キリストのミニストリー
コーナズビル インディアナ州 アメリカ合衆国
説教番号: 53-0607A
日付: 1953年6月7日(53-0607)
1. ありがとう、ブッシュ兄弟。[テープの切れ目]
皆さん、こんにちは。
今日の午後、こうして皆さんと共に集まれることを本当にうれしく思います。
そしてもう一度、イエス・キリストの福音を守り、その良き知らせ――イエスが死からよみがえられ、今もなお人々の間に生きておられるという知らせ――をお伝えできることを心から感謝いたします。
昨日も今日も、そして永遠に変わらない同じイエス・キリスト。
主は決して失敗なさいません。
この数晩、集会がどれほど進展し、主がどれほど祝福してくださったかを思うと、心から感謝が溢れます。
さまざまな病や苦しみから癒やされたという証しが、次々と寄せられています。
講壇の上だけでなく、この会衆の中でも、主が働いておられるのです。
ある方はこう書いてくださいました。
「赤ちゃんに装具をつけていましたが、家に帰って外してみたら歩けたんです!」
ハレルヤ。そういうことが本当に起こっているのです。
私はいつも、ここで起こっているすべてを口にすることはできません。
主が導かれるときだけ、少しずつお話ししているのです。
この中央あたりを見ると、時おり光が見えます。
そこに立っておられる方が誰なのか、どこにおられるのかまでは見えません。
けれども、それが別の場所へ移るのを待つ間も、主が人々を祝福しておられるのを感じます。
そして私はそのことを、心から感謝しているのです。
2. さて、私たちの集会では、日曜日の午後には、みことばからお話しする
時間を与えられることが多いのです。
私は、皆さんが言うような「説教者」というタイプの人間ではありません。
教育もあまり受けておらず…ほんのわずかしか学んでいません。
けれども、私は主を愛しています。
そして、私が真実だと確信していることを、主について語りたいのです。
ここには、フォートウェインから来てくださった多くの友人たち
もおられますね。
ある晩、フォートウェインでの集会のことを思い出します。
そこに、文法にとても詳しい一人の男性がいました。
彼は私に言いました――
「ブラナム兄弟、あなたの文法はひどいものですね」と。
私は言いました、「はい、先生、それは自分でも分かっています」と。
すると彼は言いました、「あなたは本当にひどい
間違いをたくさんしていますよ。」
私は笑って、「はい、そうですね」と言いました。
そしてこう続けました――
「父が亡くなり、母と十人の子供たちと共に生きてきました。
だから私は働かなければならなかったのです。一生、働き通しでした。
教育を受ける機会はありませんでした。」
すると彼は、「それは言い訳にはなりません。今は立派な大人でしょう」
と言いました。
私は「はい、その通りです」と答えました。
3. 彼はさらに言いました――
「あなたは通信教育でも何かを受けて、文法を学び直すことができるじゃありませんか。」
私は「はい、確かにその通りかもしれませんね」と言いました。
けれども私はこうも言いました、「でもね、私は集会を始めてから…」
すると彼は言いました、「それでも、あなたが何千人もの人々に話しているというのに、文法の誤りが多すぎて恥ずかしいですよ。“his”とか、“hain't”とか…そういう言葉を使ってしまうんです。」
私は微笑んで言いました、「まあ、皆さんはそれでも十分うまく理解してくれているようですよ。」
彼は言いました、「いや、それでもね、たとえば今夜、あなたはひどい間違いをしたんです。直してあげたい。」
私は「はい、お願いします」と言いました。
彼は言いました、「あなたは“みんなこのポリピットに上がってくる”と言いましたね。」
私は「はい、そうです。それがいけないのですか?」と聞きました。
4. すると彼は言いました、「いいえ、“POLIPIT”ではなく“PULPIT”と言うべきなんです。人々は、あなたが“PULPIT”と言えばもっと感謝するでしょう。」
私は笑って、「ああ、兄弟よ、あなたを愛していますよ」と言いました。
そしてこう続けました――
「でもね、あの人たちは、私が“POLIPIT”と言おうが“PULPIT”と言おうが、そんなことは気にしません。彼らが望んでいるのは、私が福音を語り、主がどのように働かれるかを見ることなんです。」
それで十分じゃないですか。
私は自分がバプテスト教会で最初に任職を受けたころを思い出します。
若い説教者というものは…特にバプテストでは、そうですね…皆どこか誇らしげで。
聖書を脇に抱え、「牧師さん」と呼ばれることに少し酔いしれていました。
街を歩いていると、誰かが尋ねるのです――
「あなたはミニスターですか?」
「はい、そうです」と胸を張って答えたものでした。
5. その“牧師”という響きが、なんだか好きだったんです。
でも今でも思い出すのです――父のことを。
私の父は、見事な馬乗りでした。ロデオにも出て、馬を慣らし、
時には怪我をしながらも乗り続けました。射撃もうまく、勇敢な人でした。
私はそんな父に憧れていました。
ある日、家で父の真似をしたくなったのです。
うちには一頭の古い耕作用の馬がいました。
この辺りの方ならお分かりでしょう、古い「すき馬」というのは、働き疲れてよぼよぼなんです。
私はその馬を夕方遅くまで働かせていました。父は「もういい、あの老馬を休ませてやれ」と言っていました。
でも私は遊び心が出て、馬を連れ出していきました。
古い丸太をくり抜いた水桶がありました。皆さんも見たことありますか?
そうです、あの素朴な田舎の水桶です。
私は弟たちを納屋の横に並ばせ、水桶に水をいっぱいにしました。
馬が水を飲み終えると、私はこっそり納屋に戻って父の古い鞍を取ってきました。
そして下に“ひっつき草”を詰めて、しっかりベルトを締め、自分を本物のカウボーイだと思って馬にまたがったのです。
6. けれども、その古い馬はすっかり年を取り、疲れ果てていました。
もう足を地面から上げる力もないほどでした。
それでも私は帽子を振りながら、「俺は本物のカウボーイだ!」
と叫んでいました。
弟たちは納屋の柵の向こうで笑って見ていました。
私は映画を見すぎて、カウボーイ気分になっていたんですね。
十九歳のころ、母にこう言いました。
「インディアナのボーイスカウトのキャンプに行ってくる」グリーンミルにと。
でも実は、西へ向かって旅に出たんです。アリゾナまで行きました。
「自分は本物のライダーだ」と思っていました。
どうせならお金を稼ごう、とロデオの噂を聞きつけて出かけて行きました。
リーバイスを買って、馬の囲い場へ行きました。
そこには、がっしりしたカウボーイたちがたくさんいて、足がO字に曲がり、傷だらけで、まさに本物の荒馬乗りたちでした。
私はフェンスに登って、「ここが自分の居場所だ」と思いました。
7. しばらくして、馬を一頭引き出してきました。
アナウンサーがその馬の名前と、どれほど荒々しい暴れ馬かを紹介しました。
有名なライダーが乗ることになっていたのです。
私はその場で見ていました。
長い足をした立派な男がサドルに飛び乗りました。
すると馬は二度ほど跳ね上がり、体をねじり、ライダーもサドルも空中に放り出されました。
救急車がやって来て、血まみれのその男を運び去りました。
フェンスの向こうにはたくさんのカウボーイたちが並んでいましたが、誰も何も言いませんでした。
係の人が叫びました――
「この馬に三十秒間乗り切った者には五十ドルをやる!」
(当時は大恐慌の時代です。五十ドルは大金でした。)
しかし誰も動こうとしません。
その人は私の前まで来て、「君、ライダーか?」と聞きました。
私は言いました、「いいえ、先生」。
ハハハハ……そのとき初めて気づいたんです。
あれは、私の古い“すき馬”とは違うってね。
8. 若い頃の私は、よくどこへ行っても「私は説教者です」と
言って歩いていましたご存知ですよね。
ある日、ミズーリ州のセントルイスに行ったときのことです。
そこにロバート・ドーハティという小柄なペンテコステ派の説教師
がいました。その方はテント集会で説教していました。
息が切れるまで、声を張り上げて語り続け、
膝が震えながらも息を整えては、再びメッセージを続けるのです。
遠く一ブロック先まで声が響くほどでした。
誰かが私に尋ねました――
「あなたも説教者ですか?」
私は言いました、「いえ、違いますよ」。
ハハハハ……。
9. 私の古い“のんびりしたバプテスト流”では、あの速さについていけません。
ですから、私は自分にできる限りのことをしているだけです。
けれども、私は主を愛しています。
そして、午後のこの時間が大好きなんです。
夜の集会はいつも癒しのための礼拝です。
病の人々のために祈るとき、そこには特別な油注ぎがあります。
天使的な存在が近くに立ち、その場が別の次元に変わるのです。
今日もレストランで、ある方が話しかけてきました。
「先生、私はあの夜、癒されたんです。長い間、ひどく病んでいたのに、
今はすっかり元気です」と。
私はその方を覚えていませんでした。
また別の方は、ヒューストンの集会から来たと言いました。
「ブラナム兄弟、私は三十年間、肝臓の病気で苦しんでいましたが、
あの夜すっかり癒されたのです」と。
いま、そのお年寄りがここに座っておられます。
ハレルヤ。主は真実なお方です。
10. 人が「覚えていません」と言うと、冷たく聞こえるかもしれませんね。
言いたくはないのですが、本当に覚えていないのです。
話を聞くと、まるで夢で見たことのように感じるのです。
ある人が、先日、麻痺していた女性が癒されたと話してくれました。
けれども、私はその瞬間を覚えていません。
ただ、夢の中でその光景を見たような気がするのです。
さて、今日の午後は、短い聖句を読んで、少しだけお話し
をさせていただきます。
本来は「かつて聖徒たちに伝えられた信仰のために戦う」という
テーマで語るつもりでした。
ただ、時間を勘違いしておりまして…本当は二時半からだと
思っていたんです。
ですから、もし次の週も続けて集会が持てるなら、そのテーマで
お話ししたいと思います。
今日は、ヨハネによる福音書の第十一章――
ある人が死んで、主によってよみがえらされた、
その箇所を読みたいと思います。
皆さん、イエス様は今も同じ主であると信じますか?
そうです。昨日も今日も、いつまでも変わらないお方です。
11. 聖書全体を見てみますと、私はこう思うのです。
この書物はまるで、一つの大きな劇のような物語です。
エデンの園から始まり、人がその門を出て、十字架の道を通りながら、再び神のもとへと帰っていく――
まるで一本の壮大な道筋のようです。
これは、神がご自身の御心の中に描かれた一枚の大きな絵です。
世界の基礎が据えられる前、
月も星も存在しなかったその永遠の昔――
神が空のかなたに座しておられる光景を想像することができます。
その御心の中で、神は全ての構想を描かれました。
「こうあれ」と語られると、その言葉どおりにすべてが形を取り始めたのです。
ああ、なんと素晴らしいお方でしょう!考えてみてください。
そして、その偉大な主権と愛をもって、
罪深い私たちのような者を救うために、
ご自身が下って来られた――
それを思うと、ただ驚くばかりです。
詩人がこう歌ったのも当然です。
「神の愛 いかに豊かに いかに清く、
測り知れぬほど強く、永遠に続く。
聖徒も天使も歌う その愛の歌を。」
11章と18節から始めて、私はいくつかの聖書から聖句を読みます:ベサニー...さて、ベサニーはエルサレムの近くにいました。...ユダヤ人の多くは、彼らの兄弟に関して彼らを慰めるために、マルタとマリアに来ました。それからマルタは、イエスが来るのを聞くやいなや、行って彼に会いました。しかし、マリアは家の中にじっと座っていました。それからマルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいたら、私の兄弟は死ななかったでしょう。しかし、私は、今でも、あなたが尋ねるものは何でも...神様、神があなたにそれを与えることを知っています。 (そこは素晴らしいですね)イエスは彼女に言われた、「あなたの兄弟は再び立ち上がるでしょう」。マルタは彼に言った、「私は彼が最後の日の復活で再び立ち上がることを知っています。イエスは彼女に言われました、「私は復活であり、命です。私を信じる者は、死んでも生きるでしょう。...私を生きて信じる者は誰でも死ぬことはありません。 あなたはこれを信じますか?彼女は彼に言った、「主よ、あなたはこの世に来るべき神の御子であるキリストであると私は信じています。
12. では、少しの間、頭を垂れましょう。
我らの天のお父様、私たちは今日、永遠の世界のこちら側に、もう一日、立っています。
――いや、むしろこう言うべきでしょう。
主の御再臨を待ちながら、この地上に立っております。
この中には、まだあなたの愛する御子イエス・キリストを、
個人的な救い主として受け入れていない方々もおられることでしょう。
公園を通りかかると、
プールには若い女性たちが半ば裸で寝そべり、何の心配もなく笑っていました。
しかし私は思います――
その美しい身体も、やがては塵に帰り、虫が這う時が来る。
そして魂は神の御前に立ち、裁きを受けねばならない。
主よ、
どうか今日のこの午後、
人々が目を覚まし、
終わりの時が近いことを悟るきっかけとなる出来事を、起こしてくださいますように。
この週を通して、あなたがしてくださった数々の御業を感謝します。
耳の聞こえなかった者が聞き、
足の不自由だった者が歩き、
数え切れないほどのしるしと不思議が現れました。
それは疑いようのない真実――
まぎれもなく神の力が今も人々の間に動いている証しです。
13. 主よ、
今日この天蓋の下に集った人々は、あなたを礼拝するために来ました。
けれども、主よ、
あなたの子どもたちの多くは疲れを感じています。
悪しき者が繁栄していく姿を見て、心を痛めています。
どうか彼らが、ダビデのように思い出しますように。
あなたがダビデに語られた御言葉――
「私は確かに、悪しき者が青々と茂る大木のように栄えているのを見た。
だが、その終わりを見よ。すべてはそこに現れる。」
死の天使が部屋に入るその時、
霧が立ちこめ、やがて谷を下る時――
その瞬間、すべてが明らかになります。
神よ、
今日、あなたの子どもたちを祝福してください。
彼らの信仰を奮い立たせ、魂を励ましてください。
私たちの救いの神にあって喜ぶことができますように。
病の者を癒してください。
この場に座っている苦しむ人々が、心に聖霊を受け、
信仰の灯が輝いて運び去られるようにしてください。
父よ、それをお与えください。
主よ、あなたの取るに足らぬしもべを助けてください。
どうか、これまでにないほど力強く、私を通して語ってください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
14. 今夜の祈りのカードは、六時頃から配られるでしょう。
ですから、私たちは少し早めに切り上げなければなりません。
短い時間ですが、祈りの中で少しだけお話しさせてください。
さて、今日この場におられるクリスチャンの方はどれくらいでしょうか?
……おお、ほとんど全員ですね。素晴らしいことです。
今午後に読む聖句は、主イエス・キリストの初期の働きに関するものです。
彼はちょうど名が知られ始めた頃でした。
最初の年、主は非常に人気がありました。
しかし二年目には反発を受け、三年目には十字架へと向かわれました。
最初はどこも新鮮で、人々はこの奇跡の人を見ようと群がりました。
人の心を読み、父が示された業を行う――
盲人の目を開き、耳の聞こえない者を癒やす。
誰もそんなことを見たことがありませんでした。
けれども、当時の宗教指導者たちはこう言いました。
「彼は悪霊につかれている」と。
彼らがそう教えたので、人々も同じように信じてしまいました。
(少しマイクが近いですかね?――はい、大丈夫ですか。
耳が聞こえないようになってもらってはいけませんからね。)
15. そのとき人々は悟りました。
自分たちの宗教指導者たちは、この方を信じていない――と。
それで主は、一般の人々には受け入れられなくなりました。
しかし、聖書はこう言っています。
「庶民は喜んで彼の言葉を聞いた」と。
社会的に地位のある人々、財産を持つ人々は、主に注意を払いませんでした。
彼らは「医師や何某博士が言っていた。あの男は狂信者だ、彼は悪霊だ、何も彼からは信じるな」と言い合い、主から離れていきました。
類は友を呼ぶ――その通りです。
けれども、主を信じ、愛した人々は、主のそばにいました。
その中の一つの家族が、ラザロとその二人の姉妹――マルタとマリアの家族でした。
伝承によると、ラザロは律法写本を筆写する律法学者でした。
律法の一字一句を正確に書かなければならない、極めて厳格な務めです。
だからこそ、彼は誠実で敬虔な人物であったのです。
16. マルタとマリアは、針仕事や織物をして神殿のための
タペストリーを作っていました。
彼女たちは両親を亡くし、三人だけで暮らしていました。
そのころ、イエスの養父ヨセフもすでに亡くなっていたと思われます。
主イエスは彼らと共に過ごされることが多くなり、深い友情が生まれました。
主の働きは広まり、人々の間で名声が高まりました。
けれども、すべてには“時”があります。
小麦は秋に蒔かれ、春に芽を出します。
トウモロコシは春に蒔かれ、秋に収穫されます。
すべてのものには、その季節があります。
主の生涯もまた、始まりがあり、最も輝く時があり、
そして影が差し始める終わりの時があります。
17. 私たちの人生や奉仕も同じです。
始まりがあり、盛りがあり、そして終わりがあります。
人の生涯もそうです。
幼子として始まり、青年期を経て、中年を過ぎ、そして幕を閉じます。
太陽が東から昇り、西に沈むように――すべてには始まりと終わりがあります。
神が地上で何かをなさるとき、
必ず最初に「憐れみ」をお送りくださいます。
裁きの前には、必ず憐れみがあるのです。
もしその憐れみを退けるなら、残されるのは裁きだけです。
神は常に、何かを行う前に、その前兆を示されます。
今日、私たちがここコナーズビルに集っていることも、
私はその“前触れ”だと信じています。
神は遊び半分では何もなさいません。
すべてには御心の目的があります。
ひとつひとつの言葉が、その正しい場所に届くのです。
「一点一画も滅びることはない」と主は言われました。
聖書はこうも語っています。
「あなたの言葉は天において永遠に定められています。」
天では誰も神の言葉を疑いません。
疑うのは地上の人間だけです。
天にあるすべてのものは、神の言葉を完全に信じています。。
18. さて、よく聞いてください。
エデンの園で預言された救い主の到来――
その成就の前に、バプテスマのヨハネが来ると預言されていました。
そのとき、ザカリヤという名の祭司がいました。
彼は敬虔で正しい人でした。子供を欲しがっていたのですが
彼と妻エリサベツには、長い間子どもがいませんでした。
当時、子どもを持たないことは恥とされていました。
しかし今では、逆に子どもを持つことを恥じるような時代
になってしまいました。
さあ、よく聞いてください。
今日の午後、私はこの礼拝の場で主と共に過ごしています。
だから私は、主が語るように言葉を発するだけです。
けれども、なんと悲しい時代になったことでしょう。
人々は洗濯機や食器洗い機など、あらゆる便利なものを作り出しました。
それによって、女性たちは多くの時間を与えられたはずなのに――
その時間を、酒場に集まり、たばこを吸い、酒を飲み、
国中を遊び歩くことに費やしているのです。
そうです、それが現実です。
人々は“忙しいふり”をしながら、実は何もしていない。
時間があり余っているのに、何も有意義なことをしていないのです。
むしろ、昔のようにたわしを手に取り、
母がしていたように、洗濯板で洗い物をしていた方が
どれほど良かったことでしょう。
あの頃の方が、ずっとまっすぐで、謙遜で、
神を覚えていたのです。
19. さて、私は女性だけを責めているわけではありません。
男性たちも同じです。
彼らは自分の予定を調整して、ゴルフに出かけたり、
運動をして脂肪を落としたり――そんなことに時間を使っています。
なんと悲しいことでしょう。
その一方で、世界の多くの人々は飢え死にしているのです。
兄弟姉妹よ、
私たちはこのようなことをしておきながら、
神の裁きを受けないと思っているのですか?
――いいえ、確実に報いを受けるでしょう。
私は世界を旅しながら見てきました。
貧しい子どもたちが小さな手を絞り、涙に濡れた顔でパンを求めて
泣いている姿を。
その小さな頬は汚れ、痩せ細っていました。
それなのにアメリカではどうでしょう。
午後、八ドルの皿に盛られた食事の半分が、
ゴミ箱に捨てられて豚の餌になっているのです。
それは正しくありません。
そして兄弟よ、
神はやがて、私たちがその報いを支払う時をお定めになるでしょう。
しかし、そのような中でも――
ザカリヤという一人の男と、その妻エリサベツは正しい人々でした。
敬虔で、常に祈る生活を送っていました。
そしてついに、イザヤの預言が成就する時が訪れたのです。
その預言は、七百年以上も前に語られたものでした。
「荒野で叫ぶ者の声がする――
主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ。」
20. 神の預言の“歯車”に目を留めてください。
預言が成就するその正確な時――
神はすでに、次の働きを担う者をその場所に備えておられるのです。
イエス・キリストは、まさに定められたその時に再び来られます。
教会もまた、定められたその時に上げられるのです。
何ひとつとして失敗はありません。
神が定められた通りに、
そのすべては正確にその時を迎えるのです。
さて、この人々を見てください。
神は、間違いなく地上に降りて来られました。
ご自身の御言葉の成就を生み出すことのできる場所――
それを見つけるために、神は探されたのです。
そして、神は一人の男を見出しました。
その名はザカリヤ。
正しく、敬虔な人でした。
神はいつも、
高ぶる者ではなく、
低く、貧しく、見捨てられた者の中から選ばれます。
それが、私がこの方を愛してやまない理由です。
神は私のような者を拾い上げてくださいました。
この世の貧しい人々――
心がへりくだり、教えを求める者たち――
まさに、神はそのような心をお持ちの人を
ご自身の働きのためにお選びになるのです。
21. そして神は、ザカリヤを見つけられました。
彼は自分の務めに忠実であり、香をささげていました。
その日、香をたくために聖所へ入ったとき――
彼はすでに年老い、妻も子を産む年齢をはるかに過ぎていました。
そのとき、主の御使いが祭壇の右側に立っていたのです。
ザカリヤが振り向いて見ると、それは大天使ガブリエルでした。
見てください。
神は多くの天使をお遣わしになることがあります。
私たちには皆、守護の天使がついています。
主イエスは言われました。
「これらの小さな者たちを軽んじてはならない。
彼らの天使は、天におられるわたしの父の御顔を常に見ているからである。」
そうです。
だから、クリスチャンに対して何をするかには気をつけなければなりません。
聖書は言います――
「その一人をつまずかせるよりは、首に石をくくりつけて海に沈められた方がよい」と。
気をつけなさい。ね。
22. 神は多くの天使を送られますが、
「ガブリエルが天の栄光から下って来た」と聞くとき、
それはただの小さな出来事ではありません。
何か大きなこと――神のご計画の節目が近づいているのです。
ガブリエルは、キリストの最初の到来を告げました。
そして彼はまた、キリストの再臨を告げる天使でもあります。アーメン。
彼は大天使――栄光のうちに王の右に立つ御使いです。
そのとき、この祭司ザカリヤは香をたき、祈っていました。
外では人々が祈り、
中では彼が香炉を振っていた。
ふと目を上げると、そこにガブリエルが立っていたのです。
なんという光景でしょう!
ガブリエルは言いました。
「ザカリヤよ、あなたは神の前に恵みを受けた。」
そしてこう告げたのです。
「この務めの期間を終えて家に帰るとき――
あなたの妻エリサベツは身ごもり、男の子を産むであろう。」
なんというメッセージでしょう!
23. 見てください。
どれほど人が宗教的に厳格であっても、
彼はなお疑うことがあるのです。
天使の前に立ちながら、ザカリヤはこう言いました。
「どうしてそんなことがあり得るでしょうか?」
つまり――「そんなことは不可能です。
妻はもう五十を過ぎ、いや六十に近いのです。
若いころから共に生きてきましたが、
もう子を産むことなどできません。」
しかし、私はこの後のやり取りが好きなのです。
神はご自身の言葉を必ず成就されるお方です。
ガブリエルは言いました。
「私は神の御前に立つガブリエルである。
私の言葉は定められた時に必ず成就する。
しかしあなたが信じなかったゆえに、
この子が生まれる日まで、あなたは口がきけなくなるだろう。
その名をヨハネと呼びなさい。」
24. ああ、なんという出来事でしょう!
見てください。
あなたはその天使が今は死んだと思いますか?
いいえ。
彼は今日の午後もこの場を聞いているのです。
さて、人々はなぜザカリヤが聖所からなかなか出てこないのか不思議に思いました。
そして中をのぞくと、彼は身振りで何かを示していました。
人々は、彼が幻を見たのだと悟りました。
やがてザカリヤは家に帰りました。
すると――まさにガブリエルが言った通りになりました。
エリサベツは身ごもったのです。
ハレルヤ!
神の御言葉が語られたなら、それは必ず成就します。
エリサベツは高齢で、とうに子を産む年を過ぎていました。
しかし、それでも神の約束は果たされたのです。
ザカリヤは、それが自分にも起こるとは信じませんでした。
彼には聖書に数多くの前例があることを知っていたのに。
それでも自分のこととなると疑ったのです。
あなたもこう言うかもしれません。
「人が癒やされるのは見たけれど、自分には分からない。」
しかし、兄弟姉妹、それはあなたのためでもあるのです!
25. 「私は聖霊を受けたあの人たちが幸せそうなのを知っています。
でも、近所の人が自分を笑うのが怖いんです。」
――そんなふうに思う人もいるでしょう。
しかし、隣人が何と言おうと気にしてはいけません。
神はあなたを笑い者にするために呼んだのではありません。
あなたを聖なる者に造り変えるために呼ばれたのです。
重要なのは、人が何と言うかではなく、神が何と言われるかです。
アーメン!
ああ、もう私は胸の奥で聖霊の火を感じています。
確かに、主は今日の午後もここにおられ、
ご自分の民を祝福しておられます。
ああ、私は思います。
ザカリヤが最初は疑っていた――それでも、しばらくしてエリサベツは身ごもったのです。
彼女は六か月の間、人目を避けて身を隠しました。
なぜなら、彼女は神の御手によって子を宿し、その子を産む備えをしていたからです。
そして六か月後――
さあ、私たちの目を別の場所へ向けましょう。
ナザレという町へ。
それは世界の中でも、最も評判の悪い町でした。
コナーズビルやジェファーソンビル――どの町よりも堕落していた。
ああ、まさに恐ろしいほどの場所だったのです。
26. さて、時を進めましょう。
エリサベツが身ごもって六か月が経ったころ――
私たちは舞台をナザレという町に移します。
それは、当時最も評判の悪い町でした。
まるで「コナーズビル」や「ジェファーソンビル」などよりも
もっとひどい場所のように語られていました。
では少し情景を想像してみましょう。
月曜日――
洗濯の日です。
当時、女性にとって最も忙しく、重労働の日でした。
私はよく母を思い出します。
外の大きな鉄鍋で水を沸かし、
木の枝を割って火を起こしていた姿を。
夏の日には汗を流しながら、
母は保存食を作っていました。
黄色い小さなトマトでジャムを作り、
冷たい朝には熱いビスケットに挟んでくれた――
あれは本当においしかった。
「お母さん、もう十分熱いよ!」と私が言うと、
母は笑って「いいえ、まだ足りないのよ」と言いました。
そしてグツグツと泡を立てて煮続けたのです。
27. 母は言いました。
「泡がはじけるまで待つのよ。
火を強くして、沸き立つまでね。」
私はそれを思い出すたびに、
それは本当に素晴らしいたとえだと思いました。
まるで、古き良き聖霊の集会のようです。
薪をくべて、火を絶やさずに燃やし続ける――
やがて、鍋の中でポンポンと音を立てて沸き立つその瞬間。
それが、霊が働き始める時なのです。
そうです。
それは「神が印を押される備え」の時です。
鉄を何かに造り変える前には、まず熱くしなければなりません。
鉄床(かなとこ)の上に置き、火花が散るほど打たなければ、
形を変えることはできないのです。
同じように、神もまず「集会を熱くされる」必要があります。
あなたの心を主の方へと向けさせるのです。
そのとき初めて、神はあなたの中に新しいものを造り、
純粋でまじりけのない信仰のうちに、
あなたを神の息子・娘として形づくることができるのです。
28. さあ、よく見てください。
私はマリヤの姿が目に浮かびます。
東洋風の服装をした若い娘が、
頭に水瓶をのせて泉から戻ってくる――
「処女の泉」と呼ばれる場所から、
街道を上りながら歩いているのです。
そして彼女は路地を抜けていきます。
おそらくそこが彼女の家へと続く道――
街外れの小さな粗末な家。
貧しい生活、未亡人の母と二人暮らしでした。
その月曜日――洗濯の日、
彼女は静かに歩いていました。
どんなに町が堕落していようと、
彼女は清らかな処女でした。
彼女の心は神を信じていたのです。
そのとき――突然、
まばゆい光が彼女の前に現れました。
その光の中に立っていたのは、
大天使ガブリエル(ハレルヤ)でした。
アーメン。
(怖がらないでください、「アーメン」とは「その通りになりますように」という意味です。)
ガブリエルは光の中に立ち、こう言いました。
「マリヤよ、おめでとう。
あなたは女の中で祝福された者。
あなたは神の御前に恵みを受けた。」
29. マリヤは驚いて言いました。
「わたしのような者が?
この貧しい町の小さな娘が、
神に恵みを受けるなんて?」
ガブリエルは答えました。
「そうだ、あなたは神に恵みを受けた。」
彼の姿は光に包まれ、声は威厳に満ちていました。
誰であっても、その光景を見れば恐れるでしょう。
しかし彼は語り続けました。
「あなたはみごもって男の子を産む。
その名をイエスと呼びなさい。」
マリヤは尋ねました。
「どうしてそんなことがあり得るでしょう?
私はまだ夫を知りません。」
ガブリエルは言いました。
「聖霊があなたを覆うのです。
あなたから生まれるその聖なるものは、
神の子と呼ばれるでしょう。」
天使は言いました。
「聖霊があなたを覆うでしょう。」
アーメン。
「そして、あなたから生まれるその聖なるものは、
神の御子と呼ばれるのです。」
――覚えておきなさい。
あなたはそれを信じますか?
神は霊です。
ある時、私は一人の男と話していました。
彼は言いました。
「説教者さん、本気でそんなことを信じているんですか?」
私は答えました。
「ええ、もちろん信じています。」
30. ある日、私はある人と話していました。
彼はこう言いました。
「そんなこと、科学的にあり得ませんよ、ブラナムさん。
ヨセフとマリヤの間に、ちょっとした“出来事”があっただけでしょう。」
私は答えました。
「いいえ、決してそうではありません。
イエスは純粋なる神の御子――
処女から生まれた方です。」
彼はなお言いました。
31. 「それは科学の法則に反している。
花も穀物も、雄と雌がいなければ実らない。
自然界のどの生命もそうだ。」
私は言いました。
「しかし、このお方は科学を創造された神です。」
彼は首を振って言いました。
「私は神なんて信じない。
処女降誕なんてあり得ないし、これまでも、これからもない。
あの男ヨセフこそが、あの子の父親だったんだ。」
私は静かに言いました。
「それでも、あなたが信じなくても、
神の御言葉は真実であり、成就するのです。」
32. 私は彼に言いました。
「ひとつ、尋ねたいことがあります。
あなたは――こう言うのですか?
偉大なる創造主なる神が、
その御力によって人を造り出すことが“全く不可能”だと?」
彼は言いました。
「そんな存在はそもそもいない。」
私は静かに答えました。
「では、いいでしょう。少し話を進めましょう。
あなたは、創造主なる神がこの御子をお生みになることは不可能だと信じている。
――それなら、あなたもイエスに“地上の母”がいたことは認めますね?
それは私も認めます。
しかし、あなたは“天の父”なしでは
それが不可能だったと考えるわけですね?
つまり、もし地上の父がいたのだとすれば……」
すると彼はすぐに言いました。
「そうだ。その通りだ。」
33. 私は彼に言いました。
「では、もう一つ尋ねましょう。
最初の人間――アダムはどうやってこの地上に現れたのですか?
父も母もいなかったのに、です。
たとえあなたが彼をオタマジャクシでも、サルでも、何と呼ぼうとも構いません。
しかし、どうやってここに存在するようになったのですか?
あなたの理屈によれば、
すべての生命は“父親と母親の両方”を必要とするのですよね?
では、彼の父と母は誰だったのです?」
彼はその問いに、今でも答えられません。
――答えられるはずがないのです。
神こそが、この御子を創造されたのです。
アーメン。
私は信じています。
血液の細胞は男性から来る。
それは真理です。私たちはそれを知っています。
ここにいる皆さんの中にも、農夫の方が多いでしょう。
鶏は夏じゅう卵を産み続けることができます。
けれども、もし雄鶏と交わっていなければ、
その卵からヒナがかえることは決してありません。
その通りです。
鳥たちが巣を作る季節になりました。
雌鳥は木の上に巣を作り、
いっぱいに卵を産むことができます。
そして一日中その巣に座り、
卵を温め、ひっくり返しながら、
やせ細るほど世話をしても――
もし雄鳥と交わっていなければ、
その卵は巣の中でただ腐っていくだけです。
なぜなら、命の芽(いのちの元)は雄から来るからです。
34. この話をしていると、私は――
このあたりにある“古くて冷たい形式的な教会”のことを思い出します。
彼らは、まるで巣の中に腐った卵をいくつも抱えている鳥のようです。
その卵を寄せ集めて、「これは執事(ディーコン)だ」「これは兄弟だ」などと呼んでいる。しかし、そんなものは巣ごとひっくり返して、
最初からやり直した方がいいのです。なぜなら――
彼らは神の癒しを信じていない。
神の力を信じていない。
雄(すなわちキリスト)に触れられたことがない。
だから“命の息吹”が宿っていないのです。
これが真理です。
そう、巣の中をきれいに整えて、
どれほど卵を磨こうと、
どれほど肩書きを与えようと――
「執事」や「兄弟」と名付けようと――
それだけでは命は生まれません。
どれほど背中を叩いて励まし、
教会名簿に名前を載せても、
彼らはまだ罪と咎の中で死んだままなのです。
――そうです。
彼らが新しく生まれ変わるまでは。
それが真理です。
35. さあ、ここでよく注意して聞いてください。
――もう一度、最初に戻りましょう。
神なる父、すなわち霊なるお方が、
あの小さな処女を覆われました。
そして、万物の創造主である神ご自身が、
その女性の胎の中にひとつの血の細胞を創造されたのです。
その血の中から生まれたのが、
神の御子、キリスト・イエス――
地上における神の幕屋(タバナクル) です。
アーメン!
だから、私たちは“人の血”によって救われたのではありません。
創造された神の血――
神ご自身の血によって救われたのです。
あの血こそが、カルバリの十字架の上で流された血でした。
だから私は、救いと神の癒しに確信を持っているのです。
なぜなら、それは神ご自身の血が、
御子の血管を通してカルバリで注がれたからです。
アーメン!
だからこそ、私たちは反対や批判の中にあっても、
胸を張って言うことができるのです――
「それは真理だ!」と。
信仰の土台、
その根本的な事実に立ち返るならば、
あなたは自分がどこに立っているかを確かに知るでしょう。
私たちは――
神の血によって救われたのです。
36. さて、この小さな処女マリヤは、とても興奮していました。
ここで注目してください――私がマリヤについて特に好きなところです。
アーメン。
ザカリヤのように疑うことなく、
彼女はこう言いました。
「見よ、私は主のはしためです。
あなたのみことばどおりに、私になりますように。」
彼女はザカリヤのように、理屈で考えようとしませんでした。
「妻はもう年をとっている」とか、「そんなことは不可能だ」とか、
そういう言葉を並べなかったのです。
ザカリヤには多くの“例”がありました。
神殿で祈ったハンナのことも知っていました。
サラのことも知っていました。
神の祝福によって、老いた女性が子を授かった例はいくつもあったのです。
けれどもマリヤには、前例がまったくなかった。
誰も経験したことのない、
“聖霊による受胎”を信じなければならなかったのです。
それでも――
私がマリヤを心から尊敬するのはここです。
彼女はまだ胎の中に命の動きを感じる前から、
体に何の変化も現れる前から、
外面的な証拠が一つもないうちから――
「私は子を宿した」と証しをし始めたのです!
ハレルヤ!
ああ、神がどうか、
マリヤのように神のことばをそのまま信じる女性たち――
いや、信仰者たちを、もっとこの世に起こしてくださいますように!
神は御使いを通して語られました。
それだけで十分だったのです。
ほかの何がどう見えようと関係ありません。
マリヤは“神のことば”を信じたのです。
だから彼女は確信していました――
自分は必ずその子を産む、と。
アーメン!
37. もしも、今日この会衆の中に――
マリヤのように「神のことばをそのまま信じる人々」がいたなら、
この中にひとりの病人も残らないでしょう。
神のことばを受け取り、その瞬間に喜び始めるのです。
マリヤは周りの人々に言って回りました。
「私、赤ちゃんを授かったの!」
人々は言いました。
「どうしてそんなことが分かるの?」
彼女は答えました。
「神がそうおっしゃったからです!」
――処女の身で。
ハレルヤ! アーメン!
ああ、私はこの信仰が本当に好きです。
そう、彼女は神のことばをそのまま受け取り、
喜び踊り始めたのです。
もうじっとしてはいられません。
誰かに伝えずにはいられなかったのです。
なぜなら、本当に神に触れた人は、必ず誰かにそれを伝えたくなるからです。
アーメン、それが真理です。
そしてマリヤは出かけました。
御使いが、彼女のいとこエリサベツのことを告げていたからです。
マリヤはどうしても彼女に会いに行かねばなりませんでした。
ナザレの町を抜け、ユダヤの丘陵地帯へ――
彼女はエリサベツを訪ねに旅立ちました。
自分に起こった出来事を話すために。
彼女は知っていました。
エリサベツはすでに六か月の身ごもりで、
もうすぐ母になる時を迎えていたのです。
マリヤとエリサベツ――
二人の女性は、神の奇跡を分かち合い、
共に喜びの時を持つために出会うのです。
38. そして今、見てください――
マリヤがエリサベツに会いに行く姿が見えます。
エリサベツは、遠くからマリヤがやって来るのを見つけました。
彼女は走り寄り、両腕でマリヤを抱きしめ、頬に口づけをしました。
「まあ、マリヤ、会えて本当にうれしいわ!」
「エリサベツ、私もよ!」
二人はそうして抱き合いながら、心からの愛をもって互いを迎えました。
――それが、当時の人々の挨拶のしかただったのです。
彼らは本当の愛を持っていました。
でも今はどうでしょう?
そのような愛は、もうほとんど消えてしまいました。
兄弟愛、隣人愛――
それらは薄れ、遠くなってしまったのです。
兄弟よ、悲しいことではありませんか?
人々はもう、お互いを思いやらなくなってしまった。
昔は違いました。
私たちが田舎で農場を持っていた頃――
もし近所の誰かが病気になると、
皆でその家に行って、とうもろこしを刈ったり、
薪を割ったりして、できる限りの助けをしました。
でも今はどうでしょう。
そんなこと、もう誰もやりません。
今や、隣人が亡くなったことを知る唯一の方法は、新聞で読むことです。
それ以外では、何も知らないのです。
ああ、なんという時代でしょう――
兄弟愛は、もはや絶えてしまった。
それは真実ではありませんか?
39. ある日のことです。
私は車に乗って、誰かと一緒に走っていました。
すると、通りを歩いている女性がいて――
その人は、私の妻の知り合いでした。
彼女が「こんにちは」と声をかけたんです。
私は聞きました。
「今、彼女に声をかけたの?」
妻は答えました。
「ええ。」
私は言いました。
「でも、僕には何も聞こえなかったよ。」
すると妻は言いました。
「だって、振り返って“にっこり笑った”もの。」
私は言いました。
「それじゃだめだ。“ちょっとしたにやり笑い”だけじゃ、気持ちは伝わらない。」
みんな、こんなふうにやるでしょう――
『はっ(笑ってるような顔)』って。
――私は、あれが好きじゃないんです。
さて、以前、マイアミで集会を終えたときのことです。
ボズワース兄弟と一緒でした。
そのとき、そこに“ある公爵夫人”がいたんです。
彼女はテントの仕切りの後ろにいました。
ボズワース兄弟が言いました。
「この場所を貸してくださった公爵夫人が、あなたと握手したいと言ってますよ、ブラナム兄弟。」
私は答えました。
「そうですか。でも、彼女も他の人たちと変わりませんよ。」
――見てください、私はこう言ったんです。
「彼女だって、ただの一人の“女性”です。」
するとボズワース兄弟は言いました。
「彼女には、直接お話しすることはできないと伝えたんですが、
もし私たちが通りかかる時にそこにおられたら、
その時に握手くらいはできるでしょう、と言っておきました。」
私は答えました。
「それなら、あなたに任せますよ。」
40. そして、その日曜日の午後――
説教が終わったあと、私はその方のところへ行きました。
すると、彼女は――
もう本当に、“アスピリンの箱に入るほどしか布地のない服”を着ていたんです。
やがて彼女は、こうして(※手で顔をのぞく仕草)
棒の先についた眼鏡を持ちながら、こちらへやって来ました。
――皆さんもわかるでしょう、
あんなに遠くに眼鏡を突き出していたら、
見えるはずがないんです。
それでも彼女は、首を高く上げて、
その棒の先の眼鏡を通して、
まるで上から見下ろすようにこちらを見て歩いてきました。
両腕にはブレスレットがびっしり。
耳には、まるで 悪魔の鞍の鐙(あぶみ) のように、
長く垂れ下がったイヤリング。
そして、そうやってツカツカと歩み寄ってきて、言いました。
「あなたがドクター・ブラナムですか?」
私は答えました。
「いいえ、奥さま。私は“ブラナム兄弟”です。」
すると彼女はこう言いました。
「まあ、ドクター・ブラナム、あなたにお会いできて光栄ですわ。」
そして彼女は、こうして(※上から差し出すように)
大きな手を高く掲げました。
私はその手を取って言いました。
「ええ、ではもう少し下に下ろしてください。
次にお会いするとき、ちゃんと顔が見えるようにね。」
41. ああ、あの“飾り立て”というやつ――
あれには何の価値もない!
まったくナンセンスです!
一体、あなたは誰なんですか?
五十ドルもするコートを着て、
鼻を高く上げて歩き回り――
もし雨が降ったら、その鼻の高さで溺れてしまうでしょう!
そんなふうにして、自分が“何か偉い者”だと思い込んでいる。
でも本当はどうですか?
あなたも――ただの六フィート分の土くれですよ。
そして、あなたの魂が救われていないなら、
それは失われたままなんです。
他に道はありません。
けれども――それが今の世の中なのです。
「自分は誰かだ」「どこかに属している」と思い込み、
そのくせ、
神に真剣な人々を見て“聖霊狂いホーリーローラー”とあざける。
ああ、なんという世でしょうか……。
――さあ、視点を戻しましょう。
私はマリヤが走り寄るのを見るようです。
彼女はエリサベツを見つけると、駆け寄って抱きしめました。
二人はお互いに腕を回し合い、抱き合いました。
そしてマリヤは言いました。
「ああ、エリサベツ、本当にうれしいわ!
あなたに会えて光栄です!」
マリヤは知っていました。
エリサベツがすでに母になる身であることを。
そして言いました。
「あなたがもうすぐお母さんになると聞きました。」
――さあ、ここで少し情景を思い描いてみましょう。
(ドラマのように、心の中でその場面を想像してください。)
42. 私は、エリサベツの声が聞こえるようです。「ええ、マリヤ、
それは確かにそうなの。でもね、私は少し心配なの。」
「どうしてですか?」とマリヤが尋ねます。「だって、もう六か月も
身ごもっているのに――まだ赤ちゃんの命の動きを感じないのです。」
それは、明らかに異常な状態でした。
普通なら二か月、三か月で胎動を感じるはずなのに……。「だから、
私は不安でならないの。」
するとマリヤは言いました。「ああ、心配なさらないでください、
エリサベツ。私には分かります。あなたは確かにお母さんになります。
なぜなら、御使いがそう告げられたからです。そして、
その御使いは私のもとにも現れて言いました――『あなたは男の子を
産むでしょう。
男の人を知ることなく、その子を“イエス”と名づけなさい』と。」
――その瞬間です。
“イエス”という御名が、初めて人間の唇から発せられた瞬間――
エリサベツの胎の中で眠っていたあの小さな命、
六か月ものあいだ動かなかった赤ん坊が、
聖霊のバプテスマを受けて
喜びのあまり跳ね上がったのです!
ハレルヤ!
そうです、それが真理です!
兄弟よ――!
もし“イエスの名”が、母の胎の中の死んだ赤ん坊さえ
喜びで踊らせることができるのなら――
生まれ変わった教会を、どれほど燃え立たせることができるでしょう!
アーメン!
人の唇を通して、“イエスの名”が初めて宣べられたとき――
悪霊は叫び、罪人は涙を流して悔い改めたのです。
その御名を――
軽んじたり、半分だけ敬うような態度では、
その力を受けることはできません。
その名を信じ、心から敬うとき、
神はその力を確かに現してくださるのです!
43. 「あなたのあいさつの声を私が耳にしたその瞬間、
聖霊が私を満たしました!」
「ああ、なんと祝福されたことでしょう!
私の主の母が、私のもとに来てくださるとは!」
「あなたのあいさつが私の耳に届いたとたん、
私の胎の子が喜びのあまり跳ね上がったのです!」
ハレルヤ!
――“大声で賛美する宗教”を、
「新しいムーブメントだ」なんて言う人がいますが、
いいえ、それはこの地上で最も古い信仰なのです!
叫ぶ信仰、喜びの信仰――
それは天地創造の前から存在していた!
神がヨブに問われたあの日のことを思い出してください。
「わたしが地の基をすえたとき、
明けの明星たちは共に歌い、
神の子らは声を上げて喜んだではないか!」(ヨブ記38章7節)
そうです、
“喜びの叫び”は神の創造のはじめからあったのです。
だから――今、私たちがこの聖霊の喜びに満たされて叫ぶのは、
新しいことではありません。
私たちはただ、古き良き信仰の炎が再び燃え上がっただけなのです!
アーメン!
なんという時でしょう!
なんという喜びでしょう!
魂が神の臨在に触れた瞬間――
天も地も、共に喜びの声を上げるのです!
44. さて――このヨハネという赤ん坊は、いったいどんな人物に
なるべきだったのでしょうか?
ああ、私には見えるようです。
彼が荒野から現れる姿が――!
後ろにひっくり返った襟の牧師服を着て、
一日に三度もフライドチキンを食べるような人ではありませんでした。
(会衆笑)
いいえ、そうではありません!彼は、古びた羊の毛皮をまとい、
ラクダの革の帯を腰に締めて、悔い改めを説いたのです!
そしてその説教は、あたり一帯の地域を揺るがしました。
彼はキリストを宣べ伝えたのです。
――そうです、兄弟姉妹。キリストがシンプルに、
しかし力をもって語られるなら、
そのたびに国々は揺り動かされるのです!
生ける神であるキリストが人々にとって現実の存在として語られるとき――
必ず、魂が目覚めるのです。
そう、いつの時代もそうでした。
神の力は、すべての時代を通して、
常に神の民とともにあったのです。
昨夜も語ったように、
私はイスラエルの子らのことを思い起こしました。
彼らが旅の途中で、
行き詰まり、途方に暮れたときのことです。
彼らがカデシュ・バルネアに来たとき――
迷い、進む道を失ったとき、
神は道を開かれました!
また、彼らが紅海の前に立ち尽くしたとき――
神はその海を真っ二つに開かれたのです!
アーメン!
45. 見てください――イスラエルの民を。彼らは、エジプトの地を出るとき、
持っていたものといえば、頭の上に乗せた小さなパン焼きの
ひとつだけでした。しかし、それで十分だったのです。
兄弟姉妹――神のもとに来るのに、立派になるまで待つ必要はありません。
「もう少し自分がよくなったら」
「これをやめたら」「あれを直したら」――
そんなことを言う必要はないのです。今すぐに来なさい。
ありのままの姿で。
それが神の求めておられる道なのです。
さて、彼らが海を渡り終えたとき、
持っていたパンは尽きてしまいました。
しかし――神はいつも道を備えられる方です。
その夜、彼らが眠りについたとき、
預言者は幕屋の外へ出て祈りました。そして翌朝――
人々が目を覚まし、あたり一面を見渡すと……
なんと!地面いっぱいにマナが降り積もっていたのです。
まるで霜のように、白く、輝くように――。
彼らはそれを拾い、口に運びました。
――それは、蜂蜜とウエハースのような味でした。
ああ、なんという恵みでしょう!
神の御手から直接与えられた“天のパン”。
そう、荒野の旅全体が、今日の私たちの霊的旅路の象徴なのです。
神は彼らのすべての必要を満たされました。
マナ――それは神の恵みの象徴です。
彼らはこう言いました。「岩の中の蜜のように甘い!」
皆さん、あなたはその味を知っていますか?
天から降るマナ――神ご自身からの命の糧。
ああ、私はこの地上でどんな蜂蜜よりも甘い、
天のマナの味を知っています。アーメン。
46. さて――人々は最初、こう思ったのです。「このマナはすごい!
じゃあ、たくさん集めておけば、しばらく食べられるじゃないか!」
……そうやって、できるだけ多くのマナを拾い集めようとしたのです。
でも、それは神の思いではありませんでした。
ああ、まるで今日の教会のようですね。一年に一度――
イースター(復活祭)の日だけ教会に行って、
「これで一年分の恵みをもらった」と思っている。
ある大きな福音派教会の牧師が、私にこう言ったことがあります。
「ブラナム先生、私はイースターの日にこう挨拶します。
『皆さん、メリークリスマス!そして良いお年を!』と。」
なぜだと思いますか?「次に会うのは、また来年のイースターだからです」
……そう言って、彼は苦笑いしました。
けれど、イスラエルの民も同じでした。
彼らは「たくさん取っておけば大丈夫だ」と思ったのです。
でも翌朝になると、
そのマナは腐っていました。
中には虫が湧き、
ウネウネと動き回って――
もう食べられなくなっていたのです。
ああ、兄弟姉妹――神のマナ(御言葉)は、昨日の分では生きられません。
神は、今日のあなたのための新しい糧を、今日のために備えておられるのです。
47. それは――
まさに今日の私たちの多くの霊的状態と同じです。
たとえペンテコステの人々の中でさえ……
“マナ”の中に 虫(ウネウネ) が湧いていることがあります。
もう、それを捨てる時が来ています。
大切なのは――
40年前に何をしたかではありません。
今日、神とどんな交わりを持っているかです。
「私は20年前、素晴らしい体験をしました」と言う人がいます。
――でも、今はどうですか?
「昔、神を信じたことがある」と言う人もいます。
――でも、今日のあなたの信仰は?
それが問われているのです。
さて、ここが私の大好きな部分です。
神は、「それは蜂蜜のような味がした」と言われました。
それを聞くと、私はダビデを思い出します。
ダビデは羊飼いでした。
昔の羊飼いは、腰のわきに小さな袋を下げていて、
その中に蜂蜜を入れていたのです。
自分でも少しなめることもありましたが、
本当の目的は――病気の羊のためでした。
羊が弱り、病にかかると、
羊飼いは石灰岩の岩のところへ行き、
その岩の上に蜂蜜を塗りつけるのです。
そして、その病んだ羊をそこへ連れて行きます。
羊は甘い蜂蜜をなめようとして、
そのうち岩そのものをなめ始めます。
――すると、その石灰が羊の体を癒すのです。
48. これを聞くと――私はどうしても言いたくなるんです。兄弟姉妹、
私は今日の午後、スクリプトバッグいっぱいの“蜂蜜”を持ってきました!
そして今から――その蜂蜜を、岩なるキリスト・イエスの上に塗るつもりです。
さあ、あなたがた――病んだ羊たちよ、そこへ来て、なめ始めなさい!
そうすれば、私ははっきりと言えます――
あなたはキリストに出会うでしょう。アーメン!
私はその蜂蜜を「教会」という岩に塗るつもりはありません。
そうではなく――それが本来あるべき場所、
キリスト・イエスの上に塗るのです!
なぜなら、そこにこそ、
あなたの癒しの力と救いがあるからです。
さあ、病んだ羊たちよ、その岩の上の蜂蜜をなめ始めなさい
――できるだけ早く!そうすればすぐにわかるでしょう、
あなたは癒されていることを!岩――キリスト・イエスの上で!
彼らはなめる、なめる、またなめる……。
するとどうでしょう――岩には、癒しの力がある!
49. 昔――「狂犬石(mad stone)」というものがありました。
誰かが狂犬に噛まれたとき、
人々はその人をこの“石”に押し当てました。
もしその石に くっついた(stick) なら、彼は癒されました。
しかし、くっつかなければ、死んでしまうのです。
けれども――私は知っています。もうひとつの“石”、
世々の岩(The Rock of Ages)を。この岩には、
罪に病んだ魂も、肉体に病む者も、誰でも来て――
しっかりとつかまることができるのです。
そして、その岩につかまった者には、
神ご自身が義務を負ってくださる!
なぜなら――カルバリー(十字架)の癒しの力が、
今もその岩――キリスト・イエス――を通して流れ出ているからです。
その力は、どんな病人も癒し、どんな罪人も清め、
打ちひしがれた心に喜びを与えるのです。
アーメン。それが、キリスト・イエスです。
兄弟よ――
今この国に本当に必要なのは、
「宗教的な集会」ではありません。
この国には、すでにそういった集会が溢れかえっています。
少し前のことです。ある有名な伝道者がこの国を巡回しました。
いわゆる“名ばかりの教会”の間では、
よく知られた人物です。
彼はボストンへ行き、
それから別の都市でも集会を開きました。
そして、こう言ったのです――「6週間のあいだに
2万人の改宗者が生まれた!」
50. それから――あるグループの信徒と牧師たちが、
その伝道集会で配られた決心カードを追跡してみたそうです。
2か月ほど後に――彼らは調べました。ところが……
2万人のうち、20人すら残っていなかったのです。
なぜでしょう?――彼らは、そこまで行かなかったのです。
つまり、 “くっつかなかった” のです。
(※先ほどの「岩に貼りつく信仰」の比喩がここに繋がっています)
それが、今の時代の問題です。
私たちに今本当に必要なのは――
聖パウロ時代のような、
古き良き“本物のリバイバル”です!
聖書に立ち返り、
聖霊(ホーリーゴースト)を
再び教会に迎えることです!
――それが必要なのです、兄弟姉妹。
それを思うと、ふと、私と弟が子どもの頃のことを思い出します。
ある日、私たちは小川のほとりにいました。
当時はまだ小さな少年でした。そこで私たちは、
古い亀(terrapin) を見つけたのです。
インディアナにもいますよね。ちょっと変わったやつです。
足をぐるぐる動かして、のそのそ歩く。それを見て、私たちは笑いました。
「なんて面白いんだ!」と思ったのです。それで、近づいてみました。
するとその亀は――「フッ!」と言って、
サッと甲羅の中に引っ込んでしまいました。
51. その時のあの“亀”を見ていると――
私はどうしても、
神の癒し(Divine Healing)を信じない人々のことを思い出します。
リバイバルの集会が町にやってくると、
そういう人たちはこう言うのです。
「ふんっ、あんなところ行くもんか。
あれは“ホーリー・ローラー(聖霊に満たされた狂信者)”の集まりだよ!」
――まさに、あの亀のようです。
それで私は言いました。
「よし、こいつを動かしてやる!」
木の枝を一本折り、
その亀を ピシッ、ピシッ! と叩き始めました。
しかし……
まったく効果なし。
どれだけ叩いても、
“信仰”を力づくでは叩き込めないのです。
彼らは動こうとしません。
それで私はこう言いました。
「よし、別の手を使おう。」
その亀をつかまえて、
小川へ行き、
水の中に ドボン! と突っ込みました。
……泡がプクプクッと少し出ただけ。
それでおしまい。
兄弟、聞いてください。
あなたがどんな baptize(バプテスマ/洗礼)をしても、
前向きだろうが、後ろ向きだろうが、
一度でも三度でも四度でも――
それだけでは何も変わらない。
人は――
乾いた罪人のまま水に入り、
濡れた罪人として水から上がるだけ。
まだ、罪人のままなのです。
52. それで、どうしたと思いますか?私は――
小さなたき火を作って、その亀をその上に乗せたんです。――動きましたよ!
(会衆の笑い)兄弟姉妹、聞いてください。
今、教会に本当に必要なのは――
教会籍の登録でもなく、
洗礼の形式をめぐる議論でもありません。必要なのは――
聖霊と火です!それこそが、どんな“古い亀”のような教会でも、動かす力なのです!教会にもう一度、聖霊を取り戻すのです。
使徒たちが本来の位置に立ち、
教師たちが正しく整えられ、
そして――聖霊がその教会の王座につかれるとき、
そこで何が起こるでしょうか
――しるしと不思議と奇跡が、その教会に伴うのです。
間違いなく、そうなります。
ああ、あなたは私を「狂っている」と思うかもしれませんね。
「この人は“ホーリー・ローラー”だ」と言うでしょう。
でもいいんです。今からそう呼んでかまいません。
もしかしたら本当にそうかもしれません。
けれど――もしあなたが今、
私がここで感じているこの同じ聖霊の炎を感じたなら、きっとあなたも、
同じように叫ばずにはいられないでしょう。
さて、もう一度マナの話に戻りましょう。
神はご自分の民を祝福すると約束されました。
あのマナ――それは“型”でした。
古きものはすべて、 新しいものの型(type) なのです。
そして私はこう見るのです――
聖霊が天からマナを降らせたのです。
そのマナは、
彼らが荒野を旅するあいだ、
一日たりとも絶えることはなかった。
53. さあ――よく見てください。
マナは、毎日降り続けていました。
そしてモーセはアロンに言いました。
「行って、いくつかのオメル分のマナを取りなさい。
それを“至聖所”――契約の箱のそばに納めなさい。
そうすれば、あとに続く祭司たちは皆、
初めに天から降った“元のマナ”を口にできるようになる。」
そうして、そのマナは決して腐りませんでした。
なぜなら――それは“至聖所”の中にあったからです。
そして、
新しく祭司として任命された者が来るたびに、
彼らはその壺から一握りのマナを取り出し、
その新しい祭司にひと口分を与えました。
それが――
「初めに降ったマナ」の味。
原初の恵みを味わうことができたのです。
ああ、なんという象徴でしょう!
それはまさに、 聖霊 の象徴なのです。
神がペンテコステの日、ご自分の民に祝福を注がれたとき――
そこには、120人の男女がいました。彼らは一つの部屋に閉じこもり
心を合わせて祈っていました。すると――突然!
天から激しい風のような響きが聞こえ、
彼らの座っていた家全体を満たしました。
そして――
分かれた舌のような炎が一人ひとりの上にとどまり、
彼らはみな、聖霊に満たされたのです。
その瞬間――
彼らは外へ飛び出しました。
そして通りに立ち、
神の偉大な御業を証しし、賛美し始めたのです。
54. さあ――よく見てください。
あのペンテコステの日に降った聖霊――
それこそが、私たちのマナなのです!
それは、
イエス・キリストが再び来られるその日まで、
聖霊に満たされた教会を支え続ける糧です!
ハレルヤ!
さて――
では、このマナはどれくらい続くのでしょうか?
(聖書を知らない教師たちに言っておきます。)
ペテロが言いました。
あの日――
人々が聖霊に満たされ、
よろめきながら叫び出したとき――
外にいた宗教家たち、
いわゆる“教会界の人々”がこう言いました。
「あの者たちは酔っている!」
想像してみてください。
カトリックの友人たち、そして他の皆さんも聞いてください。
祝福された乙女マリア――
あのマリア自身が、その中にいたのです!
そうです!もし神が――ご自分の御子の母でさえも、
聖霊に満たされ、酔った女のように見えるほどにならなければ、
天の御国に入ることを許されなかったとしたら――
あなたは、それ以下の状態でどうやって入ろうというのですか?
考えてみてください。
聖書ははっきり言っています。「マリアはその場にいた」と。
そうです――キリストの母マリア自身が、
ペンテコステの日、エルサレムの都にとどまり、
聖霊に満たされるまで祈り続けたのです。
そしてついに――彼女は聖霊の力に圧倒され、
酔ったように身体がよろめいた!アーメン!
それが 真理(Truth)です。それが聖書(The Bible) なのです。
55. さて――彼らが外に出たときのことです。
あの臆病だったペテロ――そう、あの小さな漁師ペテロが、
聖霊に満たされたあとで立ち上がりました。
石けん箱か、切り株の上か――
どこにでも立てるところに立って、声を上げたのです。
人々は笑っていました。「見ろよ、あの“ホーリー・ローラー”の連中を!」
「酔っ払いみたいにふらふらしているじゃないか!」
そう言ってあざけったのです。
(ブラナム兄弟、声を上げて)
あなたは、そんな集会に一度でも行ったことがありますか?
――素晴らしいですよ!
さあ、旧約に戻って見てみましょう。
モーセ――彼もまた、その 型 でした。
イスラエルの民が紅海を渡り終えたとき、
モーセは振り返り、こう見たのです。
――すべてのエジプトの追手たちが、海の中に沈み、溺れていく。
ああ、まさにそれは、
私たちがキリストの血を通して救われた姿ではありませんか。
その血によって、罪から清められ、
世のあらゆる汚れ――
酒、煙草、カード遊び、映画、低俗な快楽――
すべてがキリストの血の中で死んでいく。
モーセは両手を高く上げて――
御霊の中で歌い始めたのです。
そして、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取り、
岸辺を下りながら、跳び上がり、リズムを刻み、踊りながら賛美しました。
イスラエルの娘たちも彼女に続き――
歌い、踊り、喜びにあふれたのです。
兄弟姉妹、もしこれが “古き良きホーリーゴーストの
キャンプ・ミーティング“ でないというなら――私は一度も見たことがありません!アーメン!御霊の中で歌い、御霊の中で踊る。――アーメン!
56. さあ、兄弟よ――見てください。
彼らが皆、聖霊に満たされて喜びにあふれ、
そこにいた人々がそれをからかい、笑い、あざけっていたそのとき――
ペテロが立ち上がりました。
石けん箱か、切り株の上か――何かの上に立ち、
彼は力強く声を上げました。
「ユダヤの人々よ、そしてエルサレムに住むすべての人々よ、
これをあなたがたに知らせよう。
私の言葉に耳を傾けよ。
これらの人々は、あなたがたが思っているように酔ってはいない。
これは、朝の九時(第三時)である。」
(ブラナム兄弟の声)
酒場だってまだ開いていない時間です!
「しかし、これはそのことだ!
預言者ヨエルが語った、あのことなのだ!」
「神が言われる――
終わりの日に、わたしはわたしの霊をすべての肉に注ぐ。
あなたがたの息子と娘は預言し、
若者は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしはわたしの僕と女僕にもわたしの霊を注ぐ。
そして天にはしるしを、地には不思議を、
火の柱と煙の雲を見せる。
主の大いなる恐るべき日が来る前に、
主の御名を呼び求める者は皆、救われるであろう。」
そのとき――
彼らの心は刺されました。
彼らは叫びました。
「兄弟たちよ、私たちはどうすればよいのですか?」
ペテロは答えました。
「悔い改めなさい。
あなたがた一人一人が、罪の赦しのために
イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。
そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。」
ブラナム兄弟の声が高まる。
何だって?――マナですよ!
私たちは今、そのマナで壺を満たしているんです。
それはあなたの子どもたちのため、
あなたの子どもたちの子どもたちのため、
そして遠くにいる者たち――
すなわち、今この時代にまで、
主が召されるすべての人々のためなのです!
私たちは同じマナを持っています!
見せかけの聖霊などではありません――
ペンテコステの日に天から降った、あの“本物のマナ”!
それはすべての世代のために神が備えられたものです。
ハレルヤ! アーメン!
それは今も同じ結果をもたらします――
御霊に満たされ、喜びに酔いしれ、
しるしと不思議があらわれる。
アーメン!
(微笑みながら)
ふぅ……私は、もう完全に“敬虔な気分です。
57. 神がどのように祝福し、ご自身が臨在されると約束されたかに注目してください。
それは誰のためでしょうか?――あなたのためです!
「それは、あなたがたと、あなたがたの子供たち、
あなたがたの子供たちの子供たち、
そして遠くにいる者たち、
すなわち、私たちの神、主が召されるすべての人のためである。」
たとえそれがインディアナ州コナーズビルであっても、どこであろうと関係ありません。
神が今も人を呼んでおられるなら、神は今もすべての祭司たちにお与えになっています。
私たちは祭司でしょうか?
そうです――王なる祭司、聖なる国民(holy nation)。
神の御前に出て、霊的なささげものをささげる者たちです。
それは何でしょう?
――私たちの唇から生まれる賛美の実。
(彼は笑いながら)
「いやあ、今日は少しばかり“よだれまみれ”になってしまいましたね!」
どうしたんでしょう?
私はカナンの地にもう入ってしまったんです!
そして、そこで新しいぶどうを食べて――
もう、聖霊の喜びで酔いしれています!
アーメン!
これは本物です。
本当に“甘いぶどうのしずく”のような御霊の味です。
ああ、思います――
ヨハネという赤ん坊は、なんと特別な存在だったことでしょう。
彼は生まれる前に母の胎の中で跳ね上がり、聖霊を受けたのです。
彼は偽善者になるつもりなどありませんでした。
語ることを“自分の中に持っていた”人でした。
だからこそ、彼はやがて現れ――
聖霊のバプテスマを説いたのです。
58. そして彼は、そこに立って説教しました。(少し笑って)
――時間が過ぎるのが早いですね。急ぎましょう。
さて、ここでイエスが登場します。私たちはみな、彼の誕生と働き
をよく知っています。イエスが人々の間であまりに有名になったので、
ラザロの家にとどまることができなくなりました。
しかし――イエスが家を去ったとき、悲しみと病がその家に入ったのです。
そして覚えてください――イエスがあなたの家を離れるとき、悲しみと病が入るのです。ただしこの場合、
イエスは追い出されたわけではありません。
神の示し(ビジョン)に従って、御父が彼を他の地へと導かれたのです。
その間に、ラザロは病気になりました。
想像してみてください、エルサレムの批評家たちがこう言うのを。「ほら、あの“ホーリーローラー(熱狂者)”がまたやって来るぞ!」
「癒しの預言者とやら、今度はどうする?」
「もう手遅れだ。友人は死んでしまった。」
しかし、そこにいたマルタ――私は彼女が好きです。
彼女はいつも何かと忙しく、働き者でした。
けれど、いつもイエスの足もとで静かに聞いていたのはマリアでした。
そのマリアの姿勢が、今になって実を結んでいます。
マルタはイエスが来られたと聞くと、すぐに立ち上がり、
人々の声を気にも留めず、通りを駆け下りました。
批評家たちが言いました。
「今度は何をしに行くんだ? また“あの方”のところへか?」
それでも彼女は、ためらわずにイエスのもとへ向かいました。
59. ああ、兄弟よ!
牧師を呼んだのに来てくれなかった――
そんなとき、あなたならどうしますか?
「神様祝福してください、もうあの牧師とは関わらない!
あれこれの別の教会に行ってしまおう。」
―だからあなたはどこにもいけないのです。そうなのです。さて、。
私のこれを言えとは彼らは決して言いませんでしたが、それが祝福を失う原因なんです。
もしあなたが自分の牧師を信じられないなら、
はっきり言いましょう――彼を離れなさい。
しかし、もし信じるなら、
あなたの牧師は今日、あなたを助けることができます。
牧師を神の人として信じることです。
彼はあなたの指を鳴らすたびに動く召使いではありません。
神の導きに従う人なのです。神がそうせよと言われています。
そのことを忘れないでください。
60. それから、彼らはもう一度使いを送りました。
しかし、イエスはさらに遠くへ行かれた――なんという状況でしょう!
ラザロは酷く病気になり、ついに死にました。
遺体は香料で包まれ、墓に葬られました。
イエスはその時、彼の死を悟られていました。
そして弟子たちに告げました。
やがてイエスはエルサレムへと戻られます。
批評家たちは再び言いました。
「あの“ホーリーローラー”、がまた戻ってきたぞ。」
でも――あのマルタ、私は彼女が好きなんです。
いつも何かと忙しく、あれこれ世話を焼く人でしたが、
思い出してください――
彼女が家事に追われていたそのとき、
マリアはイエスの足もとに座り、静かに御言葉を聞いていた。
あの時の姿勢が、いま報われようとしているのです。
マルタはイエスが来られたと聞くと、
すぐに立ち上がり、通りを駆け抜けました。
人々が彼女に声をかけました。
「今度はどこへ行くんだい? またあの方のところへかい?
もう手遅れじゃないのか?」
しかし彼女は振り返らず、
何も言わずに――ただ主のもとへ走って行ったのです。
61. マルタは人々の声を振り切り、まっすぐ進みました。
彼女はイエスのいるところに来て――その足もとにひれ伏しました
当然、彼女にはこう言う権利がありました。
主よなぜ来てくださらなかったのです?
私たちはあなたを信じ、家を開き、
食事もお金も服も差し上げたのに、
兄が病んだ時、あなたは背を向けて去られたのです。」
それは確かに事実でした。
けれど、兄弟よ、ここで覚えてください。
神の賜物に対するあなたの態度と近づき方が、
あなたが何を受け取るかを決定するのです。
マルタは非難しませんでした。
彼女はただひれ伏し、静かに言いました。
「主よ(Lord)、
もしあなたがここにおられたなら、
私の兄弟は死ななかったでしょう。」
62. ああ、私はこのマルタの信仰が好きです。
彼女は、それが神の御子であることを知っていました。
おそらく彼女は、聖書を読んで思い出したのでしょう。
昔、 シュネムの女(シュナミテ) がいました。
彼女には子どもがいませんでしたが、
預言者エリシャが彼女を祝福し、男の子が生まれました。
しかしその子は成長してから日射病にかかり、
「頭が痛い、頭が痛い」と叫びながら倒れ、
正午には息を引き取りました。
その母親は、預言者のために設けた小さな部屋にその子を運び、
預言者の寝台の上に寝かせました。
そして言いました。「ラバに鞍をつけなさい。途中で止まらず、私が言うまで進みなさい。」夫は言いました。「今日は新月でも安息日でもない、預言者はいないだろう。」すると彼女は答えました。 「すべてはうまくいきます。」
63. 神はすべてのことを預言者に明かされるとは限りません。
その時、エリシャは弟子ゲハジと共に洞窟のそばに立っていました。
彼はこう言いました。
「あのシュネムの女がやって来る。
泣いている……だが、神はその理由を私に示されていない。」
シュネミテの女が走り寄ると、エリシャは尋ねました。
「あなたは無事か?
あなたの夫は無事か?
あなたの子どもは無事か?」
彼女は答えました。
「すべては順調です(It is well)。」
64. 彼女はそれが神の預言者であることを知っていました。
もし自分があの人に会うことができれば、
なぜ息子が死んだのか、その理由を知ることができる――
そう確信していたのです。
だから、彼女は恐れませんでした。
すべては大丈夫。
神がその預言者の中におられると知っていたからです。
彼女は彼の足もとにひれ伏し、
自分の悲しみと秘密を涙ながらに打ち明けました。
エリシャはゲハジに言いました。
「腰を帯で締め、わたしの杖を取れ。
もし誰かが話しかけても、答えるな。
この杖を死んだ子どもの上に置くのだ。」
「おそらく、ここでパウロが“自分の身からハンカチを取って病人に送った”
ことの原型を見出したのだろう。」
エリシャは知っていました――
彼が触れるものはすべて祝福されることを。
しかし問題はそこではありません。
女の信仰は杖にではなく、預言者にあったのです。
彼女は言いました。
「主は生きておられます。
あなたがどこに行かれても、私はあなたを離れません。」
65. そこでエリシャはついに立ち上がり、
「自分で行ったほうがよい」と思いました。
ゲハジは先に行き、杖を子どもの上に置きましたが、
戻ってこう言いました。
「子どもには命がありません……まだ死んでいます。」
エリシャは悲嘆の声が響く家に入り、
死んだ子どもが寝かされている部屋へ行きました。
彼は静かに床を行ったり来たりしました。
「主よ……あなたは何をなさるおつもりですか?」
外では人々が泣き叫び、嘆いていました。
しかしエリシャは落ち着いて歩き続けたのです。
やがて彼は子どもの上に身を伏せました。
聖書はこう言います。
「エリヤも私たちと同じように情のある人であった。」
つまり彼は天使ではなく、
普通の人間でありながら神に召された預言者でした。
彼はその小さな体の上に自分の体を重ねました。
唇を唇に、
鼻を鼻に、
額を額に、
手を手に――しばらくの間、全身を預けて横たわりました。
ブラナム兄弟は笑って言います。「エリシャはたぶん、少しやせた小柄な老人だったでしょうね。だから、子どもの上にぴったりと体を重ねたんです。」
66. やがて彼は立ち上がり、子どもに触れてみると、
体が温かくなっているのを感じました。
彼は再び部屋を行き来しながら祈りました。
ハレルヤ! 神は彼の預言者の中におられたのです!
再び子どもの上に身を重ねると、
その子は――七回くしゃみをして生き返ったのです。
「この子を母親のもとに連れて行きなさい。」
「ああ、七回のくしゃみの意味を話したいところですが、時間が足りませんね。」
さて、マルタはこのシュナムの女の話を読んでいたでしょう。
彼女は知っていました。(しっかりと1分間聞いて下さい。)
「もし神が預言者の中におられたなら、
まさしく神は御子の中におられるはずだ!」
67. マルタの兄ラザロは、すでに4日間も墓の中にありました。
体には虫が這い、鼻は崩れ落ち、腐敗が進んでいました。
それでもマルタは言いました。
「しかし今でも、主よ、
あなたが神にお求めになることは何でも、
神はそれをなさいます。」
ブラナム兄弟は聴衆に語ります。
「あなたの中にも、医者から『もう希望はない』と言われた人がいるでしょう。
でも“今でも主よ”、あなたが神に求めるなら、神はそれをなさいます!」
イエスは彼女を見て言われました。
「あなたの兄弟は再び生きる。」
マルタは言いました。
「はい主よ、終わりの日の復活の時に生き返ると知っています。」
イエスは静かに、しかし力をもってこう言われました。
「わたしは復活であり、命です。
わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者は、決して死なない。
あなたはこれを信じるか?」
68. マルタは涙をぬぐい、しっかりと顔を上げて答えました。
「はい主よ。
あなたはこの世に来られた神の子、メシヤであると信じています。」
すべてが一つの信仰の車輪のように、
かみ合い、動き始めました。
神の御前に立つ一人の女性、
油注がれた信仰を持つマルタ――
彼女ははっきりと告白しました。
「主よ、あなたが神に求めることは何でも、神はなさいます。
今でも、主よ、あなたが求めることは何でも、神は与えてくださいます。」
69. さて、兄弟姉妹、あなたは今日これを信じますか?
これが聖霊の働きだと信じますか?
もしそうなら――同じ態度で神に近づきなさい。
あなたが必要としているものは何であれ、
もしそれを聖霊の御業として受け取るなら、
神はあなたに与えられます。
多くの人はこう言います。
「でも、どう考えたらいいのか分からない。」
だから私は言います。
「すべての鎖を解き、こう叫びなさい――
“それは本物だ!”」
マルタは言いました。
「主よ、あなたが神に求めることは何でも、神はなさいます。」
イエスは言われました。
「あなたの兄弟は再び生きる。」
人々が見守る中、イエスは問われました。
「彼をどこに置いたのか?」
そして、主はその墓へ向かいました。」
70. ある人がブラナム兄弟に言いました。
「ブラナム兄弟、あなたはイエスが神だったと信じているんですか?
彼はただの人間ですよ。」
彼は答えました。
「彼は 神の人(God-Man) だった。」
その人は言いました。
「ヨハネ11章に“イエスは泣かれた”とあります。
涙を流す人間、それが神のはずがないでしょう。」
ブラナム兄弟は微笑んで言いました。
「確かに彼は人間として泣かれた。
しかし、ラザロの墓の前に立たれたとき――
4日間も腐敗していた男に向かい、
“ラザロよ、出て来なさい!”と命じられた――
その方は人以上の方だった!
神が御子を通して語られたのだ!」つきだった。
71. そうです。
彼は人として山で祈り、空腹を覚えられた。
しかし、五つのパンと二匹の魚で五千人を養われたとき――
それは神の御業でした。
彼は人として舟で眠っておられた。
嵐の海で、弟子たちは恐れました。
けれど、彼が目を覚まし、
舟のへりに立って言われた――
「静まれ、黙れ。」
すると、風も波も従いました!
ハレルヤ!
あなたはこれを信じますか?
72. 彼は人としてカルバリーの十字架にかかり、
「我が神、なぜ私を見捨てられたのか!」と叫ばれました。
しかし――
三日目の朝、墓を打ち破って立ち上がられたとき、
それは人以上の方でした!
それは神ご自身の証明でした!
ハレルヤ!
ある女がその衣の裾に触れただけで、
完全に癒されました。
あなたはこれを信じますか?
イエス・キリストは昨日も今日も、永遠に同じお方です!
彼が行われたしるしと不思議は、
今日もここで――昼も夜も――現れています。
私は信じます。
あなたはこれを信じますか?
聖霊は今ここにおられます!
あなたはこれを信じますか?
今、あなたが神に願うものは何であれ――
それを受けることができる!
ハレルヤ!
ブラナム兄弟は笑いながら言いました。
「あなたは私を狂っていると思うでしょう?
それでもいい! 私は幸せです!」
73. 聖霊は今ここにおられます!
私は信じます――
今この瞬間、すべての病が癒されることを。
私は信じます――
すべての罪人が救われることを。
イエス・キリストは今、ここにおられます!
信じるなら――
立ち上がって、主を賛美しなさい!
「全能の神よ、
主イエスよ、
あなたの聖霊の力を送り、
あなたの民を祝福してください。
イエス・キリストの御名によって――アーメン。」