イスラエルと教会#4
ジェファソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国
説教番号: 53-0328
日付: 1953年3月28日(53-0328)
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1. 『民数記の書の中で……
昨夜、私たちはページを開きました……
この一週間、イスラエルの子らの巡礼の旅路を取り上げ、
四つの段階……いや三つの段階で学んでおります。
“型”というものを信じる者として、
旧約の彼らの歩みを、新約の私たちの霊的な歩みの“型”として見ています。
そして主は、この集いのただ中で、確かに私たちにお会いくださいました。
私たちはアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフへとさかのぼり、
彼らがエジプトの束縛へと下っていくところまで見てきました。
そして昨夜、主は大いに祝福してくださり、
私たちは彼らがエジプトから導き出され、
紅海へと進み、
打たれた岩のもとに導かれ、
ついに神の御前に立つところまで辿りました。』
2. 『さて今夜、私たちは彼らをカデシュ・バルネアへと導きます。
そこは、“裁きの座”――
真鍮の祭壇……いや、むしろ“青銅の蛇”の前に立つ場所です。
そして、主が許してくださるなら、明日の夜は、
ついに彼らを約束の地へと渡らせます。
ああ、なんということでしょう!
さあ、出て来てください。明日、主が許してくださるなら、
私たちはヨルダンを渡るのです。
ヨシュアは人々にこう言いました。
「さあ、身を整えなさい。今から渡るのです。」
そして、その前に……』
3. 『ご存じのように、どんな説教者であっても、
皆、心には“神の御思い”を抱いています。
けれども聖書を開いて向き合うとき、
ふと、こんな小さな恐れがよぎるのです。
「これは自分自身の力で進んでいるのだろうか。
それとも、聖霊が導いてくださっているのだろうか」と。
覚えておいてください。
いったん蒔かれた種は、必ずどこかで芽を出します。
だからこそ、私たちは“純粋で、混じりけのない神の御言葉の種”だけが
人々の心に蒔かれるように願うのです。
いつの日か、私も皆さんと共に、
この生涯で語り、行ってきたすべてについて
裁きの座の前に立って申し上げなければならないのです。
もし私が人々を誤らせるようなことをすれば、
私は“誤って導く者”として数えられてしまいます。
そんなことは、決して、決して望みません。
ましてや、自ら進んでそのようなことをするなど、
絶対にしたくはありません。』
4. 『祈りに入る前に……
いや、御言葉の上に祈りをささげる前に、少し思いを向けましょう。
ヨハネが黙示録の中で見た光景を、覚えておられるでしょう。
彼は、“一つの書物”を見ました。
その書は、表も裏も封印されていて、
天にも、地にも、地の下にも、
それを受け取るにふさわしい者は一人もおらず、
その書を見つめることすらできなかった、と。
しかしその時、
“世の基の置かれる前から殺された小羊”が現れ、
御座に坐しておられる方の右手から
その書を取られたのです。
すると長老たちは叫びました。
「あなたこそ、ふさわしいお方です!」と。
どうかその小羊が、今夜、
この御言葉を開いてくださいますように。
私たちはページを開くことはできます。
しかし、御言葉を真に開いてくださるのは、
神の小羊だけなのです。』
倫世さん、続きもすぐにお手伝いしますので
5. 『それでは、頭を垂れましょう。
ジュニア兄弟、どうぞ私たちを祈りへ導いてください。
主が御言葉を私たちに開いてくださるように、祈ってください。
――〔ジュニア兄弟の祈り〕――
はい。
主が皆さんを祝福してくださいますように。』
6. 『では今夜は、まず民数記の第13章を開きましょう。
そこから始めて、続けて見ていきます。
今夜は、これまでのように皆さんを長く引き止めてしまうことがないよう、
できるだけ早くお返ししたいと思っています。
しかし、聖霊が「もう十分だ」とおっしゃるその時までは、
ご一緒に御言葉の中を歩んでいきましょう。
聖霊が“ここまで”と言われるなら、そこで終わりにいたします。』
7. 『明日の朝は、どうぞお忘れないように。
日曜学校は九時三十分からです。
そして十時までには、皆さんからの質問にお答えします。
質問はぜひ持ってきてください。
今夜の礼拝のあと、どなたかの長老に渡してくだされば、
私の手元に届くようにします。
明日のために、すでにたくさんの質問が集まっています。
そして明日の夜は――
いよいよ “ヨルダン渡り” です。
これまで、三つの段階を見てきました。
イスラエルの旅路には三つの段階があります。
第一、エジプトにいるイスラエル。
第二、荒野を旅するイスラエル。
そして第三は、数百年前に神が約束された
“故郷の地――パレスチナ” に入るイスラエルです。』
8. 『さて――では、教会をもう一度さかのぼって
(少し復習のようになりますが)見てみると、
神はアブラハムに、“必ず彼を救う” と約束されました。
それは条件付きではなく、“無条件の契約” でした。
神はアブラハムと、その子孫――
しかしアブラハムの子孫すべてではなく、
“約束の子” であるイサクの子孫を救う、と誓われたのです。
アブラハムには十一人の息子がいましたが、
“約束の子” はただひとり、イサクだけでした。
ですからパウロがローマ書9章で語ったのです。
「イスラエルと呼ばれる者が皆、本当のイスラエルではない。
イサクによってこそ、その子孫は召されるのだ」と。
さて、イサクを通して――
そこにはキリストの“型”が表されています。
気づかれたでしょうか。
キリストはアブラハムの中におられ、
キリストはイサクの中におられ、
キリストはヤコブの中におられ、
キリストはヨセフの中におられ、
そしてまたモーセの中にもおられたのです。』
9. 『キリストは旧約全体の中におられます。
そして旧約のすべて――あらゆる箇所が、
もし時間があれば!
七年前の、ちょうど今頃……
この数か月、私たちは出エジプト記を、初めから終わりまで取り上げ、
そのすべてを“型”として見てきました。
“きよめの水” に使われる “赤の雌牛”――
それは茶色ではいけませんでした。
“赤” でなければならず、傷一つあってはならなかった。
そして完全に焼かれ、灰にされ、
罪を犯して宿営の外に出た者を清める
“きよめの水” に混ぜられたのです。
ヒソプも、香柏の木も、
それらすべてが混ぜ合わせられ、
幕屋の中の木材も、
青銅の祭壇も、
洗盤も、
供えのパンも――
すべてがキリストを指し示していました。
そして私たちは、そのキリストのうちにあって完成されているのです。
――主イエス・キリストのうちに。』
10. 『さて、今夜のこの学びがどれほど素晴らしいものであるか……
神がイスラエルを、これから起こることの“型”として
どのように導かれたかを、私たちは見ています。
さて私たちは、四百年ののちの場面を見つけます。
神はアブラハムに約束されました。
その子孫は“見知らぬ地に寄留し、
四百年間苦しめられる“ と。
しかしそののち、
“強い御手によって、必ずそこから導き出す” と誓われたのです。
神の約束は、必ず実現します。
神の御言葉は、いつもその通りになります。
神の預言の“歯車”は、
時にゆっくりと回っているように見えますが、
しかし確実に、正確に、
定められたその場所へと進んでいくのです。』
11. 『だからこそ今夜、
この“教会の出エジプト”を学びながら、
私はこう信じています――
私たちは今、もう一度“出エジプト”の中にいるのだ と。
モーセは、神に失敗した“教会組織”の完璧な型でした。
そしてヨシュア――新しい導き手は、
神に忠実であれなかった教会に代わる“新しいリーダー”を表しています。
ヨシュアがイスラエルを約束の地へ渡らせたように。
これをよく見るなら、
当時、神がどのように動かれたか、
その“完璧さ”が分かります。
すべては順調に見え、
彼らは「もう安心だ、ここに腰を据えて生きていける」と思っていました。
しかし、約束の時が近づいたとき、
“ヨセフを知らない新しいパロ” が起こり、
状況は全く変わり始めたのです。
物事が動き、
人々は呻き、叫び、
そして――
“神が下って来られた” のです。
救い出すために。
なんという“完璧なタイミング”でしょう!』
12. 『そして神は“ひとりの人”を送られました。
ひとりの子どもが生まれました。
その子は生まれながらに特別な子で、
特別な生涯を歩みましたが、
神の御手は常に彼の上にありました。
モーセ――
彼は葦の茂みに隠されました。
迫害の時代に生まれたのです。
それはちょうどキリストと同じでした。
彼は“麗しい子”、特別に守られた子で、
それもまたキリストの型でした。
そして彼は、“救い出す者” として
この世に生まれたのです。
これもキリストと同じでした。
ああ、そして彼の働きを見てください。
モーセは“律法を与える者”であり、
山に登って四十日間とどまり、
律法を携えて下ってきました。
しかし彼のつまずきとなる弱点――
それは“怒り”でした。
彼はその怒りゆえに、
神の掟の石板を砕いてしまったのです。
そこで彼はもう一度、山に登らなければなりませんでした。
これは、あの祭司職が
“やがて死に、過ぎ去らなければならない”
ということを示していたのです。』
13. 『ちょうどイエスが荒野に四十日入られたときと同じです。
そしてイエスが出て来られたとき、
サタンは――モーセの時と同じように――
“弱さの箇所”で挑んできました。
イエスの肉体の弱さは“空腹”でした。
だからサタンはこう言いました。
「もしあなたが神の子であるなら、
この石をパンに変えてみなさい。」
するとイエスは答えられました。
「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」
その瞬間、サタンは悟ったのです。
“相手はモーセではない” と。
彼はまったく別の方――
御言葉そのものを知り尽くしておられるお方
と対峙していたのです。
そして今日、教会が最も知るべきことはこれです――
神の御言葉を知ること。
それを正しく組み合わせ、
あなたの心にしっかりと適用する方法を知ることです。』
14. 『兄弟たちよ――これは私がいつも申し上げていることですが、
今日という日は “イズム(主義・派閥・教えの乱立)” の時代です。
私はこの二年間、創世記をずっと学んできました。
創世記は“はじまり”であり、
すべてが芽生えた“種の章”です。
そして気づいたのです――
今日現れているあらゆるカルト的なものは、
すでに創世記で始まっていた ということに。
例えば……
“形式だけの宗教” はカインから始まりました。
それがノアの子ハムを通して受け継がれ、
ハムの子孫からニムロデが出ました。
ニムロデはバベルの塔を建てました。
バベル(Babel)はその後、
ネブカドネザル王の時代へと続き、
そしてついには黙示録の “バビロン” へとつながっていきます。
あの小さな種が――
エデンの東の門あたりで芽生えたあの流れが、
ずっと、ずっと下ってきて、
この終わりの時代に向けてうねり出しているのです。
あらゆる種類の“イズム”や“カルト”の種は
すべてあの時、あの場所から始まりました。
今、その実が終わりに向けて現れてきているのです。
だからこそ――
私たちはよく見張り、慎重であり、
しっかりと御言葉の上に立っていなければなりません。
今日起こっている事の多くは、
聖書に合わないものばかりです。
ですから私たちは、“聖書” そのものを見つめ、
自分たちがどこに立っているかを確かめねばなりません。
それが、
今週ずっと私がお伝えしようとしてきたことなのです。』
15. 『今夜、教会に対して私が見つける
“最大の問題” は――恐れ です。
みんな、何かに怯えて生きている。
死ぬほど恐れている。
しかし、いったい何を恐れる必要があるのでしょう?
もし人が新しく生まれたのなら、
喜びに満ち、のびのびと生きていいのです。
ほら、ここで歌っていた兄弟たちのように、
あそこで証しをしていた兄弟のように、
ただ “自由” でいいのです!
あなたを傷つけられるものなんて、何ひとつありません。
現在のことも、
未来のことも――
私たちをキリスト・イエスにある神の愛から
引き離すことのできるものは何もないのです。
神が約束しておられるのですから!』
16. 『彼(神)は“選び”によってご自身の者を召されます。
そして神は、ご自分の教会を秩序の中にお置きになりました。イエスはこう言われました。「父が引き寄せてくださるのでなければ、
誰ひとり、わたしのもとに来ることはできない。」あなたが“神のもとに来たいと思ったから”来たのではありません。キリストがあなたを呼ばれたから。神があなたを呼ばれたからです。
そしてイエスはこう続けられました。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てない。 その者に永遠のいのちを与える。」
それは、ただ一週間続く命でも、リバイバルの間だけの命でもなく、
“永遠のいのち” です。そして主は言われました。
「わたしはその人を、終わりの日によみがえらせる。」
ああ、なんということでしょう!もしこれでサタンの船の帆から風が抜けないというなら、ほかに何が抜くのでしょう!「どうしてそんな確信があるのですか?」と、ある人が尋ねます。私はこう答えます。
「イエスがそうおっしゃったからです。 『主がこう仰せられる』――THUS SAITH THE LORD。」イエスが言われたことなら、それで十分です。主が語られたなら、私はただ信じます。ヨハネ5章24節――
これは私の“愛してやまない聖句”ですが、イエスはこう言われました。
「わたしの言葉を聞いて、 わたしを遣わした方を信じる者は、
永遠のいのちを持ち、 裁きに入ることがなく、 死から命へとすでに移っている。」
すると、ある人がこう言います。「兄弟、それはあまりにも簡単すぎますよ、ブラナム兄弟。」』
17. 『どんな人であっても――イエスがキリストであることを心から信じたなら、その人はもう、以前のそのままの人間ではいられません。そんなことはできません。いいえ、絶対にできません。昨夜も申し上げましたが、
酒を飲むこと、タバコを吸うこと、賭け事をすること――
そういった行為そのものが“罪”ではありません。“賭け事が罪” なのではなく、“喫煙が罪” なのではなく、“飲酒が罪” なのではなく、“悪態をつくことが罪” なのではありません。それらは 罪の“結果(属性)” なのです。
人が罪人だから、それらの行為が出てくるのです。もしその人がキリスト者であるなら、そんなものは自然と離れていきます。主はこう言われました。「もし誰かが世を愛し、世にあるものを愛するなら、 その人のうちに神の愛はない。」ですから――あなたは “どちらか” なのです。その中間というものはありません。“半分だけクリスチャン” という人は
一度も存在したことがありません。』
18. 『この前の晩、ある人に尋ねました。
「兄弟、あなたはクリスチャンですか?」
するとその人は言いました。
「ええ、まあ…“そこそこ”良いクリスチャンですよ。」
私は言いました。
「いいえ、あなたは違います。」
“そこそこ良いクリスチャン” なんて存在しません。
酔っていて同時に“しらふ”の人を見たことがありますか?
いませんね。
黒くて同時に“白い”鳥を見たことがありますか?
ありませんね。
同じように――
“罪人でありながら聖徒” なんて人はいません。
あなたは 新しく生まれているか、
生まれていないか。
そのどちらか一方です。
フェンスの上に半分乗った人はいません。
そしてもし、新しく生まれているなら――
あなたは 永遠のいのち を持っています。
あなたの中には、
かつての古いものは何ひとつ残りません。
すべてが過ぎ去り、新しいものだけになるのです。
泉から、同時に苦い水と甘い水が流れることはありません。
木は、その実によって知られるのです。
主は言われました。
「彼らはその実によって分かる。」』
19. 『昔、メソジストの人々はこう思っていました。
「これだ、私たちは“叫べる”んだ! だから私たちは持っているんだ!」
ルターの時代の後、人々は“叫べる”ということで
自分たちは完全だと思ったのです。
私も“叫ぶ”ことを信じていますよ。
けれど、それが“持っている証拠そのもの”ではありません。
それは“持っている結果(属性)”にすぎません。
それから五旬節の時代になると、
人々は“異言を語った”。
そこで彼らは言いました。
「これで分かった、私たちは確実に持っている!」と。
本当にそうでしたか?
今では多くの人が、その考えが違っていたと気づきました。
それ自体が“証拠のすべて”ではないと。
そうでしょう、兄弟!
そして、こう歌われました――
ああ、尊い死にゆく小羊よ
あなたの尊い血潮は
神の贖われた教会すべてが
もはや罪に傾くことのないその日まで
決してその力を失うことはない。
そうです、これこそが“本質”なのです。
“信仰によって、私はその流れ――
あなたの流れ出る傷口が注いだその泉を見たその時から、
『贖いの愛』こそ私の歌となり、
私は死ぬ日まで、それを歌い続ける。“』
20. 『「たとえ私が人の異言も、天使の異言も語ろうとも、
愛がなければ、私は何の益も受けない。
たとえ私がすべての財産を貧しい人々に施そうとも、
愛がなければ、益はない。
たとえ山を動かすほどの信仰があっても、
愛がなければ、何の価値もない。
預言はすたれ、
異言はやみ、
知識も消え去る。
しかし “完全な愛” が人の心に来るとき、
地獄のすべての悪霊でさえ、
その心を揺り動かすことは決してできない。」』
その通りです。
21. 『もし、私の妻が“恐れ”のゆえに私を敬っているのだとしたら、
私は彼女を残して家を離れることが怖いでしょう。
でも、彼女は私を“愛して”います。
彼女は、私が彼女を愛していると知っているからこそ、
私に信頼を寄せているのです。
だから、私がどこかへ出かけるとき、
「ミセス・ブラナム、留守中の規則をここに書いておきます。
他の男を見てはいけません、これをしてはいけません、
あれをしてはいけません……」
などと言い残す必要はありません。
そんな必要はまったくないのです。
彼女は自然に、当然のように、
私を愛しているゆえに私を尊重し、
私も彼女を愛しているゆえに、その愛に信頼している。
それで十分なのです。
私はそのまま出かけて行ける。
それで問題はすべて解決しているのです。
――これこそが、“キリストのために生きる” ということです!
ハレルヤ!
あなたは、心と魂と精神のすべてを尽くして
ただ イエスを愛する。
それだけでいいのです。
そこには“悪”が入り込む余地がありません。
その通りです。
なぜなら、
あなたは死んでいるからです。
あなたのいのちは、
キリストを通して神のうちに隠されています。
そして“聖霊”によって、その中に封じ込められているのです。
さあ、そんなあなたを、
悪魔がどうやって奪うことができますか?
――できません。
決してできません。』
22. 『たとえば“貨物列車の車両(ボックスカー)”を考えてみてください。
荷役の人たちは、その車両に次々と荷物を積み込みます。
ここの皆さんの中にも、
車に荷を積む仕事をしておられる方がいますね。
よくご存じでしょう。
あちらへ何箱、こちらへ何箱、と積んでいきますが、
その車両が “封印” される前に、
必ず“検査官” が来なければならないのです。
検査官は中を見渡し、
すべてがしっかり詰められ、
どんな隙間もなく、
壊れそうなものがないかを点検します。
“目的地まで無事に届く状態かどうか” を確認するのです。
もし緩んでいるものがあれば、
検査官はこう言います。
「これはいけない。出して、もう一度きちんと詰め直しなさい。」
そして、すべてがきちんと固められ、
整えられ、
備えられたと分かったとき――
彼は扉を閉め、
“封印” を押すのです。
そして、その封印は
目的地に着くまで、
誰も破ることができない。
その通りでしょう?』
23. 『これと同じことが、エペソ4章30節に書かれています。
「神の聖霊を悲しませてはならない。
あなたがたは、この聖霊によって
“贖いの日まで” に封印されている。」
もしあなたの中に“ガタガタ鳴る緩んだもの”があるなら、
神ご自身がそれを取り除き、
整え、修理し、
あなたが“封印”される前にしっかりと整えてくださいます。
ここにいるすべての男性、
すべての女性――
もし“聖霊のバプテスマ”をまだ受けていないなら、
その理由はただひとつです。
あなたが “信じていない” からです。
その通りです!
信仰なのです!
今週、私たちはずっと取り上げてきましたね。
アブラハムは“行い”によってではなく、
信仰によって神を信じた と。
その通りです。』
24. 『さて――これは“バプテストの良い教理”ですよ。
「神を信じる」 ということはね。トム兄弟、あなたはバプテスト教会から来られたんですよね。バプテストはいつもこう言います。
「ただ神を信じなさい」と。私もそうでした。……ええ、あれは “出てくるにはちょうど良い教会” ですよ。あっ、ああ……すみません、そう言うつもりじゃなかったんです。ちょっと待ってくださいね。
私はバプテストに何か恨みがあるわけじゃありません。
バプテストには、本当にたくさん良いところがありますから。』
25. 『でも、こう考えてみてください、兄弟。
私は先日ラジオで、
ある立派なバプテストの牧師が
使徒の働き19章を避けようとしている のを聞きました。
その人は言いました――
「アポロはイエスを知らなかった。
だからもう一度バプテスマを受けなければならなかったのだ。」
……いや、違います!
アポロは確かにイエスを知っていました。
そして彼は、聖書によってイエスこそキリストである
ということを証明していたのです。
アーメン。
そしてパウロは彼らにこう言いました――
「あなたがたは信じたとき、聖霊を受けましたか?」
その通りです。』
26. 『神はアブラハムに“約束”をお与えになり、
アブラハムはその約束を“信じた”。
その信仰が彼に“義”と認められました。
しかし神は、その“約束のしるし”として
割礼 をお与えになりました。
ハレルヤ!
あなたが神を信じ、
信仰によって救いを受け入れるとき、
神は“聖霊”を
その約束の“封印”として
あなたにお与えになります。
聖霊は“神の賜物”です。
その通りです。
聖霊は“心に割礼を施す”お方です。
余分な肉――
古い性質、古い習慣、
自己、プライド、愛されない心――
それらを切り捨て、
あなたをキリスト・イエスにある全く新しい被造物に作り変えます。
アーメン!
そのとおりです。
これは“あなたが自分で成し遂げること”ではありません。
神の賜物 なのです。
そして、あなたが正しく“信じる”とき、
神はその聖霊をあなたに与えられます。
すべては “信仰” によるのです。
ただ――
ここで“信仰”とは何かを
はっきりさせねばなりません……。』
27. 『ちょうど、私が“25セント硬貨”を持っていて、
パン一斤が25セントだとします。
この25セント――
これはパンそのものではありません。
けれど、この25セントが
“パンを買うもの”なのです。
(――コインを落とす音)
……あとで拾いますよ。
これは、たまたまアフリカの“半ペニー硬貨”だったので、
よく跳ねたんでしょう。
さあ、いいですか――
25セントそのものがパンではない。
けれど、その25セントがパンを“購入する”のです。
同じように、
信仰とは、あなたが神に対して持つものです。
そして、
あなたがその“信仰”をもって神を認めるとき、
神はその信仰への応答として、
あなたに“聖霊”をお与えになるのです。
聖霊は、
あなたの“心”と“耳”に割礼を施し、
不信と頑なさを切り取り、
あなたをキリスト・イエスにある
“新しい被造物”に造り変えます。
その通りでしょう?』
28. 『さて、神がイスラエルを救い出そうとしておられた時――
私たちはこう見ました。
モーセは自分の息子を連れて、
イスラエルを解放するために向かっていましたが、
その子は“割礼を受けていなかった”のです。
そこでツィポラは鋭い石を取り、
その子の包皮を切り取り、
それをモーセの前に投げつけて言いました。
「あなたは私にとって血まみれの夫です。」
この場面、
皆さん、じっくり考えたことがありますか?
モーセには“かんしゃく(怒りの性質)”がありました。
それが最後には、
彼を約束の地に入れなかった原因にもなりました。
そして神は、
彼を荒野の裏側へと下げ、
同じく気の強い妻 を彼に与えられたのです。
おそらく――
あの荒野の裏側で、
二人はなかなかのやり取りをしていたに違いありませんね!
そうは思いませんか?
神は、人をどうやって“へりくだらせる”か、
よくご存じなのです。
ですから神は、
モーセを荒野へと送り返し、
あの小さな気の強い女性――ツィポラを与えました。
彼女は包皮を切り取って彼の前に投げつけ、
「あなたは血まみれの夫です!」と言いました。
ああ――
神はモーセを整え、
あの“怒りの性質”を取り除く方法を
よく知っておられたのです。
さて、ここまでです。』
29. 『それから彼らは進んでいき、
モーセは“しるしと不思議と奇跡”を行いました。
そして――見てください!
ああ、今、何かが私の心に強く触れました!
ヤンネとヤンブレ(エジプトの二人の魔術師) が、
そこに立って、
モーセとアロンがしたのと同じ種類の奇跡を行った のです。
彼らはモーセについて来るように見えました。
――“まねごと”です!
兄弟よ、
今日この世界は“まねごと”で満ちています。
教会の中でさえ、“肉的な比較”でいっぱいです。
さて、ここを締めくくるために言いますが、
先日ある“有名な聖書教師”がラジオで言いました。
「神のいやし(Divine healing)は悪魔から出たものだ。
悪魔がいやすのだ。」
私は言いたい。
悪魔がいやしを行ったという聖書を、
どこか一つでも見つけてみなさい。
悪魔が“いやしを約束した”
そんな箇所が一つでもありますか?
神は詩篇103篇3節でこう言われました。
「わたしは主、
あなたのすべての病をいやす者である。」
そしてイエスはこう言われました。
「もしサタンがサタンを追い出すなら、
その国は分裂してしまう。」
つまり悪魔にはそれは できない のです。
彼は自分自身を追い出すことはできません。
ですから――
いやしがどこから現れようとも、
その源は “ただ神おひとり” なのです。』
30. 『そして、あの魔術師たちを見てください。
彼らは“ぶよ(小さな虫)”を呼び出すことはできましたが、
取り除くことはできませんでした。
彼らには、いやしはできなかったのです。
奇跡の“まねごと”はできても、
いやしだけは決してできませんでした。
いやしは、ただ神だけに属するものだからです。
そしてモーセが“腫れ物(できもの)”を宣言したとき、
エジプトの魔術師たち自身が腫れ物だらけになった のです。
彼らは言いました。
「これは神の指です!」
ハレルヤ!
私はこの“神の指”について思い巡らします。
もし神が その指 で盲人の目を開かれるなら――
この“神の指”が、
病をいやし、死人をよみがえらせ、
あらゆる奇跡を行われたなら――
では、失われた羊を探しに行く時、
神はどうされたのでしょうか?
その時、
神は指を使われませんでした。
いいえ――
“肩” を使われたのです。
失われた羊を見つけたとき、
主はその羊を肩に担ぎ上げ、
家へ連れ帰られました。
ハレルヤ!
なんという“安全”でしょう!
なんという“確かさ”でしょう!
失われた羊が、
全能の神の “指” ではなく、
“肩の上” に担がれているのです。』
31. 『よくご覧ください。神がモーセを整え、備えを終えてから――
しるしを遣わされた のです。そして、その“最後のしるし”――
(昨夜扱いましたが)それは 死 でした。私たちはこう見ました。
それは今日の“教会に起こる霊的死”の型です。これが今の時代の最後の災いです。教会が乾き、枯れ、吹き飛ばされつつある。その通りです。
私たちは本当に恐ろしい時代に生きています。かつて、あの“古き良き時代の聖徒たち”――本当に勝利を持っていた人々――その信仰が失われつつあり、教会は死の時代に向かって弱っている。なぜでしょうか?血が戸口から取り除かれてしまったからです。主は言われました。「わたしが血を見た時、 わたしはあなたを過ぎ越す。」』
32. 『さあ、彼らは“打たれた岩”のところへ上って来ました。よく見てください。彼らが岩に来たとき、彼らは“必要”を抱えていました。
そこでモーセは“杖”で岩を打ちました。昨夜はそこまでを扱いましたね。
モーセは岩を杖で打ちました。その杖とは――神の“裁きの杖” でした。彼が岩を打つと、岩の左側に“裂け目”が入りました。イスラエルの子が“飢えた”時、彼らはその裂け目のところへ行きました。すると――
そこに蜂が巣を作っていたのです。そして彼らは “岩から蜂蜜” を得ました。つまり、彼らが必要としたものはすべて “岩の中” にあったのです。
その岩は教会について来ました。そしてその岩こそ、キリスト・イエスでした。彼らが“渇いた”とき、彼らはその岩から飲みました。“飢えた”ときは、その岩から食べました。どこへ行っても――その岩は彼らについて来たのです。そして今もなお、その岩は教会に付き従っているのです!
キリストこそ、荒野で彼らと共にあった “岩” でした。よくご覧ください。その同じ岩が……』
33. 『イエスがエルサレムに入られたとき、人々は言いました。「彼ら(群衆)を黙らせなさい。黙らせるんだ!」しかしイエスは言われたのです。
「もし彼らが黙るなら、この石たちが叫び出す。」なぜでしょうか?
“頭石” が石の間を転がりながら来られたからです。何かが起こらずにはいられなかったのです!石が叫ぶほどの出来事が!長いあいだ血の漏れに苦しんでいたあの女は、その“岩(キリスト)”に語りかけました。
すると岩は“いやし”を生み出しました。ラザロが死んでいたとき、
マルタは 岩(キリスト)に語りかけました。すると岩は“よみがえり”を生み出しました。弟子たちが海の上で、嵐に巻き込まれ、小さな舟が栓のように波に揺さぶられ、真っ暗な海の真ん中で翻弄されていたあの時……』
34. 『ある婦人が、少し前に私にこう言いました。
「ブラナム兄弟、
イエスはただの普通の人間でしたよ。
確かに預言者ではありましたけど、
あなたはイエスを“神”として扱おうとする。」
私は答えました。
「イエスは神でした。
神であるか、そうでなければ“偽り者”だったかのどちらかです。」
その婦人は言いました。
「いいえ、イエスは良い人でした。
賢い哲学者でした。
でも神ではありえません。
“神性”なんてなかったんです。」
私は言いました。
「イエスは神性をお持ちでした。
もしただの人間なら“性による誕生”であったはずです。
しかしイエスは“処女懐胎”によって生まれた。
だからこそ、イエスの血は“神の血”だったのです。
聖書は“私たちは神の血によって救われた”と言っています。」
彼女は言いました。
「イエスは預言者以上ではありませんでした。
神ではなかったことを、聖書で証明してみせます。」
私は言いました。
「聖書で証明できるなら、どうぞ。」
彼女は続けました。
「聖ヨハネ11章、
イエスがラザロの墓に来た日のことです。」
私は言いました。
「覚えています。」
彼女は言いました。
「聖書は“イエスは涙を流された”と書いています。」
私は言いました。
「確かにそうです。
それがどう関係するのですか?」
すると彼女は言いました。
「泣くことができるなら、神性があるはずがありません。
“泣ける存在”は神ではありえません。」』
35. 『私は彼女に言いました。
「いいですか、奥さん。
イエスは“神なる人(God-Man)”だったのです。
あの日、ラザロの墓のところで涙を流されたとき、
泣いておられたイエスは“人”でした。
しかし――」
私はさらに続けました。
「しかし、
そのお体をまっすぐに引き起こし、
落ち着いた声で、
『わたしは復活であり、いのちである』
と宣言されたそのとき、
そして
四日も死んで腐敗し、
蛆が skin worms が体を食っていたラザロに
ひと言呼びかけられたとき、
“腐敗は自分の主人を知った” のです。
四日間死んでいた男が
その場で立ち上がり、
再び生きたのです。
あれが“ただの人間の声”だったはずがありません。
あれは “神” が語っておられたのです!」
その通りです。』
36. 『イエスは“人”でした。
あの夜、山から降りて来られたとき、
何か食べ物を探して
一本のいちじくの木を見て回られました。
お腹がすいておられたのです。
飢えられたイエスは“人”でした。
しかし――
五つの小さなパンと二匹の魚を取り、
五千人を満腹にされたとき、
それは“人間以上”でした。
あれは“人の中におられる神”でした。
その通りです。
また、こうです。
イエスは“人”でした。
あの小舟で眠っておられたとき、
(さきほど言ったように)
まるで“栓(ストッパー)のように”
波に揺さぶられ、
押し流され、
跳ね上げられながら、
海の一万の悪霊たちが
「今夜こそ沈めてしまう」と誓ったあの時……
イエスは疲れきって、
身動きもできない“人”でした。
しかし――
その方が舟のへりに足をかけ、
『静まれ! 沈まれ!』とお命じになった。
すると風も波も、その方に従った。
それは “人以上” でした。
あれは神でした。
その通りです。
さらに、カルバリーでは
イエスは“人”として死なれました。
苦しみ叫び、
人として息を引き取られました。
しかし――
イースターの朝によみがえられたとき、
イエスは“ご自身が神である”ことを証明されたのです。
その通りです。
死から立ち上がられたお方――
それこそが神です!』
37. 『詩人がこう歌ったのも当然です。
生きて、主はわたしを愛し、
死んで、主はわたしを救い、
葬られて、わたしの罪を遠くへ運び去り、
よみがえられて、永遠にわたしを義とし、
いつの日か帰って来られる――
ああ、なんと栄光の日!
まことに、イエスは “神なる人(God-Man)” でした。
神は御子のうちにおられ、
ご自身と世を和解させておられたのです。
人々はイエスを
“魔術師”“占い師”“悪霊の力による者”
“ベルゼブブ”“悪魔”――
ありとあらゆる非難を投げつけました。
しかし、
イエスは“インマヌエル”、
神が人と共におられる――そのお方でした。
神はイエスのうちに住み、
世界をご自身に和解させておられたのです。
(このテーマは明日の質疑でも扱います。
明日さらに詳しく続けましょう。)
さあ――ここまでとします。』
38. 『こうして彼らは 打たれた岩 に続いて進んでいきました。
何か必要が生じるたび、
彼らは 岩のもとへ行きました。
ところが――
あれほどの祝福や奇跡を見た後でさえ、
彼らはなお“つぶやいた”のです。
そして彼らは
カデシュ・バルネア と呼ばれる場所へ来ました。
さて、ここを少し学んでみましょう。
カデシュ・バルネアとは、
当時の“世界の裁きの座”でした。
これは民数記13章に書かれています。
聖書に印をつけたい方は、どうぞ。
この場所には“裁きの座”がありました。
あなたが学びの中で前の章も読めばよいでしょう。
(私たちは今、3〜4日のリバイバルで “高い所” だけしか扱えませんから、
一節ずつはできません。)
しかし、この“裁きの座”は非常に重要なのです。
そこには 大きな湧き水(大泉) があり、
その周りには無数の小さな泉が広がっていました。
大きな泉から流れ出る支流(スプリング)です。
カデシュ・バルネアとは、こういう巨大な泉でした。
そしてこれは――
完全に “教会の型” です。
なぜなら聖書は言います。
「さばきは神の家から始まる」(ペテロ第一 4:17)
教会こそ “裁きの座” なのです。』
39. 『イスラエルはカデシュに集まりました。
そのときモーセは民数記13章1節の言葉を伝えました。
「主はモーセに告げて仰せられた。
イスラエルの子らのために、
わたしが与えるカナンの地を探らせるため、
人々を遣わしなさい。
父祖の各部族から一人ずつ、
その部族の長を選んで送りなさい。」
そこで神は、
“十二人を遣わすこと” を定められました。
それぞれの部族から一人ずつ。
彼らはカナンの地へ渡り、
その地が良い地であるかどうかを探るための者でした。
そこで斥候たちは召され、派遣されました。
ダン族から一人、
アシェル族から一人、
順々に、
部族ごとに一人ずつ選ばれ――
こうして十二人が揃いました。』
40. 『これはまさに、
今日の教会の完全な型 です。
私たちの“旅路”そのものです。
私は信じています。
今日、教会はちょうど
“カデシュ・バルネア=裁きの時” に立っている。
どうか神が私を助けてくださいますように。
これを語るにあたり、
この真理があなたがたの心の奥深くまで
はっきりと届くように と願います。
――“偵察者(エクスプロイト)を送り出す時”です。
思い出してください。
彼らはここまで来ました。
なぜなら、神が彼らに約束を与えたからです。
そして道中ずっと、
しるし、奇跡、不思議――
神の御業が続いてきました。
そして今――
彼らは
いよいよ“境界線(ボーダーランド)”の
すぐ手前に立っていたのです。』
41. 『そして私は信じます。今夜、私たちは“境界線(ボーダーランド)”に立っています。この頃、集会や予定していたミーティングをなぜあれほど中止しなければならなかったのか――私はずっと思い巡らしていました。
しかし、はっきりと確信していることがあります。教会が“携挙(ラプチャー)”を迎えるには、“携挙することができる信仰(ラプチャリング・フェイス)”が必要だということです。ところが私たちは今、“神のいやし”の信仰でさえ十分に持ちきれていないのです。まして、身体を一瞬にして変え、命を吹き返らせ、天へ引き上げられるほどの信仰――それを持つにはどうしたらよいのでしょうか。それでも私は信じています。今まさに、その道を進んでいる“教会”があるのです。それは“生ける神の力”が働く教会です。その教会では、こちらで御言葉が語られれば、あちらで稲妻のように現れ、語られた言葉が瞬時に実現する――そんな力が働きます。
そしてその“教会”とは――心理学でもなければ、形だけの宗教でもなく、
作り物の信仰でもありません。本物の、真実の、純粋な、油注がれた聖霊の教会、神に召し出された者たちの群れです。アーメン。』
42. 『さあ、彼らは カデシュ・バルネア に立っています。こう言いました。
「渡って行け。あの地は、何百年も前に神が私たちの先祖に与えられた地だ。私たちはアブラハムの子孫なのだ。神は私たちを安全に導いてくださった。」エジプトからわずか四十数マイル。ほんの数日の旅 で彼らはこの“境界線”――カデシュまで来ました。ところが、こう覚えておいてください。不信仰のゆえに、彼らは四十年も荒野をさまようことになったのです。不信仰!よく見てください。私は今、“たとえ(パラボリックに)”として教会のことを話しています。昔の出来事が“自然の型”であったように、今日の教会はその“霊的な成就”なのです。旧約に起こったことは、
新約では より大きく、より明確に拡大されて 起こります。』
43. 『さて、カデシュ です。そこでモーセは言いました。「さあ、あなたがたは向こうへ渡って“偵察して来なさい”」しかし、この派遣はモーセの思いつきではありません。神ご自身が十二人を遣わされたのです。神は言われました。「行って、あの地が良い地か悪い地か、わたしたちが勝てるかどうか、何を見たか帰って来て報告せよ」そして十二人が行きました。
彼らは、あの巨大なぶどうの房を切り取りました。(ラハブの物語へつながる部分ですね。)そしてその“実”を持って戻ってきました。──ここからが“レポート”です。十二人のうち十人 が言いました。「ああ、あの民は恐ろしく強い!私たちはとても敵わない!」民数記13章27節──こう報告しました。「確かにその地は乳と蜜の流れる地です。これはその実です(神が言われた通りです)。しかし!そこに住む民は強く、町々は城壁で囲まれ、しかもアナク人がいます。アマレク人もヒッタイトもエブス人もアモリ人も山地に住み、カナン人は海岸やヨルダンの沿岸に住んでいます……」そして民は恐れ、心を失いました。
しかし──✦ そこで カレブ が立ち上がりました(ハレルヤ!)
カレブは民を静めて言いました。「今すぐ登ろう!あの地を占領しよう!
必ず わたしたちは勝てる!」ああ、私はこの言葉が大好きです!
だが、他の十人はこう叫び返しました。「いや、無理だ!あの民は私たちより強い!」そして彼らは“悪い報告” をイスラエルに持ち帰りました。
「あの地は住む者を食い尽くす恐ろしい地だ。そこにいる者は皆、巨人だ。彼らの前に立ったら、わたしたちはバッタのように見える……」
これが十人の報告です。しかしヨシュアとカレブは言いました。「いや、私たちは勝てる!必ずできる!」なぜでしょうか?神がその地を“与える”と約束しておられたからです。その信仰、その勇気──私は本当に大好きです。』。
44. 『あの十二人のうち、十人が“不信の報告”をしました。そして、教会も同じ状態になったのです。教会はルター時代を通り、メソジスト時代を通り、ペンテコステ時代を通り抜けて――今、この境界線に立っています。
そして今や、フルゴスペル(聖霊派)の人々でさえ“ divine healing(神のいやし)” を堅く否定し、贖いの中にいやしは含まれていない、とまで言うようになった。友よ、ここまで来ると、本当に恐ろしい状況です。
“昔ながらの信仰(オールドタイム・リリジョン)”についても彼らはこう言います。「あれは昔の話だ。もうあんなものは無理だ。現代には合わない。もっと“現代的なアイデア”が必要だ。」そしてこう続けます。
「若者をつなぎ止めるには、教会にシャッフルボードを置き、卓球台を置き、ゲームを用意しなければならない。」
45. 『兄弟姉妹よ、もしも私が 教会でカード遊びをしなければ
人々を集めておけない ような時代になったら、私は福音の説教をやめます。なぜなら、それはもう福音が力を失った ということだからです。
兄弟よ、今日わたしたちに必要なのは、昔ながらの、単純でまっすぐな福音、聖霊の力を伴った“シンプルな御ことば”の宣教なのです。
主は言われました。「人の子が上げられるなら、わたしはすべての人を
自分のもとに引き寄せる。」その通りです、兄弟。』
46. 『人々はこう言います。「あの使徒たちがしたようなことを、
今の私たちができるはずがない。」しかし私たちは 終わりの日に生きている のです。この時代に神はこう約束されました。
「わたしはすべての肉なる者にわたしの霊を注ぐ。」ハレルヤ!
私たちは今、道の終わりに立っています。そして私は神に感謝します。
今この時代にもカレブやヨシュアのような人々 がいることを。
彼らは言います。「行こう!向こう側へ渡ろう!そして“証拠”を持ち帰ろう!」(ハレルヤ!)
ああ、なんと素晴らしい地でしょう。なんと豊かな地でしょう!
彼らが持ち帰った“ぶどうの房”は、あまりに大きく、重く、
二人でよろめきながら担がねばならなかったほどでした。
なんという土地!なんという恵み!私は神に感謝します。
古い形式主義や鎖のようなしきたり、力を失った教会の死んだ状態から
抜け出してきた人々 がいることを。ハレルヤ!
彼らは一歩を踏み出し、カナンの地へ渡り、豊かな“ぶどう”を食べているのです。あまりに良い祝福で、説教壇でよだれが出そうになるほど です。
(ハレルヤ!)これは“古き良き時代の福音”そのものです。
ペンテコステの日にペテロが飲んだ“ぶどう酒”――
聖霊の満たしに酔ったあの喜び!神の力が教会を包んだ、あの力!
ハレルヤ!カデシュ・バルネア――私たちはできる!
必ずできるのです!』
47. 『ある人が私にこう言いました。「あなたは本気で、昔の人たちが受けたように、今の私たちも聖霊を受けられる と言うんですか?」私は答えました。「その通りです、受けられます。」すると彼は続けて尋ねました。
「どうしてそんなことがわかるんですか?」私は言いました。
「わかるとも!なぜなら 私自身が受けた からだ!ハレルヤ!それで十分だ!」』
48. 『昨夜、私たちは実に美しい“型(類似)”を見ました。イスラエルの子らが荒野の旅路へと渡っていった――あれは 私たちの巡礼の旅の完全な型 です。
私たちも“カナン”から出てきたのです。私は 杭を抜き、天幕をたたんで 出てきました。(あなたはどうですか?)
あの “ニンニクと鍋料理” の匂い、あの罪の世界の悪臭を置き去りにして!杭を抜き、天幕を畳み、ヨルダン川を渡ったのです!
ハレルヤ!そして イエス・キリストの血の紅海 が、あらゆる“古い習慣”を溺れさせたのです。タバコも、アルコールも、
污れた習慣も、あのエジプトの監督たち(罪の力)と同じように、
血の海の中で沈められ、死んだのです。彼らが海に浮かんでいたように、
私たちの古い罪も血の海に沈んで浮かんでいるのです!
ハレルヤ!だからこそ、私たちは喜び叫び、跳ね回るのです!』
49. 見てください、モーセが何をしたか。彼は手を上げ、御霊の中で歌いました。そしてミリアムはタンバリンを取り、踊り出し、跳ね上がりながら
神を賛美しました。イスラエルの娘たちも彼女に続き、踊り、賛美し、叫びました。ハレルヤ!彼らは渡りきったのです。あの古い督役ども(罪の力)はみな海の中で死んでしまい、彼らは振り返って言いました。
「ああ、もう二度と私たちを悩ませることはない!」なんということ!
橋は全部焼き払われ、もう後戻りはありません。さあ、旅路を進むだけです!そして彼らは言いました。「私たちに“あの地”を取れるだろうか?」
答えはひとつ。「もちろん、取れますとも!」「なぜか?」
「神が、そう仰せられたからです!」
50. そして覚えていてください。
神は、彼らの必要をすべて満たすと約束されました。
昨日もお話ししましたね。
「でも、どうやって満たされるんですか?」
――私は知りません。
「もしかしたら、どこかから小麦粉でも運んでくるんでしょうか?」
エジプトには、もう何ひとつ残っていないのに。
その“小麦粉”がどこから来るというのです?
ああ、なんとまあ!
でもね――
それは私の知ったことではありません。
51. ある時、誰かが私にこう言いました。「なあ、あのエリヤの“鳥の話”って、本当に信じてるのかい?」私は言いました。「もちろん信じています。」すると彼は、「本当に、あの預言者がケリテの谷のほとりに座って、カラスに食べ物を運ばせたって信じてるのか?」と言いました。
私は言いました。「ええ、信じています。」「じゃあ、カラスが本当に食べ物を運んだなんて、どうして分かるんだ?」私は言いました。
「聖書がそう言っているからです。それで十分でしょう。」
すると彼はまた言いました。「牧師さん、一つ聞いていいですか?
カラスがその“サンドイッチ”を、いったいどこで手に入れたと思います?」私は言いました。「そんなことは知りませんよ。でも、カラスが持ってきて、エリヤが食べた――それだけは分かっています。」その人は言いました。「まあ、あんたたちは興奮しすぎだよ。」私は答えました。
「いや、そうじゃありません。どこから来たのかまでは言えませんが、
どこかから“来る”んです。神が持って来てくださる。私たちはいただく。
(ハレルヤ!)そして、喜びが湧き上がるんです!」
52. それがどう起こるのか――私は分かりません。神がただ、それを送ってくださる。そして私は、それをパッとつかむんです。つい数分前にも、私はひと握りいただいて、「ごくん」と飲み込みました。今もまだ胸の中をくすぐってますよ。いやぁ、うまいんです!「興奮しすぎるな」と言わないでください。私は狂ってなんかいません。そう呼ばれたことはありますが、私は狂っていません。もし仮にそうだったとしても——どうぞそのままにしておいてください。私は幸せなんです。ええ、そうです。
今、私は本当に“霊的に満ちて”います。ええ、まったくその通りです!
53. ご覧なさい、彼らを。「どうやってやるんだ?どうしたらいいんだ?」――そう言っているんです。しかし、神は天からマナを降らせて、彼らを養われたではありませんか。その通りでしょう?確かにそうです。
そして彼らは、それを拾って食べた。私たちはその型をすでに見てきました。あれは、今日の私たちの霊の食物の完全な型でした。そのマナは決して途切れませんでした。彼らがエジプトを出て約束の地に向かう旅の間、
毎晩、毎晩、絶えず天から降ってきたのです。そして、弟子たちが“エジプト”を出た瞬間、同じように聖霊が降りました。
ペンテコステの日、マナが降ったのと同じ天から、
聖霊が “激しい風のように” 下って来られた。その部屋全体を満たし、
炎のような、分かれた舌が彼ら一人ひとりの上にとどまった。
そして彼らは、そこから出ていき、叫び、踊り、よろめき、
酔っ払った人のようになり、声を上げ、よだれまでたらしながら、
聖霊の力に満たされていたのです!
54. あなたは、家に帰ってくる酔っぱらいの人を見たことがありますか?
いやぁ、道路の両側をふらふら歩きながら、
「おい、見知らん人よ!」なんて、誰にでも話しかけて、
何ひとつ気にしていないでしょう。
「肉に従わず、御霊に従って歩む者には、いっさいの罪の咎めがない。」
ローマ8章1節にそう書かれています。
それなんです。
あれが “帰ってくる姿” なんですよ。
今度は、聖霊の衝撃を受けてふらついている人を見てごらんなさい。
――それこそ、神から天より降ってきたマナによるものです。
そしてそのマナは、
あの日から今日に至るまで、ずっと降り続けているのです。
55. 私たちは知っています。あのオメル――いっぱいに満たして保存された器――それは、祭司が聖所に入るたびに、
“最初に降ったそのままのマナを一口食べるため” のものでした。では、このマナはどれくらい続くと約束されたのでしょうか?
昨夜の学びを思い出してください。ペテロはこう言いました。
「悔い改めなさい。そしてあなたがた一人ひとり、罪の赦しのために
イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けなさい。
そうすればあなたがたは聖霊の賜物を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、遠くにいるすべての人々にも、
主なる神が召される者すべてに与えられたものだからです。」――そう言ったのです。聖霊は、あの最初の日に降った聖霊と、今夜もまったく同じ聖霊です。では、私たちはそれを受けられるのでしょうか?
はい、受けられますとも。アーメン。
56. 教会はカデシュまで来ました。では――どうするのですか?
さあ、ここが分かれ道です。彼らは言います。
「もしあの“ホーリー・ローラー”って呼ばれているあの宗教を受け入れたら、お母さんに家から追い出されてしまいます。」
そうです、そこが “あなたのカデシュ” です。
一人ひとり、皆さん全員が、カデシュに立たされるのです。
そこへ来て、こう言うのです。
「どうしよう…。あっちに踏み出したら、家族に嫌われるかもしれない。」
でも聞いてください。できるのです。なぜなら、神があなたに約束しておられるからです。主はこう言われました。
「わたしは平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来た。父と母、夫と妻、兄弟姉妹をも分けるために来た。
自分の者たちを捨ててでもわたしに従わない者は、わたしの弟子にふさわしくない。また、鋤に手をかけて後ろを振り向く者は、神の国にふさわしくない。」
そのとおりです。
57. 兄弟よ、私ははっきり言います。これは、牧師のところへ駆け寄って握手することでも、頭に水を数滴ふりかけてもらうことでもありません。
その程度で済むものではないのです。そうです。兄弟よ、これはただ祭壇に歩み出て、コミュニオンを受けて、また席に戻って座る……そんな儀式の話ではありません。これは、“全部を売り渡し”、“自分に死に切り”、
“古き良き、森の中のリバイバルのような、天の青のように澄み渡り、罪を打ち砕く宗教”を受けることなんです。それは、表面だけ白く塗る“ホワイトウォッシュ”ではなく、あなたを“真っ白に洗い清める”のです。ハレルヤ!その宗教は――あなたを清め、あなたの内側の汚れを焼き尽くし、
こすり落とし、消毒し、まったく新しい人に造り変えます!
アーメン!これは昔ながらの“ササフラスの味”みたいなものですが、
兄弟よ、これは本当に骨の髄までしみ込みますよ。
さあ、少し味わってみなさい。そうです。これこそが、試練の日もあなたを支える力です。アーメン!ああ、もう少しで叫びたくなるほどです。
(これは少し大きすぎる言い方かもしれませんが…)
はい、そうですとも!
58. 兄弟よ、これを思うと……なんという“確かさ”でしょう!
神ご自身がそう仰せられたのです。
「私たちはそれを取ることができるのか?」
もちろん、できます!
主ははっきりと約束されました。
「終わりの日に、わたしはわが霊をすべての肉なる者の上に注ぐ。
しるしと不思議を現す。」
ハレルヤ!
主がそう言われたのです。
神が約束されたのです。
私たちは今、まさにカデシュに立っています。
さあ、前進しましょう! 取りに行きましょう!
誰かがすでに向こうへ渡り、
あの大きなぶどう房を担いで戻ってきたのです。
だから私は知っています——
あの地は、良い地です。
そうです、兄弟姉妹。
さあ行きましょう、あの実を取りに!
アーメン、その通りです!
59. 教会は、文句を言い始め、もぞもぞし始め、あらゆることでつぶやき始めました。本当なら、もし教会が主の声に聞き従っていたなら、神は何年も前にすでに教会を出発させておられたはずです。ところが人々は、論争し、言い合いをし、つぶやき回り始めたのです。メソジストたちは、スポルジョンの時代に古き良きリバイバルを経験しました。あの頃、神の賜物が現れ始め、聖霊が動き始めていました。しかし教会は、その動きをあっという間に壊し始めてしまったのです。その結果、教会はその日からずっと荒野をさまよってきました。ナザレン派、ピルグリム・ホーリネス派、あれやこれや……分裂に分裂を重ね、今日では、何が何だか分からない大きなごちゃごちゃの塊のようになってしまった。そして人々はこう思ったのです:「大きな学校を建てて、どこかの神学を教えればうまくいくだろう」と。
60. 昨日も言いましたが、あれはまるで“葬儀屋の霊安室”のようです。
あちこち行ってみても、冷えきっている!
中に入ると、霊的な温度計は「氷点下100度」 という感じです。
ある時のこと、そう遠くない昔のことですが、
田舎から来た一人の小柄なおばあさんが、その教会へ入ってきました。
首まで上がった長いワンピースを着て、
素朴そのものの姿で、息子に連れられて来たのです。
息子は、そんな母親が恥ずかしくてたまらなかった。
そのおばあさんはドアのところまで来て、
「おはようございます、長老さん!」
と言って、喜んで中へ入ろうとしました。
すると息子が小声で、
「お母さん!お母さん、お願いだから黙っててよ……」
と言ったのです。
息子は、いわゆる“上流ぶった大きな教会”のメンバーでしたから。
するとおばあさんは言いました。
「あら、まあ!神様の御家に来て、神様を褒めたらあかんのかい?」
彼女には、それが“場違いなこと”だなんて、これっぽっちも思わなかったのです。
61. 兄弟よ、はっきり言わせてもらいましょう。
あの小さなおばあさんの名前は、この世が作る “フーズ・フー(有名人名鑑)” の中には載っていなかったかもしれません。多くの人が、そこに自分の名を載せることを誇りにしていますが——彼女は違いました。
しかし、彼女の名は “子羊のいのちの書” にしっかりと記されていたのです!私は、自分の名がどれだけ地上の名簿に載ろうが、
そんなものよりも——
子羊のいのちの書に名が書かれていることのほうが、どれほど価値があるか!ハレルヤ!本当の“誰が誰なのか(Who's Who)”を決めるのは、
この世の名簿ではありません。子羊のいのちの書に名があるかどうか——
これこそが、本当の “Who's Who” なのです。
62. そのおばあさんは、すたすたと中へ入っていき、腰を下ろしました。
そして説教者が語りはじめました。「さて、主イエス・キリストは、地上に来られて罪人を救われた——」すると彼女は即座に叫びました。
「アーメン!ハレルヤ!その通りや、兄弟さん!」会衆は、がちがちに固まったガチョウのように、みんな首をキィーッと鳴らして一斉に振り向きました。“なんだ、なんだ、誰だあれは……?” というように。
説教者は咳払いして、メモを読みながら話を続けようとしますが、
もう調子が狂ってしまっています。「こほっ、こほっ……ええ、ええ……失礼。えー……その、私が申しましたように、主イエス・キリストは地上に来られ——」するとまた彼女は立ち上がらんばかりに言いました。
「ハレルヤ!その通りや、兄弟さん!栄光あれ!」たまらず、会場係(アッシャー)が歩み寄ってきて、そっと彼女の肩をトントンと叩きました。
「奥さん……静かにしていただかないと、外に出ていただくことになりますよ。」……ああ、なんということでしょう!ハレルヤ!
63. こうして教会は、“預言者の学校” のようなものに入り込んでしまったのです。(その通りです!)教師を育てると言いながら、彼らに“死体保存用の薬”のようなものを注ぎ込んで……もともと霊的には死んでいるのに、その上からもっと“死んだ教理”を流し込むんです。「奇跡の時代は終わった」「心からの宗教なんてもう存在しない」
——そんな死んだ神学を、です。そんな状態を見ると私は、南部のある黒人のおじいさんを思い出します。彼はいつも聖書を抱えて歩いていました。すると誰かが言いました。「おい、なんでそんな聖書を持ち歩いてるんだ?」おじいさんは答えました。
「わしは、この本を“信じとる”んや。」「でもお前、一文字も読めんやないか。」「読めんでもええ。わしは“信じとる”。
表紙から裏表紙まで全部信じとる。表紙(kiver)も含めてな!」
「どうしてそんなに信じられるんや?」「ここに Holy Bible(聖なる聖書)って書いとるからや。」読めなくても、彼は信じていた。
文字なんて関係なかった。男が言いました。
「お前、もしこの聖書に何か書いてあったら、何でもするんか?」
「主がわしにせい、と言われたら、何でもする。」
「もし“この壁を飛び越えろ”と言われたらどうする?」「飛ぶ。」
「でも、お前、その壁に穴も何もないのに、通れると思うんか?」
すると彼は、まったく迷わずこう言いました。「もし主が“飛べ”と言われるんやったら、わしが着地する時には、主が穴を開けてくれとる。」
——その通りなんです、兄弟!ハレルヤ!
まさに真理です。神が“飛べ”と言われるなら、
あなたがそこへ着く瞬間には、神ご自身が“穴”を用意してくださっているのです。心配する必要なんてありません。
64. 神学校の神学!ああ、なんということだ!
彼らは何をしてしまったのか分かりますか?
本来 “上の部屋(アッパールーム)” で待ち望むべきところを、
代わりに “食堂(サパールーム)” を作ってしまったんです。
古い雄どりを煮込んで、50セントで皿に盛りつけて売り、
そのお金で牧師に給料を払おうとする……。
兄弟よ、はっきり言いましょう。
もしあなたが忠実に什一献金をし、神の言われた通りにしていたなら、
こんな“スープ・サパー”なんて必要ありません!
(ブラナム兄弟が壇を パーン! と叩いた感じです)
アーメン!
(今、油注ぎまで飛び散ったように感じました。)
兄弟よ、聞いてください。
神は、神の御心のど真ん中を歩む“動く教会”を求めておられるのです。
その土台は、ただ一つ—— “主はこう仰せられる”。
それなのに彼らは、あの“上の部屋で待ち望む”ということを完全に取り除いてしまったのです。
聖霊の代わりに、神学を代用品として置いてしまったのです。
ある者はこう言います。
「ええ、私たちはこれを信じています。」
「私たちはあれを信じています。」
——なぜ信じるのです?
聖書にそう書いてあるんですか?
どこにも書いていません!
65. ある人がこう聞いてきました。
「この前ここらで、神父が女の人と駆け落ちして、そのまま結婚したって話、あれどう思うんだ?」
私は言いました。
「彼には結婚する権利がありますよ。
私にも、あなたにも結婚の権利があるように、
彼にも同じ権利があるんです。
それを禁じるものなんて、聖書のどこにもありません。」
すると、カトリックの若者が言いました。
「本当にそうなのか、ビリー?」
私は答えました。
「真実だ。」
彼は言いました。
「じゃあ聖書で見せてくれ。」
私は言いました。
「いいですよ。聖書にはこう書いてあります。
『結婚は、すべての人にとって尊いもの』——ハレルヤ!
パウロはこう言っています。
『男は、それぞれ自分の妻を持ちなさい』と。」
その通りです!
私はさらに言いました。
「“独身を強要すること”はローマのやり方であって、
地獄の底なしの穴と同じくらい、聖書的根拠のない話です!」
ハレルヤ!
私は神の御言葉を信じます。
何かを信じるなら、私は “主はこう仰せられる” と書かれたこの御言葉を信じます!
66. 昔、旧約時代にも同じようなことがありました。
“預言者の学校”の教師たちが、大勢集まってあれこれ教えていた——
あの時代の神学を、延々と教え込んでいたんです。
そこへ、彼らは本物の預言者のところへやって来ました。
その預言者は彼らに言いました。
「ではこうしよう。野菜を集めてきなさい。
大きな釜をかけて、みんなで“煮物”を作ることにしよう。」
するとその若い説教者のひとりが外へ出て行き、
“野生のつる”にぶら下がっている、青くて毒のある“野生のひょうたん”を、
ひざいっぱい抱えて帰ってきたのです。
兄弟よ、聞いてください。
エンドウ豆と“毒のひょうたん”の区別もつかないような説教者——
そんな教師が何を教えられるというんですか!
とにかく彼はそれを全部、釜の中へ放り込み、
ぐつぐつ煮始めました。
しばらくすると、
その“料理”をみんなの器に盛り付けたのですが……
最初のひと口を食べた瞬間、叫び声が上がりました。
「預言者よ! 釜の中に死がある!」
67. 今日の問題も、まさにこれなんです——
“釜の中に死がある”!
あの古くて冷えきった神学校、
形式ばかりで敬虔さの欠片もない場所で教えられている“人間の神学”。
そんなものを必死にかき混ぜて、
それを“霊の食べ物”として人々に食べさせている……。
その結果、人々は死んでしまうんです!
キリストから引き離されてしまうんです!
兄弟よ、今必要なのは、
人間の学びではなく、聖霊のバプテスマ——命を与える御霊です。
ハレルヤ!
ああ、今わたしは自分の体が二倍に大きくなったように感じます。
それほど真実なんです、兄弟!
あなたが何かを煮ているのは確かです。
釜に何かを入れて“料理”している。
でも——
あなたはいったい何を煮ているのですか?
エンドウ豆と“毒のひょうたん”の区別さえつかない説教者……
まさに今日の多くがそうではありませんか!
その通りです。
はい、兄弟よ、それが事実です。
そして人々は叫ぶのです。
「預言者よ! 釜の中に死があります!」
68. エリシャは“本物の預言者”でした。
人々が大騒ぎしているのを見て、こう言ったのです。
「心配するな。そんなに騒ぎ立てる必要はない。」
アーメン。
なぜなら、そこには “二倍の分け前を受けた男” がいたからです。
ハレルヤ!
彼はすでに向こう側——カナンの地へ渡り、
そして戻ってきた者でした。
“二倍の分け前” を持っていたのです。
だから、問題が起こったとき、
何をすれば良いのか分かっていた。
エリシャは言いました。
「わしに“ひと握りの粉(ミール)”を持って来なさい。」
そしてその粉を釜の中に投げ入れ、こう言いました。
「さあ、もう大丈夫だ。
好きなだけ食べなさい。」
――なぜ “粉(ミール)” だったのでしょう?
この“ミール”は、
主の前に揺り動かして捧げる “穀物のささげ物(ミール・オファリング)” のためのものでした。
そして、その粉は “石臼(バー)” で挽かれるのですが、
その臼は 一粒一粒をまったく同じ細かさになるまで挽く のです。
つまりその“捧げ物”は キリストの型 だったのです。
どの粒も同じ。
どの粒も完全。
昨日も今日も、そして永遠に同じお方——
イエス・キリスト。
だからブラナム兄弟は叫ぶのです。
「鍋の中に死があるなら、
そこに“キリスト”を入れなさい!」
ハレルヤ!
うわぁ……栄光!
ハレルヤ!!!
69. 私が初めて“聖霊を受けた人”を見たのは、ひとりの黒人のおじいさんでした。大きくて、長いオーバーコートを着ていて、年をとりすぎて歩くのも大変なほどで、人に支えられながら壇上に上って来ました。
若い説教者たちが、“地上で今何が起きているか” といった話を並べている中、その老人はゆっくり立ち上がり、
ヨブ記 をテキストに取りました。「わたしが地の基を築いた時、おまえはどこにいたか。朝の星々がともに歌い、神の子らが喜び叫んだ時——」
そして彼は言いました。「皆さんは、私たちが新しい宗教を持っていると思っているんやろ。違うんや、兄弟!私はただ、“新鮮な(brand-new)・古き良き宗教(old-time religion)” を持っとるだけなんや!」
しばらくすると、そのおじいさんに聖霊がとらえたのです。
まっすぐに立つのもやっとだった彼が、急に体を伸ばし、
かかとを“カチン!”と打ち合わせながら叫びました。「栄光! ハレルヤ!」そして言いました。「兄弟よ、こんな狭い壇上では、わしは説教しきれん!」そう言うと、
ゆっくり壇上から降りていきました。
私はその時、心の中でこう言いました。
「兄弟よ、もし聖霊が80歳のあの老人にあれほどの力を与えるのなら、
私には一体どれほどのことをしてくださるんだろう?
わたしも欲しい!
私はそれを欲しいんだ!」
ハレルヤ!
そう思った私は、
どれほど嬉しかったことか。
その後すぐに、
サビだらけの膝でトウモロコシ畑にひざまずき、
必死にこう祈ったのです。
「主よ、私にもその聖霊を下さい!」そうです。
70. 昔のバディ・ロビンソンのように、一緒にいて、聖霊が欲しかったのです。 「神に栄光を!聖霊をそんなにひどく欲しかったので、どうしたらいいのか分かりませんでした。」 彼はラバで「ある朝、古いアレックと一緒にトウモロコシを乾かしていた」と言いました。 「アレックはトウモロコシを踏み続けました。私は彼に腹を立て、あそこを走り、彼の耳を一生懸命噛みました。アレックは私を蹴った。」 「私は行き、降りました。私は彼を見ました、彼はそこに立っていました。」 「私は古いアレックを一生懸命に噛んだ」と言った。 「私は彼を見渡して、 『アレック』と言いました。」と彼は言いました、「 『アレック、ごめんなさい。 「私はこれ以上それをしません。」と言いました。「アレックは周りを見回して言った、「あなたはそこに着いたものよりも多くの宗教を得ることはない、あなたは私を再びそのように扱うだろう。」 そうです。 彼は言いました、「私はトウモロコシの列に降りて言った、「良い主よ、私の魂の切妻の端にたくさんの知識を与えてください。私が口に歯を持っている限り、悪魔と戦うのを手伝ってください、そして私が死ぬまで彼をガムで叩いてください。」と彼は言いました。「主よ、あなたが私に聖霊を与えないなら、あなたが地上に戻ったとき「ここに骨の山が横たわっているのを見つけるでしょう。」 彼はそれを手に入れました。 アーメン。 そうです。
71. あなたが本気で、心から神の前にひれ伏すなら、
神はあなたを向こう側へ連れて行ってくださいます。
神学校の説教者たちが何と言おうと関係ありません。
私たちは聖霊を受けることができます。
なぜなら、神がそう約束されたからです!
これこそがカルブが信仰を置いた場所、
ヨシュアが信仰を置いた場所だったのです。
神は言われました。
「それはあなたのものだ。
わたしはすでにそれをあなたに与えた。」
ハレルヤ!
私はこの言葉が大好きです。
「わたしは“与えるだろう”」ではない。
「わたしは“すでに与えた”」です。
御言葉はこう言います。
「神が召された者を、神は義とし、
義とされた者を、神はすでに栄光にあずからせた。」
その通りでしょう?
そうであれば、兄弟よ——
天において私たちはすでに、
キリスト・イエスと共に“栄光を受けた者”なのです!
ハレルヤ!
それが真理です。
あとは、
悪魔に好きなだけわめかせておきなさい。
好きなだけ騒ぎ、暴れさせておきなさい。
私たちにはこれがあります。
「主はこう仰せられる。」
ああ、なんという力!
なんという確信でしょう!
72. さあ、ちょっとここから場所を移して、
別のところを説きましょう。
あまり同じところばかりで興奮しすぎてもいけませんからね。
ああ、なんと素晴らしいことでしょう!
しかしイスラエルはその後、
また文句を言い始め、
不平を言い、
騒ぎ立て始めました。
そこで、民数記の21章あたり——
5節あたりから見てみましょう。
彼らはまたつぶやき、
不満を言い、
反抗しはじめて——
ついに“水の供給”が止められてしまったのです。
兄弟よ、これが今夜の教会にも起きている問題かもしれません。
あまりにも多くの不平、
あまりにも多くの文句、
あまりにも多くのつぶやき——
そのせいで“水の供給”が遮断されてしまっているのです!
73. 皆さんご存じのように、私は世界中をあちこち旅しますが、
その中でもいちばん“寝るのに最悪な場所”があります。
それは——砂漠です。
砂漠では、そこにあるもの全部が“とげ”を持っているんです。
どんな小さな草でも、みんなサボテン。
どこに寝転んでも刺される。
なぜでしょう?
水がないからです。
水があれば柔らかくなる。
水が豊かにあるところには、
とげも、いばらも、アザミも生えません。
兄弟よ、言わせてください。
乾き切った教会ほど、とげだらけの場所はありません。
聖霊もなく、
救いもなく、
神の癒しもなく、
神の力もなく、
賛美もなく、
喜びもない。
そんな教会ではいつもこうです——
「彼女があれをした。」
「彼がこれをした。」
「あの人はどうした。」
とげ、とげ、とげ!
兄弟よ、必要なのはただ一つです。
“聖霊の大いなる注ぎ”(ハレルヤ!)
——それが心を柔らかくしてくれるのです!
アーメン!
ブラナム・タバナクルにだって、
その“ひと浴び”が必要なんです。
その通りです。
ああ、私は今、とても楽しいんですよ。
ヒギンボザム兄弟、服もぴったりなんです。
襟もちょうどいいし、シャツも気持ちいい。
しかも今日は、妻も来ていませんから……
私は遠慮なく思いきり喜べる!
(彼女に言わないでくださいよ。)
「あなた、そんなに喜んでるんですか?」って?
もちろんです!
どうして喜ばずにいられますか?
キリストが私を救い、
聖霊で満たし、
天国行きのチケットをくださったんですよ!
だから私は、こう言いながら進んでいくんです。
「さあ、みんな——あなたも一緒に来なさいよ!」
アーメン! その通りです。
74. ある時のことを思い出します。
ひとりの男が、
雌鳥を抱かせようとしていました。
卵はちょうど数が揃っていたのですが——
ひとつだけ足りなかった。
「さて、どうしたものか……」と彼は考えました。
そこで彼は外へ出て、
“アヒルの卵” をひとつ拾ってきて、
それを雌鳥の下にそっと滑り込ませたのです。
やがて雌鳥は、すべての卵をかえしました。
ヒヨコも生まれたし……アヒルも生まれた。
みんなして納屋の庭を歩き回るのですが、
その小さなアヒルは、どう見ても“場違い”でした。
まるで“ホーリー・ローラー(聖霊で自由に喜ぶクリスチャン)”が
形式ばかりの冷たい教会にいるみたいに。
アヒルはこう歩くんです——
「クワッ、クワッ、クワッ、クワッ!」
ああ、その姿が何とも面白い。
ある日、雌鳥は納屋の裏に回り込み、
草むらでバッタを見つけ、こう言いました。
「コッコッコッコッ!」
するとヒヨコたちは、一斉に走ってきます。
でも、あの小さなアヒルは——
その“呼び声”がまったく分からない。
「クワッ? クワッ?」としか言えない。
砂埃をあげても、
アヒルにとってはただ鼻がむずむずするだけ。
彼は、どう見ても“変わった存在”で、
そこでは完全に“場違い”だったのです。
まさに、
冷たく形式ばかりの教会にいる、
本物の“聖霊に満たされた信者”と同じです。
みんなが政治の話や、
あれがどうした、これがどうしたと話していても——
聖霊に満たされた魂はこう思うのです。
「私は神のことが知りたいんだ!」
75. けれどね、
あの“雌鳥”——つまり古い教会と同じなんですが——
ある日、大きな間違いをしてしまったのです。
そうなんです。
その雌鳥は、またいつものように納屋の庭の奥のほうへ歩いて行きました。
すると、
あの小さなアヒルが急に頭を上げたんです。
そして、
[ブラナム兄弟が鼻をすするように]
水の匂いを感じたんです。
アーメン。
彼の“本来の性質”が、そこにあったのです。
彼は水の匂いを嗅ぎ分けて、
こう叫びました。
「ガッー、ガッー、ガッー」
そうです。
彼はもともと“ニワトリの性質”ではなく、
“アヒルの性質”を持っていたのです。
だから水を感じ取るやいなや、
一直線にその方へ向かっていった。
下のほうには小川が流れていました。
雌鳥は必死に叫びます。
「コッコッコッコッ! コッ! コッ!」
でもアヒルは、
「ガァー ガァー!」
そう叫びながら、
まっすぐに水に向かって走っていく。
もう止めることなんてできません。
76. まさに、神の御国に生まれた人はこうなんです。
古い教会がこう言うでしょう。
「そんな聖霊派に行くんじゃない」「あれはおかしい」「やめなさい」と。
でも、その人の内側ではすでに——
「ガァーガァー! ガァーガァー!」
(=“行きたい! あそこへ行きたい!”という魂の鳴き声)
水の方へ行かずにはいられないんです!
ハレルヤ!
「信じて、バプテスマを受ける者は救われる。」
あなたは“そんなの狂ってる”と言うかもしれない。
でも兄弟よ、私たちは喜びで満ちているんです!
ガァーガァー! ガァーガァー! ガァーガァー!
あのアヒルの子たちが、水のにおいをかいだ瞬間、
一斉に水へ向かって走り出したでしょう?
どうしてか?
それは 彼らの性質(ネイチャー) だからです。
止められない。
内側から “あれだ、水だ!” と呼ばれているんです。
77. そして、神があなたの心の中におられるなら——必ず、あの昔ながらの“聖霊の集会”へと呼ばれるんです。ハレルヤ!うわぁ… 神に栄光! その通りです、兄弟。私には“性質”で分かります。
ハレルヤ!もしあなたの“性質(ネイチャー)”がまだ変えられていないなら、あなたはまだ、あの古い雌鳥(ひどり)の「コッコッ、コッコッ」という呼び声を聞き続けるでしょう。でも——もしあなたが“本物のアヒル”なら、一度、水の匂いをかいだらもう止まらない!「ガァーガァーッ!」もう“まっしぐら”です。水へ向かって走り出す“雛ガモちゃん”みたいに、誰も止められないんです。ハレルヤ!
78. ヨシュアが言いました。
「ああ、私たちは行けます!」
カレブも言いました。
「私たちはできる!」
人々が尋ねました。
「どうして、そんなふうに言えるんだ?」
彼らはこう答えました。
「神がそう言われたからだ。
だから私たちは渡ることができる。
必ずやり遂げる!」
そして、彼らは出て行ったのです。
約束の地へ向かい、
聖霊の“証拠”を手にして帰ってきました。
その地は本当に良い地でした。
ぶどうは豊かに実り、
その房は見事なものでした。
私は嬉しくてたまりません、皆さんはどうですか?
ああ、なんという恵みでしょう!
もう、クローバーを食べる馬がヨダレをたらすように(笑)、
いただいた恵みを味わって、
ただただ喜ぶばかりです。
はい、主の恵みを心から楽しませていただきましょう!
79. 世間が何を言おうと、
私には関係ありません。
何の影響も受けません。
私を立ち上がらせ、
私の魂を救い、
この国じゅう、さらには諸国の王たちにまで祈るために
私を遣わしてくださった——
その神こそ、この“古き良き”聖霊様なのです。
私は一度たりとも、これを恥じたことがありません。
王の宮殿に座ったときでさえ、
私ははっきり言いました。
「私は聖霊のバプテスマを受けました」 と。
ハレルヤ!
その通りです。
そして、あの王たちでさえ、
飢え渇いているのです。
魂が飢え、心が渇いているのです。
──さて、ここで見てください。
イスラエルの民がつぶやき始め、
不満を言い続けた結果、
水の供給は止まってしまいました。
80. (さあ、急ぎましょう。今、何時ですか?
おっと、すみません、遅れてしまいました。
つい長く教えてしまったようで……いや、まだ本当の“教え”には入っていませんでしたね。
冗談です、どうぞそのまま座ってください。
ここだけ、どうしても言いたいことがあるので、少しだけ読みましょう。)
――民数記21章5節からです。
よく注意して聞いてください。
5節
民は神に向かって、またモーセに向かって言いました。
「なぜ私たちをエジプトから連れ出し、この荒野に導き出したのか。
ここには水もない!
それに、こんな“軽いパン”にはもう飽き飽きだ!」
天使の食べ物で満ち足りていたはずなのに、
彼らは言いました。
「もう嫌だ。
エジプトのあのニンニクと黒パンが食べたい!」
つまり、また肉鍋の国・エジプトに戻りたいと言ったのです。
6節
すると主は、“燃えるような毒蛇”を民の中に送られ、
蛇は民を噛みつき、
多くの者が死にました。
7節
民はモーセのもとに来て言いました。
「私たちは罪を犯しました……
主と、あなたに逆らったからです。
どうか主に祈って、この毒蛇を取り除いてください!」
そしてモーセは民のために祈りました。
8節
主はモーセに仰せられました。
「あなたは燃える蛇を造り、一本の竿の上に掲げよ。
それを仰ぎ見る者は、誰であれ、生きるであろう。」
9節
モーセは青銅で“蛇”を造り、それを竿の上に掲げました。
そして、蛇に噛まれた者がその青銅の蛇を見上げると――
生きたのです。
81. ああ……明日の夜の集会に入る前に、この小さなポイントだけは触れておきたいんです。 「青銅の蛇」 について。
昨夜は打たれた岩で終わりましたね。そして今日のこの青銅の蛇もまた、イエス・キリストご自身を表しているのです。「えっ、蛇がイエスを表すんですか?」そう思うかもしれません。――はい、その通りです。なぜ蛇なのか?蛇は“すでに裁かれた罪”を象徴しているからです。創世記3章14節で、神はエデンの園において蛇を裁かれました。蛇はもとは美しかった。まっすぐに立ち、野の獣の中で最も賢い存在だった。
しかし神はその蛇に裁きを下し、生涯、腹ばいで這う者としてしまわれた。「裁きはすでに下った」――それが蛇です。そして――
キリストは“私たちの罪が裁かれた姿”そのものです。
アーメン。私の罪、あなたの罪。本来なら地獄に落ち、正しく罰せられるはずのその罪。しかし、キリストがその“裁きを受ける場所”に立ってくださった。だから青銅の蛇はキリストを表していたのです。罪を背負ったお方——裁きを受けられたお方——私たちの身代わりとなってくださったお方。ああ、なんと麗しい啓示でしょう。
82. 青銅で造られた蛇——その「青銅」は“神のさばき(聖なる裁き)”を意味します。蛇そのものは、すでに申し上げた通り、
「すでに裁かれた罪」 の象徴。そして青銅は
「神の義なる裁きが下る場所」 を示すのです。たとえば青銅の祭壇。
あの祭壇は青銅で造られていましたね。その上で犠牲の動物が焼かれたのです。(出エジプト記17章にあります。書いている方はメモしておいてください。)儀式はこうでした。
動物を連れて来て、まず洗う(これは完全にバプテスマの類似)。そして手をその頭に置き、自分の罪を告白する。そして喉を切り、血を流し、
その肉は、青銅の祭壇の上で焼かれて捧げられた。その祭壇こそ、
罪が拒まれ、断ち切られ、焼き尽くされる場所。正しい神が要求される
完全な分離、完全な断罪。そしてその上に臨む火は、
神の聖なる“裁きの火”。ハレルヤ!
――その 神の聖なる裁き がまさしく イエス・キリストの上に下った のです。
83. ご覧ください——
エリヤの時代にも、再び「神の裁き(神的審判)」が現れました。
人々が神から離れきってしまった頃、
エリヤは山に上って祈りました。
そして王の前に進み出て、こう宣言したのです。
「わたしが言うその日まで、天から露さえ降りない。」
その通り、3年6か月のあいだ、
地には露ひとつ落ちませんでした。
そして、ついに決着をつけるときがきました。
エリヤは言いました。
「さあ、誰が本当の神かを証明しよう。
火によって答える神、
その神こそ真の神である!」
——その通りです。
今夜も、私が言いたいことはこれです。
「火によって答える神——聖霊と火をもって答える神。
その方こそ、唯一まことの神である!」
アーメン。
84. さて――人々が天から火を呼び下したあと(神が火で応え、いけにえを焼き尽くしたあと)、エリヤは山に上りました。人々が空を見上げると、
空は銅のように固く閉ざされていました。これは何を表していたのでしょうか?神の「裁き(神的審判)」が、国全体を覆っていたのです。
そして兄弟姉妹よ、もし今、私たちが周りをよく見るなら——
再びその「青銅の色」が見えてくるはずです。神的な裁きが、国々に迫っている。裁きが近いのです。荒野での 火の蛇 も、まさに 「神の裁き」そのものの象徴 でした。
85. さて、よく見てください。
モーセは、青銅の蛇を掲げたあの竿を高く持ち上げました。
そして——
その蛇を“見上げた者”は皆、
蛇にかまれても癒されたのです。
なんという美しい象徴
でしょう、
今夜のイエス・キリストの姿そのものです。
主ご自身が言われました。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、
人の子も上げられなければならない。」
ここが重要です。
もしあなたが病んでいるなら、
“何があなたを癒すか”がここに示されています。
イエスはこう言われました——
「モーセが荒野で青銅の蛇を上げたように、
同じように人の子も上げられなければならない。」
理由は同じ。
ただし、より深い二重の意味を持って。
「彼は私たちの背きのために傷つけられ、
その打ち傷によって、私たちは癒された。」
イスラエルの民は、
神とモーセに逆らい、不平を言い続け、
そして“蛇にかまれた”のです。
でも、あの青銅の蛇には
二つの効力がありました。
罪の赦し(神に背いたことに対する象徴的な赦し)
病の癒し
そしてイエス・キリストは——
まさに同じ二重の目的のために十字架に上げられました。
罪を赦し、
病を癒すためです。
86. その道の次に現れたのが……
バラムでした。雇われ預言者、金で動く預言者です。
彼はイスラエルを止めに下って来たんです。
ああ、皆さん!
この男のことは明日の夜、もっと詳しく扱います。
しかし、あの出来事を思ってください——
なんと“口のきけない雌ろば”が、
バラムを叱らなければならなかった!
そうです。
神のみこころから外れ、
心は金に向いてしまった“説教者”。
そんな彼を、
神は一頭の “愚かな雌ろば” を通して諭されたのです。
もし神が、
口もきけない雌ろばを通して語ることができるなら、
なおさら人間を通して語ることができないはずがありません!
アーメン、確かにその通りです。
87. 見てください。
あの、かわいそうなモーセ——長い年月を通して仕えてきたモーセです。
ここで私は、人間が神の前でどれほど“無”であり、同時にどれほど“力を持つ”存在になり得るかをお見せしたいのです。
コラや反逆した者たちの件でもそうでした。
よく注意して聞いてください。
神はモーセに言われました。
「モーセよ、よけていなさい。わたしはこの民を全部滅ぼし、
そしておまえを通して新しい大いなる国民を起こす。」
なんという言葉でしょう。
しかしその時——
モーセは神の前に飛び出し、
自らを “神と民の間に橋のように” 立たせ、
こう叫んだのです。
「神よ、どうか私をお取りください!
この民の代わりに、私を!」
そして——
神は、その男を越えることができなかった。
なんという事実でしょう!
これこそ、神の前に立つ“一人の聖徒”に宿る力なのです。
よく見てください。
同じことが、あのヒゼキヤ王の時にも起こりました。
預言者イザヤが上って行き、こう宣告した時です:
「家を整えよ。あなたは死ぬ。
これは “主の御告げ” である。」
88. なんという“気まずさ”だったでしょう。
たった数時間のうちに、イザヤは引き返さなければならなくなったのです。
なぜなら——
聖霊が彼に会われたからです。
ヒゼキヤは顔を壁に向け、激しく泣きながら祈りました。
「主よ、どうかお聞きください。
私はあなたの前を、まっすぐな心で歩んできました……。」
涙が彼の頬を伝って流れました。
神はすでにその死を“宣告しておられた”のに、
しかし祈りが状況を変えたのです。
そこで神は預言者に言われました。
「引き返して、彼にこう告げよ……」
89. 見てください、モーセがどれほどの“勇士”だったかを!
生涯の終わりの、その最後の時間に——
あの恐ろしい性質である“怒り”が、またしても彼を捉えました。
そしてついに、
神の代わりに自分を栄光づけてしまったのです。
そのため、神は彼にそれを許されませんでした。
(もちろん、これはすべて“前もって示された影(象徴)”でした。)
まさに今日の教団・組織と同じです——
メソジスト、バプテスト、ペンテコステ…ほかのすべて。
彼らは神ではなく“自分自身を”栄光づけて賞賛しているのです。
90. 数日前のことです。
ある大きな教会のひとつが、
「自分たちだけが池の中の唯一のアヒルでいたい」——
そんな理由で、その集会を“拒否”したんです。
そこで私は言いました。
「私はあなた方の協力を必要としていません。
“屍のあるところに、鷲が集まる”のです。」
——その通りでした。
アーメン。
あなたが真理を語りさえすれば、残りは神がなさいます。
ところが彼らはこう言いました。
「私たちこそが“中心的な教会”だ。」
私は答えました。
「あなた方が何であろうと関係ありません。
私たちの人生で“中心となるお方”は神です。」
そうです。
必要なのは神です。
教会が何と言うかではありません。
歴史家の方なら皆ご存じでしょう。
倒れた教派が“再び立ち上がった”例は一度もありません。
神はその教団を棚に置かれるのです。
ルター派も、メソジストも、長老派も、バプテストも——
そしてペンテコステも。
みな同じ道を通りました。
神はそれらを棚の上に置かれるだけです。
91. そして——もしあなたが私を“神のしもべ(預言者)”と信じてくださるなら、どうかこの言葉をよく聞いてください。私は今、この瞬間の感情ではなく、これまでに主から与えられてきた“霊感(インスピレーション)”に基づいて語ります。——神の御国には、どの教団(組織)も “教団全体として” 入ることはありません。そうではなく、神はそれぞれの教団から “最良の穂(cream of the crop)” を選び出し、聖霊で満たし、栄光へと引き上げられるのです。アーメン、その通りです。
92. 聖書はこう予告しています。最後の教会時代は “ラオデキアの教会” の時代であり、ぬるま湯のように冷めた状態になる、と。
まさに今日の教会は、その地点にまで下りきってしまいました。
その通りです。少し手を叩いたり、ちょっと声を上げたり、
椅子を蹴って跳びはねることはできるかもしれません。しかし——
本当に純粋で、聖く、混じり気のない、“聖別された生活” を生きるということになると、夜と昼ほどの隔たりがあるのです。その通りです。
今日必要なのは、昔ながらの “自己に死ぬ” 経験です。
祭壇に戻り、倒れるまで祈り、また戻り、また戻り、
自分が死ぬまでそこに留まること。“死んだ人” は、この世のことなど何も感じません。ハレルヤ!……ああ、またその話を続けてしまいそうですね。でも、兄弟よ、どうか聞いてください——
93. 神は、この“年老いたしもべ”モーセをどれほど大切に扱ってこられたことでしょうか。
ある人が私にこう言ったことがあります。
「ほら見ろ、あなたが“神”と呼ぶ存在は、
自分のしもべを見捨てたじゃないか。」
——と。
けれど違うのです。
モーセの生涯は 40年ごとの周期 で進みました。
彼は40歳で召しを受けたが、兄弟たちに拒まれた。
それから40年間、荒野で羊を飼った。
80歳のとき、神は彼をイスラエルの救出へと遣わされた。
そして約束の地の近くまで来たとき、
彼は 120歳 でした。
それでもなお、
若者のようにしっかり歩き、
視力さえ衰えていませんでした。
——本当にその通りです。
しかし……
あの岩の前で、神ではなく“自分自身”を栄光づけてしまった。
神はこう言われていたのです。
「岩に“語りかけなさい”。
打ってはならない。
語りなさい。」
(岩は一度しか打たれてはならない“象徴”だったからです。)
94. ところがモーセは、怒りに火がついてしまった。そして岩のところへ走り下り、神が「語れ」と命じられたのに、岩を打ってしまった。すると水は出ませんでした。さらにもう一度、彼は岩を叩きつけ——そこで水が流れ出ました。彼は叫びました。「反逆者どもよ!わたしとアロンが、この岩から水を出さねばならんのか!」しかし、神はその預言者に力を与えておられたため、その言葉に“応じざるを得なかった”のです。けれど、この出来事は神のご計画(象徴体系)全体を乱してしまいました。
キリスト(岩)は 一度だけ 打たれるべきお方。二度はありません。
今、私たちは岩を“打つ”のではなく——岩に“語りかける”だけで、
そこから水(いのちの供給)が流れるのです。なぜなら、岩はすでに一度、打たれたからです。
95. そして、その日の朝のモーセの姿……
ああ、この情景を思うと、胸が締めつけられます。
神はモーセにこう言われました。
「モーセよ、会衆に別れを告げなさい。
わたしは今日、お前を少し高いところへ呼び上げる。」
モーセはその言葉を悟っていました。
長い白いひげ、
顔のまわりに流れる白髪、
そして涙でかすむ老いた目。
彼は自分の会衆をじっと見渡しました。
——何度も彼らは不平を言い、
——何度も彼は身を挺して彼らを守った。
そのひとりひとりを見つめると、
胸が張り裂けそうだったでしょう。
そして、彼は山へ向かって歩き始めました。
山の中腹に差しかかると、
彼はふり返り、
ゆっくりと手を振って別れを告げました。
さらに高く登り、
とうとう山の頂上に着きました。
その時は 4月。
春の空気の中で、
モーセは約束の地をじっと見つめました。
ああ……どれほど彼は、
あの地へ渡りたいと願ったことでしょう!
胸が痛むほどに。
あのユダヤ人たち——
どれだけ彼を悩ませたとしても、
どれほど彼が彼らのために立ちはだかったとしても——
彼は彼らと共に約束の地に入りたかったのです。
頬には涙が流れ、
モーセはもう一度ふり返り、
人々に別れの手を振りました。
「さようなら。
あなたたちの年老いた牧者は、
もうここから去ります。」
そう言わんばかりに。
そして再び、
彼は約束の地を見つめました……。
96. もし私が、モーセが立ったあの場所に立って、あの景色を眺めることができたなら!もし主が許してくださるなら、あと数か月のうちに、
私はあの山に立ち、彼らが渡ったその場所を見下ろしたいと願っています。先日、ある映画(フィルム)を見ました。私のキャンペーンに参加した約40名の兄弟たちが、実際にあの場所へ行き、その様子を撮影していたのです。彼らがヨルダン川を渡った時、皆が叫び、喜び、イスラエルの子らが登ったという川岸の茂みを引きちぎらんばかりの勢いでした。
そこは、イエス様がバプテスマを受けた場所。そして、その牧師たちは……服のまま全員、川に飛び込み、互いにもう一度バプテスマを授け合ったんです。全員が、です!ああ兄弟よ、そこには“何か”が動いている。
心の奥を揺り動かす“何か”があるんです。私たちは特別な時代に生きています。彼らは車に戻っても、しばらく走ると、その地を思い出してはまた興奮しだす。昔、バディ・ロビンソンが言ったように、「この車、すぐ止めろ!」と言って車から飛び降り、その場をぐるぐる走り回って叫び始めたのです。「栄光あれ、主にハレルヤ!!」そして再び車に飛び乗り、
「さあ、走らせてくれ!」と言ったそうです。そうですよ。
みんな、本当に堪えきれない喜びの中にいたんです。
97. もし私が、あのモーセが立った岩の上に立ち、
約束の地を見渡すことができたなら!
モーセは、あの地へ渡りたくてたまりませんでした。
そして振り返り、
自分の会衆に向かってもう一度、ゆっくりと手を振りました。
長いひげの先から、涙がぽとぽとと落ちていく。
彼の最期の時が近づいている――そう感じられました。
袖口のところまで脈が打ち、
あの老練な神のしもべの腕を
脈がゆっくりと押し上げていくようでした。
兄弟よ、言わせてもらいますが、
ちょっと“バプテスト風”とは違いますよ。
彼は失われたのではありません。
絶対にそんなことはない。
神はご自分のしもべを見捨てることはありません。
袖の中を波打つように脈が上がり……
やがて脈が静まっていく。ゆっくり、ゆっくり。
そしてそのうち、
彼の目はかすみ始めました。
しかしその視線は、
なおもあの“向こう側”、
約束の地をしっかりと見つめていたのです。
ああ、なんと彼は、あの地へ渡りたかったことでしょう!
胸が張り裂けそうでした。
98. そして、いよいよこの世を去ろうとしたその瞬間――
ふと彼が横を見たとき、
そこに “岩” が立っていた。
主ご自身が、すぐそばにおられたのです。
それだけで十分でした。
モーセはその“岩”の上に、そっと身を移しました。
その瞬間、御使いたちがやって来て、
彼を優しく抱え、運び去っていきました。
そして――
そこから約八百年後。
モーセは、今度は本当に“約束の地”に立っていました。
エリヤのそばに並び、
イエス様と語り合っていたのです。
神はあなたを見捨てません。
決して、決して見捨てません。
99. いつの日か、私も道の終わりにたどり着きます。
私は今、四十三歳。
身体もあちこち傷んできました。
二十年、説教しながら、
氷を割って川に入り、
冷えきって動けなくなるほど人々をバプテスマしてきました。
何度も食べずに、眠らずに、
ジャングルにも行き、
病気にも命の危険にもさらされてきました。
あとどれほど生きられるか、私には分かりません。
でも、もし主が遅らせてくださり、私がもっと長く生き、
本当に老人になったなら――
髪はわずかに残り、肩に垂れ、
家系の者たちのように、老いて手が震えるでしょう。
そして、
数々の戦いをくぐり抜け、
仲間たちも皆、先に栄光へと旅立ち、
私ひとりが、その川のほとりに立つ日が来たなら。
水の音が押し寄せてくるのを聞きながら、
震える手で杖につかまり、
私はこの“古い剣”――神の言葉を
永遠という鞘に静かに収め、
兜を脱ぎ、
地面にそっと置き、
そして手を高く上げたいのです。
「主よ、いかだを押し出してください。
今朝、私は川を渡ります。
主よ、渡ってゆきます。」
その時も、主は私を見捨てられません。
決して、決して。
100. そしてこの地上にいる間、光が与えられているうちは、
私は説き、祈り、願い、歌い、
神の国のためにできる限りのことをすべてします。
やがて、私の魂がこの肉体から離れはじめ、
ゆっくりと持ちあがっていくその瞬間――
もし振り返って、自分が残してきた足跡を見下ろすなら、
私は願うのです。
その足跡が、
「時にその砂に足跡を残す(Footprints on the sands of time)」
――そう言えるような場所に、
正しく刻まれているように、と。
101. では、頭を垂れて祈りましょう。
テディ、少しピアノのところへ行ってくれますか。
天の父よ。ああ、この大きな喜びの時を思うと、なんと幸いでしょう。
主よ、私は少しばかり我を忘れてしまうのかもしれません。
ただ、聖霊が私の魂を満たしてくださるので、どうすることもできないのです。内側で何かが私を捕えて離しません。主よ、本当に感謝いたします。心の中の “洗い桶” も “どぶ溝” も、全部きれいにしていただいて、
聖霊が自由に流れ込めるようにしてくださったことを。ホースがねじれて水が止まらないように、救いの水が、神が望まれるどんな時にも
勢いよく流れ込めるようにしてくださったことを。祈りつつ整えます。
ちょうどエリヤがヨシャパテに言ったように――「溝を掘れ。石も、木切れも、切り株も全部取り除け。もうすぐ水が流れてくるからだ」と。
102. ありがとうございます、主よ。あなたは今夜ここにおられました。
そして私は、あの古き預言者モーセのことを思います。神よ、どうか彼の勇ましい魂を祝福してください。あの山の上に立ち、約束の地を見渡していたあの時のモーセ…。主よ、私たちも今夜、同じ方向を見つめています。私自身のために願うことはただひとつ――私が旅立つその時、その“岩”がそこにあってくださるように。神よ、それだけで私は十分です。
そしてもし、私の人生でしてきたすべてのことの報いとして、ただ一度、這ってでもあなたの聖なる御足に触れ、この取るに足りない手でそっと撫でることができるなら、それだけで、私には百万倍の報いになります。
私たちは皆、その道を通らねばならぬことを知っています。もしかすると、この中の誰かは数時間後かもしれません。私には分かりません。
しかしあなたは、ご存じです。
103. 父なる神よ、
今夜こうして私たちがここにおり、
聖霊さまがまだこの場に臨んでおられる間――
(先ほどから、あなたの民を祝福してくださっていますが)
主よ、私はあなたに一つお願いしたいことがあります。
この中に、まだ救われていない方がいるでしょうか。
個人的な救い主としてあなたを知らず、
自分が神の御前でどのような状態にあるのかも分からずにいる魂が…。
主よ、今、人々が私の声を聞くためではなく、
どうかあなたご自身がその心にそっと語りかけ、
今夜、その人に勇気を与えてくださいますように。
これが最後の呼びかけになるかもしれません。
誰に分かるでしょうか。
永遠のすべてがかかっているのに、
なぜ危険を冒して先延ばしにするのでしょう。
もしここに、主よ、
あなたから離れ、道を外れてしまった魂が一人でもいるなら――
まるで、約束の地を見渡そうと丘を登りつつ、
その先で拒まれてしまうような人がいるなら、
神よ、その人のそばにも“岩”がいてくださいますように。
そう祈ります。
どうか今、私たちを助けてください。
そして、あなたを待ち望むこの会衆を
豊かに祝福してください。
104. さて――この場にいる方の中で、男性でも女性でも、少年でも少女でも、
どうか頭を垂れてください。そして、誰も顔を上げないでください。
お願いします。人は、こうしたことに触れると、とても繊細で、傷つきやすいものです。しかし、ここにいる皆さんは紳士であり、淑女です。
私は──四十三年という時を、すでに背後に歩いてきました。
ついほんの数日前のように思えます……私はまだ小さな少年で、
あなた方と一緒にここでビー玉をして走り回っていた。けれど今、私は衰えてきています。それを自分でも感じるのです。そしてこの二十年、
私はあなた方に 「あるもの」 を紹介しようとしてきました。
それは、ただの教えでも、宗教でもありません。あなたの魂を永遠へ導く“お方”です。
105. ジェファソンビルよ、なぜ、あなたはそれを拒むのですか?
神ご自身がそれを真実であると証し、御使いを遣わし、
その姿が写真にまで収められ、世界中に知られているというのに――
どうしてそれを、「作り話」だとか「思い込み」だなどと思えるのでしょうか?今夜、あなたは神なしでここにいるのですか?
本当は、心の奥で「あの救いを、自分も得たい」
そう願っているのではありませんか?死ぬ前に、本物の救いが欲しい――
その気持ちはごまかせません。少し前、この町であった出来事です。
ある若い女の子が、町のある教会に通っていました。彼女は自分は大丈夫だと思っていた。牧師も「あなたは救われている」と言っていた。ある日、その子は、教会に来る別の小さな女の子を嘲りました。
その子が映画に行かなかったからです。「あなたの牧師は頭が固いのよ」
そう笑ったのです。けれどその小さな女の子は、静かにこう答えました。
「それでも、私は気にしません。」
106. しばらくして、その若い娘は素行の悪い仲間とつるむようになり、
ある病気にかかりました。しかし放っておきすぎたのです。
この町のあるお医者さんが診察した時には、すでに体中が性病に侵され、
手の施しようがありませんでした。まもなく彼女は亡くなりました。
彼女は――あの大きな教会の日曜学校の教師でした。
教会の人たちは皆、彼女が「天国へ行く」その瞬間を見ようとして集まっていました。そのとき、彼女のクラスの子どもたちも来ていました。
牧師はと言えば、廊下でタバコを吸いながら立っていたのです。
いよいよ、「天使が迎えに来る」と皆が思ったその時――
彼女が上体を起こしました。「牧師はどこ?」そう言うので連れて来ました。彼女はその牧師をまっすぐ見て叫びました。「あなたは人々を惑わす者です!どうして私をこんな姿になるまで放っておいたの?
私は失われてしまった!」アダムが無花果の葉をつけていても、
神の御前に出るときには自分で分かっていたように――
神が近くなれば、すべてが明らかになるのです。彼女は続けました。
「どうして私をこんな道に行かせたの?あのタバナクルの小さな女の子はどこ?」牧師は慌てて、「そ…それは取り乱しているだけだ。
医者を呼んで鎮静剤を打ってもらうから」と言いました。
彼女は涙を流しながら叫びました。「あなたは人を惑わす者!私は迷い出てしまった!あなたのせいで、私の魂は地獄に落ちていく!」
そう言うと、彼女は静かに頭を垂れました。
107. そして今もこの町のガレージで働いている、
私の良い友人がいます。
彼はその当時、葬儀屋の仕事も手伝っていました。
彼らは、彼女の遺体に防腐剤を注入しようとしました。
ポンプを押しても押しても、
部屋じゅうに薬剤の匂いは広がるのに、
血管のほうには全く入らない。
おかしいと思って衣服を少し下げてみると――
彼女の体には、こぶし大ほどの穴が開いていたのです。
性病がそこまで食い破っていた。
そうです、彼女は
「楽しければいい、あの小さな子はただのホーリーローラーよ」
と笑っていた。
友よ、
何事も侮ってはいけません。
108. 今夜、あなたは主を知っていますか?
本当に救われていますか?
イエスの御名によって、私はあなたにお尋ねします。
今夜ここに、
まだ救われていない人、
新しく生まれていない人がいたら——
そっと手を挙げてください。
「ブラナム兄弟、私のために祈ってください」と。
さあ、皆さん、頭を下げてください。
……はい、神様があなたを祝福してくださいます、若い女性。
あなたも、あなたも……そちらの方も。
後ろの方も、神様が祝福してくださいます。
その誠実さを主はご覧になっています、若者よ。見えましたよ。
素晴らしいことです。
この小さな会堂の中で、二十人、いや三十人ほどの手が上がりました。
まだ新しく生まれていない魂たちです。
聖霊は今夜、ここにおられました。
あなたに語りかけておられました。
そして今も、ここにおられます。
あなたには、主が必要です。
どうして来ないのですか?
さあ、前へ出てきて、この祭壇にひざまずき——
「主なる神よ、
今夜、私はあなたを個人的な救い主として受け取ります。
いま、あなたを受け入れます。
そして聖霊のバプテスマを受けます。
それを求めます。
世間が何を言おうと構いません。
私は今、受け取ります。
あなたが約束してくださったからです。」
——そう告白しませんか?
109. そして——聞いてください。
いま手を挙げた皆さん。
あなたはこの集会でずっと聞いてこられましたね。
誰ひとり、自分の力ではイエスのもとに来ることはできません。
父なる神が“引き寄せて”くださらなければ。
では、いま何があなたを動かしているのですか?
その「求めたい」「行きたい」という深い願い——
それは神ご自身がここにおられ、
あなたの心に働いておられるからです。
神がここにおられるのです。
聞いてください、友よ。
もし、私という一人の人間の祈りを
神が聞いてくださるとあなたが信じるなら——
もしあなたが私を、神の預言者として信じるなら、
そして新聞や雑誌、本や証言を読み、
あの夜ごと入り口のところで販売している写真、
燃える火の中に現れた神の御使い——
ここで読んでいる「燃える柴」の中に立った
その同じお方が写った写真を見たことがあるなら——
もしそれを信じるなら……
神はあなたの祈りも必ず聞いてくださいます。
あなたが祈るなら、神は応えてくださいます。
さあ、席を立つだけの確信がありますか?
自分の足で立ち上がり、ここへ来て、
この祭壇に立つだけの決心がありますか?
「ブラナム兄弟、
盲人の目を開かれる主がおられるなら、
その同じ主が私の罪を赦してくださると信じます——
だから私はここに来ました。」
そう言える人はいますか?
……神があなたを祝福してくださいます、若者よ!
あなたが今、最初に前へ出てきました。
さあ、誰がこの若者に続きますか?
110. 私は、この建物の中にいるすべての奉仕者(ミニスター)に呼びかけます。どうぞ前に出て、この祭壇まで来てください。
この建物の中におられる説教者の方々、どうぞ上がってきてください。
さあ、お嬢さん。どうぞ来なさい。神があなたを祝福してくださいます。
ほかの方はどうですか?奉仕者の方々は、このプラットフォームの上の方まで来てください。罪人の友よ——どうぞ、ためらわず来てください。
青年よ、さあ来なさい。神があなたを祝福してくださいます。
そのままここに来て、ひざまずきなさい。神があなたを祝福してくだいます、あなた。さあ、この婦人も——神が祝福してくださいます。
ほかにどなたか、この祭壇に向かって通路を歩いて来られませんか?
いま夜の闇の中、神もキリストも知らずにこの世をさまよっている方はいませんか?「もう少し遅くなるし、家族が待っているんだけど……」
そう思っていますか?
111. 小さな足の不自由な女の子が、前へ出て来ようとしています。
健康なあなた方は、どうして来ないのですか?
今夜あなたは、神から離れ、
キリストを知らず、
罪と恥の中で死につつある者ではありませんか?
どうか来てください。
紳士として、また淑女としての良心がまだ残っているなら、
立ち上がってこう言えませんか?
「ブラナム兄弟、私はここに来ます。
あなたと握手し、この祭壇でひざまずき、
いまこの時、イエス・キリストを私の救い主として受け入れたいのです。」
来ませんか?
先ほどあれほど多くの手が挙がったのに……。
あなたは、今ここに神の臨在があるとわかっている。
自分の状態もよくわかっている。
それなのになお、祭壇へ来ることを拒むのですか?
今夜、家に帰る途中で、
もし心臓が止まったらどうなりますか?
一時間後、事故に遭い、
病院で血が流れ出し、
あなたが叫んでいても、
誰も祈ってくれる者がいなかったら、どうしますか?
神は言われました。
「今わたしを退けるなら、
あなたの災いの日に、わたしは笑う。」
どうか来てください。
友よ、
聖霊がここにおられると確信して手を挙げたのに、
どうして祭壇へ来られないのですか?
いったい何が、あなたを引き止めているのですか?
112. 神様、あなたを祝福します。
……あなた、体が悪いですね。そうでしょう?
結核で苦しんでおられる。違いますか?
今夜、この祭壇で主があなたを癒されます。
私はあなたのことを知りません。見たこともありません。
しかし、あなたがどういう人で、何に苦しんでいるか、
聖霊が示してくださいました。
聖霊が、いま、この集会のただ中に降りて来られています。
あの神の使いが、この講壇のそばに立っておられます。
集会に来ておられたあなた方は、
これが何を意味するのか、ご存じでしょう?
この人は今夜、癒されます。
彼が席から立ち上がった瞬間、
主がそう語られました。
神様、あなたを祝福します、若者よ。
さあ、そのまま来なさい。
涙で目をいっぱいにして……よく来ました。
神様、あなたを祝福します、お姉さん。
さあ来て、ここにひざまずきなさい。
神様、あなたを祝福します。
皆さん、どうぞ祭壇のまわりに来てください。
来ませんか?
♪「ああ、神の小羊よ……私は行きます。私は行きます。」♪
(Just as I am… の雰囲気を保ちつつ日本語で自然に。)
神様、あなたを祝福します、小さな男の子。
なんて素晴らしいことでしょう。
ほかに誰かいませんか?
そこの若い人たち……ずっと先延ばしにしてきたでしょう。
今が、その時です。
今が、その時刻です。
……あなたの魂を、罪の暗闇から救い出すために。
113. 誰か、後ろの方にいるお母さんを手伝ってあげてください。
赤ちゃんを抱いている方……どうかお願いします。
彼女は祭壇に来たいんです。ご主人はもう前に来ておられます。
だれか、その赤ちゃんを少しの間抱いてあげてください。
そうすれば、お母さんがこちらに来られます。神様があなたを祝福します。さあ、いらっしゃい、お母さん。そう、それでいいんですよ。
その子は皆がちゃんと見ていてくれますから、心配せずに来なさい。
イエス・キリストのために、そしてあなたの子どもたちのために、
真の“母”となるために、どうぞ前に出て来てください。神様、姉妹よ、あなたを祝福します。ええ、それでいいんです。神様、あなたを祝福します、奥さん。そのようにして来ることで、あなたの“神経の弱り”も癒されます。ずっと悩まされてきた緊張や癖や諸々のこと——今、そこに立って瞬間から、それらはあなたから離れていきます。
114. 主の御使いが——まさに今、このプラットフォームのすぐここに立っておられます。もし、あなたが私を神の預言者と信じるなら、どうか今、私が言うことに従ってください。そうすれば、それが真理であることを、あなた自身が知るでしょう。“To rid my soul of one dark blot…”
(わたしの魂に付いた一つの黒い汚れを取り除くために)
“To Thee, whose blood… cleanse each spot…”あなたの血潮が、すべての汚れを清めてくださる主よ……(神様、この少年を祝福してください)“O Lamb of God, I come! I come!”(神様、このお母さんを祝福してください)「神の小羊よ、わたしは行きます……わたしは行きます!」
ほかに、まだ来たいと思う方はおられませんか?
聖霊が——私ははっきり分かります——この中にまだ“数名”おられると言っておられます。どうか、神に対して正直になってください。
少し前に出て祈ったところで、何を失うというのですか?どこかでは必ず祈ることになるんです。もしここで祈らないなら——地獄の中で祈ることになります。あの金持ちが、よみの中で目を上げたように。(ルカ16)もしあなたが神の御言葉を信じ、そして私の語ることが真理だと信じるなら——そして神ご自身がそれを“真実だ”と証明しておられるなら——
この会場には、今すぐここに来なければならない男女がいるはずです。
聖霊が明らかにそう語っておられます。さあ、来なさい!
——神様、あなたを祝福します、姉妹。
あなたは、まさにその一人です。さあ、いらっしゃい。
——神様、あなたを祝福します。
若い方も、年配の方も、どこにおられても——さあ、来なさい。
115. さあ、皆さん、立ちましょう。
会衆の皆さん、そのままお立ちください。
今、一節歌いながら進みましょう。
さあ、周りの方に声をかけて——
道を開けて祭壇へ進んでください。
「私は教会に属しています」と思うかもしれません。
——でも、それだけでは十分ではありません。
「人は新しく生まれなければ、決して神の国には入れない。」
さあ来なさい。
(会衆)“Just as I am…”
さあ、あなたも来ませんか?
この通路を前へ出て来て、ここで私と会いましょう。
イエス様に——祈りたいだけでも構いません——
どうぞ来なさい。
……(ブラナム兄弟が呼びかけを続け、言葉の一部が聞き取れない箇所)……
神様、あなたを祝福します……
さあ、もう一人……。
(会衆)“Just as…”(神よ…)
“Thy blood was shed for me…”
そうです、主よ、あなたの血潮が注がれたからこそ…
“O Lamb of God, I come! I come!”
神の小羊よ、わたしは行きます! わたしは行きます!
「ちょうど今の私のままで……
わたしの魂の黒い汚れを取り除くため……
あなたの血潮が一つ一つの汚れを清めてくださる方よ——
神の小羊よ、わたしは行きます。」
ここで、
「ブラナム兄弟、私のために祈ってください」
そう言いたい方はいますか?
歌いながら、手を挙げてください。
もう一度歌います。どうぞそのまま。
(会衆)“Just as I am…”
はい、神様、あなたを祝福します、姉妹。
……聖霊が来られています……
私は見えました……
あなたの魂に触れられました……
聖霊が呼んでおられます……
これは聖霊ご自身の祭壇への招きです……