証人

Witnesses

証人

ジェファソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国

説教番号: 53-0405E

日付: 1953年4月5日(53-0405)


1. こんばんは、友人の皆さん。
今夜もこうして主にお仕えできることを、心から嬉しく思います。
この二週間は、私たちにとって本当に栄光に満ちた時でした。
先ほどネヴィル兄弟が私を控室に連れていき、そこでこう語ってくれました。
「この集会で、百名を超える方々が主に立ち返り、さらに約五十名が水のバプテスマを受けました。」
――これは実に価値あることではありませんか?
私たちはそのすべてを心から喜んでおります。
今夜、遠くから来られた皆さま方をお迎えできたことも、心から感謝いたします。
主があなたを、あふれるほど豊かに祝福してくださいますようにとお祈りします。
そして、この集会のために尽力し、主の栄光のために働いてくださったすべての方々に、深く感謝申し上げます。
特に、トム兄弟にも心からのお礼を申し上げます。
2. そして、トム・メリデス兄弟、その奥様のメリデス姉妹、またここにおられる小さなメリデスさんにも、心からの感謝をお伝えしたいと思います。
皆さんの歌声、音楽の奉仕――どれも本当にすばらしいものでした。
メリデスご一家は、いつでもブラナム・タバナクルに戻って来てくださって結構です。
そう思われる方は、ご一緒に「アーメン」と言ってくださいますか?
……ありがとうございます。
メリデス兄弟、私たちの気持ちは、今のでよく伝わったと思います。
私は最近になって彼と出会いましたが、今ではとても親しい友となりました。
そしてネヴィル兄弟、またメリデス兄弟、
このお二人が勇敢に御言葉を宣べ伝え、この集会を支えてくださったこと、
そのすべての奉仕に対して、心から感謝いたします。
3. ネヴィル兄弟、この教会の牧師として、あなたがここにおられることを私たちは本当に幸せに思っています。
どうか知っておいてください。
私たちの最も深い愛は、あなたに向けられています。
私はネヴィル兄弟を信頼しています。
彼の歩みをずっと見てきました。
古い言い回しに、「説教を語ってくれるより、生活そのものが説教であってほしい」というものがありますが、これは多くの真理を含んでいます。
ですから私は、ネヴィル兄弟が私たちと共にいてくださり、
このたび羊の群れに加えられた新しい魂たちの牧会を引き継いでくださることを、心から嬉しく思っています。
主イエスが、私たちの兄弟を豊かに祝福してくださいますように。
そして、執事の方々をはじめ、すべての奉仕者の方々にも、
私たちは心から感謝しております。
4. ここにはキッド兄弟が――ここにおられると信じておりますが――
そして、ほかにも多くの奉仕者の方々、
またフーバー兄弟もおられます。
今夜ここにおられるかどうかは分かりませんが、
彼はこれまで私たちと共に歩み、
そして今朝、水のバプテスマを受けられました。
それからビーラー兄弟。
福音の働きにおいて、昔から共に歩んできた私の「親しい友」であります。
こんな言い方をどうかお許しください。
彼がここで共に働き、この集会に協力してくださっていることを、私たちは心から喜んでいます。
ビーラー兄弟は、この集会の記録を取ってくださっています。
きっとこれを何度も何度も見返しながら、
長い間、その恵みを味わい続けることでしょう。
私たちは、ここにおられるすべての方々――
特別賛美をささげてくださった方々、
あらゆる奉仕をしてくださった方々――
そのすべてを心から喜んでいます。
主イエスがあなたを豊かに祝福してくださいますように。
これが私の祈りです。
5. 今夜は、少し疲れが出ています。
このところ、ほとんど休めておりません。
昨夜は二つの説教を続けておこない、
家に帰って床に入ったのは夜中の一時頃でした。
そして今朝はまた、夜明け前に起き上がり、日の出礼拝へ。
そのあと日曜学校にも出て、
それから水の中に、ほとんど二時間、バプテスマのために立ち続けておりました。
あの水は冷たかったでしょう、皆さん?
本当に、私がこれまで見た――いや、触れた水の中でいちばん冷たいものでした。
あまりの冷たさに体がしびれ、
水から上がるときには、
自分が上っているのか下っているのかも分からないほどでした。
家に戻っても、まだ体が温まりませんでした。
すると妻が、「ご飯ができていますよ」と声をかけてくれました。
私はすぐに大きな湯ぶねに飛び込み、少し体を温め、
それから着替えて、葬儀の奉仕に向かいました。
そして、葬儀の礼拝をささげました。
6. 家に戻ったちょうどその時、病院から緊急の呼び出しが入りました。
それで、またすぐに引き返して病院へ向かわなければなりませんでした。結局、昼食もとれないままでしたが……先ほど、マクスパッディン兄弟たち数人と一緒に、ようやく少しばかり食事をいただくことができました。そして今、夕方の礼拝――このリバイバル集会の締めくくり――のために戻ってきました。
この特権をいただけることを、私たちは本当に嬉しく思っています。
少し声がかれておりますが、どうかご容赦ください。
7. 今朝、私は「信じる者に伴うしるし」について、今夜お話ししよう、と申し上げました。
ところが今朝……いえ、正確には今夕、ここに戻って来た時、
この教会の理事の一人が私にこう言いました。
「ビル兄弟、覚えておられますか。今夜は“コミュニオン”の晩ですよ。」
それを聞いて私は、
「ああ、主よ、またそうでした……!」
と思いました。
そこで控室に戻り、
「主よ、では私は今夜、何を語ればよいのでしょうか」
と心の中で祈りながら考えていました。
実は、私はすでに“信じる者に伴うしるし”に関して、
たくさんの聖書箇所を並べて、語ろうと準備していたのです。
しかし、その予定を少し変えなければなりませんでした。
ですから今夜は、少し方向を調整してお話しします。
そして私たちはこのあと、“コミュニオン(聖餐)”の礼拝を行います。
どうか皆さんも、この大いなる祝宴にともに加わってくださいますように。
復活のすぐあとにコミュニオンを行えるなんて、
なんと美しい時でしょう。
そしてこの季節は、聖霊が豊かに降り注ぐには最もふさわしい時でもあります。
まさに、初代教会のように、同じ季節、同じ空気の中で――
聖霊が私たちの上にも臨んでくださることでしょう。
8. さて今夜ですが……(ああ、あのカードを失くしていなければよいのですが。)
ビリー・グラハム伝道団の映画が、ルイビルで上映されます。“Oil Tower of the USA(オイル・タワー)”という作品で、四月二十日にメモリアル・オーディトリアムで上映されるとのことです。今夜、その関係者の方が私に、
「ブラナム兄弟、どうかあなたの教会でこの案内を告知していただけませんか」
とお願いされました。そしてその方が私にカードを渡してくださいました。
もしご都合がよろしければ、ぜひ一度ご覧になってみてください。
きっと良い作品だと思います。この伝道団は最近 “Mr. Texas(ミスター・テキサス)”という映画も上映し、皆さんの中にもご覧になった方があったでしょう。
あれもとても素晴らしい映画でした。私は実のところ、どちらの作品もまだ見たことはありません。けれども、多くの方々から非常に高い評判を聞いております。四月二十日、ルイビルのメモリアル・オーディトリアムにて上映です。
9. そして今週、あちらのオーディトリアムでも、
リバイバル集会が行われると聞いています。
若い伝道者がそこでメッセージを語っているとのことです。
もし行ける方がおられれば、きっと彼らは喜ばれることでしょう。
……皆さん、私は時々こう思うのです。
何の予定もなく、ただひたすら次から次へとリバイバルに入り続けられたらどんなに良いだろう、と。
私はあの“霊の火”の中に身を置いて、温まるのが大好きなのです。
皆さんもそうでしょう?
……良いですね。
メリデス兄弟、
ご自身のラジオ放送がどこで流れているか、皆さんにお知らせになりましたか?
〔メリデス兄弟:「いいえ、ブラナム兄弟。」〕
では、ここに来て今すぐお知らせいただけますか。
(※トム・メリデス兄弟が、WTCO AM1150での毎日のラジオ放送の時間を案内する)
トム兄弟、ありがとうございました。
ほかに、どなたかリバイバル集会のお知らせや、
特別な告知をなさりたい奉仕者の方がおられますか?
私たちは、兄弟たちの働きを尊重し、紹介できることをいつも喜んでおります。
どうか主が皆さんを祝福してくださいますように。
10. そして今週、あちらのオーディトリアムでも、
リバイバル集会が行われると聞いています。
若い伝道者がそこでメッセージを語っているとのことです。
もし行ける方がおられれば、きっと彼らは喜ばれることでしょう。
……皆さん、私は時々こう思うのです。
何の予定もなく、ただひたすら次から次へとリバイバルに入り続けられたらどんなに良いだろう、と。
私はあの“霊の火”の中に身を置いて、温まるのが大好きなのです。
皆さんもそうでしょう?
……良いですね。
メリデス兄弟、
ご自身のラジオ放送がどこで流れているか、皆さんにお知らせになりましたか?
〔メリデス兄弟:「いいえ、ブラナム兄弟。」〕
では、ここに来て今すぐお知らせいただけますか。
(※トム・メリデス兄弟が、WTCO AM1150での毎日のラジオ放送の時間を案内する)
トム兄弟、ありがとうございました。
ほかに、どなたかリバイバル集会のお知らせや、
特別な告知をなさりたい奉仕者の方がおられますか?
私たちは、兄弟たちの働きを尊重し、紹介できることをいつも喜んでおります。
どうか主が皆さんを祝福してくださいますように。
11. さて今から、新約聖書の一箇所を読みたいと思います。
「使徒行伝」 の第一章です。
私は、この書は本来「聖霊が、使徒たちを通してなされた御業」と呼ぶべきだと思っています。
なぜなら、ここに記されているのは、
聖霊が下られたあとに、使徒たちをどのように導き、どのように行動させられたか
その足跡だからです。
では、第八節を読みます。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤ全土、サマリヤ、
さらに地の果てにまで、わたしの証人となるのです。
今夜、ほんの少しの時間ではありますが、
私はこの 「証人(Witnesses)」 という主題を取り上げたいと思います。
12. それでは皆さん、よろしくあれば、
ここでひととき、祈りのために頭を垂れましょう。
姉妹、もし差し支えなければ、
「主よ、ともにいてください(Abide With Me)」のような、
静かなコードを一つ弾いてくださいますか。
さて、今この場所におられるすべての方には、
それぞれに必要としているものがあるでしょう。
もしよければ、その思いを主にお示しください。
「主よ、私は必要を持っています」
そう告げるしるしとして、そっと手を挙げてくださいますか。
……はい。私も手を挙げています。
主が皆さん一人ひとりを祝福し、
あなたの心の願いを満たしてくださいますように。
それでは、皆さんそれぞれが、
いつも教会で祈っておられるその祈りのかたちで、
いま、主に心を向けて祈りましょう。
13. 天の父なる神様、私たちは今日という一日の終わりに、あなたの御前にまいりました。今朝昇ったあの美しい太陽は、すでに沈み、いま空には暗い雲が広がっています。しかし私たちは、この一日を感謝いたします。そして、主イエスが死からよみがえられた――あの偉大な記念の日を思い返しながら過ごすことができ恵みを、深く感謝いたします。自然界がそのように移り変わるように、
やがて“時”の夕暮れも、まもなく訪れます。長くはありません。やがてすべてが暗くなる時が来ます。多くの人が、その時代を通らねばならないでしょう。
昔ながらのリバイバルを慕い求め、飢え渇きながらも――その集まりが閉じられてしまったかのような時代を。神よ、いま病院にいるあの若い女性を、どうか憐れんでください。事故でひどい傷を負い、肺は破れ、夫も全身を砕かれるような重傷、彼女の心臓は反対側へ押しやられ、医者には全く“望みなし”と言われています。主よ、どうか今、この瞬間に憐れみを注いでください。また、プリチャード氏をおぼえてください。いま息を切らし、死の淵に横たわっています。酸素テントの中で苦しみながらも、その最後の呼吸の中で、彼は手を伸ばし――
イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れました。主よ、どうかその魂を憐れんでください。
14. 今日、葬儀場に行った時のことです。
あの部屋でひざまずいていると、
八十何歳にもなる、あの気の毒なおばあさんがいました。
その方はこれまで一度も、
イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れたことがない、と言われました。
しかしその葬儀場で――
亡くなったお孫さんの棺のそばで――
彼女はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れたのです。
神に栄光がありますように。
主よ、この二週間、
タバナクルに来られ、あなたのもとに立ち返った方々を祝福してください。
どうかこれからも彼らとともにいてくださいますように。
今朝バプテスマを受けた方々も祝福してください。
彼らが主の恵みと知識において成長し続け、
やがてイエス・キリストの満ち満ちた御姿にまで達し、
そしてある日、主と共に雲の中に引き上げられ、
空中で主とまみえ、
永遠に主と共にいる者とならせてください。
今夜ここにいるすべての方々を祝福してください。
そして、もしまだ救い主としてあなたを受け入れていない方がいるなら、
どうかこの時こそが、その決心の時となりますように。
どうか彼らが、素直で、謙遜な心で主のもとに来て、
イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れますように。
主よ、これをかなえてください。
15. そして今――
主よ、あなたの貧しく、値しない、取るに足りないしもべではありますが……
今夜も再び、
皆さんにいのちのパンを裂いてお渡しする役目が、私に与えられているようです。
主よ、どうか今夜、助けてください。
聖霊なるお方――三位一体の第三位格であられる聖霊――がここに来てくださり、
神のみことばを取り、
一人ひとりの心に、その人が必要とする形で置いてくださいますように。
そして、そのみことばが“信仰の水”で潤され、
豊かな実を結びますように。
どうか、そのようにしてくださいますように、主よ。
私たちはあなたを愛し、
あなたを信じ、
あなたにお仕えいたします。
どうか今、私たちの感謝をお受け取りください。
これらすべてを、
あなたの愛する御子、主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
16. さて今夜、私たちは
神のみことばの、この短い小さな学びを始めようとしています。
どうか皆さんお一人おひとりが、
今この時、深い祈りの心でいてくださいますように。
とくに、私のために祈っていただければ幸いです。
なぜなら――
この聖書の言葉を“開く”ことができる人間は、誰ひとりいないからです。
ページをめくることなら、私たちにもできます。
しかし、“みことばを開く”という働きは、
聖霊ご自身がしてくださらなければならないのです。
それは、人間の力ではありません。
ヨハネは天で、この聖書を見たとき、こう記しています。
「天にも、地にも、地の下にも、
その書を手に取って開き、
その封印を解くにふさわしい者は一人もいなかった。」
そして彼は、
「世の基いが置かれる前から“ほふられた小羊”」
――そのイエス・キリストが現れ、
御座におられる方の右手からその書を取り、
封印を解き、
その書を人々に開かれた――
と見たのです。
どうか今夜、
同じ主イエスがここにも来て、
私たちのために、みことばを開いてくださいますように。
17. ここで主イエスは、
ご自身の使徒たちに、
証人となるために必要な“聖霊の資格”
――その備えを与えようとしておられました。
今夜の私の主題は 「証人(A Witness)」 です。
裁判でも同じですが、
証人とは、何かを“知っている”人でなければなりません。
誰でも適当に入ってきて証人になれるものではありません。
必ず、その事実を知っている人、
真実を語ることのできる人である必要があります。
主のための証人になるときも、それは全く同じです。
主について“何かを知っている”者でなければ、
真の証人にはなれません。
ですからイエスはこう言われたのです。
「あなたがたがわたしの証人となる前に、
まずエルサレムにとどまり、
“上からの力”を受けなさい。」
その力――
聖霊の力を受けてから初めて、
彼らは真の証人となれるのです。
そしてその証しは、
エルサレムから始まり、
ユダヤ、サマリヤ、
さらに地の果てにまで及ぶのだと、
主は言われました。
18. 裁判所では、
証人には二種類――“目撃者”と“耳で聞いた者”――しか立つことができません。
たとえば、部屋の中からガラス越しに外を見ていて、
そこで起きた事故を見たとしても、
その証言は“証人”としては通りません。
なぜなら、
本当にその場に“居合わせた”わけではないからです。
裁判で証言できるのは、
すぐそこにいて、
実際にその出来事を“見た”か“聞いた”者だけなのです。
だから、
「誰々さんがこう言っていた」
「某先生がそう語っていた」
――それでは証人にはなれません。
語ったその人は証人でしょうが、
あなた自身は証人ではありません。
同じように、
キリストの復活を“真に証言できる者”になることも、
聖霊によってでなければ不可能なのです。
自分自身が、
個人的な証人でなければなりません。
その場に立ち会い、
それについて“知っている”者――
自分の言うことに確信を持っている者――
それでなければ、
復活の証人にはなれないのです。
19. そして神よ、どうか私たちに、 “人が本音の姿のままである” という、この時代の現実を見せてください。いま申し上げることは、最大限の敬意をもって語ります。私たちを滅ぼしているのは――この町にある違法酒場の数々ではありません。私たちに、かつてないほどの痛みをもたらしているのは、自分はクリスチャンだと言いながら、そのように生きていない人たちです。それこそが問題なのです。なぜなら、正しい証人ではないからです。人は“体験”を持たないかぎり、
証人になることはできません。しかし、ひとたび真の体験――新生の体験――を持つなら、その人は自然と“証人”となるのです。なぜなら、彼らは新しく生まれ変わるからです。「古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなった。」
そのとき初めて、あなたはイエスの証人となるのです。
20. イエスはご存じでした。
これらの使徒たちが本当の証人として出ていくためには、
まず“自分たちが証ししようとしていることを、
自分で体験しなければならない“ ということを。
もし今日、すべての神学校が、
そしてすべてのクリスチャンが同じことをしたら……
どんなに素晴らしいことでしょう!
教会に来て、
「私はイエス様を個人的な救い主として受け入れます。
そして――聖霊のバプテスマを受けるまで、
私はここを離れません。
そのあと、私は証人として出て行きます。」
――そう言う人ばかりだったら、
どれほど違う時代になっていたでしょう。
皆さん、そう思われませんか?
あの、だらだらとした、散らばったような証しはなくなるでしょう。
今日、多くの人が教会で証しをします。
「私はクリスチャンです」と言いながら、
外に出ると全く別の生き方をするのです。
そして未信者がそれを見て、
「ほら、あれを見てみなよ。
あれが彼らのやり方なのか?」
と冷ややかに言うのです。
そして――忘れないでください――
悪魔は必ず、そのような例を指さしてくるのです。
あなたはそれを当てにしてよいほどです。
悪魔は“商売人”です。
そして彼の商売の腕前を侮ってはなりません。
彼はそのやり方をよく知っているのです。
21. さて――すでに申しましたように――
証人になるためには、“何かを知っていなければならない” のです。
本当に“証人そのもの”でなければなりません。
神は旧約の時代にも証人を持っておられました。
その最初の証人のひとりが、ノアでした。
ノアが証人であったのは、
彼が神の声を聞いたからです。
神の警告の声を聞いたのです。
神はノアに、
「大洪水が来る。
だから、箱舟を造らなければならない」と語られました。
箱舟の準備は、すぐに取りかかるべきものでした。
ノアは箱舟を造り、
人々が救われるための“入り口”を用意するよう命じられました。
入りたい者はだれでも入ることができたのです。
こうしてノアは 神の証人 となりました。
彼が知っていた唯一のこと――
それはただ、
神が「雨が降る」と言われたということだけでした。
これまで一度も雨が降ったことのない地に向かって、
神は「雨が降る」と告げられたのです。
しかし、もし神が「雨が降る」と言われたなら、
それは 必ず降る のです。
だからノアは、
神のみことばの証人でした。
彼は呼び出され、
雨が降り始める前に箱舟を造り、
すべての備えを整えたのです。
そして――
神には、ほかにも証人たちがおられました。
22. かつて、ユダ族――“ユダヤ人”という名の由来にもなった民――がいました。
彼らは神の定めたおきてに歩まず、
神の戒めを守ろうとしませんでした。
そのため、神はネブカデネザル王を起こし、
彼らを捕らえてバビロンの地へ連れて行かせました。
多くの人が、あの有名な話を覚えていることでしょう。
彼らは竪琴(ハープ)を泣き柳に掛け、
シオンの歌を歌うことができなくなった――という出来事です。
彼らは勝利を失いました。
しかしそれは、神が彼らから奪おうとされたからではありません。
彼ら自身の罪が、神と彼らを隔てたからです。
同じ理由で、
今夜も多くのクリスチャンは勝利を失っています。
なぜなら――
彼らの罪が祝福から彼らを切り離してしまったからです。
荒れ野のような場所に取り残され、
ひとりぼっちになってしまっているのです。
そして私たちの心は、
まさに“泣き柳”に掛けられた竪琴のようになっています。
教会の歌を喜んで歌うことができない。
賛美が心に響かない――
その理由は、
罪が神との交わりを断ち切ってしまったからなのです。
23. 私がまだ若かったころのことを覚えています。
私たちがここに集まって来ると、
鐘が鳴り響く中、ピアノで “Down At The Cross(十字架のもとにて)” が弾かれていました。
そして教会の中には、
涙を流していない人がほとんどいませんでした。
皆が静かに、柔らかく、涙を流しながら入って来るのです。
私は、あの昔ながらのやり方が好きなのです。
柔らかく、甘く、聖霊の力が心を砕いてくださるあの雰囲気――。
私たちが前に進もうとするなら、
まず“砕かれる”ことが必要です。
あの陶工(ポッター)の話がありますね。
預言者が陶工の家に下って行き、
壊され、そして造り直される――あの箇所です。
砕かれることなしに、
造り直されることはありません。
まず砕かれなければならないのです。
そして、畑も同じです。
もし作物を収穫したいなら――ライト兄弟――
まず地面を砕き、ほぐし、
一度すべてを壊してしまわなければなりません。
そのあとで種を蒔けば、
芽が出てきます。
そして、その芽が何になるかは、
砕かれた地にどんな種を蒔くかにかかっています。
ですから、
地が砕かれ、耕されているその時こそ――
種を蒔く時なのです。
24. こうして、これらの兄弟たちは――本来いるべき“約束の地”から離れ、
バビロンへと連れ去られてしまいました。彼らの罪が、神から彼らを引き離したからです。そして私は、今夜ここでこう申し上げるほど、
“昔ながらの考え”の者ですが――教会も、また個人も、
世と戯れ始め、世のやり方に心を惹かれ始めると、必ず同じ経験をすると信じています。神から離れ、真理から遠ざかり――
真理とは“みことば”のことです――その方向に進んでしまうのです。
私はそれを信じます。それが真実であると知っています。
私はこの二十年間、世界中であらゆる種類の人々、あらゆる形の集会を見てきました。しかし、皆さんにこう申し上げたいのです。
人々から見下されることがあるかもしれませんが、私は、昔ながらの“砕かれた心の者達の集会”が何より好きなのです。
25. ある日、誰かがここに来て、
私が説教している時にこう言いました。
「あの女の人……。
ビリー、あんなふうに泣いたり、鼻をすすったり、
“アーメン”と叫んだりしているのに、
どうやってあなたは説教できるんだい?」
私はこう答えました。
「むしろ、あれが私に説教させていた理由の大部分だったんだよ。
そうさ。」
するとその人は言いました。
「私だったら、あんなふうにされると、
もう説教どころじゃなくなるよ。
話すどころじゃなくて死んでしまいそうだ。」
私は言いました。
「兄弟、私は全く傷つかなかったよ。
むしろ、あれは私を励ましてくれていたんだ。」
彼は聞きました。
「その人はひどい罪人だったのかい?」
私は答えました。
「いいえ。
あの方はクリスチャンで、聖霊に満たされた方でした。」
「なのに、泣いていたのかい?」
「その通りです。」と私は言いました。
そしてこう付け加えました。
「聖書はこう言っています。
『涙をもって出て行く者は、
やがて必ず、尊い束を抱えて戻ってくる』と。」
アーメン。
その通りです。
「涙をまき散らして出て行く者は、
やがて必ず、喜びながら刈り入れの束を携えて帰ってくる。」
まず最初に必要なのは
砕かれること――造り直されること―― です。
そしてその後に、喜びがやって来るのです。
アーメン。
よろしい。
26. こうしてイスラエルの子らは、バビロンへ連れて行かれ、
自分たちの王も共に捕らわれの身となり、
別の王――ネブカデネザルという残忍な王の支配の下に置かれました。
ある日、この王が大きな像を野原に建てて、
こう命令したのです。
「誰でも、この像にひざまずかない者は、
火の燃える炉に投げ込んで焼き殺す。」
なんという恐ろしい布告でしょう。
すべての者が焼かれてしまう、というのです。
しかし、そこには三人の若者がいました。
以前から祈りに応えられた経験を持つ者たち――
シャデラック、メシャク、アベデネゴです。
彼らは像に背を向けました。
そして王に向かってこう言いました。
「王よ、このことをお知りください……」
ここに注意していただきたいのです。
神は、ご自身の証人が “揺るがぬ者” であることを望んでおられます。
今日だけ証人で、明日はぐらついてしまう――
そのような者ではいけません。
27. 私は今日、葬儀の説教をしていました。
頼まれたこともあって、メッセージをかなり強く語ったのです。
「参列者の多くが、まだキリストを受け入れていない罪人だから、
どうか遠慮なく“強く”語ってほしい」と言われていました。
しかし私は、
「少し強く語りすぎたかもしれないな……」
と心の中で思っていました。
葬儀場を出て、葬儀屋さんの車に乗り込んだとき、
その方が私の肩をポンと叩いてこう言いました。
「先生、あなたを称賛したい。」
私は心の中で「おや?」と思いました。
すると彼はこう続けました。
「あれこそ、本来語られるべき説教だと思います。
私は“生ぬるい宗教”なんて大嫌いなんです。」
私は心の中で思いました。
「おお、この人には望みがあるぞ。」
その通りです。
真理は、
語るべき場所に、語るべき形で、
はっきりと置かなければならないのです。
まったく、その通りです。
28. さて、このイスラエルの若者たち――
シャデラック、メシャク、アベデネゴ――
彼らこそ、神の証人でした。
神はこれまで、
一度も証人なしでおられたことはありません。
常に、です。
ここは皆さんに特に強く覚えていただきたいところです。
神は、地上において “証人がひとりもいない” 時を
ただの一度も持たれませんでした。
必ず、神が手を置くことのできる人――
「これがわたしの証人である」
と言える人がいました。
ときには、その証人がただひとりだけになったこともありました。
たとえば、
ヨブ――あの時代、ただひとりの神の証人。
アブラハム――あの地でただひとりの証人。
しかしそれでも、
神には証人がいたのです。
どこかに、誰かが、
必ず神のために証しをする者がいる。
さて、このあと私たちは、
“今日の時代における真の証人とは何か”
を見ていきます。
では続けます。
この三人の若者たちはバビロンに下っても、
王の肉を食べることも、
王の酒を飲むことも拒み、
王が立てた像にひざまずくことも拒みました。
彼らは、
本物の、真実な、神の証人でした。
29. そして時に、
証人になるということには “代償” が伴うことがあります。
神のために証しをするなら、
少し苦しむこともあるのです。
思い出してください。
お母さんが、
「あなたがそんなに聖書を読んで、そのように振る舞うなら、
もう家に居場所はないよ」
と言ったことがありませんでしたか?
近所の人たちが、
学校の子どもたちが、
あなたのことを
「熱狂的すぎる」「変わり者だ」
と言ったことはありませんでしたか?
それは、あなたが真の証人であったからです。
仕事場ではどうでしたか?
本当に神に忠実な証人だからといって、
仲間たちに笑われた経験がありませんでしたか?
通りで証しをした時、
人々にからかわれたり、
笑いものにされたこともあったのではありませんか?
しかし――
それこそが、真実な証人の印です。
神は、そういう証人を求めておられるのです。
ある人はこう言います。
「私は教会で証しをします。」
それも良いことです。
しかし兄弟よ――
光は暗いところでこそ輝かなければならないのです。
垣根のところで、
通りの角で、
酒場の前で、
路地裏で、
仕事場で――
あなたが行くすべての場所で、
証人として光を放ちなさい。
アーメン。
さて、ここで気づいてください。
そのあとに “火の試練” がやって来ました。
そして、
神のために証しする者はみな、火の試練を通らなければならないのです。
神がご自身の民を導かれる方法は、
なんと不思議で、驚くべきものでしょうか。
本当に、不思議な導き方です。
30. イエスがバプテスマを受けられるや否や、
すぐに荒野へと導かれ、悪魔の試みに遭われました。
イスラエルも同じです。
子羊の血の下に出て、割礼を受け、
聖霊の象徴である光の柱に導かれながら進むと、
まっすぐ 紅海 の前へと連れて行かれました。
左右には山、反対側は荒野、
背後からはファラオの軍勢――
そして前は紅海で閉ざされている。
神ご自身が、彼らをそこに連れて行かれたのです。
なぜでしょうか?
ご自身の栄光を現すためです。
モーセが祈ると、
神は彼にこう仰せられました。
「杖を持って、海に向かって進め。」
モーセが一歩踏み出すごとに、
紅海は左右に分かれ、
彼らの前に道が開かれました。
なぜでしょうか?
神の道が、その海のただ中を通っていたからです。
そこを通り抜けるや否や、
彼らは ツィンの荒野 に入ることになりました。
奇妙に思えるでしょうか?
しかし――
神の道は、しばしば“困難のただ中”を通るのです。
彼らはそこで神に不平を言い、
そこから先は――
一つの不平から次の不平へ、
一つの試練から次の試練へと続きました。
まさに、あの古い賛美歌の通りです。
「ある者は水を通り、
ある者は洪水を通り、
ある者は深い試練を通る。
しかしすべての者は、
〈血〉を通って進む。」
これこそが、
神がご自身の証人・証し人を導かれる道なのです。
31. さて、いよいよ “火の試練” の時が来たとき、シャデラック、メシャク、アベデネゴはこう言いました。「私たちの神は、この火の炉から救い出すことがおできになります。しかし、たとえそうなさらなくても、私たちは像にひざまずきません。私たちは証人であり続けます。」私は、この言葉が大好きです。この古き良き勇気が好きなのです。昔、バディ・ロビンソンという人がこう祈りました。「主よ、丸太のような太い背骨を私にお与えください。」――まさに、それが“本物の証人”の姿です。勇気です!神は、ご自分の証人が勇敢であることを喜ばれるのです。
32. 神は、ヨシュアが川を渡る前にこう言われました。
「強くあれ。雄々しくあれ。
あなたがどこへ行っても、
あなたの神、主はあなたと共におられる。」
「でも、もし神さまがヨシュアに言われたように
私にも直接そう言ってくださったなら、
私にも勇気が出るんだけど……」
そう思う方がいるかもしれません。
しかし、
神はすべての信者に同じことを語っておられるのです。
「わたしは世の終わりまで、
いつも、あなたと共にいる。」
「わたしはあなたを離れず、
あなたを見捨てることはない。」
だからこそ、
勇気を出しなさい!
私たちも約束を取りに行きましょう。
神が与えてくださった約束なのですから。
そして、
真の証人となりましょう。
33. そこで王は、
火の炉をこれまでの七倍も熱くするように命じました。
これこそ、悪魔がすることです。
兄弟よ、
悪魔は何事も“中途半端”にはしません。
持っているものすべてを
あなたに向かって一気にぶつけてきます。
しかし――
神に感謝します!
神ご自身にも、
悪魔に押し返す力があるのです。
その通りです。
さて、見てください。
ネブカデネザル王が、
巨大な炉のそばに腰を下ろしているのが見えます。
炎で空は真っ赤に染まり、
煙がもうもうと立ち上っている。
34. 私は思うのです――あの夜、三人の若者のために一晩中、祈祷会が行われていたに違いないと。というのも、試練に向かおうとする時には、祈りが必要だからです。ここに、今日の教会の問題があります。自分の感覚や能力に頼り、主に持って行って祈ることをしない。現代では、誰かをどこかへ派遣しようとすると、
人々は集まって小さな相談会をし、「ここへ行くべきだ」「これをすべきではないか」と話し合います。しかし聖書の時代――使徒たちを遣わす前には、
彼らは集まり、断食し、祈りました。すると 聖霊 がこう言われたのです。「バルナバとパウロを、わたしのために選び分けなさい。」聖霊です!人の意見ではなく、聖霊が導き、案内されたのです。アーメン。
さて、三人の若者のための祈りが夜通し続けられ、彼らは翌日、
自分たちが何でできているかを示さねばならない時を迎えました。そして兄弟よ、“自分はクリスチャンだ” と公言するすべての者は、
いつか必ず、自分が何者かを示さなければならない時が来るのです。
悪魔は、あなたの信仰を試しに来るのです。
35. 小さなトミー・オズボーン――
(ここにいる多くの方々は彼をよくご存じでしょう)
彼がある日、私のところに来た時のことです。
私は家のポーチに座っていました。
彼はこう言いました。
「ブラナム兄弟、
あの集会にいました。
あの凶暴な男があなたの足元に倒れたのを見ました。
私はどうしたらいいのでしょう?」
私は彼にこう言いました。
「トミー、
自分が裏付けられないことは、
決して口にしてはいけない。
悪魔は、
あなたの言葉を必ず試しにかかる。
そうだよ。
そして――
それはすぐにやって来る。
もし、あなたがその言葉を裏付ける力を持っていなければ、
何が起こるか分かるだろう?
それは大きなつまずきになる。
だから、
自分の語る言葉が真実であることを、
よく確かめてから語りなさい。」
36. そしてクリスチャンの皆さん、
これは本当にその通りなのです。
心の奥深くで、
神があなたを“世のものから区別し”、
“新しい被造物”に造り変えてくださった――
その確信がまず必要です。
それが確かになってから、
初めて人々に「私はクリスチャンです」と言いなさい。
それまでは、
祭壇にとどまり、
古い自分が完全に“死にきる”まで祈り続けなさい。
いいですか――
“少し死ぬ”のではありません。
「これ以上死ねない」というところまで、死ぬのです。
そうです。
完全に“死ぬ”のです。
現代の問題はこうだと私は思います。
「私たちは、まだ生きている人を、
早すぎるうちに葬ってしまう。」
葬式とは、
人が死んだあとに行うものですよね?
死んだ人は、
あなたが何と言おうと、
どんな名前で呼ぼうと、
一言も言い返してきません。
なぜでしょう?
死んでいるからです。
同じように、
キリストにあって“死んだ”人には、
この世の誘惑は通用しません。
お酒を差し出されても、
罪へ誘われても、
魅力的な申し出があっても――
その人は“死んでいる”のです。
そして、
キリストの内に隠され、
神を通して覆われ、
聖霊によって封印されているのです。
アーメン。
これこそが本物です。
だから、その人は、
もう以前のようなことはできないのです。
できないというより、
“したくないし、できる性質ではなくなってしまっている”のです。
彼は新しい被造物だからです。
37. 古い豚を連れてきて、きれいに洗って、ごしごし磨いて、爪を整えて、口紅までつけて、ナイロンでも何でも着せてみなさい。それを放してやると、まっすぐ泥の中へ走って行き、そこでゴロゴロ転げ回るでしょう。なぜでしょうか?
いくら外側を洗っても、“豚の性質”はそのままだからです。反対に、子羊を泥の穴に投げ込んでみなさい。あの子羊は、助け出してもらうまで悲鳴をあげ続けます。なぜでしょうか?子羊は“子羊の性質”を持っているからです。つまり、豚を泥から遠ざける唯一の方法は何か?その性質を変えることです。その通りです。
同じように、人を本当のクリスチャンにする唯一の方法は何か?その本性を、罪人の本性から、聖徒の本性へと変えることです。そしてそれを行うことができるものは、ただ一つ。聖霊だけです。そのとき初めて、あなたは 真の証人 となるのです。アーメン。
38. さて、よく注意していただきたいところです。ネブカデネザル王は、
「この三人を火の炉で焼き殺せ」という布告を公布しました。
そしてその朝、彼らはやって来て、若者たちの手を縛りました。
炉の頂上へと続く斜路――太い板のような通路が設けられており、
その先には、口を開けた巨大な火の炉が待ち構えていました。
彼らは、死へ向かう行進を始めたのです。王は言いました。「さあ、お前たち。今ならまだ取り下げるチャンスがあるぞ。どうするか?」
しかし三人は、静かに、揺るぎなく答えました。「私たちの神は、私たちを救い出すことがおできになります。しかし、たとえそうでなくても、私たちは後戻りしません。」彼らは、最後まで、本物の証人でした。
兵士たちに連れられて火の炉へと登っていく道を歩きながら、
熱気は次第に強まり、その熱さは兵士たちの息を奪うほどでした。
そして、炉の縁に到達し、今まさに彼らを押し込もうとしたとき――
私は、シャデラックが振り向いてこう言ったように思えるのです。「ねえ、祈りの準備は十分か?」メシャクが答えます。「ああ。もうすべて整っていると思う。」
「よし。」その瞬間、若者たちを連れてきた兵士たちでさえ、
熱気に打たれて倒れ、死んでしまいました。そして、彼らは三人を押し込もうとしました。あと数歩進めば、火の燃える炉の中へ突き落とされるところでした――。
39. さて、地上で何かが起きているとき、天でも必ず何かが起きているものです。
今、私たちは地上で“信者が死へ向かって歩いている”という
非常に重い場面を見ています。けれど今夜は、
このカメラを天へ向けてみたいと思います。地上で物事が進んでいると同時に、
天でも出来事が進行しているのです。私は、
神の御子が御父の右に座し、地上を見下ろしておられるのが見えます。
そこへ一人の天使が近づいてきます。彼は言います。「主よ、私はガブリエルです。」大きな剣を手にして、こう続けます。「あなたが私をお造りになったその日から、私はずっとあなたの右に立ち、あなたのお命じになることを一つ残らず行ってまいりました。主よ、ご覧になりましたか?あの証人たちを。あの者たちは今まさに、三人の証人を焼き殺そうとしております。」
私は、主が静かにこう答えるのを聞きます。「彼らのことは、夜通し見守っていた。」そこでガブリエルは言います。「どうか、私を行かせてください。私が行けば、この状況を変えてみせます。」私は、ガブリエルにはそれができたであろうと信じます。しかし主はこう言われます。「ガブリエルよ、剣を鞘に戻しなさい。
お前を行かせるわけにはいかない。」」
40. すると今度は、主の左の方から、巨大で力ある御使い――“ニガヨモギ”――が
進み出てくるのが見えます。彼は “水” を支配する権威を持つ御使いです。
ニガヨモギは主の御前にひれ伏し、うつ伏せになってこう申し上げます。「主よ、あの証人たちをご覧になりましたか。彼らは今まさに焼かれようとしております。ただ、神に忠実に証ししているという理由で……。」
主は答えられます。「ああ。彼らをずっと見守ってきた。」
するとニガヨモギは熱く願います。「どうか、私を行かせてください!私が行けば、バビロンを地の表から洗い流してしまいます!」
私は、彼には本当にそれができただろうと信じます。
彼はさらに言いました。「主よ、あなたは私に“水の鍵”をお与えになりました。かつて洪水前の世界では、私はその鍵を使い、全地を洪水で覆い、あなたのために世界を洗い流しました。今朝も、同じことをいたします!ただ、あなたがお許しくださるなら……。」すると主は静かにこう言われます。「そうだ、ニガヨモギ。お前にはそれができる。わたしもよく知っている。だが――わたしはお前を行かせるわけにはいかない。」ニガヨモギは驚き、問いかけます。「主よ、なぜでしょうか?」
41. 「こちらの左側に立っていなさい。あなたを行かせるわけにはいかせるわけがいかない。なぜなら――わたし自身が行くからだ。わたしは彼らを一晩中見守っていた。わたしは、自分の証人たちを見守る。また、わたしは“自分の言葉”を、必ずその通りに成し遂げるために見張っている。だから――お前を行かせるわけにはいかない。わたしが行くのだ。」若者たちは今まさに、あと一歩で火の炉へ突き落とされるところでした。不思議ではありませんか?神は私たちを、道の“最後の一歩”まで連れて行かれることがあるのです。まるで、「神は気に掛けておられないのでは?」と思えるほど静かにされる。しかし――神はあなたを見ておられる。私は思います。神がバビロンを見下ろしておられたあの瞬間のことを。「主の目は小さな雀にさえ注がれている。ゆえに、主は私を見守ってくださっている。」そうです。主はあなたを見ておられるのです。
42. そして私は主が偉大なる御座から、静かに、しかし威厳をもって立ち上がられる様子を見るのです。大祭司としての衣はその御肩から垂れ下がり、
威光があたり一面に広がります。主が目を向けられると、北の空には
巨大な雷雲が静かに待機していました。主は声を発せられます。「東風よ、来なさい。西風よ、来なさい。北風、南風よ――きょうは“わたしが”お前たちを導く。」
その風たちは、雷雲の下に入り、御座の脇へと巻き上がっていきます。そして主はその巨大な雷雲に一歩踏み出されるのです。主は天を見上げ、稲妻(いなずま)の鋭い閃光を手に取り、天空へ向かって打ち鳴らされます。その瞬間、
地と天が震えるような轟音が走りました。
ちょうどその時――三人の若者が最後の一歩を踏み出し、
炉へ突き落とされようとしていたその瞬間。主はいのちの川のほとりに降りて来られ、一本の大きな棕櫚(しゅろ)の葉を摘み取られます。そして彼らが
真っ赤に燃える炎の炉へ投げ込まれたその場所に主はすでに立っておられたのです。「神の子のような方」が彼らの真ん中に立っておられ、その大きな葉で炎の熱風をすべて払いのけておられた。そうして三人は、どれだけ長い間そこに立たされても、髪一本焦げることはありませんでした。真実な証人たち。
本物の証人たちです。そして神は――本物の証人には、必ず寄り添われます。その通りです。
43. さて、ご覧ください。火は燃え盛り、熱気は一段と激しくなっていましたが、
その時――王の心に不思議な不安が生まれたのです。
ネブカデネザル王は言いました。「あの炉を開けてみよ!もしかしたら、灰が残っているかどうか確認できるだろう。」兵士たちが炉の扉を開いた瞬間、
王は跳び上がるほど驚きました。「おい!あそこに投げ込んだのは何人だった?」
兵士たちは答えました。「三人でございます。」すると王は叫びます。「いや、四人見える!しかも――あとの一人は神の子のような姿だ!」
神は証人たちのそばに立っておられたのです。神はいつでも、
ご自身の証人のそばに立ってくださる――アーメン。これは確かな真理です。神は、ご自身のために証しする者を必ず区別し、守り、支えるのです。
44. 昔、小さな少年がいました。ダビデという名の少年です。ある日、彼は父エッサイに言われて、戦場にいる兄たちへ干しぶどうを届けに行きました。その時の王はサウルで、ペリシテ人は片側の山に、イスラエルは反対側の山に陣を敷き、
その間には深い谷と、小川が流れていました。そして――悪魔がいつもやるように、自分が優勢だと思うと、本当に押しに押してくるものです。
その時ペリシテ側には、巨大な男が一人いました。七フィートか八フィート……
いや、おそらく十フィート(3m)近かったでしょう。肩幅は納屋の扉のように広く、大きな槍と分厚い甲冑を身につけています。その男――ゴリアテが前に出て叫びました。「さあ、こうしよう。わしがペリシテ側の証人だ。そっちからも証人を出せ。軍同士で戦う必要はない。わしとそいつが一対一で戦えばよい。もしわしがそいつを殺せば、おまえたちはわしらに仕える。もしそいつがわしを殺せば、わしらがそちらに仕えよう。」ご覧なさい。悪魔というのは、自分が優勢だと思うと必ずこうやって横柄にふるまい、誇り、威張り散らすものなのです。
45. サウル王自身も、七フィート(約2メートルを超える)ほどの大男でしたが、
そのサウルでさえ、ゴリアテに会いに行くのを恐れました。イスラエルの軍隊は完全に意気を失い、丘の上に立って川向こうを見つめるだけで、敗北そのものでした。そんな時――ひょろっとした、小柄な少年が歩いて来ました。赤みがかった顔、背もそれほど高くなく、ひ弱そうに見える少年でした。
けれど、その羊の毛皮のジャケットの下には、他の誰も持っていない“何か”が鼓動していたのです。彼は兄たちに干しぶどうを手渡し、戦の様子をあれこれ話していました。すると、あの大男ゴリアテが、また前に出てきて、
ちょうど“最悪のタイミング”で誇らしげに叫んだのです。「誰か、わしと戦う者はいないのか!」その声を聞いたダビデが言いました。「何だ、この男は?」「まさか本気で、あんな『割礼も受けていないペリシテ人』に、生ける神の軍勢を侮辱させたままでいるのですか?」「だれか、神の力を証しできる者はおらんのですか?」しかし、兵士たちは皆、恐れて一歩も出られず、黙り込んでいました。
するとダビデがこう言ったのです。「わたしが行きます。」
ああ、この勇気がたまりません。「わたしが行きます。わたしに戦わせてください。」
46. ダビデが前へ出て行くと、
兵士たちは彼をサウル王のもとへ連れて行きました。
サウルは言いました。
「あの男は若い頃からの戦士だ。お前はただの若者にすぎない。」
するとダビデが言いました。
「ご覧ください。」
――ああ、ここがたまらないところです。
ハレルヤ!
ダビデは続けました。
「王よ、あなたのしもべは……
主が助けてくださって、この投石器(スリング)で熊を打ち倒しました。
それから、ライオンの口から子羊を奪い返し、その獣を打ち殺しました。
そのひげをつかんで引き倒したのです。
わたしは“そのことの証人”なのです。」
ハレルヤ!
彼は、
ただ話だけをしているのではありませんでした。
彼は
実際に“そこに行き”、
“見て”、
“主の力を自分の身で経験した”
真の証人だったのです。
ブラナム兄弟は続けます。
「今日、私たちに必要なのは、もっと多くの“ダビデ”だ!」
「私は、自分の語っていることの“証人”だ。」ハレルヤ!
その通りです。
今日の生ける神の教会が必要としているのは、
“どこかで神と出会い、
何かを見、
神の力を実際に経験し、
自分の言っていることを知っている証人“
なのです。
47. ダビデは言いました。「私は、神の力の“証人”です。子羊をさらいに来た熊を打ち倒しました。そして別の日には、ライオンが子羊を奪ったので、私はそのひげをつかみ、引き倒して殺しました。」
さらに彼はこう続けました。「熊とライオンを倒すのを助けてくださった神が、この割礼なきペリシテ人を、なおのこと私の手に渡してくださらないでしょうか?」
ハレルヤ!今日、“奇跡の時代はもう終わった”と言う人がいます。
“昔の宗教はもう通用しない、あれは祖父母の時代のものだ”と言う人がいます。
ですが――兄弟姉妹、私は今夜、はっきりと言えます。今もなお、古き良き“聖霊の洗礼”を証しする者たちがいます。天のように澄みきった、罪を焼き尽くす、聖なる御霊の力。アダム以来の罪の性質を断ち切る力。ハレルヤ!それこそ“証人”なのです。ああ、なんと尊いことでしょう!そして人は言います。「あの人たちは騒がしすぎる。」しかし――騒がしくなる理由があるのです。当然です。
聞いてください。私は、聖書の信仰がいつの時代も“騒がしい”ものであったことを、ここでお見せします。神はヨブに言われました。「おまえはどこにいたのか?私が世界の基礎を据えたときに。」ヨブは自分は偉いと思っていました。
しかし主は言われました。「おまえはどこにいたのか?」
48. ある人が、先日こう言いました。「ビリー兄弟、あなたはまだ“あの新しい宗教”を説いているのですか?」私は答えました。「いいえ、兄弟。私は“新しい宗教”なんて説いていません。私は“世界で最も古い宗教”を説いているのです。そして救いがある唯一の宗教を。」するとその人は言いました。「でも、そんな新しいもの、何年か前にはここにはありませんでしたよ。」
私は言いました。「兄弟、私はあなたに言っておきます。これは“世界よりも古い”のです。」アーメン。それは真理です。主はヨブに言われました。「おまえはどこにいたのか?わたしが地の基を置いたときに。朝の星々が共に歌い、神の子らが歓声をあげたときに。」世界の基が置かれる“何百万年”も前のことです!
アーメン!ハレルヤ!これが“証人”なのです。
49. なぜでしょうか。大祭司アロンが「至聖所」に入るとき——血を携えて入るとき——彼はある“定められた装い”をし、“定められた歩き方”をしなければなりませんでした。彼は 神の証人 として歩む必要があったのです。彼は血を取って前へ進みました。そして彼の衣のすその周りには、ひとつの鈴と、ひとつのザクロ、
また ひとつの鈴と、ひとつのザクロ が交互についていました。彼はそれが鳴り響くように歩かなければならなかったのです。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主よ。」まさに“聖さ”の現れでした。そして、その鈴がザクロに触れて音が鳴ることこそ、神がアロンを打ち倒していないことの唯一の証拠 でした。
至聖所の奥にいるアロンがまだ生きていると分かる唯一の方法は、
外にいる人々が、その鈴の音を聞くことでした。
兄弟よ、私は言います。今の私たちも、同じように“鈴とザクロ”が打ち鳴らされる必要があります。主に向かって喜びの声を上げ、「神は今も生きておられ、統べ治めておられる!」と証しするために。アーメン! その通りです!
どんな証人でしょうか?あの 二階の部屋に上り、聖霊のバプテスマを受けた人々のような証人 です。彼らは鈴とザクロがぶつかり合うように、聖霊の力の衝撃のもと、酔った人のようによろめきながら出てきました。神は今も、同じ証人を持っておられます。「あなたがたは、エルサレム、ユダヤ、サマリア、そしてジェファーソンビル・インディアナに至るまで、この力の証人となるであろう。」
アーメン! ハレルヤ!
50. ダビデは言いました。「あなたがたは、あの“割礼のないペリシテ人”——
言い換えれば、“キリストに属さない者”、あの男が……」
割礼とは何でしょうか?旧約では 契約のしるし、今日では 聖霊によるしるし です。ダビデはこう言ったのです。「あの“聖霊の証”を持たない男が、
どうして——どうして!生ける神の軍勢をあざけることができるというのですか?」ああ、なんということだ!「彼は“割礼なき者”ですよ!」
そして私たちはどうでしょうか。今、私たちは 聖霊によって割礼を受けた者 です。聖霊こそが、私たちの割礼です。それなのに——あなた方は、
あの神学博士や学問の肩書をいくつもつけた者たち(
Ph.D だ、D.D. だ、D.Litt だ、ダブルD だ と名乗る者たち)が
出て来て、「昔ながらの信仰なんて、もう時代遅れだ」
――などと言っているのを、そのまま聞き流すのですか?しかし“聖霊のバプテスマ”そのものが、それが真実であると証明しているのです!
「でも、人々は来ないでしょう?」来ますとも!アーメン!
51. 昔、ヨハネ――バプテスマのヨハネが立ち上がって説教を始めたとき、彼はその時代で最も偉大な説教者でした。しかし、彼はとても 単純な男 でした。
九つの時から荒野へ入り、博士号など取りませんでした。
そして彼は、襟をひっくり返した僧服を着て出てきたのでもなく、
ドクソロジーや使徒信条を暗唱して出てきたのでもありません。けれども、彼は神の“証人”でした。ユダの荒野から出てきたとき、彼はこのように“羊の毛皮”をまとい、ただそれだけの姿で、しかし 力強い福音 を語りました。
ああ、なんという男でしょう!彼はエルサレム、ユダヤ、そしてヨルダン一帯を揺り動かしました。なぜでしょうか?彼が語ったのは、“歴史上のキリスト”ではなく、“今ここにおられるキリスト”だったからです。現在の出来事としてのキリスト、“今この瞬間の現実”としてのキリストを宣べ伝えたのです。
ハレルヤ!今日、世界中で“キリストの復活”を歴史として説いています。しかし——あなた自身はどうですか?あなたの心の中に、キリストは“新しい命”としてよみがえっておられますか?古い生き方は死にましたか?
52. ダビデは言いました。「あの割礼も受けていないペリシテ人に、そんなことを言わせたままでいいのですか?私が行って、あの男と戦います!」
するとサウル王は言いました。「もし本気で行くというのなら、私の甲冑をつけて行きなさい。この盾も、兜も、剣も、全部お前にやろう。」
ああ、なんということでしょう!さて、小さなダビデが、あの巨大な甲冑を着せられた時のことを思い浮かべてください。肩幅はこんなに小さく…
その彼に、サウルの胸当てはこんな“幅広”で!着せてみたものの、
可哀想に、ダビデは一歩も前に進めませんでした。
53. よく聞いてください。私たちは“教会的・学問的な盾”では、神の人には決して合わない ということを知っています。その通りです。あなたがどれだけ神学を積み上げても、それは 神の力の代わりにはなりません。あなたが必要としているのは――神学書でも、学位でもなく、神のみこころに完全に明け渡された、砕かれた心です。それこそが、真の証人を生むのです。ダビデは言いました。
「こんなもの、私には合いません。取り除いてください。あなたのPhD(神学的肩書き)も私には必要ありません!」アーメン!彼は証言しました。
「私はこんな装備、試したことがありません。あなた方の神学なんて、私は何も知りません。私は、主が獅子や熊の手から私を救ってくださった、あの道で行くのです。」私は今日もまったく同じことを言います、兄弟たちよ。「私を心理学では歩ませないでください。死の口から私を救い出してくださった、あの“古くて力強い聖霊のバプテスマ”で行かせてください。
私が生かされたあの道を、あのままで歩ませてください。」
54. 「おお……」とダビデは言いました。「私はこんなもの、試したこともありません。これでどうやって立ち向かい、人間が作った信条や作法を繰り返すというのですか?そんなもの、私には何も分かりません。こんなものは、どうか私から取り除いてください。」そこで彼らは、その重たい装備を外しました。
するとダビデは、すっと身が軽くなり、気持ちが良くなりました。
彼は後ろに手を伸ばし、自分の小さな投石器(スリング)を手に取りました。
その瞬間、彼の心は躍り出し、走り出したいような気持ちになったのです。
――そうでしょう。自分の“スリング”を手にした時のあの気持ち、
あなたも分かるでしょう。その時、ゴリアテが向こう側から叫びました。
「お前は一体、何をしに来たのだ?」ダビデははっきりと言いました。
「私は、あなたに向かって行く!」アーメン!彼は手の中の小さな投石器を軽くたたき、谷を駆け下り、小川のところまで走ると、そこから五つの滑らかな石を拾い上げました。そして、そのうちのひとつをスリングに入れ、手の中でしっかりと巻き付け、準備を整えたのです。
55. するとゴリアテが言いました。「おい、まさか……あのちっぽけな“ホーリー・ローラー”みたいな若造、学問もなさそうな、あんな者が、
この私に向かって来るというのか?」「この私を相手に?私には学位もある。地位もある。そんな者に時間を割く価値などない。“神の癒し”だの、“神の力”だの、“救い”だの、そんな話を持ち出してくる相手に、わざわざ時間を使えというのか。」――とゴリアテは鼻で笑いました。しかしダビデは違いました。
彼は、自分が語っていることの“証人”だったのです。
(Witness ― 自分が実際に見、経験し、知っている者)
もし、あなたが本当に
自分の語ることの“証人”であるなら、
心配はいりません。
彼らはいずれ、あなたと向き合わざるを得なくなります。
兄弟、
その時はまるで“豚を締める時”のように――
戦いの板が並べられ、勝負の時が来るのです。
(ブラナム兄弟らしい例えです)
その通りです。
アーメン。
56. 彼は、その小さな石をそっと投石器の中に入れました。
そして――小川をひとまたぎし、丘を駆け上がりながら、
あの巨人に向かって一直線に走って行ったのです。
57. ゴリアテは言いました。「おい、見ろよ!」「お前は……こんな私に向かってくるというのか?」「私はこの長槍で――そうだ、三十フィート、四十フィートはあるこの槍の先にお前を突き刺して、高く持ち上げてやる。
そして今日、お前の肉を空の鳥たちにくれてやるのだ。」
しかし見てください。ここに“証人(Witness)”として立つダビデがいます。
反対は彼に向かっていました。状況はすべて不利でした。
それは確かです。それでもダビデは揺らぎませんでした。
彼は自分が語っていることを“知っていた”のです。彼は経験していました。
主が共に戦われることを知っていました。だから彼は言いました。
「あなたはペリシテ人の名と、鎧と槍を頼りにして私に向かって来る。
しかし私は、イスラエルの主なる神の御名によってあなたに向かって行く!」
アーメン!これこそが違いでした。
この一点が、すべての違いを生んだのです。
そしてダビデは言いました。「今日、主はあなたを私の手に渡される。」
するとその巨人は大声で笑い、彼を殺そうと前に進み出ました。
58. 小さなダビデは走り出しました。
そして――投げるのにちょうど良い距離に来た時、
彼は“それ”を始めたのです。
よく見てください。
彼の手には五つの石――J-E-S-U-S(イエス)
そして、それを包み込む 五本の指――F-A-I-T-H(信仰)。
兄弟よ、彼はそのスリングを
ぐるぐると、ぐるぐると、動かし始めました。
そして――
あなたの魂の中で “イエスへの信仰” が
途切れることのない運動を始めたなら、何かが起こります。
罪も病もあなたから逃げ去り、
悪霊たちは夏の昼間に電気をつけた時のゴキブリのように
四方八方へ散っていきます!
さあ、ダビデが来ました。
F-A-I-T-H(信仰)を持って、J-E-S-U-S(イエス)の御名によって。
彼は叫びました。
「私はイスラエルの主なる神の御名によってお前に向かって行く!」
そしてスリングを力強く回し始めました。
その瞬間――
聖霊ご自身が、その石をペリシテ人の額めがけて一直線に走らせたのです。
石は命中し、巨人は倒れました。
するとダビデは、
その巨人自身の剣を引き抜き、
彼の首を切り落とし、それを高く掲げて叫びました。
「さあ来なさい、みんな!
言った通り、神がなされたでしょう!」
ハレルヤ!
彼は“証人(Witness)”でした。
自分の語っていることを知っていました。
それを試し、確かめ、体験していました。
鎧や槍の使い方は知らなかったかもしれません。
しかし、自分の手にあるものと共に働く神を知っていたのです。
私たちも同じです。
この世の偉大な理論や高度な知識をすべて知っているわけではありません。
しかし――
私たちは“聖霊”が何であるか知っています。
聖霊が私たちに何をしてくださるか知っています。
だからこそ、証しし続けるのです。
ただし――
証人となる前に、まずその聖霊を受けなければなりません。
59. かつて、エリヤという名の預言者がおりました。
神がその人と共におられたのです。
エリヤは、数々の大きな試練の中で
神が働かれるのを自分の目で見てきました。
ですから、国の上に罪が満ちていくのを見た時、
彼はこう言いました。
「ちょっと待ちなさい。」
エリヤは山に登り、祈りました。
すると神は、彼に“証し”を与えられたのです。
神は言われました。
「行って王に告げよ。
お前が言う時まで、露ひとつ地に落ちることはない。」
エリヤは山を降り、王のところへ行って宣言しました。
それからまた山に戻り、腰を下ろしました。
その時の人々の声が聞こえてくるようです。
「あの老人、とうとう頭がおかしくなったんじゃないか?」
「雨が降らない? 露も落ちない? 彼が口を開くまでは何も降らない?
そんな馬鹿なことを言っている!」
しかし、エリヤは静かでした。
なぜなら――
彼は“神の証人(Witness)”だったからです。
彼は、
自分が何を語っているのか“知っていた”のです。
神がどう働かれるか“知っていた”のです。
なぜなら、
神は必ずご自身の御言葉を守られる
ということを、エリヤは深く理解していたからです。
神が
「雨は降らない」 と語られたので、
エリヤは
「雨は降らない」 と宣言したのです。
それが、神の真の証人の姿でした。
60. もし神が、「聖霊のバプテスマを受けられる」と言われたなら――行って受けなさい。神が、「癒しはあなたのためのものだ」と言われたなら――受け取りに行きなさい。あなたが“証人(Witness)”なら、堂々と証しし続けなさい。神が約束されたことは、決して嘘にはなりません。たとえ周りの人が、「奇跡の時代は過ぎた」などと言っても、その言葉には耳を貸さなくてよいのです。私たちが拠りどころにするのは、人間の言葉ではなく、神の御言葉だからです。
61. しばらくしてから、
あのエリヤは神のおことば通り、山へ登って行きました。
人々は言いました。
「見ろよ、またあの変わり者の老人だ!
丘の上のキリテの川のそばに座り込んで、どうするつもりなんだ?
なんてみじめな姿だろう。
あの白く長いひげ……
あれで七十歳くらいだろう。
杖一本に、油の小瓶ひとつ持って、
あんなところに座っていたら、
餓死してしまうに決まってる!」
ところが――
しばらくして、
本当に干ばつが始まり、
地を覆い尽くし始めたのです。
そして、人々はふと気づきました。
「おい……
あの“気が変だ”と言っていたエリヤが、
あそこでは一日三度の食事をちゃんと取って、
ゆうゆうと暮らしているぞ……」
そうなのです。
エリヤは、
この集まりにいる多くの人より
ずっと良い暮らしをしていたのです。
彼には“ポーター(運搬係)”がいました。
その通りです。
毎日、
神が遣わされたカラスたちが
食べ物を口にくわえて飛んできて、
彼の前に置きました。
まるで
神が作られる“サンドイッチ配達”のように。
朝食にちゃんと届けられたのです。
62. ある時、ある人が私に言いました。「牧師さん、本気でそんなこと信じてるんですか?」私は答えました。「はい、もちろん信じています。」
するとその人はさらに言いました。「あのエリヤが、カラスから食べ物を受け取って食べた――それをあなたは本気で信じているんですか?」私は言いました。「ええ、確かに食べました。」彼は続けました。
「じゃあ、その“魚”はどこから仕入れたんだ?」私は言いました。
「知りません。」「じゃあパンはどこから?」
「それも知りません。」そこで彼はからかうように言いました。
「カラスが、どこかのパン屋に行ったっていうのか?」私は答えました。
「それは私には分かりません。ただ一つ分かっているのは――
カラスたちがそれを運んできたということ。エリヤはそれを食べ、神に感謝し、
そして神が命じられたことをそのまま行った、ということだけです。」
63. 聖霊のバプテスマも、まったく同じです。
人は言います。
「あの人たちは、何であんなに叫んだり喜んだりするんですか?」
私は言います。
「私には分かりません。」
「でも、本当にあれは何か感じるんですか?
私は信じられません。」
――あなたは信じなくてもいいんです。
あれは“神からの天のマナ”なんです。
聖霊ご自身がそれをもたらし、
私はそれをいただき、
満たされ、
喜び、
賛美し、
良き時を過ごすのです。
世の中が何を言おうと関係ありません。
彼らは好きなように信じていればよいのです。
聖霊です!
「でも、どこから来るんですか?」
「マナはどこから来るんですか?」
「見えない空中から、どうやって何かが来るんですか?」
――私は知りません。
しかし、それは確かに“来る”のです。
アーメン!あなたはその証人(Witness)ですか?
主の御恵みを“味わった”ことがありますか?
神が良いお方だと、身をもって知っていますか?
自分が語っていることを、心で知っていますか?
聖霊のバプテスマは、
今夜もあなたの命そのものと同じくらい“現実”です。
救いをもたらす神の力。
はい、その通り。
本当に良いものです。
64. エリヤは、そこで神がくださった食事を静かに食べました。喉が乾けば、小川のそばに歩み寄り、そのまま水を飲めばよかったのです。人々はそんな姿を見て、こう思っていました。「あの老人は気がふれたのだ。」――違いました。
彼は“神の証人(Witness)”だったのです。その通りです。
やがて、その小川もとうとう干上がりました。すると神は言われました。
「さあ、次は“ひとりのやもめ”に、お前を養わせるように備えてある。」
まあ、なんということでしょう。説教者が“やもめ”の家に行かなければならないとは!しかし神が言われました。「わたしが備えたのだ。」だからエリヤは出発しました。その場所でも “証人”としての務め を果たすために。
町に着き、道を歩いていると、彼は幻で示されたとおり、
庭に立つひとりの女を見ました。「これがその人だ」と悟り、
彼はそばを通りかかりながら声をかけました。「どうか、水を少し、私に飲ませてください。それから、あなたの手にある“パンの一切れ”をください。」するとその女は言いました。 「あなたの神、主は生きておられます。そしてあなたの魂も決して滅びません。ですが……わたしのかめには小麦粉がひと握り、瓶には油が一滴だけ残っているだけです。私は今、二本の薪を拾っているところです。
これで息子と私のために最後の小さなパンを焼き、それを食べて……
あとは死を待つだけなのです。」 エリヤは言いました。「まず、私にひとつ、先に持ってきなさい。」アーメン。
65. 「まず神の国とその義を求めなさい。」
あなたはこれが真理だと“証し”したことがありますか?
何よりも先に、神を第一に置くこと。
〇 什一献金も、まず神へ。
〇 一日の始まりも、まず神への祈り。
〇 一日の歩みの中でも、絶えず主を思うこと。
〇 どんな決断も、どんな務めも、神を一番に置くこと。
そうすれば――あなたは確かに 証人(Witness) になるのです。
さて、このやもめは二本の薪を拾って来ました。
東方の古いやり方では、
薪はちょうど十字架のように “二本を交差させて” 用いました。
そして中央に火をつけました。
インディアンたちも今なお同じ方法を使っています。
火が燃えて短くなると、薪を少しずつ中央へ寄せていきます。
この“交差した二本の木”は――
キリストの十字架 を象徴しています。
そして真ん中の“火”は――
聖霊の炎 です。
やもめは、穀物のささげ物(meal offering) を取り出しました。
その粉はすべて同じように挽かれ、
どの一粒も区別がありません。
これはまさに御言葉どおりです。
「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。」
そこへ、彼女は 油(Holy Spirit) を注ぎました。
御言葉なるキリスト(Meal)と、
聖霊(Oil)が混ぜ合わされ――
“聖霊とキリストの交わり” がひとつになる。
兄弟よ、これはもう
ただのパンではなく、聖なる“ホーケーキ(平たいパン)”です!
アーメン!
どうか、私を狂っているとは思わないでください。
今夜はただ、主にあふれるほど満たされているだけです。
エリヤは言いました。
「まず、私に小さなパンを作って持ってきなさい。」
66. そこで彼は――穀物のささげ物(キリスト)を取り、その上に聖霊の油を注ぎ、
よく混ぜ合わせ、“十字架”の火の上で焼いたのです。兄弟よ……“ケーキ”というなら、これ以上の“天からのケーキ”はありません!アーメン!
やもめは、その小さなホーケーキを焼き上げ、残っていた“最後の一滴の水”を汲んで来ました。エリヤは立ったまま、そのパンを食べ、その水を飲みました。
そして言いました。「さあ、行って、今度はあなたと息子さんの分を作りなさい。
主はこう仰せられる。『雨を地に与える日まで、かめの粉は尽きず、瓶の油は切れることがない』と。」
何ということでしょう!
証人――そうです。このやもめは、その地の“証人”となったのです。
神が語られ、その言葉どおりに事が起きる。その奇跡のただ中に生きる者は、
自然と 「主は真実なお方です」 と証しする人になるのです。
67. その偉大な預言者――エリヤが天に取られた後、その後継の務めを エリシャ が受け継ぎました。私は、エリシャほど“証人らしい証人”はいなかったと思います。ある日、エリシャが歩いていると、エリヤが彼を見つけ、自分の外套をその肩にかけ、祝福を与えました。その瞬間、エリシャはすべてを理解しました。
彼は牛を殺していけにえとし、この世のものはすべて、自分の後ろで死んだのだ
ということを示したのです。これが、神のもとに来る“本当の道”です。
後ろに残さない。明日のために「元に戻れる道」を置かない。
・酒瓶をどこかに隠しておかない・昔の罪と習慣を“残しておく場所”を作らない
すべて捨てることです。焼き払うことです。完全に断ち切ることです。
アーメン。本物の証人になるのです。言い換えるなら――「裸足で出てくる」くらいの、すべてを明け渡した姿で。すこし乱暴に聞こえる表現かもしれませんが、
私にはこのようにしか言い表せないのです。エリシャは心の中で思っていました。「さあ、これからここで大いなることが起こり始める」と。
68. それからエリシャは、ギルガルを出発しました。
そして彼は 預言者学校(the school of the prophets) のところへ行きました。
そこに着いたとき、
エリヤはエリシャに言いました。
「主が、私をヨルダンへ導いておられる。」
この箇所には、
エリシャがエリヤに従って歩んだ
三つの段階(Three stages) が描かれています。
そしてブラナム兄弟が示すように、
エリヤはキリストの型(type)
エリシャは教会の型(type)
として現れます。
最初の段階は ギルガル。
これは 「信仰による義認(Justification by faith)」 を象徴します。
そこでエリヤは、
教会の型であるエリシャに言いました。
「あなたはここにとどまりなさい。」
しかし若い預言者エリシャは、
年長の預言者エリヤにこう言いました。
「あなたのたましいが生きておられる限り、
私はあなたから離れません。
私は、あなたと共に行きます。」
69. そして彼らは ギルガル へ上って行きました。
そこに着くと、エリヤは言いました。
「お前はここにとどまりなさい。主が、私を預言者たちの学校へ召しておられる。」
しかしエリシャは答えました。
「主は生きておられ、あなたのたましいは決して死ぬことはありません。
私はあなたと共に行きます。あなたを離れません。」
これが教会なのです。
あなたの目をイエスから離さないこと。
主が動かれるところへ、あなたも行きなさい。
もしイエスがメソジスト教会を出られるなら、あなたもその後をついて行きなさい。
バプテスト教会を出られるなら、その後を行きなさい。
もし主がブラナム・タバナクル(幕屋)をも出られるなら、その後を行きなさい。
「私はあなたを離れません!
母がどこに属していたか、父がどこにいたか、そんなことは関係ありません。
主よ、私はあなたと共に行きます。あなたを離れません!」
ハレルヤ!
「私はあなたの証人です。あなたを離れることはできません。
あなたは私の一部です。」
「さあ、私はあなたについて行きます。」
そして彼らは預言者の学校へ向かいました。
そこでエリヤはまた言いました。
「お前はここにとどまりなさい。」
70. すると、そこにいた預言者たちのひとりがエリシャに言いました。
「あなたの主人が、あなたから取り去られることをご存じですか?」
エリシャは答えました。「知っています。しかし、どうか静かにしていてください。」アーメン。私はこの言葉が好きです。「私は彼に、最後までついて行きます。まわりの人が何と言おうとも。」するとエリヤが振り向いて言いました。
「さあ、お前はここにとどまりなさい。主が、私をヨルダンへと遣わしておられる。」ここに“三つの段階”があります。ギルガル――義認(Justification)預言者の学校――聖潔(Sanctification)ヨルダン――聖霊のバプテスマ(Baptism of the Holy Ghost)ヨルダンは「死」を象徴します。
すなわち、完全に古い自分が死に、聖霊によって満たされる場所を指しています。ルターの時代、ウェスレーの時代、そして五旬節(ペンテコスト)――神の民はこの流れをたどり、とうとう ヨルダンの川、完全に死に切る地点 へと導かれてきたのです。
71. それからエリヤは、エリシャを連れてまっすぐ川べりへと降りて行きました。
そしてヨルダン川――すなわち「死」、旅路の最後の段階――に着くと、
あの年老いた預言者は手を伸ばし、自分の外套をつかんで脱ぎ、
その水を打ちました。
すると、ヨルダンの水は左右に分かれ、
二人はその真ん中を、乾いた地を踏みしめながら渡って行ったのです。
離れたところでは、預言者学校の人々が立ち、
二人が渡って行くのをただ見つめていました。
アーメン。
そして、向こう岸に渡り終わったとき――
ああ、これがブランナム・タバナクルの奥深く、
骨髄の奥の奥まで染み込むよう願います――
まだギルガルの時ではなかった。
預言者の学校の時でもなかった。
ヨルダンのこちら側にいた時でもなかった。
ただ、ヨルダンを渡り切り、
一歩一歩、完全に付いて行った“その後”にだけ、
本当の事が起こったのです。
多くの人はこう言います。
「私はイエス様を私の個人的な救い主として受け入れました。」
「悪い習慣もやめました。」
けれど、ヨルダンに来るとどうでしょう。
そこは“死に切る”場所です。
友も、世の全てのことも、自分の力も、全部捨ててしまう場所です。
ただ一つ、主イエス様だけを見つめる所なのです。
72. それからどうなったでしょうか。
エリシャはこう言いました。
「私はあなたと一緒に、ヨルダンを“通り抜ける”ところまでついて行きます。」
アーメン。
私はこの言葉が大好きです。
なぜでしょうか?
エリシャはこう言っているのです。
「私は、この出来事の“証人”になります。」
そして彼は実際にヨルダンを渡り終えました。
さあ、ここです。
ここをぜひ心に刻んでください。
ヨルダンを渡り終えた“その後で”――
エリヤは言いました。
「あなたは、私に何をしてほしいのか?」
これこそが、今夜キリストが教会にお尋ねになっていることなのです。
「あなたが世のものから完全に離れ、
キリスト・イエスにあって新しい創造となり、
新しく生まれ変わり、
聖霊に満たされ、
ヨルダンを渡り切り、
この世のすべてが背後の死んだものとなった“そのあとで”、
さあ、あなたはわたしに何を求めるのか?」
ああ、この場面が私は大好きです。
73. エリシャはこう答えました。
「あなたの霊の“二倍の分け前”が、私の上に来ますように。」
この預言者は、自分が何を求めているのか、よく分かっていました。
「二倍ください。私はそれだけ多く、神の証人になりたいのです。」
エリヤは言いました。
「あなたは難しいことを願った。だが、もしわしが取り去られるところを“見ているなら”、その願いはかなえられる。」
さあ、兄弟姉妹――
そのときのエリシャほど、真剣に師を見つめた者はありません!
そして、この姿こそが
今夜、教会がしなければならない姿なのです。
“二倍の聖霊”を求めるのなら――
キリストから目を離さないこと。
聖霊の働きのひとつひとつに、心を留め、従うこと。
見なさい。
感じなさい。
追いかけなさい。
聖霊がどのように動くのかを。
74. エリヤは言いました。
「おまえは難しいことを願った。」
しかしエリシャは――
片方の目をこの世に、もう片方の目をエリヤに向ける、
そんなことは決してできませんでした。
両方の目をまっすぐにエリヤに向け、
ただ一心に、ただ一筋に、ついて行かなければならなかったのです。
今夜の問題も、そこなのです。
あまりにも多くの“クリスチャンだと名乗る人々”が――
片目はこの世に、
もう片目は十字架に向けている。
兄弟姉妹、それでは必ず倒れます。
世界がなんと言おうと、必ず倒れます。
あなたの目を一つにしなさい。
あなたの心を一つにしなさい。
あなたの思いを一つにしなさい。
アーメン。
耳に痛いかもしれませんが――
これは魂に良い薬です。
75. 私たちが子どもの頃は、いつもひまし油を飲まされました。
母がそこにいて、私にひまし油を飲ませるのですが、私は鼻をつまんで「うぇっ」とえずいていました。
私が言うんです。
「こんなの、気持ち悪くてたまりません!」
すると母が言いました。
「ハニー、それで気持ち悪くならなかったら、効き目なんてないのよ。」
――たぶん、福音も同じなのです。
あなたをかき乱さないような福音なら、あなたには何の益にもならない。
だから、
キリストから目を離さないようにしなさい。
前へ進み続けなさい。
世間が何と言おうと、前へ進みなさい。
聖書はこう言っています。
「神の子らは、神の御霊に導かれる。」
その通りでしょう?
そしてまた、
「いまやキリスト・イエスにある者には、決して罪に定められることはない。
肉に従って歩まず、御霊に従って歩む者には。」
そうです。
御霊に従って歩む者には、何の罪定めもない。
ただ前へ、前へと歩み続けるのです。
76. やがて、彼(エリヤ)が引き上げられるときが来ました。
しばらくすると、火の戦車が天から降りてきて、エリヤを迎えに来たのです。
エリヤはその戦車に乗り込み、天へ上っていきました。
そのとき、エリヤは自分の上着を、こうして脱ぎ、
後ろへ向かって投げました。
それは地上に落ちました――
火の馬と戦車が彼を運び去っていく、その時に。
ああ、ここをよくつかんでください。
これはなんと美しい型でしょう!
若い預言者エリシャ――
エリヤがしたすべての御業をこの目で見届けてきた、あの証人。
エリヤの力、奇跡、御業、すべてを知っているその男。
彼は落ちてきたその同じ“外套(マント)”を拾い上げ、
自分の肩にかけて、ヨルダンへ歩き出したのです。
完璧で美しい型です。
エリシャはヨルダン川に着くと、
その外套を手に取り、こう言って水を打ちました。
「エリヤの神はどこにおられるのか?」
すると水は左右に割れ、道ができたのです。
――これこそ、
イエスについて行く教会の姿の型そのものです。
主の力を見、
主の奇跡を見、
主の歩まれた道を見た者が、
その同じ御霊を受けて、
後に続くのです。
77. ある日、主は人々から質問を受けられました。
ある女の人がこう言ったのです。
「私の息子たちを、一人はあなたの右に、一人は左に座らせてください。」
主は言われました。
「わたしの飲む杯を、あなたがたは飲むことができるか?」
彼らは答えました。
「できます。」
主はさらに言われました。
「わたしが受けるバプテスマを、あなたがたは受けることができるか?」
彼らは答えました。
「はい、できます。」
すると主はこう言われました。
「確かに、あなたがたはその通りになる。」
――しかし続けて言われました。
「だが、右や左に座らせることは、わたしの決めることではない。」
つまり主はこう言われたのです。
「わたしが受けたのと同じバプテスマ、あなたがたも受けることになる。」
78. そして教会――主に召し出された者たちは、主を見つめました。
主がペンテコステへ向かわれる時を。
主はまず、あの二階の部屋で最後の晩餐を持たれました。
その後、カルバリーへ向かわれ、十字架につけられました。
そして、教会がそのお姿を追って見つめていた時、
主が昇天される瞬間――空へ上って行かれるときに、
主はこう言われました。
「今からあなたがたを、全世界へ遣わす。
わたしの証人となるために。
しかし、その前に——
エルサレムの町で待ちなさい。
わたしに臨んでいる、あの聖霊のマントを、
あなたがたの上にも下らせるからだ。
わたしはそれを、あなたがたへ送り返す。」
それで彼らはエルサレムの町へ上って行きました。
(ハレルヤ!)
そしてそこで、
イエス・キリストご自身の上にあったのと同じ聖霊のバプテスマを受けたのです。
ハレルヤ!
「そのとき、あなたがたはわたしの証人となる。
イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも同じだからである。」
79. そして、あの聖なる御霊――
エリヤの上にあったあの同じ聖霊が、
預言者エリシャの上には二倍の分量で臨んだように、
今夜、神の教会である私たちの上にも臨んだのです。
兄弟よ、姉妹よ――
私たちは皆、主の祝福の杯の縁に口づけし、
あの聖霊のバプテスマが私たちの上に降り、
覆い、
その御霊の内へと私たちをどっぷりと浸し、
そして主の証人として世に遣わされた者たちではないでしょうか。
こんな時代に、
このように堕落と腐敗が四方に満ちている時代に、
どうして私たちは沈黙していられるでしょうか!
いまこそ立ち上がり、
真理の証を立てましょう。
アーメン!
すばらしい!
ああ、なんという恵みでしょう!
……もう終わらなければいけませんね。
ですが今、私はここからまたすぐにでも説教を始められそうに感じています。
今、心がふつふつと燃えてきていますから。
80. あの外套(マントル)――
その二倍の分量!
主イエスは言われました。
「わたしのするわざを、あなたがたも行う。
いや、それよりもさらに大いなるわざを行うであろう。」
つまり、“もっと多く”、
二倍の分量ということです。
「あなたがたは、この二倍の分量を受けたあとで、
わたしの証人となるのだ。」
さあ、主を見つめましょう。
目を離してはいけません。
そのマントルは、
いま、ここに下っています。
そうです、今夜この教会に。
主イエス・キリストの上にあった
同じ聖霊が、
今夜、この場所におられ、
ここにいるどんな信じる者でも、
上からの力を帯びるその外套で
包み込むことができるのです。
そのとき、あなたは主の証人となるでしょう。
エルサレムでも、ユダヤでも、サマリヤでも、
南アフリカでも、アジアでも――
どこへ行こうとも。
「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも変わることのない方です。」
「エルサレムで待ちなさい!」
そう仰せられたのです。
だからこそ、ピリポはあのように力強く伝道できたのです!
だからこそ、あの小柄なステパノが、石で打たれ、
その頭の左右から石塊が飛び、
その小さな脳が地面に砕け散るその瞬間にも、
天を見上げることができたのです。
そして彼はこう言いました。
「見よ、天が開けて、
神の右に立っておられるイエスを見ます!」
彼は――真の証人だったのです。
81. だからこそ、パウロ――いや、まだサウロだった彼が、あの道を下って行った時、まばゆい光が彼の前に落ちてきて、その目が見えなくなったのです。
彼は倒れながら叫びました。「主よ……私は、どなたを迫害しているのでしょうか?」そのお方は答えられました。「イエスだ。」そして主は続けられました。
「まっすぐという名の通りへ行け。」その町には、アナニヤという名の“幻を見ることのできる”主のしもべ――ひとりの説教者がいました。アナニヤは幻の中でサウロを見せられたのです。そこで彼は、サウロのもとへ行き、
その手をそっと彼の上に置きました。「サウロ兄弟。あなたの行く道でお会いになった主イエスが、あなたのもとへ私を遣わされました。あなたが再び目が見えるようになり、聖霊に満たされるためです。主はあなたが“主のための大いなる証人となる”ことを私に示して下さいました。」そうです――証人!まず何が起こったのでしょう?「視力を受けなさい。そして聖霊を受けなさい。」すると、うろこのようなものが彼の目から落ち、彼は立ち上がり、ダマスコの川へ下りました。
そして――バプテスマを受けたのです。ああ、私には見えるようです……
きっとあの川辺は、主の喜びで満ちあふれ、大きな祝福の声が響いたことでしょう!あなたはどう思いますか?
82. あのサウロは――
胸を張って馬にまたがり、
ポケットには「この一団の“ホーリーローラー”を
片っ端から捕まえよ」という許可状を忍ばせ、
“憤りと脅しの息を吐きながら”
ダマスコへ向かっていたのです。
――ええ、その通りです。
しかし、その高い馬の上から、
神ご自身が彼をたたき落とされた。
主は彼を、
彼が迫害しようとしていた人々の持つ
その実在の力の“証人”へと造り変えられたのです。
ああ、なんということでしょう!
私は思うのです……
今夜もなお、高い馬にまたがったままの人々が
どれほど多いことでしょうか?
神が、あのサウロのように
彼らを落ち着かせ、砕き、
そして真の証人へと造り変えてくださる必要が
あるのではないでしょうか。
83. 私は朝のひととき、天から降る露を見てきました。
皆さんもご覧になったことがあるでしょう。
日が昇りはじめると、
その小さな露が、星のようにきらきらと輝くのを見てください。
あれはいったい何でしょうか?
あれは “証人(ウィットネス)” なのです。
あの露は知っているのです。
太陽がある高さまで昇ると、
自分は再び天に引き上げられるということを。
なぜか?
一度、上に昇ったことがあるからです。
一度天に行き、また地に落ちた。
だからまた引き上げられることを知っている。
――あれは、“太陽の引力” の証人なんです。
そこにいたことがあるから、
何が起こるか知っているのです。
そして、
神の御霊によって生まれたすべての男女も同じです。
私たちは
イエス・キリストの復活の証人です。
ああ、今夜、神が必要としておられるのは、
まさにそのような “証人” なのです!
主は言われました。
「全世界に出て行き、わたしを証ししなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
どうか聖霊が、
これらの少しの言葉を
皆さんの魂の奥深くにしみ込ませてくださいますように。
「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受け、
わたしの証人となるのです。
エルサレムにおいても、ユダヤにおいても、サマリヤにおいても、
また地の果てにまで。」
84. では、皆さん、頭を垂れてください。
姉妹、オルガンのところへ来てくださいますか。
今、会場のどこにいる方も、
しばし静かに頭を垂れて祈りましょう。
できる限り厳粛な心で。
祭壇への招きの時、
皆さん一人ひとりが祈りの心にとどまっていてください。
聖霊は今夜も、ここにおられます。
毎晩、主イエスの復活の力を証する
神の油注ぎを与えてくださっています。
今夜、ここにいる方の中で、
「主の復活の力の証人になりたい」
そう願う方はいらっしゃいますか。
まだ一度も、
「上からの力を帯びるまで」
主の前にとどまったことがない…
けれど、そうなりたい──
そう願う方はありますか?
祈りの中で覚えてほしい、と
手を挙げてくださいますか。
……神があなたを祝福してくださいますように。
はい、神があなたを祝福してくださいます。
あちらにも、こちらにも、会場のあらゆる場所で手が上がっています。
ああ、なんと素晴らしいことでしょう。
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」
85. 今夜ここにおられる方の中に──
まだ一度も、イエス・キリストを個人的な救い主としてお受けしになっていない方がいらっしゃるでしょうか。
そして、こう言いたい方はいますか。
「ブラナム兄弟、私の手を挙げることで…ここにいる私の思いを神にお示ししたいのです。
祭壇の前には、すでにたくさんの人が来ていますが、
私も今、手を挙げて、祈ってください。
私は罪人です。
そして今ここで、神様、どうか私の手をご覧ください。
私は主を、私の救い主として受け入れたいのです。」
──神があなたを祝福してくださいますように、婦人の方。
神があなたを祝福してくださいます、そこのご紳士。
はい、あちらの婦人の方も、神が祝福してくださいます。
神があなたを祝福してくださいます。
私の右手側にいる方はどうでしょう?
はい、神があなたを祝福してくださいます、兄弟。
上の席のあなたにも、神の祝福がありますように。
ありがとうございます。
──はい、ここにももう一方。
神があなたを祝福してくださいます。
なんと素晴らしいことでしょう。
「私は主の証人になりたい。」
そのように願う方、ほかにいらっしゃいますか?
「ブラナム兄弟、私のためにも祈ってください。祈りの中で覚えていてください。」
──神があなたを祝福してくださいます。
そちらの手を挙げているご婦人、見えていますよ。
そして若い青年、あなたも見えています。
今夜、この小さな会衆の中で、
あちらこちらから手が挙がっています。
このリバイバルの最終夜に。
そして私たちは誰も知りません…
これが ブラナム・タバナクルに与えられる最後のリバイバルになるのかどうかを。
86. 私は今日──まだ二十代という若い婦人の、冷たく氷のようになったお身体のそばに立ちました。そしてそのまま彼女を墓地へ運び、葬りを済ませました。
小さな男の子たちは、お父さんのそばに座っていました。やがて、お父さんがこう言ったのです。「さあ、ママに『さよなら』を言っておいで。」
その子たちは棺のそばまで歩いていき、その中に横たわる母親に向かって、小さな手を振りながらこう言ったのです。「さよなら、ママ。」小さな茶色の瞳には涙がいっぱいに溢れ、そして彼らは、両手で顔を覆って泣きました。
ああ──もしあの母親が、永遠に失われていたのだとしたら、どれほど悲しいことでしょうか。けれど、神の恵みによって、彼女はこのタバナクルで救われたのです。あの晩、彼女が心を決めて、前に歩み出て来た──その決断こそが、
今となっては ただ一つ、永遠の価値を持つものとなりました。つい先週まで、彼女はこの町を元気に歩き回り、この集会にも来るつもりでいました。
ところが突然病にかかり、そしてあっという間に、この世を去ってしまったのです。
87. 私の友人が二人──
どちらも公共事業会社で働いていた人たちですが、
昨日、事故に遭い、
今この町の病院で、ひとりの娘さんはまさに命の境をさまよっています。
私はその彼女と、十七年も同じ職場で働きました。
衝撃で心臓が反対側へ押しやられてしまったのです。
そしてもう一人は変電所のオペレーターで、私の友人でした。
私は彼と、森の中にある丸太に腰かけ、
何度も何度も、イエス・キリストのことを語り合ったものです。
私はこれから、彼のところへ行きます。
この世を去る直前、もう一度話をしたいのです。
主が彼のために、何かお告げくださるかどうか──
それを聞くためにも。
88. 私が伺います──
先ほど、罪人であると告白し、祈りの言葉の中で覚えてほしいと手を挙げられた方々。
あなたは今、キリストを受け入れました。
今この瞬間、イエス・キリストを信じておられるでしょうか。
どうか、祈りの心でいてください。
建物の中の皆さん、どうか頭を下げて。
もしあなたが、
「イエス・キリストを私の個人的な救い主として受け入れます。
主は今、私を罪から救ってくださると信じます。」
そう信じるなら──
その信仰の証しとして、今お立ちいただけますか。
先ほど手を挙げた方、
「主よ、あなたは『信じる者は罪に定められない』と約束されました。
私は今、あなたを私の救い主として受け入れます。」
そう言える方は、どうかお立ちください。
……神様、あなたを祝福されますように、兄弟。
神様、あなたを祝福されますように。
そのまま立っていてください。
ほかに、どなたか立たれますか?
いま、この時に立ち上がる方は?
どうかそのままお立ちください。
すべての方、頭を下げて──
この建物にいる全員、祈りの姿勢でいてください。
89. 主よ、どうか今、お助けください。――ああ神よ、罪びとをお赦しください。
あなたは言われました、「わたしのもとに来る者を、わたしは決して捨てない。」
今ここに立ち上がった方々を、主よ、どうか受け入れてください。神があなたを祝福してくださいますように、兄弟。そのまま立っていてください。
ほかにおられませんか?先ほど手を挙げられた方がおられます。
「神さま、どうかこの罪びとをあわれんでください。キリストのゆえに、私を救ってください。」――そう心から願うなら、神は今この場で、その祈りに答えてくださいます。ピリポは言いました……「ここに水があります。
私がバプテスマを受けるのを妨げるものが何かありますか?」するとピリポは答えました、「もし心を尽くして信じるなら、受けてもよい。」
いま、あなたも主イエスを個人的な救い主として受け入れたい と思われますか?
そして、もしあなたがこの場で立ち上がり、人々の前でイエス様を証しするなら、主イエスも、御父と聖なる天使たちの前であなたを証ししてくださいます。
主は、今あなたを見つめておられます。あなたも「証人」になりたいですか?
もしあなたが罪びとであり、「いまキリストを受け入れたい」と願うなら、
どうぞ立ち上がってください。神があなたを祝福してくださいますように、姉妹。ほかにおられませんか?いま、ご夫婦が抱き合って立ち、
主イエスを個人的な救い主として受け入れました。あなたも続きませんか?
どうぞ急いでお立ちください。聖霊が今、この会堂の中で働いておられます。
「私はいま、キリストを救い主として受け入れます。私のために祈ってください。」そう願う方は、どうかお立ちください。
90. 私は今、この場で涙を流しながら立ち上がっている方々のために、
祈りをささげます。――お立ち頂けますか?
どうぞ皆さん、厳粛な心で。席を立ったり歩き回ったりしないでください。
祈りの心を保っていてください。よく聞いてください。いま、聖霊が人々に語りかけておられます。あなたの手を挙げさせたのは何でしょうか?
あなた自身の力ではありません。神があなたにそうさせたのです。
イエスは言われました、「父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとに来ることはできない。」罪びとの友よ、もしあなたが知っていたなら……
私はこれまで、多くの人と話してきました。「私は神なんて信じない。」
「そんな時間はない。」「以前に試したが、何の変化もなかった。」
「信じたいと思ったことすらない。」――そんな人々を、何人も見てきました。
けれど、今夜あなたには “願い” が与えられたのです。「クリスチャンになりたい」という願いが、あなたの心に芽生えたのです。それは、あなたの力ではありません。神があなたを呼んでおられる証拠です。どうか――
今、主に背を向けないでください。
91. ピアニスト、オルガニストの方──
どうぞ “Don't Turn Him Away(主を退けないで)” を弾いてください。
皆さんが今、決心をしておられる間に。
Don't turn Him away, don't turn Him away,
He has come back to your heart again,
Although you've gone astray;
…on that eternal day!
Don't turn the Saviour away from your heart;
Don't turn Him away.
(ブラナム兄弟、静かに祈りつつ)
あの永遠の日に、
あなたは必ず主を必要とするのです。
主が「よくやった」と言ってくださるために。
どうでしょうか、今立ち上がり、
「私はキリストを受け入れます」と告白しませんか。
――そこの姉妹、
今、あなたは立って、主があなたの罪を赦してくださったと信じますか?
どうぞ皆さん、頭を垂れてください。
あの姉妹のために祈りましょう。
イエス・キリストは今、
あなたの心の扉を叩いておられます。
「私は今、イエス・キリストを私の救い主として受け入れます」
そう言って立ち上がりませんか。
祈りをささげる前に、どうぞお立ちなさい。
――そこの若者、どうですか?
神があなたを祝福してくださいますように。
はい、後ろの席で手を挙げた若いお嬢さん。
今立ち上がりませんか?
Need Him to plead your cause on that eternal day!
Don't turn the Saviour away from your heart;
Don't turn Him away.
あの永遠の日に、
あなたのためにとりなしてくださる主が必要なのです。
どうか、
救い主をあなたの心から退けないでください。
主を退けないで。
92. それでは、このコーラスをもう一度歌いながら……今立っておられる方々、どうでしょうか。そのまま前に出て来てくださいますか?ここまで来て、私と握手し、
あなたのために祈らせてください。どうぞ、この祭壇の前までおいでなさい。
ほかの皆さんも、どうですか?後ろで手を挙げられた方──あなたも来られませんか?どうぞ前へ。神があなたを祝福してくださいますように。はい、ご夫婦でおいでになった方、もう少しこちらへ。兄弟、姉妹、どうか握手をさせてください。
Back to your heart……(兄弟、一緒に来てあげてください)
Although you've gone astray;
Oh, how you'll need Him to plead your cause
on that eternal day…(さあ、来ませんか?)
Don't turn the Saviour away from your heart;
Don't turn Him away.
さて、友よ、よく考えてみてください。夜が明ける前に、あなたの魂は
歯を抜かれるように、肉体から引きはがされ、はるかな空間を通って、終わりのない永遠へと送り出されるかもしれないのです。その大いなる主の恐るべき日、
あなたのために弁護してくださる方はいったい誰でしょうか?どうぞ来ませんか?この復活の日に、あなたが主にできる最も小さなこと、それが──
「主イエスよ、私はあなたを信じます」と歩み出ることです。どうぞ、おいでなさい。
93. 〔ブラナム兄弟は、祭壇に来た人々のために祈り続けている。――録音の空白部分――〕……そして、ここで説教し、他の兄弟たちの説教を聞いてきましたが、
神ご自身が今ここでその御臨在をもって証ししておられるのです。「わたしはそれが真理であると、わたしの印を押す」と。これは主の福音です。
今、心から信じることができますか?招きの時を続けながら、私はたずねます。
この中に、かつて主から離れてしまった方──“ブラナム兄弟、どうか私のことも今覚えてください。祈りの中で覚えてください。”そう言って手を挙げたい方はいますか?覚えておいてください。いつの日か、あなたは主イエス・キリストと向き合う時を必ず迎えるのです。