あなたの御言葉により

At Thy Word

あなたの御言葉により

コナーズビル インディアナ州 アメリカ合衆国

説教番号: 53-0608E

日付: 1953年6月8日(53-0608)


1. こんばんは、クリスチャンの皆さん。今夜ふたたびここに集い、新しい一週間の奉仕礼拝を始めることができるのは、何という大きな特権でしょうか。
兄弟がお話しくださったと思いますが、今週この場所を一週間お借りできることになりました。そのことを心から感謝いたします。
この会場を確保するためにご尽力くださった牧師の方々、また協力してくださったすべての方々に、心よりお礼申し上げます。
そして、私たちをここに迎えてくださった皆さん一人ひとりに感謝いたします。
何よりもまず、主なる神に感謝をお捧げします。神が約束してくださったその恵みのゆえに。また、この会場を使用させてくださった市長ならびに関係者の皆様にも心から感謝いたします。
主がその方々にも豊かに祝福をお与えくださいますように。
そして私たちは、今週、神の助けによって、最善を尽くして奉仕にあたります。
救いを必要としておられる方々、病を抱えておられる方々のために、
主イエス・キリストの御名によって、できる限りのことをさせていただきます。
2. これは、今私たちが新しく試みていることです。これまでしばらくの間、
私はできる限り、自分ひとりで集会を導こうと努力してきました。
つまり、マネージャーや他の方々の助けなしで、です。
今ここには、私と、17歳になる息子だけしかおりません。ですから、私が説教もし、そのほかの務めもすべて行わなければなりません。
私はいつも、いつの日か主が私を助けてくださり、このように自分で導けるようにしてくださるのではないかと思っておりました。
ですから今、それを試しているところです。どうか少しの間、忍耐をもって見守ってください。
普段は家にとどまり、食事をせず、祈りながら備えて、断食し、集会では直接壇上に上がり、すぐに病める人々のために祈り始めます。
もちろんその方が集会はより力強いものになります。
すでに油注ぎの中にある状態で始められるからです。
けれど今は、まず聖書の一節を読み、しばらく御言葉を語り、それから病める人々のために祈る、という形を取っています。
これまでは、通常そのような段取りはマネージャーたちが行っていました。
主があなたがたを祝福してくださいますように。
そして、どこにおいても温かく協力してくださる皆さんに、心から感謝いたします。
3. そして昨夜──いや、正確に言えば昨日の午後のことですが──
この集会の中で、私のために愛の献金をおささげくださった
と伺いました。
皆さん、本当にありがとうございます。
私など、そのようなものをいただくにふさわしい者ではありません。
昨夜、それを受け取ったときに初めて、そのことを知らされました。
「これはあなたへの愛の献金です」と言われたとき、私は心から
うれしく思いました。
どうかこれだけはお約束させてください。
クリスチャンの友の皆さん、私はそのお金を、私の知るかぎりすべて、
神の栄光のために用います。もし私がどのようにそのお金を使っている
かを知りたい方がいれば、どうぞ遠慮なくご覧ください。何一つ隠す
ことはありません。
私自身と家族の生活に必要な分、また伝道活動に伴う最低限の費用
を除いては、残りのすべてを宣教の働きに捧げています。
私はこの福音を、自らの手で世界の他の地域へと運んでいます。
だからこそ、そのお金がどのように用いられているのか、
はっきりと知っているのです。
4. 私はこれまで、自分の人生で一度も自分から献金を募ったことがありません。
どうしてもそれができなかったのです。今でもよく覚えています……。
ここにも、私の教会から来ている方々が何人かおられますが、
そう遠くない昔のことです。私はあるとき、どうしても生活
が成り立たないような状況に陥りました。
皆さんもそういう経験をされたことがあるかもしれませんね――どうしても帳尻が合わない時期というのはあるものです。
私は自分の教会(タバナクル)で、十二年間、一銭の報酬も受け取らずに説教してきました。
また、同時にインディアナ州で州の狩猟監視官(ステート・ゲーム・ウォーデン)として、この郡の見回りをして働いていました。
高圧線沿いを巡回したり、野外での仕事をしたりして、生計を立てていたのです。
私はこう考えていました――
「自分がまだ若く、働けるうちは、働けばいいじゃないか。それで十分だ」と。
だから私は仕事をしながら、その合間に説教をしていたのです。
5. ほとんど毎晩のように、私は制服を着て高圧線の巡回路を歩いていました。
その途中で、悔い改めた人に出会うこともありました。
そういうときは、そのまま近くの小川まで連れて行き、そこでバプテスマ(洗礼)を授けて、濡れた服のまままた巡回に戻るのです。
畑で働く農夫たちともよく話をしました。
彼らに主のことを語ると、涙を流して心を神に捧げる人もいました。
そんなときは、彼らの麦わら帽子を取って、一緒に小川へ行き、その場でバプテスマを授けるのです。
そして私たちは喜びに満たされながら、それぞれの道へ帰っていきました。
氷を割ってバプテスマを行ったこともあります。
氷の水の中に入って服が凍りついたこともありましたが、不思議なことに一度も風邪をひいたことはありませんでした。
そんなある時のことを覚えています。(今、妻もここにいますから、この話のあとで何か言われるかもしれませんが……。)
その頃、どうしても生活が成り立たなくなってしまいました。
それで私は妻に言いました。
「献金を取ろうと思う」と。
すると妻は言いました。
「あなたがそれをするなら、私は見に行きます」と。
それで私はタバナクル(教会)へ行ってこう言いました。
「君は私が献金を集められないと思ってるんだろう?」
6. それは、あの人たちが献げたくなかったからではありません。
むしろ、あの親愛なる人々は、私のためなら腕の一本でも
差し出すような心を持っている人たちです。
しかし私は、そうさせたくなかったのです。
私はいつもこう思ってきました。
牧師が神の御用から外れてしまう原因のひとつ――それは多くの場合
、「お金」だと。
聖書にも「金銭を愛することは、すべての悪の根である」
と書かれています。
ですから、私たちブラナム家は皆、放浪者のような者で、
できる限り貧しい暮らしをしています。
私もその家系の一人として、同じようにありたいのです。
少し前のことです。
ある兄弟が、私にキャデラックを贈ろうとしてくれたことがありました。
場所はカリフォルニアでした。その方の奥さんが、がんから
癒されたのです。彼はこう言いました。「ブラナム兄弟、
私たちはアヴァック牧師には
キャデラックを贈りました。ですから、あなたにもすぐに買って
差し上げますよ」と。
私は言いました。
「ありがとう、兄弟。けれど、私の古いシボレーのトラックは、
まだ十分走りますよ」と。
以前もポンティアックの車をいただいたことがありましたが、
そのたびに返してしまいました。
それでもその兄弟は言うのです。
「それでも、ブラナム兄弟、あなたにはぜひキャデラック
に乗ってほしい」と。
7. 私はこう言いました。「考えてみてください。もし私が今、
キャデラックに乗ってアーカンソーを走っていたら、
どう見えるでしょうか?あの辺りの人々は、年老いた女性たちが腰
や婦人病を患いながらも、綿畑で重い袋を引きずって働いているんです。
一袋に五十ポンド、いや百ポンドもの綿を引きながら。
朝食は、少しのベーコンととうもろこしのパンくらいでしょう。
そんな人たちが、私のキャデラックを見るんです。
“あら、ブラナム兄弟がキャデラックで通っていくわ”と。
それは、どう考えても私にはふさわしい姿ではありません。」
もちろん、もしあなたがキャデラックをお持ちであっても、
それは全く問題ではありません。誤解しないでください。
私は、あくまでも自分自身のことを言っているだけです。
以前、「ヴォイス・オブ・ヒーリング」の大会に出席したときのこと
を覚えています。会場の外には、立派なカスタム仕様の
パッカードを停めている方がいて、もう一方には
リンカーンがありました。その間に、私は古い1935年式の
シボレーを停めたのです。まるで、立派な指の間に突き出た
痛々しい親指のように見えたかもしれません。
けれども、そのシボレーも、彼らの車と同じようにちゃんと
私を目的地まで運んでくれました。そう、それで十分だったのです。
さて、その「献金を受け取る」と決めたときのことを思い出します。
私は、年老いた執事のワイズハート兄弟(今は栄光の御国におられるでしょう)に声をかけました。
「兄弟、私はこれから献金を取ろうと思っています。お願いしたいことがあるんです……」と。
8. みんなが私のほうをじっと見つめ始めました。
あのワイズハート兄弟(タバナクルから来ている方々はきっと覚えておられるでしょう)も、私のそばにいました。
私は言いました。
「兄弟、私の帽子を取ってください。これからそれを回します。ちょっとしたことなんです……」
すると、会衆のみんながざわめきました。
そのとき、前の方の席にひとりの小柄な年配の女性が座っていました。
昔から苦しい生活をしてこられた方です。
その女性は、エプロンの下につけている小さなポケットに手を入れました。
その中から、小さながま口の財布を取り出し、パチンと留め金を外し、中をのぞいていくつかの五セント硬貨を取り出そうとしました。
その姿を見た瞬間、私は胸が締めつけられました。
「こんな貧しいおばあさんのお金を、私が受け取れるわけがない」と。
胸の内が重くなっていくのを感じました。
心の中に、まるで大きな石のような思いがのしかかってきたのです。
それで私は言いました。
「冗談ですよ、皆さん。みんながどうするか見てみたかっただけなんです。」
会場は静まり返っていました。
「本気ではなかったんです。本当にそういうつもりじゃありませんでした。」
9. ライアン兄弟――ご高齢の方で、たぶん今夜もこのあたりにおられる
と思います。
いつもこの辺りに座っておられますね。長い髪と長いひげを
たくわえた方です。彼はミシガンの方から来られた方で、
あるとき古い自転車に乗ってここまで来て、それを私にくださいました。
しかし帰りはその自転車が「堕落」してしまって(つまり壊れて)、
戻れなくなってしまったんです。
私はその自転車を少し修理して、ペンキを塗ってきれいにしました。
それを五ドルで売ったんです。
おかげで、献金を集める必要がなくなりました。
主はやはり道を備えてくださるんですね。
そうです、主はいつでも道を開いてくださいます。
さて、皆さん、本当に心から感謝しています。
誠実な心をもって、そしてクリスチャンとしての温かい愛をもって、
感謝申し上げます。
そして、神の恵みによって、やがてあの大いなる日――
御国で再びお会いする時には、
「私は自分にできる最善を尽くしました」と胸を張って言えるよう
にしておきたいと思います。
主が皆さんを豊かに祝福してくださいますように。
では、今から少し御言葉を読み、そこからお話をしたいと思います。
その後で祈りの列に入りましょう。
覚えていてください――この集会は、主が許してくださるなら、
日曜日の夜まで続きます。
ですから、この一週間のうちいくつかの夜は、祈りの列を始めて、
集会におられるすべての方々のために祈る時間を持ちたいと思います。
[テープの欠損部分あり]
10. …たとえそうであっても、もしあなたがクリスチャンであるなら、足りないのはただ「信仰」だけです。その場で信じなさい。
そして、もし「あなたは癒された」と告げられても、なお心を頑なにして悔い改めず、悪い行いをやめようとしないなら――それは何の役にも立たないのです。
癒しとは、いつでも「キリストへの信仰」だけにかかっているのです。
では、ルカによる福音書第5章をお読みします。
さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスのまわりに押し寄せたとき、
イエスはゲネサレ湖のほとりに立っておられた。
そして、湖のほとりに二そうの舟があるのを見られた。
漁師たちは舟から上がって網を洗っていた。
イエスはそのうちの一そう、シモンの舟に乗り込み、陸から少しこぎ出すように頼まれた。
それから腰をおろして、舟の上から群衆を教えられた。
話し終えられると、シモンに言われた。
「深みにこぎ出し、網をおろして魚を取りなさい。」
シモンは答えて言った。
「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。
けれども、おことばですので、網をおろしてみましょう。」
そしてそのとおりにすると、非常に多くの魚が入って、網が破れそうになった。
そこで、もう一そうの舟にいた仲間たちに合図して助けに来てもらった。
彼らが来て、二そうの舟いっぱいに魚を入れると、舟は沈みそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った。
「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です。」
ペテロも、そして一緒にいた者たちも、取れた魚の多さに非常に驚いた。
同様に、シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも驚いていた。
イエスはシモンに言われた。
「恐れることはない。これからのち、あなたは人間をとるようになるのです。」
そして彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨てて、イエスに従った。
11. では、しばし頭を垂れて祈りの時を持ちましょう。
――我らの天のお父様。新しい一週間が始まりました。
これから先には新しい出来事が待っています。
先週という一週間はすでに歴史の中に刻まれ、その間にあなたは数々のしるしと不思議を私たちに見せてくださいました。
主よ、私たちは心から感謝いたします。
どうか父よ、この新しい週を通しても、あなたの助けがありますように。
そして、この週が前の週にも増して、何倍にも豊かに、
神の栄光のためだけに満たされますように。
どうかそのようにお与えください。
多くの病める者が癒されますように。
背を向けた者たちが立ち返りますように。
罪人が神の御国に生まれ変わりますように。
主よ、どうかこの地に、昔ながらの力強いリバイバルが起こり、
何千もの魂がキリストのもとに来ることができますように。
救いを求める者たちがその魂の贖いを受け、病んだ体も癒されますように。
これらすべてを、あなたの愛する御子イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。
――さて、今夜、短い時間ですが、一つの御言葉を主題として取り上げたいと思います。
それは、「御言葉に従って(At Thy Word)」というテーマです。
私は御言葉を読むのが好きです。
それは霊感を与えるものだからです。
聖書にはこう書かれています。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは神の言葉による。」
まさにそのとおりです。
私たちが神の言葉を聞くとき、そこから信仰が芽生え、花開くのです。
12. 今夜、この箇所を少し違った視点で見てみたいと思います。
たとえば――今日は月曜日だと考えてみましょう。
人々は前日の日曜日にすばらしい説教を聞き、心が熱くなっていました。
イエスはその翌日、人々の間を歩かれていました。
特別な会場や定まった場所があったわけではありません。
その日は海辺――つまりガリラヤ湖のほとりで人々とお会いになったのです。
イエスは、当時の裕福な人々――世の中の物をたくさん持っている人々――からはしばしば離れておられました。
むしろ、漁師や農夫、貧しい人々、社会から低く見られていた人々の中に身を置かれたのです。
彼らは、この世の財産は多く持っていませんでした。
けれども――信仰においては、誰よりも豊かでした。
私も、そういう人でありたいと思います。
そういう場所こそ、主がおられるところなのです。
人々が主を信じるところ、そこに主はおられます。
そして今夜も、主は同じように「信じる人々の中」におられます。
主はいつも、歓迎される場所にとどまられるのです。
そして、私たちもまた、歓迎されるところにいるものです。
イエスがその日、湖のほとりに来られたときの情景を想像してみましょう。
何人かの弟子たちがそのあとを歩き、主は岸辺で立ち止まられました。
私は実際に、その説教が語られた場所を写した写真を持っています。
現代でもそこには小さな港があり、舟が引き上げられているのが見えます。
主が望まれるなら、私は近いうちにその場所で癒しの礼拝を開きたいと願っています。
13. 主は話し始められました。丘の上の方からは、洗濯をしていた女性たち
がその声を聞き、畑では牛を使って耕していた男たちが手を止めました。
「いま、あの有名な説教者――世に光をもたらしたあの方が、
湖のほとりで語っておられる!」
そう聞いたのです。
女たちは洗濯物をそのままにして駆け出し、
男たちは牛を木につなぎ、耕すのをやめて、
神の御言葉を聞きに海辺へと向かいました。
ああ、私もその場で主の説教を聞けたらどんなに良かったでしょう。
あなたもそう思いませんか?
私は良い説教を聞くのが本当に好きです。
霊に満ちた人が神の言葉を語る――その声には何とも言えない
力があります。しかし、生涯でどんな説教を聞いたとしても、
私はこう思うのです。
もしも一度だけでも、主ご自身がこう言われた声を聞けたなら――
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。
あなたがたを休ませてあげよう。」
――その御声を聞けたなら、と思わずにはいられません。
あなたもきっと、そう思うでしょう。
けれども、私たちはその時代の主の声を聞くことはできませんでした。
しかし、信仰を持って歩む者には、
やがて必ず聞くことのできる御言葉があります。
「わが良き僕よ、忠実な者よ、主の喜びにあずかれ。
世の初めからあなたのために備えられたものに入りなさい。」
――そうです。
もし私たちが小さなことに忠実であるなら、
神はきっと、もっと大きなことを任せてくださるのです。
14. なんと素晴らしい光景でしょう――その「夜」を思うとき、胸が熱くなります。
すべての戦いが終わり、私たちが大いなる婚宴の食卓を囲んで座る時……。
ああ、それはどんなにすばらしい時でしょう。
ふとテーブルの向こうを見れば、そこにウィレット兄弟が座っている。
そしてあちこちに見覚えのある顔が見える――
「おお、あの方はコナーズビルの集会に来ていた方だ!」
そう思うたびに、きっと涙がこみ上げてくるでしょう。
お互いに手を取り合い、涙を流して喜ぶ――
あの長い歳月を、信仰の戦いを共に歩んできた“古き戦士たち”が、
天の食卓のあちこちでうなずき合っているのです。
ああ、それはなんと美しい光景でしょう!
その時、天のラッパが銀の音を響かせ、
王なるイエスが御姿を現されます。
威厳に満ちた衣をまとい、栄光に輝く御顔で、
王は食卓の間を歩まれます。
そして、私たち一人ひとりの前に来て、
御手で私たちの涙をぬぐいながら、こう言われるでしょう。
「もう泣かなくてよい。すべては終わったのだ。」
――アーメン。
その日こそ、私が生きる目的です。
だからこそ、私は失われた魂のために懸命に祈り、
願い、語り、呼びかけ、
できる限りのことをして、人々をイエス・キリストのもとへ導こうとしているのです。
そして、やがて私は主の御足もとに座り、
この日、人々が聞いたように、主の御声を聞きたいのです。
その日、主は説き始められました。
人々は信じ始め、群衆が丘を下りて押し寄せてきました。
奇跡を行い、しるしと不思議をなすこの“新しいお方”。
起こる前にすでに物事を知っておられる――
それは驚くべき現象(フェノメノン)でした。
人々は次々と集まり、
その方の御言葉を聞こうと、押し合うようにして
主のそばに近づいていったのです。
15. さて、ここで少し想像のカメラを切り替えてみましょう。
その場面を心の中に描いてください。
海辺の砂浜の片隅、古い切り株か流木の上に腰かけている男がいます。
それがペテロです。
そのそばには、ゼベダイの息子たち――ヤコブとヨハネもいます。
彼らは一晩中漁をしていましたが、まったく何も獲れませんでした。
漁師なら誰でも知っているでしょう――夜通し働いて、一匹も魚が獲れないときのあの気落ちを。
それは本当に、心が折れそうになる瞬間です。
彼らはすでに網を洗い、干していました。
そして疲れ果てて、切り株に腰かけ、ため息をついていました。
そのとき誰かが言いました。
「おい、あの人が来たぞ。あの説教者だ。今度は何を話すつもりなんだろう?」
ペテロは腰を上げて、その説教者――イエスの方を見ます。
最初は、ただ遠くから眺めていたのかもしれません。
けれども、やがてイエスの声が聞こえてくるにつれ、
その語り口、その中に漂う何かに、心を奪われていきました。
彼は流木を少し引きずって、もう少し近くに寄りました。
さらにしばらくすると、もうイエスのすぐそばまで来ていました。
そうです――主には、人の心を引き寄せる何かがあったのです。
それは言葉では説明できない“魅力”――神の愛の力でした。
そして今も、主は同じ力をもっておられます。
主ご自身がこう言われました。
「わたしが上げられるなら、すべての人をわたしのもとに引き寄せよう。」
――その御言葉は、今も真実です。
16. どんなに単純な福音であっても、そこにキリストがおられるなら、人々の心を引き寄せます。
主こそ、この世がこれまでに知った中で最も偉大な「磁石」です。
今日の午後にも話しましたね。
主はこう言われました――
「わたしが上げられるなら、すべての人をわたしのもとに引き寄せよう。」
さて、群衆がどんどん増えていくと、主はあたりを見回されました。
そして、ペテロの舟がそこにあるのをご存じだったのでしょう。
主はその舟に乗り込み、こう言われました。
「ペテロよ、少し岸からこぎ出してくれ。しばらく説教をしたいのだ。」
そして主は舟の上に立ち、人々に御言葉を語り始められました。
語り終えると――
主は借りておられたシモンの舟をただで返すような方ではありません。
主が何かを借りられるとき、それは必ず「祝福をもって」返されるのです。
ですから、説教が終わったあと主は言われました。
「さて、シモンよ、沖に漕ぎ出しなさい。深みに船を出し、網をおろしてみなさい。」
――ああ、「沖に漕ぎ出す」――この言葉について、私はしばらく語りたいほどです。
まさに今の時代、多くの人々の信仰に足りないのは、そこなのです。
「深みに漕ぎ出す」勇気がない。
信仰を持ってはいても、それを「解き放つ」ことを恐れている。
信仰は、行いが伴わなければ死んだものです。
聖書にもあります――
「霊のないからだが死んでいるように、行いのない信仰も死んでいる。」
ですから、もし本当に信仰があるのなら――
その信仰を、行動によって示しなさい。
17. さて――ここで見てみましょう。
パウロは、アブラハムが「信仰によって義とされた」と教えています。
ローマ人への手紙の第4章ですね。
一方、ヤコブは「行いによって義とされた」と語っています。
一見すると矛盾しているようですが、実はこの二人の教えは互いを補い合っているのです。
パウロは、神がご覧になった側面――すなわちアブラハムの「信仰」を語りました。
そしてヤコブは、人が見た側面――すなわち「行い」を語ったのです。
ですから、「私は神を信じています」と言いながら、
その信仰を実際の行動に移すことを恐れているなら、
その信仰は何の役にも立ちません。
信じるなら――漕ぎ出さなければならないのです。
今日の人々の問題はまさにここにあります。
多くの人が信仰を口にしますが、
その信仰をもって「深みに漕ぎ出す」ことを恐れているのです。
ほんの少しの冒険を恐れている。
しかし、信仰とは“踏み出すこと”なしには生きないのです。
だからこそ、こう言いましょう。
「私はできる。
私を強くしてくださるキリストによって、
私はすべてのことができる。」
アーメン。
主は言われました――
「深みに漕ぎ出し、網をおろして、大漁を得なさい。」
18. 言い換えるなら――私はペテロの心の中の声が聞こえるように思うのです。
「主よ、私たちは漁師です。
この海で生まれ、この海で育ちました。
潮の流れも、月の満ち欠けも、風の向きも、
魚が動く“しるし”というものを知っています。
今のこの水には、一匹の魚もいません。
私たちは一晩中苦労しましたが、何も獲れませんでした。
そんな私たちに、もう一度同じ水の上に網を下ろせと?
しかも“舟いっぱいに魚が入る”と言われるのですか?
そんなこと、あり得ませんよ。」
――もしペテロがそう言っていたら、彼は何も得られなかったでしょう。
しかし彼は、こう言ったのです。
「主よ、私たちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。
けれども、おことばですので、網をおろしてみましょう。」
そこに秘密があります。
それこそが信仰の核心です。
――神の御言葉を、そのまま信じ取ること。
たとえ魚が一匹もいないように見えても、
神はその場所に魚を創り出すことができるのです。
そして実際に、主はそうされました。
同じ網が、同じ水の上を一晩中通り抜け、
何も獲れなかったその場所――
しかし、神が「そこに下ろせ」と言われた瞬間、
その網は、あふれるほどの魚で満たされたのです。
19. もしかすると今夜、あなたもこう感じているかもしれません。
――「私はもう、国中の医者を巡り歩いた。」
「癒しの集会にも行ったし、何度も油を塗られて祈ってもらった。」
それでも、まだ答えを見ていない。
けれども今夜――
あなたの心にこの言葉が響くなら、それが鍵です。
「主よ、あなたの御言葉ですから、ここに参ります。」
これこそが信仰です。
「主よ、あなたの御言葉ですから、網をおろします。
あなたが言われました――『わたしの名によって何でも求めるなら、それを成し遂げる』と。
だから私はその御言葉を信じ、今ここであなたの命によって網をおろします。」
――そう宣言するのです。
恐れてはいけません。
大胆に求めなさい。
聖書はこう言っています。
「求めないのは、信じないからである。」
「求めなさい。そうすれば与えられる。
探しなさい。そうすれば見いだす。
叩きなさい。そうすれば開かれる。」
これが、神の変わらぬ御言葉です。
では――今こそ、「大漁を得るために網を下ろす」時です。
私は、そのときのペテロの姿が目に浮かびます。
彼は大きな投網を水に投げ入れ、慎重に引き始めました。
最初の数回は、何も感じなかったでしょう。
「やはり駄目か」と思ったかもしれません。
けれども、しばらくすると――
網の向こうから、かすかな「引き」が伝わってきました。
そうです、何かが網にかかったのです。
もう一度、力を込めて引くと、確かに感じる――
「何かが向こうにいる!」
それが信仰の手応えです。
最初は小さな動きかもしれません。
何度か祈っても何も起きないように思えるかもしれません。
けれども――御言葉に従って網をおろす者には、必ず“引き”がやってくるのです。
20. まるで、瓶の中に電気を閉じ込めたという少年のようです。
その子は叫びました。「つかまえた! つかまえた!」
――何をつかまえたのか分かっていなかったけれど、
確かに“何か”をつかんでいたのです。
それと同じように、私たちも神を信じ、御言葉をそのまま
受け取るのです。
「主よ、あなたの御言葉ですから、網をおろします。」
――ペテロはそう言って、その通りにしました。
すると、網は溢れるほどの魚で満たされたのです。
もしその時、不信仰が彼を支配していたなら、
こう言っていたでしょう。
「主よ、あの水にはもう魚はいません。
私たちはそこを何度も網で探りました。
そんなところに魚がいるはずがありません。」
人間的な考えでは、それはまったく愚かなことに思えたでしょう。
常識では理解できないことでした。
しかし――神が「網を下ろせ」と言われたなら、
その御言葉のゆえに魚がそこに現れるのです。
たとえそこに何もなかったとしても、
神が語られたなら、神ご自身が“働く対象”を備えられます。
主が言われたなら、
主がそこに「何か」を置かれるのです。
ですから――信じなさい。御言葉をそのまま受け取りなさい。
神を信じ、神の御言葉に立つ者は、必ず“奇跡の網”を引き上げるのです。
21. もう一つ注目すべきことがあります。
彼ら――ペテロたちは、一晩中、自分たちの力で漁をしていました。
けれども、その努力では何も得られなかったのです。
ところが――ただ一度、神の御言葉に従ったとき、
舟が沈みそうになるほどの大漁を得たのです。
人の限界は、神の働きの始まりです。
あなたができることをすべてやり尽くし、
医者もこれ以上どうにもできない――
その瞬間こそ、神があなたに語りかけ始めるときなのです。
人は、神以外に頼れるものがあるうちは、
どうしてもそちらに寄りかかってしまうものです。
しかし、すべてが尽きたとき――そのとき、ようやく魂に
神の声が届くのです。私もそれを実際に見てきました。
少し前のことですが、ある男性がいました。
彼には、どんなに話しても信じてもらえませんでした。
私が集会のことを語ると、彼は笑ってこう言いました。
「ビリーは頭がおかしくなったんだ。」
その人は、医師でした。
まだ若い、病院のインターン(研修医)だったのです。
彼は信仰を嘲り、主の働きを笑っていました。
けれども――神は、そうした人の心にも、
いつか語りかける時をお持ちなのです。
22. そして、ほんの数週間前のある夜のことでした。
私は緊急の呼び出しを受けて、その病院に行きました。
その男――あのインターンだった医師が、私を病室に呼び寄せたのです。
彼は以前とまるで違う声で言いました。
「ブラナム兄弟……」彼の顔は青ざめ、震えていました。
「私はもうすぐ腕を切断されるんです。五人の子どもがいるんです……
どうすればいいでしょう?」私は静かに言いました。
「私にも分かりません、兄弟。」すると彼は言いました。
「ブラナム兄弟、ここに勤めている看護師の一人のことを知っています。
私たちは彼女の足の病気を三年間も治療してきました。
それでも治らなかったんです。
けれど、彼女はある日あなたのところへ行って祈ってもらった。
そして今ではすっかり健康なんです。
彼女の名はマーギー・モーガン。私はよく知っています。」
彼は涙をこらえながら尋ねました。
「ブラナム兄弟……神は、私をも助けてくださるでしょうか?」
私は彼の目を見つめて答えました。
「兄弟、もしあなたが心の態度を変え、主を信じるなら、神は必ず助けてくださいます。」
23. それから数日後――私がここへ来る直前のことです。
その医師の件について知らせが届きました。
「手術の必要はまったくなくなった」と。
医者がそう言ったのです。
神が彼を完全に癒されたのです。そうです、神は真実なお方です。
そして、神の御言葉を「そのまま信じ取る」者に対しては、
必ずその御約束を守られます。秘密はこれです――
神の御言葉を信じ、そのまま受け取ること。
もしあなたが本当に信じるなら、
神はその信仰に応えてくださいます。
これまで神のために偉大な働きを成し遂げたすべての人は、
例外なくこの「御言葉を信じ取る信仰」を持っていたのです。
――あなたもそれを信じますか?
モーセもそうでした。
彼がエジプトに乗り込み、民を救い出すなど、
どうしてできると思えたでしょうか?
彼は荒野で立ち尽くし、こう言いました。
「主よ、私は口下手な者です。
言葉がうまく出ません。」
彼には言語の障がいがあり、何度も言い訳をしました。
「私は適任ではありません。できません。」
けれども――神が彼に語り、御栄光を示されたとき、
モーセは変えられました。
そしてついに、「神の御言葉に従って」
エジプトへと出発したのです。
24. 想像してみてください――
その日の光景は、なんとも奇妙に見えたことでしょう。
ひとりの老人が、ただ神の御言葉を信じ取って歩き出しているのです。
モーセ――そのとき彼は八十歳。
白いひげが胸のあたりまで伸び、
長い白髪が背中に垂れていました。
やせ細った身体、年老いた男です。
しかし彼は、手に一本の曲がった杖を握りしめ、
荒野を横切って進んでいきました。
そのそばには、年老いた妻が小さなロバにまたがり、
両腕に子どもを一人ずつ抱えている――
そんな姿でした。
誰かが尋ねます。
「モーセ、どこへ行くんだい?」
彼は答えます。
「エジプトへ行って、あの国を治めに行く。」
――たった一人での“侵攻”。
なんと大胆な話でしょう。
しかし、彼には理由がありました。
「神がそう言われたからだ。」
そうです、彼は神の御言葉をそのまま信じたのです。
「モーセ、お前がエジプトを治められるという証拠はあるのか?」
――そう問われても、彼は静かに答えたでしょう。
「神がそう仰せられた。だから私は行くのだ。」
それで十分だったのです。
モーセにとって、神の言葉こそが唯一の確かな根拠でした。
25. 考えてみてください。当時のエジプトは、世界で最も強大な国でした。
軍事力においても群を抜き、戦車や騎兵をそろえた
――まさに「機械化された軍勢」を誇る国でした。
そのエジプトに、一本の杖を持った八十歳の老人が、
ロバを引きながら歩いていくのです。
そのロバには妻がまたがり、両腕には小さな子どもを抱えています。
そしてモーセは言うのです――「私はエジプトに行って、あの国を治めに行く。」
たった一人で!なんという話でしょう。
けれども――彼は本当にそれを成し遂げたのです。アーメン!
神が何かを語られるとき、それは「必ずそうなる」という意味です。
人々は尋ねました。「モーセ、どうしてそんなことができると分かるんだ?」
彼は答えました。「神がそう言われた。――それで十分だ。」
アーメン!私は、そういう信仰を持つ人が大好きです。
神の言葉をそのまま信じ取る人。そのような人こそ、
神の奇跡を実際に見る人なのです。
26. あるとき、一人の少年がいました。
その手には、小さなサンドイッチと、いくつかの魚の束――
ほんのわずかな食べ物を持っていました。
あたりには、約五千人もの人々が座っていました。
イエスは岩の上に腰をかけ、人々に語っておられました。
その少年は、もしかしたら学校を抜け出してきたのかもしれません。
(インディアナではそういうのを “hooky”――つまり「
ずる休み」って言うんです。)
釣りでもしていたのかもしれません。
けれども、彼はその日、あの方――イエス――を見かけました。
そして、その方には何か特別なものを感じたのです。
「この人の話を聞いていたい」と、そう思ったのでしょう。
小さな体で、その子はお弁当を脇に抱えて人混みに近づいていきました。
その頃、人々はみな疲れ果て、空腹で倒れそうになっていました。
弟子の一人が言いました。
「主よ、人々はお腹がすいています。何か食べ物はありませんか?」
すると、別の弟子が答えました。
「ここにひとりの少年がいて、
五つの小さなパンと、少しの魚を持っています。」
主は穏やかに言われました。
「その子を、ここに連れてきなさい。」
27. ああ、その光景を思い浮かべると、まるで一つのドラマのようです。
目に見えるように心に描くことができます。その小さな少年――
彼の持っていたものは、ほんのわずかでした。
自分ひとりの腹を満たすことさえできないほどの量です。
けれども――
彼はそれをイエスに差し出したのです。
そして、主の御手に渡されたその小さな食べ物が、
五千人の人々を満たしたのです。
そうです、私たちの手の中にあるうちは、
それは取るに足りないものかもしれません。
けれども、それを主に委ねるとき、
それは無限の可能性を持ちます。
あなたが今、ほんの少しの信仰しか持っていないように思えても――
それを主にゆだねなさい。
「解き放ち」なさい。主の御手にそれを置きなさい。
すると、あなたは見るでしょう。
その小さな信仰が、どれほど大きな働きを生み出すかを。
少年の手の中では、それはただの小さな昼食でした。
けれども、イエスの手の中では、命の糧となったのです。
彼ひとりを養うのがやっとのものが、
五千人を満たし、
さらにかごいっぱいの残りを生み出したのです。
――ハレルヤ!ああ、このことを思うと、私の魂は震えます。
神の御言葉の真実さに心が揺さぶられるのです。
主は言われました。「人々を皆、座らせなさい。」
そして、少年を見つめて穏やかに尋ねられました。
「わたしがこれをできると信じるかい?」
少年は目を輝かせて答えました。「はい、イエス様。
ぼくはあなたのそばに立っています。
あなたなら、きっとできます!」
28. それこそ、主が今夜も探しておられるものです。――子どものような信仰。
ただ素直に、こう言える心です。
「イエス様、あなたならきっとできます!」
主は、そう信じて立ち上がる人を探しておられます。
たった一人でも、そんな人が現れれば、
主はそこに御業をなされるのです。
けれども、「うーん、どうだろう……信じたいけど……でも……」
と、ためらってしまうなら――
主はその人を用いることができません。
この世で最も無力なもの――それは、
「クリスチャンだ」と名乗りながら、自分の信念の上に
立つことを恐れる人です。
神は臆病な信仰を喜ばれません。
主は、確信に立つ者をお用いになるのです。
私は昔、バディ・ロバーソンという人の本を読んだことがあります。
彼は本当に力強い信仰者でした。
彼は祈りの中でこう言ったのです。
「主よ、のこぎりの丸太ほどの背骨を与えてください。
そして、私の魂の屋根裏にたっぷりの知恵を満たしてください。
そして、私の口に歯がある限り、悪魔と戦わせてください。
もし歯がなくなったら――歯ぐきで噛みついてでも戦います!」
――なんという信仰でしょう!
それこそ、私たちが今、必要としている信仰と決意です。
「主よ、あなたの御言葉によって、私は進みます!」
「御言葉ですから、主よ、ここに参ります。」
主は言われました。
「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でも、それを行う。」
だから私たちは言えるのです――
「主よ、あなたの御言葉ですから、私は従います。」
アーメン。
29. そして、こういう場面も思い出します。(昨日も少しお話ししましたが)
ある日、ひとりの男が墓の中で死んでいたのです。
――ラザロです。死んで四日が経ち、すでに腐敗が始まっていました。
マルタとマリアがそこに立っていました。
マルタは涙ながらに言いました。
「主よ、兄はもう死んで、すでに匂いがしています……。
けれども――あなたの御言葉ですから、
あなたが“そうなれ”とおっしゃるなら、その通りになります。」
これです――神の御言葉を信じ取る信仰。
それが奇跡の鍵なのです。
神が語られることは、
神ご自身が必ず成し遂げられるのです。
時代を超えて、神はその御言葉を裏切られたことがありません。
あの昔――
バビロンの地での出来事を思い出してください。
シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人の若者たち。
彼らは燃える炉の前に立たされました。
国も文化も違う異国の地――
周りは偶像にひれ伏す人々ばかり。
彼らは完全に孤立していました。
けれども彼らはこう決めていました。
「私たちは屈しない。
私たちは神の御言葉を信じ取る。」
なんという決意でしょう。
そうです――今のこの時代にも、
あの三人のような信仰が必要なのです。
シャデラク、メシャク、アベデネゴのように、
どんな試練の火の中でもこう言える者たち――
「主よ、あなたの御言葉ですから、
たとえ火の中でも、私は従います。」
30. 王は布告を出しました。「だれであろうと、この像にひれ伏さない者は、
燃える炉の中に投げ込む。」そのとき、三人の若者――
シャデラク、メシャク、アベデネゴ――は答えました。
「王よ、私たちの神は、この燃える炉から私たちを救い
出すことができます。
しかし、たとえそうなさらなくても、
私たちは決して、あなたの像を拝みません。」
――ああ、この“たとえそうでなくても”という信仰、
私はその決意がたまらなく好きです。
それを聞いた王は怒りに燃え、言いました。
「よし、あの“聖霊狂い”の宗教の熱を、
この炉の炎で焼き出してやる!」
命令が下され、炉の火は七倍も熱くされました。
兵士たちは彼らの手を後ろで縛り、
その夜、三人は静かに祈りの時を過ごしました。
翌日――“死の行進”が始まりました。
彼らは石の道を歩かされ、
炉へと続く坂を登っていきます。
その上からは、ゆらめく炎の赤い光が見えていました。
王の命を受けた屈強な兵士たちが言いました。
「さあ見てみよう。
あの信仰とやらがどれほどのものか。
奴らが“神の言葉”を信じると言ったが、
これで本当に信じ続けられるか見ものだ。」
そして、彼らは三人を次々と炉の中へと投げ込みました――。
31. 彼らには、神からの明確な命令がありました。
「いかなる像にも、ひれ伏してはならない。」
それゆえに、彼らは神の御言葉を信じ取る道を選んだのです。
死の行進が始まりました。
空は燃えるように赤く染まり、
炎の轟きが遠くからでも聞こえてきました。
兵士が叫びます。
「どうだ? まだ考えを変える気はないのか?」
三人は揃って答えました。
「いいえ、王よ。
私たちの神は、この炉から私たちを救い出すことがおできになります。
けれども、たとえそうなさらなくても、
私たちはあなたの像には決してひれ伏しません。」
そう言って、彼らは歩みを進めました。
――そして覚えていてください。
あなたが神の御言葉を本気で信じて立ち上がるとき、
悪魔は必ず“火を強めて”きます。
試練は熱くなるのです。
けれども、それは恐れるべきことではありません。
道を進むごとに、
炎の熱はどんどん強くなり、
焼けつく空気が肌を刺しました。
シャデラクがメシャクに声をかけました。
「おい、ちゃんと祈っておいたか?」
メシャクは静かに答えました。
「ああ、大丈夫だ。すべて神の御手の中にある。」
アベデネゴが頷きます。
「じゃあ――行こう。」
彼らは互いに見つめ合い、
確信と平安を胸に、炎の中へと進んでいったのです。
32. 彼らはさらに進みました。燃えさかる炉の熱気が肌を刺し、
息をするのもやっとのほど――一歩、また一歩と近づくたび、
その炎はまるで生き物のように唸りを上げました。
もうあと一歩で、火の中へ――。見る者には、信仰者にとって
最も暗い瞬間のように思えました。
けれども――その時、
この地上で何かが起きているときには、
天でもまた何かが起きているのです。
さあ、心のカメラを上に向けましょう。
天を見上げると――
栄光に満ちた御座に、主がおられます。
その身には大祭司の衣が流れ、
すべてを見渡す御目が、静かにバビロンの地を見つめています。
そこへ、大天使ガブリエルが近づいてきます。
彼は剣を抜き、光を放ちながらこう叫びます。
「主よ!
バビロンをご覧になりましたか?
あそこに三人の男がいます!
彼らはあなたの御言葉を信じ、それに立っています!
しかし今朝、彼らは火の炉に投げ込まれようとしています!」
主は静かにお答えになります。
「ああ、ガブリエル。
わたしは見ている。
彼らのすべてを、見ている。」
ガブリエルはさらに身を乗り出します。
「主よ、私はあなたのそばに立ってきました。
今こそ、私を行かせてください。
この場面を変えてみせます!」
――そして、確かに彼にはそれができたでしょう。
しかし主は穏やかに言われます。
「ガブリエル、おまえは良い天使だ。
わたしが創造して以来、
いつも命じた通りに忠実に仕えてくれた。
だが――その剣を鞘に戻しなさい。」
33. ガブリエルは主の御言葉に従い、剣を鞘に戻して
御座のそばに立ちました。
すると今度は、もう一人の天使が光のようにすばやく近づいてきました。
その名は――にがよもぎ。
彼は水を支配する権威を託された天使です。
にがよもぎは進み出て言いました。
「主よ! バビロンをご覧になりましたか?
あの地で三人の者が、あなたの御言葉を信じて立っています。
どうか私を行かせてください!
あの洪水の時、あなたは私に水の力を与えてくださいました。
地の泉を打ち破り、天の窓を開き、
大地を水で覆い尽くしたのはこの私です。
ですから今、私を行かせてください。
バビロンの地を一瞬で洗い流し、
その悪を地上から一掃いたします!」
――確かに、彼にはそれができたでしょう。
地と天の水の力をもって、国をまるごと消し去るほどの。
しかし主は穏やかに答えられました。
「ワームウッドよ、わたしは見ている。
彼らのことはすべて、夜通し見守っていた。」
アーメン。そうです――主は、炎の試練のただ中にいるその瞬間も、
あなたを見守っておられるのです。
34. 主の御目は、一羽の雀にも注がれています。
――だから私は知っています。
主は私を見守っておられるのです。だから私は歌います。
喜びのゆえに――主が見ておられるから。
そうです、主はすべてをご覧になっています。
あなたがどこにいようと、何をしていようと、
主の御目は片時も離れません。
主は天の御座から語られました。
「彼らのことを、わたしは一晩中見守っていた。
ガブリエル、にがよもぎよ――おまえたちは偉大な天使だ。
わたしの命じたことを忠実に行ってくれた。
だが、今朝ばかりは――おまえたちを行かせるわけにはいかない。
なぜなら、これは“人の手”でなすべきわざだからだ。
わたし自らが行く。」――アーメン!
そして主は御座から立ち上がり、御手を差し伸べて言われました。
「見なさい。彼らはもう一歩のところまで来ている。
あと一歩で、炉の中に入る。」
そう、神は時に、最後の一瞬まで静かに見守られるのです。
あなたは焦っているかもしれません。
「神よ、なぜ今すぐ助けてくださらないのですか?」と叫ぶかもしれません。
しかし、神は決して遅れているのではありません。
神には完全なタイミングがあります。
あなたが焦る必要はありません。
神はすでに、答えの側に立っておられるのです。
だから――ただ信じていなさい。
主は、今もあなたを見ておられます。
35. 私はその光景を心に描きます。
主が御座からゆっくりと立ち上がられます。
大祭司の衣が、光のようにその肩から流れ落ちます。
――栄光の王、威厳に満ちた主。
天地万物がその御声に従う方。
そのとき、北の空の彼方に大きな雷雲が渦巻いていました。
主はその方角に目を向け、力強く命じられます。
「東風よ、西風よ、北風よ、南風よ――ここへ来なさい!」
そして、すべての被造物がその御声に従いました。
……人間だけを除いて。人は神よりも知恵があると思い込む。
――なんという愚かさでしょう。
主は再び命じられます。
「あの雷雲の上に乗って来なさい。
わたしには、おまえに任せる使命がある。」
風も波も、雲も稲妻も――
すべてが主の声に従います。
巨大な雷雲が轟音とともに近づきます。
主はその雲に御足をかけ、戦車のように進まれます。
ああ、なんという光景でしょう!
主は御手を伸ばし、
稲妻を掴まれます。
その鋭い閃光が天を裂き、
天地を震わせながら轟音を響かせます。
まるで主が叫んでおられるようです――
「わたしは聞いている!
わたしは見ている!
おまえたちがどこにいるか、わかっている!」
――そして雷鳴が再び空を走りました。
「主は応える方、
見守る方、生きておられる方――アーメン!」
36. 主が天から進み出られるそのとき、
地上では――シャデラクが仲間に声をかけていました。
「大丈夫だ、心配するな。主が共におられる。」
その瞬間、天の王はいのちの海を通られ、
その御手で一本の棕櫚(しゅろ)の葉を取られました。
それは慰めと勝利のしるしでした。
そして、三人がちょうど炉の中へと足を踏み入れたその瞬間――
そこに「第四の方」が現れたのです。
炎の中で、そのお方は三人のそばに立ち、
優しくその棕櫚の葉を振って火をあおぎ退けておられた。
灼熱のはずの炉の中が、まるで天の喜びの園のようになったのです。
時が過ぎ、王は不思議に思い、命じました。
「炉の扉を開けよ! 奴らがまだ中にいるか見てみろ!」
兵士が覗き込み、驚きの声を上げます。
「陛下、私たちは三人を入れたはずです……しかし、
今そこには四人います!しかも、その一人は――
まるで神の子のようです!」なぜでしょう?
――誰かが神の御言葉を信じ取ったからです。
そして、同じように――
ペンテコステの日にもそれは起こりました。
百二十人の人々が 「約束の御霊」 を求め、
上の部屋に集まりました。
彼らは言いました。
「どのように来られるのかはわからない。
来られたら何が起きるのかもわからない。
けれど――
神の御言葉に従って待つ。
主が約束されたのだから。」
――アーメン。
そうです。
神の御言葉をそのまま信じ取る者に、
主の霊は必ず臨まれるのです。
37. 彼らをエルサレムから引き離すこと――
それは誰にもできませんでした。
なぜなら、彼らには明確な使命があったのです。
「聖霊が来るまで、ここにとどまれ。」
――ハレルヤ!彼らは神の御言葉を信じ取ったのです。
「どんなふうに来るのだろう?」
――それは問題ではありません。
「とどまれ」と言われたから、とどまる。
それだけでした。
「どれくらい待てばいいの?」
―― 「来るまで」 です。ただそれだけ。
来るまで、信じて待つ。そして――その時が来ました。
突然、天から激しい風のような響きが起こり、
聖霊が彼らの上に臨んだのです。
神の御言葉はその瞬間、完全に成就しました。
そして彼らは一斉に立ち上がり、
町へ、通りへ、家々へ――
主の証人として出て行きました。
今こそ、神の民が再び神の御言葉を取る時です。
マルコの福音書16章にこうあります。
「信じる者にはこのようなしるしが伴う。
彼らは病人に手を置けば、病人はいやされる。」
――これが神の御言葉です。さあ、あなたは信じますか?
信じるなら、神はその御言葉を必ず成し遂げられます。
では、静かに頭を垂れましょう。
38. 主イエスよ、私は今、あなたの御言葉を信じ取った人々のことを思い起こしています。ああ、主よ――あなたは決して私たちを見捨てず、
遅れることもなく、まさに最も必要な時に現れてくださる方です。
今夜もどうか来てください。主イエスよ、ここにご自身を
現してください。ここには多くの病の人がいます。医者たちは最善を尽くしました――しかし、彼らにはもう手立てがありません。もしかすると、
その癒しを妨げているのは、
彼らの人生の奥に隠された罪やわだかまりかもしれません。
蛇に噛まれたその毒は、悔い改めによって取り除かれなければ、
癒されることはありません。しかし今夜――
どうか彼らがすべてを脇に置き、こう言えますように。
「神よ、あなたの御言葉ですから、私はここに来ました。
あなたの御言葉を信じ取ります。
私は見てきました――癒された人々を。
私の町で、かつて歩けなかった人が今は歩き、
盲目だった人が見えるようになり、
癌で医者に見放された人が、今は生きて健康に暮らしているのを。
ですから今夜、主よ、あなたの御言葉により、
私もここに参ります。」
主よ、どうかそのような者たちを祝福してください。
御霊によって答えをお与えください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
――アーメン。(テープの中断後)
さて、あと三十分もあれば、私はもっと主のことを語り続けられます。
けれども、まず申し上げたい――
この集会はただの宗教的な集まりではないということです。
ここには神の臨在があるのです。
信じない者が信じる者たちの中に座るとき、
霊の世界では悪霊がその人を惑わすことがあります。
今日の午後も話しましたが、
それらは実際に存在する“実体”なのです。
数年前、カナダのカルガリーでの集会では、
その霊たちが実際に目に見える形で現れました。
それは黒い影のようであり、
ときには巨大な蜘蛛のようにも見えました。
私は一度、てんかんの霊を見たことがありますが、
それは亀のような形をしていて、
長い足を持ち、空中を漂っていました。
その日、二万人を超える人々がその場におり、
全員がその黒い影が群衆の上を漂い、
建物の外へ出て行くのを見ました。
――そのとき、会場は完全な静寂に包まれました。
ですから皆さん、どうか敬虔な心でここにいてください。
これは“遊びの教会”ではありません。
以前、数人の若者が私にいたずらを仕掛けようとしたことがありました。
彼らは催眠術師で、軍の施設などで
人を犬のように吠えさせるような者たちでした。
ある夜、その一人が集会に来て、
群衆の中でふざけていました。
私はすぐにその“奇妙な霊”を感じ取り、
彼を見つけて言いました。
「なぜサタンにそのようなことをさせるのですか?
あなたは報いを受けますよ。」
彼は強がって答えました。
「私は何も悪いことはしていません。」
私は言いました。
「あなたは催眠術師ですね。
そして神があなたに報いられます。」
その直後、彼は倒れ、
麻痺して運び出されました。
彼は今もその状態です。
ですから――軽んじてはいけません。
敬虔でいなさい。
できないなら、この場に留まるべきではありません。
さて――
信じるなら、神はご自身の御言葉を証明されます。
この集会の間に癒された人がどれほどいるでしょうか?
手を挙げてください。
(群衆のざわめき)
見てください!あちらにも、こちらにも――
たくさんの手が上がっています。
なぜでしょう?
彼らは聖書を読み、御言葉が真実であると信じ取ったのです。
そして、心を神に向けたとき、神は彼らを癒されました。
それが真理です。
癒された方々、そうでしょう?
あなたが神の御言葉を信じ取ったとき、
神はその御言葉通りに行われたのです。
そうです――
それが唯一の道です。
神の御言葉をそのまま信じ取ること。
今夜は約二十人ほどの祈りの列があります。
もしかすると、まだカードを持たない人、
あるいは耳の聞こえない人がいるかもしれません。
ビリー、全員そろいましたか?
――そうですね。では始めましょう。
最初の方、どうぞ前へ。
はい、こちらの女性から始めます。