれ、王はキリストを信じ、
その命を主に捧げました。
そして翌朝、王とその家族すべてが
主イエス・キリストの御名においてバプテスマを受けたのです。
人は、生まれながらのままでは、
霊的な事柄を理解することはできません。
それらは霊によって見分けられるものだからです。
6. さて、ここからは、できるだけ心を傾けて聞いていただきたいのです。
立ちっぱなしでおられる方も多く、会場も混み合っていて、
大変なことと思います。
けれども、今朝ここにおられる方々の中には、
病の中にある方々、そして何より「罪の病」に苦しみ、
心に平安を求めておられる方々がいます。
そうした方々のためにも、どうか御言葉に耳を傾けてください。
「解放の宣言」は、すでに署名されているのです。
あなたは自由なのです。
ただ、そのことをまだ知らないだけなのです。
しかし、信仰というものは、
それが「神にある信仰」であるためには、
必ず「神聖なる安息の場所」が必要です。
信仰は、何かしらにしっかりと根ざしていなければならないのです。
そしてその「安息の場所」として、
これ以上に確かなもの、これ以上に神聖なものはありません──
それは、神の聖なる御言葉です。
ですから、私たちは自分の信仰を、
この書かれた神の御言葉の上に、
まっすぐに置いていきたいのです。
揺るがず、迷わず、御言葉そのものの上に。
7. さて、人は肉的な状態、つまりこの世的な考え方や知識の中にいると、
いつも神から離れていこうとするものです。
それは創世の初めから、ずっと変わらずそうでした。
人は「向こう側」、すなわちこの世の向こうにある永遠の世界を
見たい、知りたいと願うのですが、
まるで牢獄の中に閉じ込められているかのように、
そこへたどり着くことができません。
そして時には──いや、しばしば──
人間の伝統や宗教的な形式が、かえって人を縛るのです。
様々な形や儀式、動機をもって「こう礼拝すべきだ」と教えることで、
かえって人々を束縛してしまう。
そのようなことが、この世の始まりからずっと続いてきました。
人は、ずっと牢獄のようなものの中に閉じ込められてきたのです。
けれども、それでも人はいつも「向こう側を見たい」と
願い続けてきました。
そして、ほんの少しでも「超自然的な何か」が現れると、
人間はすぐにそれを追い求めて走っていきます。
それは、彼らにとって──ほんのわずかでも──
“境界線の向こう”にある希望や約束を感じさせるものだからです。
人がそうする理由、それは──
彼がそのように造られているからです。
全能の神、ご自身のかたちに似せて造られたからです。
神を礼拝する者として造られた人間は、
その内にある「神を求める感情」を
どこかで解放せずにはいられないのです。
8. 今日、このイースターの朝に私たちがここに集っている目的──
それは、皆さんに「本当の福音の真理」をお伝えするためです。
どんな組織にも、どんな人間の権威にも頼ることなく、
ただ、シンプルな聖書の真理、
神のことばそのものに立って。
私は、この聖書こそが「神の書かれた御言葉」だと信じています。
魂を込めて、心を尽くして、思いを尽くして、全存在をもって信じています。
そして今日、私の生まれ育ったこの小さな町において、
この福音をお伝えしたいのです。
この10年の間、世界中で神の驚くべきみわざを見てきました。
その素晴らしいことを、ここでも分かち合いたい。
これまで何度も、この町で癒しの集会を持とうとしました。
それは、友だちがいないからではありません。
私はこの町に多くの友人がいます。
あなたがたは私の友人であり、私は皆さんを愛しています。
けれども、ここは私の故郷──私が育った場所であり、
みなさんが私をよく知っている場所でもある。
だからこそ、少し難しさがあるのです。
聖書にもこう書かれています、
「預言者は、自分の故郷や親しい者たちの間では受け入れられにくい」と。
どの時代にも、それは変わりません。
ですから、ここも例外ではないのです。
しかし、私は心から信じています。
今朝、私たちが主に願い求めた通りの礼拝を、
神は確かに与えてくださると。
主の偉大な御臨在と全能の力によって、
この場にご自身が臨んでくださると信じています。
もしそうであるなら──
このイースターの朝に、
よみがえられた主イエスが、今ここで人々の間を歩いておられるという、
まぎれもない証拠となります。
まさにそれこそが、
「主は確かによみがえられた」という確固たる証しなのです!
これこそ、私がずっと語り続けてきたことなのです。
主イエスは、死んではおられません──
生きておられるのです!
しかも、はっきりと、力強く、生きておられ、
永遠に生き続けられるお方です。
そして今朝──
もし神がその恵みによってお許しくださるなら、
聖霊の助けを通して、
疑いの余地もないほどに、
主イエスが本当に死人の中からよみがえられたこと、
そして今も生きて、この建物の中におられることを、
皆さんにお示しすることができると信じています。
主は、世の終わりまで、私たちと共におられると約束されました。
しかし人は──
肉的な考え方をもっているとき、
最初にやってしまうことがあります。
それは、福音を「教義」や「形式」にしてしまうことです。
「教会に行けばよい」と言う人がいます。それは悪いことではありません。
「信仰告白をしよう」「決められた祈りを唱えよう」──
どれも、良い意図を持ったことでしょう。
でも、キリストの復活とは、
そうした教義や形式、または教派の枠組みを超えたところにあるのです。
それらがどれほど良いものであっても、
どれほど正しい意図であったとしても、
それが「よみがえられたキリスト」そのものではありません。
そして今朝、私たちが何よりも求めているのは、
このただ中に、復活された主が実際におられるという、
確実でまぎれもない「証し」なのです。
9. さて、今朝のテキストにあるように、
「彼らはイエスだとは分からなかった」とありましたが、
それは今日も同じことです。
人は昔からずっと──ずっと──主を知りたいと願ってきました。
時代を超えて、人々の心はずっと、
「彼を知りたい」という思いに満ちていたのです。
そして今朝の最初の礼拝で取り上げた「我が贖い主は生きておられる」
という御言葉の中でも、
私たちはそれを見て取ることができます。
古のヨブ──彼は非常に古い時代の人であり、
聖書の中でも最初の方に登場する人物ですが──
彼でさえ、自分の造り主を知りたいと心から願っていました。
彼は言いました、
「もし私がその方の戸を叩いて、お会いして、
お話しすることができるなら──」と。
なんと、長い間、人の心はそのような願いを抱いてきたことでしょうか。
そして今──
それからさらに四千年、いや、ほぼ五千年が経った今日、
人の心は、
もっともっと強く、
「主の戸を叩きたい」
「主のところへ行きたい」
「主と親しくなりたい」
──そう願っているのです。
10. けれども──人々は、
長年にわたる「伝統」というものによって、
聖書に記された偉大な基本的真理から目を覆われてしまっているのです。
主イエスご自身も、この地上におられた時に、
まさに同じことを語られました。
「あなたがたは、盲人を導く盲人だ」と。
「もし盲人が盲人を導けば、ふたりとも穴に落ちるではないか」と。
イエスは、クリスチャンや宗教指導者たちのことを、
「盲目である」とはっきり言われました。
神には、ご自身を人々に現し、
人々にご自身を知らせる方法があります。
神は、ご自身を現そうとしておられるのです。
しかし──
多くの場合、その「伝統」が壁となり、
神が人の心に入り、ご自身を示されようとしても、
そのチャンスを奪ってしまうのです。
分かりますか?
伝統が──
人の心の扉を閉ざしてしまうのです。
今日、それがどれほど大きな問題であることでしょう!
11. さて、主イエスが語っておられたその教師たちは、
非常に正統的(オーソドックス)な人々でした。
彼らは、まさに学者たちであり、
律法の文字通りの細部にまで忠実に従っていました。
小さな点一つ、かすかな筆のしるしひとつさえも、
律法から外れてはならないと考えていたのです。
すべてを完全に守らねばならない、と。
でも──
私たちは、教育や理論の面でどれほど“完全”を追い求めたとしても、
その過程で、キリストご自身をすっかり見失ってしまうことがあるのです。
「完璧さ」へのこだわりがあまりにも強すぎて、
肝心な「真実」、本当に大切な「事実」から、
私たちは完全に離れてしまうことがあるのです。
12. それゆえ、神が人に真理を届けるために──
神はご自身のひとり子を遣わされたのです。
罪深い肉のかたちをとってお生まれになり、
この地上に来られた主イエス・キリストは、
カルバリの日に、私たちの罪のための宥めの供え物として
ささげられました。
それは、私たちの罪を取り除くため、
そして私たちに自由を与え、
長い間閉じ込められていた“牢獄”から、
私たちを解き放つためだったのです。
人は囚われの身なのです。
神は、そうおっしゃいました──
人は囚人であると。
だからこそ、「何か」がその人に起こらなければなりません。
──ここをしっかり聞いてほしいのです──
その「あること」とは、「新生(ニュー・バース)」です。
この新生という出来事が、その人に起こる前は、
人は、どんな方法をもってしても、
神のことを理解することはできません。
神を知ることも、悟ることも、絶対にできないのです。
たとえ聖書に真理がはっきりと語られていても、
人間の心と思いでは、それを本当に理解することはできません。
なぜなら、それは「人間の思い」だからです。
人は「神の御心」、すなわち「神の思い」をその内に持たなければ、
神の事柄を理解することはできないのです。
だから、どれほど多く本を読み、
どれほど立派な学校に行き、
どれほど正しい教えを受けたとしても──
それらがどんなに良いものであったとしても──
それだけでは、まだ「本当の核心」には達していないのです。
13. 神はご自身の御子を遣わされ、福音を宣べ伝えさせました。
そうです、「福音」とは「良い知らせ」のことです。
《イザヤ書》第61章──聖書を記録しておられる方は、
ぜひそこをメモしておいてください──
そこには、キリストの到来について、イザヤが預言しています。
彼はこう語っています:
「主は私に油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝えさせるために、
心の傷ついた者をいやし、
囚われ人には解放を、
捕らわれた者には釈放を告げ知らせるために、私を遣わされた。」
神はキリストを遣わされました──
暗闇の中に座している人々の、牢の扉を開けるために。
そして彼らを自由にするために。
そして注目すべきは、
主が語り、自由を与えようとした「捕らわれ人たち」のタイプです。
彼らは、読み書きのできない人々ではなかったのです。
むしろ、学識のある人々──教育を受けた者たちでした。
キリストは、そうした人々をも「自由にするために」来られたのです。
14. では、これを小さなお子さんたちにもわかるようにお話ししましょう。
たとえば──今日、皆さん一人ひとりが「死刑の宣告」を受けているとします。
そして、明日の朝日が昇る時に、処刑されることが決まっていて、
皆さんは今、牢屋に座って、その時を待っているのです。
実際、今朝この場所にいる人の中にも、
そうとは知らずに、その“霊の牢獄”に座っている人がいます。
神から離れて、罪の中にあり、苦しみの中にある人たちです。
表向きは“良い人”に見えても、心の深いところで囚われている人たちです。
今朝ここに座っている皆さんの中にも──
ガンを抱えている人、腫瘍がある人、
視力を失っている人、
他にも、さまざまな病気や苦しみにあっている方がいることでしょう。
けれども、神はキリストをお遣わしになりました。
その「牢の扉を開けて」、あなたを自由にするために!
あなたが「病気は束縛なのか?」と問うなら、
はい──そうです。病もまた、悪しき“とらわれ”の一つなのです。
イエス様は、背中を曲げたまま長年苦しんでいた女性に手を置いて、
彼女を癒されました。
そのとき、周りの宗教教師たちは非難しました。
でもイエス様はこう言われました:
「アブラハムの娘であるこの人が、
サタンによって束縛されていたのを、
今日、この日に解放してはいけない理由があるのか?」
そう──キリスト、私たちの偉大な贖い主は、
人々を「罪」から、そして「病」から、
自由にするために来られたのです。
カルバリの十字架で、主が死なれたとき、
「彼は、私たちのそむきのために傷つけられ、
その打たれた傷によって、私たちは癒された」と聖書は語ります。
これこそが、「良い知らせ」──
これこそが、「福音」なのです!
福音とは、キリストが「罪人の身代わりとして」死なれたことです。
キリストが「病人の代わりとなって」苦しまれたということです。
キリストは、「心配や不安を抱える人の代わり」になられました。
キリストは、「心の病を抱える人の代わり」になられました。
キリストはすべての“代わり”となって、
私たちをあらゆる罪、あらゆる苦しみから解放してくださったのです。
悪魔が私たちを閉じ込めたその牢獄から、
キリストは私たちを「赦し」によって完全に解放してくださった。
すべてのものが、自由にされたのです!
15. かつてアメリカにおいて、
黒人の方々が奴隷として束縛されていた時代がありました。
そのとき、アブラハム・リンカーンが命を捧げ、
彼らを解放し、
もはや奴隷ではないという権利を与えるために尽力しました。
そして「自由の宣言」がなされたその朝、
ちょうど太陽が昇るその瞬間、彼らは解放されたのです。
その日、彼らはどれほど喜んだことでしょうか。
「太陽が昇れば、私たちは自由になる」と知っていたからです。
身体が強く、健康だった人々の中には、
山の上の方まで登った者もいました。
頂上まで登った人もいれば、半分の高さまでの者もいた。
ある人々は、山のふもとや谷底にとどまっていました。
けれども──
太陽の光が地平線から差し始めたそのとき、
山の頂上にいた者たちは、それを誰よりも早く目にしました。
私はこれを、今日のクリスチャンたちにたとえたいのです。
聖霊の領域にまで高く引き上げられた、強いクリスチャンたち。
ちょうど「義認」の道を歩き始めたばかりの人々。
そして、まだ混乱の谷底にいるような人々。
山の上の人たちは、最初に太陽を見ました。
彼らは大声で叫びました──
「私たちは自由だ!」
そして、その声は山の中腹にいた人々に届きました。
彼らもまた叫びました──
「私たちは自由だ!」
さらにその声は、谷の下の者たちにも届きました。
「私たちは自由だ!」
──よく考えてみてください。
山の上にいて、太陽を実際に見た人は、
確かに「目で見て」自由を確認できました。
けれども、たとえ谷底にいたとしても、
その「知らせ」が届いた瞬間、
その人もまた、まったく同じように“完全に自由”だったのです。
太陽が見えるかどうかに関係なく、
“自由”という事実はすでにそこにあったのです。
分かりますか?
16. キリストは、捕らわれ人を自由にするために来られました。
あなたは、悪習に縛られて生きる必要はありません。
中途半端な「クリスチャン生活」のままでいる必要もないのです。
神は、そんなあなたをそのままで放っておきたいとは思っておられません。
神は、キリストに油を注がれました──
自由を宣べ伝えるために、
牢獄の扉を開くために。
そして、今朝──
あなたが、もし牢の中に座っていて、
死刑宣告を受けているような状態だったとしましょう。
今にも処刑されようとしているそのとき、
通りの向こうから誰かが走ってきて、
こう叫ぶのです:
「待ってください!恩赦状が届きました!
あなたは、もう死ぬ必要はありません!」
あなたは、まだ牢の中にいます。
でもその瞬間、あなたはすでに自由なのです。
だからその人は、牢の中にいながらでも、
まるで外にいるのと同じように喜べるのです。
なぜなら、「赦し」がすでに署名されていると知っているからです!
──今朝、それと同じことが起こっているのです。
ここにあります。
神のことば──
すべての渇いた心を持つ男と女に向けて、
この朝、牢から出るための「良い知らせ」、福音が語られているのです。
たとえあなたが、まだ病に伏していても、
心が縛られたままであっても、
その「知らせ」が届いた今、
あなたはもう、すでに「自由」なのです。
「あなたは赦された」と、
福音が告げているのです!
キリストは──
およそ1900年前のこの朝、
すべての囚人を自由にするために、
よみがえられました。
牢の扉は開かれ、
あなたが出ていくのを、ただ待っているのです!
なんと素晴らしい知らせでしょうか。
だからこそ、ある詩人は感動に打たれ、
こう書き記しました:
「生きて、主は私を愛してくださった。
死んで、主は私を救ってくださった。
葬られて、私の罪を遠くに運んでくださった。
よみがえられて、永遠に私を義とされた。
いつか主は再び来られる──ああ、栄光の日よ!」
17. 信じる者の希望──
それは、再び来られる主を待ち望むことです。
この偉大な王子なるお方こそ、
私たちの牢の扉を開き、自由にしてくださったお方です。
その借りは、すでに清算されました。
すべては支払われたのです!
神と罪人は──
カルバリの十字架で、
イエスが死なれたその時に、和解させられました。
そして神は、イエスを三日目によみがえらせ、
私たちを義とするために、証を与えてくださったのです。
だからこそ、私たちはその十字架を見上げ、
それを信じ、心のすべてをもって受け入れるとき──
私たちは、生ける神の御前に「義」と認められるのです!
──それが感情を揺さぶらずにいられるでしょうか?
──それが喜びを沸き立たせずにいられるでしょうか?
どうして黙っていられるでしょうか?
どうして声をあげずにいられるでしょうか?
死が目前に迫っていることを知りながら、
そこに突然、「赦し」が届けられたとき、
どうして心が震えずにいられるでしょうか?
そうです──
それが「福音」です。
18. 考えてみてください──あの朝、バラバはどんな気持ちだったでしょうか?
彼が牢の中でうずくまっているとき、
ローマ兵の鉄の靴がガラリーを重々しく踏み鳴らしながら近づいてくる音、
鎖の音、槍が石畳を引きずる音が聞こえてきます。
「もうだめだ、これで終わりだ」と、
恐れに震え、泣きながら、
バラバは処刑に連れ出されると思ったことでしょう。
けれど、その時、兵士が牢の扉を開けてこう言ったのです:
「バラバ、朗読する。“お前は赦された。自由だ。”」
「な、なんだって?私は死ななくていいのか?」
「そうだ。もう死ぬ必要はない。」
「でも、それには何をすればいい? 代償は?」
「何もない。ただ、自由になったんだ。」
「どうしてこんなことが起こるんだ?」
すると百人隊長はバラバの肩をとらえ、こう言ったかもしれません──
「あそこを見ろ。あの十字架にかかっている男を見ろ。
顔には嘲りの唾がつき、
手には傷がある──
あれは、お前のはずだった。
あの方が、お前の代わりに罰を受けたんだ。
お前のために、牢の扉を開けてくださったんだ。
本来死刑宣告されていたお前の代わりに、
あのお方が命を差し出したんだ。」
そしてイースターの朝──
神は、あの御方をよみがえらせてくださいました。
それは、私たちが「義」と認められるためです!
だからこそ、私たちは信じるのです。
その物語を受け入れるとき、
「義とされた者の平安」が、
まるで果てしない波のように、
私たちの心の中に押し寄せてくるのです。
神は私たちを慰めもなしに放っておかれませんでした。
この後の時代に、
教えや人間の解釈によって真理が混乱させられることを、
神はご存じだったのです。
だから神は、まっすぐなメッセンジャーを送られました。
──それが、聖霊です。
聖霊こそが、キリストの復活を証するものです。
もし復活に対する確証としての聖霊がおられないなら、
私は復活を信じることができなかったでしょう。
ただの神学、ただの理屈のようなもので終わっていたでしょう。
神学や知識も良いものです。
けれども、今日私たちには「直接の証人」がいるのです。
聖霊こそが、主イエスの復活の確かな証なのです!
それが、今日──
人々に最も誤解されているものの一つです。
けれども、それこそが、私たちの「希望」なのです。
19. 主イエスが最後の使命──「大宣教命令」を与えられたとき、
こう言われました:
「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は救われ、
信じない者は罪に定められる。
信じる者には次のしるしが伴う。
わたしの名によって悪霊を追い出し、
新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとえ毒を飲んでも害を受けず、
病人に手を置けば、癒される。
わたしがしている業を、あなたがたもするようになる。
いや、それ以上のことをするようになる。
わたしが父のもとに行くからだ。」
ある人が私にこう尋ねました:
「ブラナム兄弟、その大宣教命令は今の時代にも関係あるのですか?」
──もちろんです!
「いつまでですか?」
──“全世界”に届くまで。
「誰に向けてですか?」
──“すべての造られた者”に向けてです。
──そこに、はっきりと書かれているのです!
それを「信じる」ことが、永遠のいのちにつながる。
それを「受け入れる」ことが、救いなのです。
「なぜ、私はそれを信じるべきなのか?」とあなたは言うかもしれません。
──なぜなら、それは「神のことば」だからです。
神はご自身のことばを、決して取り消すことはなさいません。
人間なら言ったことを撤回することがあります。
私もそうですし、あなたもそうでしょう。
けれども──神は違います。
神はひとたび語られたなら、
必ずそのことばに責任を持たれ、
それを全うされるのです。
主はこれらの言葉を語られました。
ですから、神はご自身のことばを尊ばれ、
その通りにされるのです。
20. そして「復活」という出来事は、
今日この瞬間も、
それを信じるすべての人の心にとって、
マグダラのマリヤたちがあの朝、墓の前で目撃した時とまったく
同じほどに、
真実であり、生きている現実なのです。
あの朝、墓のそばに立っていたマリヤに、
イエス様が声をかけられました──
「マリヤ。」
彼女は振り向いて叫びました。
「ラボニ!(先生)」
あのとき、彼女の心に起こった確信と感動は、
今朝ここにいる、神の霊によって新しく生まれ変わったすべての人の
心の中にも、
まったく同じように現実のものとしてあるのです。
復活の力によって生まれ変わった者にとって、
あの朝の出来事は、今も生きている。
21. 人は、自分の考えや理屈では、それ(救い)を成し遂げることは
できません。
それはちょうど──基礎が腐っている建物に、無理やり壁紙を貼ったり、
ペンキを塗って見た目をよくしようとしているようなものです。
もし政府が「この家は危険である」として取り壊し命令を出すとすれば、
それは土台そのものが腐っているからです。
そんな家に、どんなに美しい飾りをつけても、
内装を塗り直しても、
立派な瓦を重ねても、
祭壇や十字架をいくつ置いても、
いずれ倒れるしかないのです。
なぜなら、土台が間違っているからです。
同じように──
人間は、生まれながらにして間違った考えを持っているのです。
人は、もともと神から離れた存在です。
神との交わりを断たれ、
希望もなく、
神もなく、
憐れみもなく、
霊的に“異邦人”として、滅びに向かっているのです。
人ができる唯一のこと──
それは、キリストを受け入れることです。
そしてそのとき、
聖霊がその人の内に来てくださり、
キリストにあったその心(思い)が、その人の中にも宿るのです。
22. イエス様は言われました──
「わたしを遣わされた父が、わたしと共におられる。」
──おお、なんという宣言でしょうか!
なんという言葉でしょう!
「父がわたしを遣わされたとき、
父はわたしと共に来られた。」
そしてこう続けられました:
「父がわたしを遣わされたように、
わたしもあなたがたを遣わす。」
──そうです。
主はただ「あなたを遣わす」のではありません。
「共に行く」と約束してくださっているのです。
「わたしは、世の終わりまで、
あなたがたと共にいる。」
──そう語られました。
神にあるすべてのものは、キリストに注がれました。
そして、キリストにあったすべてのものは、
信じる者、すなわち教会のうちに注がれたのです。
だからこそ──
神は、あなたと共におられるのです。
「見よ、わたしは世の終わりまで、
あなたといつも共にいる。」
これが、神のことばの宣言です。
これが、聖書に書かれていることです。
そして、これこそが、私の信じていることです。
23. たとえ私たちが一人で立たなければならないとしても──
それでも立ちましょう。
なぜなら、それは神のことばだからです。
歴史の中で、何かを成し遂げたすべての人は、
自分の確信だけを頼りに、一人で立ったのです。
そこには「パートナーシップ」はありません。
ただ一人、共に歩んでくださるお方がいます。
それは、その約束を語られたご自身──主イエス・キリストです。
主は、あなたと共に谷を歩み、
茨の中をも、山をも、
どこまでもあなたのそばで進んでくださるお方です。
だからこそ、主と「くびき」を共にしてください。
主は言われました──
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い。」
世のものと、くびきを共にしてはいけません。
この世の組織や制度と結びついてはいけません。
あなた自身を、ただ一人──
主イエス・キリストとだけ結びつけなさい。
そうすれば、あなたは立つことができます。
信じなさい──
そして、復活を見なさい!
24. さて、あの使徒たち──
彼らは実際にイエスと共に歩き、
イエスと交わり、日々同行していた人間たちです。
けれども、彼らはそのイエスが「誰であるか」を認識し損ねていたのです。
イエスは言われました:
「盲目なパリサイ人たちよ!」
そしてこう続けられました:
「あなたがたは神の戒めを取り上げながら、
その効力をあなたがたの伝統によって無効にしてしまっている。」
──そうです。
彼らは教師であり、学者であり、
神学校の出身者たちでした。
聖書には、キリストが来られる方法が明確に記されていたにもかかわらず、
彼らの「伝統」はそれをその通りに教えていなかったのです。
それどころか、彼らはその箇所をこすり消そうとし、こう言ったのです:
「それは昔の話だ。」
「これは未来のことだ。」
──しかし、神はそんな言い訳に関係なく、
そのまま現れてくださったのです!
そして今も──当時とまったく同じことが起きています。
人々は、聖書のこの部分を横に置き、
あの部分も横に置き、こう言います:
「神は昔はなさったかもしれないが、今はもうなさらない。」
「これは、今の時代のためではない。」
──けれども、聖書はこう言っています:
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも、同じです。」
これこそが、私たちが真理として信じ、受け入れていることなのです。
主はご性質において同じ方です。
その力においても、同じ方です。
その愛においても、同じ方です。
あらゆる点において、
あの時代とまったく同じお方なのです!
そして今──
主は教会と共におられます。
父なる神がイエスを遣わし、
イエスと共に歩まれ、
そして三日目によみがえらせたように──
神がイエスと共におられなければ、
イエスはよみがえることはできなかったでしょう。
けれども、父なる神はイエスと共におられ、
墓までも同行され、
そして三日目にイエスをよみがえらせたのです。
だから、主は言われたのです:
「父がわたしを遣わされたように、
わたしもあなたがたを遣わす。
わたしは、あなたがたと共におり、
あなたがたのうちにおり、
世の終わりまで、共にいる。」
そして、私たちの復活の朝──
私たちの「イースター」が来るその時──
神はあの朝とまったく同じように、
そこにおられるのです。
25. さて──これを象徴として、主はこのことを示されました:
復活があるためには、まず「死」がなければならない。
復活とは、「あるものがいったん無くなり、
そしてもう一度よみがえること」を意味します。
「よみがえり」とは、戻されることなのです。
ですから、人がキリストと共に復活するためには、
まず自分自身に死ななければならないのです。
この世のつながりに死に、
この世の習慣に死に、
不敬虔なあらゆるものに対して死に、
そして新しく生き返らなければならないのです。
そうして初めて、
「自分自身が空になり、聖霊がその空間を満たす」ことが起こります。
自分を空にし──
そして聖霊が入ってこられるとき、
その人は初めて、神を信じる者となるのです。
その時、彼は神の目で物を見るようになります。
教師の目でもなく、
教会会員の目でもなく──
神のまなざしで見るようになるのです。
そのとき初めて彼は、
「イエス・キリストはきのうも、きょうも、
いつまでも変わる事のない方である」ことを見ます。
そのとき彼は、
神の力は今もなお、昔と同じほど偉大であることを見るのです。
しかし──
もしその人がまだ「肉の状態」のままであれば、
いくら教育を施し、
磨き上げ、
奨学金を与え、
最も素晴らしい教会に通わせ、
最上の席に座らせ、
立派な会員の仲間入りをさせても、
何も変わりません。
最初に「死に」、
そして「新しくよみがえらなければ」
その人は決して変わることはないのです。
そして、その人を呼び出し、遣わした聖霊が、
その人と世の終わりまで共にいてくださるのです。
アーメン!
──ショッキングに聞こえるかもしれませんが、
これは真理です。
26. ですから──
もし今日、キリストが私たちのうちにおられるならば、
地上におられたときと同じことを行われるはずです。
もし、主イエスが本当に死からよみがえられ、
今日も私たちの間に生きておられるのであれば──
そして主がこう言われたのなら「わたしがしていることを、
あなたがたもするようになる。わたしは、世の終わりまで、
あなたがたと共にいる。」
──ならば、
主がよみがえられたかどうかを証明する方法は、たった一つです。
それは──そのことを信じる教会を通して、
キリストご自身が「同じ復活の力」でご自身を現わされること。
それしかないのです、皆さん。
キリストの復活が真実であるならば、
それは「今」も、教会のただ中で現実でなければならない。
キリストは生きておられ、
信じる教会においてご自身のわざをなされるのです。
これが「証し」なのです。
27. この書(聖書)は、神のことばか、あるいは人を欺く本か──
どちらかです。そうです。正しいか、間違っているか。
しかも、一部が正しいのではなく、すべてが正しいか、すべてが誤りか──
そのどちらかです。
すべてのことばが霊感を受けているか、まったく霊感を受けていないか。
私は、すべてが神のことばであると信じたいのです。
パウロはこう言いました:
「私は、巧みなことばや人間の知恵によって、
あなたがたに語ったのではない。
もしそうしていたら、
あなたがたの信仰は“人間の知恵”の上に築かれてしまう。」
「しかし私は、神の力の福音、
主イエスの復活を語った。
それは、あなたがたの信仰が堅固なものとなるためだ。」
パウロは、
神学校の洗練された理論や飾り立てた知識を持ってきたのではありません
でした。加えたり、削ったりすることもありませんでした。
彼はこう言いました:「私は、ただ一つのことだけを知っている。
それは、キリストが十字架につけられたこと。それだけを私はあなたがた
に語る。私はただ、キリストの復活の力を宣べ伝える。
キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じお方であると。」
そして、ガラテヤ1章8節で、こう断言しています:
「たとえ天使であっても、
私たちが宣べ伝えた福音以外のものを語るなら、
その者はのろわれよ。」
──その通りです。
28. それでは、こう問いましょう──
「主は、ほんとうによみがえられたのか?」
今朝、私たちはこの問いをもって、ここに来ているのです。
世界中で、今日、イースターの儀式が行われています。
ある人たちは、ロザリオの数珠を持って祈りを繰り返しています。
──それはそれで良いでしょう。
またある人たちは、自分たちが属している大きな教団のことを
誇っています。──それも彼らの自由です。
中には、立派な十字架や、豪華なピアノやオルガンを設置し、
美しい教会堂を建てて、こう言う人もいます:
「見てください。私たちの教会には、この町で最も
立派な人々が集まっています。」
──それも構いません。それぞれのやり方があります。
けれども、私が知りたいのは、ただ一つ──
主イエスの復活だけです。
たとえそれが納屋の中であっても、
馬小屋の中であっても、
どこであってもかまわない。
私があなたがたの間で知りたい、そして語りたいのは、
ただ主イエスの復活だけなのです。
あなたがどれほど「良い人」か──
そんなことは聞きたくありません。
なぜなら、もともと私たちは「良い」者などいないからです。
人は皆、神の恵みによってのみ生かされているのです。
だから私が知りたい唯一のことは、
「主イエスの復活が、その人の心に起こっているかどうか」
それだけなのです。
もしキリストが、死んだままなら──
けれども、そうではなく「よみがえられた」ならば──
今も私たちと共におられるのです!
そうであるなら、
主がこの地上におられたときに行われたことを、
今も再びなさる責任があるのです──
ご自身がそう約束されたからです。
そうです、主はその御言葉に従って、
同じみわざを今も地上において現されるのです。
29. さて、イエス様がこの地上におられたとき、
ご自身を「偉大な癒し主」と主張されたでしょうか?
──いいえ、そうではありませんでした。
イエス様は、「わたしは癒し主ではない」と言われました。
こうおっしゃったのです:
「わたしは自分からは何も行わない。
父がなさるのを見る時にだけ、それをわたしも行う。」
──それが、イエス様のなさり方だったのです。
たとえば、ベテスダの池のそばには、
多くの病人や障がいを持った人たちが横たわっていました──
目の見えない人、足の不自由な人、ねじれた体、
萎えた手足……
彼らは皆、水が動くのを待っていたのです。
そこへ──
インマヌエル、イエス様がやってこられたのです。
そのお方の衣には、癒しの力が満ちていました。
その数日前──
一人の女性が、その衣にそっと触れました。
すると、彼女はすっかり癒されたのです。
彼女はそのまま群衆の中に紛れて、座ったか、
どこかへ行ってしまいました。
でもイエス様は、突然立ち止まって、まわりを見渡し、こう言われました:
「わたしに触れたのは誰か?」
弟子たちは驚きました。
「先生、ご覧ください。群衆が押し合っています。
みんながあなたに触れていますよ。」
でもイエス様は言われました:
「いや、何かが起きた。
わたしは、力が出ていくのを感じたのだ。」
そしてイエス様は、群衆を見渡してその女性を見つけ出し、
こう言われたのです:
「あなたの信仰が、あなたを癒した。」
──彼女の信仰が、イエス様に触れたのです。
それが、昨日のイエスです。
それが、今日のイエスです。
そしてそれが、いつまでも変わらないイエスです!
癒しが必要とされる限り、
そこには癒すイエスがおられます。
罪人が救いを必要としている限り、
そこには救うイエスがおられます。
それが、イエス・キリストなのです!
30. イエス様が、大勢の群衆の中を通り抜けて、
たった一人、床に寝ていた男性を癒され、
そのまま歩き去られたとき──
ユダヤ人の弟子たちや人々はこう言いました:
「見てみろ、あんなにたくさんの人がいるのに、
なぜ彼はこっちの人を癒さないんだ?
もしそれをしてくれたら信じるのに……」
──そんなふうに彼らは疑問を投げかけたのです。
そして、彼らはその癒された男が安息日に床を担いでいるのを見て、非難しました。
そのときイエス様は、こう答えられました:
「まことに、まことに、あなたがたに言います。
子は、自分からは何もすることができない。」
──見てください。
イエス様は、すべての栄光を父なる神に帰されたのです。
本物の神の御霊を受けた者は、必ず同じように、
すべての栄光を神にお返しします。
イエス様はこうも言われました:
「子は、自分からは何もできない。
父がなさるのを見て、それと同じことをするのだ。
父がなさることを、子に見せてくださり、
それをわたしが行うのだ。」
──これが当時のイエス様であったなら、
今日もそれは変わることがないイエス様であるはずです。
その通りです。
イエス様は、人々の集まる会衆の中に立ち、
彼らの思いを見抜かれました。
何が問題であるかを、心の中まで知っておられました。
そして何度も、群衆を見渡してこう言われました:
「なぜあなたがたは、心の中で別の事を考えるのか?」
31. あるとき、一人の女が井戸に水を汲みに来ました。
イエス様は彼女にこう言われました:
「わたしに水を飲ませてほしい。」
すると女は驚いて言いました:
「まあ……あなたはユダヤ人なのに、
サマリア人の私に、そんなことを頼むのですか?
私たちには交わりがありませんのに。」
イエス様はこう言われました:
「もし、あなたが今、誰と話しているかを知っていたなら、
あなたのほうからわたしに水を求めていたことでしょう。」
彼女は言いました:
「どうして、そんなことがあり得ましょうか?」
するとイエス様は、こうおっしゃいました:
「あなたの夫を呼んできなさい。」
彼女は答えました:
「私には夫はいません。」
するとイエス様は言われました:
「その通りです。
あなたには今まで五人の夫がいましたが、
今一緒に暮らしている男は、あなたの夫ではありません。」
これを聞いて、彼女は驚き、こう言いました:
「先生、あなたは預言者だとお見受けします。
……でも、私は知っています。
メシアが来られるとき、
その方は私たちにすべてのことを教えてくださる──
そう信じています。」
「でも……あなたは一体、誰ですか?」
イエス様ははっきりとお答えになりました:
「それは、今あなたと話している、このわたしです。」
──これです。
これが、「メシアのしるし」だったのです。
アーメン。
ところが、人々はそれを正しく理解できませんでした。
そのしるしの意味がわからず、かえって目がくらまされてしまったのです。
主の奇跡や御業が、かえって人々の目をくらませたのです。
──そして、今日も同じことが起きています。
霊的に鈍くなった人間の思い(肉の思い)は、
神のなさることを理解できません。
肉の思いは、神に敵対するものだからです。
人間の思いは、神に対して敵であり、神の御心には従わないのです。
だからこそ、あなたは自分自身の思いから離れなければならない。
あなたは聖霊によって新しく生まれ変わり、
神の思いを自分の中にいただかなければならないのです。
そうして初めて、あなたはこれらのことを信じることができるのです。
そしてそのとき、これらのことはあなたにとって現実
(リアル)となるのです!
アーメン!
32. さて、よく注意してください。
主イエスがこの地上におられたとき、
主は数々の御業を行われました。
そして、復活された後に弟子たちにこう言われました:
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
このとき、彼らの目が開かれたのです。
彼らは、ようやくその意味を悟ったのです。
でもその前はどうだったでしょうか?
ペテロは、主イエスと親しく共に歩み、語り合い、奇跡も見ていたのに、
主が十字架で死なれ、埋葬されたあと、こう言ったのです:
「ああ、私はもうがっかりしてしまった。
……もう漁にでも出ようかな。」
彼の周りにいた他の弟子たちもこう言いました:
「それなら私たちも一緒に行こう。」
こうして彼らは、網を持ち出して昔の生活に戻ろうとしたのです。
がっかりして、打ちひしがれていたのです。
彼らは、かつては信じていました。
しかしそれは、頭での理解(理論的信仰)にすぎなかったのです。
信じてはいたけれど、
ほんの小さな試練が来たときに、
その信仰は跡形もなく崩れ去ってしまったのです。
33. さて、ここで私は、あなたを傷つけるためではなく、
愛をもってあなたを正したいと思っています。わかりますか?
これは、知識だけの信仰しか持っていない人がどうなるか、
その現実をよく示しているのです。
たとえばある人が言うでしょう:
「うん、それは神の御言葉だよ。
そうさ、神がイエスを今日復活させたと信じてるよ。」
……でも、それだけだったとしたら?
もしそれが頭の中だけの同意にすぎなかったとしたら?
ほんの小さな失望や教会内でのつまずきが起こったとき、
あなたはどうなるでしょうか?
……そう、あっさりと教会を離れてしまうのです。
あなたは、イエスの友であるかもしれません。
でも、「復活の力によって生きるイエス」を知ってはいないのです。
しかし、見てください。
ペンテコステ以降のペテロは、一度たりともそんな弱気な言葉を
口にしていません。
人々が彼を殺そうとしたとき、
彼を十字架にかけようとしたとき——
彼はこう言ったのです:
「私は、あの方と同じように死ぬには値しません。
だから私を逆さまにしてください。」
そうして彼は、頭を下にして十字架にかけられたのです。
なぜなら——
以前、彼は「キリストと共にいた」にすぎませんでした。
けれどもペンテコステの後は、「キリストがペテロのうちにおられた」
のです。
そして、かつてペテロが先頭に立っていたのに、
今では聖霊が前を歩き、ペテロはそれに従う者となったのです。
34. もしあなたがただ「理屈」を持っているだけなら――
つまり、「良い考え方」をして、座って聖書を読みながらこう言うなら:
「どうして死人がよみがえることなんてできるんだろう?」
「こんな科学の発達した文明社会で、
いまだに奇跡や癒しなんてあるはずがないじゃないか?」
……そんなふうに「理屈」で神を理解しようとするなら、
あなたはどんどん神から遠ざかっていくばかりなのです。
なぜなら、
神は“理屈”では知ることができない方だからです。
神は、「信仰」によって知られるのです。
信じて受け入れること。
それが、神を知る唯一の方法です。
でもそれだって、自分で頑張って信じようとしたって、うまくいきません。
心の中で“何か”が起こらない限り——
そうです。
聖霊があなたの中に来てくださるまで、
本当の信仰は始まらないのです。
するとどうなるか?
あなたはキリストの御心を持つ人になる。
キリストのような心、キリストのようなものの見方、感じ方、考え方を持つようになる。
35. ご覧なさい。
あの夜、彼らは一晩中漁をしました。でも、一匹も釣れなかったのです。
どれだけ落胆したことでしょう。
そして次の朝——
日の出の礼拝の時、
彼らが岸の向こうを見たとき、イエス様がそこに立っておられたのです。
でも……彼らにはそれがイエス様だと分からなかった。
それが悲しいことです。
一番必要なときに、主がそこにおられるのに、
それが分からない。
またある夜のこと、
小さな船は嵐にあって、沈みそうになっていました。
すると、あの愛する主が、波の上を歩いて彼らのもとに来られたのです。
でも彼らはこう言いました:
「あれは幽霊だ!怖い!近寄らないでくれ!」
なんと皮肉でしょう。
彼らを助けることができる、ただひとつの存在がそこに来ていたのに——
彼らはそれを恐れて拒んだのです。
36. 今日、まだ聖霊を受けていない方々に申し上げたいことがあります。
教会の世界には、たしかにまがいものがあります。
聖霊を受けたふりをしている人たちも、実際には受けていないということ
がある。ええ、それは事実です。
でも、それはあなた方の側にもあることです。
「教会の一員です」と言いながら、本当はそうでない人がいるでしょう?
それと同じです。本物があれば、偽物もあります。
陰(ネガ)があれば、陽(ポジ)もある。
偽札があるということは、本物の通貨も存在しているという証拠です。
ですから、「聖霊を受けた」と偽っている人がいる一方で、
真実に聖霊を受けた人も確かに存在しているのです。
忘れないでください。
そして今、
あなたを本当に助けられる存在、
あなたを中毒や恐れ、混乱という牢獄から解き放つことができる存在——
それが、すぐそばに立っておられるのです。
あなたを癌から救い、
もう一度「生ける者」として歩ませることができるお方。
終わりの日にあなたを甦らせるお方が、今すぐ近くにおられるのに、
あなたは恐れてしまっている。
恐れないでください。
それは……主ご自身なのです。
37. 「わたしだ」と、主は言われました。
「恐れることはない。わたしだ。」
けれども彼らは、その言葉を信じきれず、恐れていたのです。
主がそう言われても、そのまま受け取るのが怖かった。
「恐れるな。わたしだ」とイエスは言われました。
そして、イエスは彼らに尋ねられました。
「魚はあるか?」
彼らは答えました。
「ありません。夜通し漁をしました。」
やがて彼らが岸に着くと、そこにはすでに魚が焼かれ、食卓に並べられていました。
その奇跡によって、彼らはそれがイエスであると知ったのです。
38. もうふたりのことを思い出しましょう。エマオの道を歩いていたふたりです。
終わりに近づいていますので、よくお聞きください。
復活の後、エマオへの道を歩いていたふたりがいました。ひとりはクレオパ、もうひとりは彼の友人でした。
それは、このような美しい安息日の朝、つまり最初のイースターの朝でした。
よく聞いて、御言葉をしっかりと心に留めてください。備えてください。
彼らはその最初のイースターを迎えていましたが、心が沈み、落胆していました。
大きな失望があったからです。
今日ここにいる方の中にも、何か失望や悲しみの中でこのイースターを迎えている方がいるかもしれません。
でも、どうか忘れないでください。
主イエスは、今日、墓からよみがえっておられます。
今も人々の中に生きておられるのです。
39. 学校に通っていた頃、私は何度も植物学を学びました。
私は昔からずっと植物学に興味がありました。
でも、私にとって植物学とは、ただ植物そのものを研究すること
ではありません。
植物がどのように芽を出し、太陽の光を受けて育つのか――
そうした自然の営みを見ることで、
それを創られたお方――「創造主ご自身」に思いを向けることなのです。
ああ、なんと美しいイースターの花々でしょう!
よく見てください、この美しい花たち。
誰かがこれらの花の顔をじっと見つめながら、
「神なんていない」と言えるなら――
その人は心の健全さを失っていると言わざるを得ません。
40. 彼らは今、落胆してエマオの道を帰っていました。
「私たちは従い始めた。うまくいくと思っていた。
でも、もう家に帰るしかない……」
そう言って、失望のうちに歩んでいました。
――しかし、そのとき、
彼らの会話は正しかったのです。
彼らは主イエスのことを語っていた。
だからこそ、主が現れてくださったのです。
けれど、今日、多くの人々に主が現れない理由はこれです:
彼らの会話が、キリスト以外のことばかりになっている。
「いつ仕事が終わるかな」「何をすべきか」「どこへ行くか」
そんな話ばかりで――主ご自身のことを語っていない。
イエス様のことを話すときこそ、主は現れてくださいます。
主を語ること、それが鍵なのです。
彼らは、主のことを語っていました。
彼を愛していました――
でも、復活されたことをまだ知らなかった。
今日も同じです。
世界中の大きな教会に集う多くの人たちが、主を心から愛してはいるが、
彼が今も生きておられることを本当には知らない――
そういう人が、実に多くいるのです。
41. 気づいてください。
彼らが歩いていると、茂みの陰から一人の見知らぬ人が現れて、
「おはよう」とでも言ったのでしょう。
彼らは悲しみに沈んでいました。
「私は彼を愛していた。
ラザロの墓の前に立ち、4日も死んでいたラザロに『出てきなさい』
と命じたそのお方。
あんなお方が、どうして失敗することがあろうか?
どうして私たちを見捨てられたのだろう?
…もう、恥ずかしくて、悲しくて。
漁師や大工の仕事に戻るしかない。」
――これが現代のクリスチャンの姿そのものではないでしょうか?
癒しが起これば、勝利の歓声が上がる。
聖霊が注がれれば、感動と涙に包まれる。
でも、本当に聖霊に満たされた人は、その後の人生の旅路でも変わらず
主に満たされ続けるのです。
しかし、まだ肉の思いで歩んでいる人は、
ちょっとした失望や問題が起これば、すぐに心が離れてしまう。
「思っていたのと違った…この教会は大丈夫だと思ったのに…
あの人は信頼できると思ったのに…」
――それは、目を向ける先が違っているのです。
失敗しないお方、イエス様に目を向けなさい。
会話の中心を「教会」や「人」ではなく、「主」にしなさい。
隣人の話ではなく、主の話をしなさい。
あなたの会話がキリストに満ちるとき、そこに主が現れてくださるのです。
42. 彼らが道を歩みながら語り合っていたとき、
突然、ただの“普通の人”のように見える男が現れました。
彼は学者ではなく、有名な教師でもなく、
教育も受けていない。学校にも通ったことがない、
少なくとも人々はそう見ていました。
でも――彼の持つ知恵は、この世で誰よりも深く、確かなものでした。
ファリサイ人たちは驚いて言いました。
「この人は、どこの学校を出たのか?
どこから来た?
この言葉はどこで学んだ?
我々の神学校を出ていない。
我々の言葉遣いとも違う。
どうしてこんなことが語れるのか?」
彼が“彼らのグループに属していなかったから”彼らはつまずいたのです。
イエスはどこにも属さず、ただ神として際立っておられた。
そして、彼はこう言われました。
「わたしを信じられないなら、わたしのしているわざを信じなさい。
それが、父がわたしを遣わした証拠なのです。」
彼はこうも言わんばかりでした。
「私の教育や学位、学歴があなたがたの期待に沿わないのなら――
でも、わたしがしているわざ、それこそが私の“証書”だ。
わたしの卒業証書は神から来たものだ。
それこそが、父がわたしを遣わしたという“証明書”なのだ。」
そして、こう締めくくられました:
「それで十分でないのなら、せめてその“わざ”を信じなさい。」
――神よ、私たちにもそのような“証明書”を与えてください。
人の学びによらず、神の働きによって証明される歩みを。
43. では、よくご覧ください――主イエスの様子を。
ああ、私は主が大好きです。
彼が彼らと共に歩いておられるその姿を思うとき。
そして、こう尋ねられました。
「なぜそんなに悲しんでいるのか?
なぜそんな気持ちでいるのか?
こんなに美しい日なのに。見てごらん、この景色を。」
彼らは答えました。
「ええ、でも……私たちは“信じていた”んです……
あなたはこの辺の人じゃないんですか?
“ナザレのイエス”のことをご存じないのですか?
神によって認められ、大きな奇跡をされた方で、
私たちは彼について3年半も従ってきたのです。
それなのに、ピラトは彼を十字架につけて、
墓に葬ってしまいました。
私たちは、彼こそが王になると望んでいたのです。
なのに、彼は今、あの墓の中に……。」
そのときイエスは言われました。
「あなたたちは聖書を知らないのか?」
――ああ、私はこの言葉が好きです。
そしてイエスはどうされたか?
“まっすぐに”聖書へと向かわれたのです。
彼の言葉の正しさを証明するために。
本物の神の霊を受けた人は、いつも聖書に立ち返ります。
自分の思いではなく、神のことばに基づいて語るのです。
44. では、主は何をされたのでしょう?
旧約聖書――モーセの書にさかのぼり、
モーセや預言者たちが「キリストは来られる」
「苦しまれる」「何をされるか」と語っていたことを
一つ一つ、丁寧に彼らに教え始められたのです。
そして主はこう言われました。
「あなたたちは知らないのか?
あの御言葉が、今生きていることを。
キリストは死からよみがえられるべきだったと、知らなかったのか?」
彼らはこう答えたのです。
「いいえ、知りませんでした。」
――良い人たちでした。主を愛していたのです。
けれども、よみがえられたことを知らなかった。
そして今日も、まったく同じです。
兄弟姉妹よ、どうか神様があなたの心の奥底を
目覚めさせてくださいますように。
多くの人は、イエス様がよみがえられたことを本当には分かっていません。
主は死んでおられません。
主は生きておられます。
45. 主は、姿を変えて現れられたのです。
そのときの弟子たちは、「普通の人」だと思っていた。
でも、主はこうされるのです:
「あなたの隣人の姿で現れるかもしれない。
母親や牧師の姿かもしれない。
誰か親切な人として、あなたに語りかけるかもしれない。」
だからこう語られました:
「これらの最も小さい者にしたことは、わたしにしたことだ。」
そう考えると、すべての人を
敬い、優しく、誠実に扱うべき理由が見えてきます。
なぜなら――
「キリストはあなたのうちにおられる」
「キリストは人を通してあなたに語られる」からです。
そしてこう続きます:
聖霊が私たちのうちを動き、
隠された罪を探し出し、私たちがそれを告白するならば――
主がそれを十字架の血できよめてくださる。
それはただの教理でも、空論でもなく、
「今生きて働いておられる主の現実」なんです。
アーメン。
46. そして彼らが歩いているうちに……(さあ、よく見てください)
もう夕暮れ時になっていました。
ああ、私はこの箇所が本当に好きです。
もう少し時間があれば……
ああ、そんなに長く話していたとは思いませんでした。
夕暮れが近づいていたのです。
そろそろ終わりますね。さあ、よく聞いてください。
主は、まるでそのまま先へ行こうとしているように見せかけられました。
でも、彼らは強く願って、主を家に招いたのです。
私は思います。
今の私たちは、どれほど強く主を引き止めているでしょうか?
あなたは今、どれくらい真剣に願っているでしょうか?
「主よ、よみがえられた方よ、
どうか、私の心に入ってきてください。
私はあなたを信じたいのです。」
「私は、ずっと中途半端な信仰生活を送ってきました。
知識として、理性で信じる信仰でした。
でも今、私はあなたを“復活の力”のうちに知りたいのです。
この人生で準備をするのは、今このときだけです。
やがてこの頭を最後に横たえるとき、
もう一度立ち上がることがないそのときに、
私はあなたを確かに知っていたいのです。
もう推測や仮説ではなく、
確信として、あなたを知りたいのです。
どうか、私の中に入って、私とともにとどまってください。
日はすでに傾きましたから。」
47. 見てください。彼らが家に入って、扉を閉めたとき、
ようやくイエス様は彼らに語ることができたのです。
そしてそのとき、主はこの人たちをまったく違う存在に変えられました。
岸辺に立っていたときには、彼らはイエス様を見ても分からなかった。
あれほど長く一緒にいたのに、気づかなかったのです。
でも、一度キリストが彼らの「内側」に入ったとき……
――これはとても重要です――
キリストが「外側におられる」状態で、
ただ聖書を読んで「うん、たしかにそうだね」と言うのではなく、
「内側」におられて、「そうだ、まさにその通りだ」と心の内から
語られる状態。
これ、違いが分かりますか?
“キリストが内におられる”こと。
そして、主が彼らとともに内におられるとき、
戸が閉められて、外の世界と切り離されたときに、
主は御自身を「ある方法」で現されました。
それは、パンを取って、それを裂いたときのこと。
そのとき彼らは見ました。
「この裂き方……このことができるのは、ただお一人しかいない!
それは主だ!」
説教の組み立て方でもなく、
今風の格好をしていたからでもなく、
ただ、主が“ある方法”でなさった、そのやり方で――
彼らは主だと気づいたのです。
その瞬間、彼らの目が開かれました。
彼らはようやく、主だと分かったのです。
数日前、あの弟子たちさえも気づかなかった主の姿。
主と一緒にいながら、見分けることができなかった。
でも、“一度キリストと共に中に入った者”たちは、
主が誰であるか、確かに知ったのです。
主を「外で見ているだけ」の信仰から、
主と共に「内に入る」信仰へ――
そこに、本当の啓示と命があります。
48. そして皆さんに、よく注意してほしいことがあります。
最後にお話しする前に――どうか注意深く聞いてください。
とても早朝のことでした。
マグダラのマリヤとマルタが、一番に墓に行ったあの朝、
(いいですか?よく聞いてください)
その朝一番に、キリストは「早起きの者たち」にご自身を現されたのです。
しかしその日一日を通しては、
再びご自身を現すことはありませんでした。
そしてそれから「夕暮れ時」になって、
もう一度、主はご自身を明らかにされたのです。
なぜなら、主はアルファでありオメガであるからです。
「夕暮れ時には光があるだろう。
栄光への道は、きっと見つかる。」
(※引用:「It shall be light in the evening time.」ザカリヤ14:7に由来)
主イエス・キリストは、
初めの時代――使徒たちとともにあった時代――に、
復活の力と共にご自身を人々に現されました。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネたちが行った奇跡としるし、
それを通して、主は「ご自身の復活の力」によって、
人々にご自身を知らせたのです。
それは事実ですね?
主は、そのようにしてご自身を明らかにされたのです。
49. さて、私たちは大きな時代を通り抜けてきました。
その「日(時代)」は、すでに過ぎ去りました。
偉大な教師たち――聖アウグスティヌス、
マルティン・ルター、ジョン・ウェスレー、カルヴァン、ノックス、
そして、メソジストの時代、バプテストの時代、ナザレン派の時代、
ピルグリム・ホーリネス、
ペンテコステ派の時代――そうしたすべての時代を通ってきたのです。
それらの時代はすでに過ぎ去りました。
太陽は沈もうとしているのです。
主はこう言われました:
「夕暮れ時には光がある。」
預言者は言いました:
「ある一日が来るだろう――
それは昼でもなく、夜でもない、ただ霧のような日だ。」
50. そして今日、この世界が歩んできた道は、主イエスの復活の朝から
ずっとそうなのです。
最初の教会時代――エペソの教会時代から始まりました。
その最初の時代において、神はご自身を、しるしと不思議と
奇跡によって明らかにされました。
しかしそれは、初代教父たちの時代には薄れていき、
カトリック教会を通り、宗教改革を経て、ここまで来たのです。
人々には、イエスが神の御子であると信じるだけの光は残されていました。
個人的な救い主として受け入れるだけの光もありました。
しかしそれは、しだいに薄れていきました。
そして暗い雲――暗黒の雲が世界を覆いました。
教師たちはこう言って人々を縛りつけました:
「奇跡の時代は終わった。
あのようなことは、ずっと昔に終わったのだ。」
それは暗い日でした。
まったくの闇ではなかったけれども――
何とか進む道は見えても、はっきりとは見えないような日々。
しかし、兄弟姉妹よ、
神は約束されました。
この西の世界で太陽が沈むとき――その時、再び光が輝くと。
この地球が存在する限り、それは確かに成就されるのです。
51. この聖書は東洋の書物です。
東洋の習慣に基づいて書かれ、東洋の言語で書かれています。
太陽は東から昇り、西へと沈みます。
そして、東の民たちは、最初の復活の時に神の訪れを受けました。
太陽は時代を超えて移動し、
文明もまた、東から始まり、西へと進んできました。
そして今、この西の地平線に太陽が沈もうとする直前、
再び光が輝くのです。
同じよみがえられた主イエスが、
初めのときにマグダラのマリヤたちに御自身を現されたように、
今この終わりの時にも、御自身の復活の力によって現れておられます。
私たちは、終わりの時代に生きているのです。
52. 彼は言われました――
「中にお入り。もう遅くなってきた。日はすでに傾いている。
入ってこないのかい。」
そして彼らは主を迎え入れました。
そして一旦中に入られたとき、主は彼らの目を開かれました。
主が何かを行われたのです。
彼らは言いました――
「あれは、あの方にしかできないことだった。」
彼らはその日一日ずっと迷って歩いていました。
(その姿はまさに、今日の宣教活動が十分に届いていない
現実を象徴しています。)
私たちは洗濯板の前で汗を流し、献金を送り、
海外宣教のために神学の教科書や小冊子を送ってきました。
けれど、そこには仏教、イスラム教、シーク教……
さまざまな宗教が、それぞれの神学を持って立っており、
心理学的な効果においては、キリスト教と同じような
影響力を持っているのです。
そして、今朝のこのイースターの日に、世界人口のわずか1/3しか
イエスのことを知りません。
残る2/3は、共産主義か霊的な闇の中にいるのです。
彼らはイエスの名も復活も聞いたことがないのです。
しかし――
エマオの途上での体験がクレオパに与えられたとき、
彼らの目が開かれ、主を認識したとき――
わずか数分のうちに、
彼らはエルサレムへと喜びに満ちて走って戻っていき、
こう叫んだのです:
「主が本当に生きておられると、私たちは知っています!
見たのです!本物です!」
これが終わりの時代なのです。
神はメッセージと力を携えた人々を立てられ、
福音の力によって人々を解放し、
こう証されます:
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、
いつまでも変わることがない。」(ヘブル13:8)
(※この最後の部分でテープが切れていたようです。)
53. たしかに興奮しているように聞こえるかもしれません――
でも、当然です。
私たちは、今、興奮に満ちた時代に生きているのです。
そうです、終わりの時代に生きているのです。
神は、
旧約のすべての聖なる預言者たちを通して、
新約の御言葉のすべてを通して、
こう預言されてきました――
「終わりの時には、初めに起こったことと同じことが再び起こる。」
そして、
暗闇が逃げ去り、
福音の光が、
再びこの地を照らす――
主イエスの再臨の前に。
主イエスは、死からよみがえられました。
昨日も、今日も、そして永遠に変わらないお方です。
イエス・キリストは今も生きておられ、私たちのただ中におられます。
私はそれを思うと、
言葉にできないほど心が震え、感謝に満たされます。
なぜなら――
もはや私たちは「推測」する必要がないのです。
これは真理なのです。
54. 神の祝福がありますように、友よ。
もしあなたがまだそれを知らないなら――
このメッセージを誰が語っているかに気を取られず、
何が語られているかに注意を向けてください。
これは、キリストの外にいるあなたに向けられたメッセージです。
もしあなたが、
キリストの復活の力のうちに主を知らないのなら、
ただの頭の理解や神学的な知識にとどまっているのなら――
あなたの心がまだ、
空っぽの墓のように、
この世の古い死んだものを捨て去っておらず、
キリストが新しくよみがえっておられないなら……
今朝、神よ、疑いの石を転がしてください。
取り除いてください。
そして、どうかキリストが
あなたの心の中によみがえり、
あなたを新しい人へと変えてくださいますように。
私は信じます。
まもなく主は現れて、
この地上でなさったあのわざを、もう一度されることでしょう。
それでは、祈りましょう。
どうぞ頭を垂れてください。
55. 天の父なる神様、
夜が近づいてまいりました。
時はすでに過ぎようとしています。
しかし主よ――
まさに時が過ぎようとしたその時、あなたは現れました。
私たちは、あなたの聖なる御言葉に感謝いたします。
私たちが語り、信じているこの福音に感謝いたします。
そして、あなたご自身がこの福音が真実であることを
証ししてくださったことを感謝いたします。
主イエスよ、
どうか失われた魂に語りかけてください。
ここにいる多くの方々は、確かにあなたを愛しています。
けれど、
心からあなたを受け入れたことはまだないのです。
日々あなたは彼らと共に歩んでくださいました。
事故から彼らを守ったのは、あなたでした。
嵐の夜に家が吹き飛ばされずに済んだのも、あなたでした。
困難な時にそばにいてくださったのも、あなたでした。
仕事がなかった時に与えてくださったのも、あなたでした。
愛する者が墓に葬られた時に慰めを与えてくださったのも、あなたでした。
ずっと共にいてくださったのに――
それでも、彼らはまだあなたを本当に知っていません。
どうか主よ、今日という日に、
キリストの外にいるすべての人が、
エマオへの道を歩いたクレオパとその友のように告白できますように――
「私たちと共にお泊まりください。
わたしの人生の一日はもうほとんど終わりました。
どうか今、内にお入りください。
あなたの道を、わたしの中に現してください。」
アーメン。
56. 頭を垂れているこの時に――この中に、あるいは外におられる方で――「今朝、私の心に何かが起こった。確かに何かが動き始めている。私はもう元のままではいられない」と、神に向かって手を上げて言われる方はおられませんか?
兄弟姉妹にではなく、神にです。
「私は今朝、この建物に入ってから何かが起こったと信じています。今、
イエス・キリストを心にお迎えし、私の救い主として受け入れます。
神よ、これが私にできるすべてです。信じていることをお伝えするために、
手を上げます」と。
手を上げてくださいますか?
神があなたを祝福されますように、兄弟よ。
他にもおられますか?
「私は今、主を受け入れます」と手を上げてくださる方。
神があなたを祝福されますように、姉妹よ。
それで良いのです。他にいらっしゃいますか?
あなたが手を上げる時、神は永遠のいのちを与えると約束されました。
「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、
永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、
死からいのちにうつっている。」(ヨハネ5章24節)
今、「主よ、私は信じます」と手を上げてくださいますか?
誰も見ていません――イエス様と私だけです。
ただ手を上げてこう言ってください。
「私は今、主を私の救い主として受け入れます。」
手を上げてくださいますか?
神があなたを、あなたを――そしてあなたを祝福されますように。
ああ、なんと素晴らしいことでしょう。たくさんの手が上がっています。
神が皆さんを祝福されますように。
それで良いのです。
それがあなたに何をもたらすのでしょうか?
それは“いのち”です。
あなたは主に向かって手を上げ、「私は信じます」と言いました。
イエス様はこう言われました――
「信じる者は決して罪に定められず、死からいのちへとうつっている。」
今、この瞬間、あなたは永遠のいのちを持っているのです。
それを思うと――嬉しくありませんか?
57. 祈る前に――もうお一人――「ブラナム兄弟、このイースターの朝に、
私は、たとえ主の現れの目に見えるしるしをまだ見ていなくても、
たとえ今後見ることがあったとしても、その前に、
キリストを信じて受け入れます。
私はトマスのようにはなりたくありません。見てから、触ってから、
確かめてから信じるのではなく、今、何も見ずに信じます。
主は言われました、
『見ないのに信じる者たちは、なんと幸いであるか』と。
もうお一人、そうされる方はおられませんか?
中におられる方でも、外におられる方でも――その手を主に向けて
上げてください。
神があなたを祝福されますように――あなたも、あなたも、あなたも。
姉妹よ、神があなたを祝福されますように。
姉妹よ、神があなたを祝福されますように。
では、頭を垂れて祈りましょう。
58. 天の父なる神様、
あなたはこう仰せられました――
「御言葉を宣べ伝えよ。時が良くても悪くても励め。忍耐と教えを尽くして
責め、戒め、勧めなさい」と。
私たちは、あなたが託してくださった福音以外を語ることはいたしません。
キリストは、聖書の言葉どおりに、私たちの罪のために死に、
三日目に甦られ、今は天の高き御座において、栄光の御父の前におられ、
私たちの告白のうえに執り成しをしてくださっています。
これは主の御言葉です――
「わたしの言葉を聞き、わたしを遣わされた方を信じる者は、
永遠の命を持ち、さばきに遭うことがなく、死から命へと移されている。」
本日、この簡潔で切迫したメッセージの中で、
多くの人々が手を挙げました。
あなたは彼らをご覧になりました――
あなたが見落とすことなどあるでしょうか?
道に落ちる一羽の雀さえご存じのあなたが、どうしてこれらの魂を
お見逃しになることがあるでしょうか。
全能の神よ、
あなたはすべてをご覧になり、すべてをご存じであり、すべてをなさること
ができます。
ゆえに、あなたの御言葉に従って、これらの人々を罪から救って
くださったことを感謝いたします。
父よ、願わくは、
彼らの生涯が長く、喜びに満ちたものでありますように。
そのすべての日々を、あなたにお仕えできますように。
今夜、まだバプテスマを受けていない者がいれば、
どうか来て、主の御名を呼び求め、バプテスマを受け、
聖霊に満たされるように導いてください。
親愛なる神よ、どうかそれをお与えください。
キリスト・イエスのお名前によって、これをお祈りいたします。アーメン。
59. 天の父なる神様、
今、私たちはこの礼拝に臨んでいます。
私たちは、あなたの御言葉が決して失敗することがないと知っています。
「自分の町で、自分の民の中において、しもべが語る」と
あなたは言われましたが、
この十年間、二度もあなたはそれを実現してくださいました。
どうか、今日も再びそれを許してくださいますように。
今日はイースターです。私たちの心はすべて、イースターの思い、
復活のことに新たに浸っています。
今朝ここで二度も語られた福音の言葉を聞き、新たにその喜び
に満たされています。
どうか、私たちが今、あなたを見たいと思っていることをご理解ください。
そして、私は人々に、あなたがここにおられると伝えました。
あなたはそのようにおっしゃいました。
あなたはいつでもどこでも存在しておられます。
どうか今、私たちに触れ、器として使ってください。
貧弱な者ではありますが、私たちを通して働いてくださり、
ここにいる男性や女性、またあなたを受け入れたばかりの人々が、
彼らがしたことが偽りではなく、まさに主イエスであることを
理解できますように。
神よ、どうかそれをお許しください。
これをイエス・キリストのお名前によってお祈りします。
アーメン。
60. おお、なんということでしょう!
皆さん、いい気分でしょうか?
私は、たとえ疲れていても、心がすっかり洗い清められたような
気がします。御言葉はなんと栄光に満ちていることでしょうか。
さて、皆さん、
今日私は二度も説教をしましたが、もうそろそろ急がねばなりません。
明日は早朝に出発して、ワシントン州のタコマへ、
さらにカナダへと向かいます。
本当は飛行機で行って明日の礼拝に間に合うようにと言われていましたが、
もしかすると車で行くかもしれません。
ですから、どうか覚えていてください。
私がどれほど多くの説教を語ったとしても、
キリストがただ一つなさる御業には及ばないのです。
もしあなたがそれを見たならば、
私が千年かけてあなたに語るすべての言葉よりも、
そのたった一つの御業のほうが、はるかに価値があるのです。
61. さて、皆さんにお願いがあります。
どうか今、心から敬虔な思いでいてください。
多くの方が立っておられるのは分かっています。
疲れておられることでしょう。
でも、あとほんの少しの時間だけ、お付き合いください。
今、私はこの瞬間にこう言っていますが、
「必ずそうなる」と言っているわけではありません。
信仰によって、神にお願いしたのです。
そして今、私は神に願っています。
この場で、フィールドで行われているのと同じような集会を
ここジェファーソンビルでも行ってくださるようにと。
イエスが死人の中から甦られたことを、
この地の人々にも、はっきりと知っていただきたいのです。
これまでに、すでに二度、私たちはそれを経験しています。
(※訳注:「それ」とは主の御臨在と確認できる超自然の出来事を指しています)
62. 私は今日のこの後、再びこのタバナクルに戻ってこれるのがいつになるか、
わかりません。
でも私は、この小さな、古い教会が大好きです。
訪れた人にとっては、たいしたものではないかもしれません。
でも、この講壇にはまだ、私の指の跡が残っています。
12年間、ここで御言葉を語り続けてきた証です。
私は福音の中を、すでに23年歩んできました。
もうあまりにも遠くまで来てしまった。
今さら振り返ることなどできません。
あまりにも多くのことを見てきました。
人が何と言おうと、私にはわかっているんです。
私は知っているのです。 ええ、そうです、兄弟姉妹。
たとえ世界中が違うことを言ったとしても、
「私は、自分が信じている方を知っている」、
そして、「私が主にゆだねたすべてを、あの日まで、主は守ってくださると
確信しています」。
今この場にも、多くの友人たちが座っています。
外におられる方々もいます。
今日も、私の友人である医師の方々が数名、出席してくださっています。
63. 私は狂信者(ファナティック)ではありません。
ただ……もし、イエスの復活を信じることが狂信だというのなら、
私は狂信者です。
ええ、そうです。
私は心の底から信じています。
さて、これが私の主張です:
イエスは死からよみがえられた、ということ。
そしてもし主が復活されたのなら……
主はこう言われました。
「わたしがすることを、あなたがたもするようになる。
それどころか、もっと大きなことをするであろう。
わたしが父のもとへ行くからである。」
だから私は信じています。
この復活の朝に、もし神がもう一度、
ご自身をここに現してくださるなら、
それが主ご自身だとわかるような形で、
そうしてくださるなら——
あなたは主にお会いしたいですか?
あのクレオパとその友のように、
道で主に出会いたいですか?
もし神がそれを今なしてくださるのなら——
私はあなたに、まことの福音を語ったことになります。
64. では、もし今朝ここに主が現れてくださるとしたら、
主は何をなさるでしょうか?
あなたがこう言うとします:
「主よ、私を救ってください。」
主はなんとお答えになるでしょうか?
「それは、わたしがカルバリーであなたのために死んだときに、
すでに成し遂げたのだ。」
——それが、主の福音です。
また、あなたがこう言うかもしれません:
「主よ、私を癒してください。」
主はこうおっしゃるでしょう:
「それも、わたしがカルバリーであなたのために死んだときに、
すでに成し遂げたのだ。」
それでは、今できることは何でしょうか?
主がなさることはただ一つ——
あなたの中に、あなたの間に、しるしと不思議を現すことです。
そうすることで、
あなたが信じて、受け入れることができるようにするのです。
——そうではありませんか?
65. さて、今朝、青年たちが祈りのカード(Prayer Cards)を配ってくれたようですね。
ビリーが数分前にこう言いました:
「すぐになくなってしまったんですよ」と。
十分な数がなかったので、追加を取りに戻ろうとしたそのとき、
ネヴィル兄弟が「Only Believe(ただ信ぜよ)」を歌い始めたのです。
それで、彼ら(カードを求める人々)が一斉に前に走って来たわけです。
ブラザー・ウッズたちが言うには、
「もう歌は終わってしまって、タイミングも過ぎてしまった」とのことで、
私はすぐにこちらに降りて来なければなりませんでした。
おそらく配られたのは50枚か100枚くらいでしょう。
できるだけ多くの方にお祈りできるよう努力いたします。
ですから、あなたの祈りのカードを手元にご用意ください。
それは小さな四角いカードで、私の写真が表面にあり、
裏には番号が書かれています。
このあたりに祈りの列を作って、グループごとにお呼びして、
私たちができる限りの祈りを、一人ひとりのために
捧げたいと願っています。
66. では、皆さんが祈りのカードを取り出して準備しておられる間に、
ちょっと聞いていただきたいのです。
ここにいる多くの方々は、祈りのカードをお持ちではありません。
おそらく100人ほどの方が、カードを持っておられないでしょう。
でも、祈りのカードそのものには何の力もありません。
カードが意味するのはただ一つ、「神への信仰を持つ」ことのきっかけ
にすぎないということです。
イエス様も人々のために祈られました。
そして何度も、「あなたの病はこれこれだ」と語られました。
しかし、イエス様はこうはおっしゃいませんでした:
「わたしがあなたを癒した」。
そうではなく、いつもこうおっしゃったのです:
「あなたの信仰があなたを救ったのだ。」
かつて道端にいた盲人、バルテマイがそうでした。
彼は、ただ座って、物乞いをしていたのです。
イエス様がその道を通っておられました。
バルテマイのいるその場所は、ここから一つ角を曲がった
先くらいの距離でしょうか。
イエス様がその道を通られる。
バルテマイは、壁にもたれて、必死に叫んでいました。
周囲の人たちはこう言いました:
「あの狂信者を追い出せ! さあ、バカな男、何か奇跡でも見せてみろ!」
また、別の人たちは叫んでいました:
「ホサナ! ホサナ! ダビデの子に栄光あれ!」
声は交錯し、場は混乱していました。
しかしイエス様は、十字架に向かって歩んでおられたのです。
まだ三十代半ばの若さでしたが、
そのお顔には苦しみが刻まれ、五十歳ほどにも見られたとあります。
全人類の罪がその御肩にかかり、
あらゆる病の重荷がその身に覆いかぶさっていました。
そしてそのとき、
そのボロをまとった盲人のバルテマイが、泣き叫びました:
「ダビデの子よ、私をあわれんでください! あわれんでください!」
周囲の人々は言いました:
「だまって座っていろ!」
しかし――
イエス様は立ち止まられたのです。
そして、振り返り、遠く彼を見ておっしゃいました:
「あなたの信仰が、あなたを癒したのだ。」
「あなたの信仰が」。
それが、彼を癒したのです。
…あなたにも、そのような信仰がありますか?
今、このときも、主は変わらずあなたの信仰を見ておられます。
67. かわいそうな小さな女の人――
見た目には目立たない存在だったかもしれません。
彼女は人々の足元をかき分けて、
群衆をすり抜けながら、なんとかイエス様の衣に触れました。
そしてすぐに人々の中に紛れて、その場から離れました。
誰にも気づかれないように。
しかしイエス様は立ち止まり、こう言われました:
「わたしに触れた者は誰か?」
弟子たちは驚きました。
「こんなに大勢の人が押し合っているのに、誰が触れたかなんて……」
でもイエス様は、その女性の信仰を見抜かれました。
そしておっしゃいました:
「あなたの信仰が、あなたを癒したのだ。」
68. ピリポがイエス様のもとに来たときのことです。ちょうど主の
ご奉仕の初めのころ――イエス様は祈りの列に立たれていて、
病の人々のためにお祈りをしておられました。
これが「昨日のイエス様」です。そして、これが「今日のイエス様」です。
なぜなら、主はいつも変わらないお方だからです。朝にあの光がそこ
にあったように、夕方にもその光はここにある――昨日も今日も、
同じイエス様なのです。変わりません。
そのとき、主の前にいたひとりの人が救われました。そして彼は急いで
友人のナタナエルを連れて来ました。ピリポはナタナエルを探しに行き、
一本の木の下で祈っているナタナエルを見つけました。
彼を連れて戻ってくると――
イエス様はすでに群衆の中に立たれていて、人々のために祈って
おられました。主は彼に目を留めて、こうおっしゃったのです。
「見よ、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
ナタナエルは驚いて言いました。
「先生、どうしてわたしをご存じなのですか?ラビ、どうして?」
イエス様はお答えになりました。
「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたが木の下にいたのを、
わたしは見ていた。」
すると今度は、パリサイ人たちが言いました。
「見ろ、こいつは占い師だ。悪霊に取り憑かれている。ベエルゼブルだ!」
けれども、フィリポは? ナタナエルは?――彼は走り寄って、
主の前にひれ伏して叫びました。
「あなたこそ、神の子です!イスラエルの王です!」
イエス様は言われました。
「わたしがこのことを言ったから、信じたのですか?
あなたはこれよりもっと大きなことを見るでしょう。
あなたは信じた人だからです。もっと大きなことを、見ることになります。」
69. 今も、あの同じイエス様がおられます。
さあ、病の方々を前に並んでいただいて、祈りを始めましょう。
そして会衆の中におられる皆さん、祈りのカードをお持ちでない方々も――
心を尽くして信じてください。神様は、あなたがその席に座ったままでも、
癒してくださいます。
主は今も、僕(しもべ)を振り向かせて、あの時と同じ言葉を語らせること
がおできになるのです。あなたは、それを信じますか?――アーメン、
それでよいのです。
70. さて、皆さんにお願いしたいことがあります。
祈りのカード、ナンバー1番をお持ちの方はいらっしゃいますか?
手を挙げてくださいますか? 祈りのカード、1番……1番の方? 2番は?
こちらの方に並んでください。
今、1人ずつしかお呼びできません。なぜなら、場所が限られていて、
立っていただくスペースがないからです。
祈りのカード2番をお持ちの方、手を挙げてくださいますか?――
このご婦人ですね。
3番は? こちらの側に来てください、ご婦人。4番はどなたですか?
3番をお持ちの方は? まだいらっしゃらないようですね。
では、4番、5番、どなたが持っていらっしゃいますか?
5番の方は、あちらの後ろのご婦人ですね。はい、ありがとうございます。
6番は? 7番の方?――ではこちら側に来てください、
このあたりにお並びください。
4、5、6、7……どうやってお呼びしていけばよいかわかりませんが、
こちらから回って、あちら側、プラットフォームの方にお越しください。
おそらくそれがよいでしょう。
できるだけ早くお願いします。
ピアニストの方は「Only Believe(ただ信じなさい)」を弾いてください。
私には、誰がどこにいて、どのような状態なのか、
人間としては何も知る術がありません。ただ、主がご存じです。
71. さあ、あとどれくらいの方が立てるか見てみましょう。
今、こちらにお進みください。祈りのカード1番、2番、3番、4番、5番、
6番、7番の方々ですね。
8番のカードをお持ちの方はいらっしゃいますか?――はい、
そちらの若者ですね。ありがとうございます。
祈りのカード9番の方、手を挙げてくださいますか?どなたか9番を
お持ちですか?もしかしたら耳の不自由な方がおられるかもしれません。
お隣の方のカードを見てあげてください。9番、いらっしゃいますか?
もし立ち上がれない方、足が不自由な方がいらっしゃれば、
誰かがお連れしますので、ご心配なく。
…9番の方、いないかもしれませんね。外に出ておられるのかも。
では、10番の方?――はい、そちらのご婦人ですね。
11番の方?――あちら側の男性ですね。ありがとうございます。
12番は?――はい、こちらの男性ですね。
13番?――ご婦人、こちらへどうぞ。
14番の方?――お持ちですか? はい、ありがとうございます。
15番?――はい、ご婦人、こちらの列へどうぞ。
よろしいですね。では、この通路を回って並んでいただけますか?
そのまま下の通路に沿って進んでください。
はい、そこの通路の中央でお並びください。そう、それで結構です。
そこのご婦人、前へどうぞ、姉妹。列に沿って進んでください。
今どれくらいの方が並ばれているか確認しましょう。あと少しだけ、
待ちましょう。しばらく静かにお待ちください。
72. では、皆さん――どうか心から敬虔にいてください。静かに、落ち着いて、
お席にそのままお座りください。ここは神の家ですからね。
さあ…ピアノを――
(誰かがブラナム兄弟に話しかける)
はい? なんとおっしゃいましたか? ……そうですか、それでは、
もう少し呼んでも大丈夫ですね。
祈りのカード……どこで止まっていましたか? あなたのカード番号は?
――14番? はい、わかりました。
では、祈りのカード15番、16番、17番、18番、19番、20番の方――
順にお越しください。
そちらの通路から進んでください、ご婦人。あちらのほうに。そう、
そちらです。案内してくれますので、ご安心ください。
これで、立っていただける人数としてはちょうどよいくらいです。
(再び誰かが話しかける)
はい?――ええ、それで大丈夫です。今はこのくらいで十分ですよね。
ちょうどよい数ですね。
73. なに? 妹、少女の鼻は出血していますか? ちょっとやめてみましょう。 ちょっと頭を下げていただけませんか?
父よ、あなたの愛する子供、主イエスの名において、私たちはあなたがこの子供、神に触れられることを祈ります。 血を止めなさい。 今やめますように。 あなたの名前が栄光を受けますように。 私たちはこの血流を叱責するからです。 神の御子イエス・キリストの名において。 [不明瞭な言葉。]
さて、ちょっと頭を下げ続けましょう。
今日聴衆の中に立っている主イエスは、待っている多くの人々です。 私たちはあなたの癒しの力をあなたに感謝します。 さて、主よ、私たちは心を尽くして、あなたが私たちが求めたことを認めてくださるようにお願いします。 神の栄光のためにそれをしてください。 私たちはイエスの御名によって祈ります。 アーメン。
[テープの切れ目。]
74. さて、今、私たちができる限り敬虔になりましょう。 覚えておいてください、私にはわかりません。 これはすべて神の内に移動しているだけです。
さて、私が知っている祈りの列に人々がいます。 そこに立っているウッズ兄弟、私は彼を知っています。 私はその後ろの2番目、3番目の人を知っています。 私はそれらを知っています。 私はこの女性がここに座っているのを知っています、最初の女性。 彼女の何が悪いのかわかりませんが、彼女がそこにいることは知っています。 そして、それは私がプレイヤーラインで知っている人の限界についてだと思います。 ここには私が知らない人がたくさんいます。 そして、あなた自身がこれらのことの証人であり、私はあなたを知りません。 しかし、イエス・キリストはあなたを知っていますね?
75. さて、祈りのカードを持っていない人が何人いますか、とにかく癒されたいですか? 手を上げて、ずっと上げてください。 それで結構です。 神はあなたを祝福します。 大丈夫、祈りのカードなしで。 さて、私はあなたにこれをするようにお願いします:聖霊が来て油を注ぐなら、あなたはこのように見て、心から信じます。 あなたはただ見て、「主よ、私は心から信じています」と言うだけです。 あなたがそれをするなら、神はあなたにあなたの癒しを与えてくださいます。 「私はそれを心から信じています。」 さて、動き回らないでください。 本当に敬虔になりなさい。 できるだけ敬虔になりなさい。 さて、もう一度祈りましょう。
76. さて、皆さんにお願いがあります――どうか頭を下げてください。
イエス様が死人の中からよみがえられたとするならば……
今、これは皆さんを癒すためのものではありません。
これはただ、イエス・キリストがよみがえられたということの
「証し(しるし)」です。
イエス・キリストは、救いと癒しのために、すでにカルバリー(十字架)
でそれを「完了された」のです。
そうではありませんか?――「アーメン」と言ってください。
アーメン。
主が今できることは、それをもう一度証明する「しるし」や「不思議」
のかたちで現わすことです。
つまり、イエス様が確かによみがえられ、今も生きておられるということを
皆さんに分かるようにしてくださることです。
もし主が、かつてこの地上におられた時にされたことを、
ここでひとつでも行われるなら――
皆さんは、そのお方を受け入れるべきではないでしょうか?
そう思われますか?――そのとおりですね?
それでは、そうする方は手を挙げてください。
もし主が、ここでひとつだけでも、ご自身のなされたことを
もう一度行ってくださるなら――
あなたは主を信じ、受け入れますか?
……神様が、あなたがたを祝福してくださいますように。
――100パーセントの方が、手を挙げました。
77. 今、天の父よ、
あなたが憐れみ深くあられますようにと、心から祈ります。
どうか主よ、あなたの栄光のために――
今この場所で、あなたが確かによみがえられたことを、
永遠に確証するために――
今日、このタバナクル(会堂)において、その証しをお与えください。
イエス・キリストの御名によって、
この祝福をあなたの栄光のためにお求めいたします。
アーメン。
……
それでは今――
神の栄光のために、
主のよみがえりの力の証しのために、
そして全能の神の御力のために――
私は今、
この場にいるすべての霊を、
イエス・キリストの御名によって、
御霊による支配下に置きます。
ですから、どうか皆さん――
今語られることに、従ってください。
78. さて今、このご婦人に――ここ、マイクの前に立っていただきたい
と思います。この方のことは知っています。たしか、
名前は“サットン”さんだったと思いましたが……
(ご婦人「今はコブです」)
――ああ、そうでしたか、失礼しました。コブさんですね。
以前このご婦人を見たことがあります。
時々このタバナクルに来ておられますからね。
ですが――
私は、このご婦人が今、何に悩まされているのか、まったく知りません。
ただ一つ、それを知る方法があるとすれば――
それは神が私に、それを示してくださる以外にはありません。
――そうですよね、ミセス……?
(「はい、そうです」)
――コブさん? 今はコブさんですね?
(「はい」)
――では、コブさん。
あなたに何が起こっているのか、私が知るとしたら、
それは神が超自然的な方法で、それを私に啓示してくださらなければ
なりません。
(「はい」)
そして、もし神がそれをなさるならば――
それは人間の持つ力ではなく、
神の力――神ご自身の御霊の働きであるということになります。
そうですね?
(「その通りです」)
それがなされたなら――
それは私が語ってきた「イエス様のよみがえりが真実である」
ということを、
あなたが信じる助けとなりますか?
(「はい」)
……皆さん、それを聞いて――
あなたがたも、それを信じますか?
79. さて――もし、イエス様ご自身が、この私が着ているこの
スーツを身にまとって、
ここに立っておられたとしたら……見えますか?
主が今ここに、まさにこの場所に立っておられるとしたら――
このご婦人が、経済的な問題を抱えているのかもしれません。
家庭のことで悩んでいるのかもしれない。
あるいは、身体の病を抱えているのかもしれません。
私には分かりません。
でも、神はご存じです。
私は知りません。
何もお教えできるものはありません。
もしかしたら、彼女の人生の中で何かが起こって――
そのことが今の問題の原因になっているのかもしれません。
それも、私には分かりません。
ですが、神にはすべて見えておられるのです。
そして、もし神が望まれるなら――
そのことを私に教えてくださるのです。
それが、今ここで起ころうとしていることなのです。
イエス様ご自身がこう言われました:
「父がわたしに示してくださらなければ、わたしは何も行わない。」
それは、あくまで神からの啓示によってのみ、
なされるべきことなのです。
80. さて、今私がこのご婦人に対して行おうとしていることは――
決して、彼女の心を読むことではありません。
そんなことは、断じてありません。
とんでもないことです。
神がそのようなことをお許しになるはずがありません。
それが誤りであることを、神はご存じですし、私もはっきりと
理解しています。
天の神が、私の証人です。
これは――人の心を読むようなことではありません。
そうではなく、これは――
キリストの復活の力によってなされるのです。
イエス・キリストご自身が、その御からだである教会の
うちにおられることの証しなのです。
ペテロや他の使徒たちを思い出してください――
彼らが人々を見つめたとき、
パウロをはじめとする何人もの人々が、
相手のうちに何か問題があることを「感じ取った」ではありませんか。
それは、御霊によって示されたことなのです。
81. イエス様が井戸のそばで女に語りかけた場面をご存じでしょう。
ヨハネによる福音書第4章にある出来事です。
イエス様は、あのサマリヤの井戸のほとりで、その女と会話を
交わされました。
実際には、主はただ話していただけではなく――その会話を通して、
彼女の霊をとらえておられたのです。
御父が、主に「サマリヤを通って行きなさい」
とお告げになっていたのです。
イエス様が向かわれていたのはエリコで、本来はエルサレムからまっすぐ
南下するだけで済む道でした。
ですが主は、わざわざ遠回りをしてサマリヤを通られた――
それは、御父がそうお命じになったからです。
井戸のほとりに腰を下ろされ、弟子たちを町へと遣わしました。
イエス様は、あの女がそこにやって来ることをご存じでした。
女が水がめを持って来たとき、主はこうおっしゃいました:
「わたしに、水を飲ませてほしい。」
女は答えました:
「あなたのような方が、私のようなサマリヤの女に、
そんなことをお頼みになるなんて――普通ではありません。」
イエス様はおっしゃいました:
「もし、あなたが今、誰と話しているかを知っていたなら、
むしろあなたの方がわたしに『水をください』と願ったはずです。
わたしは、あなたがここに汲みに来たことのない、
いのちの水を与えるのです。」
――その通りですね?
(「はい」)
そして会話がしばらく続いたあと、
イエス様はついに、彼女の本当の問題が何であるかを、
明らかにされました。
「あなたの夫を呼んできなさい。」
彼女は言いました:
「夫はおりません。」
すると主はこう言われました:
「そのとおりです。夫はいない、と言いましたね。
あなたにはこれまで5人の夫がいて、今一緒にいる人も、
あなたの夫ではありません。」
彼女は驚いて言いました:
「あなたは預言者だとお見受けします。
私は知っています。やがてメシアが来られるとき、
私たちにすべてのことを教えてくださるはずです……。
でも、あなたは――?」
イエス様は言われました:
「あなたと話しているこのわたしが、それです。」
これが――「昨日のイエス様」です。
そしてこれが、「今日のイエス様」でもあるのです。
82. ご婦人、あなたに関して私が知ることができる唯一の方法は――
あなたと私の間に、神との何らかの「接触」が生じることで、
そのことが私に示されるようになる、ということです。
あなたは、かつて私のそばに立っておられた主の御使い――
あの「光」の写真をご覧になったことはありますか?
(ご婦人:「はい、見たことがあります」)
ご覧になったのですね。
この教会でも、それをご覧になった方がおられるはずです――
もちろん、ここでもあの現れを見たことがあるでしょう。
今、私はまさにその光――
あの臨在が、私たちのすぐそばに来るように求めているところです。
あの光とは――
イスラエルの民を導いた「火の柱」と同じものなのです。
それはイエス・キリストご自身でした。――そのとおりです。
契約の御使い(エンジェル・オブ・ザ・カヴナント)です。
そのときは「光」という超自然的な形で現れていました。
やがて主は肉体をとって地上に来られました。
そしてこう言われたのです:
「わたしは神のもとから来て、
神のもとに帰るのだ。
しばらくして、世(=信じない者たち)はもうわたしを見ない。
しかし、あなたがたはわたしを見る。
わたしはあなたがたと共におり、世の終わりまで共にいる。」
83. 主の御名がほめたたえられますように。
……皆さん、今、何かが起こっていることを私は感じています。
会衆の皆さん、どうか敬虔な態度を保ってください。
今、感謝すべきことに、あの同じ光――神の栄光の臨在が、
私の右側に入ってきています。
それは、このご婦人と私の間に入って動いています。
今や、彼女の人生は隠しておくことができません。
姉妹よ、今あなたに臨んでいるものは、あなたを
傷つけるためではありません。
これは――あなたを助けるためのものです。
これこそが、救いの唯一の道です。
あなたは今ここにいますが……
いいえ、あなたはこの町には住んでいませんね。
あなたは――ニューオールバニにお住まいです。
(「はい」)
ニューオールバニにお住まいです。
そしてあなたは、お医者さんの治療を受けていますね。
その先生は、あなたの喉に何かがある――
気管支系の問題だと言いましたね。
そしてあなたにこう助言しました――
「この土地から離れないと、治ることはない」と。
(「はい、それは本当です」)
では――あなたは、主イエス・キリストがあなたを癒せると信じますか?
(「はい! 神に栄光あれ!」)
では、皆さん――頭を下げましょう。
天の父よ、
御霊の油注ぎの中で、このご婦人の上に手を置いて、祈ります。
カルバリー(十字架)において、
あなたがすでに彼女のために癒しを成し遂げてくださった、
その癒しのわざに基づき、
今この苦しみを――私は退けます!
彼女が完全に自由とされますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
姉妹よ――平安のうちにお帰りなさい。
神があなたを祝福し、いつも共にいてくださいますように――
それが私の祈りです。
さあ、主の御名がほめたたえられますように。
どうか、敬虔さを保っていてください。
見ていてください。
神を信じてください。疑ってはなりません。
84. ご婦人、こちらをご覧ください。
今、私たちがともにしているお方――
すべてをご存じであり、あなたを初めから知っておられる主の御前に、
私たちは立っています。
これまであなたが口にしたすべての食べ物も、
その一つ一つを主が備えてくださったのです。
あなたのことを、私は知りません。
ですが、神はあなたを知っておられます。
あなたが誰であるのか――
どこから来たのか――
あなたの人生に何があったのか――
すべてを主はご存じです。
そして、あなたの心の願いをかなえることができるのは、
ただおひとり、主ご自身だけです。
癒しを与え、必要を満たし、
あなたが願うことを本当に成し遂げることがおできになるのは、
神様だけです。
あなたも分かっていますね?
私には、あなたのことを知る術はありません。
ですから、もし何かが明かされるなら――
それは神が私に啓示してくださる以外にないのです。
それは本当ですね?
もしそうなら、手を挙げて証ししてください。
(「はい、それは真実です」)
よろしい。では、少しの間だけ――こちらをじっとご覧ください。
85. ……少しお待ちください。さて、みなさん――
どうか敬虔な心でいてください。
主の御使い(エンジェル・オブ・ザ・ロード)が、
今まさにここに立っておられます。
……ちょうどそこです……あの小さな女の子の上です。
そこに、ご家族と一緒に座っているあの子です。
その子は、喉の病を患っています。
喉の状態――扁桃腺の問題です。
――そうですね? ご主人。
どうぞ、その子に手を置いてあげてください。
主なる神よ――
イエス・キリストの御名によって、サタンは今、明るみに出されました!
私は、その子を縛っていた悪霊を叱ります。
イエス・キリストの御名によって――
出て行け!
アーメン。
兄弟よ、あなたはこの子を連れて、遠くから来られましたね。
けれども、もう心配しないでください――
今、癒されたその子を連れて帰るのです。
あなたの信仰が、あなたを救ったのです。
神を信じなさい。
86. あなたも――ジェファーソンヴィルの方ではありませんね。
ここに来るとき、東から西へ向かって来られました。
(ご婦人:「エディンバーグから来ました」)
そうですね。
あなたは舗装されたコンクリートの道を通って来られました。
そして、あなたの町は、その道の右手側に位置している町です。
そのあたりには、何か政府関係の施設のようなものがありますね。
そう――それはインディアナ州エディンバーグです。
あなたは、エディンバーグ、インディアナ州から来られたのです。
そして、あなたのお名前――見えてきました……デントンです。
あなたのお名前はデントンさんですね。
そしてあなたは――心臓の病で苦しんでおられる。
さあ、もうお帰りなさい。癒されて帰ってください。
あなたの信仰があなたを癒し、完全な者としたのです。
主イエス・キリストの御名によって、癒しがあなたにありますように。
どうかお帰りなさい。そして健康を得て、歩んでください。
アーメン。
神の祝福がありますように。
……
皆さん、神を信じなさい。
疑ってはいけません。信じるのです。
あなたは信じますか?
……ああ、なんと素晴らしいことでしょう!
これは――私ではありません。
これは、よみがえられたイエス様なのです!
今、ここにおられ、働いておられるのは主ご自身です。
これこそ、イエス様が地上で行われたのとまったく同じわざなのです。
(そのとおりです)
同じイエス様が、今ここでも、生きて働いておられます!
87. さて、ご婦人。
今朝、あなたと私はここで初めてお会いします。
神は、あなたも私もご存じです。
私はあなたのことを何も知りません――あなたも、
それはよく分かっておられますね。
でも神はご存じです。
神は私のことも、あなたのこともご存じです。
そして今、神の御霊が、私たちの間におられるのです。
ひとつお聞きしたいのです――
このタバナクルにおられる方々にも分かっていただきたいからです。
あなたは、今のような感覚を、人生の中で一度も
味わったことがないですね?
(「はい」)
――それは、全能の神の御臨在の中にあなたがいるからです。
あなたは、あの「光の写真」をご覧になったことがありますか?
その「光」――まさにそれが、今あなたをそのように
感じさせているのです。
私は今、まるで別の世界に生きているような感覚です。
あなたが見えるのですが、ぼんやりと――
誰かが目の前に立っているのが分かります。
そして、あなたも感じているはずです。
それは、愛に満ちた、柔らかくて、へりくだった感覚です。
これこそが、死人の中からよみがえられた主イエス様です。
主は御霊の命として戻られました――すなわち、神ご自身です。
そして今、主は私たちとともにおられます。
世の終わりまで、いつも共におられるのです。
……
あなたはクリスチャンです。
信じる者です。
そしてあなたは、ご自身のためではなくここに立っておられます。
あなたがここに立っておられるのは――ある男性のためです。
その男性とは、あなたのご主人です。
その方は脱腸(ヘルニア)を患っておられます。
そしてもうひとつ――私は見ました。
彼はバーで酒を飲んでいます。
そう――アルコール依存症なのです。
あなたは、彼の解放を求めて、ここに来られたのですね?
……そうでしょう?
――ご婦人、それらのことは人間の心では到底知ることの
できない内容です。
そうですね?
(「はい、そうです」)
それは、神によって啓示される以外にないのです。
あなたは今、それを信じますか?
(「はい、信じます」)
……
全能の神よ――
イエス・キリストを死人の中からよみがえらせてくださったあなた。
今、私たちはそのよみがえりの祝福をここで味わっています。
この、あなたのしもべであるご婦人を祝福します。
彼女があなたに願い求めているそのことを――
どうか受け取ることができますように。
私はイエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
……
神があなたを祝福してくださいますように、姉妹。
どうか――あなたが願ったものを、信じて受け取りに行きなさい。
神がそれを、あなたにお与えになりますように。
……
皆さん、信じますか?
88. はい、こちらをご覧ください。
――いや、ただ「見る」という意味ではなく……
これは、かつてペテロとヨハネが「美しの門」を通ったとき、
彼らが言ったように――「私たちを見なさい」と言った、その意味です。
おそらく、あなたと私は見知らぬ者同士ですね。
これまで互いに会ったことがなく、今が初めての出会いでしょうか?
(「はい、初めてです」)
そうですか。では、完全な見知らぬ者同士ということになりますね。
私はあなたのことを知りませんし、あなたも私のことをご存じなかった。
それでも、ここで私たちは、人生の中で出会った二人の人間として立っているのです。
ですが――神は、あなたも私もよくご存じです。
そうでしょう? (「はい、そうです」)
確かに、主はすべてをご存じです。
……そして今、もしあなたに関して何かがあるとすれば――
(ここから続いて、啓示へと入っていきます)
89. ……何かが今、起こりました。
皆さん、どうか敬虔にしていてください。
あそこに座っているご婦人――後ろの方で祈っているのが見えます。
彼女は、便秘で悩まされています。
ご婦人、少しの間、立ってくださいますか?
――それは本当ですね?
(ご婦人:「はい」)
そして、あなたは心臓のあたりにヒラヒラとした違和感を感じています。
でも、それは重大な心臓病ではありません。
ただの神経性の便秘です――あなたが神経的に張り詰めて、
心が乱れていたからです。
ですが――あなたは今、癒されて、家に帰るのです。
私は、あなたの周りにあった「暗い影」が、光に変わるのを見ました。
恐れてはいけません。
祈りのカードなど、必要ではないのです。
必要なのはただ「信仰」です。
神を信じなさい。
神様があなたを祝福してくださいますように、ご婦人。
心を尽くして信じなさい。
90. さて今――悪霊がこの区域を横切って動き始めています。
誰かが呼び求めており、祈りが捧げられています。
私は、ひとりの女性から男性へと伸びる暗い筋(ストリーク)を見ます。
それは悪しきものです。
そしてその影は、肋骨のすぐ下にあります。
……検査のようなものが見えます。
――ああ、ここに座って、目を拭いながら祈っている小柄な男性ですね。
神があなたを祝福してくださいますように、兄弟。
信仰を持ちなさい。
あなたは、私を神の預言者として信じてくださいますか?
そのように受け入れてくださいますか?
……
さて――あなたに起きているのと同じことが、
あちらの列の端に座って、こちらをまっすぐ見ているご婦人
にも起きています。
小さな丸い帽子をかぶっておられるご婦人です。
今、こちらのご婦人の頭越しに、私を見つめていますね。
――はい、その方です。手を挙げておられます。
それです、ご婦人――そのとおりです。
今、その悪しき力が、一人からもう一人へと引き寄せ合うように働いているのが見えます。
暗い筋(ストリーク)が見えます。
あなたがた二人とも、同じ場所に問題を抱えています――わき腹の下です。
それは――胆嚢(たんのう)の病です。
あちらのご婦人も、同じ病です。
でも――あなたがたは、癒されました!
イエス・キリストが、あなたがたを癒されたのです!
悪しき力は去っていきました。
そして――あなたがたは自由になるのです。
アーメン!
91. 信じなさい。
……少し静かにしてください。
聖霊が今、会衆の中を動いておられます。
手を挙げておられるあのご婦人――
そのすぐ隣に座っておられるご婦人に、私は診断の幻を見ています。
彼女は腸の病気を患っています。
――そのとおりですね、ご婦人。
あなたは、神様があなたを癒してくださると信じますか?
あなたは腸の不調を抱えておられます――そのとおりです。
手を挙げてください。
はい。
それでは、今、イエス・キリストをあなたの癒し主として受け入れますか?
……
神の御子、主イエス・キリストの御名によって――
今この場にご自身を現しておられる主の御名により――
癒しを受け取りなさい!
イエス・キリストの御名によって。アーメン。
92. …私は、頭のあたりに何か巻かれたようなものが見える
ご婦人を見ています。
どうやら……ああ、そのすぐ後ろに座っているご婦人のようです。
列の中の2番目のご婦人――
彼女は、絶え間ない頭痛に悩まされています。
今、私の方を見ておられますね。
ご婦人――
そこの、少し白髪交じりの小柄なご婦人――
神があなたを癒してくださると信じますか?
心を尽くして信じますか?
(「はい」)
――そのとおりです。
神があなたを祝福してくださいますように。
それは、今、あなたから去りました。
もうお帰りになって大丈夫です。
癒されたのです。
もし本当にそうであれば――
手を挙げて、手を振ってください。
……
はい、そのとおりです。
それは、あなたから完全に去りました。
あなたは癒されたのです。
93. ああ――主イエスの御名は、ほむべきかな!
信じて、来なさい。
聖霊がこの祈りの列の中を動いておられます。
なんと素晴らしいことでしょう……。
あなたは主を信じていますか?
見てください――主が今、何をなさっておられるか!
ああ……私の教会の皆さんに、この感覚を説明できたらと、どれほど願っていることでしょう。
まるで別の世界にいるようなこの感じ……
ここが本当にタバナクルなのかどうか、一瞬、わからなくなるほどです。
敬虔な心を持ち続けてください。
敬虔に……静かに……心を神に向けて。
94. 私は今――遠くから来られた方を見ています。
誰かが、ある場所からやって来ています……それは男性です。
彼は、木々の多い土地から来ています。
――それは、バージニア州です。
彼は、関節炎で苦しんでいます。
あなたは、神があなたを癒し、健康を与えてくださると信じますか?
受け入れますか?
――信じるのですね?
あなたはバージニアから来られました。
そして今――関節炎は癒されました。
そうですね? すべての道を通って……
――はい、ご主人。そのとおりです。
あなたは今、癒されたのです!
もう、戻ってよろしい。
さらに――心臓の病も去りました。
列を離れて、家に帰ってください。
あなたは癒されたのです。
神が、あなたを癒されたのです。
「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」
……
主イエス・キリストを信じなさい!
あなたは、主が死人の中からよみがえられたと信じますか?
これは、主の復活が確かであることの、誤ることのない証しです!
信じなさい!
95. すみません、ご主人。
お引き止めして申し訳ありません。
でも、どうかご理解ください――これは私が自分で制御できるものではないのです。
これは私を支配しています。私がこれを支配しているのではありません。
この御霊の働きが、私を導いているのです。
私は、非常に弱くなってきているのが分かります……
でも、私は今、どなたかの近くにいるのを感じています。
白髪の男性です。
そしてあなたは、眼鏡をかけておられます。
ということは――たしかに目の問題を抱えているということでしょう。
でもそれだけではありません。
神は、あなたのすべてをご存じです。
そのとおりです。
あなたがここにおられるのは――癒しを受けるためです。
あなたは神経が高ぶっており、ひどく心が乱れています。
その原因は――前立腺の問題です。
前立腺の病がある――そうですね?
それが正しければ、手を挙げてください。
……はい。
さらにあなたは――心臓にも問題があります。
――そのとおりです。
そして今、私は見ています……
私はあなたを今まで一度も見たことがありません。
ですが、あなたのイニシャルは「A.A.ミラー」ですね。
そうです――あなたは「マウント・ベイラー
(Mount Balor)」から来られています。
そして今、癒されて家に帰る道の途中にいるのです。
神があなたを祝福してくださいますように。
喜びながら帰っていきなさい。癒されたのです。
……
ミスター・ミルズ、あなたにとっても、これはたやすいことです。
ですから、今こそ心から信じて歩み出すべきです。
私はあなたにとって見知らぬ者ですが――
でも神はあなたをご存じです。
それは本当ですね?
今、すべてが去ったと感じていますか?
すべてがよくなったと、信じていますか?
――神があなたを祝福してくださいますように。
さあ、家に帰って――癒されてください。
皆さんお一人お一人、癒されてお帰りなさい。
96. 心臓水腫が何だというのですか?
神にとっては、いつでも癒すことができる病です。
神はあなたを、キャンベルズバーグ――どこであろうと――
完全に癒された女性として帰すことができるのです。
あなたは、それを信じますか?
私は、あなたのことを知りません。
これまでの人生で、一度もあなたを見たことがありません。
私は、あなたにとって見知らぬ者です。
でも、主はあなたをご存じです。
あなたが誰で、どこから来たのか――
主はすべてご存じです。
――それが今、あなたに啓示されたのですね?
そのとおりですね?
では、もう一つお聞きします。
今、私に注がれているこの油注ぎ――
あなたのことを知り、これまで一度も会ったことのない私を通して、
神があなたに語っておられると信じますか?
もし私があなたの上に手を置くなら――
あなたは癒されると信じますか?
(「はい」)
……
イエス・キリストの御名によって、私は悪魔を叱る!
サタンよ、お前は暴かれた!
お前は、これらの人々を長い間、泥沼のような苦しみへと引きずってきた。
だが、もう十分だ!
このご婦人から出て行け!
イエス・キリストの御名によって!
アーメン。
……
さあ――喜びながら帰りなさい。
あなたは癒されたのです。
97. あなたの不調は、背中にあります。
けれども――神はあなたを癒すことができますよね?
癒すことがおできになるお方です。
あなたは、神がすでにそれをなしてくださったと信じますか?
もし、心を尽くして信じるならば――
神の御子、イエス・キリストの御名によって、私はこの病を叱ります。
あなたが癒されて帰ることができますように。
神の祝福がありますように。
信じて――心から信じて――お帰りなさい。
98. 来てくれませんか? 心を込めて、今、あなたは信じますか? [「はい。」]私はあなたにとって見知らぬ人です。 私はあなたを知りません、あなたについて何も知りません。 私の知る限り、私の人生であなたに会ったことはありません。 しかし、全能の神はあなたを知っていますね? 彼はあなたのことをすべて知っています。 彼はあなたが誰であるかを知っていて、すべてを知っています。 私にはわかりません、知る方法はありませんが、彼は知っています。 しかし、あなたはあなたがあなたの兄弟ではなく、女性を見て彼女の問題がどこにあるかを彼女に告げた彼の前に立っていると信じますか? [「はい。」]なるほど、あなたと私の間にはテーブルがあり、あなたはそこから戻ってきています。 胃に問題があります。 これは胃の消化性潰瘍が原因です。 今、あなたはあなたの夕食を食べに行きます。 イエス・キリストはあなたを元気にします。 心から信じて行きなさい。
99. さあ、若者よ。こちらへ来なさい。
あなたは、私が主の預言者であると信じますか?
「はい、信じます。」
心のすべてをもって、それを受け入れますか?
私はあなたにとって見知らぬ者ですが、神はあなたをよくご存じです――そうですね?
「その通りです。」
あなたは、心臓の病から解放されて、癒されたいと願っているのですね?
「はい。」
それなら、喜びながらお帰りなさい。
あなたの信仰が、あなたを完全にしました。
癒され、健康になったのです。
……
さあ、ご婦人、あなたもいらっしゃい。
あなたも、胃の病に悩んでおられましたね。
ほんの数分前に、胃の病を癒された別のご婦人がいましたが、
そのとき、あなたの内に――とても不思議な感覚が走ったでしょう?
そうですね?
その時、あなたも同時に癒されたのです。
さあ、お帰りなさい。
夕食をしっかり食べて、元気になってください。癒されたのです。
100. こちらをご覧ください、ご婦人。あなたは信じますか?――少しだけ、待ってください。
私たちは互いに見知らぬ者です。面識はありません。
けれども、あなたがこちらに歩いてこられたとき、プラットフォーム、いや会場全体に――恐ろしいほどの衝撃が走りました。
ああ、それは今、全体に広がっています。
さあ、こちらを見てください。少しだけ。
ご婦人、私はあなたを一度も見たことがありませんし、あなたのことは何も知りません。
神だけが、あなたのことをご存じです。
でも今、私はあなたがひどく混乱しているのを見ています。
それは――神経的なものです。
あなたは精神的な崩れを経験しています。
物をよく落とします――お皿やいろんな物を、しょっちゅう落としてしまうのを見ました。
そしてあなたはここに来る前――
床の近くの椅子に座って、神様に祈っていましたね。
「私がこの集会に行って、あの人が手を置いて祈ってくれたら、癒される」
そう神に願ったのです。
それは真実ですね?――そうでしたら手を挙げてください。
……はい、それで正しいですね。
それは――霊です。
その霊が、今この会場全体に広がっています。
ほら、あそこに座っている小柄なご婦人――聖書の教師のようですね。
彼女も同じ苦しみを抱えています。
サタンが嘘を吹き込んでいるのです、ご婦人――でも、あなたはもうすぐ解放されます!
見てください――この建物全体、あちこちに、同じ状態の方がいます。
ここにも、あそこにも、そちらにも。
神経の病を抱えている皆さん――
今すぐお立ちください!
少しの間でかまいません、立ってください。
……さあ、全員、頭を下げてください。
サタンよ――悪しき霊よ――
お前は暴かれた!
これらの人々から出て行け!
私はお前を、イエス・キリストの御名によって叱る!
今すぐ出て行け!
この人々から離れよ!
……
さあ、ご婦人、もう一度だけ。
今、あなたは自由です。
すべてはあなたから去りました。
私からあなたに言わせてください――
あなたがた全員、癒されました!
その一団全員が、癒されたのです!
悪しき霊は、あなたがたを離れました!
今、静けさを感じますね?
「はい。」
もう大丈夫です。
あなたは、今から喜びながら、感謝しながら、帰っていきなさい。
……
では、次の方――おいでください、男性の方。
あなたと私もまた、互いに知らない者です。
私はあなたを今まで見たことがありません。
でも――神は、あなたをご存じです。
さあ、こちらを見てください――少しだけ。
皆さんに申し上げます――
この方は見知らぬ方です。
私はこの方を知りませんし、見たこともありません。
神がご存じです――私の記憶にはありません。
けれども私はここに宣言します――
イエス・キリストは死人の中からよみがえられました!
かつてこの地上に目に見える肉体でおられたイエス様が行ったすべてのこと――
それが、今日ここでも行われているのです!
主はよみがえられ、今も生きておられます。
永遠に――生きておられます!
このことを見て信じたあなたの目は、幸いです。
主イエス・キリストを信じる者は、幸いな
101. こちらをご覧ください、ご婦人。あなたは信じますか?――
少しだけ、待ってください。
私たちは互いに見知らぬ者です。面識はありません。
けれども、あなたがこちらに歩いてこられたとき、
プラットフォーム、いや会場全体に――恐ろしいほどの衝撃が走りました。
ああ、それは今、全体に広がっています。
さあ、こちらを見てください。少しだけ。
ご婦人、私はあなたを一度も見たことがありませんし、
あなたのことは何も知りません。
神だけが、あなたのことをご存じです。
でも今、私はあなたがひどく混乱しているのを見ています。
それは――神経的なものです。
あなたは精神的な崩れを経験しています。
物をよく落とします――お皿やいろんな物を、しょっちゅう
落としてしまうのを見ました。
そしてあなたはここに来る前――
床の近くの椅子に座って、神様に祈っていましたね。
「私がこの集会に行って、あの人が手を置いて祈ってくれたら、癒される」
そう神に願ったのです。
それは真実ですね?――そうでしたら手を挙げてください。
……はい、それで正しいですね。
それは――霊です。
その霊が、今この会場全体に広がっています。
ほら、あそこに座っている小柄なご婦人――聖書の教師のようですね。
彼女も同じ苦しみを抱えています。
サタンが嘘を吹き込んでいるのです、ご婦人――でも、あなたはもうすぐ
解放されます!
見てください――この建物全体、あちこちに、同じ状態の方がいます。
ここにも、あそこにも、そちらにも。
神経の病を抱えている皆さん――
今すぐお立ちください!
少しの間でかまいません、立ってください。
……さあ、全員、頭を下げてください。
サタンよ――悪しき霊よ――
お前は暴かれた!
これらの人々から出て行け!
私はお前を、イエス・キリストの御名によって叱る!
今すぐ出て行け!
この人々から離れよ!
……
さあ、ご婦人、もう一度だけ。
今、あなたは自由です。
すべてはあなたから去りました。
私からあなたに言わせてください――
あなたがた全員、癒されました!
その一団全員が、癒されたのです!
悪しき霊は、あなたがたを離れました!
今、静けさを感じますね?
「はい。」
もう大丈夫です。
あなたは、今から喜びながら、感謝しながら、帰っていきなさい。
……
では、次の方――おいでください、男性の方。
あなたと私もまた、互いに知らない者です。
私はあなたを今まで見たことがありません。
でも――神は、あなたをご存じです。
さあ、こちらを見てください――少しだけ。
皆さんに申し上げます――
この方は見知らぬ方です。
私はこの方を知りませんし、見たこともありません。
神がご存じです――私の記憶にはありません。
けれども私はここに宣言します――
イエス・キリストは死人の中からよみがえられました!
かつてこの地上に目に見える肉体でおられたイエス様が行ったすべてのこと――
それが、今日ここでも行われているのです!
主はよみがえられ、今も生きておられます。
永遠に――生きておられます!
このことを見て信じたあなたの目は、幸いです。
主イエス・キリストを信じる者は、幸いなのです。
102. この男性は、見知らぬ方です。私はこの方を一度も見たこと
がありませんし、
おそらく彼も私を見たことがないでしょう。
たとえ見たことがあったとしても、私は記憶していません――
神だけがご存じです。
彼自身も「私はあなたにとって見知らぬ者です」と言いました。でも、
神は彼をご存じです。
もし、神が今ここにおられ、このまったく見知らぬ男性に対して、
彼の病や状態――そのすべてを啓示してくださるなら、
そして彼自身が、私が彼のことを何一つ知らないと分かっているなら――
このことを通して、あなたはイエス・キリストをあなたの癒し主として
受け入れますか?
皆さん、どうでしょう?
……建物がぼやけて、別の世界が開き始めています。
皆さん、どうかご理解ください。私が皆さんに語っているのは――
私は今、まるで別の世界へと入っていくようなのです。
まったく違う場所、ある人の人生の流れの中に――その人が誰で、
どこにいて、何を経験してきたかを見るのです。
皆さんは気づかないかもしれませんが、私はよく分かっています。
ここでは、完全に働いていないと感じられるかもしれません。
なぜなら、ここは私の地元だからです。
ですが、ひとつだけ確かに見てください――
イエス様は死人の中からよみがえられ、今ここにおられるということ。
そして私が語ってきたことが、真実であるということです。
では、そこの男性――少しの間、私を見てください。
それは、あなたと私が、主イエス様とつながるためです。
もし私が主のしもべであるなら、イエス様はこう言われました:
「わたしが行うわざを、あなたがたも行う。
しばらくして、世はもはやわたしを見ないであろう。」
――それは信じない人たちのことです。
彼らは野球や海水浴や娯楽に向かいます。彼らは主を見ることはありません。
「しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしはあなたがたと共におり、あなたがたのうちにおり、
世の終わりまで共にいるからである。」
もしそのお方が死人の中からよみがえり、今この朝ここにおられるとするなら――
そして、私の上にあるこの油注ぎが、私自身のものではなく
主のものであるなら――
たとえ何があっても、あなたの人生は隠すことができません。
なぜなら、今、私たちは御霊によってつながっているからです。
神が、あなたがそこに立っている理由を私に啓示されるなら――
あなたはそれを、心から信じて受け入れますか?
「はい、先生。」
そうされますか?
「はい。」
あなたは――胃の不調で苦しんでおられますね。
「その通りです。」
まさしくそうです。
そしてその原因は――神経から来ています。
ただ、外側が震えるような神経症ではありません。
あなたは、物事を深く考える方です。
いつも何かを計画し、まだ起きてもいない橋を先に渡ろうとします。
心配事をつくり出してしまう――実際には起きないことを、
先に思い悩んでしまうのです。
以前にも、誰かにそう言われたことがありますね。
「はい。」
でも、そう言われても、なかなか変わらなかった……
しかし、今は違います。
あなたは癒されました。
あなたは健康な人として家に帰るのです。
イエス・キリストが、あなたを完全にされたのです。
神の御子イエス・キリストの御名によって、
この人を苦しめてきたすべての悪しき霊に命じます――
出て行け!
この人が、主イエス・キリストの御名によって、
平安のうちに歩めますように。
アーメン。
神の祝福がありますように。
103. あなたは信じていますか?――心を尽くして?
「アーメン」
あなたは、イエス・キリストがイースターに復活されたと信じますか?
「アーメン」
そのイエス様のご臨在が、今ここにあると信じますか?
「アーメン」
では、あなたは、主の預言者であるこのわたしの言うことに従いますか?
「アーメン」
もしそうするなら、この場にいるすべての方が今、
癒されることができます。
すべての人が――今――健康を得ることができるのです。
あなたはそれを信じますか?
「アーメン」
それでは、頭を下げてください。
全能の神よ――命の源、すべての賜物の与え主――
この会衆の上に、あなたの神聖な祝福を注いでください。
今、あなたの御霊がこの場所に動いておられるこのとき、
この会衆の心がひとつにされたこの瞬間、
私は、すべての汚れた霊、
病を縛っているあらゆる悪霊に命じます――
主イエス・キリストが、今ここにおられます!
扉を開き、囚われ人を解き放ち、
すべての人が自由となりました!
イエスが死人の中からよみがえられ、
今日ここにご自身を現しておられるのです!
サタンよ、これらの人々から出ていけ!
イエス・キリストの御名によって命じる!
今信じるすべての方――どんな状態であってもかまいません。
そこの松葉杖のあなたも――立ち上がりなさい!
すべての人よ――イエス・キリストの御名によって、今立ち上がりなさい!
そして癒され、完全にされなさい!