イスラエルと教会#3
ジェファソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国
説教番号: 53-0327
日付: 1953年3月27日(53-0327)
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1. それから、今夜のテーマの土台とするところは、民数記の20章であります。
さて、ここにあと四冊ほど聖書がございます。どなたか一緒に学びたい方がおられましたら、どうぞ遠慮なくお受け取りください。
この四冊を、年配の兄弟たちが喜んでお持ちいたしますので、
もし聖書が必要な方は、どうぞ手を挙げてくださいますか。
はい、こちらにもおられますね。
フリーマン兄弟、よろしければ来ていただいて、この聖書を、あるだけ皆さんにお配りくださいますか。
2. 民数記…そうです、民数記の20章です。
まもなく、この民数記からの旅路を終えようと思っています。というのは、出エジプト記の記述よりも、こちらの方が詳しく語られているからです。
それでは、7節あたりから読み始めたいと思います。
7節
すると主はモーセに語られた。
8節
「杖を取りなさい。そしてあなたと兄アロンは民を集め、
その目の前で 岩に向かって語りなさい。
そうすれば、岩は――
『その水(His water)』を――湧き出させるであろう。」
(ここをよくご覧ください。“その水”、人格代名詞が使われています。)
「そして、あなたはその岩から彼らのために水を出し、
会衆とその家畜に飲ませなさい。」
9節
モーセは主が命じられたとおり、主の御前から杖を取った。
10節
そしてモーセとアロンは、岩の前に会衆を集め、
モーセは彼らに言った。
「聞きなさい、反逆する者たちよ。
私たちはこの岩から水を取り出さねばならないのか?」
11節
そしてモーセは手を上げ、杖でその岩を 二度 打った。
すると、水が豊かに湧き出し、
会衆も家畜も渇きをいやされた。
3. さて、神の御言葉を開くことができる者は、人間には一人もおりません。
聖書はこう言っています――「世の基が置かれる前から、ほふられたとみなされていた小羊」、あのお方だけが、その巻物を受け取り、封印を解き、御言葉を開くことができると。そして今――主イエスが、私たちのもとに遣わしてくださった聖霊が、主が再び来られるその日まで、
私たちと共におられるのです。
ネヴィル兄弟、どうかお立ちくださって、私たちのただ中に主ご自身が来てくださるようにお祈りいただけますか。そして、これから語られる主の御言葉を祝福してくださるように。また、私たちがこの御言葉を正しく理解できるよう、主がお助けくださるように祈りを捧げていただけますか。
それでは皆さん、どうぞ頭を垂れ、祈りに入りましょう。
4. 〔ネヴィル兄弟が次のように祈ります。〕
「天のお父よ。今夜も、私たちはあなたの御前に、真実なへりくだりを持って立っております。主よ、私たちはよく知っています。人間の力では、
聖霊によってここに集められたこの群れの霊的な必要を満たすには 到底十分でない ことを。父よ、私は今ここに立っていますが、それは自分で選んだのではなく、あなたが、聖霊の権威によって主イエス・キリストの教会のために私をこの務めへと召してくださったからです。
どうか今夜、イエスの御名によってお願い申し上げます。
あなたが、憐れみのまなざしをもって私たちをご覧くださり、
あなたの御前に恵みを見出す者とならせてください。そしてここにいる、
私の兄弟、共に旅路を歩む友、共に仕える同労者――母の胎からあなたが召し出されたこの者が、今夜、聖霊によって聖書を開き、あなたが委ねられた大いなる務めを果たすことができますように。父よ、ここで語られる言葉そのもの以上に、私たちが あなたの十字架につけられた御子 によってあなたのみ前に受け入れられているというその恵みゆえに、
どうか私たちを見てください。そして天からの 新たに力づけるバプテスマ をもう一度、私たちのうえに注いでください。御言葉を悟るために私たちの思いを開き、あなたが与えてくださったこれらの事について語り合うとき、私たちの心が内側で燃え立ちますように。ああ父よ、
今夜、どうか私たちを静め、天の祝福に満ちた覆いの下で深い黙想の霊へと導いてください。あなたの民を訪れ、御言葉から教えてください。
今夜、移ろいやすいすべての思いを従わせ、全能の神よ、私たちの心と思いを鎮め、素晴らしい祝福をお与えください。そして父よ、これらすべてのことのゆえに、私たちはイエスの御名によってあなたに賛美と誉れと栄光をお返しいたします。アーメン、アーメン。」
アーメン。ありがとう、兄弟。
5. もし、今夜ここに初めて来られた方がおられるなら、ご紹介しておきましょう。
こちらが私たちの牧師である、ネヴィル兄弟です。
彼は今、喉が少し嗄れておりまして、
この二晩ほどあまり声を聞かなかったのはそのためです。
しばらくの間、喉を休ませて、
回復する時間を与えるために、
できるだけ話さないようにしておられるのです。
6. さて、私たちはこれまで出エジプト記を学んできました。
エクソダスとは、神の子らが呼び出されることを意味します。
彼らは、エジプトにいる間も神の民ではありました。
けれども 「出て来た」そのとき、
彼らは初めて 神の教会(church) と呼ばれる存在となったのです。
“church”(教会)という言葉は、
「呼び出された者たち」 という意味を持っています。
そして私たちは――
今夜、また別の「出エジプト」が近いと信じています。
あなたもそう思われますか?
私たちは、再び呼び出され、
分かたれ、
備えられる時が、
すぐそこに来ているのです。
7. さて、私はこう信じていますし、
またそのことで「型(タイプ)を重んじる者」だとよく言われてきましたが、
実際その通りです。
私は、旧約のすべての出来事は、やがて来るものの影であると信じています。
聖書そのものが、そう教えているのです。
もし私たちが、
少し霊の目を開いて、
旧約聖書がどのようなものであったかを見つめるなら、
新約がどんなものであるかが分かるのです。
――つまり「型」なのです。
旧約の出来事は、
影と、そして模範(サンプル) として与えられました。
それゆえ私たちは、どうすべきかを知ることができます。
彼らがどのように倒れ、
どのように立ち上がり、
神に仕えてどのような歩みをしたかを見るとき、
それは今を生きる私たちのための 影(タイプ) として示されているのです。
8. では、最初の夜――水曜日の夜には、
まず 「教会とは何か」 を取り上げ、
その本質を探りました。
そして、この癒しの集会についてですが……
このような形式のリバイバルを行うのは、実に 七年ぶり になるのです。
今週でちょうど七年になりますが、私はこのタバナクル(会堂)を離れ、
癒しのための伝道キャンペーンへ出て行きました。
その間、メッセージは主にマネージャーたちに任せ、
私は 神の癒し に関することだけを語ってきました。
なぜなら、そこにはメソジスト、バプテスト、長老派、カトリック、
オーソドックス、ユダヤ教徒…
あらゆる背景の混ざった集会であったからです。
もし、どこかの教派の教理に触れてしまうと、
時にそれが原因で、
本当に祈りを必要としている人たちを、
その教派の牧師が集会に来させないということが起こり得るのです。
ですから私は、
そうした違いに関わる部分には触れず、
ただ 聖書の大きな福音の基礎――
すなわち キリストの死・埋葬・復活、
福音派が基本として告白する真理――
その一点に焦点を絞り続けたのです。
9. しかし今、このタバナクル――
主が二十年前に私に与えてくださった、この 小さな教会 では、
私は自分の確信していることを自由に教えることができると感じています。
ここには、いわゆる「会員制度」はありません。
私たちはただ、互いに交わり(フェローシップ) を持つだけです。
あなたは、今夜ここに来ておられる間、
すでにこの教会の一員なのです。
私たちは会員を持っていません。
ただ、主にある交わりがあるだけなのです。
10. そして、ここで語られることの中には、
あなたが「ブラナム兄弟、それには賛成できませんね」と
思われることがあるかもしれません。
ですが、それならどうか、
私が大好きな チェリーパイを食べるときの方法 を
そのまま使ってください。
大きなチェリーパイの中に、
固いタネが一つ見つかったとしても、
私はチェリーパイを食べるのをやめたりしません。
タネだけをよけて、あとはおいしくいただくのです。
チキンを食べるときも同じでしょう。
脚には骨があるものです。
だからといって、骨に当たったからと
チキンそのものを捨ててしまう人はいません。
骨だけを取り除けばいいのです。
ですから皆さんも、
「これは骨だな」と思うところがあれば、
それはそっと脇へ置いて、
良いと思われるところだけを受け取ってくださればよいのです。
11. さて、私たちはここで、
神の教会というものは、人間の意思によって成り立つのではない
ということを見いだします。
それは 選び(エレクション) によるのです。
選びは 神の側にある ものです。
信仰の父であるアブラハム――
もちろん創始者は神ご自身ですが――
そのアブラハムは、最初、
カルデヤ人の地、ウルの町、
シンアルの平原から 呼び出されました。
それは、彼自身の功績や資格によるものではありませんでした。
神は彼を無条件に選び、無条件に救い、
そして彼の子孫すべてに対して無条件の約束を与えられた のです。
12. イエス様がおいでになったとき、こう言われました。
「父が引き寄せてくださらなければ、
だれもわたしのもとへ来ることはできない。」
つまり、あなたが神のもとに来たのは、
あなた自身の判断や努力によるものではありません。
神があなたをイエスのもとへ引き寄せてくださった のです。
そして主はこうも言われました。
「わたしのもとに来る者を、わたしは決して捨てない。」
「わたしの言葉を聞き、
わたしを遣わされた方を信じる者は、
永遠のいのちを持つ。
裁きに入ることなく、
死からいのちへと移っている。」
また主は言われました。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
(これは現在形で)
永遠のいのちを持っており、
わたしはその者を終わりの日によみがえらせる。」
私はただ、主ご自身の御言葉をそのまま引いているだけです。
そして私は、これが 真理である と信じています。
13. ですから私は、神が 模範(例)をお示しになった と信じています。
神はアブラハムを 無条件で お救いになりました。
神は人と契約を結ばれましたが、
人はいつもその契約を破ってしまいます。
しかし人間はいつの時代も、
自分で自分を救おうとする道 を探してきました。
自分の力で何とかしようと――
その流れは、実はエデンの園にまでさかのぼるのです。
人が罪を犯したと気づいたとき、
自分で 宗教(カバー) を作ろうとしました。
“religion”(宗教と訳されている言葉)という言葉は「覆い」を意味します。
アダムとエバは、いちじくの葉を縫い合わせて、
自分たちの宗教――覆い――を作ったのです。
そしてそれ以来、人はずっと、
自分で自分を救おうとする道 を作り続けてきました。
しかし、
あなたが救われたのは“恵み”です。
“選び”なのです。
神の先見、予定、あらかじめの定めによるのです。
パウロはエペソの教会にこう語っています。
「神は、世界の基が置かれる前から、
私たちをキリストにあって選び、予定された。」
考えてみてください!
世界が造られる前に、
神はすでにあなたをキリストのうちに置いておられたのです。
では、何を心配する必要があるでしょう?
心配など手放してしまいなさい。
私たちは、
この地上で最も幸いな存在 ではありませんか!
ああ、これを信じて、
どうして喜ばずにいられるでしょうか。
14. 私はよく、あの ボズワース兄弟 を見かけたものです。
そしてこう言いました。
「ボズワース兄弟、今朝の気分はいかがですか?」
彼は言いました。
「ブラナム兄弟、またいつもの悩みが戻ってきましてな。」
私は尋ねました。
「いつもの悩み? 何ですか、それは?」
すると彼は笑って言いました。
「もう嬉しくて嬉しくて、眠れんのですよ!」
「ブラナム兄弟、私は自分が信じていることを思うと、
嬉しくならずにはいられんのです!」
その通りでしょう。
本当にその通りです。
15. あなたは知っています――キリストはすでに、罪人であるあなたの身代わりとなってくださった ことを。主は死なれ、神はその犠牲を受け入れられました。そして主は よみがえり、いま御父の右の座におられます。
神は言われました。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼に聞け。」そこにおられるお方こそ、
門であり、入口であり、道であり、真理であり、いのち なのです。●では、どうすれば私たちは<その方のうちに>入るのでしょうか?キリストご自身が教会なのです。教会は永遠のいのちを持ち、すでに神によって「傷もシミもなく現れるように」とあらかじめ定められている のです。神がそう言われたのなら、それは 必ずそうなる のです!●では、どうやって教会に入るのか?
会員名簿に名前を入れることでしょうか?――いいえ。
誰かと握手することでしょうか?――いいえ。
ある形式や、ある種類のバプテ…?――違います。
聖書ははっきり言っています。
「一つの御霊によって、私たちは皆ひとつのからだの中にバプテスマされ、
そのからだの一部となる。」
(Ⅰコリント12章)
どうやって?
御霊のバプテスマによってです。
それが私たちを
キリストのからだの中へと導き入れ、
その後、私たちは神の御霊に満たされる のです。。
16. どれくらいの間、封印されるのでしょうか?
エペソ4章30節はこう言っています。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。
あなたがたは、この御霊によって、
“贖いの日まで”封印されているのです。」
リバイバルが一つ終わって次のリバイバルまで――
そんな短い間ではありません。
「贖いの日まで」 です。アーメン。
永遠のいのち!
“永遠”というのは、
短い期間のことではありません。
永遠とは、永遠に続くこと。
終わりがなく、死ぬこともないものです。
トウモロコシの粒が
雑草のコックルバー(オナモミ)になることができないように、
永遠のいのちは、消えることがありません。●御霊から生まれた者の性質はどうなるのか?
もし人が 神の御霊から生まれた なら、
その人は 自然にそのいのちを生きる のです。
先夜も申しましたが、
酒を飲む、煙草を吸う、ギャンブルをする、呪う、罵る……
これらは “罪そのもの” ではありません。
罪の結果として出てくる性質(アトリビュート) なのです。
そういうものが出てくるのは、
その内側が “罪人の性質” だからです。
しかし、
もしあなたが 信じる者(信仰者) なら、
それらは出てきません。
なぜなら、
苦い水と甘い水が同じ泉から出ることはできないからです。
小麦の粒は、
コックルバーを実らせることができません。
なぜなら、その 本質(ネイチャー)は小麦だからです。
本質が何であるかが、その実を決めるのです。
だから、
もし 聖霊があなたの内におられる なら、
その内側から出てくるものは、
キリストのいのち なのです。
アーメン。
それが “信仰” です。
アーメン。では、次へ進みましょう。
17. さて、私たちは今、“影(タイプ)” を見つめながら学んでいます。
そして私たちは、神が与えてくださった例――すなわち 歴代の族長たちを通して示されたキリストの型――を見出すのです。アブラハムには、選び が表され、イサクには、義化と召し が表されました。神はイサクが生まれる前から、その名も、その存在も、すべてを決めておられました。
ちょうどイエスに対してそうであったように。そしてイサクの生涯をよく見ると、そこに 完全な型 が示されています。時間が足りず詳しく触れませんでしたが、よく考えてみてください。イサクは――約束によって生まれた 父のひとり子自ら背負って 同じ山に木を運び上げ束ねられ、いけにえとして捧げられたまさに キリストの型 がそこに映されています。そしてアブラハムが息子の命を取ろうとしたそのとき、荒野で一匹の小さな羊――角で藪に引っかかった 雄羊 が鳴きました。その瞬間、聖霊が天から叫ばれたのです。「その手を下ろしてはならない。」アブラハムはその雄羊を取り、イサクの代わりに いけにえとして捧げました。それこそが、“世の基の置かれる前からほふられた小羊”の完全な前表(タイプ)だったのです。なんという美しい御計画でしょうか。
18. アブラハムには 選び(エレクション)。イサクには 義認(ジャスティフィケーション)。そしてヤコブには 恵み(グレイス) が示されました。
ヤコブの生涯を読んだことがある方なら、恵みを信じずにはいられない でしょう。あれはまさに「恵みそのもの」です。そしてヨセフには 完全(パーフェクション) が示されました。聖書には、ヨセフについて否定的なことがひとつも記されていません。完璧な人物であり、キリストの完全なる型でした。やがて族長たちは皆エジプトへ下り、そこで暮らすようになりました。そして彼らの部族は増え広がり、その地を満たしました。
なぜなら、神がアブラハムにその地を与えると約束された からです。
19. 神の御言葉は、いつの時代も必ず成就します。
神の預言の歯車は、ゆっくりと回るように見えますが、
必ず、確実に 回っているのです。
もし悪いことをして、
「何も起こらないし、逃げ切れた」と思っている若い皆さん――
どうか覚えていてください。
その歯車は、ある日あなたの家の前まで確実に回って来ます。
「いつ?どうして?」と不思議に思うでしょうが、
それは必ずやって来ます。
人は蒔いたものを、必ず刈り取るのです。
神がそう語られた以上、それは必ずその通りになります。
「あなたの御言葉は永遠に天において定められています。」
天ではもう決まっていることです。
天で議論になることはありません。
地上の私たちが議論しているだけです。
天ではすでに“決定済み”なのです。
神が語られたなら、
その通りにならなければならない のです。
なんと素晴らしいことでしょう!●今夜、あなたの心にも“決着”をつけることができます
「主イエスよ、私はあなたを信じます。
これで決まりです。ハレルヤ!
今あなたのもとに来ます。
聖霊のバプテスマを私にお与えください。」
そう告白すれば、
あなたはその場でそれをいただくのです。
そして神はあなたを、
“贖いの日まで”聖霊によって封印してくださるのです。
20. そして、次の夜の学びでは、ヨセフが自分の骨について語ったこと に注目しました。彼がキリストの“型”としてどれほど完全であったか――
その衣に至るまで、すべてがそうでした。ここまでのすべてが、
キリストのうちに完全に成就した のです。よく見てください。
彼(キリスト)は、アブラハムの子孫から出る 最後の人間、最後の犠牲 でした。私たちは、それを前に学びましたね?(そうですね?)
アブラハムが丘の上で犠牲を裂き、その間を 小さな光が通り抜けて
契約を確証したあの場面――そこに示されていました。昔、契約を結ぶときの方法を私たちは見ましたが、神はカルバリーでその契約を完成されました。神ご自身が誓いを立てられ、書かれた契約を“引き裂き”、
片方を取られたのです。あの古代の契約の作り方のとおりに。
21. 今日、私たちは契約をするとき、
握手を交わす ことがあります。
インドでは――
あるいは中国だったと思いますが――
人々は 互いに塩を少し撒き合う ことがあります。
また、誓いを確かなものにするために、
子どもを互いに譲り渡す という習慣がある地方もあります。
しかし昔の東洋、オリエントの時代には、
契約はこのようにして結ばれました。
まず、契約内容を紙に書き、
それから 動物をほふり、その死体を二つに裂き、
その切り離された部分の間に立つ のです。
そして その契約書を二つに引き裂き、
それぞれの契約者に一枚ずつ渡しました。
後にそれを証明するときには、
二つの紙片が完全に“かみ合って”一致しなければならない のです。
22. なんという美しさでしょう!神はカルバリーでキリストを取り、
魂と体を“引き裂かれた”のです。そして、体は御父の右の座へ 上げられ、聖霊は地上へ送り返された。これが 神と人との契約 なのです!
アブラハムがそうしたように、人は 信仰によって信じる のです。
そしてアブラハムはその信仰の確証として、割礼のしるし を受けました。同じように――あなたがイエスを救い主として信じ、受け入れるなら、神はあなたに“聖霊のバプテスマ”を与え、その信仰を確証してくださるのです。●「信じています。でも聖霊を受けていません」それは何を意味するのか?あなたが「信じている」と言いながら、聖霊を受けていないなら、何かが信仰に問題がある のです。信じる者が完全に降伏した瞬間、神はその心を“割礼”されます。アーメン!(今、何かがここに触れましたね……私にも跳ね返ってきました。)受け取りなさい!●信じる者には何が起こるのか?
さあ、これです!
信じる者が主イエス・キリストを確かに信じるとき、
神はその人に聖霊を与える義務を負っておられるのです!
それが 信仰の確証 です。
あなたが
「ブラナム兄弟、どうして受け取れないんですか?」
と言うなら――
ただ信仰の問題です。
本当に信じるなら、
神は必ず与えてくださるのです!●聖書はこう言っています
「ペテロがこれらの言葉をまだ話していると、
聖霊が御言葉を聞いていた者たちすべての上に下った。」
(使徒 10章:〔※原文は45節周辺〕)
その通りですね?●聖霊はどう働くのか?
聖霊と火は天から降り、
不純物をすべて焼き尽くし、
心を割礼し、
余分なものを切り捨て、
あなたを“新しい人”へと造り変えるのです。
23. さて、私たちは見てきましたが、四百年が過ぎたあと――
昨夜は、族長たちの“型”について学びましたね。そして、行間に入り込んで、なぜ彼らが約束の地に葬られることを望んだのか を見ました。
どうでしたか?あれは気に入っていただけましたか?楽しんでいただけましたか?もちろん、あの理由は聖書の行そのものには書かれていません。
けれど、読んでいくと“見えてくる” のです。
24. ちょうど、アブラハムの話をしたときのように――
神が、百歳になっていたアブラハムとサラを
若い男と若い女へと戻し、赤ん坊を与えられた、
あの出来事です。
最初は少し理解しづらいところがあります。
ですが、聖書をよく調べて、
そこで何が起きたかを見ていくと、
それが真理であることが分かる のです。
では、神は何をしておられたのでしょう?
御言葉の確証を与えておられたのです。
すなわち――
私たち人間が老い、髪は白くなり、
しわが増えていくその日々のあと、
ある日、私たちは再び若い男・若い女へと甦る のだと。
神が命を与えてくださり、
成熟へと導かれ、
やがて死が私たちをこの地上から移していきます。
しかし、死ができるのは 私たちを“移す”ところまで です。
そのあとはもう、終わりです。
疑い、弱さ、古い性質――
そうしたものはすべて取り除かれます。
例えるなら、
肉体の“命の灯”が消えたあと、
そこに残るのは 完全さだけ のようなものです。
この体が本来、神が意図された完全な姿――
それが復活のときに現されるのです。
アーメン。
ああ、このことを思うと、
心が躍り出すようです!
胸がひっくり返るほどの喜びです。
これは単なる“神話”ではありません。
「主の仰せ」であります!
神が言われたのです。
だから私は、
自分の人生をその一点に据えるのです。
はい、主よ。
神がそう言われたのなら、それで永遠に決まりです。
天ではすでに確定していること。
そして、私たちの心に天の一片でも宿っているなら、
そこでも決定されるべき なのです。
それだけで十分なのです。
「神よ、あなたがそう言われました。
私はそれを信じます。
それで十分です。」
25. さて――彼らを旅立ちの直前のところまで、私たちは連れてきました。
そこで、私たちはこう見ましたね。(昨夜取り上げましたが)
モーセが イテロの羊を飼っていたとき、神が彼に語りかけられた、ということです。そしてモーセは「あなたの栄光を見せてください」 と願いました。すると神は、その願いに答えて ご自分の栄光を示されました。
それは、奇跡の業、そして神の癒し でした。そうでしょう?
それが神の栄光なのです。シェカイナの栄光というなら、
今夜、私たちもそれを持つべきではありませんか!
26. そして兄弟たちよ――キリスト教世界のすべての者が、
主の再臨、そして教会の携挙(ラプチャー)を待ち望んでいる のです。
御言葉に少しでも理解のある者なら、皆そうでしょう。しかし、もし私たちが神の癒しひとつ信じきれない のであれば、どうやって 携挙の信仰(ラプチャリング・フェイス) を持つことができるでしょうか?ああ、私は信じます――今、大きな呼び出し(コーリング)が起こりつつある と。ちょうどダビデがそう言ったように。彼はそこに横たわり、
じっと待ち、耳を澄ませました。しばらくすると、
風が桑(マルベリー)の木々を揺らして通り抜ける音 が聞こえました。
それで彼は悟ったのです――「神が自分に先立って進んでいる」と。
ああ兄弟たちよ、私も今、その桑の葉を揺らす風の音を待っている のです。神が戦いの前を進んでおられる、その“しるし”を。では、私たちも立ち上がりましょう!神の全備えの武具を身にまとい、剣を抜き、前進していくのです!そのとき、戦いは私たちのものとなります。神の御手が、しるしと不思議をもって前へ進んでおられる のを見るとき、私たちもまた、そのあとに従って前進していくのです。
27. さて、その後のことですが――
モーセは 聖職の務めに追われているうちに、
大切なことを一つ忘れてしまいました。
本来、最も根本的で、
真っ先に行うべきことを
彼は見落としていた のです。
ちょうど “解放の時” が迫っていたそのとき、
モーセは 割礼を受けていない自分の息子を
エジプトへ連れて行こうとしていた のです。
そして、ジッポラが――
もし彼女が動かなければ、
神はモーセを討たれた ことでしょう。
しかしジッポラはその子に 割礼を施しました。
これは 契約のしるし でした。
分かりますか?
解放(デリバランス)が起こる前には、
すべての者が“契約の中”に入っていなければならないのです。
今日も神には契約があり、
その契約のもとにある者だけが守られるのです。
ジッポラは、
その子に契約の割礼を施し、
神の怒りを転じさせた のです。
28. そして友よ――
今日、私たちは皆、
大リバイバルを持とうとしている、
あるいは持ちたいと願っているのですが、
神の“契約の封印”――
すなわち聖霊――を忘れてしまっているのです。
拒まれた石、
建物をつなぎ合わせる 真のモルタル(接着の力)、
それが聖霊なのです。
これなしに、どうして成し遂げることができるでしょうか?
神はこう言われました。
「その日が来れば、
わたしはわたしの律法を
彼らの心の板に書きしるす。」
「教訓に教訓を、戒めに戒めを、
ここに少し、あそこに少し。
良いものをしっかり握りなさい。」
そしてこうも言われました。
「どもり唇と異なる言葉をもって、
わたしはこの民に語る。
これこそ“安息”である。」
(イザヤ28章)
しかし聖書は言います――
「だが彼らは聞こうとせず、
顔を背け、首を振った。」
人は自分の力で道を切り開こうとし、
破滅へと向かって戦っていくのです!
29. そして、神の怒りが転じられたあと――
彼らは今、エジプトの地で
イスラエルの子らを解き放つための働き に入っていきます。
私は、この章は本当に美しいと思います。
たとえ全部読めなくても、
せめて少しだけでも読まなければならない と感じるほどです。
では、急ぎながらも、
出エジプト記12章 を開きましょう。
皆さんがお読みの箇所をしっかりと捉えられるように、
少しだけお待ちしますね。
もし聖書を見逃してしまうと――
そこには本当に 美しい“型(タイプ)” があるからです。
私はそれが大好きなのです。
さあ――
ここから語るのは、
犠牲(いけにえ) の型です。
30. さて――
彼らは 次から次へと災い(プラーグ)を受け、
神はあらゆる奇跡としるしを行われました。
ああ、しばらくこの部分だけを
語り続けたいほどです!
解放の直前(イブ)になると、
神はしるしと不思議と奇跡を現される のです。
見てください。
神はいつでも 現在形の神 です。
神はモーセにこう言われました。
「わたしは I AM である。」
“I WAS(昔は)” でもなく、
“I WILL BE(いつかは)” でもなく、
「I AM――今、現在」 なのです。
そして今夜もまた、
同じ “I AM” のお方 なのです。
「あの昔は…」ではありません。
「いま、ここにおられる I AM」 です!
契約の御使い(Angel of the Covenant)――
昨日も今日もいつまでも同じ方。
あの時と同じ御使いなのです。
さあ、ここから「最後の災い」です。
31. 彼らは ぶよ(蚤) を受け、
ハエ を受け、
腫れ物(できもの) にも打たれました。
そして――
よく見ていただきたいのですが、
そこには 偽者(インパーソネーター) がいました。
ヤンネスとヤンブレスです。
彼らはモーセとアロンに立ち向かい、
同じように見えることを行い、
しばらくの間、人々を惑わせました。
言い換えれば、彼らは“福音を説いている”かのように見せ、
モーセやアロンをまねて進んでいたのです。
しかし、ここからが大事です。
あなたが昨夜の続き、
6章から12章まで読むと分かりますが――
これらのエジプトの魔術師たちは、
“持ってくる”ことはできても、
“取り除く”ことはできなかったのです。
気づきましたか?●「悪魔が癒しの奇跡を行う」?
それは間違いです。
近頃だれかが聖書をペンナイフで切り裂くようにして、
「悪魔でも癒しの奇跡を行える」と言っていましたね。
それは間違っています。
神は言われました。
「わたしはあなたのすべての病を癒す主である。」
イエス様はこう言われました。
「もしサタンがサタンを追い出すなら、
その国は分裂して立ち行かない。」
悪魔を甘く見てはいけません。
彼は狡猾です。
サタンは自分自身を追い出したりしません。
あなたが惑わされているだけなのです。
そうです。
サタンがサタンを追い出すことはできません。
私が“自分自身を追い出す”など?
そんなこと、私自身が一番よく分かっています。
32. よく気をつけてお聞きください。
そして――
イエス・キリストを過小評価してはなりません。
主は、すべての力の上に立つ 力の主権者 なのです。
あなたが キリストのうちにいるかぎり、
サタンを恐れる必要はありません。
しかし――
もしキリストの外にいるなら、
震えたほうがいい のです。
けれど、
キリストのうちにいるなら、
死そのものさえ、あなたに害を与えることはできません。
あなたはすべての恐れから解放されているのです。
ああ、このことを思うと……
私は「ハレルヤ!」と叫びたくなります!
アーメン。
では、次へ進みましょう。
33. さて、いよいよ 最後の災い、最後の出来事に入ります。
神は言われました。
「もう、これ以上は扱っておれぬ。
わたしは最後の災いを下す。」
よく注意して聞いてください。
最後の災いは“死”でした。●今日の世界に起きてきたこと
私たちはこれまでに――
地震
戦争と戦争の噂
津波(主が言われた通り、海が荒れ狂う時代)
人々の心臓が恐れで弱り果てる(心臓病は第一の死因)
時代の混乱
国と国の間の不安
大通りを走る“馬なしの車”(自動車の預言)
こうしたすべてが成就してきました。●しかし最後の災いは何か?
最後の災いは死です。
だが、これは 肉体の死ではありません。
“霊的な死”です。●どこで死が起きたか?
それは 教会の中 に起きました。
イスラエルでは、
“息子たち”の間に死が起こったように、
今日の教会でも、
霊的な死 が入り込んでいます。●外側は繁栄、しかし内側は死
教会は今、かつてないほど会員数が増え、
かつてないほど規模が大きくなり、
かつてないほど潤って見えます。
しかし――
霊の力においては、
今までで最も弱くなってしまっているのです。
これは真実です。
そして、それは エジプトの時代とまったく同じ なのです。
34. さて、最後のことに注目してください。
しかしその前に――
(ああ、アーメン!)
神は霊的な死を降らせる前に、
望む者が逃れられる“道”を備えておられたのです。
ハレルヤ!
ああ、なんと私はこの真理を愛することでしょう。
神は、歩みたいと願う者のために“逃れの道”を備えてくださる。
その道を望まなかった者――
彼らはそのまま 死 を受けました。●出エジプト記12章1節(いよいよ御羊の型)
では、12章の1節をご覧ください。
モーセ……
主はエジプトの地でモーセとアロンに語られた。
「この月を、あなたがたにとって最初の月とし、
年の初めの月としなさい。」
「イスラエルの全会衆に告げよ。
この月の十日に、それぞれ父の家ごとに、
一頭の“小羊”を取らなければならない。
一家に一頭の小羊を。」
「もし一家がその小羊を食べるには少人数なら、
近くの隣人と共にするがよい。
その人数に応じて、小羊一頭を割り当てなさい。」
「その小羊は“傷のない”ものでなければならない。
一歳の雄――なんと美しい型でしょう!
羊または山羊の中から取らなければならない。」
「そして、その月の十四日まで保っておき、
その間――(つまり四日間)――
イスラエルの全会衆は“夕方に”それを屠らなければならない。」
35. 型 類似(タイプ)をよく見てください。
小羊――これは象徴的に語れば、“神の小羊”です。
滅びが来る直前の《贖い》を表しています。
見てください。
それは 若い小羊 でなければならない。
雄 でなければならない。
母羊から最初に生まれた 初子 でなければならない。
これはまさに イエス様 です。
おとめマリヤから初めて生まれた 初子 であられました。
それは 傷のないもの でなければならず、
しばらくの間 取り分けられ、調べられ、試される のです。
ああ、これがどれほど完全に キリストを現していた ことでしょう!
彼こそ “完全なお方” でした。
敵でさえも、
彼に欠点を見つけることができませんでした。
ピラトでさえ、こう言ったのです。
「私はこの人に、何の罪も見いだせない。
水を持って来い。」
36. よくご覧ください。
あなたが このイエスをどう語るか というだけでなく――
もし今夜、私がこう呼びかけたとしたらどうでしょう?
「ゼカリヤよ、あなたは彼をどう思うか?」
彼は自分の証言を述べるでしょう。
私は エバ を呼ぶこともできます。
彼女はこう言うでしょう。
「あれは、女から生まれる“約束の種”でした。」
私は ダニエル を呼んで、
「ダニエルよ、あなたは彼をどう見る?」
と尋ねることもできます。
彼はこう言うでしょう。
「あの方こそ、山から切り出された“岩”だ。」
「私が預言した、“ひとりのみどりごが生まれ、
ひとりの男の子が与えられる“ その方だ。」
私は エゼキエル を呼んでみることもできます。
「あなたは彼をどう見る?」
と尋ねれば、彼はこう言うでしょう。
「私は見ました。
雲がその足の下にあり、
その方が動いておられるのを。」
私は バプテスマのヨハネ を呼ぶこともできます。
「ヨハネよ、あなたは彼をどう思う?」
そう尋ねれば、ヨハネはこう言うでしょう。
「私は彼を知らなかった。
だが荒野で私に語られた方が言われた。
“その上に御霊が降ってとどまるのを見たなら、
その方こそ聖霊と火でバプテスマを授けるお方だ“ と。」
私は マリヤ を呼ぶこともできます。
「マリヤよ、あなたは彼をどう思う?」
そう尋ねれば、彼女はこう言うでしょう。
「私は男を知りませんでした。
しかし聖霊が私をおおい、
“あなたのうちに生まれるものは神の子と呼ばれる”
と告げられたのです。」
37. 私は、ほかの人々にも尋ねることができます。
私は ローマ人 に言うかもしれません。
「あなたは彼をどう思う?」
あなたは言うかもしれません。
「彼の友人たちは証言するだろうが、
では“敵”はどうなんだ?」
では、ピラト を呼んでみましょう。
彼は水盤を取り、手を洗いながらこう言いました。
「私はこの人に何の罪も見いだせない。
だが、彼を連れて行って好きにするがよい。」
政治的な人気を得ようとしたのです。
その後、彼は北のノルウェー、スウェーデンのあたりで
自ら命を絶ちました。
そして毎年その地には、
再び青い水が湧き上がるのを見に来る者がいて、
「これはキリストから手を洗った水だ」と主張するのです。
だが――
あなたの手からキリストを洗い流すことなどできません。
できないのです。
次に、ローマの百人隊長 に尋ねましょう。
「あなたは彼をどう思う?
あなたは彼の敵側ではないか。」
彼は胸に手を当て、こう言いました。
「まことに、この方は神の子であった!」
38. ピラトはこう言ったのです。
「私はこの人に、何の罪も見いだせない。」
最初のピラトは――
態度も悪く、
あらゆる準備を整え、
イエスを罪に定める気満々で立っていました。
そのとき――
街道を馬のひづめの音が激しく響き始めます。
一頭の馬が駆け込み、
神殿の番兵のひとりが飛び降ります。
彼は、
折りたたまれた小さな紙切れを手にして、
ピラトの前に走り寄り、
ひざまずいてその紙を差し出しました。
ピラトはその紙を取ります。
まだ早朝で、
彼はコーヒーも飲んでいないような時間。
寝起きの頭で紙を開いたその瞬間――
彼の顔がみるみる青ざめ、
膝がガクガクと震え始めます。
私たちは、
そっと彼の肩越しに覗き込んでみましょう。
そこには何が書かれていたのでしょうか?
この紙には――
彼の 異教徒の妻 が書いた言葉がありました。
「この義なる方に、
決して関わらないでください。
私は今日、この方のことで
夢の中で多くの苦しい思いをしました。」
39. 「いにしえのイスカリオテのユダよ――
お前は彼についてどう考えているのだ?」ユダはこう言いました。
「私は “罪のない血” を売ってしまった。」
そして彼は縄を持ち、
自分で首をくくりに行くほどの“度胸”だけはありました。
彼もまた、
イエスを試み、そして自ら裁かれたのです。
では、神様――
あなたは彼をどう思われますか?神はこう言われました。
「これは、わたしの愛する子である。これに聞け!」
小羊は――まず最初に古い母羊(メスの羊)から生まれる初子でなければなりません。イエスはまさにその“型”でした。
処女マリヤから生まれた初めての御子(男子) であられました。
もちろん、マリヤは“処女”でなければなりませんでした。
40. よく注意してご覧ください。そしてもう一度見てほしいのは、
「全会衆がその小羊を屠る」 というところです。イスラエルの“すべての会衆”です。これはまさに 予表(プレフィギュア) なのです。
では読んでみましょう。「その月の十四日、イスラエルの全会衆は夕暮れにそれを屠らなければならない。」見えますか?
ここに完璧な型が隠されています。イスラエルの民は皆こう叫びました。「その者を取り除け!その血を、私たちと私たちの子らの上にかけよ!」カヤパから下の者に至るまで、皆が 彼の死に賛成し、証言した のです。「その者を除け!バラバをよこせ!」ご覧になりましたか?そしてイエスは午後3時(夕暮れ時)に息を引き取られました。まさに聖書が言うとおりです。「彼らは夕暮れにそれを屠る。」なんと美しい型でしょう!●血を門柱に塗る「彼らはその血を取り、食する家の戸口の二本の柱とかもいに塗らなければならない。」
「その夜、火で焼いたその肉を、種なしパンと苦菜と共に食べる。」ここは大切なので、どうか我慢してよく聞いてください。火で焼かれたものだけ「生でも、水で煮てもいけない。火で焼かなければならない。頭も脚も内臓もすべて。」●残してはならない「何一つ、朝まで残してはならない。残ったものは火で焼き尽くさなければならない。」
すべてが、完全なキリストの型・十字架の型 に重なっています。火は“裁き”、苦菜は“十字架の苦しみ”、種なしパンは“罪のないお方”を示します。
41. よく見てください。
なんと美しいことでしょう!
「さて、小羊を屠ったなら、
その血を受け、
戸口の“かもい”(上の横木)と、
二本の“門柱”に塗りなさい。
決して、敷居(足で踏む床)に塗ってはならない。
柱とかもいにだけ塗るのだ。」
気づきましたか?
これはまさに 完全な十字架の形 なのです。
ああ、なんということでしょう!
そして神は言われました。
「わたしが “血” を見るとき、
あなたがたの上を過ぎ越す。」●今こそ心に染み込ませるべき時
なんという日でしょう!
ああ、罪人よ――
男でも女でも、
少年少女でも――
どうかこの言葉を、
あなたの罪深い心の奥にまで染み込ませてください。
キリストの再臨の直前です。
今こそ、
私たちは真剣に自分自身を省み、
心を点検する時なのです。
よく注意して見なさい!
42. 神はこう言われました。
「その小羊は “夕暮れ” に屠られた。」
小羊は家の中に連れてこられ、
火で焼かれました。
もちろん、これは 聖餐の型 です。
そして神は言われました。
「その家に入り、
“朝まで” 決して外に出てはならない。」
アーメン!
一度 “血の下” に入ったなら――
(ハレルヤ!)
そこにとどまりなさい!
私は、この言葉が皆さんに
本当に届くことを願っています。
血の下へ、入るのです!
外では――
遠吠えする狼の声が
窓の外にまで迫ってくるかもしれません。
私は耳を澄まして、
エジプトの娘たちが家の外を通りながら
声をかけるのが聞こえてくるようです。
「ねえマーサ、
今夜のダンスには行かないの?」
しかしマーサは答えます。
「行く気なんて、まったくないわ。」
――血の下にいると、心が変わるのです!
何かが起きたのです!
43. 昔の聖所の時代、家の祭司は “父親” でした。
父が家族すべてを見守り、責任を持っていたのです。しかし今日の世の中ではどうでしょう?子どもが父親を監視しているような有り様です。
なんという変化でしょう!本来、父は家を守る者でした。
父は小羊を屠り、ヒソプを取り、血を戸口の柱とかもいに塗りつけ、
それが一家の 守り となったのです。そして家族は、
その家の中にとどまりました。外では、人々が好き勝手に騒ぎ、
楽しげにはしゃぎながらこう言っていたでしょう。「あの連中を見なよ!
なんて狂信者なんだ!戸口にあんな“羊の血”を塗って、
何だって? なにか起きる?まやかしだよ!」しかし――
“それは本当に起きた” のです!なぜでしょう?“神がそう言われたからです。”神が語られたことは、いつだって真理なのです。
44. そこに彼らは――
血の下にいた のです。
そして彼らには、
外へ出たいという欲望が一切ありませんでした。
アーメン!
「欲望ですって、ブラナム兄弟?」
――その通りです!
「今や、(ローマ8章1節)
キリスト・イエスにある者には、
決して罪の咎めがない。」
アーメン!
(自分に向かって “アーメン” と言っているのではありません。
“アーメン” の意味は「その通り」です。
しかし私はあまりに嬉しくて、
どうしても“アーメン!”と叫びたくなるのです。)
見てください、こう書かれています。
「キリスト・イエスにある者――
肉によらず、御霊によって歩む者には
いまや罪の咎めはない。」
これです!
キリストの内にある者は、
御霊が語られることを行いたいと願うのです。
世間が何と言おうと気にしません。
キリストの中にある者には、
いかなる咎めもありません。
御霊に従って歩む者には。
イスラエルの人々も皆、
その家の中で 満ち足りて いました。
アーメン。
さあ、ここを見てください。
私はあなたに、
今こそこの情景をしっかりと
見ていただきたいのです。
45. しばらくすると――
雲が立ちこめ、怒ったような夜空が広がり始めます。
人々は不安になって言います。
「いったい何が起きてるんだ?
なんだか妙な感じがするぞ…。」
兄弟よ、
もし 国々の上に“妙な空気” が漂ったことがあるなら――
まさに “今” がその時です!
何かが起ころうとしているのです。
ハレルヤ!
それでも、あの歌は変わりません。
“When I See the Blood,
I Will Pass Over You(血を見れば、わたしは過ぎ越す)“●父よ!今夜こそ、あなたの家の”戸口“を確認しなさい
今夜こそ、
戸口(心と家)に血があるか
調べる時です。
冷蔵庫の中のビール缶を投げ捨て、
トランプの束を家の外に放り出し、
家庭で祈り会を開きなさい。
あなたは執事(ディーコン)かもしれない。
あなたは理事(トラスティー)かもしれない。
あるいは、別の役割かもしれない。
しかし――
そんな肩書きでは守れません!●今この国が必要なのはただ一つ
“昔ながらの、
神から来る、
聖霊によって生まれた
リバイバル“です。
それが国を真っすぐに立て直すのです。
これは真実です。
46. 私たちが必要としているのは、
神学書や理論(セオロジー)などではありません。
いま多くの教会では、
立派な長椅子を並べたり、
巨大なパイプオルガンを備えたりしながら、
こう言っています。
「私はこの教団に属している。」
「私はあの会派に属している。」
しかし私は今夜、喜んでこう言います。
かつてパウロが王の前で語ったように――
「人々が“異端”と呼ぶ道にしたがって、
私は私たちの父祖の神を礼拝します。」
ハレルヤ!
“異端(ヘレシー)”とは、
この世から見れば 愚かで狂ったように見える ものです。
しかしキリストにある者たちにとっては、
栄光であり、喜びそのもの なのです。
「死んだ者たち。」
ハレルヤ!
そう――
「キリストのうちに隠された者たち」 なのです!
47. 「悪魔が私を取りに来たんです。」
いや、そんなことはありません!
あなたが “自分から” 出て行ったのです。
聖書はこう言います。
「あなたがたは死んでおり、
あなたがたのいのちはキリストとともに
神のうちに隠されている。」
そして――
「聖霊によって封印されている。」
悪魔がどうやって
あなたを奪うことができるでしょうか?
彼が奪ったのではありません。
あなたが外へ出て行ったのです。
その通りです。
なんと美しい真理でしょう!
48. では――子どもたちにも分かるように、少しだけ“ドラマ”にして描いてみましょう。よく見てください。過越の家族たちが、
いま “家の中” にいます。まもなく “零時(ゼロ・アワー)”――
何かが起こる直前の時間です。外では、いろいろなことが起こり始めています。私は、ダンス会場から若者たちが慌てて家路に走って帰ってくるのが見えるようです。馬車は全速力で走り、みんな家へ駆け込む。そして――強い風が吹き荒れています。どこから吹いているのか分からないほどで、ものすごい力で右へ、左へと吹きつけてきます。
そして兄弟よ――もし今の世の中がまさにそのような時ではないというなら、私はほかに説明できません。今の世界も、右に行ったり左に行ったり、人々は何をしてよいか分からないのです。
49. そして――ほどなく、地を揺るがすような大きな唸り声と轟きが、
国中を走り抜けるように聞こえてきました。私は、一人の“祭司のようなお父さん”が、家の中をしっかりとした足取りで行ったり来たりしながら見守っている姿が見えます。ハレルヤ。その時、小さな男の子が言います。「お父さん……ぼく、この家でいちばん年上の子でしょう?
なんだか怖いよ……。」すると父は揺るぎなく答えます。「心配するな、息子よ。血が戸口にある。」「でも、お父さん……こんな風の音、今まで聞いたことがないよ……。」父は静かに言います。「あれは――神のさばきだ。」
50. 「それこそ、私たちが今まさに向かっている先なのです!
神のあわれみを退けてしまえば、
残されているものは――さばきだけ。」
神の愛を踏みにじった時、
あなたの前に残る道は“さばき”しかありません。
そのとおりです。
あちらこちらで風が唸り、吠えたけるように吹き荒れている。
「これは一体どうしたことだ?」
――時代の混乱、国々の苦悩。
さばきです。
どの郡にも立派な人格者を配置したとしても、
もう止めることなどできません。
男たちは飲み続け、
女たちはタバコを吸い続け、
人々はショーに出かけ、
好き勝手に生きるばかり。
豚が泥に戻り、犬が吐いたものに戻るように、
神への敬意など少しも持たない。
そして、
正しく生きようとする人々を
“聖霊に酔った者”“ただの狂信者”と呼び捨て、
笑いものにする。
しかし――
あなた自身の魂こそが、
今まさに天秤にかけられており、
“さばき”以外のものを待っていないことに
気づかないのです。
はい、そのとおりです。
51. 私はその小さな子が言うのを聞くことができます。
「お父さん、ちょっと外に出て、血がちゃんと付いているか見てきてよ。」
そして、あの小さな男の子と女の子が
手をぎゅっと握り合いながら窓際に走っていくのが見えます。
「お父さん、来て!見て!」
私がその窓の外を見ると――
エジプトの大地を横切って、
大きな黒い翼が、ばさり、ばさりと広がり、たたまれながら進んでくる。
あれは何か?
死です。
その死が、
ふわりと大きく弧を描いて舞い降りる。
その瞬間、ある家から悲鳴が上がる。
――血がそこには無かった。
死がその家に打ったのです。
家族の分離、断絶!
兄弟姉妹よ、
今夜も“通り過ぎている”のです。
肉体的ではなく、霊的に。
当時、彼らを導いた主は、
今日、霊のイスラエルを同じように導いておられる。
あれは型、影であり、
今はその本体が現れているのです。
52. 私は、その先の家で、
ひとりの女性が外へ飛び出し、悲鳴を上げ、
家族が混乱に包まれているのを見ています。
長男が死んでいたのです。
すると、あの小さな息子が
お父さんの袖を揺すりながら言います。
「お父さん!ねえ、お父さん!
もう一度見てきてよ!ちゃんと守られているか確かめて!」
私はそのお父さんが、
ゆっくりと戸口に戻って行く姿を見ます。そしてこう言うのです。
「ああ、息子よ。ちゃんと付いている。」
「本当に…本当に守られているの?お父さん?」
「ああ、間違いない。」
「どうしてそんなに確かに言えるの?」
老いた父は、戸口の血を見つめながら答えます。
「神が言われたのだ。『わたしが血を見たとき、あなたの上を過ぎ越す』とな。」
――その約束に立っているのです。
その時、私は再び、あの“死の使い”が動くのを見ます。
上空を漂い、家々の上を旋回しながら、
ある家には急降下し、
またある家には近づかずに引き返す。
「血が見えた。」
そして、ついにその使いが
この家へと近づいてきます。
小さな男の子が言います。
「お父さん……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だとも、息子よ。完全に守られている。」
死の天使が戸口に降り立ち、
その大きな翼を広げ、
中へ入ろうとしたその瞬間――
“血”を見て、スッと引き返していく。
ハレルヤ!
なぜか?
『血を見たから』です。
53. そのあと――さあ、よく聞いてください。
「その肉を朝まで残してはならない。
少したりとも残してはならない。」
ここですね。読みたいのはこの部分です。
では、11節に進みます。
「あなたがたは、こうしてそれを食べなさい。
腰には帯を締め、
足には靴を履き、
手には杖を持って――
(兄弟たちよ、これは“準備ができている姿”なんだ!)」
54. では、今ここでエペソ人への手紙6章を開きましょう。
少しだけ読みます。
あの時代、彼らがどんな“身支度”をしたのか――
そして 私たちも今どう整えるべきか が書いてあります。
さあ、準備している方は エペソ6章12節 です。
「私たちの戦いは、血肉に対するものではない。
権威、力、この暗闇の世の支配者たち、
また、天にいる悪霊の力に対する戦いである。」
ほら、ご覧なさい。
今日、私たちが向き合っている“争い”がどこにあるのか。
“死の使い”の正体が何なのか。
それは霊的な力――
高い場所、影響力の大きな場所に潜んでいる邪悪の力です。
そこで聖書はこう言います。
「だから、あなたがたは神のすべての武具を身につけなさい。
邪悪な日に立ち向かうためである。
そして、すべてを成し遂げたのち、立ち続けるためである。」
立ちなさい!
揺るがず、立ちなさい!
「腰には真理の帯を締め…」
ここだけ触れておきます。
本当は続けて、「胸当て」「かぶと」など兵士が身につけるすべてを説明したいところですが――
今夜はそこまで時間がありません。
55. では、まず “腰”――
「真理の帯を締める」 ことから取り上げましょう。
この帯こそ、すべての武具をしっかりと支える中心です。
「あなたがたの腰を真理の帯で締めよ。」
兄弟姉妹よ、
今日という日は、いろいろな“イズム”や“狂信的なもの”が世の中を漂っています。
だからこそ――
しっかりと“真理”で自分を締め固める時です。ハレルヤ!
イエス様ご自身が言われました。
「わたしは真理である。」
真理そのもの!
人が「これはどうなんだ? あれはどうなんだ?」と言っても、
この“真理の帯”が腰にぐっと締まっていると、どんなに心が強くなることでしょう。
しっかり立ちなさい!
人が何を言おうと――
あなたは自分がどこに立っているのか分かっている。
神の武具すべてを身につけ、
真理の帯をしっかり締め、
神の御言葉が心にアンカーのように沈み込んでいるなら、
地獄の悪霊全部がかかってきても、あなたを揺るがすことはできません。
サタンが来ても、こう言えるのです。
「御言葉に書いてある。」
ハレルヤ!
「ヘビを手で掴んだことがあるのか?」
――いいえ、そんなことはしません。
私はイエス・キリストを信じています。
「これをしたのか、あれをしたのか?」
――いいえ、私は聖霊のバプテスマを受けたのです。
これが “真理の帯でしっかり締まった” 姿です。
そしてイスラエルの民は、食事をするときも準備万端でした。
神は、あなたがこの“霊の食事”(御言葉)を正しく受ける前に、
まず整えることを望んでおられるのです。
なぜなら、あなたの心におられる聖霊は、
“神の御言葉”によってこそ生き、働かれるからです。
56. 兄弟たちよ、教会が今日どうなっているか分かりますか?
私は、教会が貧血状態になっていると思うのです。
――“血”が抜けてしまっている!
たとえば、もし私が医者だったとして、
身長180センチもある大きな男の人が来て、こう言うとします。
「せ、先生……すごく弱っていて、立ち上がることもできないんです。
ふらふらして倒れそうで……。」
私は言うでしょう。
「どうしたんですか?」
「わからないんです。ただ弱くて……。」
私は尋ねます。
「身体の状態は? いつもの働きは?」
「ええ、それは問題ないんですが……。」
「じゃあ、最後にちゃんと食べたのはいつです?」
「ええっと……おととい……クラッカーを半分くらい……。」
私は言うでしょう。
「なんだって! それでは飢え死に寸前じゃないか!
しっかりした食事を食べなさい。そうしたら弱さなんて吹き飛びますよ!」
教会もまさに同じです。
人数は多い、組織も立派。
でも――
兄弟よ、教会は“飢えている”のです! ハレルヤ!
周りの人が何と言うか怖くて、
御言葉も、賛美も、祈りも、ほんの“クラッカー半分”くらいしか取らない。
だから弱るのです。
私たちに必要なのは――
古き良き、聖霊の大揺さぶり!
ハレルヤ!
両手を高く上げて、こう叫ぶのです。
「主よ、どうか私に食べさせてください!」
真理の帯を締め、武具を身にまとい、
そのまま堂々と前進していくのです。
57. 奇跡的な御業はすでに成されました。
そして38節にはこう書かれています。
「また多くの入り混じった民も、彼らと共に上って行った。」
兄弟よ――“混じりものの群れ”です!
大いなる奇跡が起き、
大リバイバルが燃え上がり、
人々が救われ、神のもとに戻って来た。
その波に乗って、
信者のふりをして上ってきた者たちがいたのです。
彼らもサンダルを履き、
同じように身支度をし、
あたかも同じ恵みに与ったかのように振る舞った。
しかし――
その混じりものの群れこそが、後になってイスラエルの民をつまずかせ、
心をエジプトへ引き戻した当人たちなのです。
今日も同じです、兄弟よ。
リバイバルが起これば、必ず“混じりもの”が入ってくる。
偽物も紛れ込む。
外側だけ真似て、信者のように見えるけれど、心は違う。
特に “予定” の話をし始めると――
(ブラナム兄弟はここで次につなげるために、ちょっと間を取るような語り方をしています)
58. ある人が先日わたしに尋ねました。
「では、“神が予定しておられる”というのなら、どうなるんです?」と。
わたしは答えました。
「ローマ人への手紙の8章と9章を読みなさい。
そうすれば分かりますよ。
神は、ご自分があわれむと決めた者をあわれむお方です。」
するとその人は言いました。
「それなら、説教なんてする意味がありますか?」
わたしは言いました。
「それは、あなたとわたし――
奉仕者の務めです。」
主イエスがおっしゃいました。
「神の御国は、網を持って海へ出た人のようなものだ。」
その人は網を投げ、そして引き上げた。
――それが福音です。
そして、その網の中には、
亀、水生昆虫、
ヘビ、オタマジャクシ、カエル、
あらゆるものが入っている。
けれども――
その中には “魚” もいるのです! ハレルヤ!
59. そして、リバイバルが終わり、
福音の網が引き上げられたとたん――
古い亀がこう言います。
「ほら見ろ、最初から何もなかったんだ。」
水生昆虫も言います。
「わたしもそう思っていたんだよ。」
そしてまた豚が自分の泥の穴へ戻るように、
元の生活へずり戻っていく。
蛇はこう言います。
「もともと信じてなんかなかったさ。」
――けれども、しかし!
そこには “魚” もいるんだ!
ハレルヤ! ハレルヤ!
だから、奉仕者たちよ、
今は“福音の網”を投げ、引き上げる時なんです。
魚を知っておられるのは神。
あの亀は、初めから亀だった。
あの魚は、初めから魚だった。
どれがどれかを知っているのは神だけです。
わたしたちの務めはただ、
網を水に投げ入れ、
引き上げ、
そしてこう言うだけです。
「主よ、ここにおります!」
ハレルヤ! アーメン!
そのとおりです。
これが福音の網なのです。
60. 皆さんね、最近こういう場面に出会ったんですよ。
「これから聖餐式をします」と言うので行ってみたら、
古い食パンを一つ持ってきて、
それをただザクザク切って、
そのままみんなに回している……。
そして教会中の人が、
どんな状態であろうと、そのまま“聖餐”を受けている。
兄弟姉妹、それは正しくありません。
聖餐を口にする前に、
まず心が神と正しい関係にあるべきです。
イザヤはそれを預言しました。(28章8節)
こう言っています。
「その卓は汚物で満ち、
汚れと吐しゃ物でいっぱいだ。」
そして主はこう問われるのです。
「誰に教えを授けられるか?
誰に悟りを与えられるか?」
答えは――
「乳離れした者、幼子ではない者だ」 と。
でも現実はどうでしょう?
私たちの“赤ちゃんクリスチャン”が、
まるで後ろで遊んでいるような状態のまま!
本来なら、
神の力について人を教え導く立場にあるはずの者が、
いまだに “これはやってもいいのか、悪いのか” と
同じところで言い争っている。
これこそが預言された、
「卓は嘔吐物で満ちている」
という状態なのです。
61. ここで止まれません。どんどん進みましょう。
さて、彼らは鎧をまとい、腰帯を締め、いよいよ出発しました。
まっすぐ紅海に向かって進んでいきました。
パロは最初、彼らを行かせてやろうとしましたが、
いざ出てみると……紅海の前、
左右は山と荒れ野、
背後にはパロの軍隊が迫ってくる。
もう逃げ場はどこにもありません。
しかし――
神の道は紅海を通っていたのです。
私はね、
神の導きがそこにあると分かるなら、
それ以上は何も気にしません。
ただ歩み続ければいい。
主は言われました。
「モーセよ、あの杖を取れ。
そしてそのまま海に向かって歩いて行きなさい。」
ハレルヤ!
モーセが尋ねます。
「主よ、いったい何が起こるのでしょうか?」
主は答えます。
「それはお前の知ることではない。
ただ歩き続けよ。」
アーメン!
トム・メリデス、そして他の説教者たちよ、
同じことです。
「この先どうなるんだ?」
それはあなたの知るところではない!
ただ福音を宣べ伝えよ。
ただ前進せよ。
神に栄光を帰しながら!
62. さあ、彼らは進んで行きました。
ある書き手はこう言っています。
「あの火の柱の中には神がおられ、
その怒りのこもった御目で下を見おろされた」 と。
するとどうなったか?
紅海が恐れおののき、
水が左右に退きはじめ、
イスラエルはからからの地を渡った。
足先ひとつ、泥にも触れずに。
ところがそのあとで、
エジプトの連中がこう言いました。
「あいつらと同じ人間だ。
同じように礼拝しているんだから、
俺たちもやれるさ。」
そして海の中へ踏み込んだその瞬間――
彼らは“自分たちにはできない”ということを知ったのです。
兄弟よ、
これと同じことが、いつか来ます。
ぬるい心で教会にいるだけの人、
クリスチャンを“まねているだけ”の人よ。
あなたがある日、
本物の聖霊の一団について行こうとした時、
あなたの車輪はどこか泥の中で外れるでしょう。
その日が来ます。間違いなく。
主を迎えに行った乙女は10人。
しかし賢い者は5人、愚かな者が5人。
油を備えなさい。
灯を整え、明るくしなさい。
いつか、
彼らは上げられて行く。
残された者たちはどうなるか?
そこには泣き叫び、
歯ぎしりがあるのです。
63. そして――
あの割礼を受けていないエジプト人たち。
なぜ彼らは渡れなかったのでしょうか?
理由は一つ。
彼らは“割礼を受けていなかった”からです。
つまり、契約の中にいなかったのです。
もし彼らが割礼を受けた“信者”であったなら、
神はイスラエルを認められたのと同じように、
彼らをも認めざるを得なかったでしょう。
――栄光!
ああ、今の私は自分の体が
二倍あればいいと思うほど、
“宗教的に燃えて”きています。
本当に感じます!
よく聞いてください。
彼らは契約の外にいた。
割礼を受けていなかった。
人間としては立派でした。
服装も申し分なく、
むしろイスラエルよりきれいだったでしょう。
生活も良かった。
家も立派だった。
“世の中の見方”で言えば、
ずっと上の階級でした。
教会だって行っていました。
イスラエルと同じように。
「神など知らなかった」なんて言わせません。
ヨセフがすでに
400年前に
神のことをエジプト中に知らせていました。
彼らも知っていたのです。
しかし彼らはこう思っていました。
「あの狂信者の集まりだって?
俺たちにできないことはない。
連中にできるなら俺たちにもできる。」
しかし――
彼らは失敗した。
神が認められたのは、
契約の“しるし”を持った者だけ。
イスラエルは通り抜け、
エジプトはそこで滅んだ。
64. だからこそ、あの若いダビデが立ち上がって叫んだのです。
「生ける神の軍勢が、
あの“割礼なき”ペリシテ人に
なぶられて黙っているというのか?
そんなはずはない!」
ダビデは続けました。
「私に行かせてください。
何か武器を与えてくれれば、
すぐにでも向かいます!」
アーメン、そうです。
今日も私たちには、
あのダビデのような者が必要です。
65. 彼らがあの海を渡りきり、
向こう岸に立ったとき――
神はその海をスッと閉じられました。
そして見てごらんなさい。
背後を振り返ると、
あの憎むべき監督たちが!
イスラエル人の背中をむち打ち、
彼らをねじ伏せ、
苦しめ続けてきた者たち。
その“圧政の象徴”が――
海の上で死体となって浮いている。
そのとき、ユダヤ人たちが
どんな気持ちだったか想像できますか?
兄弟姉妹よ、
あなたがイエス・キリストの血という“紅海”を通り抜けたとき、
あなたを縛りつけ、
あなた自身が望まない行いへと追い込んできた
あの“みじめな古い習慣”は、
みんな死ぬのです。
イエス・キリストの血の中で――
死に絶えるのです。ハレルヤ!
そしてそれらは、
流れに乗って、ただ下へ下へと
流されていくだけ。
66. だからモーセが“御霊の中に入った”のは当然なんです!
もし私たちが新しい宗教だと言われるなら——
まずここを見てください。
ミリアム、あの女預言者。
彼女は海辺を見渡して、
タンバリンを手に取り、叩きはじめ、
踊りはじめたのです。
そしてミリアムは
海岸を下りながら、踊り、歌い、タンバリンを打ち鳴らし、
イスラエルの娘たちも皆、その後に続き、
歌い踊ったのです。
その時モーセも両手を上げ、
聖霊に満たされ、
“御霊の中で歌いだした”のです。
ハレルヤ!
その通りです。まさにその通り。
そして——
その同じ聖霊が、
今この建物の中にもおられるのです。
ハレルヤ!
ミリアムを踊らせた“あの方”が、
今夜ここにもおられる!
神は神であり、
変わることはありません。
アーメン!
67. そして周りの人たちはこう言うんです。
「あの狂信者(ファナティック)の群れを見てみろ。」
でもね——
その時にはもう、
彼らを嘲笑う者なんて一人も残っていなかった。
あの冷笑家たちは皆、
海の底に沈んでいたからです。
イスラエルは
自由に、のびのびと、全てを自分たちだけで喜んだ。
ああ、やがて訪れる“栄光のその時”も同じでしょう。
なんと素晴らしい時だったことか!
さあ、ちょっと彼らを見てみましょう。
もしできれば、この次の数分で
「岩」まで彼らを連れていきたいのですが……
できるだけ頑張ります。
もう時間が遅くなってしまって、
本当にすみません。
でも、あまりに“良い気分で”——
どうしても今すぐには切れないのです。
だからあと少しだけお付き合いください。
さあ、彼らをもう少し眺めてみましょう。
私はこういう場面を見るのが大好きなんです。
68. あの大きな賛美が終わり、
あの大きな叫び声と“ハレルヤの祭り”がひと段落すると、
彼らは荒野の旅に出ました。
ところがその導きが、
まっすぐ“苦い水のところ”へ向かっていた。
不思議だと思いませんか?
ああ、なんということ!
彼らは誘惑のど真ん中へ、
試練のど真ん中へ導かれたのです。
水は苦く、飲むこともできない。
食べ物もない。
飲み水もない。
でも見てください。
マラの流れ——“苦い水”——
それが、神がご自分の子どもたちを導く“まさにその道の上”にあったのです。
不思議ですよね?
神が避けて通らせても良さそうなものなのに、
あえてその苦い水の前に導かれた。
思い出してください。
「ある者は水をくぐり、
ある者は洪水をくぐり、
ある者は深い試練をくぐる。
だが“すべての者”は血によって導かれる。」
それが——
神がご自分の民を導く道なのです。
69. そうです——彼らはそこに立ち尽くし、
「どうしたらいいんだ?」と叫んでいた。
ハレルヤ!
「私たちは主に従ってきた。
血を通り、
世界からも分離されてきた。
なのに今、どうすればいいのか?」
その時モーセが言いました。
「動くな! 立ち止まれ!」
その通りです。
そして——
どんな試練の中にも、
主は“逃れの道”を備えてくださる。
そこには一本の小さな木が、
脇に立っていました。
ハレルヤ!
モーセはその木を切り倒し、
水の中に投げ入れました。
するとどうでしょう。
苦かった水が甘くなり、
湧きあがるように澄んで、
喜びの水へと変わったのです。
そこには再び、
大きな歓声と賛美の時が訪れました。
アーメン!
70. ちょうどサタンがあなたを隅に追い込み、
「よし、こいつはもう動けない。
今こそ仕留めたぞ!」
と勝ち誇るその瞬間——
主が来られるのです。
そしてあなたの前に
十字架がストンと落ち、
(ハレルヤ!)
そこからあなたは突き抜けて進んでいく。
医者が言うかもしれません。
「もう手の施しようがありません。」
ああ、なんということ!
人が言うかもしれません。
「あなた、気が変になってきているんじゃないか?」
「もう正気じゃないよ。」
そんなことを言われた時こそ、
神がすっと現れて、
とてつもない祝福を注いでくださる。
もう全部忘れてしまいなさい。
神はあなたの行く道を完璧にご存じなのです。
アーメン。
ふう……
(ブラナム兄弟調で)
私は今、ここで“とんでもなく良い時間”をいただいています!
71. 見てください。
彼らには、もう食べ物が何もなかった。
持ってきたあの小さなパン切れも、
すでに全部食べつくしてしまった。
「これからどうするんだ?」
するとモーセは言いました。
「みんな今夜は寝なさい。
そして断食せよ。」
皆さん、やってみたことありますか?
ときには“良いもの”なんですよ。
翌朝——
彼らが外に出てみると、
地面いっぱいに“小さな白い丸いもの”が散らばっていた。
神が天からパンを降らせておられたのです。
人々はそれを拾い、
口に入れてみました。
聖書にはこうあります。
「その味は、蜂蜜をまぜた薄焼きの菓子のようであった。」
ああ、なんということ!
蜂蜜の味!
彼らは食べはじめ、言いました。
「これは美味しい!」
そして、
欲しいだけ拾い、
欲しいだけ食べた。
“岩から出る蜜のよう”に甘かったのです!
72. あなたがた知っていますか、
私はいつもダビデの話をこう言うんです。
ダビデはあの羊飼いのスリング……
いや、「羊飼いの袋(スクリプバッグ)」ですね、
あれをいつも腰に下げていましたが、
その中には“蜂蜜”を入れていたんですよ。
そして羊の一匹が病気になると、
彼はその袋を開けて蜂蜜を取り出し、
石灰岩(ライムストーン)の岩に
その蜂蜜を塗りつけたんです。
古くから知られた治療法でした。
するとどうなるか?
羊はその岩のところに来て、
蜂蜜を舐めるために “ぺろ、ぺろ、ぺろ” と舐めはじめる。
ところが蜂蜜だけでなく、
舐めているうちに 石灰岩の成分も一緒に摂るので、
羊はやがて癒されるのです。
なんと素晴らしいことでしょう!
さて今夜、
私の“羊飼い袋”にも
蜂蜜がいっぱい入っています!
そして私はその蜂蜜を
“岩”であるキリスト・イエスの上に
塗り広げます。
だから、
あなたがた小さな羊たちは
その岩を“ぺろ、ぺろ、ぺろ”と舐めなさい。
そうすれば——
必ず癒されます。
ハレルヤ!
アーメン、そうです。
ああ、そうです、主はそうされるお方です。
73. ……そのマナは、
彼らが旅のあいだ中、途切れることなく降り続いた。
止まることは一度もなかった!
ただし、神はこう言われたのです。
「一晩に必要な分だけ集めよ。
翌日の分まで余らせてはならない。」
ところがある者がこう言いました。
「今夜の集会でいっぱい恵みを集めておこう。
そうすれば明日の集会には行かなくても済む。
今日はたっぷり受けたから、明日は家にいても十分だ。」
いいえ、だめです!
そんなふうに“余らせて”おくと——
翌朝にはウジ(wiggle-tails)が湧いたのです。
アーメン、そうです!
これが今日、多くのクリスチャン経験に起きている問題です。
「兄弟、昔は喜びがあったんですが……」
そう言う時、ほとんどの場合——
“恵みを貯金しようとした”んです。
兄弟よ、
昨夜いただいた恵みは、もう昨日のものです。
今、私は何を持っているのか?
それが大事なんです!
ハレルヤ!
アーメン!
多くの人の経験は
“こわれた水溜め(broken cistern)” のようになっている。
水を貯めても漏れてしまう。
だから必要なのは——
毎晩、新しい杭を打ち、
毎晩、新しい一歩を踏み出すこと。
それこそが真理です。
その通りです、兄弟。
私たちが必要としているのは——
“古き良き、聖霊の新鮮な注ぎ”なのです!
74. ああ、教会ならたくさんあります。
立派な会員も山ほどいる。
今どきの教会はお金にも困っていない。
運営するのに必要な資金なんて、望むだけ集められる。
それらは全部そろっている。
でも——“火” がない!
想像してみてください。
ここ近くの機関車工場へ行って、
最新式の大きくて立派な機関車をずらっと造り、
それを運転するために
教育を受けた優秀な機関士を座らせる。
運転席はふかふかのベルベット。
客車には人が乗り込み、
「さあ、出発だ!」と言う。
そこで運転士はレバーを押す、押す、押す……
でも、機関車はピクリとも動かない。
彼は上を見て言う。
「よし、汽笛でも鳴らしてみよう……」
ところが——
汽笛を鳴らす蒸気さえ、たまっていない。
その通りなんです。
75. 多くの人は——
「アーメン」と言うだけの“蒸気”すら、溜まっていない!
(これは“おまけ”ですよ。)
ああ、ハレルヤ!
今の私たちに必要なのはこれです。
聞いてください。
文明というものは “火” から始まりました。
火を使った部族を調べてみればわかる。
火があるから服がつくれ、
火があるから光がともり、
火があるから食事を温められる。
文明社会に生きているなら、
あなたは “火によって生かされている” のです。
そして、
神の御前に生きる者は——
聖霊と“火” のバプテスマを受けている者です!
ハレルヤ! その通り。
さあ、“蒸気” を注ぎ込んで、
古いボイラーをぐらぐらと熱し、
ぽんぽんと弾けさせ、
ゆらゆらと沸騰させる。
そうすれば——
汽笛を引けば、
機関車は線路をまっすぐ走り出す!
その通りです。
今、私たちに必要なのはこれです。
76. 思い出すんですよ、兄弟。
前にランカッサンジ・クリークのあたりを歩いていたときのことです。
そこに“古い亀”がいましてね。
あれがまた、おかしな歩き方をするんです。
歩くたびに足をこう、ひょいっと投げ出すようにして。
この前、私の小さな娘にも、同じくらいの大きさの亀を二匹買ってやったんです。
今日もその小さな亀たちを眺めていて、私は笑ってしまいました。
あいつはね、足でこうやって頭を掻こうとするんです。
見てると可笑しくてね。
でも、ちょっと触ったり、何か刺激を与えると——
「シュッ!」 と甲羅に引っ込むんです。
これがまさに、
今日の“冷たい形式的な宗教”の姿そのものなんです。
「私は二度とあのリバイバルになんか行かないよ!」
——シュッ!
「私は長老派だ、メソジストだ、ルーテル派だ。私は○○派に属してる。ハレルヤ!」
ところが、ちょっと意見が合わないと……
「彼は私と考えが違う。もう結構だ。私は甲羅に戻る!」
——シュッ!
ああ、あの “閉じこもりの亀宗教” ですよ。。
77. それで私は言ったんです。
「よし、こいつを動かしてみせる。」
それで亀を小川へ連れて行きました。
まず最初に棒切れを持ってきて、叩いてみたんです。
でも、全然だめでした。
どれだけ叩いても、何の効果もない。
(そうなんですよ、兄弟。叩き込もうとしても無理なんです。脅したって、責めたって、何にもならない。)
それで私は言いました。
「よし、今度こそ動かしてやる。」
そして、その亀を水の中へ突っ込んだんです。
泡が少し プクプク と出ただけで、あとは全く同じ。
微動だにしない。
兄弟、上からふりかけても、注いでも、前からでも後ろからでも、どうバプテスマしても同じです。
乾いた罪人が水の中へ入っていき、
濡れた罪人として出てくるだけ。
ただそれだけ。
まだ罪人!
じゃあ、どうやってその亀を動かしたか?
私は一握りの小枝を拾って、小さなたき火を起こしました。
そして、その“おっさん亀”をその上に置いたんです。
そしたら、動いた、兄弟!
私は言いますよ。
今日、教会が必要としているのは、昔ながらの聖霊の火が、あちこちに燃え上がることなんです!
神に栄光!
それこそ、私たちに必要なものです。
火こそが教会を動かす。
ほかの何でもない。
アーメン。
78. さて、あれは「型」でした。
本当に、美しい“型”だったんです。
そのとおりです、兄弟。
あのマナが天から降ってきた――
それは、ただの出来事ではありませんでした。
あることを“表していた”のです。
神は、イスラエルが紅海を渡った後(血の型)、
そして彼らを苦しめていた監督たちが死んだ後、
彼らにそのマナを与えられました。
なぜですか?
彼らのいのちを支えなければならなかったからです。
彼らは故郷を離れ、
この世から区別され、
荒野を旅する巡礼者の身となっていました。
旅の途中にあったのです。
だから神は彼らのいのちを支えるために、
必要なすべてを備えると約束された。
そして、そのとおりになりました。
主は天からマナを降らせ、
彼らに食べるものを与え、
彼らの歩みを支え続けられたのです。
あれはまさに――
完璧で、美しい“型”でした!
79. ペンテコステの日――
この“教会”が産声を上げた日、
聖霊の教会が始まったあの日、
彼らは、自分たちの属していた教会や習慣、
すべてから離れて、
ただ聖霊のバプテスマを受けるために出て来たのです。
そして、彼らは待っていました。
「これからどうなるんだろう?
私たちの主は天に昇られた…。
でも、しばらくここに留まれ、と言われた。
“あなたがたを通して導く力を送る”と約束してくださった。」
ペテロが言った。
「私は、主にもう一度お会いしたくてたまらない。」
ヨハネが言った。
「ペテロよ、もし会えるなら、お前はどうする?」
「私が? ああ…
あの晩、主を否んだことが…
どんなに悔やんでも悔やみきれない。
もう二度とあんなことはしない…。」
すると――
突然、天から
激しい、力強い風が吹き下ろすような音が来て、
彼らの上に降って来た。
ローマの司祭が、
後ろに折り返したカラーをつけて、
「コーシャのパンです」「これが聖餐です」と
配りに来たのではない。
また、プロテスタントの牧師が、
「あなたに交わりの右手を与えます。
まず六か月は試験期間、
名前は会員帳に記載しますよ。」
そんなことをしたのでもない。
いいえ!全然ちがう!
でも――
“私たち”が今日やっているのは、
まさにそんなやり方なんですよ。
80. しかし、兄弟よ――
私が言いたいのはこうです。
それは、まさに “激しく吹きつける大風” のように、
天から下って来て、
彼らが座っていた家じゅうを満たしたのです。
ハレルヤ!
兄弟たちよ、その建物では収まりきらなかった。
彼らは通りへ飛び出し、
叫び、跳び、踊り、喜びあふれて走り回ったのです。
ちょっと待ってください、姉妹。
“あの”処女マリアもそこにいたんですよ。
そう、彼女も聖霊に満たされて、
まるで酔った人のようによろめいていたのです。
想像できますか?
カトリック教会でこれを言ったらどうなるでしょう?
メソジストでも、バプテストでも、長老派でも?
“処女マリアが聖霊に酔ったように見えた”なんて。
けれども――
神は、イエス・キリストの母さえも
天に帰る前に “聖霊のバプテスマ” を受けさせたのです。
そうであるなら、
あなたも私も、それ以下の道を行くことはできません。
襟の糊(スター チ)を抜いて、
プライドを脱ぎ捨て、
へりくだって来なさい。
その道しか、ありません。
アーメン。
81. 古のナアマンが預言者のところへ癒しを求めて行ったとき、
エリシャはこう言いました。
「ヨルダンに行って、七回身を沈めなさい。」
ああ、なんと彼の“名誉”にこたえたことでしょう!
「むむむ……」
彼は言ったのです。
「ダマスコの川のほうが、よっぽど良い水じゃないか?
どうしてわざわざあの汚い川に……?」
「私の教会だって、ほかの教会と同じくらい良いじゃないか?」
― いいえ。
神さまは “ここ” と仰せられたのです。
「でもブラナム兄弟、
あれこれ信じて、みんなに親切にして、
少し献金もして、きれいな礼拝堂があれば、それでいいでしょう?」
――いいえ、だめです。
『人は新しく生まれなければ、決して神の国に入ることはできない』
アーメン。
ナアマンはしぶしぶ歩いていきました。
まるでモラセスに足を突っ込んだトムキャットみたいに
ズボッ、ズボッと足を引き抜きながら。
「仕方ない、やるしかないか……」
そして――
ドボン! と1回沈む。
出てきても、まだ癒されない。
預言者は “七回” と言ったのです。
そして七度目――
彼の肌は、幼子のように清くなりました。
82. 兄弟よ、言わせてください。
ある人たちはこんなふうに言います。
「私はあの人たちみたいに、祭壇に出ていって泣きじゃくったり、鼻をすすったりなんて、そんなことしなくてもいいと思うんだ。」
―― それなら、そこでじっとしていなさい。
私は “主にさげすまれた少数の道” を選びます。
イエスと共に歩み始めたのです。
主よ、最後まで導いてください!
この古い福音は私を助けてきました、兄弟。
魔術師の医者(呪術師)たちの前に立った時も。
狂った人が壇上に走り寄ってきて
「今夜、お前を殺してやる!」と叫んだ時にも。
航空機が急降下して、
パイロットの顔が真っ白になった時にも、
この福音は私のそばに立ってくれました。
医者が私を見てこう言った時にも――
「あと3分の命です」 と。
その時も、福音は私と共にあった。
今も同じです。ハレルヤ!
私はこの福音が大好きです。
どれだけ受け取っても足りません。
アーメン、それは真実です。
83. では、これは私たちに何を表しているのでしょうか?
さあ、みんなが “この新しいマナ” に酔いしれた時――
「え?酔った?」
そうです。天から降ってきたものです。
モーセは言いませんでした。
「みんな、今夜はパンを多めに焼いておけよ」 と。
彼らには焼く道具なんて何もなかったのです。
旅人であり、寄留者であったから。道具など無かった。
だから 神が天から降らせた のです。
そうでしょう?
そしてちょうどそのように、神は天から聖霊を降らせた のです。
「じゃあ、モーセはどう言ったんだ?」
モーセは言いました。
「アロンよ。お前たちは外へ出て…さあ、上着をちゃんと着て、
いくつか大きなオメル一杯分、このマナを集めて来なさい。
そしてそれを聖所に納め、保管しなさい。」
それは 至聖所 に納められました。
そこに置かれたものは、腐ることがなかった。
聖なる場所で守られていたのです。
「これは何のためですか?」
モーセは言いました。
「世々にわたって、祭司として選ばれた者が
聖所に入ってくる時、
その者に '初めに降ったあのオリジナルのマナ' を
オメルから取って舌の上に置き、
味わわせるためだ。
彼はその務めにふさわしい者だからだ。
そして彼は奥の垂れ幕の向こうへ入る。」
“初めに降った本物のマナの味” を
その世代の祭司が味わうためでした。
その習わしは、時代を通してずっと続いた のです。
84. では――これがペンテコステと何の関係があるのでしょうか?
あの時、人々は “あの良いマナ” を食べて、叫び、喜び、まるで酔った者のように騒ぎながら賛美していました。
「私たちはどうしたらいいのですか?」
誰かがそう尋ねました。
するとペテロは言いました。
「悔い改めなさい。あなたがた一人びとり、
イエス・キリストの御名によってバプテスマを受け、
罪の赦しをいただきなさい。
そうすれば、聖霊の賜物を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、
また、遠くにいるすべての者、
すなわち、私たちの神である主が召される者すべてに与えられているのです。」
兄弟よ!ハレルヤ!
神の条件を満たし、
世から自らを切り離し、
“祭司” として垂れ幕の奥へ入る者は、
口いっぱいどころか、
心いっぱいに “オリジナルのマナ”――
ペンテコステの日に降った、あの本物の聖霊――
それを受けるのです。
似たようなものではなく、本物です!
ハレルヤ!栄光あれ!
彼らはその後、ただ続けて進んで行きました。
「これはいつまで続くのか?」
イエスが来られるその日までです。
マナは、彼らが約束の地に入り、
“古い穀物” を食べるようになるまで続きました。
そうでしょう?
85. さて、今は何時でしょうか?
ああ、すみません――私はもう二十五分も遅れていますね。
いやぁ、私がこんなに時間を越すなんて珍しいでしょう?
(会衆:〔笑〕)
では……あと少しだけ。
せっかくなので、きっちり三十分にするために、あと五分だけいただきましょう。
どうです?いいでしょうか?
86. それでは、急いで本文に戻りましょう。
彼らは荒野を通って来ました。見てください、今日とまったく同じです。
牧師の皆さん、落胆しないでください。
ほら、あの時代も今と同じでした……しかし覚えておいてください。
あのつぶやいた者たちは――ひとりとして――約束の地へ入れませんでした。ひとりもです。
彼らはエジプトのニンニク鍋を離れ、天使のパンを食べていながら、なお文句を言ったのです。
そうでしょう?
「でも、ブラザー・ビル……どうしたらいいのかわかりません。夫に捨てられてしまうかもしれません。」
――捨てられたらいいのです。
あなたはすべてから離れないといけません。
「自分の者を捨てて、わたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と主は言われました。
「お母さんが何と言うか心配です。」
お母さんが何と言おうと関係ありません。
大事なのは、イエス様が何と言われるかです。そうでしょう。
「ソーイング・サークル(手芸会)が壊れちゃうかもしれません。」
――壊れたらいいんです。
「では、文芸クラブやいろんな会はどうなるの?PTAにも入っているし……もし私が集会で叫んだりしたらどうなるの?」
――叫べばいいんですよ。
87. ある時、ひとりの年老いたお父さんがいました。
彼は聖霊で満たされて、もう喜びでいっぱいでした。
聖書を読んでは涙をこぼし、立ち上がって部屋を歩き回りながら賛美する、そんな毎日でした。
そのお父さんの娘さんは、彼と一緒に住んでいました。
ある日、娘さんは「小さなお上品なティーパーティー」を開く予定がありました。
そこで彼女は、「お父さんをどうにかしなきゃ」と思ったのです。
娘さんは言いました。
「お父さん、今日は女の人たちが来るのよ。あなた、そういう方々と一緒じゃ落ち着かないでしょう?」
お父さんは、
「そうじゃな」と答えました。
娘さんは続けます。
「だから、あなたに素敵な本を渡しておくわ。パーティーの間、屋根裏部屋に行って、それを読んでいてね。」
お父さんは言いました。
「わかったよ。」
娘さんは心の中で、
「これなら、お父さんが叫びだしたり賛美しだしたりすることもないわ」
――そう思ったのです。
「この本には、あの人が声を上げて喜ぶようなものなんて、ひとつも載っていないはずだわ。」
88. それで、そのお父さんは屋根裏部屋に上がっていきました。
娘さんが手渡したのは――なんと「地理の本」でした。
お父さんはページをめくりながら、
「ふむ、ヨーロッパ……アジア……」と読み進め、
次のページに移りました。
そこには「海」と書いてある。
その瞬間、お父さんの心に何かが触れました。
目を落として読んでいるうちに、
「ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!」
と叫び始め、足で床を踏み鳴らしました。
下の階の女性たちは驚いて、
「いったいどうしたの?」とざわつきました。
娘さんたちは慌てて階段を駆け上がり、屋根裏部屋に飛び込みました。
お父さんは、
「主をほめたたえよ! ハレルヤ! ハレルヤ!」
と、なおも喜びで叫んでいます。
娘さんが言いました。
「お父さん、どうしたの? 何があったの?」
お父さんは本を握りしめながら答えました。
「おお、可愛い娘よ。
おまえは、こんな“ええ本”をわしにくれたんじゃ。
ここに書いてある――
『この海には底がない』と!」
そして続けました。
「主イエスはわしの罪を“忘却の海”に投げ込んで、
“もう二度と思い出すことはない”とおっしゃった。
底がないんじゃ!
わしの罪は、どんどん沈んでいって――
まだ沈んどる!
ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!」
お父さんは手を挙げて叫びました。
「そうじゃ、まだ沈んどる!
海の底がないから、どこまでも下へ下へ。
わしの罪は二度と上がってこん!
ハレルヤ!」
89. 不平ばかり、つぶやきばかり――
「どうしたらいいのかわからないわ。」
ああ、なんということだろう!
つぶやきの連続です。
彼らはエジプトの“ニンニク鍋”を離れて、
天使のパンを食べる身になったのに。
エジプトの自信満々な医者たちを離れて、
“大医師”と共に歩く身になったのに。
「奇跡の時代は終わった」などと言う人々を離れて、
“すべてが可能”な世界の中に入ったのに。
それでも、まだつぶやくのです。
本当にそうでした。
彼らはエジプトの濁った泥水を離れて、
決して枯れることのない“いのちの泉”を飲ませてもらっていたのに、
なおも不平。
だからこそ、供給が断たれてしまったのです。
今日の多くの教会の問題も同じです。
つぶやきが多すぎて、天からの供給が止まってしまっているのです。
「牧師がどうの、執事がどうの、うちの教会がこう言うから…」
ああ、やめなさい、兄弟よ!
キリストを見なさい!
90. それから間もなく、モーセはこう言いました。
「彼らをここに連れて来なさい。ここに連れて来なさい。」
そして神は仰せになりました。
「岩に語りなさい。そうすれば、その岩は水を出す。」
モーセが岩に語ったとき……
その前に、彼はまず“杖”でその岩を打ちました。
その杖こそ、神の“さばきの杖”でした。
あれはモーセ自身の杖ではありません。
モーセそのものが、神の御手の中にあったのです。
そして――
モーセの手の中にあったあの杖が果たした働きこそ、
今日、教会に与えられている「イエスの御名」の働きなのです。
これは真理です、兄弟たちよ。
もし、エジプトの者たちがあの杖をモーセの手から取り上げることができていたら、
彼は一瞬で無力になっていたでしょう。
同じように――
もしサタンが、教会から「イエスの御名」を奪い取ることができたら、
あなた方をその御名から引き離すことができたら、
あなたは外に出てその御名を汚し、侮り、笑いものにするようになるでしょう。
そして、その汚した口で再び祈ろうとしても、
そんなことはできません。
イエスの御名は、聖く保たれなければならないのです!
その通りです。
91. 「イエスの御名を携えて行きなさい。
悲しみの子よ、苦しみの子よ。
試練があなたを取り囲むとき、
その聖なる御名を祈りのうちにささやきなさい。」
――そうすれば、
悪霊どもは、部屋の灯りをパッとつけたときに
床の上のゴキブリが四方に散って逃げるように、
一瞬で逃げていきます。
本当にその通りです。
92. ほら、彼らはそこにいたのです。
神はモーセに、「民をここへ連れて来なさい」と言われました。
そしてモーセは、あの裁きの杖を手に取り、岩を打ちました。
その瞬間、岩のわき腹に裂け目が走ったのです。
――その岩こそ、キリスト・イエスでした。
ハレルヤ、神に感謝します!
本来、あなたも私も滅びるべき罪人でした。
死に値し、神から永遠に離されるはずの者でした。
神の最初の裁きはこうでした。
「その実を食べる日に、あなたは必ず死ぬ」
その裁きが、カルバリでキリストに下ったのです。
私たちの代わりに、主はそこに吊るされ、
血を流し、呻き、死んでいかれました。
――アダムの子孫のための小羊。
いや、アベルのささげた小羊の成就、
“世界の基の置かれる前に殺された小羊” が、
あの十字架におられたのです。
93. そして、あそこからとても美しい型が現れます。
あの青銅の蛇が高く掲げられたのは、何のためでしたか?
――癒しのためでした。
しかもそれはただ一つの理由ではなく、 複合の理由(複合的贖い) がありました。
彼らは文句を言い、つぶやき、
神とモーセに逆らって罪を犯していました。
そのうえ、毒蛇にかまれて病気になり、
癒しを必要としていたのです。
そこでモーセは青銅の蛇を掲げました。
主イエスご自身が言われました。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、
人の子も上げられねばならない。」
同じ理由、同じ目的――
魂の救いと癒しのための“複合の贖い”です。
そして、打たれた岩から水がほとばしり出て、
死にかけていた民を生かしました。
新約でその成就が語られています。
「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
御子を信じる者が一人も滅びず、永遠のいのちを得るためである。」
ちょうど、荒野で死にかけていた民のために
青銅の蛇が掲げられ、
岩が打たれて命の水が与えられたように――
神はご自身の御子を高く掲げられました。
あなたが滅びることなく、
永遠のいのちを持つために。
94. 兄弟姉妹の皆さん、どうか今夜、イエス様をお受け入れください。
しばらく説教しておりませんでしたので、
今夜は、私の語り方が少し乱れてしまったかもしれません。
どうかお許しください。
感情があふれてしまうほど、
主が私に与えてくださった喜びがあまりにも大きいのです。
もう何日かすれば、落ち着いて、
いつものように教えることができるようになるでしょう。
しかし今夜――
あの写真に映っていた 神の御使い(エンジェル・オブ・ザ・ロード) が、
まさにこの講壇のそばにおられます。
それは何でしょうか?
契約の使い、主イエス・キリストご自身が
ご自身を現されているのです。
主があなたを祝福してくださいますように。
どうか今夜、イエスさまをあなたの個人的な救い主として
お受け入れください。
私は祭壇への招き(アルターコール)を、
聖霊が私にその導きを与えてくださるその時まで、
静かに待っています。
95. 私は信じています。
神がこの教会を聖霊で満たされる時、
――あまりの臨在の強さに、人々の叫びが
ジェファーソンヴィル中に響き渡るほどになるだろう、と。
私はその“決定的な瞬間”を、
毎日、毎晩、祈りながら待っています。
あなたがたも断食し、祈り続けてください。
子どもたちをひとつに集め、
家の中からすべての罪を取り除いてください。
ヤコブが言ったように――
「耳輪を外し、衣を洗いなさい」
備えなさい。整えなさい。
おお…私には聞こえます。
豊かな雨の響きが――近づいてくる音が!
どうか主が皆さんを祝福してくださいますように。
さあ、神の小羊に心を向けましょう。
頭を垂れて祈りに入りましょう。
96. 天の父よ。
あの美しい教会が、
完全な武具をまとって前進していく姿を思います。
彼らの衣は擦り切れることなく、
靴も四十年の荒野で傷むことはありませんでした。
その中にはひとりの弱った者さえいませんでした。
地上の医者はおらずとも、
大いなる医者が共におられ、
仕立屋もいなくとも、
創造主ご自身が衣を保ってくださいました。
深い水の中を通り、
燃える砂を歩き、
いばらの茂みに押し入り、
山を越えて進まねばなりませんでしたが、
すべての道の先を、火の柱が導いていました。
どうか、主よ――
暁の明星よ、私たちの前を進み、
私たちを導き、方向を示してください。
私たちの罪をお赦しくださり、
あなたのしもべとして歩めるよう助けてください。
主よ、
私がここで語ったこの拙い言葉をお取り上げくださり、
御言葉とともに
一人ひとりの心の奥深くに沈めてください。
決して消えることのないように、
そして
永遠のいのちをお与えくださいますように。
97. そして――
どうか皆さん、頭を垂れたままでいてください。
この中に、
誰にも見られないよう、
そっと手を上げてくださる方はおられますか。
「ブラナム兄弟、私のことを覚えて祈ってください。
私はまだ迷いの中にいます。
イエスを自分の救い主として知らず、
新しく生まれ変わっていません。
どうか私のために祈ってください。」
そう願う方、
いま、手をそっと上げてくださいますか。
――はい、神があなたを祝福してくださいます。
会堂のあちこちで、多くの手が上がっています。
なんと尊いことでしょう。
神があなたを祝福してくださいます。
ほかにおられますか。
「ブラナム兄弟、もし神が私の魂をお呼びになったとき、
あの“いのちの芽”が私の中にないことを、
私はよく分かっています。
私は彼をそのように知りません。
本当の意味で、生まれ変わったことがありません。
でも、そうなりたいのです。
どうか私のために祈ってください。」
そのように願う方、
どうぞ、今そっと手を上げてください。
――はい、十人ほどの方が。
ありがとうございます。
神があなたを祝福してくださいます、姉妹。
ほかにおられますか?
――はい、あなたも。
そしてあなたも。
神が祝福してくださいます。
98. さて、この中で、
「祈りの時に私のことも覚えてください。私は病んでいます」
――そのように願う方がおられますか。
「ブラナム兄弟、私のことを覚えて……私は病気なんです。」
そう思われる方、
どうぞ手を上げてください。
……はい、あちらこちらに手が上がっています。
多くの方が病の中にありますね。
そのまま頭を垂れていてください。
主よ、どうぞ今、罪人をお救いください。
さまよい離れてしまった者たちを、どうか憐れんでください。
主よ、彼らを恵みの家へと引き上げ、
豊かな良きもので養ってください。
どうか今夜ここを去るとき、
彼らがあなたとの契約を新たにすることができますように。
あの可哀そうな罪人の魂よ――
どうかその枕が今夜、
石のように固く、
安らげないものとなりますように。
主よ、厳しいように聞こえる祈りですが、
どうか彼の魂を失わせないでください。
もし、あなたを知らないまま
この世を去ってしまうとしたら……
あぁ主よ、それだけはどうかお許しになりませんように。
主よ、どうか助けてください。
彼を、そして彼女を、
ここにいる皆を、
どうか憐れんでください。
99. そして今、ここにおられる病める方々を、主よ、覚えてください。
かつてモーセが荒野であの青銅の蛇を掲げた時、
ただそれを見上げた者は皆、生きたのでした。
あの蛇は誰のためにも祈りませんでした。
彼らはただ――見て、生きたのです。
見た者は、生きたのです。
主よ、今夜この建物の中で苦しむ者たちも、
どうか十字架を仰ぎ見ますように。
あの向こうに――
平和の君が、我らのために架けられている姿を、
どうか見させてください。
あの青銅の蛇が罪を象ったように、
キリストは私たちのために罪となられました。
主よ、どうか今、
ここにいる一人ひとりを癒してください。
聖霊が彼らの身体の奥深くまで流れ込み、
その弱さを追い出し、
今この瞬間に癒しをもたらしてくださいますように。
アーメン。
100. 主よ、どうか祝福してください。
この道を歩み続けている旅人たち――
長い年月を戦い抜き、
賞を得るために血の海をくぐり、
激しい迫害にも、家庭の苦しみにも耐え、
それでもなお、旗を振り続けている
老いた兄弟姉妹たちを。
ああ、明けの明星よ、
主イエスよ、どうか導いてください。
いつか栄光の日、
私たちの偉大な船は港を離れます。
死が部屋に忍び寄り、
愛する人々が泣き叫ぶそのとき――
私たちは「シオンの古い船」が霧を切り裂いて
こちらへ向かってくる汽笛を聞くでしょう。
ハレルヤ!
彼女はそのまま霧の中を進み、
私たちの枕元にすべり寄って来るでしょう。
そして私たちはその船に足を踏み入れ、
あの“老いることのない国”へと渡っていくのです。
その時、
しわは消え去り、
白髪も跡形もなくなり、
主の栄光の体と同じ姿に変えられ、
私たちは主を「ありのままの姿」で見るでしょう。
そしてあの幸いな国で、
愛する者たちと再び会うのです。
主よ、どうか彼らに勇気をお与えください。
ああ神よ、この町を動かしてください。
罪人たちをお招きください。
魂の大いなるリバイバルが
ここに起こりますように。
どうか主よ、叶えてください。
この後の礼拝にも
ともにいてくださいますように。
主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
101. 主があなたを祝福してくださいますように。
では、皆さんがお帰りになる前に、
兄弟のアッシャーの方々、どうぞ前に来て、
あちらに置いてある小さな冊子と写真を取ってください。
(そして、兄弟アッシャーよ、どうか皆さん一人ひとりに、
この小冊子と写真をお渡しください。)
もし欲しい方がいらっしゃれば、どうぞお受け取りください。
私たちは本を売るために来たのではありません。
写真を売るために来たのでもありません。
欲しい方はどうぞ受け取ってください。
必要なければ、それで良いのです。
ただ、そのために持ってきているだけです。
それでは、コックス兄弟、フリーマン兄弟、
どうぞ前に来ていただいて、
各ドアのところに立って、
欲しい方々にお渡しください。
102. 主を愛している方は、どうぞ「アーメン!」と言ってください。
はい、ありがとうございます。
あの、赤ちゃんを腕に抱いておられる姉妹、
それからこちらのピアノを弾いてくださる姉妹は…
もし立っておられるなら、そのまま前に出てきてください。
少しの間で構いませんから、ピアノで和音(コード)を一つ弾いていただけますか。
さて、覚えていてください。
集会は明日の夜から始まります。
そして、明日の夜はどこから始めるかご存じでしょうか?
イスラエルの子どもたちを、カデシュ・バルネアへと連れて行きます。
あそこは“裁きの座”です。
そして、ヨシュアとカレブが向こうの地へ渡り、
その良い報告を持ち帰る、あの場面に入っていきます
103. そして――主が望んでおられるなら――
日曜日の朝は質疑応答の時間を持ちたいと思います。
主がよしとしてくだされば、それを行いましょう。
そして日曜の夜には、
イスラエルの子どもたちを ついに約束の地へ 連れていきます。
ハレルヤ!
ヨルダンが押し返され、あの濁った流れが道を開く。
彼らがエリコの城壁に近づき、叫びをあげると――
城壁は崩れ落ち、彼らはその地を取る!
ハレルヤ!
そして、私たちはそこにある
遊女ラハブの家の赤い紐を見ます。
彼女があの斥候たちを窓から降ろした、
あの救いの印が――しっかりと垂れ下がっているのを。
さらに、もし主が許してくださるなら、
来週はそのまま進んで、黙示録に入り、
さらにダニエル書へと進みながら(ハレルヤ!)
すばらしい、栄光に満ちた時を過ごしたいと思います。
主を愛している方は――アーメン!
はい、よろしいですね。
104. さて――この賛美歌をご存じの方、どれくらいおられますか?
(ちょっとだけ…「家族の祈りを忘れないで(Don't Forget the Family Prayer)」、知っていますか?)
では、伴奏なしで歌ってみましょう。
この小さな古い賛美歌「家族の祈りを忘れないで」を知っている方、どれくらい?
はい、それではゆっくりと始めましょう。
家族の祈りを忘れないで、
イエス様はそこであなたに会いたいと願っておられます。
主はあなたのすべての重荷を取ってくださいます。
ああ、家族の祈りを忘れないで。
ご家庭で「家族の祈り」をしておられる方、どれくらいおられますか?
見せてください。——よろしい。
では、姉妹が今、伴奏のコードを取ってくれましたね。
さあ、もう一度やってみましょう。さあ行きましょう。
家族の祈りを忘れないで、
イエス様はそこであなたに会いたいと願っておられます。
主はあなたのすべての重荷を取ってくださいます。
ああ、家族の祈りを忘れないで。
105. (それでは、閉会の賛美を歌いましょう。「イエスの御名を携えて(Take the Name of Jesus With You)」——皆さんご存じですね?)
では、しばらくご起立ください。
今から一節目を歌う間に、どうぞ周りをくるっと向いて、隣の方と握手をしてください。そしてこう言ってあげてください。
「わたしは○○です。——今夜、タバナクルに来てくださって本当に嬉しいです。またお会いできますように。」
主が皆さんを祝福してくださいますように。
ただし、まだ帰らないでくださいよ。正式に、いつもの順序で解散しますので、あと少しお待ちください。
(兄弟たちはドアのところに立っていてくださいね。)
さあ、行きましょう。
♪ Take the name of Jesus…(イエスの御名を携えて…)
はい、後ろの方も握手をして、挨拶してください。
その通りです。みんなで握手しましょう。
もし誰かに対してわだかまりがあるなら、今その人のところへ行って手を握ってください。
言ってあげてください——
「いいえ、私たちは同じ旅路を歩む巡礼者です。」
....それはどこへ行っても。
尊い名、なんて優しい!
地球の希望と天国の喜び。
[ブラナム兄弟は誰かにわきに話します。]
地球の希望と天国の喜び。
さて、今よく聞いてください。
お辞儀をするイエスの名において、
彼の足元にひれ伏し、
天国の王の王私たちは彼を戴冠させます、
ああ、私たちの旅が完了したとき。
貴重な名前(貴重な名前)、なんて優しい!
地球の希望と天国の喜び。
貴重な名前(貴重な名前)、なんて優しい!
地球の希望と天国の喜び。
106. 「今夜ここにお越しくださって、本当に嬉しく思います。
どうぞ、明日の夜も来られる方は戻って来てください。もし、どこかの“持ち場(post of duty)”がないのなら、ぜひここで共に礼拝しましょう。」
「さて…ポーツマス(オハイオ州)から来ておられるスティール長老が、今ちょうど前の列に立っておられます。
それでは、スティール兄弟に、閉会のお祈りをしていただきましょう。——どうぞ、スティール兄弟。