イスラエルと教会#2

Israel And The Church #2

イスラエルと教会#2

ジェファソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国

説教番号: 53-0326

日付: 1953年3月26日(53-0326)

PDFダウンロード:

1. …この集会の期間を通して、
今、私たちは聖書を開きます。出エジプト記の第一章です。
今夜ここから学びを始めようとしております。
これは大変長い、非常に長い学びでありますが、
それを数夜にまとめようと努めています。
このようにする理由は、
私は、このリバイバルがイースターの期間、
あるいはその後までも続くと信じているからです。
たとえ主が導かれる働きであっても、
私たちがまだ“手探り”で歩んでいる時には、
あまり多くを一度に始めない方が良いのです。
私は、そのように慎みつつ主を仰ぐ歩みを、
心から大切にしている者です。
2. なぜ、私は今回このリバイバルの場にいるのか──
実のところ、私自身にもよく分からないのです。
すべてが、私には“奥義”のように思えます。
今日の午後、マネージャーが
メイコンやナッシュビル、その周辺で予定されていた集会の件で
私に電話をしてきましたが、
それらの予定を一切取りやめました。
中には、三年、四年、いや五年ほども
ずっと借りようとしていた大きな会場もあり、
二万人近く収容できる場所もありました。
私たちが先にいたメリディアンの集会では、
中に四千五百人が入っており、
外には雨や嵐の中、どれほどの方々が
立ち尽くしておられたのかも分かりませんでした。
タラハシーを出た時もまったく同じでした。
人々を収容できる場所すら確保できなかったのです。
その時、聖霊はこう言われました。
「止まりなさい。今すぐ家へ帰りなさい。
待ちなさい。わたしはあなたを海外に遣わそうとしている。」
それで──
私は今、ここにいるのです。
3. 私はちょうど七つの集会をキャンセルしたところでした。
七つ──すべて取り消したのです。
その中には、ここインディアナ州の
コーナーズビルで予定されていた集会もありました。
さらにカナダのアルバータ州では、
二万五千人を収容できる大きなアリーナを
ようやく借りることができて、
国をあげての大規模な伝道を始めようという矢先でした。
三万、四万人は来るだろうと期待されていたのです。
しかしその時、聖霊がこう言われたのです。
「止まりなさい。」
そして今夜、
このタバナクルに来るように導かれたのです。
主が語られることには、従わなければなりません。
「そんな大勢の人を残して、
こんな小さなタバナクルに来るのですか?」
そう言われる方もいるかもしれません。
でも、ちょっと待ってください。
私たちは“神に仕えている”のです。
4. ピリポもまた、大きなリバイバルのただ中にいながら、
サマリヤ全体が揺り動かされている最中に、
主に導かれて荒野──ガザへと出て行きました。
そしてそこで、たった一人の人に出会うために
立ち尽くしたのです。
その一人──エチオピアの宦官ですね。
彼はそこで悔い改め、主に帰りました。
そしてピリポは、
サマリヤでのあの大リバイバルの場へ
二度と戻ることはありませんでした。
……そうでしょう?
5. 私たちは、聖霊の導きに心から感謝しています。
私たちは、導かれるままに進まなければなりません。
そして私は、この集会のためにここへ来るよう、
非常にはっきりと導きを感じたのです。
(私はちょっと……? ああ、すみません、兄弟。
フリーマン兄弟、よろしければこちらに何冊かあります。
まだ聖書をお持ちでない方にお配りください。)
今夜は旧約聖書から学びます。
旧約を中心に取り上げるのは、
私たちが“型”──パターンを学んでいるからです。
(もし聖書が必要な方は手を挙げてください。
兄弟たちがあなたのもとへお届けします。
そしてどうぞ、聖書と鉛筆、ノートをお持ちください。
テキストを書き留められるように。)
6. 昨夜は、少し遅くまでかかってしまいましたね。
今夜は、もしできるなら、その分を取り戻せるよう最善を尽くしたいと思います。
私は御言葉が本当に好きで、いったん入り込むと、
もう自分を忘れてしまうのです。
昨夜は創世記から黙示録まで、ずっと通して行きましたね。
時間も周りも、すっかり忘れてしまいます。
実はこのような集会を開くのは、
来週でちょうど七年ぶりになるのです。
タバナクルでのリバイバルを閉じた時──
皆さん、あの時の私の最後の説教を覚えておられますか?
「この割礼なきペリシテ人はだれか。
生ける神の軍勢をあざけるとは。」
あれがタバナクルでの私の別れのメッセージでした。
七年前、ちょうどこの週のことです。
あの時、私の小さな娘は生後二週間でした。
私は主にこう約束しました。
「彼女が無事に生まれるまで生かしてくださるなら、
その後、私は出て行きます。」
それからというもの、私は旅を続けてきました。
一晩、または二晩、ときには短い集会を重ねながら。
主は本当に大いなる祝福をくださいました。
この七年間で、私たちの集会を通して
およそ五十万の魂が主に立ち帰ったのです。
考えてみてください! 七年で。
一日で三万人の日もありました。
思い出すだけで胸がいっぱいになります。
今日、アフリカから届いた手紙にはこう書かれていました。
「南アフリカ全体が再び揺り動かされています。
あとは日程を知らせていただければ、すぐにでも迎える準備ができています。」
ああ、なんということでしょう!
7. そして主は私に幻をお与えになりました。
そこには、こう告げられていたのです。
「インドでは、一つの集会に三十万人が集まる。」
どうぞ、これを記しておいてください。
その通りになるかどうか、見ていてください。
さて──このことについてはここまでにしましょう。
これは“癒し”に関することですから。
今、私はその部分から少し心を緩めて、
ただ御言葉を教えることに集中したいのです。
私は教えることが上手ではありませんが、
それでも、私が知っていることを
語らせていただくのが大好きなのです。
8. そして今度の日曜日の朝には、
“聖書に関する質問”の時間を持ちたいと思っています。
皆さんが、聖書について私の意見を聞きたいと思うどんな質問でも結構です。
できるかぎり、聖書そのものからお答えするよう努めます。
ですから、日曜日の朝までに──
遅くとも土曜の夜までに、
どんな質問でも持って来てください。
あなたの心を混乱させていること、理解できないこと、
どんな聖書の疑問でも構いません。
日曜日の朝は「質問の日」です。
どうですか? いいでしょう?
もしあなたが、
「どうしてこんなことが成り立つのか、私には分からない」
と思うことがあるなら、
そのまま持ってきてください。
一緒に見てみましょう。
もしかすると、皆で一緒に考えることで
答えが与えられるかもしれません。
私は、聖書と一致する形でお答えするよう
全力を尽くします。
というのも、
聖書に根拠がなければ、どんな教えも正当ではない
と私は信じているからです。
9. さて、昨夜は“教会の最初の始まり”を取り上げましたね。
神がだれに約束を与えられたのか──
それはアブラハムです。
アブラハムこそ、私たちすべての父です。
神の約束はアブラハムに与えられ、
ただ彼と、その“子孫”に与えられました。
そうですね?
しかしその“子孫”とは、
アブラハムの肉の子どもたちすべてを指すのではなく、
「イサクによってあなたの子孫は呼ばれる」
と書かれている通りです。
そうでしょう?
そしてその“アブラハムの子孫”の結果がここにあります。
イエス・キリストこそ、アブラハムの真の子孫です。
そして私たちは、キリストにあって古き自分に死んだ者として、
アブラハムの子孫を受け継ぎ、
約束にしたがう相続人となるのです。
アーメン。
神の御名がほむべきかな!
10. 私たちここにいる者たちも、だいぶ年齢を重ねてきました。
男でも女でも、二十五歳を過ぎれば──
まあ、正直に言いましょう──
若い時代はもう過ぎてゆきます。
そうでしょう?
けれど、夕日の沈む方を見つめながら
あの栄光の約束を思う時、
これは何を意味するのでしょうか?
人生は終わったのでしょうか?
──いいえ。
人生は、まだ始まってすらいません。
私たちは、いまようやく“歩き出した”ばかりなのです。
私はいつも願っているのです。
時間というものに縛られず、
ただ落ち着いて腰を据え、
聖書の中に隠されたあの真理を
皆さんの前でゆっくり明かすことができたら、と。
そこには本当にあるのです、皆さん。
私は、神の聖書と聖霊のお助けによって、
こう証しすることができます。
キリストにあって新しく生まれた皆さんの白髪は、
ある日、必ず変えられます。
あなたの顔のしわは消え、
あなたは再び若い男、若い女に戻り、
そしてキリスト・イエスと共に永遠に生きるのです。
私は聖書の中で、神ご自身がそれを示し、
その影と印を置き、
約束し、さらには誓っておられる箇所を
お見せすることができます。
ああ、何と驚くべきことでしょう!
「その時、私は妻を愛しているでしょうか?」
──もちろんです。
今よりも、もっと深く愛します。
どうやってそんなことが可能なのか私は分かりませんが、
そうなるのです。
「彼女は私の……?」
──もちろん、私の連れ合いです。
そこにはもう子どもを産むことなどありませんが、
この地上で私たちが授かった子どもたちは、
もし“新しく生まれた者”であるなら、
あちらでも私たちと共にいるのです。
そうなのです。
何と素晴らしいことでしょうか!
11. 私は昔、こう思っていたのです……。
母がよく私に言っていました。
(お母さん、ごめんなさいね──あれはお母さんも、まだよく分かっていなかった頃です。)
「天に行ったら、翼が生えて、あちこち飛び回るのよ」と。
そう教えられたものです。
でも私は、食べたり、飲んだり、人と握手したり、
交わりを持つことが大好きなんです。
だから私は思っていました。
「ああ……じゃあ天に行ったら、それは全部なくなるのか。」
──ところが、そうではなかったのです。
私は気づきました。
神は私を“天使”として造られたのではありません。
神は私を“人間”として造られたのです。
そして私は、永遠に“人間”のままであって、
天使になることはありません。
天使になるという考えは誤りなのです。
神は天使を造られました。
確かに、神は翼のあるケルビムたちも造られましたし、
翼のない天使たちも造られました。。
12. 私がまだ罪の中にいた頃、
あの古い歌──
「茶色い瞳の天使が私を待っている」
そんな歌を、ああいう場所でよく耳にしたものです。
その時は、
「まあ! 天使が待っているのか……?」
と、本気で思っていました。
けれど私は後になって知りました。
あれは悪魔のつくり話であって、
そんなことは聖書には一つもないということを。
私たちは、はっきりと
“男と女として造られた者”です。
そして私たちは、
この地上に“男として、女として”
再び戻ってくるのです。
そうです。
これが神の教えです。
こうした真理を知れば知るほど、
私たちは一層、
イエス・キリストを深く感謝するようになるのです。
13. さて今夜、私たちがしようとしていることは──
旧約が新約に対してどのような“影”を落としているか、
その関係を見ていくことです。
聖書はこう言っています。
「旧いすべてのものは、来るべきものの型(タイプ)であり影である。」
今夜の学びは本当に美しいテーマです。
出エジプト記──。
昨夜、私たちはイスラエルの民のところまで進みましたね。
さて皆さん、質問です。
“イスラエル”と名付けられる前、
彼は何と呼ばれていましたか?
答えられる人、いますか?
(牧師の方以外ですよ! いま手を挙げたの、牧師さんでしたね。
では、牧師さん以外で。)
──はい、その方。
「ヤコブ」、その通りです。
では、どうして彼は“霊の名”であるイスラエルを
与えられたのでしょうか?
(何か言いましたね? はい、その兄弟。)
「御使いと争って勝ったから」
そうです。
彼は御使いと格闘し、
そして言ったのです。
「私はあなたが祝福してくださるまで、あなたを離しません。」
皆さん、
もしあなたが“霊の名”を得たいと思うなら──
今夜、聖霊をしっかりつかんで、
こう言うのです。
「主よ、あなたが私を祝福してくださるまで、
私はこのタバナクルを離れません。」
そうして出て行くなら、
あなたが目にするもの、
あなたの心に映る世界は、
すっかり違って見えるでしょう。
ヤコブがそうであったように、
あなたも決意をもって求めなさい。
そうすれば、必ず祝福を受けます。
14. そして──見てください。
御使いがヤコブのもものつがいに触れたとき、
ヤコブは“違う歩き方”になったのです。
アーメン。
どうか、この意味が
皆さんの心の奥深くまで届きますように。
神と取り組んだ人は、
その後、必ず “歩き方が変わる” のです。
よく見てください。
あの小さな川──浅瀬の向こう側にいたヤコブは、
力強く、堂々とした男でした。
しかし彼は神から離れ、
兄から逃げ、
神から逃げ、
心は背教したままでした。
それでも身体は頑丈で、力に満ちていました。
ところがその川を渡って戻ってきた彼は──
足を引きずる “王子” でした。
御使いは言いました。
「あなたは神の前において、王子である。
あなたは神と力を争い、勝ったのだから。」
ヤコブはその後の生涯ずっと、足を引きずりました。
しかしそれは“敗北の印”ではなく、
神と出会った者の“栄光の印”だったのです。
ああ──神のなさることは、なんと不思議で、
なんと素晴らしいことでしょう!
15. さて、昨夜は創世記のところで話を終えました。神が約束を与えられた“四人”──
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ。その四人の最後がヨセフでした。
これは何を示しているのでしょうか?昨夜見たように、今日のクリスチャン教会に当てはめると──アブラハムには “選び(エレクション)”イサクには “義認(ジャスティフィケーション)”ヤコブには “恵み(グレース)”が表されていました。
ヤコブの人生を読むなら、“恵み”を信じずにはいられません。あの人がしたことを思うと……!それでもなお神は彼を祝福し、神は彼に何が起こるかを前もって語り、彼を“召し”によって導かれました。しかし注意して見ると、ヤコブがあの御使いと格闘した後からは、すべてが違って見えるようになりました。そして彼がパロの前に立ったとき、彼はこう言いました。「わたしの旅路は、これこれの年数です。」神は彼に、“自分はただの旅人である”ということを悟らせておられたのです。そして──ヨセフには “完全(パーフェクション)” が表されていました。
16. よく見てください。ここには三つの段階があります。
信仰による義認、血による聖化、聖霊のバプテスマ。
そしてその後に来るのが、 完全──栄化(グロリフィケーション) です。
聖書はこう言っています。「神が義とした者を──その者を、栄光も与えた。」
これは“霊の目”に対して語られている言葉です。そうですね?
「神が義とされた者」──ということは、もし神が今すでに私たちを義と認めてくださっているのなら、神のご計画の中では、私たちはすでに栄光化されているのです。“いつか栄光化される”のではありません。聖書はこう言います。
「すでに(hath)栄光を与えた」 のです。
──これは深いですね。
しかし、これが聖書の語っている真理なのです。
17. 神はアブラハムにこう言われました。
「わたしは、あなたを祝福した。
あなたを多くの人の父と“した”。」
「するだろう」ではありません。
「した(I have)」 のです。
「わたしはあなたを父と“した”。
そして、あなたは老年になってわたしのもとへ来る。
あなたは救われる。
すでに、わたしはそうしたのだ。
あなたが何かをする必要はない。
これは“無条件”なのだ。」
神は、ご自身の教会をお持ちになることを
あらかじめ定めておられました。
歴史の中で神が人と契約を結ばれるたび、
人間はその契約を破ってきました──
そして今も破り続けています。
人間は、いつの時代も必ず
自分の側の契約を破ってしまうのです。
しかし──
神は、人との契約を破ることはできません。
だからこそ、神は言われました。
「わたしが行う!(I will!)」
18. あなたがたもお気づきのように、
神が初めにアダムに語られた時──
神はこう言われました。
「これをしてはならない。
これはしてよい。
そして、あれをしてはならない。」
ところがアダムは、
その言葉を聞いたすぐあとで
その戒めを破ってしまいました。
しかし神は、
アダムが失われたことをご覧になりました。
そこで神は言われたのです。
「わたしが、敵意を置く。
あなたの子孫と、蛇の子孫との間に
わたしが、敵意を置く。
そして彼(キリスト)は蛇の頭を砕き、
蛇は彼のかかとを砕くであろう。」
19. さて、「わたしがする(I will)」──これは神がおっしゃる言葉です。
神が「する」と言われたなら、それは必ず成し遂げられます。
人間が「やります」と言った時は……まあ、それは分かりませんが、
神がおっしゃったなら、必ずそうなるのです。神はアブラハムにこう言われました。「わたしは、あなたを救う。そしてあなたの子孫も救う。」
これはアブラハムだけでなく、アブラハムのすべての子孫に対しての約束でした。──無条件の約束です!すみません、ちょっと叫びたくなるほどなんです。
よく考えてみてください!ああ、皆さん……あなたがたは、これが何を意味しているのか、どれほど大きな恵みなのか、その深さを感じておられないかもしれません。もしかすると、まだそこまで深く思いを巡らせたことがない方も
おられるかもしれません。
20. 神は、すでにご自分の教会を“栄光化”しておられます。神が義とされた者を、神はまた栄光に入れられました。教会の中で──キリストのうちで。
もしあなたがキリストにあって義とされているなら、あなたはすでにキリストにあって“栄化されている”のです。神の側から見れば……
それはすでに完了しているのです。イエスは言われました。
「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい。」では、どうすれば“完全”になれるのでしょうか?しかし──
キリストの目から見れば、新しく生まれたクリスチャンは皆、完全なのです。
今夜、神の前で私は、キリストが完全であられたのと同じように、
完全な者として見られています。あなたも同じです。他のすべての信者も同じです。なぜなら、それは“私自身の聖さ”ではなく、キリストの聖さだからです。
神は私自身の聖さを受け入れることはできません。私には何一つ、そんなものはありません。しかし私は、キリストのうちへ、信仰によって入れられた者です。
キリストのうちにいるゆえに、私は神の目には“完全”なのです。
21. ご覧ください──。
「一つの御霊によって、
私たちはみな一つの身体にバプテスマされ、
その身体の肢(メンバー)となった。」
そしてローマ8章1節にはこう書かれています。
「キリスト・イエスにある者には、
今や、いかなる罪の咎もない。
肉に従わず、御霊に従って歩む者には。」
キリスト・イエスのうちにある人は、
“霊のこと”を求めて歩むのです。
世の人から見れば、
それは肉にとって愚かに思えるかもしれません。
しかし、信じる者にとっては永遠のいのちです。
アーメン──そうです。
ああ、なんと素晴らしいのでしょう!
では、いったい何があなたを害することができますか?
あなたはキリストのうちにいるのです!
そして、神がイエス・キリストを
死者の中からよみがえらせた確かさと同じように、
私たちも“キリストのうちにある者”として
よみがえらせられます。
アーメン。
そうです、私たちは必ずよみがえります。
なぜなら、神がすでに約束してくださっているからです。
そして──
キリストの御身体が上げられるとき、
私はその身体の一部なのです。
ですから私は、
その身体とともに上げられないはずがないのです。
22. さて──「ではブラナム兄弟、あなたは“永遠の救いの確かさ”を信じているのですか?」そう問われる方がいるかもしれません。ある意味において、私はそう信じています。私は、“教会”そのものは永遠に安全であると信じています。
教会──キリストの御体──は神の前に しみも、しわもなく 現れると、
神ご自身がすでに言われたのです。教会は、そのようになります。
そして次に重要なのはこれです。あなたが “その教会の中にある” のなら、
あなたもまた確かに守られている──教会の中にいるなら、です。
23. 「わたしのもとに来る者を、わたしは決して捨てない。」
──そうですね?
そして、ここにイエスご自身の言葉があります。
ヨハネ5章24節。
「わたしの言葉を聞き、
わたしを遣わされた方を信じる者は、
“永遠のいのちを持つ”(今・現在)。」
これは、集会に来ている間だけ続く命ではありません。
永遠のいのちです。
さらにこう言われました。
「その者は決して裁きに遭うことがなく、
すでに(過去形)死からいのちへと移っている。」
(ヨハネ5:24)
イエスご自身がそう語られたのです。
またイエスは言われました。
「わたしは天から下ってきた“いのちのパン”である。
あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが死んだ。
しかし、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は
永遠のいのちを持ち、
わたしはその者を終わりの日によみがえらせる。」
──これが、主イエスの宣言なのです。
24. さて──“その中にいる”と装っている人たちはたくさんいます。
努力と力でなんとか入ろうとして、一生懸命に正しく生きようとし、
自分の力で押し入ろうとしている人も多いのです。それについては、私はなんとも言えません。しかし、もし本当にキリストの中にいるのであれば、
クリスチャンとして生きることは、他のどんな生き方と同じくらい自然で簡単なのです。なぜなら、あなたはすでにキリストのうちにあり、聖霊で満たされているからです。聖霊ご自身があなたを導き、守り、方向づけてくださるのです。
もちろん、あなたは失敗し、つまずくこともあるでしょう。
しかし──あなたはそこに倒れたままではいられないのです。それはちょうど、トウモロコシの茎が“すずかけの木”になることができないようなものです。
絶対に、できません。イエスは言われました「その実によって、その人を知る。」
あなたがキリストにあるなら、あなたには永遠のいのちがあるのです。
25. 今日、教会に臨んでいる最大の呪いの一つ──
それは “恐れ” です。
みんな、まるで死ぬほど怯えている。
「これからどうなるのか?」
「だれが? なにが?」
そんな不安でいっぱいになっているのです。
しかしイエスはこう言われました。
「恐ろしい光景が起こる時でさえ、
あなたがたの頭を上げ、喜びなさい。
これらのことが起こる時、
あなたがたの贖いが近づいているのだから。」
26. さて──
神がどのようにして、教会を“あの旅路”を通して導かれたかを
思い返してみてください。
アブラハム、イサク、ヤコブ……
彼らすべての歩みにおいて、
どれほど多くの“過ち”があったことでしょう。
しかし、それでも 神は常に彼らと共におられました。
あれらはみな、“影(シャドウ)”──型だったのです。
では、アブラハムを少し見てみましょう。
今夜はアルミニウス派(自由意志を強調する人)の方も
たくさんおられるのを知っていますが、
ここははっきりとさせておきたいのです。
神はアブラハムに言われました。
「選び(エレクション)と恵み(グレース)によって、
わたしはあなたを老年になってからわたしのもとへ連れて行く。」
言い換えば──
「わたしはあなたを救う。
あなたを導き通す。
あなたは長い年月を生き、
サラは子がなかったが、
あなたたちは子を授かる。
その子において、わたしは世界を救う。」
これは、アブラハムが
何か“ふさわしい行い”をした後に与えられた言葉ではありません。
アブラハムが何をするよりも前に、
まだ功績もないうちに、
神がただ彼を“召された”──
それがすべてだったのです。
27. アブラハムは、
カルデヤ人として、あのウルの町に住んでいた一人の男でした。
彼は バベルの塔のあったシナルの谷へと下ってきた人々の中の一人、
つまり“偶像礼拝”の地から来た者でした。
私は思うのです。
彼の父テラも、おそらく偶像礼拝者であったのでしょう。
そして、ラバンのことを見てもそれが分かります。
ラバンは“偶像”を持っていました。
では、その偶像はどこから来たのでしょう?
あれらはおそらく、バベルの塔からもたらされたものだったのです。
そしてハムの子孫から出たのがニムロデでした。
ニムロデがバベルの塔を建て、
そこから 地上最初の偶像礼拝 が始まったのです。
28. さて──
この バベルの塔 をよく見てください。
バベルはそのまま歴史を下っていき、
ずっと流れ続け、
やがて 黙示録の時代 に姿を現すのです。
そこに現れるのは、
“キリスト教を装った宗教的偶像礼拝”──
キリスト教のふりをした偶像宗教です。
ああ……!
ヨハネは黙示録17章でその姿を見ました。
彼は、彼女(大淫婦)が
いかに立ち、
いかに身を飾り、
いかに“イエスの名”さえ身にまとっているように見えるかに、
思わず驚嘆したのです。
しかし彼女は、
生ける神の聖徒たちを迫害し、殺した者でもありました。
その時、御使いはヨハネにこう言いました。
「ここへ来なさい。
あなたに彼女が誰であるかを見せてあげよう。」
そして言いました。
「彼女は大いなる教会であって、
多くの民の上に座し、
七つの丘の上にあり、
地の王たちを支配している。
そしてキリストの殉教者たちの血を飲んだ。」
ああ、主よ、憐れみ…!
29. 皆さん、
私たちは “終わりの時” に生きています。
何年も前、
私がこの辺りで「獣の刻印」を説教したとき、
私を逮捕しようとする動きがあったのを覚えている方は
どれくらいいらっしゃいますか?
あの時、私はこう言いました。
「ムッソリーニが権力を握ったばかりの頃──
もし彼がエチオピアへ向かうようなことがあれば
(よく覚えておきなさい)、
イエス・キリストが来られるまで
世界に平和は戻らない。」
また、私はこうも言いました。
「三つの大きな“イズム”が興る。
共産主義・ファシズム・ナチズム。
しかし最終的にはこれら三つは一つの“イズム”にまとまり、
その一つのイズムが世界を支配し、
“バチカン市”を焼き尽くすだろう。」
何年も何年も前──
私ははっきりそう語りました。
そして今、
それらはその通りに進んでいるのです。
さらに私はこう言いました。
「その時が来る前に、
自動車の形が変わる。」
当時の車は、
古い型で、背もたれの直立した、
20年か25年前のあの作りでしたね。
皆さん覚えているでしょう。
私は言いました。
「それらは “卵のような形” になる。
もっと丸く、流線型になり──
私はそれを幻の中で見た。
そのような車が走る時代が、
“携挙”の直前に来る。」
30. しかし──
神は今まさに、世界中で ご自分の教会をゆるめ、整え、
“携挙”に入ることができるように
秩序を整えておられるところなのです。
携挙に入る前に、
神は“携挙の信仰(rapturing faith)”を教会に与えなければならない。
その準備が今、進んでいるのです。
人々は“終わりの日の霊”の中にいます。
まさにノアの時代と同じように──
食べ、飲み、結婚し、嫁がせ、
何の関心も持たず、
心配もなく、
歩き回り、
すべてに無関心。
そして、
アメリカの人々は、地上で最も霊的に危険な状態にあります!
高慢で、うぬぼれ、
自制心がなく、荒々しく、
人をさげすみ、
「何でも知っている」と思っている……。
もし世界のどこかで、
宣教師を最も必要としている場所があるとするなら──
(私は今、胸に聖書を抱え、
神が私の言葉を聞いておられることを承知しています。
そして今夜のうちに神の御前に立つことになったとしても
この言葉は変わりません。)
それは アメリカ合衆国です。
私がどこよりも“異教的”だと思う人々は、
アメリカにいます。
“異教徒(heathen)”とは
「不信者」
という意味なのです。
31. ああ──
彼らは“神学”は信じています。
しかし心は固くなり、引きずられ、
もうどんなふうに語りかけても届かないほどになっています。
私は、
神のことを一度も聞いたことがない、
偶像を拝んでいる異国の人を連れてきて、
5分もすれば、
自称クリスチャン──
長年教会に居座り、
霊的には“防腐処理”されたような者より
はるかに多くのことができます。
そういう人々を見ると、
私は“冷たい死体安置所”や
葬儀場を思い出してしまいます。
本当に、そうなのです。
あの大きな古い教会に入ると、
まるで“霊的な冷蔵庫”──
気温は零下100度の世界。
そこに入るには、
水の中をかき分けていくような気分になります。
これは冗談で言っているのではありません。
真実だからです。
そんな人々の中には、
神についてほとんど何も知らずに立ち上がり、
こんなことを言う者もいます。
「ええ、まあ……私はこう思いますが……
あれはだいたい全部……」
なんということでしょう!
人を惑わす者たちよ。
あなた自身が神の国に入ろうとせず、
他の人々が入るのを妨げているのです。
まるで morgue(死体安置所)で
死者の血を抜き取り、
“確実に死んだままでいさせる”ための
化学薬品を注ぎ込むように──
彼らは、人々が少しだけ持っていた
宗教心や信仰のかけらを吸い取り、
そこへ古い神学という薬を注ぎ込むのです。
そして、
ますます人々を霊的に死なせ、
死んだまま保つ。
それだけのことです。
本当に、なんという悲しいことか!
32. 私はある女性にたずねました。
「あなたはクリスチャンですか?」
すると彼女は言いました。
「私はアメリカ人よ。それで十分でしょう。」
私は言いました。
「私が聞いたのは、そのことではありません。」
また別の女性が祈りの列に来た時──
ボズワース兄弟が尋ねました。
「あなたはクリスチャンですか?」
すると彼女はこう言ったのです。
「まあ……私は毎晩ろうそくを灯していますよ!」
ああ、なんということ……。
“毎晩ろうそくを灯すこと” がクリスチャンを作るのですか?
たとえ世界中のろうそくを全部灯したところで、
あなたを救うことはできません。
聖霊の燃える火が、
あなたの魂を罪から清めるその瞬間まで、
人は罪人のままなのです。
それは 心の中の問題なのです。
「私はアメリカに住んでいます」?
それが何になるのでしょう。
それはあなたをクリスチャンにもしないし、
何者にもしてくれません。
神は、
私がアメリカ人だからと言って尊ばれることはありません。
また神は、
ドイツ人だから、
ポーランド人だから、
アフリカ人だからといって
誰かを尊ばれるわけではありません。
神が興味を持っておられるのは、
アフリカでも、
アメリカでも、
ドイツでもありません。
神が関心を持っておられるのは
ただ一つ──
“神の御国(Kingdom of God)” です。
そしてその御国には、
あらゆる国々から人々が入ってくるのです。
彼らは、
アブラハムの“種”、
すなわち イエス・キリストによって
新しく生まれ、
約束にしたがう相続人となるのです。
33. 天の下のあらゆる国は、サタンに支配されています。
聖書がそう言っています。
(これは多くの人にとって受け入れにくい言葉ですが、真理です。)
サタンはイエス・キリストを高い山へ連れて行き、
世界のすべての王国を一度に見せました。
聖書にそうありますね。
そしてサタンはこう言いました。
「これらすべての国は私のものだ。
私はそれらを思いのままに動かすことができる。
もしあなたが私を拝むなら、
これらをすべてあなたに与えよう。」
しかしイエスは言われました。
「サタンよ、退け!」
イエスはご存じだったのです。
やがてそのすべての王国の相続者となるのは
ご自身であることを。
34. さて──
黙示録の終わりの場面を見ると、
聖書はこう言っています。
「天よ、喜べ。すべての聖なる預言者たちよ、喜べ。
この世の国々は、
我らの主とそのキリストの国となった。
そして主は永遠に支配される。」
ダニエルはこの主を、
山から切り出された“石(Rock)” として見ました。
その石は転がってきて、
“像”の足を打ち砕き、
粉々にしたのです。
そしてそのあと、
神の国は大きくなり広がっていったのです。
千年王国でキリストが統治されるとき、
そこには──
病もなく、
悲しみもなく、
武器はすべて鋤(すき)につくられ、
人々は戦いを学ぶこともなくなる。
すべてが終わるのです。
イエスが来られるその時に。
しかしそれまでは、
サタンがこの国々を支配している限り、
戦争や戦争の噂(rumors of wars)は続きます。
イエスがおいでになるその時まで。
アーメン。
35. 神よ、どうか私たちを助けてください!
私は今、
ここに立って神の御言葉を教えながら、
あなたがた一人ひとりが
永遠へ向かう魂であることを思うのです。
ここにいる
すべての男の人、女の人、
少年少女までも──
いつの日か必ず
キリストの御前に立つ時が来るのです。
そして私は、
主のしもべとして、
ここであなたがたに語ったすべての言葉について
主の御前で答えなければならないのです。
それなら、
どうして私は
神の真理をあなたがたに語ることをためらうでしょうか?
神は、
私が宣べ伝えてきた御言葉を
世界中に広げてくださり、
王の宮殿にまでも届かせ、
どこへ行ってもその御言葉を
“その通りだ” と証ししてくださいました。
そして一度たりとも、
神が語られたことが
真理でなかったことはありませんでした。
ですから──
神が私に“間違ったこと”を語らせることなど
決してあるはずがありません。
だから今夜、私は言います。
私のクリスチャンの友よ──
あなたがどの教会に属していようとも、
どこにいようとも、それは問題ではありません。
もしあなたが
聖霊のバプテスマによって
キリストのからだの中に入れられていないのなら、
今すぐ入りなさい。
なぜなら──
主が来られるその時が
いつであるか、
あなたには分からないからです。
36. イスラエルが、今ここでエジプトにいる──
これは、 呼び出される教会の「型(タイプ)」 です。
(出エジプト記・第一章)
ヨセフの後、
イスラエルはエジプトに住むようになりました。
(さて、私には残りがだいたい三十分ほどあります。
できる限りまとめて進めていきます。)
彼らがエジプトに住むことになった理由は
“飢饉”──
イサクが下り、
族長たちを連れて行ったためでした。
そして彼らは「ゴシェンの地」に住んでいました。
しかし、ヨセフが死ぬとき、
(これは非常に美しい型〔イラストレーション〕です)
彼はイスラエルの子らが出ていくことを語り、
自分の骨についても言及したのです。
……少し脱線することを、
もし許していただけるなら、
ここで一つ触れておきたいのですが──
37. あなたが、ここに“書かれている通り”に御言葉を読むだけならそれはそれで正しいのですが──本当の意味の多くを見逃してしまうのです。御言葉は、
“行間に” 書かれているのです。イエスは言われました。「わたしは、このことを知恵ある者や賢い者には隠し、幼子のような者──学ぼうとする心を持つ者には現した。」今日の神学校(セミナリー)の多くは、当時の祭司や大祭司たちと同じです。彼らも御言葉を読みましたが、“イエスこそキリストである” という真理を
見ることができませんでした。……わかりますか?
38. さて、あの族長たちを見てみてください。
ヤコブがエジプトで死ぬ時──
なぜ彼はこう言ったのでしょう?
「わたしをここに埋めてはならない。」
彼はヨセフに、
あの“打たれた太もも”の上に手を置かせ、
神の名にかけて誓わせたのです。
「決して、わたしの骨をここに埋めてはならない」と。
ご存じでしたか?
ヤコブは言いました。
「わたしを故郷へ連れ帰り、そこで葬ってほしい。」
39. あのヨブを見てください──
身体じゅう腫れ物だらけになり、
自分が生まれた日のことすら呪ったあのヨブ。
聖書で最も古い書は、創世記よりも前に書かれた
ヨブ記です。
ヨブは、
割れた土器のかけらで身体をこすりながら、
うしろ庭の 灰の山の上に座っていたのです。
私はここでも一度、
このテーマで三か月ほど続けて説教したことがあります。
何人かの方が手紙をくれました。
「ビル兄弟、
いつになったらヨブを灰の山から降ろすんですか?」
──そんなふうに書いてくるのです。
あの場面は、
“重大な決断の時”──
何かが起こらなければならない
ゼロ・アワー(決定的瞬間) でした。
しかし、
皆さんも知っているでしょう。
ヨブを灰の山から立ち上がらせたとき──
何かが起こったのです。
40. ちょうど、私たちがこのリバイバルでやろうとしていることも同じです。
まず、
人々の注意をキリストに向けさせる。
そして、
その心が開かれたその場所をしっかり保ちながら、
“打ち込むべきところ” に御言葉を打ち込む。
これが肝心なのです。
それは、
聖霊がご自分で備えを進め、
人々の中に働きはじめられるときです。
聖霊の臨在が動きはじめるのを、
あなたは感じるでしょう。
そして分かるのです──
“いま、捕らえる時(the kill is ready)だ” と。
41. よくご覧ください。
ヨブは、
深い苦しみの中で座り込んでいました。
ついには妻までもが彼に背を向け、
こう言ったのです。
「ヨブ、もう神を呪って、死んでしまいなさいよ。」
しかしヨブは答えました。
「あなたは愚かな女のようなことを言う。」
そしてこう言い続けました。
「主がお与えになり、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな。」
そこへ、教会の仲間たちがやって来ました。
しかし彼らは、
ヨブに背を向けて座り、
七日七晩、何も言わずにいたのです。
なんという慰めでしょうか……
やがて彼らは口を開き、こう言いました。
「ヨブ、お前は隠れた罪人だ。
お前が罪を犯したから、こんなことになったのだ。」
しかしヨブは自分がそんなことをしていないと
はっきり分かっていました。
このやり取りは、
彼ら(友人たち)がどれほど理解していなかったかを
まざまざと示しています。
42. こうして──
あの苦しみのただ中で、
正しい人ヨブ、
神がご自身の聖徒を扱っておられるその時に、
神は エリフ という名の人を送られました。
エリフはヨブを“罪人だ”と責めませんでした。
彼が責めたのは
ヨブが神を責めたことだけでした。
そしてエリフはこう告げたのです。
「ヨブよ、あなたはこれらの出来事をずっと見てきた。
しかし、やがて “義なるお方” が来られる。
罪深い人間と聖なる神との間に立ち、
その溝(breach)を埋めてくださるお方が来られる。
人々が墓に運ぶその人──
あなたがまだ気づいていないそのお方が、
やがてよみがえられる。」
その言葉を聞いた瞬間──
ヨブは立ち上がりました。
雷は光り、
雷鳴が轟きました。
何が起こったのでしょう?
預言者ヨブが、再び“神の流れ(チャネル)”に戻ったのです!
彼の目が開かれ、
彼は叫びました。
「わたしは知っている──
わたしの贖い主は生きておられる!」
見てください。
キリストが地上に来られるより
四千年も前に
ヨブはこう言ったのです。
「わたしの贖い主は 生きておられる(liveth)!」
そして続けました。
「終わりの日に(last days=最後の二千年)、
その方は地上に立たれる。
たとえ皮膚の虫がこの身体を食い尽くしても、
わたしは この肉体において 神を見る。
それは他の誰でもない──
わたし自身の目で見るのだ。」
これです!
そしてヨブが死ぬ準備をした時、こう言いました。
「わたしをパレスチナのあの地に葬ってほしい。」
43. やがて、アブラハムが約束を携えて現れました。
サラが死んだとき、
アブラハムは彼女を
ヨブのすぐ近くに葬りました。
土地を買い取り、その場所に埋葬したのです。
そしてアブラハム自身が死んだとき、
彼はサラのかたわらに眠りました。
アブラハムはイサクをもうけました。
イサクが死んだ時も、
彼はアブラハムのそばに眠りました。
イサクはヤコブをもうけました。
ヤコブはエジプトの遠く離れた地で死にましたが、
彼はこう言いました。
「わたしをここに葬ってはならない。
ここに葬ることは、決してしてはならないと誓ってくれ!
わたしの骨はあそこ──
父祖たちのいる地に運んで葬ってほしい。」
なぜでしょう?
なぜ彼らはそこまで“葬られる場所”にこだわったのでしょう?
それは行間に書かれているのです。
文字ではなく、啓示として──。
ヨセフも同じでした。
彼が死ぬ時、こう言いました。
「わたしの骨をこの地に埋めないでください。
棺に納めてここに置いておきなさい。
だが、決してここに葬ってはなりません。
約束の地に、必ず運んで葬ってください。」
なぜでしょう?
ヨセフはこう続けました。
「神がいつの日か、あなたがたを訪れてくださる。
だから私は、ここに“骨を残しておく”のだ。
これは、何かを“表す”ためなのだ。」
44. ヨセフが “骨を残した” ように、
イエス様は “空の墓” を残されたのです!
かつてのヘブル人たち──
背中を鞭で打たれ、
疲れ果て、
重荷にのしかかりながら、
あの場所をよろめくように通り過ぎました。
そしてエジプト人たちも皆、
そこに置かれた 小さな棺 を見ていました。
私は最近、その棺を見る機会がありました。
それは 古い鉛で打ち出された、小さな棺──
ヨセフの骨が納められていたと伝えられているものです。
博物館に展示されていて、
私は説明を受けました。
「これは、モーセが拾い上げて
約束の地に運んだヨセフの骨が
納められていた棺です。」
その棺を、
ヘブル人が通りすがりに覗き込むたびに、
彼らはこう言ったことでしょう。
「いつか必ず、
ここは変わる……
私たちはここから出て行くのだ。」
なぜでしょう?
なぜ彼らはそう確信できたのでしょう?
それは──
“預言者が言ったから”
です。
あの美しい“多色の上着”──
(昨夜の学びで取り上げたように)
あれは完全にキリストを象徴していました。
ヨセフは、
神がアブラハムに語られた言葉 に
自分の全生涯をかけていました。
だからこそ、彼の棺は
あの奴隷の民にとって
「神は必ず訪れてくださる」
という証(しるし) になったのです。
そこに、答えがあります。
45. 私は今夜も、同じ“約束”に私のすべてをかけています。神がアブラハムに言われたあの言葉──「わたしはあなたと、あなたの子孫を救う。」私はその言葉を、
心から信じています。そして彼らも信じました。「いつの日か、この地を出て行く。」そう確信していたのです。やがてその日が来ました。ヨセフの骨が、
長い間そこに置かれていました。モーセがエジプトを出発しようとした時、
聖霊が彼に語りました。「モーセ、あなたは大切なことを忘れている。ヨセフの骨を取りに行きなさい。」モーセはその骨を丁寧に包み、イスラエルの先頭に立って出発しました。火の柱が彼らを導き、約束の地へと進んで行きました。
そしてヨセフの骨は、イサクとヤコブのそばに葬られました。
なぜでしょう?彼らは知っていたのです。「眠った者たちの初穂が来る」
──復活の日が来ることを。彼らは知っていたのです。ヨブがこう言ったあの言葉を──「わたしの贖い主は生きておられる。終わりの日に、その方は地の上に立たれる。」そしてヨブは“どこに主が立たれるか”を霊の啓示で知っていたため、こう言ったのです。「わたしを、ここに──この地に葬ってくれ。」アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ヨセフも、みな ヨブのそばに葬られたい と願いました。
なぜなら、そこが 約束の地・パレスチナだったからです。彼らは知っていたのです。復活はエジプトでは起こらない。ヨーロッパでもない。他のどこでもない。
復活は “約束の地パレスチナ” で起こるのだ。だから彼らはその地に葬られたのです。
46. やがて──約束されたお方、イエス様がおいでになりました。人々は、
聖書が前もって語っていた通りにこの御方を扱い、そして殺したのです。
イエス様は死なれました。その魂は 陰府(ハデス)へ下り、
囚われの霊たちに宣べ伝え、そして 死と陰府の鍵をサタンから奪い取られたのです。その後、イースターの朝に再び戻って来られました。そしてパラダイスを通られたとき──扉をノックされたのです。ハレルヤ!私はその声が聞こえるようです。「子どもたちよ──!」アブラハムが言いました。「だれですか?」
「わたしはあなたの“子孫”──アブラハムの種です。」ダニエルが言いました。
「だれですか?」「わたしは “山から切り出された石(Stone)” だ。」
そこには、旧約の聖徒たちが衣を着せられる日を待ってパラダイスに横たわっていたのです。主はその扉を開かれました。アブラハムが言いました。
「私たちは、ついに出られるのですか?」主は言われました。「地上ではもうすぐ夜が明ける。出発の準備をしよう。」アブラハムは言いました。「少しだけ途中で寄り道しても良いでしょうか。この地を少し見てみたいのです。」主は答えられました。「ええ、わたしはこの後、40日間弟子たちのところを訪ねるつもりだ。」
そして──イースターの朝、主はよみがえられた!マタイ27章にはこう記されています。 「 地の塵の中で眠っていた聖徒たちの多くの“身体”がよみがえり、
都に入って、多くの人々に現れた。」
私は、サラとアブラハムが通りを歩いている姿が目に浮かぶようです。
「まあ、あなた、見てごらん!町並みが少し変わっていますね。
ここはずいぶん様子が違うわ。」誰かが言います。
「あの夫婦は誰だろう?見慣れない顔だね。」すると彼らは答えます。
「私たちは──分かる者には分かる存在なのです。」そしてその瞬間、ふっと姿を消す。(イエス様が壁を通って入ったり出たりしたように!)人々には
どこから来たのか、どこへ消えたのか全く分からない。なぜなら彼らは
すでに“栄光の身体”を着ていたからです。そして彼らは地上に現れたのです──
ハレルヤ!これは復活の初穂、神の力の証しそのものでした。主は諸々の支配と権威を剥ぎ取り、死と地獄(陰府)を押しつぶし、イースターの朝によみがえり、聖徒たちを連れて御国へ入られたのです。だからこそ、彼らは皆こう言ったのです。「彼らは皆、復活が起こるのは──パレスチナであることを知っていたのです。」
47. ですから兄弟よ、今日あなたがどんな“冷たく形ばかりの宗教”を持っていたとしても、
私は──“キリストのうちに”葬られたいのです。
なぜなら、キリストのうちにある者たちを、
神は復活の日に、必ず共に連れ帰ってくださるからです。
人が何と言おうと構いません。
それを「狂信」だと呼ぼうと、好きなように言わせておけばよいのです。
私はただ、キリストのうちに留まりたい。
キリストのうちにある者は、必ずよみがえりの朝に墓から出て来るのです。
神ご自身が、それを引き上げてくださるのです。
そう約束してくださったからです。アーメン!
48. 歳をとってきたからって、何の問題があるんですか?
ハレルヤ!それが一体なんだって言うんです?
むしろ“天の家”が近くなるだけじゃないですか!アーメン!
ああ、栄光!
どうせ誰かが私のことを
「ホーリー・ローラー(聖霊に満たされて喜び躍る者)」
と呼ぶんでしょうから、
もう呼び始めてくれても構いませんよ。
ええ、どうぞご自由に!
なんと素晴らしいことでしょう!
これだけで十分、
誰だって “ホーリー・ローラー” にしてしまえるほどです。
だって──
どうやって喜ばずにいられるでしょうか?
これが真理だと分かっているのですから。
そりゃあ、私は嬉しいに決まっています。
そして、この希望を持っている人はみんな、
内側から喜びがあふれてくるのです。
49. 私は昔、水を飲みに行っていた古い泉がありました。ジュニア、私はよくそこへ降りていったものです。パトロールの仕事をしていた頃も、その泉へ行っていました。そこはミルタウンの下あたりにあって、本当に“この世で一番幸せそうな泉”でした。いつも見てはこう思ったんです。「どうしてそんなに嬉しそうなんだい?」泉はずっと、ぽこぽこ、ぽこぽこ、ぽこぽこと湧き続けているんです。
私が飲んだ水の中で一番おいしい水でした。そこで私はまた泉に聞くんです。
「家畜たちがお前の水を飲むから嬉しいのかい?」泉ならこう言うでしょう。
「違うよ、ビル兄弟。それじゃない。」「じゃあ、人が水を汲みに来るから喜んでいるのか?」「それでもないよ。」「それとも、私が水を飲むから喜んでるのか?」
「いや、それでもない。」それで私は言うんです。「じゃあ、何がそんなにお前を喜ばせて、ずっと湧き続けさせてるんだい?」もし泉が話せたら、きっとこう答えるでしょう。「ビル兄弟、これはね、私自身が湧かしてるんじゃないんだよ。
背後で何かが私を押し上げて、溢れさせてくださっているんだ。」
50. そして、聖霊が一人の人間の内側に入るとき、
そこには――もう“噴き上げる泉”、
“湧き出る水の源”が生まれます。
それは永遠のいのちへと湧き上がる、
とめどなく溢れ続ける泉なのです。
あの女の人に、井戸のそばでイエス様が言われましたね。
「わたしが与える水を飲む者は、決して乾くことがない。
その人のうちで、その水は泉となり、
永遠のいのちへと湧き出る水となる。」
ハレルヤ!
(さあ、出エジプト記に戻りましょう。)
ああ、考えてみてください!
永遠のいのちですよ!
百億年経っても――
この地球の三分の二を覆っているこの大海が、
荒れ狂う波を打ちつけ、
巨大な船をも引き裂くような時があったとしても、
罪が地に積み重なりすぎて
海そのものが砂漠へと姿を変えてしまう日が来たとしても。
海がなくなり、月がなくなり、星がなくなるその日にも――
ハレルヤ!
私は“なお生きている”のです!
そして生まれ変わったすべての男も女も、
主の威光に満ちた御前で生き続けるのです。
神のひとり子イエス・キリストの御姿に、
かたどって造り変えられるのです。
恵みによって、私たちは救われたのです!
だからこそ詩人は歌いました。
「神の愛は、何と豊かで、何と純粋で、
何と測り知れず強いことか。
それは永遠に続く、聖徒と天使の歌。」
どうして黙っていられるでしょうか?
これほどの愛が、これほどの救いがあるのに!
「それは証拠になりますか、ブラナム兄弟?」
――ええ、そうです。
51. さて、イサク、ヤコブ、そして今度はヨセフです。
そしてヨセフも死にました。
それは何と完全な型(類似)だったことでしょう。
彼の骨が、その場に“記念として”残されたのです。
52. 少し前のことでした……。
ビリーがそこにいないと思いますので、彼がいる時には言わない話ですが。
私たちは、飾り付けの朝に、彼の母親の墓に花を置きました。
ビリーはそこに立って泣いていました。
私は彼にこう言いました。
「ビリー、泣かなくていいんだ。目を閉じて、あの海の向こうを見てごらん。」
「お母さんはそこに横たわっているし、小さな妹も一緒に眠っている。
けれど、本当はそこにいるわけじゃない。
あの海の向こうには“空(から)の墓”があるんだよ。」
ハレルヤ!
53. 私は、あのヘブル人たちが見つめていたのと同じ場所を見上げています。
「いつの日か、私たちはここを出て行く。」
彼らがそう望んだように、私たちも“必ず出て行く日が来る”のです。
私はいつも、
「灰は灰に、塵は塵に、地は地に」
――あの葬送のことばを耳にするとき、
心の中で必ずこう思います。
“いつか!”
54. この前、ここ町の元保安官の葬儀で、私は説教をしておりました。
その息子さんは、亡くなる数時間前にキリストに心を開いたばかりでした。
私は見ました。
白髪まじりのお父さんが、震える唇で、その息子の棺に身をかがめ、
涙が頬を伝いながら、最後の口づけをして、
崩れ落ちるように棺に倒れかかる姿を。
お父さんは手に持っていた花を落とし、
私は振り返って言いました。
「灰は灰に、塵は塵に、地は地に。」
その言葉を口にしながら、心の中ではこう叫んでいました。
“いつか、あの栄光の日に!”
“あの黄金の夜明け、イエス様が来られる日に!”
アーメン。
その通りです。
55. (「いつレッスンに入るんですか?」と言われそうですが…)エジプトの深い地で、長い年月が流れました。(どうか私のために祈ってください。)
やがて、ついに――ヨセフのことをまったく知らない王(パロ)が起こりました。神が、「彼らは四百年間そこにとどまる」と約束された通り、
イスラエルの民は四百二十年の間、そこにいたのです。
56. さて、出エジプト記1章ですが――1節から5節までは、エジプトに住むイスラエルの姿が描かれています。そして7節から22節までは、彼らが受けた苦役と束縛について書かれています。皆さんも何度もお読みになったことでしょう。
ここから、私はある一点に絞って行きます。もう少しだけ時間がありますのでね。そして、2章に入ると、解放の備えが始まるのです。
――モーセの誕生。神の民が解放へ向けて動き出す準備の時でした。
苦役監督のムチが振り下ろされ、男の子たちは次々と殺されていく…。
しかしその背後で、神の預言の歯車が、静かに、確実にその時刻へと回り始めていたのです。
57. よく聞いてください。
ここをしっかり受け取っていただきたいんです。
私は、あの時と同じように、預言の歯車が再びその時刻に達したと信じています。
もう、私たちはそこに来ているのです。
だからこそ、今この世の中で起きている数々の出来事は、
ただの偶然ではなく、
すべてがその方向へ進んでいる――私はそう信じています。
あの古い預言の時計は、
ほとんどゼロ時の直前まで、コチコチと進んできました。
しばらく前に私は、そのことを説きましたが、
あるドイツ人の画家が、その説教を聞いて絵に描いてくれたのです。
今も私の家に掛けてあります。
祈りにひざまずく一人の人。
開かれた聖書。
小さな油の灯が揺れ、
そして時計は “12時5分前” を指しています。
――神のご計画の準備が整えられ、
神が何かをなさろうとしている瞬間です。
さて、ここから注意深く見ていきましょう。
58. 神が何かをなさろうとされたとき、
エジプトで一つの“特別な誕生”が起こりました。
それは、他のどんな赤ん坊とも変わらないように見える、
本当に小さな男の子でした。
レビ族のひとりの男性が、同じレビ族の娘をめとり、
そして赤ん坊が生まれました。
けれどもその頃、男の子は皆殺されていた時代です。
しかし、この赤ん坊が生まれた時――
何かが違っていた。
赤ん坊には、どこか不思議な“印”があった。
神の予定、あらかじめ定められたご計画。
モーセ自身には何の選択もありません。
けれども“モーセ”であったからこそ、
両親は王の命令を恐れませんでした。
彼らは葦舟をつくり、その子をそっと入れました。
そしてその子は、なんとパロの家の門口のすぐ下で育てられることになったのです。
(その通りでしょう?)
ついには、彼はパロの娘の子としてさえ扱われるようになったのです。
さあ、ここからが大事です。
59. モーセは――11節から25節までのところで――
イスラエルの民に対して、自分が誰であるかを“現わす”場面が出てきます。
多くの方が、そこで何が起こったかをご存じでしょう。
モーセは彼自身を“明らかにした”のです。
そして、自分が身を示したとき、
モーセはこう思っていました――
「兄弟たち(イスラエル)は、きっと分かってくれる。
私こそ、彼らを奴隷のくびきから導き出すために遣わされた者だと」
しかし、彼らは理解しませんでした。
その通りでしょう?
ああ、皆さん、これは今日の時代にも本当に美しい“型”なのです。
人々を解放するために来られた、そのお方――
その“解放者”そのものを、
人々は恐れ、遠ざけてしまうのです。
まさに同じことが、今も起きています。
60. よく聞いてください。ソロモンの神殿を建てた時のことです。
ここに石工の方がいらっしゃれば、よく分かるはずです。
レバノンから杉を切り出し、海に浮かべてヨッパまで流し、
そこから牛車で運び……皆さんご存じでしょう。
そして世界中のあちこちで切り出された石を、
それぞれの場所で仕上げたのです。
しかし、現場で神殿を組み上げるとき――
その40年の建設期間中、鋸の音も、金槌の音も一度も聞こえなかった。
それほどまでに、石は完璧に準備されていました。
ある石はこう切られ、別の石はああ切られ、
また別の石は裏側から切り出され……
けれども、現場に運ばれるとすべてが見事に組み合わさったのです。
そして神殿を積み上げていくうちに、
彼らは “奇妙な石” を一つ見つけた。
「こんな石、いらない。ここには合わない。」
そう言って、その石を投げ捨て、
草の生い茂る場所へ放ってしまった。
ところが……
建築が進み、進み、いざ仕上げの段階になって気づいたのです。
彼らが拒んで捨てたその石こそが、
実は “要の礎石(コーナーストーン)” だった。
イエス様ご自身が、それをお語りになりました。
61. そして今の時代、メソジストも、バプテストも、ルーテル派も、
ペンテコステの人々でさえ……
気をつけていなければ、友よ――
本当の“要の礎石”を拒んでしまっているのです。
この霊的な家の建造における“礎石”とは、
聖霊ご自身です。
ところが人々は聖霊を恐れている。
「熱狂に走るのではないか」
「行き過ぎてしまうのではないか」
そんな恐れです。
もちろん、世にはまがい物もある。
古い案山子、偽物の騒ぎ、
そんなものがたくさんあります。
しかし――
偽物があるということは、本物が必ず存在するという証拠です。
そして、聖霊のバプテスマには
まぎれもない真実の“本物” があるのです。
しかし今日、多くの人はこう言います。
「いや、それは受け入れられません」
「ブラナム兄弟、それは私たちには無理です」
そのようにして、人々は
神ご自身の礎石 を拒んでいるのです。
62. この前のことです。
ある有名大学のディーンが、私の家に座っていました。
ビリー・グラハム氏の関係の機関から来た
ドクター・サンデンという方や、その一行も一緒でした。
彼らはこう言いました。
「ブラナム兄弟、私たちが何が問題か教えてあげましょう。
あなたの集会には、世界を救うだけの力があります。
しかし何が問題かというと……
あなたの集会にはペンテコステ派や“ホーリー・ローラー”が多すぎる。
それが不満点なんです。」
私は言いました。
「では、あなたがたがスポンサーしてくれますか?」
すると彼らはこう言ったのです。
「いや…それはその…もちろん、私たちとしては……」
私はすぐに分かりました。
「ほら、思った通りだ。
あなたがたは絶対にやらない。もちろん、そうでしょう。」
その通りです。
63. ああ、あの大きな教会は、自分たちの神学を振りかざして、
「あれが正しい」「これが正しい」と胸を張り、
博士号(D.D.)を後ろにズラリと並べて誇らしげに立っています。
けれども――
中には、神のことを “雪の上でウサギがスノーシューを履く方法” ほどにも知らない者がいます。
(まったく知らない、という意味ですね。)
確かに彼らはギリシャ語も知っているし、学問も持っています。
しかし、覚えておいてください――
神は、神学や教育によっては知られない。
神は “信仰” によって知られるのです。
知識は、人を神から遠ざけます。
しかし 信仰は、人を神のもとへ連れ戻す。
これこそが、エデンの園で人を神から引き離した理由でした。
アダムは “知識の木” の方へ行ってしまったからです。
64. そして――
人々に “いのち” をもたらした 聖霊のバプテスマ。
そのゆえに、いわゆるペンテコステ派や “ホーリー・ローラー” と呼ばれる人たちが、
私の神の癒し(divine healing)の働きを受け入れてくれるのです。
もちろん、王たちや支配者たちもその話を聞きつけ、
「こちらへ来てください」と招いてくる。
そして主のあわれみによって、主はその場で癒してくださる。
――それは事実です。
しかし、そのほかの多くの人々はどうでしょう?
永遠のいのちの話になると、
「私は英国国教会の会員だ」
「私はこの教会に属している」
「私はあの宗派の一員だ」
――そんなことばかり言う。
けれどもね――
どの教会に“所属”していても、
神の前では “これっぽっちの価値もない” のです(パチン、と指を鳴らす)
あなたが “新しく生まれていない” ならば!
教会は一つしかありません。
それは――
聖霊のバプテスマによって、
イエス・キリストのからだに“生まれ入った”人々の集まりです。
ハレルヤ!
兄弟よ、はっきり言わせてください。
キリストのうちに入る道は、ただ一つしかありません。
それは――
握手でもない。
水のバプテスマでもない。
幼児洗礼でもない。
肉を食べるのをやめることでもない。
安息日を守ることでもない。
タバコをやめ、酒をやめ、悪い習慣をやめることでもない。
それらは、キリストの“中へ入る道”ではないのです。
65. タバコを吸うこと、ウイスキーを飲むこと、
女性と不法な関係をもつこと――
こうした“行いそのもの”は、罪ではありません。
それらは “罪の結果(属性/アトリビュート)” にすぎない。
ののしること、汚い言葉を使うこと、酒に溺れることも、
“行為そのもの”が罪なのではない。
それをさせている “罪の性質”――
その中にいるから、人はそうするのです。
だから、行為は“罪の実”であって、
“罪そのもの”ではありません。
さて……
これから言うことは、皆さんの中には耳が痛い方もいるでしょう。
けれど私は 神のことばの前に責任を負っている者として、
いついかなる時も聖書を根拠に語る覚悟があります。
ここで、特にペンテコステ派の多くの方が
間違って教えてしまった点があります。
それは――
「聖霊を受けた最初の証拠は“異言を語ること”である」
と教えてきたことです。
異言を語ること自体は間違っていません。
素晴らしいことです。
しかし 異言は“属性(アトリビュート)”であって、
“聖霊そのもの”ではありません。
異言は「聖霊が行われる御業」。
でも、それは“本体”ではない。
聖霊とは――
神の愛(アガペー)です。
私は聖書でこれを証明できます。
「たとい人間の言葉、御使いの言葉を語るとも、
愛がなければ、私は無に等しい。」(Ⅰコリント13)
もしあなたが“ただのリンゴ”だけを持って、
「これがリンゴの木だ」と言ったらどうでしょう?
木には程遠いでしょう。
それは“実”であって、“木そのもの”ではない。
同じように、異言は“実”であって“木(聖霊)”そのものではないのです。
66. 罪とは何か――。
あなたが呪ったり、
タバコを吸ったり、
酒を飲んだり、
怒りを爆発させたり、
すぐカッとなったりする理由は……
あなたが“罪を犯したから”ではなく、
あなたの中に“罪の性質”があるからです。
それらの行為そのものは “罪の行動” ではなく、
“罪である状態の結果(属性)” なのです。
聖書はこう言っています。
「御子を信じない者は、すでに罪に定められている」(ヨハネ3:18)
もしあなたが本当に信じているなら、
そんな行いはしません。
なぜなら――
キリストのいのちが、あなたの内に住んでいるからです。
しかし、もしそうした行いを続けているなら、
それはあなたが まだ罪の中にあり、
実は“信じていない” からです。
たとえ“信じています”と言い張っても――
実のならない木が本当の木でないのと同じです。
イエス様はこう言われました。
「木は、その実によって知られる。」
「悪い木は、良い実を結ぶことができない。」
――その通りです。
さぁ、このことを心に深くしみ込ませてください。
67. さて――時が満ち、イスラエルの解放の刻が近づきました。モーセは、まさにその時代のために生まれ、ファラオの家の戸口で育てられました。そして彼は、イスラエルの子らが「自分こそ神が立てた解放者だ」と悟ってくれることを願って
彼らのところへ出て行ったのです。しかし――彼らは悟ったでしょうか?
いいえ。まったくです。人々はこう言いました。「だれがあなたを、私たちの上に立つ支配者にしたのか?エジプト人を殺した時のように、今度は私たちを殺すつもりか?」モーセは、その言葉を聞いて逃げ出しました。――そうです。
モーセは“自分の同胞に拒まれた”のです。
68. さて、第2章の21節あたりから入りますが、
今日はもう少しで区切りますね。
今は背景を続けてお伝えしているところです。
残り時間もわずかですから、
明日の夜に続けなければならないかもしれません。
よく聞いてください。
モーセは 自分の兄弟たちに拒まれ、
そこからミディアンの地へ逃れて行き、
そこで 異邦人の女と結婚しました。
これは 完全なキリストの型 です。
そうでしょう?
このすべての族長たち――
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーセ。
彼らは それぞれが“前もって映し出されたキリスト” でした。
◎ モーセは迫害の中で生まれた。
赤ん坊が皆殺しにされる時代でした。
◎ イエス様も迫害の中で来られた。
ヘロデが幼児たちを殺し、
その中からキリストを見つけ出そうとした。
同じでしょう?
サタンはモーセを捕らえようとした。
サタンはイエスを捕らえようとした。
彼は必死だったのです!
69. 私は、あの朝――イエス様がカルバリで息を引き取り、
その後、よみへと下りて行かれたときのことが見えるようです。ハレルヤ!
(今夜ここまで踏み込んで教えてよいか分かりませんが……。)イエス様が死なれ、よみへ下りられ、そこに閉じ込められている魂たちを見られたとき――
彼らは泣き叫び、嘆き悲しみ、うめいていました。イエス様はこう言われたはずです。「お前たちは預言者たちの言うことを聞かなかった。エノクがいた、預言者たちがいた、律法もあった。それなのに、なぜ耳を閉ざしたのだ?」
彼らは聞きませんでした。――そしてその扉は閉ざされた。次にイエス様は地獄の門へ行かれ、その扉を叩かれました。サタンが言いました。「だれだ?」イエス様は答えられた――「開けよ。」(これは“ドラマ風”に語っているのだと兄弟は前置きしていますが、霊的真理を描いた強烈な場面ですね。)サタンが扉を引き開け、言いました。「お前はだれだ?」イエス様が答えられた――「わたしはイエス・キリストである。」サタンはこう言ったことでしょう。「ほう、ついに来たか。ずっとお前を追っていたんだぞ。」イエス様は静かに言われた――「知っている。」
サタンが続けて言う――「アベルを殺したとき、私はお前を潰したと思った。モーセを倒したときも、他の者を倒したときも、そしてバプテスマのヨハネを殺したときには、ついにお前を仕留めたと思った。だが今は、確かにお前はここにいる。お前は私の領域に来た。もう逃げられん。」その時、イエス・キリストが声を上げられた―― 「わたしは処女から生まれた神の御子。父の象牙の宮殿から来て、地上に降り、今朝、地はわたしの血に染まっている。死と罪と地獄の代価を
わたしは支払った。――その鍵をよこせ!」 ハレルヤ!!「ここから先は、わたしが支配する。お前は人々を束縛し、恐怖に縛りつけてきた。だがもう終わりだ。ここからは、わたしが引き継ぐ!」イエス様はサタンの手から死と地獄の鍵を奪い取り、ご自身の脇に掛けられ、サタンを押し戻して地獄へ投げ返し、
堂々とその場を去って行かれた。アーメン!アーメン!!!
70. あの大いなる征服者――
隔ての幕を真っ二つに裂かれたお方!
見よ、今やそのお姿がはっきりと現れている!
大いなる征服者は、よみがえって宣言された。
「わたしは、かつて死んだ者、
だが今は生きている者。
これから永遠に生きる者である。
そして、死と地獄の鍵はわたしのものである!」
ハレルヤ!
「わたしの言葉を聞き、
わたしを遣わされた方を信じる者は、
永遠のいのちを持つ。
わたしは復活の鍵を持っている。
終わりの日に、わたしがその者をよみがえらせる。」
――これで、十分だ。
私はそれで満足だ。アーメン!
「わたしがその者である!」
アーメン!
ああ、なんというお方だろう!
71. モーセ――自分の兄弟たちに拒まれた者。イエス様も――
ご自分の兄弟たちに拒まれた。ヨセフも――自分の兄弟たちに拒まれた。
ほら、わかりますか?イエス・キリストが旧約の人物たちの中に“生きておられた”のです。神の霊が彼らを通して現れ、次第に完全な姿へと近づいていった。
そして――その完全な現れ(パーフェクト)は、この方ご自身のうちにあった。
イエス・キリストにおいて完成したのです。モーセの中にもキリストはおられた。確かにそうです。兄弟たちに拒まれ、自分の国では寄留者のように扱われ、
そして――異邦人の妻を迎えた。ハレルヤ!そしてまた、モーセには 二人の息子 が生まれました。アーメン。(この “二人の息子、エフライムとマナセ” の話は、
レッスンの最後、土曜か日曜あたりで取り上げます。)
二人の息子――そうでしょう?
72. 自分の兄弟たちに拒まれた――
それはまさに、イエス・キリストが
ご自分の兄弟たち(ユダヤ人)に拒まれたのと同じです。
主は聖霊を送られましたが、
それもまた兄弟たちに拒まれた。
そして今――
主は “異邦人の花嫁” を迎えようとしておられる。
ヨセフもそうでしたね。
兄弟たちに拒まれ、
そして 異邦人の花嫁を迎えた。
ああ、なんという型でしょう!
73. モーセの召し――
燃える柴の中でのお呼び出し。
ああ、本当はここにじっくり入っていきたい!
しかし、今夜はその時間がありません。
あと数秒ほどで区切らなければなりませんが、
できるだけ触れてみましょう。
もし、あなたが疲れてきたら――
手を挙げてください。
そうしたら、私はすぐにやめます。
本当です。約束します。
74. 見てください!
ああ兄弟よ、これはまるで コーンブレッドと豆のスープ のようなものです。
“腹の底にしっかり残る” ものなんです。
これがあれば、どこへ行っても支えになります。
明日、主のために一日しっかり働けるでしょう。
そして外に出て、悪魔に出会ってもこう言える――
「私はどこに立っているのか、はっきり知っている。
背中にゾクッと電気が走ったからじゃない、
“主がこう言われる” と書いてあるからだ!
どけ、サタン。
これからは私が主の名によって前に進む!」
75. 「今、私たちは神の子どもです。」
うむ……いつですか? 今です!
明日の夜ですか?
いいえ、今です!
今、私たちはキリストにあって天のところに共に座っているのです。
今、聖霊がここにおられる。
いつですか?今です!
今、私たちは永遠のいのちを持っています。
「ブラナム兄弟、死んだら永遠のいのちを得るのですか?」
――私はもう持っています!
今、私はそれを所有しています!
どうして?
イエス・キリストご自身がそう言われたからです。「主はこう言われる」と。
だからこう言えるのです。
どけ、死よ。
どけ、サタン。
お前はもう私を縛る力を持っていない!
76. パウロのことを考えてごらんなさい。処刑台が外で準備されていて、こう言われた。「分かってるのか?お前の首を切るんだぞ。」
パウロは言った。「そうか。私は良い戦いを戦い抜いた。走るべき道のりを終え、信仰を守り通した。」死がこう言った。
「おい、ちっぽけなユダヤ人め!お前はこれまで鞭で打たれ、吊るされ、散々苦しめられたが、ついに俺がお前を捕まえた。震え上がらせてやる。」
パウロは静かに答えた。「死よ、お前のとげはどこにある?」
墓穴がそこに掘られていて、ローマ兵が泥を投げ込みながら言った。「ここに放り込んでやる。俺がしっかり閉じ込めてやるからな。」
パウロは言った。「死よ、お前のとげはどこにある?
墓よ、お前の勝利はどこにある?」「しかし、神に感謝すべきかな!」墓がこう言う。「お前を押しつぶし、朽ちさせ、虫が食い、骨は塵に返るんだ。」
しかしパウロは見上げてこう言った。「あの空っぽの墓を見よ!
私はキリストのうちにある!ハレルヤ!あの朝、私は再び立ち上がり、
主、義なる裁き主が私に与えてくださる冠を受ける。
それは私だけでなく、
(そしてこのブランナム・タバナクルにいるあなたがたも!)
主のご再臨を慕い求めるすべての者に与えられる!」
アーメン、そうです。
悪魔なんて、ただの案山子です。
人を脅かしているだけで、法的な権利など一つもありません。
イエスがカルバリーで死なれた時、
悪魔はあらゆる権利を奪われ、
支配も力もすべて剥ぎ取られたのです。
さあ――その方が今ここに御降臨されています。
77. モーセは逃げ出し、
あの荒野の裏側でイテロの羊を追っていました。
まあ、なんと!
四十年ものあいだ、そこにいて、子どもも二人もうけて、
その同じ荒野を行ったり来たりしていたのです。
そして奥さんはといえば——
あの小柄で、気性の強い人。
モーセだって気性があったでしょう。
だからきっと、あの広い荒野で、二人は賑やかな毎日だったに違いありません。
あなたもそう思いませんか?
神様は、人を徹底的に“おとなしくされる”お方ですからね。
そうなんです。
78. それで、ある朝のことです。
わたしは、あの古い曲がった杖をつきながら、よろよろと歩いているモーセの姿を見るのです。
もう八十歳、杖にすがりながら、
白いひげがこんなふうに垂れ下がり、髪も長く垂れている。
モーセはふと横を見るんです。
「あれは変わった光景だな。」
もう一度見る。
「どうしてあの木は燃え尽きないんだ?」
そしてこう言うんです。
「よし、ちょっと行って見てこよう。」
あなたも経験があるでしょう?
何か騒ぎが聞こえてきて、
「なんだろう?」と横道にそれてみたら、
そこで救われてしまう、そんなことが。
火ですよ。
聖霊の火が燃え始めるとね、
人は振り向いて、
「いったい彼らはどうしたんだ?」
そう言いながら近寄って来るんです。
79. さて、モーセはだんだん近づいて行きました。
「どうしてあれは燃え尽きないんだ? もう三十分は燃えているのに……。」
そう思いながら歩み寄り、
「よし、もっと近くで見てみよう。これは一体なんだ。」
そう言って近づいたその時です。
その中から声が響きました。
「靴を脱ぎなさい。あなたの立っているその場所は、聖なる地である。」
モーセは「帽子を脱ぎましょうか」とは言いませんでした。
主は言われたのです、「靴を!」
だから彼は身をかがめて、靴を脱ぎました。
そして尋ねます。
「主よ、あなたはどなたですか?」
すると主はこう言われました。
「モーセよ!」
――ここは出エジプト記3章、1節から12節あたりです。
「モーセよ、わたしはわたしの民のうめきを聞いた。
そしてわたしは、アブラハムに与えたあの約束を覚えている。(ハレルヤ!)
その叫びとうめきを聞いたので、
わたしは彼らを救い出すために降りて来た。」
アーメン。
主はご自身の約束を果たすために、降りて来られたのです!
80. いつの日か——あの古い墓地、向こうに並んだ墓石。
おばあちゃんのお墓の石が、片方へ傾いていても、そんなことは何の問題にもなりません。主は言われるのです。「わたしは約束を覚えている。わたしは彼らを救い出しに来た。」ハレルヤ!たとえ嵐が迫ろうと、世がどれだけ揺れようと、私は少しも恐れません。船を導いておられる方が誰なのか、私は知っているからです。あなたもそうでしょう?だから、静まっていなさい。「わたしは彼らを救い出すために降りて来た。」「主よ、では……何をなさるのですか?」「モーセよ、わたしはお前を遣わす。」「ああ、主よ! 私を?私にはとてもできません、主よ。」
「いや、できる。お前をこの世に生まれさせたのは、そのためなのだ。」
「でも私は八十歳ですし、背中も固くなって……関節炎かもしれません。
それに私は口下手で、うまく話すことができません。」
すると主は言われました。
「人の口を造ったのは誰か?」
81. モーセは言いました。
「主よ、もしあなたの栄光を見せてくださるなら、私は行きます。」
アーメン。(怖がらないでください、「アーメン」とは“そのとおりです”という意味ですよ。)
「あなたの栄光を見せてください、主よ。主よ、あなたの栄光とは何でしょうか?」
すると主は仰せになりました。
「モーセ、その手に持っているものは何だ?」
「これは杖です、主よ。古い、曲がった棒です。」
主は言われました。
「それを地に投げなさい。」
モーセが投げると、それは蛇になりました。
彼は驚いて後ろへ跳びのきましたが、主は言われました。
「その尾をつかんで拾い上げなさい。」
モーセがその通りにすると、それは再び杖にもどりました。
次に主は言われました。
「モーセよ、その手を胸に入れなさい。」
彼が胸に手を入れ、引き出してみると——
その手はらい病で真っ白になっていた。
それが示すのは、
人の良心、人の心、人の思いがどれほど罪に汚れているかということです。
人間の考えそのものが、らい病のように腐っている。罪そのものだ、ということです。
しかし主は言われました。
「もう一度、胸に手を戻しなさい。」
モーセがもう一度胸に手を入れ、引き出すと——
その手は赤子の手のように清く、元の手と同じように戻っていた。
そこでモーセは悟りました。
これが神の栄光だ、と。
では、神の栄光とは何でしょうか?
奇跡、しるし、不思議、そして神のご臨在による癒しです。
「主よ、あなたの栄光を見せてください。」
82. 神がご自身の民を解き放そうとされた時——
モーセが現れ、聖霊が彼と共にいて、しるしと不思議と、神の御手による癒しを現されました。
アーメン、その通りです!
モーセは自分の手を見て言いました。
「ああ…これはなんと驚くべきことだ!」
そして、よく見なさい。
あの杖は“さばきの杖”だったのです。
明日の夜の箇所でさらに出てきますが、
あの杖がエジプトの上に振り下ろされた時、
それはモーセではなく——
神ご自身のさばきの杖 だったのです。
そしてその“さばきの杖”を握る手は、
清められた手でなければならない。
アーメン。
らい病からきよめられた、罪からきよめられた手です。
主は言われました。
「さあ、エジプトへ下って行け。
おまえの兄アロンは今こちらへ上って来ており、
彼はおまえの“預言者”となる。
そして、おまえは彼に対して“神のような立場”となる。」
83. さあ、モーセは行きました。
彼はイテロのところへ行って言いました。
「イテロ、今日わたしはあなたのもとを去らねばなりません。」
そして、古びたラバを一頭つかまえて、
その首に手綱をかけ、
奥さんをそのラバの背の上にまたがらせ、
両わきに子どもをひとりずつ抱えさせて、
さあ出発です。
想像できますか?
八十歳の老人——
白く伸びたひげ、長い髪、
手には曲がった杖一本。
そのモーセが古いラバを引きながら、
背中に妻と二人の子どもを乗せて、
あのエジプトを“征服しに”向かって行くのです!
そんな光景、思い描けますか?
誰かがこう言うでしょう。
「モーセ、いったい何をしに行くんだい?」
84. さあ、モーセはずんずん進んで行きました。
ああ、彼はもう“喜びいっぱい”です。
「さあ、ツィポラ、行くぞ!」
彼は妻をラバの上に乗せ、
もう片方の手ではその“年老いたラバ”を引き、
元気よく言うのです。
「さあ行こう!エジプトへ向かうんだ。
あそこを“取ってくる”んだ!」
エジプトというのは、あの当時の“ロシア”のようなものでした。
世界で最も機械化され、最強の軍隊を持っていた国です。
世界中のどんな国も、エジプト軍の前には地に伏してしまうような時代。
そのエジプトに——
八十歳の老人、手には一本の杖、
その後ろにはラバにまたがった妻ツィポラ、
両脇に子どもを一人ずつ抱えて、
「エジプトを取ってくる!」
と向かって行くのです。
なぜ?
神がそう約束されたからです!
ハレルヤ!
85. それはちょうど、カデシュ・バルネアでの出来事と同じです。
神が約束されたのです。
ヨシュアは言いました。
「私たちはできる!神がそう言われたからだ!」
そうです。
ここでも同じ。
彼らはエジプトへ向かって行ったのです。
ところが、よく見てみると——
人間というものは、どれほど怠惰になり得ることか!
モーセは途中で、神さまに出会います。
ところがそこで、もしツィポラが動かなかったなら、
神はモーセを撃ち殺されるところでした。
ツィポラは急いで鋭い岩を取り、
二人の子どもにその“割礼”を行い、
その皮をモーセの足もとに投げつけて言いました。
「あなたは私にとって血のお婿さんです!」
その言葉、その行動が、モーセの命を救ったのです。
なぜこんなことになったのでしょう?
モーセは、
“下へ行くんだ、出発しなくちゃ、急がなきゃ”
……と、この世の忙しさの真ん中で、
あまりにも慌ただしく動き続けるうちに——
神の契約の“しるし”である割礼を、
すっかり忘れてしまっていたのです。
86. そして、まさに 今の私たちも同じことをしている のです。
これこそが、今日の“ホーリネス派の教会”が失敗している理由です。
神さまは私たちに時間を与え、
豊かなお金も与えてくださった。
すると人間はどうするか?
巨大な教会堂を建て、
高い尖塔を立て、
ふかふかの椅子を並べ、
大きなパイプオルガンを入れて……
そのうちに、神の“しるし”を忘れてしまうのです。
そのしるしとは何でしょう?
聖霊のバプテスマこそ、神の“封印(シール)”です。
アーメン。まことにその通りです。
神よ、どうか私たちに“ツィポラ”を送ってください。
そうです。
“割礼”です。
イスラエルの民の中で、
割礼を受けていない男性は、
みな“民から切り離された”のです。
割礼は“約束のしるし”でした。
そして、旧約の割礼は、
新約における 聖霊のバプテスマ を表しています。
聖霊のバプテスマを受けていない者は、
みな切り離されてしまう。
——これが神のみことばです。
神よ、どうか憐れみを!
87. 「皆さん、私がもう疲れさせてしまっているのは分かっています。でも、
私は今、あまりに恵まれて楽しくて仕方がないんです!」
「まぁ、そろそろ止めないといけないかもしれませんね。
よし、では明日の夜は 第4章の4節 から始めましょう。」
さて、ここ第3章の最後の部分——
エホバご自身が“御名”を明らかにされる場面 があります。モーセが尋ねました。
「主よ、わたしは誰が私を遣わされたと言えばよいのですか?」
神が答えられました。
「I AM THAT I AM(わたしは“あってある”者だ)。」
そして言われたのです——
「イスラエルの人々には、
『I AM(わたしは〈あってあるもの〉)が、あなたを遣わされた』と言いなさい。」
※“I AM”とは「I was(私は昔〜だった)」でもなく、
“I will be(私はこれから〜になる)」でもなく、
“I AM(今も、いつも、永遠に存在しているお方)”
という意味です。現在形。永遠の“今”。変わらない方。
88. ある日、ユダヤ人たちはそこで水を飲みながら、
荒野で先祖たちが食べたマナのことを喜んで話していました。
その時、イエス様は人々の真ん中に立ち、
(ヨハネ6章の場面です)
祭りの席で、大声で言われたのです。
人々は言いました。
「私たちの先祖は、荒野でマナを食べたのです。」
イエス様は答えられました。
「その者たちは、みな死にました。」
そして言われました。
「しかし、わたしは天から下って来た“いのちのパン”である。
エデンにあった“いのちの木”と言ってもよい。
わたしは神から来たパンである。
もし人がこのパンを食べ、
わたしの血を飲み、わたしの肉を食べるなら、
その人は永遠のいのちを持つ。
そして、わたしはその人を、
終わりの日によみがえらせる。」
89. 人々は言いました。「この人は冒涜している!どうやって自分の体を、私たちに食べさせるというのか?」また言いました。「私たちはモーセを信じている。モーセこそ私たちの預言者だ。そして私たちの先祖は、荒野で四十年の間、マナを食べたのだ。」イエス様は答えられました。「そのことは知っている。だが、彼らはみな死んだ。しかし、わたしこそ“いのちのパン”である。」人々は驚きました。
「あなたが…?どういう意味だというのか?」イエス様こそ、荒野でイスラエルに水を出した あの岩 であり、天から降った マナ であり、幕屋で祭司が食べた 供えのパン(ショーブレッド) であり、ヨルダンの水そのものでもありました。
ハレルヤ!イエス様はアルファでありオメガ、初めであり終わり。かつておられ、今もおられ、やがて来られる方。世界が造られる前からおられ、世界がなくなっても変わらずおられる方。ダビデの根であり、その子孫。谷の百合、シャロンのバラ、明けの明星。ハレルヤ!ダビデの前にもおられ、ダビデの中にもおられ、ダビデの後にもおられるお方!
私は イエス・キリストの神性 を信じます。
イエス様は単なる預言者ではありません。
「良い人」でもありません。
肉に包まれた神、
神がキリストにおいて世を御自身と和解させておられたお方。
それがイエス様です。
そしてブラナム兄弟は言います。
「あなたが信仰を持てない理由は、
あなたが“イエス様が誰であるか”を
まだ本当に知らないからだ。」
90. 人々は言いました。「何だって?あなたはアブラハムを見たと言うのか?
あなたはまだ五十歳にもなっていないではないか!」イエス様は当時三十歳ほど。何日も奉仕が続き、お身体は疲れ、やつれておられました。だから人々には年齢以上に見えたのでしょう。彼らは言いました。「アブラハムは八百年か九百年も前に死んだのだぞ。どうしてあなたが彼を見たと言えるのか?」するとイエス様は答えられました。「アブラハムが生まれる前から、わたしは“ある”(I AM)のである。」ハレルヤ!「わたしは“ I AM ”——ヤハウェである。」彼こそ エホバ・マナッセ(忘れさせる主)、彼こそ エホバ・ラファ(癒し主)。ヨハネが示したように、あらゆる“エホバの贖いの御名”がすべてイエス・キリストの中に現れていた。そして――「キリストのうちにこそ、神の満ちみちた御性質が“からだを取って”宿っておられた。」(コロサイ2:9)そこに立っておられたその方こそ、
肉体を取られた完全なる神、永遠の“ I AM ”、アブラハムが見たお方そのもの。
91. 「わたしは彼らを救い出すために下ってきた。
わたしの御名を告げる。
これを世々にわたる記念として、
“わたしは《I AM》である”と伝えよ。
“わたしは《あった者(I was)》でも、
これから《なる者(I will be)》でもない。
《今ある者(I AM)》である。」
その夜、燃える柴の中で語られたその 同じ神 が、
今夜ここにもおられる。
そして主はこう言われたのです。
「いま、わたしはあなたの前に行く。
わたしの使いを遣わす。
その天使は“火の柱”のうちにおり、
その火の柱があなたを導く。
火の柱が、あなたの前を進む。
その火の柱の中に、
《I AM(あってあるもの)》 が臨んでいる。」
“火柱”—
天に向かってそびえるような、
神の臨在そのものの輝き。
その中に、
“ I AM (あってあるもの)” が住まわれる。
92. さて、ブラナム・タバナクルの皆さん、そしてこの真理を知り、ともに歩んでおられる方々よ。
あなたがたはご存じでしょうか?
あの同じ“火の柱”が、今夜も私たちと共にあることを。
あの写真が撮られたことを覚えているでしょう。
そしてその写真が今や世界中に行き渡っている。
あの燃える柴の中に現れてモーセを導いた、あの“火の柱”と同じお方です。
それは何でしょうか?
どんな学者であっても否定できない――。
もし私の語り方が少し拙いところがあったとしても、
私が何を語っているか、どこに立っているか、
聖霊が私に確信を与えてくださっています。
どの学者も知っています。
荒野でイスラエルを導いたあの御使いは、
“契約の使い(エンジェル・オブ・ザ・カヴナント)” であったことを。
そして 契約の使いこそ、イエス・キリスト であることを。
聖書は言います。
「モーセは、エジプトの富よりも、キリストの辱めを大いなる富と思った」
そうでしょう?
“契約の使い”――それが誰であったか。
では、そのお方が今ここで私たちと共におられるとは、どういうことでしょうか?
人々はこう言うかもしれません。
「おまえたちは頭がどうかしている」
「ホーリネス派の狂信者だ」
「聖霊に酔った一団だ」——と。
しかし 神ご自身が、
昔イスラエルを導いた同じ“火の柱”で、
今日も私たちを導いておられる と
“御自身を証明(ヴィンディケート)”しておられます。
ハレルヤ!
栄光あれ、神に!
あの“火の柱”は、
かつてイエス・キリストと共にあったお方。
そして主がパリサイ人に言われた言葉、
サマリヤの井戸の女に隠れた罪を告げた力…。
その同じ御霊が、
今、私たちのただ中で働いている。
「昔いまし、今おられ、やがて来られる方」!
ハレルヤ!私はその方を待ち望みます。
あなたもそうでしょう?
すべての“推測”はもう終わりました。
ああ、なんという恵みでしょう!
93. 「驚くべき十字架を見つめるとき——
そこには、栄光の君が血を流して死なれた。
私の名誉も誇りも、すべて“損”にすぎない!」
ああ、なんという惨めな…!
罪人の友よ。
あなたはどうして、あの偉大な“教会の影像(タイプ)”を見て、
あの“火の柱”が彼らを導いているのを見て、
そして 今日、この時代にも同じお方が現れている という事実を…
どうして ただ立って見過ごす ことができるのでしょうか?
その“前触れ(foreshadow)”—
旧約が映し出したものが、
今あなたの目の前で“現実”になっているのに!
さあ、どれだけの人が、
あの写真 を持っていますか?
持っている人、手を挙げてください。
(手が上がるのを見るように)
はい、ありがとうございます。
では、
写真を欲しい方はどれほどおられますか?
欲しい方は、手を挙げてください。
(手が上がるのを見て)
はい、わかりました。
明日の夜、ここに持ってきてお見せします。
あれこそ、
神ご自身が“お証しになった”ものです!
ヴィンディケーションです!
神がご自身で「これはわたしだ」と示しておられるのです。
94. 三万人もの人々、そして批評家たちがずらりと並んでいる前で、私は言いました。
「私は“癒し主”なんて名乗っていません。あなたがたも知っています。
私はただ“真理”を語るだけです。
ケンタッキーの小さな丸太小屋で私が生まれた時、
主の御使いが窓から入ってきて、そこに立ったのです。
“火の柱”とともに。」
そして私は言いました。
「神がその事を証明してくださった。
もし私が真理を語っているのなら、神は真理を“証しされる”。
しかし、もし私が嘘をついているなら、神は私と関わられることはない。」
ちょうどその時です。
“フゥオォッ——!”
あの方が来られたのです。
アメリカ写真家協会、
Look、Life、Time、Collier——
すべての新聞・雑誌のカメラマンたちがそこにいました。
彼らは言いました。
「心理現象だろう。以前も見たことがある。だが、一応撮ってみよう。」
そしてシャッターを切ったのです。
すると、その“光”がレンズに映った。
彼らはそれを持ち帰り、
アメリカ最高の鑑識官 ジョージ・J・レイシー のもとへ運び、
可能な限りあらゆる調査を行いました。
その結果——
本物だと証明された。
そして今その写真は、
ワシントンD.C. の “名誉の館(Hall of Fame)” に飾られている。
ハレルヤ!
あれは何なのか?
“イエス・キリスト”が、
世間から『ホーリーローラーの集まり』と呼ばれている
この小さな者たちのところに
ご自身を表された証しなのです。
神があなたの心を祝福してくださいますように。
95. どんな有名な絵画でも、“名誉の館”に飾られる前には、
必ず 「批評の館(Hall of Critics)」 を通らなければなりません。
あの有名な 「最後の晩餐」 でさえ、
まず批評の館にかけられ、
散々に批判されました。
画家は一生をそのために費やしました。
しかし今、その絵は 「名誉の館(Hall of Fame)」 に誇らしく飾られているのです。
どんな作品も、まず“批評の館”を通らなければならない。
兄弟姉妹よ、
私たちがこの “聖霊の道” を歩き始めたあの頃を思い出してください。
あの昔、何十年も前——
私たちは小さな馬小屋、
誰かの家の片隅、
あるいは古い小さな店の表に集まりました。
罪人たちは外でガムを噛みながら、
私たちを笑い、馬鹿にし、
「ホーリーローラーだ!」 と呼び立てました。
私たちは牢獄で夜を明かしたこともありました。
殴られ、嘲られ、侮辱され——
それでも続けたのです。
そうです——それが真実です。
96. この前、ひとりの小さな老いた牧師が、私の家に座っていました。
彼は、町から追い出され、妻と子どもたちとともにさまよっていた人です。
赤ん坊に食べさせるために——
雨に濡れた毛布の上で眠り、
朝になればそれを木にかけて乾かし、
そしてまた歩く。
線路沿いを下を向いて歩き、
落ちているトウモロコシの粒を一粒ずつ拾い集め、
小さな棒で割れた石を使って叩き、
十二日、十四日と、
砕いたトウモロコシだけで生き延びたのです。
私の古いマネージャー——
神が祝福してくださいますように——
あのボズワース兄弟。
今夜もアフリカのダーバンで、
「ブラナム兄弟、どうかまた来てください」と私のために祈っている。
かつてテキサスでは、
彼は背中を鞭で叩かれ、
喉を切ると脅され、
手首を折られながらも、
スーツケースを持って宣教し続けた。
なぜか?
ただ、“聖霊のバプテスマ”を説いたゆえに。
聖書のことばが思い出されます。
「彼らは羊の皮、山羊の皮をまとい、荒野で乏しく、さすらった。
この世は、彼らを受けるにふさわしくなかった。」
97. 大きな教会は、私たちを笑い、指をさして馬鹿にしました。
彼らは私たちを「ホーリネス派のローラー(holly-rollers)」だと言った。
私があの礎石をここに据えたとき——
彼らはこう言ったのです。
「あの小さな建物なんて、いずれ車庫にでもしてしまうだろう」
あれから二十年。
聖霊は今もここに生きておられる!
ハレルヤ!
彼らが“狂信”だと言ったもの、
“間違いだ”と笑い飛ばしたものが、
いまや王たち、君主たちの国々にまで届き、
偉い人たちも癒され、
神の力は世界中を駆け巡り、
いまでは 何百万という者たちが、この信仰に立っている!
ハレルヤ!
そして、いつかある朝……
(※ここでブラナム兄弟特有の余韻がありますね)
私たちは批判の只中を通り抜けました。
「そのうち燃え尽きるさ」と言われ、
ここでも「ビリー、お前は正気を失っただけだ」と言われました。
自分の義母でさえ、
「あの子はおかしくなったんだよ」
と言ったほどです。
でもね……
もし私が狂っているのだとしても、
私はなんと“すばらしい時”を過ごしていることでしょう!
98. 兄弟よ、ちょっと聞いてください。
この言葉は、私は最大の敬意をもって言います。
ハレルヤ!
地獄じゅうが相手になったとしても止めることはできません!
それは イエス・キリストご自身が定められたことであり、
必ずそのとおりになるからです。
主は言われました。
「この岩の上にわたしの教会を建てる。
地獄の門も、それに打ち勝つことはできない。」
では、その“岩”とは何でしょうか?
どんな教会でしょうか?
「ペテロよ、肉と血がこれをあなたに啓示したのではない。
天にいますわたしの父が、これをあなたに示されたのだ。」
つまり、
聖霊による“霊的な啓示”、
神のことばの啓示の上に立つ教会です。
その教会こそが、
地獄の門にも打ち負けないのです。
そしてその教会は——いまも前進し続けています。
99. 兄弟よ、
この小さな教会は、長い間、人々に嘲られ、迫害され、押しのけられてきました。
しかし——ある栄光の朝(ハレルヤ!)
栄光のうちに立っておられる大いなる御主人が、
ご自身のしもべたちを指さして言われるのです。
「力によらず、勢いによらず、
わたしの霊によって」と主は言われる。
神学でも、文法でも、
この世のあれこれでもない。
ただ、
聖く、混じり気のない、
神の御子とその御言葉を信じる“単純な信仰” によるのです。
主は今、絵を描いておられます。
絵を描いておられるのです。
何の絵でしょうか?
世界の基が置かれる前から、
神があらかじめ定めておられた“聖霊に満ちた教会”の姿です。
やがて——ある朝、
主は天から大いなる磁石のように、
ハレルヤ、
一気に降りてこられ、
迫害され続けたその“小さな教会”を拾い上げ、
栄光の殿堂に掲げられるのです。
その教会は空を駆け上がりながら叫ぶでしょう。
「この肉の衣はここに残し、
わたしは立ち上がって永遠の報いをつかみ取る!」
空を通り過ぎながら叫ぶのです。
「さらば——さらば!
祈りのひとときよ、甘き思いよ!」
アーメン!
100. 天のお父様、今夜、わたしたちはあなたに感謝いたします。どういうわけか……
どうしても本来のレッスンに入れませんでした。しかし、聖霊が動き、
内側から溢れ、満ちあふれて押し流してくださったからです。
ああ、主よ、心の底からあなたに感謝します。あなたの愛と力に感謝します。
主よ、ありがとうございます。この大きな暗闇の時代——自己満足と高ぶりで満ちたこの時代にあって、なお、謙遜にあなたを求める民を与えてくださったことを。あなたの御霊は、終わりの時にどうなるかをはっきり語っておられました。
テモテ第二の手紙 第3章——あなたの御言葉はこう言われました。
「彼らは尊大になり、高慢になり、快楽を愛して神を愛さず、見かけは敬虔でありながら、その力を否定する。そんな者たちから離れなさい。」 まさに今、その時代のただ中にあります。
主よ、それでもあなたを愛し、あなたの御霊に心を開く者たちを、どうか祝福してください。
101. 神よ、あなたはあの日、こう仰せになりました。「恐れるな、小さな群れよ。
あなたがたに御国を与えることは、あなたの父の喜びなのだ。」
主よ、この御言葉をありがとうございます。罪の中で、盲目のようにさまよっていたこんな私——罪深い家に生まれ、ウイスキー樽のそばで育った、
どうしようもない者だった私の目をあなたは開いてくださいました。
ああ神よ、あなたが私をどれほど守り、どれほど助け、どれほど祝福し、
どれほど満たしてくださったことか!主よ、どう表現したらよいのか分からないほど、私の心はあなたへの感謝でいっぱいです。ああ神よ、どうか今日がただの始まりでありますように。そしてもう一度、世界のすみずみまで行き、解放と救いのメッセージを力一杯、宣べ伝えることができますように。
102. 神様、どうかこの小さな教会を、かつてないほどに揺り動かしてください。
聖霊がここにいる一人ひとりを力強く捉え、断食し、祈り、昼も夜も御前にひれ伏して叫び求めるようにしてください、主よ。そして、昔ながらのリバイバルがここに燃え上がり、この一帯を席巻し、男も女も、再び神のもとへ立ち帰る、
あの古き良き時代の力を送り込んでください。どうぞ、父よ。主イエス・キリストのお名前によって、これらをお祈りいたします。アーメン。アーメン。
——立ちましょう。
ああ、主を見たい
そのみ顔を仰ぎたい
いつまでも救いの恵みを歌いつつ
栄光の街路で声高らかに
悩みは過ぎ、ついに故郷へ 永遠に喜ばん
103. ハレルヤ!
ここを見下ろしていると、思い出すんです。
あの頃、わたしがメッセージを語るたびに、
いつもそこに座って涙をぬぐいながら、
説教が終わると私に腕を回してくれた、
あの年老いた兄弟のことを。
あの輝かしい日、私は彼にまた会いに行くでしょう!
向こう側には別の方……
あっちに座っておられたウェバー姉妹。
それぞれの方の顔が思い浮かびます。
聖歌隊で歌っていたスネリング姉妹、
そしてあの小柄で赤毛のジョージ兄弟……
彼らは今どこにいるのでしょう?
ハレルヤ!
彼らは神の御国のふところに運ばれ、
ハレルヤ、神の御国の中に封印された人々です。
私は、彼らが旅立つ瞬間を、この目で見てきました。
あの小さなジョージ兄弟が天に帰るとき……
扉のほうをじっと見つめて、
息をするたびに、こんなふうに [ハッ…ハッ…という息遣い]
「誰が… どうなっているんだ…?」
(今夜、彼の甥御さんのためにもお祈りしましたね。病気でした。)
彼はずっと、じっと見ていました。
人々はこう言いました。
「兄弟は、ブラナム兄弟を探してるんだ。」
でも、彼は私を待っていたのではありません。
ふっと彼は顔を東の方へ向け、
こう言ったのです。
「おお、イエス様!
あなたが迎えに来てくださると、私は知っていました!」
そう言って手を伸ばし、
静かに息を引き取り、
神の御元へ旅立って行きました。
ハレルヤ!
ああ、なんということだ……
さあ、家に帰ろうじゃありませんか!
皆さん、主を愛していますか?
104. ここにいるどなたか……
男性でも女性でも……
「私は、主の復活の力、その満ち満ちたお力の中で、
そのお方を本当に知りたいのです」
――そう願う方はいらっしゃいますか?
もしそうなら、手を挙げてください。
はい、神様があなたを祝福してくださいます、姉妹。
神様があなたを祝福されます。
神様があなたを祝福されます。
「なぜブラナム兄弟は、この招きの時にこんなに長く待つのだろう?」
そう思う方もおられるかもしれません。
――私は、この“招き”に時間を取る理由があるのです。
さあ、手を挙げてください。
「私は、主の復活の御力の中で、そのお方を知りたいのです。」
105. その“復活の力”というのはね、兄弟よ……
何か、必死に掘り起こしたり、引っぱったり、
努力してつかみ取るようなものではありません。
ただ、自分を明け渡すのです。
すると神が、あなたを“向こう側”へと、
ふわりと運んでくださる。
主のために生きることが、もう喜びそのものになる世界へ。
ほかのものは……
まるで「真夜中の12時」のように死んでしまって、
何ひとつ魅力を感じなくなる。
キリスト・イエスのうちにある者には、いかなる罪のとがめもない。
この世の古いものを“やめる”必要すらないんです。
やめるのではなく、
その古いもののほうが、あなたから離れていく。
もう存在しないもののように、自然に消え去っていく。
アーメン!
主を愛している人は、アーメンと言いましょう。
大きな声で!
「アーメン!」
よろしい。
Take the name of Jesus with you,
Child…(さあ、周りの人と握手しましょう)
… and of woe;
近くの人と握手して、
「タバナクルでお会いできて嬉しいです」と言いましょう。
それから、また元の席に戻ってください。
Take it everywhere you go,
Precious name, O how sweet!
Hope of earth and joy of Heaven;
Precious name, O how sweet!
Hope of earth and joy of Heaven.
さあ……(声を落として、静かに)
At the name of Jesus bowing,
Falling prostrate at His feet,
King of kings in Heaven we will crown Him,
When our journey is complete.
Precious name(precious name), O how sweet!
なんと優しい、なんと尊い御名でしょうか。
天にあるすべてのものにも、
地にあるすべてのものにも、
その名が与えられた――
“イエス” という名が。
Precious name(precious name), O how sweet!
Hope of earth and joy of Heaven.
106. では、頭を垂れましょう。
かつて山の上に腰をおろされ、教えてくださった 偉大なる教師よ。
あなたはその日、こう言われました。
「あなたがたは、こう祈りなさい。」
(ブラナム兄弟と会衆がマタイ6:9-13を共に祈る)
「天にまします、われらの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われるように、地でも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をお赦しください。
わたしたちも、わたしたちに罪を犯す者を赦します。
わたしたちを試みにあわせず、
悪よりお救いください。
国と力と栄えとは、限りなくあなたのものです。アーメン。」
おやすみなさい。
主の祝福が皆さんの上に豊かにありますように。
At the name of Jesus…(イエスの御名を呼ぶたびに……)