神の提供された方法

God's Provided Way

神の提供された方法

ウェストパームビーチ フロリダ州 アメリカ合衆国

説教番号: 53-1201

日付: 1953年12月1日(53-1201)

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1. 天の父なる神よ、

今夜もいつものように、聖歌を歌い、御言葉を読み、そして語らせて

いただきます。けれども、この後の礼拝のすべては、あなたの導きと

助けがなければ、全くむなしく終わってしまうことでしょう。

私たちは信じます。あなたがここにおられることを。

そしてあなたはすべてをご存じであり、愛する者たちのために、

すべてのことを益となるように働かせておられることを。

2. さて、今ここに私の手には、病める人、苦しむ人のもとへ送られる幾つかの手紙とハンカチがあります。私は聖書のことを思い起こします。イスラエルがエジプトを出たあと、行き詰まり、前には紅海が広がり、後ろからは荒野とファラオの軍勢が追って来たとき、一人の記者がこう書きました――「神は火の柱を通して見下ろされ、御子らの約束の地への道をふさいでいた海にお怒りになられた。そして海は恐れおののき、後退して、イスラエルが渡れる乾いた道を開いた」と。

主よ、あなたはいまも同じ神です。

いま私が持つこれらのハンカチは、たとえばどこか湿地帯に住む年老いた父親のためのものかもしれません。あるいは、手に杖を持ち、床をたたきながら道を探す盲目のお母さんのためかもしれません。または熱にうなされる小さな子どものため、必死にこのハンカチの戻りを待ち望んでいる母親のためかもしれません。主よ、あなたは脱出の道を備えてくださるお方です。

私は祈ります。あの聖書の中で、聖パウロの身体から取り出されたハンカチが病める人々に置かれたことを、私たちは覚えております。もちろん私たちは聖パウロではありません。けれども、あなたは今も変わらずイエスであられます。ですから神よ、いま私たちがこの信仰の祈りをもって祈るとき、この小さな記念のしるしが病める人の上に置かれるとき、どうか再び御目をそこに注ぎ、彼らを縛っている敵が恐れをなし退くようにしてください。そして彼らが健やかさという約束の地へと渡って行けますように。主よ、どうか一人残らず癒されますように。

また今夜、この場においても同じようにしてくださいますように。聖霊がこの集会をとりおさめ、この集まりのただ中に入り込み、人々の心の奥深くまで働きかけてくださいますように。その臨在のゆえに、今夜大いなるみわざがなされますように。

私たちはこれを、主イエスのお名前によって祈り求めます。アーメン。

3. 病める人々のために祈り、ハンカチを送る働きを通して、私の証しの大部分はいただいてきました。実際にそうなのです。主がなさった数えきれないほど多くのこと――それは、より多くの人々に届くことができるからです。私たちはジェファソンビルから一日におそらく千枚ほどを郵送しています。ですから、いつでも必要であれば、私たちはお送りします。

もし今すぐ必要でなくても、聖書の中に挟んでください。そして「使徒行伝」19章のところに置いておくのです。ああ、もし時間が許されるなら、どれほど多くのことがそこで起こってきたかを皆さんにお話ししたいのです。

時には、それを聖書の「使徒行伝」19章の上に置いておきなさい。今すぐ用事がなくても、そのまま置いておけばよいのです。そして、いざという時が来たなら、そのハンカチを取り、クループにかかった子どもの上や、どんな病の上にでも置いてみてください。そうすれば、そこで何が起こるかをご覧になるでしょう。

実に驚くべきことが、私たちの主によってなされてきたのです。

4. 大事なのは、これはただの「触れ合いのしるし」にすぎないということです……。私がこれらをお送りするときには、定型の書簡を添えています。同時に私は、皆さんにお願いしています――午前九時、正午十二時、午後三時に祈ってください、と。それは世界中で同じ時刻に祈るのです。

ですから、古い国々では真夜中に人々が起き上がり、同じ時間に祈りの鎖を保つのです。文字通り、何万、何十万という人々が同じ時に祈っているのです。天を祈りで揺さぶるようにしているのですから、神は必ずお聞きくださいます。

その中にどれほど多くの忠実な人々がいることでしょう。互いのために祈り合い、皆が心を合わせて祈っているのです。彼らはそれを手に取り、祈りをささげました。私は、そのようにして主がなされた数えきれないほどの栄光の証しを持っています。

5. 今、私は立っているのもやっとというほど、これまでになく疲れ切っております。もう数週間にわたり、多くの幻を見せられてきました。しかし主がここまで助けてくださったことを、私は心から感謝しています。主の愛と憐れみに、私たちは皆、感謝しています。そして今夜も、主が共にいてくださり、私たちを助けてくださることを信じています。

これからほんの少しだけ、御言葉から語りたいと思います。もし「テキスト」と呼べるならそう呼びましょう。けれども私は、あまり「テキスト」をとるのが得意ではありません。というのも、ほとんどの場合、それにとどまらないからです。ただ、教会に行く前に「今夜はこれについて語ろう」と思って聖書を読むのですが、必ずといっていいほど、一人静まると、主は別のことを語るようにと導かれるのです。ですから私は「今夜はこれを語ります」と宣言したことがありません。ただ主が語れと言われることを、そのまま語るだけです。それがすべてなのです。

主がくださるままに、それを人々に分かち合うだけです。時には、少し厳しく聞こえることもあるかもしれません。けれども、それは必ずあなたの益となるのです。それは私自身を救い、この二十三年間、福音を宣べ伝え続ける中で、いつも喜びに満たしてくれました。

ただ一つだけ、私の人生に悔いがあるとすれば――それは、幼い少年のころから、イエス・キリストと罪の赦しを知らなかったことです。

6. そして親御さん方に申し上げます。どうか、お子さんたちの前に正しい家庭の姿を示してあげてください。それが一番大切なことなのです。もし私がクリスチャンホームで育っていたなら、もっと早くから主イエスに仕えることができ、今夜までにさらに多くの魂が救われていたかもしれません。けれども、私の家族は信仰の家庭ではありませんでした。ただ神の驚くべき恵みによって、私は救われたのです。

それからというもの、私は家族の幾人かを主に導くことができました。母をバプテスマに導き、父も心をキリストに捧げ、私の腕の中で天に召されました。祖父も九十近くになってから、川で私がバプテスマを授けました。兄弟たちの中にも救われた者がいます。私の息子もそうです。そして娘は七歳で、もう一人はまだ幼すぎて、バプテスマを受ける年齢ではありません。彼女は二歳で、もし成長するなら、そのときに私は必ずバプテスマを授けるつもりです。彼女はすでに主に捧げられています。私たちはそれを「献児式」と呼びます。赤ん坊を主におささげするのです。

私たちはできる限り、聖書に忠実に従うよう努めています。聖書のどこを見ても、キリストや弟子たちが赤ん坊にバプテスマを授けた箇所はありません。ただ子どもたちを主のもとに連れて行き、主が腕に抱き、祝福されたことが記されています。主はこう言われました――「幼子たちをわたしのところに来させなさい」。

もしあなたが幼児に洗礼を施したいと思うなら、それでもよいのです。あるいはハンカチを油で塗る人々もいます。それも良いことでしょう。神の祝福がそこにあるなら、それは結構なことです。ただ一つ思い出していただきたいのは、少しの間お許しください、聖パウロは油を塗ったのではありませんでした。彼らはパウロの身に触れていたものを取って行ったのです。そうではありませんか?彼らはパウロの体から取って行ったのです。

7. パウロは、自分の手に触れたものが祝福され、それを人々に届けることができると知っていました。では、パウロはその御言葉をどこから受け取ったと思いますか?

シュネムの女のことを覚えておられるでしょう。彼女の子どもが死んだとき、なぜ子どもが死んだのかを知ろうとして、彼女はエリシャのもとに行きました。そのときエリシャは杖を手にしていて、従者のゲハジ(だと思います)にこう言いました――「この杖を持って行きなさい。もし誰かに会っても口をきくな。ただ子どもの上にその杖を置きなさい」と。

エリシャは、自分の手で触れたものが祝福されることを知っていました。神が彼の内におられることを知っていたのです。けれども、大切なのは、シュネムの女自身がそれを信じることでした。ところが彼女は、それを信じませんでした。彼女は「神は預言者の内におられる」ことは信じていましたが、「杖の中におられる」とは信じなかったのです。だから杖はその働きをしませんでした。

もし彼女がそれを信じていたなら、杖も同じように働いたはずです。そう思いませんか?その通りです。

8. けれどもエリシャが来たときにしたことといえば、ただ自分の体をその子どもの上に伏せたことでした。すると神がその子に命を戻されたのです。そうではありませんか?神はご自分のしもべの内におられました。そして、あの女が信じていたのはまさにそこでした。だから、それが起こらなければならなかったのです。

私は祈りの列に人々を呼ぶとき、それを見ます。彼らが壇上に上がってくると、私は最初は通り過ぎようとするのですが、すぐにわかります――彼らはそうではなく、私に祈ってもらいたい、手を置いてもらいたい、何かしてもらいたいと願っているのです。そしてそれが行われるまでは、彼らは受け取らないのです。彼らが期待しているのは、まさにそれなのです。

9. 聖書の中に、二人の人の例があります。ある人――ヤイロはこう言いました。「どうか私の娘の上にあなたの手を置いてください」。それはイエス様の御手でした。

しかし、ローマの百人隊長はこう言いました。「私は、あなたが私の家にお入りになるにふさわしい者ではありません。ただ御言葉をひとことおっしゃってください」。

ご覧のように、信じ方はそれぞれ違います。そして、それがその人にとっての結果になるのです。

ですから、もし今夜のお話に小さな題をつけるとすれば、「神の備えられた道」といたしましょう。

この箇所でお読みするのは、神の大いなる預言者エリヤについてです。そしてまた、病人を呼ぶとき――正しくは長老たちを呼び、彼らが病人に油を注ぎ、その上で祈るようにと教えられています。「信仰の祈りは病める人を救う」と聖書は言っています。そしてさらに、「義人の熱心な祈りは大きな力がある」とも記されています。

10. 義人とは、決して「罪を犯さない人」のことではありません。聖書にもこうあります――「エリヤもまた、私たちと同じような弱さを持つ人であった」。彼にも浮き沈みがあり、葛藤がありました。その生涯を見ても、私たちと同じように失敗や落ち込みがあったことがわかります。時には迷い、時には怒りに支配され、うまくいかないことも多くありました。けれども、なお彼は義人と呼ばれました。なぜなら、自分の不完全さを告白し、神を信じたからです。それこそが彼を義としたのです。

私たちは自分自身のうちに義があるのではありません。私たちが義とされるのは、ただイエス・キリストを通してです。私自身の力では聖められることはできません。私が聖められるのは、神の御前に私の身代わりとして立ってくださるイエス・キリストによるのです。それは私の聖さではなく、キリストの聖さです。私の聖さは何の役にも立ちませんが、キリストの聖さは完全に有効です。なぜなら神はキリストを受け入れてくださったからです。そして、神がキリストを受け入れられたとき、キリストのうちにある私たちもまた受け入れてくださったのです。――アーメン!これこそが真実なのです。ですから、私たちは自分自身に頼る必要がありません。

だからといって、「罪を犯してもよい」ということにはなりません。兄弟姉妹、もしあなたが罪を犯すなら、それは神から離れてしまうことです。唯一なすべきことは、自分の罪を告白し、神と正しい関係に立ち返ることです。罪を愛する心、罪を望む思いがまだ心の中にあるなら、それが取り除かれるまで祭壇にとどまらなければなりません。

もちろん、私たちは罪を犯してしまうでしょう。避けられないからです。しかしそれは「わざと犯す罪」ではありません。聖書にこうあります――「真理の知識を受けたのちに、なお故意に罪を犯す者には、もはや罪のためのいけにえは残されていない」。それでも、私たちは日ごとに弱さゆえに罪を犯すものです。

11. 私たちは、常に心が背教しやすい者です。ですから絶え間ない祈りが必要なのです。パウロもこう言いました――「私は日々死ぬ」と。もしパウロでさえ日々、自分に死ななければならなかったとしたら、私たちはなおさらどうでしょうか。私もまた、死ぬまでそうし続けなければなりません。神との正しい関係を保つために、日ごとに自分に死ななければならないのです。そしてそれこそが、神の道に従うということなのです。

物事には二つの道しかありません。正しい道と間違った道です。その二つは「自分の道」と「神の道」と言い換えることもできます。自分の道と神の道を同時に歩むことはできません。神の道に入るためには、自分の道を捨てなければならないのです。自分のやり方を離れなければ、神のやり方には入れません。ですから、自分の考えを捨て、自分の思いを捨て、すべてを主にゆだねて、ただ一つのことに頼るのです――「主がこう仰せられる」と。これだけです。そうすれば、確かに正しい道にいるとわかるのです。

12. たとえ目に見えず、五感のどれを使っても「それは間違っている」としか思えないとしても――それでも、神がそう仰せられたからこそ、それが正しいのです。これこそが正しさを決めるのです。神の備えられた道は御言葉であり、今も御言葉です。人が生きるための神の備えられた道は、五感によってではなく、御言葉によるのです。

神は最初に人を御自身のかたちに造られました。それは神のかたちであり、神は超自然のお方であり、超自然のお方としての人でした。その後、神は人を五感の中に置かれました。けれども、その五感のどれ一つとして、天の故郷を証しするものではありません。五感が示すのは、この地上の住まいのことです。神は人に五感を与え、この地上の生活に触れるために用いるようにされたのです。けれども、それは神に触れるためのものではありません。

この五感は人の肉体を支配します。しかし、内なる人を支配するものは二つしかありません。それは「信仰」と「不信仰」です。そして今夜、あなたはそのどちらか一方を持っているのです。

13. エデンの園には二本の木がありました。一つは「知識の木」、もう一つは「いのちの木」です。人は知識によって神を知ることは決してできません。どれほど教育を受けても、あなたの牧師がどれほど賢く、多くの学位を持っていたとしても、神は教育によって知ることはできません。また科学的な研究によっても知ることはできません。神を知る唯一の方法は、信仰によるのです。

たとえ豆とコーヒーの区別すらつかなくても――それでも、もしあなたが信仰によって神を受け入れるなら、それは必ず「信仰の行為」となるのです。

人が「いのちの木」から食べていたとき、彼は永遠のいのちを持っていました。しかし、その「いのちの木」から離れ、「知識の木」に移ったとき――その最初のひと口を食べたとき、神との交わりを断ち切ってしまいました。そして「知識の木」から食べ続けるごとに、人は自らを滅ぼしてきたのです。

14. 少し前のことですが、大きなストライキがあった時に、私は道を歩いていて、石炭を積んだ荷馬車が通ってくるのを見ました。そしてこう言いました。「おお、主をほめたたえます。ストライキが終わったのだろう、きっと鉱夫たちが仕事に戻ったのだ」と。電気も止まり、いろいろなことがありましたから、私は「これは神に感謝すべきことだろうか」とも思ったのです。

しかし皆さん、どうか覚えていてください。この「知識の木」からの最初のひと口を人が食べたときから、知識をかじるたびに人は神から遠く引き離されてきたのです。そして教育によってすべてを得られると考える時、それはますますそうなのです。

私のところには、あらゆる学位を持った人たちがやってきました。そしてこう言うのです。「ブラナム兄弟、私は救われたいのです」と。そうです、博士号や神学博士号、DDだの、LLDだのを持った人たちです。しかし、それは何を意味するのでしょうか?――何の意味もありません。ただ「頭の中」に多くを持っている、というだけです。しかし問題は、「心の中」にどうなのか、ということなのです。そこにすべてがかかっているのです。

15. 神を知るのは「系図学(genealogy)」によってではありません。「膝をつく(kneeology=ひざまずくこと)」によってです。神を知るのは本を勉強することではなく、ひざまずいて祈ることによってなのです。

さて、人は最初に「火薬」を発明しました。それで何をしたでしょうか?――仲間を殺すことに使いました。それも「知識の木」の実でした。次に彼は「自動車」を造りました。するとどうなったでしょう? 自動車は、すべての戦争を合わせた以上の命を奪ってきました――これも知識です。そして今では「水素爆弾」を手にしています。さて、それを一体どうするつもりでしょうか。ご覧ください、人は知識の木から食べ続けることで、絶えず自分を滅ぼしているのです。

ですから、知識や誇り高ぶった知識を忘れ、ただ一つのことを覚えていてください――「主はこう仰せられる」と。それこそが神があなたに信じてほしいこと、つまり神の御言葉なのです。その通りです。それが人のために神が備えられた道であり、昔も今も変わることはありません。

16. これまでに神の御言葉をそのまま受け取った人――そして世界で本当に大きな働きをした人は、みな御言葉を信じた人でした。そうなのです。歴史をさかのぼってみてください。ジョージ・ワシントンやエイブラハム・リンカーン、ほかにも偉大なアメリカの指導者たち、そして歴史に名を残した多くの偉人たち――彼らはいずれも神を信頼した人々だったのです。これこそが神の道なのです。

さて、人がまだ神の御手の中で守られていたときはよかったのですが、自分でやろうとしたとき、途端にその道は険しくなりました。そして彼は気づいたのです――自分は神の御前に、覆いなしでは立てないということを。そこで神は彼に覆いを備えられました。皮で衣を作り、彼に着せられたのです。それによって人は覆われ、神と会うことができるようになったのです。これこそが神の備えられた道でした。

17. 人は知識によって、自分の道を作ろうとしました。こう言ったのです――「ああ、私は裸だ」。それで彼はイチジクの葉をつなぎ合わせ、自分に前掛けを作りました。けれども、それでは通用しないことがすぐにわかったのです。結局、彼らは自分の方法ではなく、神の方法を取らなければなりませんでした。

そして今日もまた、人々は自分の道を作ろうとしています。「私は教会に行っています。これこれを行っています。私は良い人間です」と。もちろん、それ自体は悪いことではありません。しかし、それが神の方法ではないのです。

神の方法――それは、誰かがあなたのために命を捨てなければならなかったということです。それは御子キリスト・イエスでした。その血が、過去も、今も、そしてこれからも、罪人のため、またあらゆる必要を抱える人々のために、神が備えられた唯一の逃れの道なのです。

それは血を通してです!この世のどこを探しても、神が備えられた道はただ一つ――イエス・キリストの血潮を通してのみです!

18. つい最近のことですが――ここに今夜も多くの会員が座っている、ある大きな有名教会の話です。私は新聞記事を読みました。そこには、彼らが讃美歌集から「血の歌」を取り除こうとしている、と書かれていました。「私たちは屠り場のような宗教は要らない。もっと上品で敬虔なものが欲しい」と言うのです。

けれども、それでは仏陀やそのほかの宗教と同じレベルに落ちてしまうのです!よく聞いてください――血を取り除いてしまったら、もはや救いはないのです。それで終わりです。なぜなら、救いは血を通してしか来ないからです。いのちは血にあり、その血がささげられたからこそ、罪の赦しは血の流しによってのみ与えられるのです。

私は古き良き「血に満ちた信仰」を愛します。それこそが私の信じるものです!神は御子が苦しみ血を流されたその場に目を注がれました。その血は私たちのために流されたのです。そして私たちは、その血を受け入れなければならないのです!

19. そして覚えてください。ただ「受け入れます」と言うだけでは十分ではありません。神ご自身があなたを受け入れられたことを、神がご自身で証してくださらなければならないのです。これこそが大切なことです。あなたは神を受け入れることができます。けれども、そのあと神があなたを受け入れてくださるかどうか――それが問題なのです。だから、神があなたを受け入れてくださるまで、そこから離れてはいけません。

そして神があなたを受け入れてくださったとき、神は聖霊のバプテスマによって、あなたを御国の中に封印してくださいます。そのときから、あなたは贖いの日まで守られるのです。そうです、聖書にこうあります――「神の聖霊を悲しませてはならない。あなたがたは贖いの日まで聖霊によって封印されているのだから」。次のリバイバルまで、ですか?――そうではありません!贖いの日まで、です!

そこにはもう、上がったり下がったり、入ったり出たりはありません。本当に神のうちに入れられるのです。見せかけではなく、本当にキリストのうちにあるとき――あなたのすべての心が売り渡され、後ろにある橋はすべて焼き払い、あなたの愛情は上にあるものに完全に向けられます。そしてあなたは、前に置かれた走るべき道を忍耐をもって走るのです。アーメン!

20. ご覧ください――神は道を備えられます。神は「羊」と呼ばれました。私はいつも不思議に思っていました。なぜ聖書の中で、私たちは羊にたとえられているのだろうかと。ここに羊を飼ったことのある人がいるかは分かりませんが、私は少し羊を世話したことがあります。人生の大半を牧場で、牛を扱いながら過ごしてきました。

けれども、もし「本当に無力なもの」を見たことがあるなら――それは迷子になった羊です。羊が迷ったら、自分で道を見つけることはまったくできません。ただ立ち尽くして鳴き続け、やがてコヨーテに襲われるか、何かに捕まってしまうのです。羊は無力なのです。

そして兄弟よ、人が迷っているときもまったく同じです。どれほど自分を立て直そうとしても、救い主が来てくださらなければ、まったく無力なのです。自分を救うことはできません。決してできないのです。豹がどれほど自分の斑点をなめても、あるいはあなたがソーダで一生懸命こすっても、斑点はますますはっきり見えるだけです。同じように、人間は自分の力で改革することはできません。新しいページを開こうと努力しても、駄目なのです。残されている唯一の道、それは御言葉が命じることを受け入れること――すなわち「新しく生まれる」ことです。そうでなければ、迷ったままなのです。

イエス・キリストはこう言われました――「人は水と御霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。その人が小さかろうと、大きかろうと、無学であろうと関係ありません。誰であっても、この条件を満たさなければならないのです。イエス様がそう仰せられたのです。

では、「新しく生まれる」とは何でしょうか?――それは「再生」であり、新しい創造です。人はキリストのうちにあって新しく造られた者となるのです。御言葉を受け入れることによって。

21. 思い起こしてみてください……。神の備えられた道を選ぶ人はいつの時代でも、必ず世から「狂信的だ」と見下されてきました。歴史を通してそうでした。世の人々にとって、神と信仰と救いが「人気のあるもの」であったことは一度もありません。

主はこう言われました――「もしあなたが世を愛するなら、世は自分のものを愛する。しかし世を愛する者のうちには、神の愛はない」。その通りです。

ですから、信仰によって歩む道は、いつの時代も狭く、戦いの多い道でした。しかし、それは信じる人にとって「つらい道」ではありません。むしろ、世の人々から見れば、信仰者は「愚かだ」「おかしい」と映るのです。

けれどもそれはいつも同じことでした。なぜなら、彼は自分のために神が備えてくださった「脱出の道」を受け入れたからなのです。

22. 洪水前の世界を思い描いてみてください。ノアという父親がいました。ある日の午後、畑仕事を終えて家に帰り、妻にこう告げたとします――

「今日、主が私に語られた。大きな箱舟を造るようにと」

すると妻はきっとこう答えたでしょう。

「まあノア、あなたは農夫でしょう?どうして箱舟なんて造れるのですか?」

ノアはこう言ったのです。

「神が仰せられた。やがて雨が降り、地上すべてを洪水が覆い、人は皆、溺れてしまうと。しかし、もし私が御言葉に従うなら、必ずその裁きから逃れると」

そうです、皆さん。私たちが救われる道は、いつもただ一つ――神のご計画に従うことなのです。それ以外に逃れる方法はありません。

23. 私は目に浮かびます――ノアが大きな乾いた野原の真ん中で、一生懸命に箱舟を造っている姿を。天から雨が一滴も降ったことのない地で。これまでに空から水が降ったことなど一度もなく、雲すら見たことのない時代に。けれどもノアは、そこに立って黙々と箱舟を建て続けていたのです。

考えてみてください、それがどれほど馬鹿げたことに見えたか。肉の思いを持つ者には、ノアはまるで狂人のように見えました。

夕方、町で働いていた人々が仕事から帰るときのことです。彼らは互いに話しながらこう言ったでしょう――

「なあ、あの“雨が降る”なんて話、信じられるか? あの年寄りの変人をどう思う?あんな狂ったやつ、見たことがない!天から水が降ってくるなんて言いながら、箱舟なんか造ってるんだぞ。頭がおかしいに決まってる。あの空には何もないじゃないか!神はいつも地上の灌漑で畑を潤してきたんだ。空から水なんて降るわけがない!」

24. しかし神はノアに告げられました――「これが脱出の道である」と。そしてノアはその通りに箱舟を建て続けたのです。イエス様もこう言われました――「ノアの日のようであるように、人の子の現れる日もまたそうである」。

地上には、人々の目にはまったく狂気のように見える「神のご計画」が存在するのです。その通りです。愚かに思えるようなことが、実は神のプログラムなのです。なぜなら、それは御言葉をそのまま受け取ることだからです。そして彼らは箱舟を建て続けていました。その箱舟こそ、イエス・キリストなのです!そうです、イエス・キリストのうちに人々を導き入れようとする働きなのです。

神はノアに告げました――「これが唯一の脱出の道である」と。そして実際、それは唯一の道でした。ノアは百二十年間説き続けましたが、人々は彼を無視し、笑い、からかい、あざけり、嘲りました。

「ノアの日のように」――彼らはどんな時代を生きていたでしょうか?飲み食いし、めとり、嫁がせ、あらゆることをしていました。今の時代とまったく同じです。

しかも彼らの文明は、私たちよりはるかに進んでいました。そう思えないなら、どうぞ試してみてください。あのピラミッドをもう一度造れるでしょうか?あのスフィンクスを建てられるでしょうか?エジプト人が行ったミイラの防腐処理を、私たちに再現できるでしょうか?そうすれば、当時の文明と今の文明とがどれほど隔たっているか、はっきりとわかるでしょう。私たちは、あの時代からはるかに遅れているのです。

25. 今よりもはるかに進んだ文明の時代に、一人の男が野原で箱舟を造っていました。「雨が降る」と彼は言ったのです。しかし世界が造られてから二千年の間、一度も空に雲がかかったことはなく、雷も稲妻も、そんなものは一度も見たことがありませんでした。

けれども神はノアに告げられました――「そうなる」と。神の大いなる御霊がこの地球を揺り動かし、傾け、雲を生じさせるのです。もし神がそう仰せられたのなら、必ずその通りになるのです。

だからノアはすぐに箱舟を造り始め、まるでそれがすでに水の上に浮かんでいるかのように、ピッチを塗り、樹脂を重ねて防水しました。

雨が降るどころではなく、大洪水が起こり、地上すべてを覆い尽くすと神は言われました。そしてノアはその御言葉を信じたのです。神に警告を受け、信仰によって動かされ、箱舟を建てました。神の備えられた方法の中で、働いたのです。

26. ああ!目に浮かびます――ノアが最後の部分を打ち込んでいる姿を。その周りでは人々が笑いながらこう言っています――

「おい、その大きな箱みたいなものをどうするつもりだ?」と。彼をあざけり、からかい、馬鹿にしました。

けれどもノアは気にせず、ただ建て続け、そしてその端に立って、力の限りに説き続けたのです。

そしてついにその日が来ました――神が、もうこれ以上は耐えられないとされた時です。私は想像します――地上全体に、何とも言えない不思議な感覚が広がったことでしょう。まるで今の時代と同じように。人々は落ち着きを失い、「一体これから何が起こるのだろう」とざわめいていたのです。

通りに出て罪人に声をかけても、酒場に入って誰と話しても、誰もがこう感じていたはずです――「何かが起ころうとしている」と。そうです!確かに、何かが起ころうとしているのです。裁きが世界の上に迫っており、人々はそれを感じ取っていたのです。

27. 畑で草を食べている一匹の小羊を想像してみてください。かわいそうに、その小羊は何も見えません。しかし心が落ち着かず、不安を覚え始めます――「何かが起ころうとしている」と。藪の陰では、一頭の獅子が忍び寄っているのです。小羊はその獅子を見ることはできません。けれども、本能的に「何かがおかしい」と感じ取っているのです。

兄弟よ、まさに今の時代も同じです。世界中に闇と暗黒と罪が渦巻き、あらゆる混乱が広がっているこの状況――これは、歴史の中で最大のドラマの舞台を整えているのです。そのドラマとは、イエス・キリストの再臨です!

そして人間は――私たちは――「終わりの日の霊」に入らなければ、終わりの日を迎えることはできません。

28. 癒しの礼拝を持つことはできます――けれども、人々が「癒しの礼拝の霊」に入らなければ、それは起こらないのです。聖霊の満たしを受けることもできます――けれども、人々がそのような雰囲気に入らなければ、それは起こらないのです。

あの日の人々は、地上に裁きをもたらす「その雰囲気」の中にいました。そして今日もまた、人々は同じ雰囲気の中にいるのです――飲み食いし、めとり、嫁がせ、好き勝手に生きている。

しかしその中で、神の栄光が宣べ伝えられ、聖霊の力によって示されているのです。それは「イエス・キリストの復活の実際の証し」として立てられています。その復活は、教会を栄光の中へと連れて行くのです――私がここに立っているのと同じくらい確かなことです!

ところが人々は、それを無視し、心を向けず、背を向けて去っていきます。なぜでしょうか?――彼らは「終わりの日の霊」の中にあるからです。

29. 世界はこうならなければならないのです。もし神が義なる民に御怒りを注がれるとすれば、それは不義となるでしょう。けれども、人々は神を無視し、背を向け、サタンにとらわれてしまったのです。いま彼らはその時に立たされているのです。

しかし今日もまた、神は備えてくださった道を持っておられます――逃れの道です。その道とは、イエス・キリストです。新しく生まれ変わることによって、そこに入るのです。

私は目に浮かびます――初めて稲妻が走り、空を閃光が切り裂いたとき、ノアはこう言ったでしょう。

「さあ、入ろう、妻よ」

息子たちはそれぞれ自分の妻に言いました。

「さあ、来るんだ」

そして彼らは箱舟に入りました。

人々は外でこう言ったでしょう――

「今のは何だったんだ?どこかで光が走ったぞ」

30. けれども皆さん、あのときの引き寄せの力はあまりに強くて、動物の世界でさえ「何かがおかしい」と感じたのです。

私は目に浮かびます――古い母鳥が木の枝にとまり、父鳥はそばでさえずっている。そのとき、最初の稲妻が閃き、しるしと不思議が現れ始めました。父鳥は母鳥にこう言ったことでしょう――

「さあ母さん、急いで箱舟に行こう。これはまさにノアが言っていた通りだ。これは神の霊が私たちのうちに動いているのだ。さあ、箱舟へ行こう!」

また、丘の上で草を食べていた母ラクダと、少し離れたところにいた父ラクダ。稲妻が走り、しるしと不思議が天に現れたとき、父ラクダは母ラクダにこう言ったことでしょう――

「さあ行こう。胸の内で何かが強く引っ張っている。内側で動かされている。私は箱舟に入らなければならない!」

そうです、神ご自身が、彼らが箱舟に入るように定めておられたのです。

31. 私は信じます――今日、あらゆる所にしるしと不思議が現れ、神の御子の来臨が近づいているこの時代に、神によって定められたすべての男や女は、その御声を聞くとき、内側に強い引き寄せを感じるのです。そして一目散に箱舟へと駆け込み、神の備えられた救いの道――安全の中へと入るのです。その通りです。

見てください、しるしが現れ、不思議が起こり、神秘的なことがあちこちで起きています。そうです――空を飛ぶ円盤のようなものまで現れています。けれどもイエス様はこう言われました――「天にもしるしがあり、地にも不思議がある。火の柱と煙の柱があり、それは主の大いなる恐るべき日が来る前に必ず起こるであろう」と。

主はすべてのことを語られました――海のとどろき、津波の襲来、人々の心臓が恐怖で衰えること。歴史上かつてないほどの心臓病の時代。恐れ、不安、国々の間の混乱と争い。

ああ、なんという時代でしょう! 預言者が語った通りです――「馬のない車が大通りを駆け抜け、たいまつのように光り、稲妻のように走る」。すべてが語られていた通りであり、私たちはいまその現実を目の当たりにしているのです。

32. これは何でしょうか?――神があなたに語っておられる警告です――「神に会う備えをせよ!」 準備しなさい!

「なぜ神に会う準備をしなければならないのですか、ブラナム兄弟?」

兄弟よ、あなたは結婚の準備をしますね。他のあらゆることのために備えますね。それなら、これらのしるしを見ている今こそ、神に会う備えをすべきなのです。

髪に白いものを見つけるたびに、それは「神に会う備えをせよ」という合図です。葬儀屋の前を通るたびに、「備えよ、神に会うために」と語りかけています。赤子が生まれるたびに思い出しなさい――「備えよ」。葬列を目にするたびに――「備えよ」。福音を耳にするたびに――それは神からの警告です――「神に会う備えをせよ」と。

神は脱出の道を備えておられます。今すぐイエス・キリストのうちに入りなさい。そこが安全だからです。動物たちは皆、二匹ずつ箱舟に入りました。神は、ほんとうに御怒りから逃れたいと願う者には、必ずその道を備えられるのです。

さあ、さらに考えてみましょう。聖書の最も古い書のひとつ――ヨブを。彼は全身に腫物ができ、苦しみに立たされていました。ある人々はこう言いました――「ヨブは罪を犯したのだ」と。今日でも同じです――「あの人にこんなことが起こった、だから罪人に違いない」と。

33. けれども、それは決して「その人が罪人である」という証拠ではありません。まったく違います。時には神ご自身が、病を許されることもあるのです。

しかし、もしあなたの心がヨブのように「自分は神の前に清い」と確信しているなら、安心してよいのです。ヨブにも「慰める者たち」がやってきました。けれども彼らは七日間も背を向けて座り続け、ヨブを「隠れた罪人」だと責め立てました。

しかしヨブは答えました――

「お前は愚かな女のように語る。主が与え、主が取られる。主の御名はほむべきかな」

そうです、兄弟よ。ヨブは一つのことを知っていました。神こそが唯一のよりどころである、と。だからこそ彼はこう言えたのです――

「私は裸でこの世に生まれ、裸で去るだろう。しかし主の御名はほむべきかな!」

そのような姿勢を持つ人――つまり、御言葉にしっかりとしがみつき、放さない人には、神は必ず何かを与えてくださいます。そうです、神はご自身の義務として、その人を顧み、引き寄せてくださるのです。

34. 今夜ここに座っておられる皆さん――あなたがたは「神の癒し」を求めておられますね? 神の癒しが本当にあると信じますか?

もしあなたがたが心の底からそれを信じるなら――神は必ずご自身の責任として、それをあなたに現してくださいます。アーメン!

なぜなら、神の御言葉がそれをはっきりと教えているからです。

35. そうです、ひとりの預言者がいました。ヨブもまた預言者でした。しかし彼は、自分に対する神のみこころがどうであるか、はっきりとはわからずに待っていたのです。何をすべきかわからなかった。すると次々と物事がうまくいかなくなり、慰めに来た者たちも彼を慰めることができませんでした。

そのとき、神はご自身の義務として動かれました。東の方からひとりの若者――エリフがやって来たのです。

エリフはヨブの前に立ち、こう言いました。

「さあ、ヨブ、子どもにもわかる形で話してみよう。木は枯れても、また芽を吹く。花は散っても、また咲き誇る。しかし人は横たわり、息を引き取れば、朽ち果ててしまう。息子たちが彼を敬っても、彼はもういない。ああ、神よ、私を墓の中に隠してくだされば…」――あなたはそう語った。

けれどもエリフは言いました。

「だが待て、ヨブよ。あなたは神を誤って訴えている。花は罪を犯したのか? それでも神は、その花が再び生きるための道を備えておられるのだ。」

36. 私の故郷、北の国でも、皆さんと同じように女性たちは花を愛します。夏の間、小さな花々は美しく咲き誇ります。けれども、やがて霜が降りてきます――あるものは若く、あるものは老いていても、霜が彼らをかじれば、それが死です。

花は小さな頭を垂れ、やがて花びらが落ちてしまいます。そして最後に小さな黒い種が地に落ちる――それがまるで葬送の行列のようです。

秋の雨が降り出すと、その涙のような雨が種を地に覆い隠します。やがて冬がやってきます――いま私の故郷では、もう十数センチの雪が積もって凍りついているでしょう。花びらは消え、球根は乾き、小さな種は裂けて中身が流れ出してしまったのです。

37. それは12月、1月、2月、3月、4月、そして5月までも続きます。やがて4月の終わり、5月の初めがやって来ます。

見ると――種は消え、実もなく、花びらもなく、茎もなく、その花に属していたものはすべて消え去っています。目に見える限り、その花の痕跡は何ひとつ残っていないのです。

それで本当に消えてしまったのでしょうか?――いいえ! 神は道を備えておられます。小さな「いのちの芽」が、どこかに必ず残されているのです。

そして、東から太陽が昇り、暖かな光で地を照らすそのとき――その花は再び生きるのです! なぜでしょうか? 神がその花の命を再び生かす道を備えられたからです。

もし神が花のために蘇りの道を備えてくださったのなら――ご自分のかたちに造られた人間には、なおさら「生き返る道」が備えられているではありませんか! そうです、神は私たちのために、再び生きる道を備えてくださったのです。

38. しかしヨブは語りました――人は罪と背きのゆえに神から断ち切られてしまったのだ、と。

そこでエリフは彼に説明し始めました――「そうだ、あなたの背きがあなたを神から遠ざけてしまったのだ」と。ヨブはそれを聞き、深く思い巡らしました。

そしてしばらくして、エリフはこう告げました――

「だが、やがて来られるお方がおられる。義なるお方が、裂け目に立ち、ひとつの手を罪深い人に、もうひとつの手を聖なる神に置いてくださる。そのとき、人は再び甦るのだ――ちょうど春に花が地から芽を出すように!」

そしてさらにこう言いました――

「花が春に芽吹くのをあなたは見る。しかし人は横たわり、息を引き取るとき、あなたは言う――『彼はどこにいるのか?』となぜか? それは、人が神の備えられた道から外れてしまったからだ。」

39. しかし――やがて来られるお方がおられる! 人を再び正しい道へと戻してくださるお方だ。ハレルヤ!

ああ、このことを思うと、私の内なる存在が叫びます――「どうすればこれを人々に伝えられるだろうか!」

そうです――来られるお方は、人を神の道に戻してくださるのです。この罪の裂け目に御手を置き、ご自身が罪を担われ、橋を架けてくださる。そのお方によって、人は再び地から甦ることができるのです!

ヨブはそれを見たのです。彼は預言者でしたから、この若き預言者エリフの言葉に耳を傾けました。そして気づけば、神が双眼鏡をヨブの目に当ててくださり、彼は四千年先を見通したのです。

ヨブは叫びました――

「私は知っている、私の贖い主は生きておられる。終わりの日に、彼は地の上に立たれる。たとえこの皮膚が虫に食われても、なおこの肉体において、私は神を見る。私自身の目で、他の誰でもなく、この目で神を見るのだ!」

そうです、彼はキリストの復活を見たのです。彼は「私の目が、他の誰でもなく、私自身の目で見る」と言いました。ヨブはイエスを見たのです! 彼は神の備えられた道にいることを悟りました。命が彼の内にありました。だから彼は言えたのです――「私はその日、必ず甦る! なぜなら、私は彼を信じているからだ」と。

終わりの日にイエスが立ち上がり、人のために橋を架けてくださる――神はいつの時代も、信じる者のために「逃れの道」を備えてくださったのです。

40. 私は思います――モーセのことを。イスラエルの子らがエジプトで苦しめられていたときのことを。彼らはあの地で深く苦しみ、エジプトの監督たちに打たれ、虐げられていました。

けれども神は彼らのために「逃れの道」を備えられました。モーセという名の人を遣わされたのです。

しかし、モーセが民を導き出す前に、イスラエルの民は罪を犯し、神から離れていました。モーセにできる唯一のこと――それは神に従うことでした。

そこで神は彼に命じられました――

「小羊を取り、いけにえとし、その血を家のかもいと門柱に塗りなさい」と。

41. ここにどれほど美しい意味が込められているか、注目してください。かもい――戸の上に。そして門柱――戸の両側に。けれども、下には塗ってはならない。

キリストの血は「踏みにじる」ものではなく、「仰ぎ見る」ものだからです。

それは戸口において――十字架のかたちそのものでした。

その時代、家ごとの父親が自分の家族の祭司でした。だから、それぞれの家が小羊を殺さなければならなかったのです。その小羊は十四日間取っておかれ、吟味されなければなりませんでした。これは完全にキリストの型です――あらゆる告発者たちの前に引き出され、試みに遭われました。しかも、彼には一点の傷もなかったのです。

では、この神の小羊に傷を見つけられるでしょうか? もちろん、友人たちは彼の潔白を証言するでしょう。けれども、敵たちを見てみましょう。

彼の大敵――イスカリオテのユダ。彼がイエスを見つめながら言いました。

「私は罪なき血を裏切った」と。

そして銀貨を大祭司の足もとに投げ捨て、自ら首をくくったのです。

次に、ローマの百人隊長を見てみましょう。イエスが息を引き取ったとき、大地が震え動くのを感じ、彼は胸に手を当ててこう言いました。

「まことに、この方は神の子であった」と。

42. 天の御父ご自身が、そのとき天の幻を閉ざされました。真昼であるにもかかわらず、預言者が告げた通りに、世界は真夜中の闇となったのです。

神はこう言われました――

「これはわたしの愛する子である」と。

確かに、その通りでした。

次にピラトを見てみましょう。裁きの座に座るあの大人物です。彼は朝早くから引きずり出され、心は乱れ、苦々しさでいっぱいで、このイエスという男を心底憎んでいました。

そして人々はイエスを連れてきて、裁判の座に立たせました。ピラトはイエスに奇跡を行わせようとしたり、何か自分を喜ばせるようなことをさせたかったのです。

43. ご覧ください。ピラトが今まさにイエスを死刑にしようとしていたそのとき――道の向こうから何かが激しく近づいてきました。何でしょう? 馬のひづめの音です。宮殿から全速力で駆けてきたのです。

ひとりの男が馬から飛び降り、駆け上がってきました。それは宮殿の兵士でした。彼はポケットから一通の手紙を取り出し、ピラトの前にひざまずいて差し出しました。

ピラトはその手紙を受け取り、開きました。怒りに燃え、今にもイエスを断罪しようとしていた彼の手が震え始め、膝がガタガタと打ち震え出しました。

何がその手紙に書かれていたのでしょうか? 何がこの冷酷な総督を一瞬にして恐怖に変えたのでしょう?

少し彼の肩越しに覗いてみましょう――それは異邦人の妻からのものでした。

「この正しい人に関わってはなりません。私は今日、この方のゆえに夢で多くのことに苦しみました。」

その言葉を読んだピラトは叫びました――

「水を持って来い! 私はこの人の血には関わりがない。私は無罪だ!」

ハレルヤ! 神はそこでも「逃れの道」を備えておられたのです――ただ、彼がそれを受け入れさえすれば。そうです、その通りです。

44. 神は今夜もあなたのために「逃れの道」を備えておられます。

それなのに、あなたはピラトと同じことをするのですか――「私は関わりがない」と言って、その御手を洗い流そうとするのですか?

いいえ! あなたには決してできません。

多くの人々はピラトを正当化しようとします。けれども、決してそうではありません! ピラトが手を洗ったことで義とされたのなら、あなたも同じようにできるはずです。

しかし――あなたがこの集会で毎晩見ているように――「私は何も関わらない、元に戻る」と言って自分の手を洗おうとしても、それはできないのです。

あなたの手からそれを洗い流すことはできません。

ご存知のように、ピラトの最後は悲惨でした。彼は北のノルウェー、スウェーデンのあたりで、自ら命を絶ちました。そして今でも毎年、その地には人々が集まります。彼がイエスの血を洗い流そうとしたその水が、青く湧き出すのを見に行くのです。迷信かもしれませんが、人々は今もなお集まるのです。

いいえ、決して洗い流すことはできません!

45. エジプトにおいて神はモーセに仰せになりました――

「今、呼び集めよ……」

ああ、私はこの言葉を愛します。神はこう言われました――

「わたしは区別を設ける。そうだ、神は区別を設けられる。わたしはエジプト人とイスラエルの子らとの間に違いを置く。その違いは、小羊の血が流されることによって示されるのだ。」

呼び出され、分けられたのです。神はいつも「分離する者」を呼び出されます。

しかし今日、多くの教会の人々はこう言います――

「私たちはこの若者を牧師に欲しい。彼はちょうど大学を出たばかりで、社交的にお酒も嗜むし、よく人に交わることができる」

けれども、神が欲しておられるのは「交わりの達人」ではありません!

神が求めておられるのは「分離する者」なのです!

「パウロをわたしのために分けなさい」――神はそう言われました。

世のものから分離しなさい。

ああ、神よ、憐れんでください! 私たちに、昔ながらの説教者たちをもう一度お与えください――イエス・キリストの混じり気のない福音を、黒は黒、白は白と、まっすぐに語る説教者を!

バプテスマのヨハネが言ったように――「斧はすでに木の根元に置かれている」と。

ああ、どうかそのような説教者をもう一度起こしてください! そうすれば私たちは再び神の道に立ち返ることができるのです。アーメン!

46. さて、よく注意して聞いてください。神はこう仰せになりました――

「その小羊を夕暮れに屠れ」と。

それは完全にキリストの型です。キリストも夕暮れに殺されました。

そしてイスラエルの全会衆がその死を目撃しなければなりませんでした。まさしく、彼らはキリストの死を目撃したのです。

さらに、その血を戸口に塗るように命じられました。その夜、死の使いが国中を通るからです。血のないところには、死が臨むのです。

兄弟姉妹よ、もし「死の使い」が地を行き巡っている時があるとすれば――それはまさに今夜です!

彼は教会の戸口にまで来るのです。祭司が立っているその戸口に。

そして、もしその教会がイエス・キリストの血とその力を否定するなら――その教会には「神の栄光は去った」と記されるのです。

すると死の使いはその中に入ります。それで終わりです!

その教会は形式ばかりになり、霊的に死んでしまい、神の力を否定するのです。そして次に気づいたときには、死が会衆全体を覆っているのです。

彼らを説得しても無駄です。彼らはもう信じることができないのです。

47. さて、この「死の使い」に注目してください。

エジプトではこう定められていました――太陽が沈み、闇が広がったとき、一度その小羊の血の下に入ったなら、出発の合図が与えられるまでは、その血の下から決して出てはならない、と。

兄弟姉妹よ、これは今の私たちにとっても大切な教えです。

血の下に入る――戸のかもいと門柱に血が塗られ、その家に入った人は、エジプトを出る「行進の命令」が下るまでは、そこに留まり続けなければなりませんでした。私はこのことを深く愛します。「そこに留まる」のです!

私は目に浮かびます。あの夜、イスラエルの若い娘のところへ、エジプトの娘たちが訪ねてきて言いました――

「さあ、リベカ、出ておいで。今夜はパーティがあるのよ!」

けれどもリベカは答えました。

「ごめんなさい、行けないの。」

「どうして?」

「私たちは血の下にいるの。」――ああ、なんという言葉でしょう!――「私たちは血の下にいるのです。」

すると彼女たちは言いました。

「そんなの馬鹿げてるわ。あなたのお父さんのあの古臭い宗教なんて。」

けれどもリベカは心の中で確信していたのです――

「私はこの血のしるしを越えてはならない。何かが私の心にそう語っている。」

48. 人々はそのまま大きな宴会へと出かけていきました。

ところが――真夜中ごろになって、何か奇妙な感覚が広がり始めました。

そう、それはまるで、先ほども話したように、今この世に再び迫ってきているもののようでした。何かがおかしい……。

大きな呻きのような暗闇が地を覆い、風が吹き荒れ始めました。

家に戻った小さな男の子が、ふと不安そうに言います――

「ねえ、あれは何だろう? なんだか変な感じがするよ。ほら、あの踊りに行っていた若い娘たちが、急いで家に帰っているよ。」

49. ああ、その時になって祈ろうとしても、もう遅すぎます。

やがて少年が不安そうに父に問いかけます――

「お父さん、御言葉には、家の中で長男が殺されるって書いてあるんだよね?」

「そうだ。」

「じゃあ、お父さん、僕たちの家はどうなの?」

父は静かに答えます――

「息子よ、私たちはできる限り安全なんだ。」

「どうして安全だって分かるの?」

「私たちは神の御言葉に従ったからだ。私たちは血の下にいるのだから。」

……やがて少年は窓の外を見ます。そこに――闇の中を動く、二つの大きな黒い翼が見えるのです。

それは「死」でした。

兄弟姉妹よ、もしこの国に黒い翼が揺り動いている時があるとすれば、それはまさに今です!

私たちは地震を経験しました。疫病を見ました。あらゆる災いがこの地に臨むのを見てきました――ちょうどエジプトにあったように。

しかし、エジプトを破壊へと導いた最後の災いは「死」でした。

そして今日、教会を襲っている最後の災いは――「霊的な死」なのです!

そうです、それが最後のものです。

50. 教会は死にかけています。人々も死にかけています。

ああ、確かに私たちは長期集会を開いています――しかし、それはリバイバルではありません! リバイバルなど起こっていないのです。

アメリカに「大リバイバル」があると言う人もいますが――では、いったいどこにあるのですか? どこですか?

アメリカはまだリバイバルの第一段階にさえ達していません!

なぜでしょうか?

それは、人々を「神の備えられた道」へと導かず、ただ神学や知識を教え込んでいるからです。

神の備えられた道とは――聖霊のバプテスマを受け、カルバリを通って再び神へと戻ることです!

ところが私たちは、人々を教会に「入会させる」ことばかりしている――教会に加え、教会に浸し、握手で受け入れ、手紙を持ち運び……。

しかし違います! 彼らは「生ける神の教会に生まれなければならない」のです!

それこそが、リバイバルが起こらない理由なのです。

51. 私たちに必要なのは――古き良きリバイバルの再びの燃え上がりです!

ジョン・ウェスレーの時代のように、徹夜で御言葉を語り、聖霊の力が会衆全体に降り注いだ、あの古きリバイバルです。

それこそが、今再び必要なのです! アーメン!

(ああ、今この瞬間、私は信仰が熱く燃えています。)

ですから友よ、よく聞いてください。

この国の大きな必要を思うとき、私はこう確信します――

私たちに必要なのは神学校の数ではありません。説教者の数でもありません。

今いる説教者たちが「聖霊に満たされる」ことこそ、私たちに必要なのです!

これは真理です。私はここに立っている者として断言します――それこそが真理です。

さて、もう一度あの少年を見てみましょう。

黒い翼が家々を通り過ぎていきます。ある家に触れると――叫び声が聞こえてきます。

するとその少年が再び父に尋ねます――

「お父さん、本当にあの血は塗られているの?」

父は静かに立ち上がり、戸口を見やって答えます――

「そうだとも、息子よ。間違いなく、血で覆われている。」

52. その黒い翼が、ある家に向かって迫っていきます。――けれども、ちょうどその家に降りようとしたとき、それは「血」を見たのです。

神は言われました――

「わたしがその血を見たとき、あなたを過ぎ越そう」

そのとおりです。翼はそこを通り過ぎていきました。

これこそが、神が備えられた「逃れの道」なのです。

兄弟姉妹よ――

今夜、あなたにとっても「神の備えられた逃れの道」があるのです!

それは、この冷たく、形式的で、無関心で、不敬虔な状態――今日アメリカに蔓延している、「キリスト教」と名乗りながら、キリストが禁じたことをすべて行っている、その状態から逃れる道です。

彼らは「キリストの名」を口にしながら――キリストが命じられたこと、

「病を癒せ、死人を生き返らせ、らい病人を清め、悪霊を追い出せ」――これを否定しているのです。

そしてただ、説教者を教育し、神学だけを持たせて送り出す……。

それはまさに、主が「するな」と言われたそのことを、彼らは「キリストの名において」やっているのです!

アーメン!

53. 兄弟よ、これこそが真理です。

私はそれを「うまく」語れないかもしれません――けれども、自分の心にあるままを語ります。

それは素足のように素朴かもしれない。けれども、今こそ男たちが「福音を取り扱う時」です!

ゴム手袋をはめて、弱々しく、繊細ぶって扱うのではなく――真理をはっきり告げるのです!

人々はここであなたを憎むかもしれません――けれども、裁きの御座では必ずあなたを愛するでしょう。

アーメン、それが真理です。

私たちは弱腰でいるのではありません。

イエス・キリストの福音は弱々しいものではないのです。それは人間が為し得る最も偉大な業なのです!

神は人を「体格」で裁かれることはありません。

ある人はこう言います――「あの人は立派な男だ、肩幅が広く、腕も逞しい。」

しかし、そのような大男でも、人間らしさが一欠けらもない場合もあるのです!

私は見てきました――二百ポンドもある大男が、母親の腕から赤ん坊を放り投げ、自分の獣のような欲望のために彼女を辱めるのを。

そうです、人は「筋肉」で量られるのではありません。

人は「手の硬いマメ」で量られるのでもありません。

人は「膝のズボンに刻まれた跡」で量られるのです――祈りにひざまずいた証拠です!

ハレルヤ!

今の時代に必要なのは、そういう人々――古き良き「聖霊の確信」に燃やされた、本物の神の人たちなのです。

54. 私はこう願います――

たとえ私の息子の傍らに立つ人が、ABCすら知らない人であったとしても――もし彼が野原の切り株のそばで膝をつき、箒草の中で祈り、聖霊が下るまで息子のために執り成してくれるなら――私は、その人を息子のそばに置きたいのです!

世界中の教師を集めて、神学を押し込もうとするよりも、はるかに尊いのです。

アーメン! 兄弟よ、これこそが真理です。

今日私たちに必要なのは――罪人を神の備えられた道へと立ち返らせることです!

――さて、イスラエルの民を見てみましょう。

彼らが行進の命令を受けたとき、出発しました。

海へと差しかかったとき――なんと、神は「海の底に橋」を造られました。海を二つに分け、乾いた道を開いてくださったのです!

そして彼らが渡り終えたとき、喉が渇き、水を求めました。けれどもそこにあった水は苦く、飲むことができませんでした。

しかし――神には備えがありました!

一本の木を指し示され、その木を切って水に投げ込むと――水は甘くなり、好きなだけ飲むことができたのです。

そうです、神には常に「備えられた道」があるのです。

55. 私たちは今――旅の途上にあります。

しかし、覚えてください――私たちの必要のすべてに、神は必ず「備えの道」を持っておられるのです!

ハレルヤ! 神よ、憐れみを与えてください。

必ず、この町を「神の栄光のために打ち破る道」があります。ただ、それを見つけさえすればいいのです!

「主よ、私たちに何ができるでしょう?私には何ができるでしょう?ただ、それを示してください!」

――思い出してください。

あの時も備えがありました。丘のふもとに一本の木が立っていたのです。モーセはその木を切り倒し、水の中に投げ込みました。するとどうなったでしょう?

「さあ、好きなだけ飲め。もう甘い水だ。」

その後しばらくして、再び民は水を必要としました。彼らは荒野の奥深くにいました。

神は言われました――

「岩を打て。」

彼らはもうすでに、あらゆる泉を探し尽くし、どんな小さなオアシスも調べ、岩の下も掘り返しました。けれども――水はどこにもありませんでした。

そこで神は、人間の目には「ばかげて見えること」を命じられたのです。

――「荒野で一番乾ききったもの、その岩を打ちなさい。そこから水が出るのだ。」

56. 考えてみてください――

今日、人々は「神の癒しの力」や「聖霊のバプテスマ」が現れるなら、それはバチカン市国のような大きな宗教的権威から出てくるはずだ、と想像するかもしれません。

けれども、神はそうではないのです!

神は、道端の角に集まっている、ABCすら知らないような小さな「聖霊に燃える人々(ホーリー・ローラー)」の中に、その水を湧き出させるのです!

アーメン! その通りです。

神は虚飾や権威の形にはお働きになりません。

神は、むしろ「無知な者たち」に憐れみを注がれるのです。

ペテロとヨハネ――聖書は、彼らが「無学で無知な人」であった、とはっきり記しています。

けれども人々は、彼らを見て驚かざるを得ませんでした。なぜか?

彼らが「イエスと共にいた」からです!

それこそが重要なことなのです。

そうです、彼らには十分な信仰がありました――「美しの門」で足の不自由な人を癒すことができたのです。

またペテロには、神の力が満ちていたので、アナニアに向かって言えたのです――

「おまえは偽っている!」

その通りです。

「おまえはその金を不正に取っておいた。そしてサッピラ、お前も同じことをした!」

それを聞いた二人は、恐れのあまり心臓が止まり、その場で死んだのです。そして人々によって運び出され、葬られました。

アーメン! その同じ神は、今日も生きておられます!

その同じご計画こそ、今日の神のご計画なのです!

57. 神は、あの荒野のただ中においても、ご自身の民を導かれました。

やがて彼らが食べ物を必要とする時が来ました。パンもなければ、麦もない、とうもろこしもない――「私たちはどうやって食べればいいのか?」

けれども、そんなことは問題ではありませんでした。

神はこう言われたのです――

「ここに出て来なさい。あとのことはわたしが備える。」

すると――天からマナが降ってきたのです!

ハレルヤ! なんと栄光なことでしょう。

マナが、天から雨のように降ってきたのです。

人々はただ外へ出て、それを拾うだけでよかったのです。

ただし――一度にたくさん拾いすぎてはいけませんでした。

もし今夜、明日までの分を取っておこうとすれば、どうなったでしょう?

それはすぐに腐って、虫だらけになってしまったのです。

58. それこそ、今夜の教会の問題の半分はそこにあるのです。

南部の言い方でいえば――“wiggletails(うじ虫)”に満ちて停滞している。

そうです。多くの人々の信仰経験が、まさにそうなっているのです。

「いやあ、私は――十年前にあの時、大きな祝福を受けたんだ!」

そう言う人がいます。

けれども――今はどうですか?

今、あなたの祈りは燃えていますか? 今、聖霊に満たされていますか?

それを聞くと、私はある小さなアイルランドのお母さんを思い出します。

その人はアイルランドからニューヨークへ渡ろうとしていました。娘に会うためです。

ところが、航海の途中でSOSが発信されました。船が沈みかけていたのです。

ところが人々はどうしていたでしょうか?

甲板の下では、ジャズのような音楽を鳴らしながら、皆が踊っていたのです!

そこへ船長――スキッパーが降りてきて、こう言いました。

「皆さん、ちょっと待ってください! 音楽を変えてください。あと三十分耐えれば港に着きます。しかし、もし持ちこたえられなければ、我々は海の底に沈むでしょう!」

59. すると皆が楽団に「近よれ我が神よ」を演奏させ、やがて床にひれ伏し祈り始めました。

その時、小さなアイルランドのお母さん――質素なワンピースに長袖を着たその婦人が――手を上げて叫びました。

「栄光あれ! ハレルヤ! ハレルヤ!」

それを見た船長は驚いて言いました。

「奥さん、どうしたんですか?」

「私は嬉しいんです!」

「いや、あなたは私の言葉を誤解していますよ。今から三十分後には、私たちは海の底に沈んでいるかもしれないのです。」

「ええ、分かっていますよ。」

「じゃあ、どうして祈らないんですか?」

「だって、私はもう祈り終わっているんです。祈りは済んでいるんですよ。」

「そうです、私は祈り終わっているんです。ああ、栄光あれ! 主をほめたたえます!」

船長はさらに尋ねました。

「奥さん、どうしてそんなに喜べるんです? あなた、もう祈り済んだと言いますが、何をそんなに賛美しているんです?」

彼女は笑みを浮かべながら言いました。

「だって、あなたはこう言ったでしょう? 三十分持ちこたえれば、私たちはニューヨークに着くって。」

「その通りです。」

「それに、もし持ちこたえられなければ、私たちは海の底に行くって。」

「その通りです。」

60. 彼女は言いました。

「栄光あれ!私はニューヨークにいる娘に会いに行くのです。けれども、もし船が持ちこたえなければ、栄光の御国にいるもう一人の娘に会えるんです。どちらにしても、三十分後には娘に会えるんです!ハレルヤ!主を賛美します!」

――そうです、これこそが私たちの生き方です!

ハレルヤ!祈り終えて、いつでも備えができている生き方。アーメン!

神の備えられた道を歩み、どんな瞬間にも主の呼びかけに応えられるようにしておくのです。

なぜなら、私たちはいつ、どの時にでも、御前に召されるか分からないからです。

61. そこにイスラエルの人々が荒野を通っている姿を見ます。

薬もなければ医者もいない――モーセ先生も適切な血清を手に入れることはできません。そこで人々の中に蛇にかまれた者が出ました。

しかし神は備えの道を与えてくださったのです。

そうでしょう? 神は一本の柱に青銅の蛇をつくらせ、それを高く掲げられました。そして人々に与えられた条件はただひとつ――「その蛇を仰ぎ見て、神がそれを立てられたと信じること」。それだけで癒やされたのです。

ある人はこう言いました。

「いや、私はあそこへ行って、蛇草(スネークルート)を探して塗ってみようと思う。」

すると別の人が言いました。

「ヨハネ、どこへ行くんだ?」

「蛇草を探してこれを塗ってみれば、治るかもしれない。」

けれども信仰ある者はこう言ったのです。

「私はただ神の備えられた道を取る。蛇を仰ぎ見て、生きるのだ!」

62. そして、その人は生きたのです!蛇草は失敗しました。アーメン!

今夜も神には備えられた解決があります!ハレルヤ!

その解決こそ、イエス・キリスト、聖霊のバプテスマによって来られたお方なのです。

「あなたはおかしい」と人は言うかもしれません。ええ、そうかもしれません。けれども私はこの道にあって、以前よりも何倍も幸せなのです。だから、私はこのままでいいのです。アーメン!私はただ素晴らしい気持ちでいるだけです。

そうです、神には備えの道があるのです。

かつて一人の男――エリヤがいました。主は彼に言われました。

「この国はあまりにも罪深いから、わたしは裁きを下す。だがエリヤよ、わたしはおまえのために逃れの道を備える。」

「主よ、何をなさるのですか?」

「おまえはあのケリテの川のほとりに行って、山の上に腰を下ろせ。」

エリヤは町を通りながら言いました。

「わたしが命じるまで雨は降らない。私は山に行って座るのだ!」

やがて干ばつが来ました……人々は彼を見て笑ったことでしょう。

「あの気の狂った老人を見ろ。あんな山のてっぺんで小さな泉のそばに座ってるぞ。水なんてあるわけがない!」

けれども――神はその泉を枯れさせなかったのです。

ああ、なんと感謝でしょう!

「きっとあの老人は干からびて死んでしまったに違いない」と人は思ったでしょうが……。

63. いいえ、いいえ、いいえ。彼はただ――神の備えられた道を歩んでいただけなのです。

神は言われました。「おまえはあそこに行って座れ。わたしはすでにカラスに命じて、おまえを養うようにしてある。」

人々は言ったでしょう。

「あの哀れな気の狂った老人、きっとあそこに座って餓死してしまうぞ。」

けれども、どうだったでしょうか。彼はむしろ、ここにいる多くの人よりもよっぽど恵まれていたのです!

彼には召使いがいたのですから! 皆さんの中には召使いなんて持ったことのない人もいるでしょう?

エリヤには、黒い召使いたちが彼に仕えていたのです。

そうです。カラスたちが毎日通って来ては、彼に食べ物を運んで来て給仕したのです。

アーメン!それは真実です。

64. ある牧師がこの前、私にこう言いました。

「ビリー、まさかあなた、あのカラスたちが本当にエリヤに食べ物を運んできたなんて信じているんじゃないでしょうね?」

私は答えました。

「聖書にそう書いてあるんです。だから私は信じています。」

するとその人は言いました。

「じゃあ一つ聞きたい。どうやってカラスがサンドイッチなんかを作って、それをエリヤに運べたっていうんですか?」

私は言いました。

「それは分かりません。ただ一つ言えるのは、カラスが持ってきて、カラスが渡し、エリヤが受け取った――それで十分なんです!」

そうです、ちょうど今の私と同じです。なぜ私がこんなふうに喜びに溢れるのか、私は説明できません。ただ一つ言えるのは――神がそう約束され、聖書がそう言い、聖霊がそれを運んでくださり、そして私はそれを受け取った――それだけなんです。だから私は楽しんでいるのです!

それがどうやって来るのか?私は分かりません。でも確かに「ここにある」のです。ハレルヤ!分からないけれど、神がそう言われたから、私はただ食べるのです。聖霊が持って来てくださったら、私は「はい、主よ」と言って受け取るのです。

65. 「そしたら、あんたは“ホーリーローラー(聖霊に酔った変人)”って呼ばれるよ。」

――そんなことはどうでもいいんです、主よ。私はただ、これが大好きで、心地よいんです。だから食べ続けます。天からもっと送ってください、アーメン。もっと大きなひと口をください、それだけです。

人々があれこれ言っているのが聞こえます。

「おやまあ、あそこで何をしているんだ?…」

でも、あの“狂信者”と呼ばれた老預言者は、何ひとつ心配せず、ただ座って一日中こう言っているんです。

「おお主よ、あなたを愛します。主をほめたたえます。神よ、あなたをほめます!」

すると、カラスがやって来て言います。

「エリヤよ、はい、食べ物だよ!」

大きなサンドイッチを運んで来るんです。エリヤは言います。

「まあ、なんと!」

それを受け取り、川辺に行って、好きなだけ水を飲む。そしてまた主を賛美する――それでも世間からは「気が狂っている」と呼ばれるんです。

66. そうなんです、兄弟たち。私たちが聖霊のバプテスマを受けたからといって、人々は私たちのことを狂っていると思っています。けれども、私たちは決して涸れることのない泉――神の御子イエス・キリストを通して湧き上がる命の水――を飲んでいるのです。そう、これこそが神の備えられた道です。確かにその通りです。

ただ教会に入会して牧師と握手をするだけではいけません。神と真っ直ぐに取り組むのです!ハレルヤ!これが正しい道です。神の備えられた道です。あなたがただ信じさえすれば、神は必ずどんな時も逃れの道を備えてくださいます。信じますか?そうです、主はエリヤのために逃れの道を備えてくださいました。

やがて、ついに雨が降らない時がやって来ました。神はエリヤに言われました。「備えをしなさい」。――それでエリヤはイスラエルでのリバイバルに備えたのです。そして神はこう言われました。「よいか、十二の石を取ってきて、ここに集めなさい」。

67. それは物事を整えることでした。エリヤは神の備えられた方法で進めたのです。彼はイスラエルの十二の部族のために、それぞれ一つの石を取ってきました。

でも、今日の問題は何でしょうか?私たちはペンテコステ派の石を積み上げて「これがすべてだ」と言おうとする。メソジストは自分たちの石を積み上げて「これがすべてだ」と言おうとする。しかし神は、すべての石を一緒に積み上げて、教会全体の上に古き良き聖霊の注ぎを与えたいと望んでおられるのです。

ああ兄弟よ!それこそが今、必要なことです。信じる者をすべてひとつにし、福音を余すことなく宣べ伝えるのです。何ひとつ隠さず、キリストの完全な福音を宣べ伝えるのです。そして聖霊のバプテスマが教会全体に注がれるまで――それこそが唯一のリバイバルの道なのです。

68. エリヤは言いました。

「さあ、すべてを整えよ。一つひとつの石を持って来て、それぞれがイスラエルの部族を表すようにせよ。」

そして彼はその上にいけにえを置き、こう言って進み出ました。

「主よ、あなたが天の神であること、そして私があなたの預言者であることを今ここで知らしめてください!」

すると――火が降り始めたのです!

兄弟たちよ、メソジストが「私たちこそ唯一だ」という考えを忘れ、バプテストが「自分たちだけだ」と言うのをやめ、ペンテコステ派も「私たちだけが本物だ」と主張するのをやめて、皆が心を一つにして「主よ、火を降らせてください」と祈るなら――その時こそ私たちは前進できるのです!その通りです。

69. ワンネス・ペンテコステ、ツーネス・ペンテコステ、スリーネス・ペンテコステ、ファイブネス・ペンテコステ――そのすべてが一つになって頭を合わせることができたなら。

そしてメソジストもまた、「注ぐのか、振りかけるのか、浸すのか」そんな小さな議論を忘れてしまって、みんなが心をひとつにして叫ぶなら――「神よ、御力を送ってください!」

そうすれば、あとはすべて聖霊が整えてくださるのです。

心を聖霊にまっすぐ向ける、それが肝心です。そうすれば、聖霊ご自身があとのことをすべて取り計らってくださいます。アーメン!私はそのようなリバイバルを信じます。それが神の備えられた道です。

救いの石を積み上げよ――私はそれを信じます。

異言の石を積み上げよ――私はそれを信じます。

解き明かしの石を積み上げよ――私はそれを信じます。

神癒の石を積み上げよ――私はそれを信じます。

兄弟よ、今こそ火のために備える時です!

「主よ、私はもう神学論争は忘れます。この石を積み上げ、自分自身をその上に横たえて、こう祈ります――『主よ、私を焼き尽くしてください!』」

そうすれば、主は必ずそうしてくださいます。心配はいりません。主は必ずあなたを捕らえてくださいます!

70. ――そうです兄弟よ、あなたがすべきことはこれです。

頭の中にあるすべての理屈や議論を取り去り、ただ神の御言葉を御自身の備えられた道とすることです。

メソジストの儀式でもなく、あの教団の儀式でもなく、この神学でも、あの神学でもない。

ただ聖書が真理なのです!

神はこう言われました。

「わたしの言葉を真実とし、人の言葉はすべて偽りとせよ。」

そして、こうも言われました。

「終わりの日に、わたしはすべての肉なる者の上に、わが霊を注ぐ。」

――メソジストの上にも、バプテストの上にも、長老派の上にも、カトリック、ルーテル、そのほかすべての人々の上に!

「わが民よ、彼らの中から出て来なさい。彼らの罪にあずかってはならない。そうすれば、わたしはあなたを受け入れる。」

71. さて、罪というのは、ただの道徳的な習慣のことではありません。

ある人が言いました。「この人はタバコを吸う、それは罪だ。」

――いいえ、違います。それ自体が罪ではありません。彼が嘘をついたり、盗んだりするのも同じです。それは「罪そのもの」ではなく、罪の属性なのです。

彼がそうするのは、彼が罪人だからです。もし罪人でなければ、そんなことはしないでしょう。

ですから「タバコも吸わない、お酒も飲まない、だから罪人じゃない」と言う人もいますが、それで義とされるわけではありません。それは単にクリスチャンの属性です。クリスチャンだからこそそれをしないのです。

逆に、そうしたことを行うならクリスチャンではない。しかし、信じるならばクリスチャンなのです。そこに違いがあります。これこそが神の備えられた道です。

主イエスは言われました――

「わたしの言葉を聞き、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、わたしはその人をよみがえらせる。」

ところが、多くの人はそれを持っていると口で言いながら、その生活を見ると持っていないことが分かります。

「その実によって、その人を知る」と聖書は言います。

さて、預言者エリヤに話を戻しましょう。彼が山を降りて来る場面を想像してみてください。

私たちはもう一人の人を知っていますね。ある日、彼も問題を抱えてやってきました。彼の名はナアマン。彼はツァラアト(重い皮膚病)に冒されていたのです。

彼は「信仰は聞くことによる。聞くことは神の言葉による」と教えられたように、噂を耳にしました。

シリアの国じゅうの医者にかかったが、誰一人として彼を癒すことはできませんでした。

ところがある日、捕らえられて奴隷となった一人の小さな娘がこう言ったのです。

「私の国には、神の力によって病を癒す預言者がいます。彼の名はエリシャです。今までツァラアトが癒された人はいないかもしれませんが、あの方に祈っていただければ、きっと癒されると信じます。」

おお、なんと尊い証でしょう! 私たちにはもっと、あのような小さな少女が必要です。――そうです!

72. さて、ナアマンはこう言ったのです。

「よし、馬に鞍を置いて出かけよう。そしてその人を見てみよう。」

彼は何着もの着替えや、多くの銀や金を携えて出発しました。

彼は心の中でこう決めていました――

「私は神からの癒しを受けるが、それは“自分が思い描いた方法”で受けるんだ。」

そして、エリシャの家の前に馬車で乗りつけました。

その時、エリシャはどうしていたでしょうか?

彼は小さな土造りの家の奥の、古びた椅子に腰かけ、聖書の巻物を広げて静かに読んでいたのです。

そこへゲハジ(エリシャのしもべ)が入ってきて叫びました。

「おお、師よ!」

エリシャは静かに顔を上げて言いました。

「どうしたのだ?」

73. ゲハジが言いました。

「師よ、あの大将ナアマンが外に来ています。シリヤの軍勢の長です。しかし彼はツァラアトに冒されています。」

するとエリシャは静かに言いました。

「ヨルダン川に行って、七度身を浸せと伝えよ。」

ゲハジは驚きました。

「えっ、師よ、自ら出て行かれないのですか?」

「いや、わたしは今、主と語っているのだ。行く暇はない。」

それでゲハジは外に出てナアマンに告げました。

「預言者は、ヨルダンに行って七度身を浸せ、と言っておられます。」

ああ、それを聞いたナアマンは怒りで爆発しました!

まるで今日の人々と同じです。

「何だと? あんな所には二度と行かん! あの聖霊派(ホーリー・ローラー)どもには二度と関わらん! あんな汚らわしい川に浸かるだと? 馬鹿げておる!」

プライドが彼をカエルのように膨らませ、怒りに震えさせました。

「絶対に信じん! そんなことは無理だ! わが祖国シリヤには、もっと清らかで立派な川があるではないか!」

74. この間、ある人がこう言いました。

「おい、お前もあそこへ行って、あの人たちのように泣いたり、わめいたり、涙を流したりしてみろ。」

私は答えました。

「救われたいなら、そうせねばならんのだ。」

すると彼は言いました。

「そんなこと、わしは絶対にしない。」

私は静かに言いました。

「では、そのままの道を行くがよい。」

75. 私はここで説教していました。すると、ある女性が涙を流しながら立ち上がり、手を挙げて賛美し始めたのです。

そこへ、あるバプテスト派の若い教師が近づいてきて、こう言いました。

「ビリー、いつになったら、あんな“聖霊に酔ったような連中(holy-rollers)”から離れるんだい?」

私は言いました。

「何から離れるって?」

彼は言いました。

「あんな“holy-rollers”さ。この間の説教は楽しんでいたのに、あの女の人が立ち上がって、泣きながら手を挙げていた。あれでせっかくの雰囲気が台無しだ。君はあれで邪魔されなかったのか?」

私は答えました。

「いや、もし彼女がそうしなかったら、むしろ私の方が邪魔されたことになるさ。あれは全然妨げではないよ。」

すると彼はこう言いました。

「そうかもしれないが、正直言うと…あれを見た時、背中にゾワゾワっと寒気が走ったんだ、まるで窓の日よけが巻き上がるみたいに。」

76. 私はその青年にこう言いました。

「坊や、もしお前が天国に行ったら、凍え死んでしまうぞ!」

「天国では、聖徒たちが昼も夜も途切れることなく、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神よ』と叫んでおられるんだ。あっちからこっちまで全部が賛美で満ちているんだぞ。アーメン!そうだ、これこそが神の備えられた道なんだ。」

すると人々は言います。

「ブラナム兄弟、あんたは新しい種類の宗教を教えてるんじゃないのか?」

いや、違います。私は「新しい宗教」を持っているんじゃない。私はただ「古き良き宗教」の新しい“ケース(体験)”を持っているだけです。

「そんな宗教って、叫んだり泣いたり、大声を上げたりするのか?」

「そうです、その通りです!」

77. 神はヨブに言われました。

「ヨブよ、お前はどこにいたのか。わたしがこの世界の基を据えたときに。あの古き時代の宗教が最初に存在へと置かれたときに。朝の星々が共に歌い、神の子たちが声をあげて喜びの叫びをした、そのときに。」

――おお、兄弟たちよ! それこそ神の備えられた道なんです。神が言われたことを、そのまま行うこと、それだけなのです。

さて、ナアマンに戻りましょう。彼は道をのぼりながら、腹を立ててこう言いました。

「わしはもう二度とあんな所へは戻らん!」

しかし、ひとりの従者が、ほんの少し救いの理解を持って、彼にこう諭しました。

「お父さん、もしあの預言者が難しいことを命じたなら、たとえば大金を差し出せと言ったなら、あなたはそれを受け入れたでしょう? ところが、ただ『ヨルダンに行って七度身を浸せ』と言われただけで、それを拒むのですか?」

ナアマンはしばらく考え込みました。

「……まあ、やってみるべきかもしれん。」

それで彼はヨルダンへ下って行きました。ところが、あの泥だらけの川を見て、顔をしかめて言うのです。

「むむ……あんな汚れた場所に? あんな人々と同じように? まさか……」

そう思うなら――そうです、そのまま自分のライ病を抱えていればいいのです!

78. それからナアマンはとうとう下っていきました。彼は、よくある人のように、自分の「高い馬」から降りなければなりませんでした。「あんな人たちのところにまで自分を落として行くくらいなら…」と最初は思っていたのです。でも、ついに彼は水の中に入っていきました。そして、鼻をつまんで(いやいやながら)一度潜りました。出てきて言いました。「ほら、言っただろう、何の効果もない。まだ私はらい病(ツァラアト/皮膚病)のままだ。」

すると、「いやいや、預言者は『七回』と言ったんだ。七回潜るまではやめてはいけない」と言われました。

「でも、ブラナム兄弟、私は一体どのくらい潜らなければならないのですか?」

「いつまででも。」

「いつまでって、どれくらいです?」

「それを受けるまで。」それがイエスが言われたことです。「エルサレムの町にとどまって、力を着せられるまで待ちなさい。」

「二日ですか?」

「『まで』です。」

「どれくらいの間?」

「『まで』です。あなたが力を着せられるまで。」その通りです。主の御言葉は「まで」なのです。

79. さて、ある時ヨシャパテという人が荒野へと出て行きました。ところが彼らは羅針盤を持っていくのを忘れてしまい、主に仕えるはずが道に迷い、困難に陥ってしまったのです。あなたも「主に仕える」と口にするだけなら、すぐに問題にぶつかるでしょう。彼らもまさにそうでした。

七日間もさまよい歩き、食べ物もなく、水も尽き、飲むものも食べるものもなくなってしまったのです。そこで誰かが思い出しました。「待てよ、神には備えられた道があるはずだ。主に伺える預言者はいないのか?」と。すると、「そうだ、エリヤがいるではないか。彼に相談してみよう。あの人は本物の預言者だ」と言いました。

そこで彼らはエリヤのところへ行きました。朝日が昇るころ、預言者の前に出たのですが、エリヤは気分を害し、こう言いました。「お前たち、何をしにわたしのところに来たのだ?わたしに何の関わりがあるというのか。もしヨシャパテ王の顔を立てるのではなかったら、お前たちなど見向きもしないところだ。」彼はかなり怒っていました。

すると彼は言いました。「音楽を奏でよ。」

80. それで人々は音楽を奏で始めました。タンバリンも鳴り響きました。預言者にはなれなくても、音を奏でる器のひとつにはなれるのです。そうして御霊を呼び降ろし、預言者に力を与えるのです。楽器が打ち鳴らされ、調べが奏でられ……そのうちに、主の臨在が迫ってくる。

彼らはこう歌いました。

空中での集まりがある、

甘く麗しいあの時に。

神の御子ご自身が先立ち、

空中での集まりを導かれる。

やがて預言者は御霊に入っていきました。そして御霊に満たされると、次々と事が起こり始めました。

これこそ今の私たちに欠けていることです。なぜ思うように進まないのか?――それは「御霊に入っていない」からです。そうなのです。御霊に入らなければなりません。あのとき人々は喜びの中で音を奏で、そして神の力が預言者の上に臨んだのです。御霊が預言者を捕えたとき、彼は幻を見始めました。

あなたも御霊に入れば、ものごとが見えてきます。

81. 彼らは御霊の中に入り始めました。ちょうど今、神が備えられた道に従い、「これから何が起こるのか」を見ようとしていたのです。すると預言者は言いました。

「さあ、あちらへ行って、溝を掘りなさい。」

ああ、兄弟姉妹よ!これは私たち全員に当てはまります。疑いや不信、つまずきの石を蹴り飛ばし、ただ掘り続けるのです。「いや、いや、癒しのしるしなんか見えないぞ。雨なんか降ってないぞ。」――それが問題なのです!それこそが、信仰の妨げになっているのです。

しるしが見えなくても構いません。雨が降っていなくても構わないのです。とにかく神の言葉に従い、溝を掘り続けるのです。ハレルヤ!

私は今晩、心からこう思います。必要なのは「聖霊のリバイバル」が古き良き時代のように、力強くこの地を一方から他方へと掃き清めることです。この地の説教者たちよ、神とまっすぐに取り組むのです!そうすれば、古き良きリバイバルが必ず起こります。アーメン、それが真理です。

兄弟よ、まさに今この教会に必要なのはこれです。そして、この国に必要なのもこれです。嫉妬や小さな争いごと――そんな些細なことは投げ捨て、ただ神に立ち返るのです。そうすれば主が動かれます。アーメン!(不明瞭な言葉)

82. 子どもの頃の思い出です。私たちはとても貧しくて、母は肉の皮を鍋で煮て油をとり、それでコーンポーン(とうもろこし粉のパン)を焼きました。食べ物といえば、コーンブレッドや糖蜜ばかり。ラードなんてありませんでしたから、母は古い肉の皮を使うしかなかったのです。

そして毎週土曜の夜になると、母は大きなヤカンに湯を沸かし、杉の桶に注いで私に風呂を用意しました。必ず土曜の夜は風呂、それに大きなスプーンいっぱいのヒマシ油を飲まされました。あれは一生忘れません。粗末な食べ物を食べた後に、あれを飲まされるのです。私は鼻をつまんで「お母ちゃん、お願いだからやめてよ。ああ、気持ち悪いよ!」と泣いて頼みました。すると母はこう言うのです。

「気持ち悪くならなきゃ効かないんだよ。」

その通りなんです。だから今夜も同じです。もし説教があなたを「気分悪く」させないなら、それはあなたに益をもたらしません。少しでも魂を揺さぶり、あなたを目覚めさせるのでなければ、本当の説教じゃないのです。御言葉の“完全な福音”に霊の焦点を合わせなさい。ハレルヤ!アーメン!

神が備えられた道を行くしかありません。それはあなたを整え、明日にはもっと良い気分にしてくれるのです。飲み込むのは大変でも、「そうだな、これは正しい。あの兄弟と和解して握手しよう。そして集会に協力して、神の栄光が現れるよう全力を尽くそう」と決めるなら、そこから進み始めるのです。

さて、イスラエルの民たちは溝を掘って水を得ました。しかもその水を飲むだけでなく、古い冷たい形式的な井戸を石で塞いでしまいました。兄弟姉妹よ、もし今夜、心の深くまで掘り下げ、この会堂を聖霊のバプテスマで満たし、人々が癒され、御霊に満たされ、明日には街へ飛び出してバーにまで入り証をし、神を賛美し叫ぶようになったなら――その証こそが石となって、この冷たく形式的な井戸を塞ぐのです!アーメン!私は心からそう信じます。神には必ず備えられた道があるのです。

83. ある時、聖書に登場する一人の女性がいました。彼女は長年、血の止まらない病(血漏れ)に苦しんでいました。ああ、本当にひどい状態で、医者たちにはどうすることもできませんでした。

しかし彼女は、病人を癒しておられるお方のことを耳にしました。ある晩、その方は大嵐の中を一晩中舟で向こう岸へ渡り、翌朝には小舟が岸辺の柳の木のあたりに着いたのです。丘の上に座っていた彼女はそれを見ました。そして心の中で何かが告げました――「神は私のために備えてくださった道がある。この方の衣にでも触れることができれば、きっと癒される!」

そう決心した彼女は下って行きました。けれども、どの時代でもそうであったように、神の備えられた道を歩もうとすると、必ず反対や妨害にぶつかるのです。

彼女が群衆に近づくと、まず牧師のような者が立ちはだかりました。「おい、どこへ行くつもりだ?」

彼女は答えました。「あの方の衣に触れたいのです。」

「馬鹿なことを!」と一蹴されました。

しかし彼女は構わず、その人を押しのけて突き進んでいったのです。

84. 次に彼女が進んでいくと、そこにはブリガム・ヤングの一団のような者たちがいて、「奇跡の時代なんてもう終わったんだ」と言っていました。

けれども彼女はそんな言葉に惑わされず、その人たちの足元をすり抜けるようにして進んでいきました。彼女は世の中の考えに従うことはせず、自分の心に神が告げられた「備えられた道」に従ったのです。アーメン! 今夜、私たちにも必要なのはまさにそれです。神の備えられた道をただ従っていくことです。

そして彼女はついに主イエスの衣に触れました。群衆は大勢、主を取り囲み、抱きしめたり押したりしていました。「ああ、先生、あなたは…」と皆が口々に言っていたその時、主は立ち止まり、「わたしに触ったのは誰か?」と言われたのです。

主はご自分のうちから力が出て行ったことを知っておられました。まさに今も同じように幻をもってご覧になり、「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」と言われたのです。アーメン!

群衆の多くはただ押したり騒いだりしていただけでしたが、ペテロは驚いて言いました。「主よ、この群衆みんながあなたに触っているのに、誰が触ったのかなど分かるはずがありません。」

けれどもイエスははっきりとこう言われました――「いや、確かに誰かが信仰をもってわたしに触れたのだ。」

85. それこそが、今夜私たちが持ちたい「触れ方」です。

神の備えられた道――それは「神ご自身の触れられる手」です!

「見よ、そして生きよ!」主はあなたのために備えてくださった道をお持ちです。心から「主よ、私は信じます!」と告白するなら、それが命への道です。

――今、赤ちゃんを抱いて出て行こうとしているあのお母さんのように。

姉妹さん、赤ちゃんを抱いているあなた、こちらを向いてください。心の底から信じますか? その子の病が癒されることを信じますか? その糖尿病の症状はすでに取り去られました。信じて行きなさい!

それが「備えられた道」です。アーメン!ハレルヤ!

神の備えられた道、それはイエス・キリスト、いのちある神の御子です。

すべての罪人のために、すべて信じる人のために、今すぐその道は開かれています。

あなたは信じますか?――これが神の備えられた道です。

86. ある日、ひとりの男が小さな娘を失いました。けれどもイエスは「備えられた道」を示されました。主がその娘に手を置かれると、彼女は生き返ったのです。

またある日、小さな盲人バルティマイがいました。彼は衣の裾に触れ、必死に叫びました。そして神の備えられた道を受け入れた時、彼は癒されたのです。

あなたは信じますか?――ハレルヤ!兄弟よ、私は良い気分です。今、皆さんの心がその雰囲気に入りつつあります。考えを揺り動かしながら、こう心で告白してください――「神よ、私はそれを受け入れます。心から信じます」と。

そうです、神は今ここにおられて、すべての人を癒すことができるのです。あなたは信じますか?それが神の備えられた道です。

あの小さな赤ちゃんを抱いた女性――ちょうど出て行こうとしていたとき、心で思い悩んでいたでしょう。でも急に癒しを受けました。なぜでしょう?それは神が「備えられた道」を用意しておられたからです。その通りです。

87. 兄弟よ、ひとつ言わせてください。教会というものは、しばしば形式ばかりになり、冷淡になってしまうものです。まさに今のように。だれもが自分の信条を持ち、だれもが自分の宗派を掲げ、「これはこうだ」「あれはああだ」と分かれてしまう。しかし、そんな時にイエスが来られました。イエスこそが神の「備えられた道」だったのです。そうでしょう?

ある女性が、主の衣の裾に触れただけで癒されました。そして、やがてイエスが天に昇られた後も、神は別の「備えられた道」を備えられました。――使徒ペテロです。人々は彼の影にさえ入れば癒されたのです。そうでしょう?神の備えられた道です。

さらにもう一人、パウロという男がいました。彼はすべての人に直接祈ることはできませんでした。けれども神は別の「備えられた道」を取られました。――パウロの身につけていたハンカチや前掛けを持って行くと、不潔な霊が出て行き、病人は癒されたのです。そうでしょう?

88. 教会は、ある時臆病になり、彼らは二階の部屋に登って行って、十日十夜そこに留まりました。すると突然、天から激しい風が吹いてくるような響きがありました。――それは、道を歩いてきた説教師が「今からあなたを会員として受け入れます」と言ったのでもなければ、臆病な祭司が「あなたに聖餐を授けます」と言ったのでもありません。違います! 火が下ったのです。神の備えられた道――聖霊が、天から激しい風のように降って来て、彼らの座っていた家全体を満たしたのです。

彼らは「教会の名簿に私の名前を載せてください」と言ったのではありません。そうではなく、彼らは悔い改めたのです。神の備えられた道に従ったのです。すると走り回り、叫び、異言を語り、飛び跳ね、あちこちで神を賛美した――そのとき、初めて「教会」が誕生したのです。ウーッ!これが神の備えられた道です!

そして今も、神は少しも変わっておられません。

「この福音は、すべての民族、国語の人々に証として宣べ伝えられなければならない。その時、終わりが来る」と主は言われました。

「全世界に出て行き、福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われ、信じない者は罪に定められる。また、信じる者にはこれらのしるしが伴う」と主は言われました。――これこそ神の備えられた道です。

「病人のために祈りなさい」――神の備えられた道です。

「わたしのするわざを、あなたがたも行うであろう」――これも神の備えられた道です。

幻を見ることも、心の奥にあることを見抜くことも、すべて神の備えられた道です。

「あなたがたもこれらのわざをするであろう」――これは主の復活の証なのです。パームビーチ(フロリダ)でも、全世界でも、神の備えられた道が今なお示されています。ハレルヤ!

ああ、なんと私は主を愛していることでしょう!

なんと素晴らしい、神の備えられた道がここにあることでしょう!

罪人のためにも、聖霊を求める者のためにも、どんな必要のためにも――神の備えられた道があるのです。

89. ご婦人、そこのチェックのドレスを着て座っておられる方。あなた、祈りのカードを持っていませんね?――そう、今そこで座って祈っておられましたね。そうです。でも、あなたの脇腹に何か問題があるでしょう?癒されたいと思っている。神があなたを癒してくださると信じますか?神があなたを良くしてくださると信じますか?それはあなたの左の脇腹ですね?ベッドから起き上がろうとするとき、左の脇腹を押さえているのが見えました。そうでしょう?――はい、もうそれはあなたから去りました。あなたは神の備えられた道を受け入れました。主がここにおられて、あなたを癒してくださったのです。神があなたを祝福されますように。どうぞ行きなさい。そして神の永遠の平安と恵みがあなたの上にありますように。アーメン!

皆さん、心から信じますか?――こちらを見上げて生きなさい。信じなさい。

90. ご婦人、そこに座っているあなたはどう思われますか?心から信じますか?あなた、ヘルニアを患っておられますね。神がそのヘルニアを癒してくださると信じますか?信じますか?主がすでにしてくださったと信じますか?神の備えられた道を受け入れますか?神の備えられた道とは、今あなたの上に臨んでいるその力です。もし心を開くなら、まさに今あなたの頭上に立っている神の御使いが、あなたを癒してくださいます。信じますか?信じるなら、癒されます。神があなたを祝福されますように。

ではそこのご婦人、高血圧で座っている方はどうですか?――あるいは心臓病を抱えて座っている方。それはそうでしょう?神の力が今あなたに触れて、あなたを完全にしているのを信じますか?――立ち上がりなさい。あなたの心臓病は去りました。それは神の備えられた道です!ハレルヤ!

神を信じなさい!アーメン!ただ信じるのです。

あそこに、マイアミから来られたご婦人が見えます。こちらに進んで来ています。その方は低血圧で、貧血症を患っていますね。はい、そこに座っておられるあなたです。――よろしい。神があなたを祝福されますように。姉妹よ、家に帰って、イエス・キリストの御名によって癒されなさい。アーメン。

91. あなたのすぐ隣に座っているご婦人も、高血圧を患っていますね。――神があなたを祝福されますように。あなたも家に帰って癒されなさい。主に感謝しましょう。ハレルヤ!アーメン!

神の御使いがここにおられます。私の体全体が痺れてしまい、手の感覚もほとんどなくなるほどです。

そこの後ろに座っているあなた、肺に異常がありますね?――よろしい、立ち上がりなさい。イエス・キリストがあなたを癒されました。神があなたを祝福されますように。家に帰って癒されなさい。アーメン!

私は全能の神を信じるように、あなたに挑戦します。

92. 私にはそこに一人の男性が見えます……少し前の方です。――その方は関節炎を患っておられますね。それから痔もあります。そうです。隣に座っているのはあなたの奥さんでしょう? そうですね? ご婦人、立ち上がってください。

私は同じご婦人を幻の中で見ました。ちょっと待ってください。――敬虔に。私は信じます。はい、そうです、あなたは胆嚢の病を患っています。それに、鼻に何か症状がありますね。鼻水を引き起こすもので、それは花粉症です。そうではありませんか?

それから……あなたの名前はジョーではありませんか?あるいはジョー・ストーン、そんな呼び方をされていませんか?そうですね? 私がそれを耳にしたのは、医者があなたを診察していたときのことです。

さあ、お帰りなさい。あなたもマイアミから来られたのでしょう? 私は生まれて初めてあなたにお会いしましたが、これは真実ではありませんか? そうですね?

奥さん、あなたの手を夫の上に置いてください。そしてご主人も奥さんの上に手を置いてください。あなたがた二人は癒しを受け入れなさい。家に帰るとき、すでに癒されています!ハレルヤ!

みなさん、私を狂人だと思うかもしれません。しかし私は、自分が何を語っているか知っています。聖霊のバプテスマがここにあり、すべての人に与えられています。癒しもすべての人にあるのです。アーメン!

私が正気を失っていると思われるかもしれません。けれど私は、自分が何を感じているかを知っています。今ここは、あなた方すべてが癒されるのにふさわしい雰囲気の中にあるのです。――信じますか?

93. 神が、私の裁き主であるその方が、今この会場全体をぐるりと巡っておられます。まるで大きな黄色い帯が、縞模様となって垂れ下がり、至るところを覆っているようです。――それは皆さんが信じているからです、友よ。

どうか神の備えられた道を取ってください。その御言葉を受け取り、「主よ、それは真理です」と告白して、信じ受け入れるのです。そうしてくださいますか?

ああ、なんということでしょう!――ここにあるすべての霊はいま、イエス・キリストを通して私の支配のもとにあります。それは正しいことです。それは真実です。もし私を、今この時の神の預言者として信じてくださるなら、あなたがたの中には一人として弱った者は残らないでしょう。そうです。もし信じるなら。

私はただ宣言するだけですが、神ご自身がここにおられ、それを確証し、支え、そして「それは真実だ」とおっしゃるのです。

では、頭を垂れてください。――祈りましょう。

94. 主よ、私にはもう何をすべきか分かりません。ただ、今この大いなる御力が会衆全体を覆って動いているのを見ます。

ああ、天のお父さま、どうか今この御力のただ中におられる間に、ここにいるすべての人を癒してください。どうか聖霊が、いまこの偉大な御力が会衆全体に働いている間に、まさしくこの場に下ってください。これこそが、あなたの備えられた道です!――ペテロの影に入った者が皆癒されたように。ペテロが御言葉を語っていたその時、聖霊が彼らの上に下ったように。

主よ、私は祈ります――イエス・キリストの御名によって、聖霊がここにあるすべての暗い霊、疑いの霊を退けてくださいますように。そして、イエス・キリストの証し――昨日も今日も、永遠に同じであることを証明するその臨在が――いま確かにここにあることを示してください。

この不信と不敬虔の悪霊が築いた壁を打ち砕いてください。そして、ここにいるすべての人が癒されますように。

95. ああ、悪魔よ! 我はナザレのイエス・キリスト、神の御子の御名によって命ずる――この人々を解き放て! 出て行け!

すべての者が自由となるように。関節炎で苦しんでいる人もいる。悪魔の力に縛られているその女性もいる。更年期で心を失いつつあるあの女性もいる。

しかし今、イエス・キリストの御名によって、あなたがた一人ひとりは確かに癒されている! 信じて立ち上がりなさい。神が与えてくださった勝利を宣言しなさい。

今こそ叫ぶ時だ! エリコの城壁が崩れ落ちたように、あなたを妨げていた敵は地に倒れ、悪魔のあらゆる力は打ち砕かれるであろう――イエス・キリストの御名によって!