イスラエルと教会#1

Israel And The Church #1

イスラエルと教会#1

ジェファソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国

説教番号: 53-0325

日付: 1953年3月25日(53-0325)

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1. …この小さなタバナクルに戻って来られたことを、私は本当に感謝しています。
これまでにも何度か、1〜2時間だけ立ち寄ったり、礼拝に参加したりしたことはありました。けれども、こうして本格的にリバイバル集会を持つために戻って来たのは、これが初めてです。
今夜から、私たちはリバイバルを始めます。
私の考えでは、リバイバルというものは——
新しい会員を増やすことを目的としたものではありません。
また、多くの回心者を生み出すことが中心というわけでもありません。
もちろん、それらが伴うこともあります。
しかし、本当のリバイバルとは、
すでに与えられているものを、もう一度よみがえらせることです。
すでに持っている信仰を、再び燃え立たせること。
その心を、もう一度“息を吹き返させる”ことなのです。
2. そして今、ここには本当に素晴らしい牧師である
ネヴィル兄弟がおられます。
今夜は、風邪のため少し声がかすれていますが、
前の席に静かに座っておられます。
私は、ここを本当に 「帰る家」 のように思っています。
かつて私がここにいた頃、私は——
牧師であり、賛美の指揮者であり、献金も取り、
教会の借金を払い、用務員もして、大工仕事もして、
ストーブの灰をかき出すことまでしました。
とにかく、必要なことは何でもやりました。
そしてその傍ら、電力会社でも働いていました。
この場所での17年間、私はそうして過ごしてきました。
今夜この「小さな礼拝所(タバナクル)」を見ると、
私は本当に幸せな気持ちになります。
ここは私にとって、まるで「生まれ故郷」のような場所です。
決して立派な建物ではありません。
巨大でもありません。
しかし——
ここは“家”です。
そして私は、心からくつろいだ気持ちになります。
この場所が与えられていることを、
私は本当に幸せに思います。
3. さて、今回の集会は、
日曜日の夜まで、5晩 を予定しています。
そして私たちは、この期間中、
聖書から「教える」こと を中心に進めていきます。
この教えの時間では、
聖書以外のことは扱いません。
純粋に、みことばそのものを取り上げます。
それから、この集会がどのような流れで進むのか、
最初の段階でしっかりとお伝えしておきたいと思います。
土台となる背景をはっきりさせておきたい のです。
まず最初に、
私たちがどのように進めていくのか——
その「ルール」と「順序」を理解していただき、
祈りに入って礼拝を始める前に、
みなさんに全体像をつかんでいただきたいのです。
4. そして私は、主が許してくださるなら、
今夜は「教会」についてお話しし、
この5晩を通して 教会についての連続メッセージ を語りたいと願っています。
今夜、第1夜は——
「エジプトの中のイスラエル」 です。
明日の夜、もし主が許されるなら——
「紅海のほとり」。
その次の夜は——
「青銅の蛇の前で」。
そして土曜日の夜は——
「カデシュ・バルネアにて」。
そして日曜日の夜、最終夜には——
「約束の地に入るイスラエル」 を取り上げます。
いずれも すべて聖書に基づく教え です。
ですから、皆さんはぜひ 聖書をお持ちください。
この集会は、聖句から聖句へ、ひたすらみことばをたどり続ける ものだからです。
5. 多くの人たちから「病人のために祈ってほしい」という
たくさんの連絡が入っています。けれど私は、この数日は少し距離を置いていました。心を完全に“聖書の教え”に集中させるため です。主が何をしてくださるのか、私はまだ分かりません。
私たちは今、海外宣教の呼び出し を待っているところです。
この時期は、ちょうど良い区切りだと思いました。おそらくその頃には、
ネヴィル兄弟の体調も良くなって、ここから先を引き継いで、
このリバイバルを続けてくださるかもしれません。私は、この集会が
復活祭(イースター)まで続くことを願っています。そして復活祭の朝には、
大きなバプテスマ礼拝 をしたいのです。それはなんと素晴らしいことでしょう!
多くの方々が洗礼を受ける、まさにそのような時になると信じています。
ここには、洗礼を受けたいと願っている若い方々もおられると私は思います。
そして今、若い方々のことに触れましたので——ここには数名の訪問者の方々もおられます。誰がこの教会に普段から来ていて、誰がそうでないのか、
私はまだ詳しく分からないのですが(※テープに空白があり、音が抜けています)
6. では、今夜は 出エジプト記の第12章 から始めます。皆さん、鉛筆と紙 をご準備ください。もし、聖句を一緒に追いながら聞きたい方で、聖書が必要な方 がいらしたら、どうぞ手を挙げてください。ここに 5〜6冊の予備の聖書 があります。
手を挙げてくだされば、長老のどなたかがすぐにお持ちいたします。
ただし、他にあるのは 新約聖書だけ のものです。しかし今夜は、ほとんど旧約聖書から学びますので、必要な方は遠慮なくお申し出ください。
7. 聖書を学ぶにあたって、私はしばしば「型(タイポロジー)類似学」を多く扱うと言って、批判されたり指摘されたりすることがあります。“類似種”というのは——旧約の出来事を、新約の出来事の写し(影)として扱うことです。
では、なぜ私がそうするのか。その理由をお話ししましょう。
ときどき、学者の方々などが聖書の言葉の専門的な意味や、
特別な発音、用語を説明しようとします。でも私は、それにあまりこだわりません。私は キング・ジェームズ訳 (欣定訳)を手に取り、そのまま信じることで満足しています。キング・ジェームズ訳(欣定訳)は、これまでのどの翻訳よりも長い間、嵐に耐えてきました。又私は、そのままの形で“それを信じる”のです。
8. そして私は、聖書全体が教えていること、
すなわち 旧約聖書のすべては、これから来るものの“影”であった
という事実を信じています。
たとえば、私があちらの壁へ向かって歩いていくとします。
そのとき、私の影は先に壁に映ります。
すると、その影を見れば、
私がそこに来るとき、どのような姿なのかが分かるのです。
それは、私が四つ足の獣なのか、鳥なのか、
あるいは人間なのか——
影がそれを示します。
同じように、
旧約聖書は 新約の“影”、あるいは型“ でした。
旧約のすべては、
カルバリ(十字架)へ向けて指し示していました。
私は、聖霊の助けによって、
これからの数週間(どれほど長くかは分かりませんが)、
旧約聖書のどの章を取っても、必ずキリストを語っていることを
証明できると信じています。
そして、すべてはキリストのうちに成就しました。
私たちも、キリストにあって“完全”とされているのです。
なんと簡単で、なんと美しい神の計画でしょう!
キリストのうちにあって、
私たちは完全なのです。
9. これまでも、人はいつの時代にも自分自身を救おうとして きました。
あれこれと自分の努力で救われようとしてきました。しかし——
新約において、私たちが自分の行ないによって救われたことは一度もありません。聖書ははっきりこう言っています。 「あなたがたが救われたのは、恵みによるのであって、信仰による。」 私たちを救うことができる唯一のもの——それは 恵み です。
10. 先ほど、皆さんに手を挙げていただいたのは、ここに集まっておられる方々のうち、どなたがこの教会のメンバーで、どなたがそうでないのか
私には分からなかったからです。それを通して、この集まりがどれほど“キリストを信じる者たち”で満たされているかを見たかったのです。すると、今夜ここにおられる方々は——ほぼ九十九パーセントがクリスチャン のようですね。
そして私は、残りの方々も今、主に心を向けておられることを願っています。
11. さて、創世記は聖書の種の章です。 それが始まりです。 創世記という言葉は「始まり」を意味します。
そして今、明日の夜、私たちは子供たちを連れて行くために出エジプト記に行かなければなりません。 そして、出エジプト記という言葉は、「呼びかけ、出て行く」という言葉から来ています。 子供たちは...イスラエルの脱出されました。 彼らの脱出の際に、彼らはエジプトを出て、神が彼らに与えられた約束の地に行きました。
12. さて、当時の教会の姿を正しく捉え、
それを 今日の教会の型として見る ためには、
まず “種(創世記)”に戻る必要があります。
そこから “出エジプト(エクソダス)” に至るまでの流れを見なければ、
正しい“出て行く(エクソダス)”の意味が分からないからです。
つまり、こういうことです——
まず、教会がどのようにして
エジプトに落ち着くことになったのかを
しっかり見なければならない。
そうすれば、
神がどのようにして彼らを呼び出されたのか
その全体像が見えてきます。
そして、今週の集会を通して、
私たちはこのように
聖書をまっすぐ辿りながら進んでいきます。
今夜は、主が許してくださるなら、
多くの、多くの聖句を開きながら
“教え”に専念したい と思います。
13. さて、まず最初に、私たちが確かめておきたいことがあります。
それは——
なぜ人は、あれほど恐れを抱くのか
ということです。
私が世界中のクリスチャンたちを見てきて、
最も強く感じたことのひとつが、この “恐れ” です。
人々は、いつも何かに怯えています。
少しでも病気が襲ってくると、
すぐに恐れが込み上げてきます。
ときどき私は思うのです……
“どうしてこんなに恐れが強いのだろうか” と。
そして私は皆さんと同じ側に立っています。
私自身もその恐れを知っています。
しかし今夜、そしてこれからの一週間で私がしようとしていること——
それは、
神のみことばによって、
その“恐れ”を追い払うことです。
14. たとえば、あなたが私のところへ来て、
「ブラナム兄弟、私はこう信じています」
あるいは
「私はああ信じています」
と言ったとしましょう。
けれど、この世の中で 本当の意味で証明できる方法 は、
ひとつしかありません。
私は、誰かの“経験”を基準にすることはできません。
誰かの“教会の儀式”を基準にすることもできません。
真実を測る唯一の基準は、
ただひとつ——神のみことばです。
もし神のみことばが、ある事柄について
「これが真理である」と言うなら、
私は それが真理だと信じなければならない のです。
15. 最近、ある若い伝道者が私のところに来ました。
そして、ある出来事についてこう話したのです。
彼はその問題のために祈り、
「主がそれについて“こうである”と示してくださった」
と言いました。
私はしばらく彼を見つめ、こう言いました。
「兄弟、それは本当に素晴らしいことです。
主があなたにそのようにしてくださったことを、私は嬉しく思います。
しかし……ひとつ言わせてください。
その結論は、みことばに反しています。」
すると彼はこう言いました。
「でも、この幻は神から来たのです。」
私は答えました。
「兄弟、それは神から来たはずがありません。
なぜなら、その幻は神のみことばに反しているからです。」
16. さて、私たちは すべての事柄を聖書によって証明しなければなりません。
もし、あることが 自分の信仰とは反する ように思えても、
聖書が「これが真理である」と言うなら——正しいのは聖書であって、間違っているのは私の方なのです。聖書は、いつでも正しい。どんな場合でも、
私たちは聖書に立ち返るほかに道はありません。これは真理でしょうか?
(ここで会衆に問いかけるように)私は、皆さんが信じる時に
「アーメン」と言ってくださるのが好きです。“アーメン”とは、
「その通りです」 という意味ですから。ですから、私たちは……(続く)
17. ある人が最近、私に尋ねてきました。
(実は今日も同じ質問がありました。)
その人は、ある人物のことを話していました。
その人物は、取り組んでいる働きでとても成功しているように見える、と。
そしてこう言いました。
「ブラザー・ビル、それだけ成功しているのだから、
主がその働きの中におられるに違いありませんよね?」
私は答えました。
「主がおられるはずがありません。」
するとその人はさらに言いました。
「でも、魂が救われているんですよ!」
私は言いました。
「それでも違います。
もしその働きが神からのものなら、
神のみことばに反しているはずがありません。
神が“これが真理だ”と言われたあとで、
別の場面で“それとは違う真理”を語られる——
そんなことはあり得ません。
神は 一貫して同じことを語られる のです。」
いいですか、皆さん。
神は偽ることができません。
神は 絶対に誤りのないお方 です。
みことばも、同じように誤りがありません。
神が神であられるためには、
主は主権を持つお方でなければならない のです。
そして主は……(続く)
18. それから、こう言われる方もいます。「でもブラナム兄弟、もし神がここで何かをされたのなら、たとえそれがみことばと少し違って見えたとしても……どうでしょう?」私は答えます。「いいえ、それはあり得ません。
聖書はこう言っています。『この書に書かれていることに付け加える者、または取り除く者があれば、その者は命の書から取り除かれる』
と。だから、理由ははっきりしています。すべてにおいて、経験を基準にするのでもなく、見た目や結果を基準にするのでもなく、ただ“みことばが何と言っているか”だけを基準にするべきなのです。新約聖書で、パウロはこう言いました。「たとえ私たちであっても、天からの御使いであっても、あなたがたがすでに聞いたことと違う教えをするなら、その者はのろわれよ。」(ガラテヤ1章8節)
とても厳しい言葉ですが、みことばが絶対の基準であることを示すためなのです。
19. では、ここでいったん初めに戻って、みことばがどれほど確かであるか
を見ていきましょう。どうか、これを心に留めてください。
この聖書をたどっていく時、あなたは必ず気づくでしょう。神の御心の歯車は、ゆっくり回るように見えても、決して狂うことなく “確実に” 回っている ということに。それは、まるで遠く離れているように見えることがあっても、
実はずっと、休むことなく働き続け、ついには必ずその場所まで“正確に”進みつくのです。そして、ある日——必ずその成就の時がやってきます。何が起ころうと、それは変わりません。あなたが聖書にあるどんな事柄を取り上げても……(続く)
20. 本当なら、ここで 6か月、いや8か月ほどの聖書研究 を持てたらと願います。
創世記を開いて、創世記から一歩も出ずに 学ぶのです。そして私は信じています。3〜4週間ほど創世記を学ぶだけでも、その一つひとつの糸が、
聖書全体を貫いて流れている のが見えてくるでしょう。その言葉の一つひとつが、です。私は今、自分自身で 創世記を2年間学び続けています。そして今、2周目に入っていますが、まだ半分にも達していません。なぜなら……わずか 2〜3節 のみことばのために、数週間 を費やすこともあるからです。そして、そこで気づくのです——あの“種(シード)”の中に、すべてのものが含まれている、と。
21. 畑に育っているものがどんな実を結ぶのか知りたい と思うなら、
まず最初に その“種”が何であったのか を確かめなければなりません。
“種”は、そのとおりのものを必ず実らせます。その“種類(kind)”どおりに、
必ず生み出すのです。とうもろこしの種は、とうもろこし しか実らせません。
オナモミ(雑草の一種)の種なら、オナモミ が生えます。小麦の種なら、
小麦 が必ず実ります。何であれ——その種が何であったかによって
その実も決まるのです。
22. そして、今日見られる
あらゆる“カルト”や“異端の教え”、
さまざまな運動や“イズム”というものは——
神の恵みによって見れば、
すべて創世記のどこかに
その“始まり”が書かれている のです。
ただ 名前が変わっただけ のことです。
けれど、当時その“霊”がどのように働いたかを見てごらんなさい。
そして今日、それがどのように働いているかを見れば、
まったく同じ霊の働きである ことが分かります。
そして友人たちよ、
その中には——
思わず息をのむほど衝撃的なものもあるのです。
驚かれるかもしれませんが、
その一部は
非常に高い“教会の権威の領域”の中にすら
入り込んでいる のです。
23. さあ、あの“霊”を見てください。あれが最初に カインの中に現れた ところから、
どのように ハムへと受け継がれ、さらにニムロデへ、そしてバビロンへと進んでいったか。そして、そのバビロンからさらに降りてきて、イエス様がおいでになった時代にまでその同じ霊が続いている のです。当時の教師たち、聖書の学者たちは——主イエス・キリストを認識することに失敗しました。
彼らはそこに立ち、磨き抜かれた学者であり、“聖い人”であり、“義しい人”とされていました。みことばの一字一句を知り尽くし、どこに何が書かれているかも完全に把握し、巻物のすべてを暗記し、それを代々受け継ぐ家系に生まれた者のみが祭司になれるような、完璧な訓練を受けた人々 でした。今日の神学校の学生など、その人々に比べれば“昔の版”にすぎないほどでしょう。それほどの知識を持ちながら——それでも彼らはイエス様を知ることができませんでした。
そしてイエス様が来られた時、彼らは“聖い人々”と考えられていましたが、
イエス様は彼らにこう言われたのです。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者である。」また、「あなたがたは、神の力も、神のことばも知らないので誤っている。」想像できますか?主イエス・キリストが、聖く、義しく、学識ある聖書教師たちを「悪魔」と呼ばれた のです。しかし、主は確かにそう言われました。そして、もし私たちが“始まり”に戻るなら——その霊がどこから来たのかが分かるのです。
24. そして、よく見てください。
あの霊は、今日、恐ろしい力で前へ突き進んでいます。
ああ、兄弟姉妹よ、
あなたが今、何を聞き、
何を受け入れているのか——
慎重に心を働かせなければなりません。
そしてどうか、
サタンの“欺きの力”を過小評価しないでください。
けっして、けっして侮ってはなりません。
彼は、できるかぎり“滑らか”に近づいてきます。
そして、反キリストの霊とは、
共産主義のことではありません。
いいえ、違います。
反キリストの霊は、
本物とほとんど見分けがつかないほど、
真理に“非常に近い”宗教的霊 なのです。
イエス様ご自身がこう言われました(マタイ24章)。
「可能なら、選ばれた者さえ惑わすほどである」
それは宗教の霊です。
ああ、思い出してください——
カインとアベルは兄弟でした。
カラスと鳩は同じ止まり木に座りました。
エサウとヤコブも兄弟でした。
ユダとイエス様は同じ“教会”にいました。
ひとりは“伝道者”、もうひとりは“会計”でした。
ほら、見えますか?
いつでも“そっくりな偽物”がそばにあるのです。
サタンがエバに語った嘘は、
九十パーセントが真理のように聞こえたもの でした。
九十パーセントの真理に、
たったひとつの毒(嘘)が混ぜられたのです。
そして、今日あなたが耳にしうる嘘も同じです。
私は、ある人たちが
自分の神学に合わない部分を避けるために、
聖書の一部をわざと飛ばす のを
何度も耳にしてきました。
しかし、もしこの部分が真理なら——
あの部分も真理です!
だから、聖書全体を通して
調和するように受け取らなければ なりません。
では、始めに戻って、
神が……(続く)
25. このメッセージの中では、あちらまで完全に戻る時間はありませんが、
“教会の始まり”のところから 話を進めていきます。さて、「教会(church)」という言葉は“呼び出された者”、“呼び分けられた者たち”という意味を持っています。私は信じています。今日、天の下にあるどんな教派であっても——
必ずその中には良い人たちがいる のだと。そして、イエス様が来られるとき、救われる人々は、すべての場所から呼び出された一つの群れ だと信じています。
けれど私はこうも信じています。主の再臨は近いけれど、“教会の状態は、まだその備えから遠い” ということです。現状のままでは、神のみわざ(神癒)を信じる信仰すら十分に持てていません。“携挙(ラプチャー)される信仰”など、
なおさらのことです。ですから——何かが起こらなければならないのです。
26. たとえば、誰かが「携挙(ラプチャー)」のことを話したとします。
すると、教会のメンバーでさえ、こう言う人がいます。「え? 何のことを話しているの?」また、神の癒しについて語れば、「そんなもの信じない」
「あれは催眠術だろう」と言う人たちもいます。彼らには、霊の目が開かれていない のです。でも、そのような人が、どうして携挙に入って行けるでしょうか?
どうして、復活の朝によみがえることができるでしょうか?よみがえるための“内なるいのち”が、その人の中に存在しない のなら——復活すべきものが、何もないのです。
27. それは単なる “思い込み”、
頭の中だけの心理的な信仰 にすぎません。
たとえばあなたが、
「私はイエス・キリストが神の御子だと信じます」
と言ったとします。
それ自体は良いことです。
しかし兄弟よ、もしそれが 心から湧き出た信仰でなければ、
それは単なる“頭の信仰” にすぎません。
そしてそれは——
聖霊ご自身がその真実を心に証ししてくださらない限り、
決して“心”から出ることはありません。
主イエスはこう言われました……
いえ、聖書そのものがこう言っています。
「だれも、聖霊によらなければ
イエスを主と言うことはできない。」
自分の力で、
自分の感情で、
自分の知識で
「イエスはキリストです」と言うことはできません。
それは、聖霊があなたの内から
語ってくださる時にのみ
“真実”になるのです。
28. ご覧ください。ペテロが主を告白したとき、彼はこう言いました。
「あなたはキリスト、生ける神の御子です。」するとイエス様はこう答えられました。「バルヨナ・シモンよ、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そしてわたしはあなたに言う。あなたはペテロ(岩)である。この“啓示の岩”の上に、わたしはわたしの教会を建てる。陰府の門も、それに打ち勝つことはできない。」そうですよね?
ですから、私たちがどこに立っているのかが分かるはずです。
29. では、核心に入りましょう……。
初めに、神は天から呼びかけ、
ご自分の民を呼び出されました。
(ちょっとお尋ねしますが、コックス兄弟、
私は声が大きすぎますか?それとも小さすぎますか?
——「少し大きすぎます」——
少し大きすぎましたか。失礼しました。)
(このマイクはずいぶん敏感なんです。
私は普段、古い大きな納屋や礼拝堂、
あるいは屋外で説教することに慣れていて、
つい声を張り上げてしまうのです。
皆さんに怒鳴るつもりはまったくありませんので、
どうかお許しくださいね。)
30. では、今夜の最初の箇所として——
創世記12章 から始めましょう。《創世記 12章》
主はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの国を出て、
あなたの親族、あなたの父の家を離れ、
わたしが示す地へ行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、
あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福そのものとなるのだ。
あなたを祝福する者を、わたしは祝福し、
あなたを呪う者を、わたしは呪う。
そして、あなたによって
地のすべての家族が祝福される。」
31. アブラハムは、父とともに
バビロンから出て シンアルへと下って来ました。
“シンアルの谷”——
そこは、バビロンが打ち砕かれ、
混乱(コンフュージョン)が起こった後、
多くの人々が移り住んだ場所でした。
アブラハムの父(親)は、
アブラハムとその家族を連れて
シンアルの地へ下ったのです。
そして、
あの広い土地にいる多くの人々の中で——
神は、ただひとりの人と“好意”を結ばれました。
いや、正しく言うなら、
ひとりの人が“神に見いだされた” のです。
アブラハムです。
32. さて、ここに注目してください。
これが“キリスト教”——“教会”の始まりなのです。
そして覚えていただきたいのは、
アブラハムが選ばれたのは
彼が良い人だったからではない
ということです。
神がアブラハムを選んだ。
神がアブラハムを見いだした。
神がアブラハムを召された。
アブラハムが神を選んだのではありません。
神がアブラハムを選ばれたのです。
分かりますか?
そして、よく見てください。
あの時と同じように、
今日もまったく同じなのです。
あなたが神を選んだのではありません。
神があなたを選ばれたのです。
33. さて、これから述べることは、
少し強い言い方になるかもしれませんが、
どうか注意して聞いてください。
“選び(エレクション)”が起きた直後に、
必ず起こることが一つあります。
それは——
“分離(セパレーション)”です。
神が選ばれ、
神が呼ばれたその瞬間に、
神はあなたを ほかのすべてのものから
切り離し始められる のです。
あなたにまとわりついていた
あらゆるものから、
神はあなたを 引き離されます。
これこそが、
教派ではない証拠 です。
2〜3人の人間の集まりで決まることでもありません。
神は、ひとりひとりの“個人” を扱われます。
アーメン。
救いとは、
どこまでも“個人的な”出来事 なのです。
34. あなたのお母さんが救われているからと言って、それであなたが救われるわけではありません。あなたが救われたのは、神があなたをキリストのうちに選んでおられたからです。ここをどうしても見ていただきたいのです。
あなた自身が自分を選んだのではありません。どれだけ祈ったとか、
いつ“新しい人生に踏み出した”とか、そういうことが理由ではありません。
あなたには何の功績もなかったのです。すべては神のご計画です。
ああ、本当に……これが真理だと分かったとき、なんと素晴らしいことでしょう!
あなたは言うかもしれません。「え? じゃあ私は自分で主に立ち返ったのではないのですか?」いいえ、違います。あなたには 主に立ち返る力など、まったくありませんでした。あなたの本性、あなたの内なる造り——すべては神に逆らうものでした。ですから、あなたが主に来られたのはひとつの理由だけです。
神があなたを呼ばれたからです。救いの歴史は、いつでも、どこでも、
この順序で進んできたのです。
35. エデンの園で、
人が最初に罪を犯したときの姿を見てください。
罪人の本性とは何か?
——それは“隠れる”ことです。
本来なら、
アダムが神を呼ばなければならなかったはずです。
しかし実際はどうでしたか?
アダムは隠れ、逃げ、
木の後ろに身をひそめました。
神に背を向け、
神から遠ざかってしまったのです。
けれども……
神のほうが、アダムを呼ばれたのです。
「アダム、どこにいるのか?」
ご覧になれますか?
これこそが罪人の本性です。
隠れ、逃げ、言い訳の後ろに身を隠す。
しかし——
神が呼んでくださるのです。
ああ……なんという恵みでしょう。
驚くべき恵み(Amazing Grace)!
神が呼んでくださったのです。
あなたは言うかもしれません。
「それはアダムとエバの話でしょう?」
いいえ、そうではありません。
聖書全体を通して、
いつでも、どこでも“同じ”なのです。
主イエス御自身が言われました。
「わたしの父が引き寄せてくださらなければ、
だれもわたしのもとに来ることはできない。」
(ヨハネ 6:44)
その通りですよね?
これが 神のことば です。
そして私たちは、
常にこの“ことば”の上に立ち続けたいのです。
そうすれば、
自分がどこに立っているのかが
確かに分かるからです。
36. さて、この中で、「私はクリスチャンである」 と心の内側で確かに知っている方はどれほどおられますか?自分の中の“何か”が、
「あなたは神の子だ」 と告げている——その確信がある方。……はい、そうですね。それなら、あなたがたは世界で一番幸いな人たちなのです。
そのことを、どうか心から信じてください。なんという恵みでしょう。
なんと簡単なことでしょう。神のことばを、そのまま受け取りなさい。
それだけで十分なのです!
37. さて、あなたがクリスチャンになる前に、
まず神があなたを呼ばれた のです。
あなたが神を呼んだのではありません。
神があなたを呼ばれたのです。
同じように、
神はアブラハムを呼ばれました。
そしてアブラハムは、
信仰の父として、私たちすべてのモデル となったのです。
さて、注意して聞いてください。
神はこう呼ばれました。
「アブラハムよ!」
ここには 選び(エレクション) があります。
私はこの“選び”について
しっかり強調したいのです。
なぜなら、これは真理そのものだからです。
あなたがクリスチャンになったのは、
偶然ではありません。
あなたがこの世に生まれる“前”から——
すでに神はあなたをクリスチャンとして
選び、定めておられたのです。
エデンの園の前から、
いや、世界の基が置かれる前から
あなたは神の中に“予定”されていたのです。
あなたは言うかもしれません。
「そんなこと、本当にあるんですか?」
ええ、兄弟姉妹よ、
それこそが真理なのです。
あなたが何も知らなかったずっと以前……
神はすでにあなたをご存じだったのです。
38. かつて私たちは……(霊の次元において)神に知られていた時があった のです。
しかし今、私たちの“この地上の心”にはその記憶は暗く閉ざされています。
思い出すことはできません。地上に来られた人の中で、
ただお一人だけ、“ご自分が以前から存在していたこと”を
知っておられた方がおられます。それは 主イエス様 です。
イエス様は祈りの中でこう言われました。「父よ、世界の基が置かれる前にわたしがあなたと共に持っていたあの栄光で、わたしを輝かせてください。」
(ヨハネ 17:5)イエス様は
肉体を取られた神(インカーネート・ゴッド) であり、永遠のところへ“戻って”
その栄光をはっきりとご存じでした。しかし私たちの心は、その部分が遮られ、
思い起こすことができないように覆われてしまっている のです。
39. しかし——
私たちは“定められ”、 “前もって選ばれていた(predestinated)” のです。
「予定される」とはどういう意味でしょうか?
“神があらかじめご覧になっていた”
という意味です。
アーメン。
(これは、薄いミルクのような教えではありません。
とても深い真理です。)
今の言葉で少し戸惑った方も
おられるかもしれませんね。
では、ほんの少しそこへ戻って、
実際に聖書を開いて確認しましょう。
エペソ人への手紙1章 を
私と一緒に開いてください。
皆さんが、
「ブラナム兄弟が勝手に言っている」
と思われないように——
そうではなく、
神のことばが語っている のだと
知っていただきたいのです。
よく注意して聞いてください。
私たちは少しすると “教会” の話に入っていきますが、
その前にこの真理をしっかり握っていただきたいのです。
パウロは、
この エペソ1章 において、
教会に向かって、
まっすぐに、はっきりと語りかけています。
そして今夜、
私たちも同じようにしています。
これは、
赤ん坊向けの教えではありません。
成熟した信徒――大人のためのメッセージ です。
40. “小さな赤ちゃん”というのは、
ちょうど、私の後ろの方にいるあの小さな子のようなものです。
歩き方を覚えたばかりで——
「ドスン」と倒れて、また立ち上がって、
本人はそれで大仕事をしたつもりです。
私も、かつてはああいう時期がありました。
しかし、いま私は大人となり、
子どもの時のことを捨てたのです。
私たちも同じで、
成熟した“完全な教理(フル・ドクトリン)”へ
進まなければなりません。
もちろん私は、
手を叩き、声を上げ、
喜びに満ちた集会、大好きです。
力強く、聖霊が働かれ、
まるで“泡の上を踊るような”祝福の時もあります。
しかし——
いざ決断が必要な時(ショーダウン)が来たら、
自分がどこに立っているのか分からなくなる。
ですから私たちは、
もう一度、基礎に立ち返る必要があります。
何が私たちを動かしているのか?
なぜ私たちはこうして喜ぶのか?
その“土台”を明確にするのです。(エペソ1章)
「神のみこころによって
キリスト・イエスの使徒とされたパウロから……」
(ああ、私はこの言葉が大好きです。
“神学校が私を遣わしたのではない。
神のみこころ なのだ。“)
「エペソにいる者たちへ、
すなわちキリスト・イエスにある忠実な者たちへ。」
よく見てください。
パウロは誰に向けて語っているのでしょうか?
罪人ではありません。
霊的に幼い赤ん坊でもありません。
“キリストにあって忠実な、
成熟した信仰者たち“へ向けて
語っているのです。
41. 「神のみこころによって
キリスト・イエスの使徒とされたパウロから……」
そしてこう続きます。
「神、私たちの父、
そして主イエス・キリストから
あなたがたに恵みと平安があるように。」
「私たちの主イエス・キリストの父なる神が、
ほむべきかな。
神はキリストにあって、
天に属するあらゆる霊的祝福を
私たちに与えてくださった。」
ああ、なんという言葉でしょう!
ここでパウロが語りかけている相手——
それは 霊的な赤ん坊ではありません。
“キリストにあって天の場所に座し、
霊的祝福を受けている人々“ です。
そしてパウロはこう言うのです。
「あなたがたはすでに教えられ、
救われており、
霊の領域に座している。
だから、今こそ“何が起きているのか”を教えたい。」
ああ、倫世さん、素晴らしいでしょう?
パウロはこう言うのです。
「少しの間、あなたがたの足を
この地上から天の高みに持ち上げたい。」
「地に縛られて歩くのではなく、
天から見える視点を持ってほしい。」
そして——
「その理由を教えよう。
あなたがたを励まし、
もう一度リバイバルの風を吹かせ、
霊的に刺激を与えたいのだ。」
アーメン。
私はこういう“霊の刺激”が大好きです。
特に「主がこう言われる」と
自信を持って言えるときはなおさらです。
パウロは言いました。
「私は、
天の場所に座し、
あらゆる霊的祝福を受け、
神の賜物があらわされ、
神のみわざが流れ、
癒しが起こり、
預言が働いている——
そういう“成熟した人々”に語っています。」
「これは、あなたがたへのメッセージです。」
42. では、よく見てください。
「……に従って(According as)」
——アーメン。
さあ、これは大事なところです。
どうか、このことを
心の奥深くに染み込ませてください。
骨の髄にまで届くくらい、
ゆっくりと味わってください。
これはあなたを強め、
あなたを立て上げる真理です。
According as He hath chosen us in Him…
ここで問います。
誰が選んだのですか?
「私が福音を聞いて、自分で来た」のですか?
——いいえ。
そんなことは一度もありません。
聖書は言います。
「He hath chosen us ——
神が“私たちを選んでくださった”(過去完了)」
私たちが神を選んだのではなく、
神が私たちを選ばれた のです。
では——
いつ 選ばれたのでしょう?
先週?
パウロがリバイバルを開いたとき?
あなたが悔い改めたその日?
違います。
“…before the foundation of the world.”
この地球が形を持つ前、
エデンの園の前、
アダムの前、
星が光を放つよりも前……。
神はもう “あなた” をご覧になり、
キリストのうちに選んでおられた のです。
43. だからこそ、
あなたは“雲の上を歩く”ような気持ちになれるのです。
神が何をしてくださったのか?
「神は、世界の基が置かれる前に、
キリストのうちにある私たちを選んでくださった」
——そのゆえです。
本当は、少し時間をとって
ヨブ記 38章7節 を開きたいところです。
そこには、神がこう語られる場面があります。
「わたしが地の基を据えたとき、
あなたはどこにいたのか?
もし知っているなら言ってみよ。
その礎はどこに据えられ、
その柱は誰によって置かれたのか。
朝の星々が共に歌い、
神の子たちが喜び叫んだとき、
あなたはどこにいたのか?」
神はヨブにこう言われました。
「さあ、男のように腰に帯を締めよ。
わたしはあなたに問う。
答えてみよ。」
ここでブラナム兄弟が示すのは:
—世界が創られる前から、
神の子どもたちは“存在”しており、
神の創造を喜び叫んだ。
という深い啓示です。
その“神の子たち”の中に——
あなたも含まれていた、という真理ですね。
44. さてパウロは言います。
「神は、世界の基が置かれる前に、
キリストのうちにある私たち(教会)を選ばれた。」
では、その目的は何でしょうか?
続きを見てください。「…that we should be holy(私たちが聖くなるため)」
「私たちが聖くなるため」
ここをよく覚えてくださいね。私たち自身の聖さではありません。あなたは言うかもしれません。
「ブラナム兄弟、あなたは“聖さ(holiness)”を信じますか?」
もちろん信じます。しかし——私自身の聖さではありません。
キリストの聖さです。私の聖さなど、何の価値もありません。主の聖さは完全です。
あなたはこう思うかもしれません。「じゃあ飲んだり遊んだり、
好きなように生きてもいいんですか?」——そんなことは一度も言っていません。
よく考えてください。小麦の粒は、絶対にイバラ(毒麦)を生み出すことはできません。そこにはイバラを生み出す“いのち”も“願望”もまったく存在しない のです。同じように、もし私たちがキリスト・イエスのうちにある なら——キリストの中に罪を好む性質はありません。不義を喜ぶ願望もありません。つまり、“キリストのいのち”を持つ者はキリストの性質を生み出すしかない。これが、“聖さは自分の努力ではなく、キリストのいのちから自然に実るもの”という意味です。
45. だまされてはいけません。
ここは、よくよく注意して
深く探り出さなければならないところです。
あなたがもし、
「これをしても良心が咎めないし…」
「この世のあれこれを楽しんでも、別に感じないし…」
——そう言い続けているなら、
(少し痛いかもしれませんが)
はっきり申し上げます。
あなたはまだキリストのもとに来たことがありません。
新しく生まれたことがないのです。
聖書はこう言います。
「世を愛し、世にあるものを愛する者には、
御父の愛はその人のうちにない。」
(Ⅰヨハネ 2:15)
もしあなたが
“しなければならないからやめている”だけで、
心の中にはまだその欲が残っているなら——
まだ“そこ”には到達していません。
真の新生とは、
その欲そのものが
“死んでしまう” ことです。
その性質が
あなたの中から消えてしまう のです。
なぜでしょうか?
あなたの内側に、
別の人格(Person)が入って来られるからです。
そのお方とは——
聖霊(Holy Spirit) です。
キリストのうちにあった聖霊が
あなたのうちに宿るとき、
その聖霊が生み出すのは、
ただ一つ——“キリストのような生き方”。
あなたが努力して作るのではありません。
あなたの気合いや禁欲でもありません。
あなたの中で働く聖霊が
キリストの実を結ぶのです。
そして——
それはあなたの決断や選択の前に、
神が“世界の基が置かれる前から”
選んでおられた計画 なのです。
46. ある人がこう言います。「私は救われたのを知っています。
タバコをやめたからです。」——それは、あなたが救われた理由ではありません。
私が救われたのも、あなたが救われたのも、どんな“行動”が理由ではありません。あなたが救われたのは——“世界の基が置かれる前に、
神があなたを救うと選んでおられたから“ です。これが 聖書の教え です。
アーメン。ですから、私たちはだんだん分かってきます。救いは“私たちの側の何か”ではなく、完全に“神の側のご計画”だということです。神が、私たちを選ばれたのです。アブラハムもこうは言えませんでした。「私はバビロンの塔の所から
信仰を持って降りてきたから、救われたんだ!」もしそれが理由なら、
そこにいた全員が救われていた はずです。しかし、そうはなりませんでした。
アブラハムの救いは彼の行動でも、出身でもなく、神の一方的な選びによるものだった のです。
47. 神はアブラハムを“選び(elected)”ました。
そして、これこそが——
人に与えられた救いの最初の始まり なのです。
神はアブラハムを
呼び出し、選び、予定し、
約束を与え、
彼とその子孫に永遠の契約を結ばれました。
本当はこの章全体を読みたいところですが、
今は先へ進みましょう。
さて、よく見てください。
神がアブラハムを呼ばれた時、
それは 選びによる召し でした。
アブラハムが何か“良かったから”ではありません。
神ご自身が良いお方だから です。
神はアブラハムを
彼の家族や民族から呼び出し、
彼を祝福し、
こう言われたのです。
「わたしはあなたを救う。
そしてあなたを、長寿を得て
わたしのもとに帰らせる。」
アブラハムが
まだ何も“ふさわしいことをしていない”うちから、
神は彼を選び、
こう言いました。
「あなたばかりでなく、
あなたの子孫も祝福される。」
ああ、なんという恵みでしょう。
そして—聖書はこう続きます。創世記12章4-5節
それでアブラムは、主が言われたとおりに出て行った。
ロトも彼と一緒に行った。
アブラムがハランを出た時、
七十五歳 であった。
アブラムは、妻サライ、
甥ロト、
そして彼らが得たすべての財産を連れて…
(続きへ進みます)
48. よくご覧ください。アブラハムは、そこで神が「してはならない」と言われたことをまさにしてしまいました。神は アブラハムひとり を召したのです。
しかし彼は——甥ロトを連れて行き、その上、父テラまで一緒に連れて行ってしまいました。神は彼に 「父を連れて行け」とも「ロトを連れて行け」
とも言われませんでした。にもかかわらず、
アブラハムは彼らを連れて行ったのです。
聖書を読む方ならご存じでしょう。創世記を明日ゆっくり読んでみてください。
この二人の存在は—— “油の中のハエ” のように
アブラハムの歩みにずっと影を落とし続けました。父テラは死ぬまで、
ずっとアブラハムの前に “つまずき” をもたらしました。そしてロトも同じでした。神が召したのは アブラハム であって、ロトではありませんでした。
神が召したのは アブラハム であって、彼の父でもありませんでした。
すると、こんな質問が出るかもしれません。「では、サライはどうなのですか?」
それには明確な答えがあります。夫と妻は一つのもの です。聖書がそう言っています。ですから、妻はアブラハムの一部であり、共に召されていたのです。
49. しかし、神が召されたのは アブラハムただ一人 でした。
そして神はこう命じられました。
「あなたのすべてのものから離れなさい。
そして、わたしが示す地へ行きなさい。」
ここに重要な鍵があります。
“分離(Separation)”
神が召されるとき、
そこには必ず “分離” が伴います。
そして次に起こるのは——
未知の地への旅立ち
あなたが何も知らない場所。
生まれ育った文化とも、人々とも違う世界。
これこそが クリスチャンの歩み だと
ブラナム兄弟は言うのです。クリスチャンとは?
この世のものから離れ、
神が示す別の国へ旅立ち、
見知らぬ民の中に “寄留者” として住む者。
まさに Pilgrim(巡礼者・寄留者)。
Stranger(旅人・よそ者)。
考えるだけで胸が震える、と
ブラナム兄弟は語ります。
ヨセフの父ヤコブは、
生涯の最後にパロの前に立ったとき、こう言いました。
「私の寄留の年月は……」
彼は悟ったのです。
この地上での人生は、
自分の本当の故郷ではないということを。
彼は多くの過ちを犯しましたが、
最後にははっきりと告白しました。
「私はここでは旅人なのだ」と。
50. さて、8節まで下りてきますと、
神がアブラハムに何を約束されたかがはっきりします。
神はアブラハム自身だけでなく、
アブラハムの “子孫” も救うと約束された。
ここで忘れてはいけない事があります。神の契約は “無条件(unconditional)” だった
神はアブラハムにこう言いませんでした。
「アブラハムよ、もしあなたがこうしたら…」
「もしあなたが従ったら…」
「もしあなたが正しく歩んだら…」
そうではありません。
神はこう言われました。
「アブラハムよ、わたしはすでにそれを成した。」
アブラハムが何かを “しなければならない” のではなく、
神ご自身が、すでにそれを “行われた” のです。
アブラハムの行為や努力が前提ではなく、
神の側の決意と主権による契約でした。
ブラナム兄弟が思わずこう叫ぶのも当然です。
「アーメン!おお、なんということでしょう!
考えるだけで胸が震えます!」
そしてこう締めくくられます。 神の契約は無条件である。
それは神ご自身が結ばれた契約だから。
51. あなたは言うかもしれません。
「兄弟、私は肉を食べるのをやめました。」
「私はあれもこれもしません。」
しかし、兄弟姉妹、
それは救いとは何の関係もありません。
肉を食べる・食べない、
安息日や新月を守る・守らない、
日曜学校に行く・行かない——
そうした習慣や行動が
あなたを救うのではありません。あなたは “無条件で” 救われたのです。
すると、ある人はこう言います。
「じゃあ、私は救われているなら、
神に栄光あれ!
好きなように生きていいんですね?」
ブラナム兄弟はこう答えます。「ええ、その通りです。
しかし、本当に救われている人は、
“世のものを好む心” そのものが
すでに無くなっているのです。」
救われた魂は、
世のものに心を引かれません。
心の中心はただキリストに向かいます。
離れようとしても離れられない。
そこに引き寄せられるのです。
しかしもし、
“まだどこかに世への引っ張りがある” なら——
兄弟姉妹、そこにはまだ
神のみわざの “仕上がっていない部分” がある証拠です。
そして再び、この大切な土台へ戻ります。選び(Election)無条件の契約(Unconditional Covenant)
神はアブラハムを “選び”、
彼にこう告げられたのです。
「わたしはあなたを救う」
それはアブラハムの行いに基づくものではなく、
神ご自身の決断、神の主権によるものでした。
52. では、約束がさらに明確に示される場面へ進みましょう。
創世記15章7節に移ります。
《創世記15:7》
主は彼に言われた。
「わたしは、あなたをカルデヤ人のウルから連れ出し、
この地をあなたに与えて、あなたがこれを受け継ぐようにした主である。」
するとアブラハムは、主にこう申し上げました。
《創世記15:8》
「主なる神よ、どうすれば、
私がこの地を受け継ぐことを確かに知ることができるのでしょうか。」
ブラナム兄弟は、この瞬間のアブラハムの心をこう描きます。
アブラハムは約束を受けていました。
でも、それを “どのように確かめればよいのか” を知りたかった。
そして神は——
その問いに、驚くほど深い “契約のしるし” をもって答えられます。
このあとに続く契約は、
アブラハム契約の核心であり、
教会の救いのモデルそのもの です。
53. さて、アブラハムはカルデヤのウル──
シンアルの地から“出て来て”いました。
神に呼ばれ、分離され、従って歩み出したのです。
でも、よく見てください。
アブラハムは、まだ完全に落ち着いたわけではありません。
クリスチャンが救われて歩み始めても、
しばらくは“旅の途中”であるのと同じです。
ブラナム兄弟はここで、
アブラハムの姿に 今日の信者たちの姿 を重ねています。
そして神は、アブラハムにこう命じられました。
《創世記15:9》
「三歳になる雌の子牛、
三歳になる雌やぎ、
三歳になる雄羊、
さらに山鳩と若い鳩をわたしのところへ持って来なさい。」
54. さて、皆さん。
明日のために──
どうか、今お読みいただいた箇所を続きをご自分でよく読んでおいてください。
印をつけながら、最後まで読み進めてくださると良いでしょう。
私は、今夜は時間の関係で、すべてをそのまま読むことはしません。
その代わり、要点を引用しながら進めます。
あまり皆さんを長くお引き止めしたくありませんからね。
明日の夜も、ぜひ戻って来ていただきたいのです。
明日こそ、このメッセージの 核心にぐっと入っていきます。
今夜はそのための“土台”──
ただ基礎を据えているだけ なのです。
ここを理解しておくことで、明日からの学びがまっすぐ入っていくようになります。
55. さてアブラハムは、
雌の子牛、雌山羊、雄羊、そして山鳩と若い鳩を連れて来ました。
そして聖書にある通り、
雌牛・雌山羊・雄羊は真ん中から二つに切り分け、向かい合わせに並べました。
しかし山鳩と若い鳩には手を触れず、そのままにしておきました。
アブラハムは日が沈むまで、
そのいけにえの上に集まって来る猛禽類(鳥)を追い払い、
いけにえを守り続けました。
そして——
太陽が沈む頃、
神がアブラハムのもとに降りて来られたのです。
主はアブラハムとの契約を“確証する”ために、
御自身で降りて来られました。
神はこう言われました。
「アブラハムよ、
いま、わたしがあなたに約束したことを
はっきりと証明しよう。」
56. そして、皆さんご存じのように、
ここにいる多くの方々は覚えておられるでしょう。
私は何年も前、この教会で同じことを教えていたのです。
ええ、そうです。
1949年のことでした。
その頃、私はすでにこの真理を教えていました。
(会衆の中の誰かが声をかける)
——そうですか。
彼女はその箇所を聖書にしっかりマークして持っておられたのですね。
57. ご覧ください。
神は、まずアブラハムを深い眠りに入らせました。
そしてこう言われるのです。
「アブラハムよ、あなたはこれに何ひとつ関わることはできない。」
——この契約は、
あなたの努力でも、あなたの行いでも、
あなたの決意によって成り立つのではない。
すべては神ご自身の手によって行われるのだ。
神はまずアブラハムを眠らせ、
「人の働きではなく、神の一方的な恵みによって」
契約が立てられるということを示されたのです。
58. さて——自分の力で自分を救おうとしている方々へ、ここで、はっきり申し上げたいのです。私は聞きました。この小さなタバナクル(教会)で、長い間この真理の教えを受けていたにもかかわらず、その後、外へ出て行き、
あらゆる種類の“異なる教え”——カルト的なもの、奇妙な教え、
人間の作った規則のようなものに流れていった人がいたということを。ある人は「肉を食べない」と言い始め、ある人は「新月や安息日を守らなければならない」と言い、ある人は“儀式的なこと”を始めたようです。しかしその根底には——
神の御言葉を拒む心 があったのです。それが何を示しているか、わかりますか?
パウロはこう言いました。「彼らが私たちのもとから出て行ったのは、最初から私たちのものではなかったからだ。」まさにその通りです。本当に御霊(聖霊)をいただいた者は、御言葉をしっかりと掴み続けます。そして、どれほど人の教えが魅力的に見えても——“御言葉の前に立たされた時に、それらが誤りであることが必ず明らかになる” のです。
59. それから主はこう言われました。「アブラハムよ」そして——
神はアブラハムを深い眠りに落とされたのです。まるでこうおっしゃるように。
「アブラハムよ、あなたは何もする必要がない。わたしがどのように契約を守るか、わたしが自らあなたにお見せしよう。」アブラハムが眠らされている間、
神はご自身で動き始められました。アブラハムが用意した 三歳の雌牛、三歳の雌やぎ、三歳の雄羊、山鳩、若い鳩——その犠牲が並べられたその間を、
主が象徴をもって通られたのです。まず——
アブラハムが眠らされたこと。これは、
すべての人間は死なねばならない(無力である)ということを象徴しています。
その時、アブラハムの前に現れたのが、燃える炉この「燃える炉」は、
罪人が当然行かなければならない“地獄” を表していました。
そしてその炎が過ぎ去ると——その後ろから小さな白い光
が現れて、切り裂かれた犠牲(動物)の各部分の間を通り抜けていったのです。
これは何を示しているのでしょう?
契約(コベナント)です。
神がアブラハムにこう示されたのです。「アブラハムよ、わたしはあなたの代わりに死の炎を通り、あなたの代わりに犠牲の間を通る。この契約は、あなたの行いではなく、わたし自身の命によって結ばれる。」
これは——ゴルゴタで成し遂げられるキリストの身代わりの死の “型(タイプ)” だったのです。
60. よく見てみると、人々が契約を結ぶ方法というのは、これまでにも実に色々ありました。
たとえば今日、私たちが契約を結ぶ時はどうしますか?
「よし、握手しよう。これで決まりだ。」
こんなふうに握手する——
これが私たちの“同意のしるし”、つまり契約ですね。
昔の人々はどうだったでしょう?
中国では、どのように契約を結ぶかご存じですか?
互いに 塩を振りかけ合う のです。
それが中国での“契約”なのです。
このように、民族や文化によって
契約の結び方は実にさまざまなのです。
61. しかし、古代オリエントの風習では、契約を結ぶときにもっと厳粛な方法が取られていました。彼らは、一頭の獣を殺し、その死体を二つに裂き、
その裂かれた獣の間に立つのです。それから——
レビ記にも出てきますが——自分たちの契約内容を書き記し、その契約書を二つに引き裂きます。そしてこう誓うのです。「もしこの契約を破るなら、
私たちの体も、この裂かれた獣のようになりますように。」それから双方は、破られた契約書の片方ずつを受け取り、それを持って離れていきます。そして、時を経て再び戻ってきた時、二つの契約書は、“鳩の翼がぴたりと重なるように、寸分違わず一致しなければならない”のです。……なんという美しさでしょうか!
62. 神ご自身が、アブラハムと契約を結ばれたとき——それは、あらかじめこう宣言されるためでした。「わたしは誓った。あなたの子孫によって、地上のすべての国民を祝福する。」聖書を読めば、こう書いてあります。「わたしは異邦人を祝福する。黒い肌の人にも、黄色い肌の人にも、白い肌の人にも。すべての人々を、あなたの子孫によって祝福する。あなたから王たち、君たちが生まれる。」
アブラハムは尋ねたでしょう。「主よ、どのようにして、そんなことが起こるのでしょう?」すると主はこう言われました。「アブラハムよ、わたしがその方法をあなたに示そう。」そして主は、あの丘の上で裂かれた犠牲の“型”を通して
それを示されたのです。その並べられた犠牲の動物——あれはすべて、イエス・キリストの犠牲を象徴する“きよい動物”たちでした。学者なら誰でも知っていますが、雄羊(ram)雌牛(heifer)雌やぎ 山鳩 若い鳩これらはすべてキリストの十字架における犠牲の型でした。✦ 主は“雄羊”でした。✦ また、雌牛は“分離の水(清めの水)”を作るための犠牲でした。旧約で罪から分離させるために使われた“清めの水”——今、私たちは“みことばの水によって洗われる”とパウロが言った通り、みことばによって罪から分離されるのです。そして、鳩と山鳩は“神のいやし”を象徴していました。そのすべてがキリストのうちに含まれている!アーメン!
63. そこで神は、アブラハムに“何をするか”を明確に示されたのです。すなわち——
イサクの子孫を通して、ご自身のひとり子・キリストを世にお遣わしになること。そしてそのキリストは、天と地の間に吊り上げられ、日が沈むときに大地を覆った暗闇の中で、殺される方であるということを示されたのです。あの裂かれた犠牲のように、神はご自身の御子を裂かれました。神は、キリストから“いのち”を引き離されたのです。あの十字架で、インマヌエルの血管から流れ出た
神ご自身の、純粋で汚れなき尊い血——その血によって、神は地上のすべての家族に“契約”を書かれたのです。キリストは叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」その御顔には、嘲りのつばが投げつけられ、
いばらの冠が額に深く押しつけられ、ローマの大きな釘によって手足を打ち抜かれ、その背中は裂かれて肋骨が露わになりました。十字架にぶら下がり、叫び、
罪人の死を味わい、世の罪をその身に負われた救い主。そこで神は、キリストのわき腹を裂き、その魂を引き離されたのです。主が言われたとき、「父よ、わたしの霊をあなたのみ手にゆだねます」そうして頭を垂れられると、地は震え、岩は裂けました。そこに——これこそが神の契約!その完全な成就なのです!
ブラナム兄弟は、詩を朗読します。岩砕け 空は暗く救い主は頭を垂れ給う裂けた御幕は道を示し天国の喜びと永遠の日へと導く
64. ああ、カルバリーよ。ああ、カルバリーよ。イエスは私のために血を流し、死んでくださった!そして神は、ご自身の独り子の“魂”を裂き、
契約を分かち、その“身体”を地の中へと投げ込まれたのです。
その身体は、三日三晩、地の中に置かれました。
しかし——ついに甦られました!聖書がこう言う通りです。
「わたしの聖なる者を腐敗させず、その魂をハデス(陰府)に捨て置かれない。」
主の“魂”とは、地獄へ下られた“御霊” のことでした。神はそこへ降りて行き、
その魂を取り戻し、そして——キリストの身体を再び呼び起こし、命を与えられたのです。そしてその身体を天の大いなる栄光の右手に座らせられました。
その後——神は、契約の証として、聖霊を地上に送り返してくださったのです。
65. これです、兄弟姉妹。どうか、この点で決して妥協しないでください。
聖霊のバプテスマなしには、人は救われていません。これが唯一の道なのです。
私たちは、「天国へ行けるだろうか?」などと心配する必要はありません。
なぜなら——もしあなたの内側に超自然のいのち(聖霊) がなければ、
天国の扉は開くことができません。あなたがその門まで歩いて行ったとしても、
ただ頭をぶつけるだけです。しかしもし、神の御霊があなたのうちにおられるなら、その御霊が、天国の扉の“かんぬきを外す”のです。鍵は“あなたの外”ではなく、“あなたの内側”にあるのです。その通りです。だから、実のところ——
あなたがイエス・キリストをどう信じているか、その時点であなたはすでに裁かれているのです。
66. さあ、ここをよく見てください。
キリストは 裂かれ、引き裂かれ、砕かれ ました。
その魂は神のもとへ昇り、
神はその御子を祝福されました。
そしてその魂は、
“聖霊のバプテスマ”という形で
再び地上へ戻って来られたのです。
その聖霊は、
信じる者ひとりひとりのうちに入り、
心を清め
思いを洗い
その人の内に“聖霊の分け前”を置かれる
のです。
そして——
その聖霊が地上から取り去られるとき、
同じ聖霊が、
イエスの身体を墓から引き上げたその霊が、
信じる者を“携挙”へと引き上げるのです。
この契約は、
あの裂かれた犠牲の“二片”のように
ぴったりとかみ合わなければなりません。
十字架で裂かれた“身体”は神に戻り、
“御霊”は地へと戻って来られた。
ですから——
私たちのうちにある霊が、
あのとき裂かれたキリストの霊と
“同じ種類の霊”でなければ、
その契約はつながることができず、
携挙の瞬間に合流することができないのです。
アーメン。
その通りです。そうなのです。
これは、
「自分自身で努力して変わる」
という話ではありません。
神の愛があなたの魂に流れ込み、
この地上のあらゆる偶像を引き裂き、
あなたをキリストの霊に合わせてくださる——
それだけのことなのです。
これが契約です。
これが真理です。
67. そして、あなたの内側で
神を求めて呼吸する“何か” があるでしょう。
それは、
あなたの魂が、天の御父へ向かって呼び求めている声 なのです。
これこそが、
あなたのうちに“信仰”を生み出し、
あなたを アブラハムの子孫 にするものです。
アブラハムがそうであったように、
あなたも 神の約束を信じる者 となるのです。
たとえその成就が遅れても——
なお信じ続ける。
アブラハムは、
不信仰によって神の約束に躓くことはありませんでした。
むしろ強くなり、神を賛美し続けたのです。
だから、
“リバイバルの間だけ救われているように見える”
そんな状態のままでは、
どうしてアブラハムの子孫と名乗れるでしょうか?
まず自分をよく考える必要があります。
間違ってはいけません。
みことばのまっすぐな線の上に立ちなさい。
アブラハムは、
不信仰によって約束に躓くことなく、
主が息子を与えると言われたとき、
25年間も待ち続けました。
その間、
彼は弱くなりませんでした。
むしろ、
ますます強くなり、
ますます恵みに満たされ、
ますます主の知識に深く進んでいったのです。
アーメン。
68. 「説教するつもりじゃなかったんですが……
どうも、私の中で“説教”が湧き上がってきてしまいましたね。
——よし、それでは続けましょう。」
69. 神が呼ばれ、神が選ばれる。そして……あなたは正面からこの事実を見つめなければなりません。救われない人は、います。どれほど努力しても、
どれほど宗教的に見えても、決して救われることのない人がいるのです。
あなたも知っているでしょう。滅びるように“定められた(predestinated)人々”がいるのです。そしてまた反対に、救われるように“定められた人々”もいる。そして——救われるように定められた者は、どんな状況であっても、
必ず救われるのです。何が起ころうとも、です。
70. どうも……皆さん、あまり“しっくり来ていない”ようですね。では、こうしましょう。聖書そのものを開いて、神が何と言われているかを確かめましょう。新約から見てみましょうか。ローマ人への手紙の9章を取ってください、ちょっとだけ。そこで、神が「ある者は滅びに、ある者は救いに定められた」と言っておられるかどうか、実際に確かめましょう。皆さんは神の御言葉が好きですか?
では、見てみましょう。急がなくていいですよ。心を落ち着かせて、注意深く読んでください。さあ、見てください——ローマ9章。パウロが語っています。
新約聖書です。旧約にもいくらでも証拠がありますが、まずここから見ていきましょう。
71. そして、今メモを取っている皆さんは、そこに ユダ4節 も書き加えてください。
聖書ははっきりこう言っています。「昔から、この罪に定められていた者たちがいる。彼らは神の恵みを放縦に変え、
世の欲に従って歩む者たちである。」また、テモテの箇所も書いておきましょう。
「ヤンネとヤンブレがモーセとアロンに逆らったように、これらの者たちも真理に逆らう。彼らの思いは堕落しており、信仰について落第者である。」
神はすでに「そのような者が現れる」と言われました。——そして、今ここに“現れている”のです!見てください、この偽りの働きを。ペンテコステ教会でも、メソジストでも、バプテストでも、ホーリネスでも、どの教会に行っても必ずいます。“形だけ真似ている人々、まるで自分が本物のように振る舞う人々。”
「おお、グローリー!ハレルヤ!」と叫んではいますが——実は中身が伴っていない者たちです。」
72. ある女性が、先日こう言いました。
「私は10人の子どもがいますけれど、
ハレルヤ!神様が私を“伝道者”として召してくださいました!
私は出て行って福音を宣べ伝えます!」
……神様は、そんなことをおっしゃっていません。
神はそのような召しを“与えたこともないし、
これから与えることもありません。“
なぜなら、
神ご自身が「そうしない」と御言葉で語られているからです。
しかし、彼女自身は
「そう思っている」——それだけなのです。
本当はどうでしょう?
神は、彼女に10人の子どもを与え、
その子どもたちを育てる務めを与えられたのです。
それが彼女の召しでした。
しかし、問題はここです。
人は、熱狂や興奮に押され、
自分自身を“こんがらがった状態”にしてしまうのです。
73. 「まあね」と人々は言います。
『私は誰にも教えてもらう必要なんてありません。
ハレルヤ!聖霊を受けているんですから!』
——それなら、聖霊ご自身が間違っていたことになります。
なぜなら聖書には、
「神は教会に“教師”を置かれた」
と書かれているからです。
神ご自身が教会に教師を置かれた。
これで決まりです。
では、もし聖霊がすべてを直接教えるのなら、
なぜ神は“教師”を置かれたのでしょう?
まさにその通りです。
実のところ、人々に必要なのは——
“水のバプテスマ”だけではなく、
“頭(思い)のバプテスマ”です。
(ちょっと鋭い言い方を許してください。
でも、しっかり心に染み渡ってほしいからこそ言うのです。)
私たちは“リバイバル”を願っています。
そして兄弟姉妹、
リバイバルを求めるなら、
まず中をかき立てなければなりません。
そのためには何が必要ですか?
サタンを蹴飛ばして退けることです。
サタンと口論してはいけません。
自分の立場にしっかり立ちなさい。
私は世界中でサタンと戦ってきました。
どの神の人も同じ戦いを通るのです。
しかし——
自分がどこに立っているのか、
何が真理であるかを知っているなら、
そしてそれが
「主がこう仰せになられる(Thus saith the Lord)」
であるなら、
あなたはその場に堂々と立ち続けることができます。。
74. あなたはこう言うかもしれません。
「ハレルヤ!私はお酒をやめたから救われたんです!
背中にぞくぞくっと震えが走ったんです!
顔に“突風のような風”がぶつかったんです!
ブラナム兄弟、あなたはそれを信じますか?」
——ええ、もちろん信じますよ。
ですが、私はまず、
その“突風”がどこから来たのかを見たい のです。
そこが大切です。
震えが来るのは結構なことです。
しかし私は、
震えたから救われたのではありません。
突風のような風を感じたから救われたのでもありません。
「兄弟、それを信じないんですか?」
——信じます。
信じますとも。
しかし、ちょっと待ってください。
少し戻って考えてみましょう。
その領域には“悪魔の偽物”もあるのです。
私は救われたのは——
“神の条件”を満たしたからです。
神が私を呼ばれた——
私は、その“呼び声”が自分に来たことがわかりました。
そして私は、
神の御言葉(Word)を根拠にして主を受け入れた。
だからこそ私は、
悪魔に向かってこう言えるのです。
「主がこう仰せになられる!(Thus saith the Lord!)」
75. 地上におられたときのイエス様は、まさに神であられ、インマヌエル――
「神が、わたしたちと共におられる」方でした。
神はキリストのうちにおられて、この世を御自身と和解させておられたのです。
そして主イエスは、サタンと向き合われたとき、
ご自身の大いなる賜物を一度たりともお使いになりませんでした。
ただこう言われたのです。
「主がこう仰せになられる――『人はパンだけで生きるのではない』。」
「主がこう仰せになられる――『あなたの神である主を試みてはならない』。」
主はこのようにしてサタンを打ち破られました。
そうです。みことばを知っていることです。
サタンも聖書を知っています。
しかし、みことばを正しく分別して受け取ることを知っていなければならないのです。
76. よくご覧ください。ここでパウロが語っているのをお聞きください。
皆さんは、パウロの教えを受け入れますか?
彼はこう言いました。
「もし天使でさえ、ほかの教えをするなら、その者は呪われよ。」
そしてパウロは続けます。
「私はキリストにあって真実を語るのであり、偽りはありません。
私の良心も、聖霊のうちでそれを証してくれます。」
パウロ自身が、自らを強く確信させるように語っているのです。
つまり、聞く側が絶対に間違いなく理解するようにと、
その言葉を重ねて明確にしているのです。
「私は大きな悲しみと、絶え間ない痛みを心に抱いています。
私自身がキリストから断たれた者となってでも、
肉による私の同胞、兄弟たちのためにそう願うのです。」
77. よく聞いてください。
「ユダヤ人は皆、神の選ばれた民だ」と
よく言われますが――それは正しくありません。
そうではありません。
ユダヤ人すべてが、神の選びの民ではないのです。
では、パウロが何と言っているか、
よく耳を傾けてください。
パウロ自身がユダヤ人だったのですから。
アブラハムには 十一人の息子 がいました。
そうですね?
そして彼らは皆、「アブラハムの子孫」でした。
しかし、神はこう言われました。
『イサクによって、あなたの子孫と呼ばれる。』
イシュマエルでもありません。
アブラハムの三番目の妻から生まれた
他の九人の息子たちでもありません。
“イサクにおいて” 子孫が呼ばれたのです。
これは同じ章の中にあります。
パウロはこう言います。
「彼らはイスラエル人であり、
子としての身分、栄光、契約、律法の授与、
神への礼拝、そして約束が与えられた。」
——今、彼はイスラエルについて話しています。
次に彼はこう述べます。
「先祖たちは彼らのものであり、
キリストは肉によれば彼らから出られた。
このキリストこそ、万物の上におられる永遠にほむべき神である。」
アーメン。
しかし続けて、パウロはこう言うのです。
「しかし、神の言葉が無効になったわけではない。
なぜなら、“イスラエルから出た者がすべてイスラエルではない”からである。」
そうですね?
つまり、
ユダヤ人であるからといって、
皆が“本当のイスラエル”ではないということです。
パウロはさらに言います。
「彼らがアブラハムの子孫であるからといって、
皆が“約束の子”ではない。」
78. それで彼ら全員が“イスラエル”になるわけではありません。
では、私が何を型として示しているのか、わかりますか?
教会の型です。
キリストを口で告白したからといって、
すべての者が本当のクリスチャンではありません。
教会に通っているからといって、
すべての者がクリスチャンではありません。
アブラハムの子孫がみな
約束を受け継いだわけではありません。
そうではなく、選ばれた者——
“約束の子”だけでした。
その約束は、神がアブラハムに前もって告げられたものでした。
そして、神の選びというものは、
この世の基が置かれる前から
あらかじめ定められていたのです。
よく注意してください。
「アブラハムの子孫だからといって、
すべてが神の子ではない。」
聖書は続けます。
「イサクによって、あなたの子孫は呼ばれる。」
他のユダヤ人ではなく、
イサクを通して キリストが来られました。
キリストこそが、
アブラハムの本当の子孫であられました。
そしてアブラハムの子孫であるということは、
まず「肉による子孫」ではありませんでした。
神はアブラハムの “信仰” を義と認められたのです。
ですから、私たちも同じように、
キリストの死、埋葬、復活を信じる信仰によって、
アブラハムの子孫となるのです。
79. そしてアブラハムは、
割礼を“しるし”として受けました。
それは、彼の“信仰”に与えられた
約束のしるし(seal of promise) でした。
しかし覚えておいてください。
アブラハムは、
割礼を受けていたから約束を得たのではありません。
そうではなく、
まだ割礼を受けていない “以前” に
神の約束を受けた のです。
——そうでしょう、長老兄弟?
(あのもうひとりの説教者の兄弟はどこかな……
ああ、後ろで録音をしてくれているのですね。
はい、わかりました。)
80. アブラハムは、
割礼を受ける“前”に約束を受けた のです。
ローマ書4章を読めば、はっきりと書いてあります。
彼は、まだ割礼を受けていないときに
神の約束を受けました。
そしてそのあとで、割礼が与えられました。
それは、彼の“信仰による従順”のしるしとして
与えられたものだったのです。

だから私はよく言うんです。
ビリー・グラハム、チャールズ・フラー、ビリングス……
バプテスト派の兄弟たちについて語るとき、
私は彼らにもはっきり言いました。
ルーファス・モーズリー、あの人たち全員に。
彼らはこう言ったのです。
「二週間で二万人の決心者が出ました。しかし、
その後探しても二十人しか残っていません。」
私は言いました。
「彼らは“回心していなかった”のです。」
彼らは答えました。
「でも、彼らはキリストを“個人的救い主として”受け入れましたよ。」
私は言いました。
「それでも、回心したとは言えません。」
その通りです。
なぜなら、“回心”(convert)とは
「変えられること」 を意味するからです。
そして、よく見てください。
パウロが……(次に続きます)
81. ペテロは——主を信じ、バプテスマを受け、病人を癒す力も、
悪霊を追い出す力も、死人を起こす権威さえも与えられていました。
それなのに、十字架の前の晩、イエスは彼にこう言われました。
「あなたが 回心した後 に、兄弟たちを力づけなさい。」そうでしょう?
ペテロは 救われていて聖められていたのに、まだ“回心”していなかったのです。
これは聖書そのものです。
「え? 本当に聖められていたんですか?」ええ、そうですとも!
ヨハネ17章17節: 「真理によって彼らを聖めてください。」
主は、ふさわしくない器に、あの聖い御霊をお入れになるでしょうか?
彼らは実際に外へ出て、悪霊を追い出し、帰ってきて、
大声で喜び叫んだのです。——はい、メソジスト派の皆さん、聞いておきなさい。彼らは喜びながら言いました。「主よ、悪霊たちが私たちに服従します!」
ちょっと待ちなさい!マタイ10章でイエスはこう言われました。
「悪霊があなたがたに服従することで喜んではならない。
天にあなたがたの名が書かれていることを喜びなさい。」
その通りでしょう?
82. さて、ここで少し静まって、よく聞いてください。
ユダも、そこにいたのです。
そうでしょう?
ユダも、ほかの弟子たちと同じように——
池の中で泳ぐ大きなアヒルのように、
一緒に叫び、
一緒に喜び、
一緒に奉仕していました。
そして彼は、
教会と共にずっと歩み続けました。
どこまで?
ペンテコステの時まで。
しかし、
聖霊のバプテスマを受ける段階に来たとき、
彼はそれを拒み、
イエスを裏切りました。
そして——
それこそが“反キリストの霊”でした。
今日も同じ霊が働いています。
その霊は、
・信仰義認を教え、
・聖書を語り、
・教会の働きもともに進め、
ペンテコステの“聖霊の洗礼”の境界線までやって来ます。
しかし、
いざ聖霊のバプテスマに入る段階になると、
本性を現すのです。
まさにその通りです。
83. それから、
外に出て行った「十人のおとめ」を見てください。
十人とも、
“おとめ”でした。
十人とも、きよい生活をしていました。
しかし——
愚かな者が五人、
賢い者が五人でした。
賢いおとめたちは、
ともしびに油を持っていました。
その「油」とは何でしょうか?
—— 聖霊 です。
その通りです。
みんな“おとめ”でした。
みんな“きよい生活”をしていました。
あなたは言うでしょう。
「兄弟、それなら私は大丈夫です。
私はダンスにも行きませんし、
映画にも行きません。」
それは——
単なる道徳です。
しかし、それだけでは不十分です。
あなたの内側で
何か超自然的なことが起きたのか?
それが問題なのです。
・叫んだからでもない。
・異言を語ったからでもない。
・跳ね回ったからでもない。
・涙を流したからでもない。
あなたの内側の“何か”が、
完全に変えられたか?
そして、
神の御手の中に“封印された”のか?
そこが鍵です。
あなたが
神の中に錨のように据えられ、
動かされない者になったかどうか。
それが答えなのです。
あなたは言うかもしれません。
「では、叫ぶことは信じないのですか?」
もちろん信じます。
私は叫ぶことも信じます。
異言も信じます。
喜び躍ることも信じます。
しかし——
それ自体が答えではありません。
84. メソジストたちは、
「叫んだから、これで受けた!」
と思いました。
しかし——
彼らは間違っていたことに気づきました。
叫んだけれど、
何も持っていなかった人がたくさんいた のです。
それからペンテコステの人たちが現れました。
彼らは異言を語りました。
そしてこう言いました。
「これで私たちは“受けた”。間違いない。」
しかし彼らもまた、
間違っていた と分かりました。
異言を語ったけれど、
何も持っていなかった人たちが大勢いた のです。
聖書はこう言っています。
「たとえ人間の言葉、
あるいは御使いたちの言葉で語っても、
愛がなければ、私は何の値打ちもない。」
その通りです。
彼らには“それ”がありませんでした。
だからこそ、
世界中が霊的に惑わされた のです。
外側のしるしや現象だけに。
違います。
答えはそこにはありません。
・叫ぶことでもない。
・異言でもない。
・感情の高ぶりでもない。
・身体的な動きでもない。
それらは“しるし”にはなり得ても、
本物の証拠にはならない のです。
では——
本物はどこにあるのでしょうか?
それは、
あなたの内側で起きた“変化”です。
何かが深いところで起き、
あなたの全ての思いが変えられ、
あなたの性質そのものが変えられた。
キリストがあなたの内に来て、
あなた自身を変えたとき、
それが「回心(conversion)」です。
あなたの古い性質は死に、
古き人は葬られ、
あなたは新しく生まれ、
まったく新しい人となる——
キリストのいのちを持つ人へと。
これが本物です。
しるしでも、感情でもなく、
内なる本質の完全な変化。
これが救いの実体であり、
聖霊の内住なのです。
85. 「さて、だいぶ時間が経ってしまいましたね。
後ろの兄弟たち、もし私が長くなりすぎたら、少し声をかけてください。
この後すぐイスラエルの子らのところに入らないといけません。
でもね、私はどうしても——
これは神ご自身のご計画である
ということを、皆さんに見せたいのです。
まだ私を愛してくれていますか?
よろしい。
では、そのまま祈り続けていてください。
さあ、少し落ち着いて続けましょう。」すべてが“神の子”ではない」聖書はこう言います。「肉によるアブラハムの子孫がそのまま神の子なのではない。“イサクによって”あなたの子孫は呼ばれる。」つまり——「肉による子らは神の子らではない。“約束の子ら”こそが、真のアブラハムの子と数えられる。」ここをよく見てください。「約束って何の約束ですか?」それは、 世界の基が置かれる前に神ご自身が語られた“救いの約束”です。神が、選ばれ(Election)呼ばれ(Calling)定められた(Predestination)その者たちが “約束の子ら(children of promise)” です。「これをやめたからクリスチャン」「ウソをやめたから、盗みをやめたから救われた」そんなことではありません。それはただの“道徳”です。良い市民でもできます。でも——それはまだ“救い”ではありません。内側で“何かが起きた”ときです。新しく生まれ変わり内側が作り変えられ霊が再創造されるキリストのいのちが注がれるそれが 再生(Regeneration) であり、ここで初めてその人は「約束の子」と呼ばれるのです。
86. 「さあ、上着を着なさい。ヘルメットも用意しなさい。
この真理は、あなたをひっくり返しますよ。」
(ここから、エサウとヤコブの話に入ります。)「子どもたちがまだ生まれもせず——」
「…子どもたちがまだ生まれず、
何の善も悪も行っていないうちに、
神の“選びによる御計画”が変わらないために——」
(長く黙っていたのは、皆さんにしっかり染み込ませたかったからです。
さあ、目を覚まして聴いてください。)
ヤコブとエサウは、まだ何もしていなかった。
良いことも、悪いことも、何も。
それでも神は——
「選びの御旨(Election)によって」
道を決められた。救いは行いによらない
聖書は続けます。
「行いによらず、
召してくださる方によるためである。」
行いではなく、
召し(Calling) による。
ここを聞いてください。
「肉を絶ったから救われた」?
「何かをやめたから救われた」?
——そんなことは一切関係ありません!
救いは “あなたの行動” から始まったのではなく、
“神があなたを召された” ところから始まったのです。
この“召し”は、
世界の基が置かれる前から
決まっていた。神はリベカにこう告げました。「兄は弟に仕えるであろう。」そしてさらに、こう書いてあります。「ヤコブをわたしは愛し、エサウをわたしは憎んだ。」いつ?二人が生まれる前に。どちらも善も悪も行っていないうちに。神がこう言われた。「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」ブラナム兄弟はこう言います:
「私はただそれを説く者です。
この言葉の責任者は神ご自身です。」
87. さて、この “選び(エレクション)” というものは——
あなたが何かをすることではありません。
それは 神がすでにしておられたこと です。
神は キリストのうちに、あなたのために、
世界の基が置かれる前に すでにそれを成し遂げておられた。
そして主イエスはこう言われました。
「父がわたしにくださった者は、みな、
わたしのもとに来る。」
ハレルヤ!
ああ、なんと尊いおことばでしょう!(興奮しているのではありません。ただ…心が溢れるのです。)
さらに、
「わたしのもとに来る者を、
わたしは決して捨てない。」
主はまた言われました。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、
—聖霊を受けた後に—
永遠のいのちを持つ。
わたしはその人を終わりの日によみがえらせる。」
(——テープの途切れ)
88. 「何をそんなに恐れているんですか?」
神は 無条件の約束 をしておられるのです。
そして、もしあなたの胸の中で
神の愛がしっかりと鳴り響いていて、
「自分は死からいのちへ移された」と知っていて、
人々を愛し、
世界がすっかり違って見えるようになり、
あなたの魂がその場所にしっかりと“錨を下ろして”いて、
何ものにも動かされないのなら——
ただ喜んで進みなさい!
ハレルヤ!
何ものもあなたを引き返させてはなりません。
時には冷たくなったり、
揺さぶられたりすることもあるでしょう。
しかし、
神の種(Seed)は必ず真実のままに残るのです。
聖書はこう言っています。
「たとえ私たちが不信仰であっても、
彼は真実である。
彼はご自身を否むことができない。」
さあ、次の節を読みましょう。
パウロが語っています。
「では、どう言うべきでしょうか?
神に不義があるのですか?
絶対にそんなことはありません!」
神はモーセにこう仰せられました。
「わたしは、
わたしがあわれむ者をあわれみ、
憐れむ者を憐れむ。」
だから、
「救いは、
それを願う者によるのでもなく、
走り求める者によるのでもなく、
憐れみを施される
神ご自身によるのです。」
あなたが、
「よし、死ぬ前に救われよう!」
と思ったから救われるわけではありません。
——そこには 神のご意思 があるのです。
救いとはあなたが走り回って掴み取るものではなく、
あなたの決心によるものでもなく、
ただただ、
憐れみを示される“神ご自身”によるものなのです。
89. さて、よくご覧ください。
もう少し先へ進みますね。
(この箇所は、あまりにも読み込んだので、
赤ペンで印がつきすぎて、文字がほとんど見えなくなってしまったのです。
何度も何度も読んできたところです。)
聖書はこう言っています——
「パロよ、
わたしはこの目的のために
おまえを立てたのだ。
すなわち、わたしの力をおまえのうちに示し、
わたしの名を全地に宣べ伝えるためである。」
神はパロを立てられ、
その心をかたくなにされました。
——その目的のために。
神はユダ・イスカリオテも立てられました。
彼は「滅びの子」として生まれてきたのです。
そのとおりでしょう?
神はまた、エサウとヤコブについても、
二人が生まれる前から
その母にすべてを告げておられました。
一人は憎まれ、
一人は愛される——
そう語られたのです。
すべてを行われるのは 神ご自身 であり、
すべては 神のご計画の中で働いている。
そして、
あなたが何かをしたから救われたわけではありません。
もし神があなたを呼んでおられるなら、
神の愛があなたの心の中で確かに響いています。
そして、
神が呼ばれた者は必ずキリストのもとに来る。
そのうちの一人も失われません。
神がこう約束されたからです。
「父がわたしに与えてくださった者は、
皆わたしのもとに来る。
わたしはそのうち一人も失わない。
失われたのは、
聖書が成就するために
ユダ・イスカリオテだけである。
そしてわたしは、
彼らを終わりの日に復活させる。」
ハレルヤ。
これが 神の絶対の約束です。
90. さて、先ほどあなたは「自分はクリスチャンです」と言われましたね。
では——何が、あなたをクリスチャンにしたのでしょうか?あなたがクリスチャンになったのは、神が、世界の基が置かれる前に、あなたをクリスチャンとなるよう召されたからです。その結果、あなたはキリストのもとに来たのです。
そして救われ、聖霊に満たされ、永遠のいのちを受け取りました。
では、なぜ神はあなたに聖霊をお与えになったのでしょうか?
それは、あなたの信仰への“封印(シール)”としてです。あなたの信仰が先で、その信仰を神が認め、その印として聖霊を与えてくださる。
あなたはこう言うかもしれません。「でもブラナム兄弟、
ビリー・グラハムや他の伝道者が『キリストを受け入れたい人は手を挙げなさい』と呼びかけますよね。あれは間違いなんでしょうか?」
もちろん間違いではありません。大いに結構です。とても良いことです。
しかし、それは——始まりでしかありません。もしあなたが心から信じ、
心からキリストを受け入れ、そして正しく教えられるなら、
その信仰を“切り離すしるし(割礼)”として、聖霊があなたの上に来られるのです。これは、アブラハムが信仰を示したあとで神から割礼のしるしを与えられたのとまったく同じです。信仰 → その信仰の証印としての聖霊この順番です。
91. さて、こう言う人たちがいます。「さあ、“待ち会”(タリ―ミーティング)をしましょう!さあ、みんなで“聖霊を待ち望みましょう”!」でも、はっきり申し上げますね。“タリ―(tarry)”という言葉は“祈る”ではありません。
“待つ”という意味です。どれくらいの方がこの意味をご存じですか?
イエス様はこう言われました。「エルサレムの都で“待ちなさい”約束が与えられるまで。」あの120人が上の部屋で何をしていたか、聖書は細かく書いていませんが、おそらく祈っていたでしょう。私にはわかりません。
しかし、はっきりわかっているのは——あの日以降、誰も“待つ必要”はなくなったということです。聖書に何とありますか?「ペテロがまだ話しているときに、聖霊が彼らの上に降った。」「パウロが手を置いたとき、聖霊が彼らに臨んだ。」そうです。まったく“待つ”必要はありませんでした。
なぜでしょう?聖霊はすでに来ておられ、信仰の“確証(confirmation)”として
その場で与えられたからです。
92. そして神は、アブラハムに“割礼”を与えられました。
それは、彼の 信仰に対する“しるし”、確証でした。
では、ここで皆さんに尋ねます。
聖霊は何のために与えられるのですか?
誰か答えられますか?
——そうです。
“しるし(sign)”です。
割礼とは何でしたか?
——“しるし”でしたね。
アブラハムの信仰を、
神が受け入れられたという 神の側の“しるし”。
同じように——
あなたが心からこう告白する時、
「私は神を信じます。
私はイエス・キリストを信じます。」
その瞬間、
神は“聖霊のバプテスマ”を
あなたに与え、
あなたの信仰を受け入れられたという“しるし”を押されるのです。
ハレルヤ!
そしてその瞬間から、
あなたは神の御国の中に“封印(sealed)”されます。
次のリバイバル(集会)までではありません。
次の良い気分の日までではありません。
「贖いの日まで」封印されるのです。
聖書がそう言っています。
エペソ 4:30
「神の聖霊を悲しませてはいけません。
あなたがたは、この聖霊によって
“贖いの日まで”封印されているのです。」
——これが真理です。
これが神の約束です。。
93. では、時間も迫っていますので——あと5分ほどで、
すばやく進んで行きましょう。
創世記45章 を開いてください。
ここで私は、少し“近道”をして、
イスラエルの子どもたちが
エジプトへ下っていくところまで
一気に連れて行きたいと思います。
そうすれば明日の夜、
あなたはちょうどその場所から
彼らを“引き出す”ところへ入っていけますからね。
今夜は少し遅くなってしまい、申し訳ありません。
けれども、この“土台”——最初の部分を
しっかり固めておく必要があったのです。
94. さて——アブラハムは、神から約束を受けました。そのあとイサクが生まれ、
そしてご存じの通り、犠牲の型がずっと続いていきます。
私は今夜、何度もお伝えしてきました。あの初代の「呼び出された群れ」——召し出し(Election)は、人間の側ではなく“神の側”の御業だということ。
あの時代も、今日も同じです。神はアブラハムを“選び”出し、同じように、今日も教会を“選び”出すのです。神はアブラハムに約束を与えられ、アブラハムはその言葉を信じました。あなたも同じです。「あなたはイエス・キリストを信じますか?」——そうであれば、まずあなたが“信じた”その瞬間に、
神はあなたを召し出しておられた、という証しなのです。そして神は、アブラハムとその子孫に“割礼”というしるしをお与えになりました。今日、神があなたに与える“しるし”は何でしょう?聖霊(Holy Ghost)です。聖霊は、あなたの心に刻まれる “割礼” です。ステパノも使徒の働き7章でこう言いましたね。“あなたがたは心と耳に”割礼を受けていない者“です。あなたがたは、先祖たちと同じようにいつも聖霊に逆らっています。」——そうです。聖霊は ”心の割礼“ を行われます。では、割礼とは何をするのでしょう?余分な肉を切り落とすことです。同じように、聖霊は——・この世を愛する心・肉の欲・目の欲・生活の誇りこうした ”余分な肉“ をあなたの心から切り離してしまいます。あなたの力でやるのではありません。聖霊がご自身でそれを行うのです。そして、こうして”切り離された“心の中にイエス・キリストを愛する、消えることのない愛 を注がれます。パウロはこう言います。「キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。」試練も、危険も、牢獄も、今起こっていることも、未来のどんな力も——神の愛からあなたを切り離すことはできません。
95. そして神は、あなたを召し出し、あなたの心に“割礼”を施し、
あなたをキリストのうちに置き、あなたの永遠の行き先(eternal destination)をあらかじめ定めてくださったのです。これで、クリスチャンが叫んで喜ばない理由がどこにあるでしょうか?もしこれを聞いても、キリストのうちにある者が目を覚まさないとしたら——私はもう、その人は「二度死んで、根こそぎ引き抜かれている」(ユダ書)そうとしか思えません。そう思いませんか?
さあ、アーメンと言いましょう。
96. さて——神はアブラハムを“召し出し(Calling)”ました。そしてそのあと、
その“種(Seed)”を導き下って行かれました。アブラハムからイサクへ、
イサクからヤコブへ、そしてヤコブからヨセフへ。ここをよくご覧ください。
(もし時間があれば、この部分だけで一つの集会ができるほど豊かです。)
選び(Election)はアブラハムに始まりました。そしてご注意ください。
この「四人の族長(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ)」を過ぎると、
そこから一度“分裂”するように広がって十二部族に枝分かれしましたね。
(そうでしょう?)しかし——この“選び”が再び一つに戻るのは、ただおひとり、アブラハムの“子孫(Seed)”である“キリスト”のうちにおいてだけでした。
すべての約束が、ただ一人の方の中に集約されたのです。そのキリストが、
人として現れ、地上で現され、栄光のうちに神に挙げられ——
そのあとで、聖霊(Holy Ghost)が戻って来られました。
何のために?「地が、海をおおう水のように主の知識で満たされる」ために。
聖霊は今、全世界に広がり、すべての国々に及び、救いと真理の知識を満たしておられるのです。これが——今日の「聖霊の働き」なのです。
97. さあ、よく見てください。アブラハムには 選び(Election)、
イサクには 義認(Justification)、ヤコブには 恵み(Grace)、
そしてヨセフには 完全(Perfection) が表されています。ヨセフについては——
聖書に ただの一つも“責められる点”が記録されていません。これが「完全」を示す型(type)です。イスラエルの子どもたちの旅路には、地上での三つの段階がありました。 エジプト(罪の中) 荒野(聖別・試練の道) カナン手前(約束の成就の直前)そして第4段階として、約束の地へ入る時、それは“千年王国(Millennium)”の型でした。同じように、異邦人教会(Gentile Church)も三つの段階を通ります。そして——ブラナム兄弟は続けます。「今週、もし神が許してくださるなら聖書全体を通して示します。私たちはすでに第三の段階の終わりにいて、“ヨセフの時代”、すなわち千年王国に入る直前にいるのです。」
これは、“時代の終わり”の位置を示している非常に重要な宣言です。
98. さあ、よく見てください。
すべてが ヨセフに集まって いきます。
完全な人——
父から生まれ、父に愛され、兄弟たちに憎まれた人。
急ぎますから、心をこちらに向けて聞いてくださいね。
父に愛され、兄弟たちに憎まれた者。
これは 主イエス そのお方です。
聖書の中のすべての人物の中で、
イエス様が“型”として現れているのを見てください。
ヨセフを見てください。完全な人です。
本当なら数週間かけても語りつくせないほどです。
彼は兄弟たちに憎まれ、
しかし父には深く愛されました。
なぜでしょうか。
彼は 霊的な人 だったのです。
幻を見、夢を解き明かすことができました。
すると兄弟たちはこう言いました。
「そんな馬鹿なことあるものか!あっちへ行け!」
——今、教会の様子を見てください。
今日、主イエスがご自分の教会の中でなさる
霊的な働き は、
周りの“人間的な部分”からいつも憎まれます。
まったく同じことです。
笑い者にされ、“ファナティック(狂信者)”と呼ばれます。
でも、そうでなければならないのです。
これは“型”と“成就”だからです。
あなたは言うかもしれません。
「でもブラナム兄弟、
聖霊を受けたら、みんなに笑われるじゃないですか。」
もし笑われなかったら、
あなたはそれを受けていないのです。
この世に憎まれることは当然です。
イエス様はこう言われました。
「家の主人(わたし)をベルゼブブと言ったのだから、
弟子たち、家族であるあなたがたを
どれほどもっと悪く呼ぶことだろうか。」
その通りなのです。
99. それから——ヨセフは父に 深く愛され ました。そして、ここは飛ばせません。
彼の父はヨセフに「色とりどりの上着(コート)」 を与えましたね。
(その通りでしょう?)あの“継ぎ目のない衣”は聖霊そのもの を表しています。
それはヨセフという人を完全に覆っていました。今日、教会を覆っているものは何でしょう?聖霊です。教会を包む「多くの色を持つ衣」。
虹には 七つの色 があります。これは“完全数”であり、この世に存在するすべての色は、その七つに由来します。これら七つが調和して一つになったもの——
それが 虹 です。そして 虹は聖書の中で「契約(Covenant)」を意味します。
神がノアと契約した時、こう言われました。「もう二度と水で地を滅ぼさない。
(次は火である。)」そして主は契約の“しるし”として
虹 を天に置かれました。今日も私たちは、この虹を目にしていますね。
(その通りでしょう?)
100. さて——もし、あなたが黙示録の第1章を開かれるなら(他の聖書箇所も時間があれば取りたいのですが)、ヨハネがこう見たと書かれています。
「人の子のような方が、七つの金の燭台の真ん中に立っておられた。」この七つの燭台とは七つの教会時代(Seven Church Ages) のことです。私たちはエペソから始まり、最後はラオデキヤに至ります。そして今日、私たちはまさにその ラオデキヤ時代 に生きています——「敬虔さの形はあるが、その力を否む」
(Having a form of godliness, but denying the power thereof.)
教会には来る。「キリストを受け入れなさい」と言われ、名簿に名前を書く。
しかし——聖霊のバプテスマ、神の力、奇跡、しるし、不思議——これらを否定し、嘲る時代。それがラオデキヤの時代です。そして主は、このぬるい時代を
ご自身の口から吐き出される と言われました。しかし、そのさなかで 選ばれた者(the elect) は天へと引き上げられるのです。ああ、ハレルヤ!友よ——これを思うとき、私の魂の奥深くで、何かが燃え上がるのを感じます。
ああ、この世界の今のありさまよ!
101. そして——そこに主がお立ちになっておられたのです。よく見てください。
そのお姿は「碧玉(Jasper)」と「赤瑪瑙(Sardius)」のようであった。
では、碧玉とは何か。それは ルベンの石 です。赤瑪瑙とは何か。それは ベニヤミンの石 です。つまり——初めの者(Reuben)と、終わりの者(Benjamin)。
“初めであり終わりであるお方”そのお姿そのものだったのです。
そして、その頭の上には虹があり、七つの金の燭台の上にまたがっていた。
虹とは何か?神の契約のしるし です。アブラハムを通して、イサクを通して、
キリストを通して、そして教会へと——聖霊のバプテスマによって与えられた契約。ヨセフがまとった七色の衣。それがイエスに、そして今日、教会にも掛けられている。その衣が、身体を覆い、守り ました。そして教会とはあなた自身ではありません。あなたを覆っている聖霊、その血潮の契約、世界の基の置かれる前からあらかじめ定められた神の御計画——それが教会なのです。ハレルヤ!
今の私は、どうしても言わずにおれませんでした。胸の中で破裂しそうだったのです。
102. さあ、よく聞いてください。
あなたは私のことを、「あの人、少しおかしいんじゃないか」と思うかもしれません。
もし本当にそうだとしても——
私は幸せなんです。だから、ほっといてください。
いいですか。
ちょっと、あなたに言わせてください。
ああ……!
私が知っていることを知っていたら、
どうして喜ばずにおられましょうか?
どうして胸の中に押しとどめていられるでしょうか?
私は、なんとかそれを皆さんに伝えたいのです。
ああ、本当に……!
こんな喜びは、だれだって沸き上がってくるはずです。
ふう……!
まったく! さて、それでは——。
103. そこに主がおられました。そして、ヤコブが……そしてヨセフがその型だったのです。
覆い——父が彼に与えたあの外套です。ハレルヤ!
思い出されますか?
イエス様がバプテスマを受けられたとき——
「水から上がられると、天が開け、
聖霊が鳩のように下ってその上にとどまられ、
『これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』
と声が聞こえた」
そのときまで、主は一つの奇跡も行われませんでした。
しかしその後すぐ、荒野の試みに入られ、そして試みを退けられたあと、
病人を癒し、神の力が現れはじめました。
その型が 教会 なのです。
教会がバプテスマを受けたとき、
聖霊という外套をまとい、力を帯びるのです。
ああ、なんという恵みでしょうか!
104. サラの胎が死んでいた——
その現象そのものが、イサクが来る前からの「しるし」でした。
神はそのままにしておかれたのです。
彼女が約束を受けたのは六十歳。
しかし、胎に“種”が宿ったのは九十歳のとき。
まさに完全に、絶対的に、
自然では説明できない“超自然”でした!
そして——
新しく生まれた者(born again)も同じく“超自然”なのです。ハレルヤ!
それは、ただ「はい、信じます」と言って手を挙げることではありません。
それは 神の賜物 なのです。
超自然!
新しく生まれるとは、この世の感覚の領域から引き出されるということです。
なぜでしょうか?
あなたがそれに値したからですか?
違います。
神がそれを約束しておられたからです。
その約束が、“選び(エレクション)”に従って確かになるためなのです。
105. そしてヨセフは、その兄弟たちの手によって、ほとんど三十枚の銀で売られました。ユダヤの教会がヨセフを裏切ったのです。では、今日のこの教会時代では何が起こっているのでしょうか?同じ“裏切り”です。
いま、彼らは書類を準備しています。覚えておいてください。
彼らは“教会連合(コンフェデレーション・オブ・チャーチズ)”を作ろうとしているのです。アメリカの“チャーチズ・オブ・クライスト”は、すでにあらゆる教派と手を組んでいます。そして、ある日、共産主義と戦うという名目で
カトリック教会とプロテスタント教会が手を結び、ひとつの大きな束(バンド)になるでしょう。しかし――そのとき 真理に立つ人々、宗派主義の教義から離れて立つ者たちは迫害されます。獣の刻印と神の封印、あの“決定的な対決”が間もなく来るのです。そして兄弟よ、もしあなたの中にその真理がなければ、
あなたは必ず欺かれてしまいます。なぜなら、それはとても“良さそうに”見えるからです。人々はこう言うでしょう。「共産主義が世界にこれほどの混乱をもたらしたのなら、今度は キリスト教世界が一致して、世界をクリスチャンに戻そうではないか」と。それは立派に見えるのです。だから、人々はその中に飛び込むでしょう。彼らは教会同士を連合させ、キリスト教をひとつの組織にまとめようとするのです。しかし聖書――黙示録はこう言っています。「彼は獣の前にあったあらゆる力を働かせ、獣の像を造った。」その通りです。(本当は黙示録と一緒に深く取り扱いたいのですが、今夜は時間がありません。)しかし兄弟よ――
あなたはいま、終わりの時に立っているのです。私たちは この時代の終わり に来ています。
106. それから、彼らはヨセフを三十枚の銀貨で売り渡しました。
彼を穴に投げ込み、死んだものとして扱ったのです。
しかしヨセフは引き上げられ、エジプトへ連れて行かれました。
そして、あの牢獄の中で、二人の男――献酌官と料理官――がおりました。
その二人に夢が与えられ、
ひとりは失われ、もうひとりは救われました。
それは、ヨセフがその夢を受け取り、解き明かしたことによってです。
まったくその通りに、
イエス様が十字架におかかりになったときも、両側に二人の盗賊がいました。
ひとりは滅び、ひとりは救われました。
寸分違わぬ型です。
その後、ヨセフはパロの前に連れ出され、夢を解き明かし、
ついにパロの右の座につけられました。
そして、ヨセフを通らなければ、誰ひとりパロに近づくことはできませんでした。
これこそ、完全な型です。
今、イエス・キリストは神の右に座し、
キリストによらなければ誰ひとり神のもとへ来ることはできません。
まさに、完全なる型そのものなのです。
107. そして、もう一つ注目しなければならないことがあります。
あなたがた異邦人の方々――よく聞いてください。
「種」と「選び」の型に従えば、
ヨセフは、自分の兄弟たちから拒まれたのち、異邦人の花嫁を迎えたのです。
その通りでしょう?
パロは、オンの祭司の娘をヨセフに与え、
ヨセフはその異邦人の女性を妻として迎えました。
そして彼女から生まれたのが、
エフライムとマナセであり、
この二人は父祖たちの祝福の中に共同の相続人として迎え入れられ、
約束の家系に数えられたのです。
108. ご覧なさい。なんと完全な型でしょうか。
イエス様がユダヤ人に拒まれた後、
主は聖霊をお遣わしになりました。
ところが彼らはその聖霊を受けた者たちを嘲り、
あざ笑って言ったのです。
「ほら見ろ、あいつら新しいぶどう酒に酔っているんだ」
――そうではありませんか?
しかし主イエスはこう言われました。
「人の子(わたし)を罵っても赦される。
だが 聖霊を汚す者は、決して赦されない。
この世においても、来るべき世においても。」
そしてあのユダヤ人たちは上って来て、
「ほら、あの連中は酔っぱらいだ、ははは」と
聖霊の働きを嘲り笑ったのです。
その時から三十年も経たないうちに、
ティトスがエルサレムを包囲し、
彼らは我が子を食らうほど飢え、
大虐殺が起こり、
神の御言葉どおり、
神殿は焼き払われ、
今日まで一度も再建されていないのです。
“異邦人の時”が終わるまでは。
数週間後、私はエルサレムを訪れようとしていますが、
今もそこには古い破壊の跡、
“嘆きの壁”が残っています。
彼らは世界中に散らされました。
神が「そうなる」と言われたとおりに、です。
ああ、なんということでしょう……
聖霊を拒むということの恐ろしさよ!
109. さて、聖霊はすでに注がれました。
しかしユダヤ人たちはそれを拒みました。
そして、ユダヤ人が拒んだとき、
異邦人がそれを受け取ったのです。
これこそ「花嫁」の型です。
主はこう言われました――
「わたしは異邦人の中から、わたしの御名のための民を召し出す」 と。
あそこに座っているあの若い娘も、
昔は “ブロイ” という名前でしたが、
今は “ブランハム” と呼ばれています。
彼女は私の妻になったのです。
そして、イエス・キリストの花嫁も同じです。
彼女は ミセス・イエス・キリスト――
ハレルヤ!
主の御霊のバプテスマを受け、
主の御名によって呼ばれ、
主の力に満たされ、
主の義の衣をまとっている。
ハレルヤ!これが花嫁です。
そして、気をつけてください。
ここで語られているのは 異邦人の花嫁 なのです。
110. さて、閉会に入る前に、この残りの部分を読みましょう。
ここには、終わりの時代における、最も悲しい場面 が描かれています。
私たちは今まさにその時代の終わりに差しかかっています。
異邦人の花嫁はすでに選ばれ、取り出されました。
もうほとんど、物語は終わろうとしているのです。
では、創世記45章を見てください。
「ヨセフは、自分のそばに立っている者たちの前で、もう堪えることができなくなり、叫んだ。『みな外へ出てくれ!』
それで彼が兄弟たちに自分を現したとき、彼とともに立っている者はひとりもいなかった。」
ここに描かれているのは、
かつてヨセフを拒んだ兄弟たち です。
111. では、ここで礼拝を締める前に、もう少しだけ続けましょう。
長い年月ののち、ヨセフはエジプトで高い位置につけられ、
その頃、故郷には大きな飢饉が起こりました。
——これもまた、神が動かしておられた出来事です。
あの小さなヨセフは、今や王の右腕となり、
かつて彼を売り飛ばした兄弟たちは、飢えの中で食糧を求めて
エジプトへとやって来ました。
ヨセフはかつて、
兄弟たちが自分の前にひれ伏す幻を見ました。
しかし兄弟たちは彼を夢見る者、幻を見る者と呼び、
ついには殺そうとまでしました。
まさにそれと同じように、
イエス様も、ユダヤ人に対して預言されたのです。
彼らが何者であり、何をしてきたのか、
そしてこれから何が起こるのか。
家の主人(父なる神)が
しもべたち(預言者)を送り、
ついには御子(イエス・キリスト)を送られたのに、
彼らはその御子を殺してしまった。
——では、収穫の主が帰って来るとき、
その悪いしもべたちはどうなるのか?
さあ、ここからが大切なところです。
112. ここに立つヨセフ——まさにイスラエルが終わりの時に戻って来る姿そのものです。千年王国に入る直前、ユダヤ人が再び救われる時の完全な型です。
兄弟たちはヨセフを見上げました。そして、あなたがたもご存じのように、
ヨセフがどのようにエジプトに下り、イスラエル(ヤコブ)が飢饉の中で子どもたちを送り込んだか——。彼らは飢え死にしそうで、ほんのひと握りの穀物を求めて来たのです。ヨセフは王の夢を解き明かし、七年の豊作と七年の飢饉を予告し、世界中でただ一つ、エジプトだけが食物を備えていたのです。そしてここに、完璧な型があります。今日の教会も同じです。本当の霊的な食物が与えられる場所は、ただひとつ——イエス・キリストの王国、新しく生まれた神の教会だけです。古い教会の教理を読み上げ、使徒信条を口で唱えたところで、あなたの魂を生かす食物にはなりません。霊なるいのちは、新生した生ける神の教会のただ中にあります。そして、あのユダヤ人たちは——いつか気づくのです。「私たちが必要としていた食物は、ここにあったのだ」と。彼らは、必ずやって来ます。
113. 今、あなたは気づきます。 それから彼が来たとき、彼は小さなベンジャミンを見ました。 そして、あなたは彼がそこでどのように行い、理解したかを知っています。 彼の母親がこの子供を産み、その後死んだこと、小さなベンジャミン。 そして彼は彼の兄弟に会いました、そして彼らは彼が誰であるかを知りませんでした。 彼らは彼が偉大な王子だと思い、怖がっていました。 そして、彼が送り返したとき、彼は「あなたは誰ですか?」と言いました。
そして彼らは言った、「私たちは一人の男の息子です。ヤコブは年をとっていて(ご存知のように、イスラエル)、主の祝福を受けていたなどです。」 そして、彼は彼の親愛なる年老いたパパがまだ生きていると聞きました。 彼がここで言ったことを聞いてください。 そして、ドアを閉めたとき、彼は彼らに自分自身を知らせました。 彼の心! そこで神の愛を見て、まだ呼びかけています。 そして、そこに立っているユダヤ人、貧しい少年たち、彼らは飢えています。
彼らの父親は飢えていました、「降りてもう少しトウモロコシを手に入れなければ、私たちは飢えて死ぬでしょう」と言いました。
彼はトークンのためにベンジャミンをそこに置いた。 そして、あなたはそれがどのようであったか、彼が彼の前にどのように立っていたかを知っています。 そして彼は見て、ベンジャミンを見ました、彼はもう控えることができませんでした。 彼はすべての人を彼から遠ざけ、逃げさせました。 そしてかわいそうなヨセフがそこに立って、「私はあなたの兄弟、ヨセフです」と言いました。
114. 兄弟たちはヨセフにこう言っていました。
「私たちには、もう一人の兄弟がいましたが……
獣に殺されてしまいました。」
ところが、その兄弟に向かって話していた相手こそ、
まさにその本人――ヨセフその人だったのです。
そしてヨセフは、まわりに立っていた者をすべて外に出させ、
自分をあらわしました。
「私がヨセフです。あなたがたの兄弟です。」
Patriarch(族長)たちは恐れおののきました。
震え上がったのです。
けれどヨセフは言いました。
「恐れてはならない。」
すると彼は、あまりにも大声で泣き叫んだので、
あのパロの宮殿にまでその叫び声が届いたほどでした。
ヨセフは走り寄り、弟ベニヤミンを抱きしめ、
首にすがって泣きながら、口づけしました。
「私のかわいそうなお父さんが、
まだカナンの地で生きておられるのか!」
なんという感動でしょう!
なんという愛でしょう!
神の愛が心に注がれているとは、このことです。
「父が生きている!
私は彼に穀物を送ってあげられる!」
ヨセフは、声をあげて泣き叫んだのです。
そして私は思うのです。
あの東の空が割れ、
私たちの主イエス様が再びおいでになるその日――
そのときは、いったいどれほどの叫びと喜びが起こるのでしょうか?
ハレルヤ!
115. そしてその場で、ヨセフは大声で叫び、泣きました。
あの大いなる君主――ヨセフが、兄弟たちの前で声をあげて泣いたのです。
そして彼らに言いました。
「どうか、自分を責めてはならない。
神が私をここに送られたのです。」
――なんという神の愛でしょう!
聖霊が人の心に働くとき、これほどの愛を表すのです。
ヨセフは言いました。
「神が私をこの地に送って、
この飢饉の時代に“いのち”を保つためだったのです。」
そうです。
神がキリストをこの地に送られたのは“いのちを保存するため”なのです。
そしてイエスが拒まれ、聖霊が異邦人に送られたのもまた、
“いのちを与えるため”。
あなたは、その「いのち」を今夜受けておられますか、友よ?
そしてヨセフは言います。
「父上は、いまも生きておられるのですか!」
そして馬車や牛を送って、父イスラエルを迎えに向かわせました。
老いたイスラエル――
目が見えず、体も弱った老人になっていました。
けれども彼は、
「あのヨセフが生きている!」
と聞いた瞬間、涙を流し、
「主をほめたたえよ!
わしはもう一度、あの子に会える……
いや、触れることができるのだ!」
と叫びました。
そしてついに再会の時――
ヨセフが父の前へ進み出ると、
イスラエルの老いた、震える手が前へ伸ばされました。
目は見えません。
けれど、手は確かに息子の顔を探り当て――
そのまま二人は抱き合って、
泣きながら地にひれ伏したのです。
父と息子が抱きしめ合い、
涙を流し、震える声で泣いたのです。
ああ、なんという光景でしょう!
なんという愛!
なんという回復!
116. 今夜、神から離れ、遠く罪の中にさまよっている放蕩息子のことを思うとき——
兄弟よ、豚小屋のような場所で人生を浪費し、世の中をさまよい歩いている魂よ。あなたが、もしこのリバイバルの期間に自分の若い日々を「乱れた生活」に費やし、与えられた賜物も、時間も、力も無駄にしてきたのなら……なぜ今夜、心を父のもとに向けないのですか?もしあなたが間違った道を歩いてきたのなら、
今夜、その道の途中で“父に向かって走り出す”ことができるのです。そして——
父があなたに向かって走って来られるその場所で、あなたも両腕を広げて抱きつけばよいではありませんか?あなたはこう言うかもしれません。「ブラナム兄弟……本当に、神はまだ私を愛しておられるのですか?」はい、もちろんです。
今夜、神はあなたを探しておられます。あなたに目を注いでおられます。
あなたを待っておられるのです。聖霊は——いのちを保つために、あなたを守るために、祝福を与えるために、そしてあなたを選ぶために、ここにおられます。
もしあなたが“神に選ばれた者”なら、あなたは“偶然”ここに来たのではありません。あなたは言うかもしれません。「ブラナム兄弟……本当に私は“自分で”ここに来たのではありませんか?」——いいえ。神があなたを導かれたのです。
あなたの心の奥に“来なさい”と語られた方がおられたのです。
117. では、今夜——
なぜ、あなたは教会に来たのですか?
何が、あなたをここへ連れて来たのでしょうか?
まさか、
悪魔があなたを教会へ“連れて来た”と思いますか?
——いいえ、絶対にありません。
悪魔は、あなたを教会から遠ざけようとするだけです。
近づけることなど決してしません。
今夜ここへ来たのは、
父なる神があなたを呼んでおられたからです。
神があなたを招いておられた。
あなたの心に語りかけておられた。
あなたには「神の中に与えられたあなたの場所」があります。
そして神はあなたを呼び、呼び、呼び続けてこられました。
しかし、もしあなたがその「与えられた場所」を受け取らなければ——
聞いてください。
神は、ご自身が定められたその“席”を満たされます。
あなたが拒むなら、
その席は別の誰かが取ることになるのです。
神は昔から——
その人のために、確かに一つひとつ“座席”を数えてこられました。
あなたのための席も数えられているのです。
ですから今夜、もしまだ
“あなた自身の席”を取っていないなら——
どうか、今夜こそ
あなたがその席に着くことができますように。
神が、あなたの心に悟りを与えてくださいますように。
“あなたの場所”を取る決断を
今夜あなたがされますように。
118. 明日の夜はね——
彼ら(イスラエルの民)がエジプトに長い間とどまった、その続きに入ります。
そして明日は、過ぎ越しの小羊の血の下に彼らを連れ出し、
ヨルダン川のほとりまで導き、
さらにその川を渡らせて、荒野の向こうの地へと連れて行きます。
どうか、主が皆さん一人ひとりを祝福してくださいますように。
今夜は、少し厳しい内容でした。
そして長かったですね。
掘り下げながら、聖書を一つひとつ渡り歩き、
まるで“削り、引き寄せる”ような時間だったと思います。
1時間半以上になりました。
しかし——兄弟姉妹よ、
どうか今夜、この一点を深く悟ってください。
それは、「救いは神の選び(エレクション)による」ということです。
神が選び、神が呼び、神が成し遂げられる——
その真理です。
今夜、どれほどの方が
「私は神の選びを信じます」と言えますか?
どれほどの方が
「神こそ私を選び、呼び出されたお方だ」と信じますか?
——それでは、あなたは幸いです。
あなたは喜びに満ちていますか?
信じていますか?
119. 今夜あなたは、こう宣言できますか。
「サタンよ、もう明日から私は違う。
お前はこれまで私を押し倒し、引きずり回し、
あれこれさせてきた。
けれど私の心の奥ではずっと、
神の方へと引き寄せる何かが鼓動していた。
今、私は自分の“召し”が何であるかを悟った。
私は外の世界では決して満たされない。
満足できるはずがない。
なぜなら神が私を呼んでおられるからだ。
だから私は、今ここで
すべてを脇へ置き、
天の父のもとへ帰ります。
私は主と共に歩みます。」
そう言える人は、どれほどいますか?
どれほどの方が
「ビル兄弟、今夜から私は神に自分を献げます。
これから主にお仕えします。
今は終わりの道の手前で、
残された時はもうわずかだと分かっています。
だから今夜、私は心を一掃し、
神に仕えます。」
そう誓いたい方はおられますか?
手を挙げてくださいますか?
……神様、あなたの心を祝福してくださいますように。
ありがとうございます。
では——
「ビル兄弟……
私はまだ完全に理解できていません。
でも、あなたに祈って頂きたいのです。
“その日”に、
私が必ずその場に立っていられますように。
神が私の心にもう一度呼びかけてくださるように。
もしもう一度だけ呼んでくださるなら、
私は必ず応えます。」
そう願う方はいらっしゃいますか?
そのことに、それほど心を向けておられますか?
……はい、神様がその姉妹を祝福してくださいますように。
神様がその姉妹を祝福してくださいますように。
ほかにおられますか?
……神様がその姉妹を祝福してくださいますように。
神様がその兄弟を祝福してくださいますように。
そして神様があなたを祝福してくださいますように、若い姉妹。
120. ほかにどなたか、こう言う方はいませんか。
「ブラナム兄弟……
私は今、あるべき姿ではありません。
そう分かっています。
私は主を悲しませてしまいました。
けれど、私の心のどこか深いところで、
いつも“あなたはクリスチャンになるべきだ”と
語りかけてくる声がありました。
私は神にお仕えしたいのです。」
ここに、そういう方はいませんか?
まだ一度も歩みを始めてはいないけれど、
人生のどこかでずっと、
「あなたは神に仕えるべきだ」
そう語られてきたと自覚している方。
閉会の前に、私はあなたに正直に答えてほしいのです。
あなたは、心のどこかずっと前から
“神に仕えたい”と感じてきた。
けれど、まだその第一歩を踏み出していない。
——そういう方はいませんか?
私はね、
あなたのところへ走って行って腕を引っ張り、
ここに連れて来たりはしません。
いいえ、そんなことはしません。
御霊が、みことばの説き明かしを通して
あなたの心を動かさないのなら、
私が無理に動かしても何の意味もありません。
そうでしょう?
あなた自身が、心の中で
“主よ、私は決めました”
と選び取らなければならないのです。
121. では、私に対して正直になってください。こう言われる方はおられませんか?
「ビル兄弟、私はもう何年も、あるいは何度も何度も、心の奥で “神に立ち返りなさい” と呼ばれるような、そんな声を感じてきました。けれど、まだその一歩を踏み出せていません。ビル兄弟、どうか祈ってください。私が男として、女として、その決断をしっかり取れるように。」 そう思う方は、この会場のどこにおられても、どうか手を挙げてください。……はい、神様があなたを祝福してくださいます。ほかにどなたか?「私の心を長い間たたき続けてきた何かがありました。けれど、私はまだ完全に降参できていません。」そう思う方、ただ手を挙げて言ってください。「それは私です。私はまだクリスチャンになってはいません。
でも、なりたいのです。神が私をお見捨てにならず、私が決心するその時まで、
どうか待っていてくださいますように祈ってください。」
そう願う方、今、手を挙げてください。……はい、神様があなたを祝福してくださいます、兄弟さん。本当に素晴らしい決心です。どなたでも、ただ手を挙げてこう言ってください。「ビル兄弟、私が神を拒んでしまうような者にならないよう、
祈ってください。」…はい、兄弟さん、神様が祝福してくださいます。素晴らしいです。ほかにどなたか?この中に、ほかにもおられませんか?
どうか、正直になってください。
122. さあ、よく聞いてください。
もし、まだ夜明け前にお医者さんがあなたの家に来て、
脈を取って、首を振りながらこう言ったらどうでしょう。
「だめだ……もう戻れない。今回は助からない。」
――そのとき、
あなたはどれほど思うでしょうか?
「ああ……あの時、あの集会で、
手を挙げておけばよかった。
“兄弟よ、私のために祈ってください” と
言っておけばよかった」
と。
私は、あなたが誰なのかを
手を挙げてくださらなければ知ることができません。
この教会も、あなたが誰であるかは分かりません。
しかし――
あなたが手を挙げれば、神はそれをご覧になります。
その行為があなたを救うわけではありません。
しかし、それは 大きな一歩の始まり になります。
ほんの小さなスタートでも、
神がそこからあなたを導いてくださるのです。
そして、もしかしたら
このリバイバルが終わる前に、
あなたは心からキリストにお献げする日が
来るかもしれません。
今夜は少し厳しいメッセージでした。
これから先は、もっとしっかりと
御言葉そのものの中へ深く入っていきましょう。
最初から――という意味ではなく、
回を重ねるごとに、さらに深く。
123. もうお一人、いらっしゃいませんか?
すでに五人の方が手を挙げられました。
どなたか、あと一人、あるいは二人……。
どうか正直でいてください。
――ああ、若いご婦人、神様があなたを祝福してくださいますように。
そして私は、ここにもう一人、
本来、手を挙げるべき方がいることを知っています。
どうか、そっと手を挙げてください。
「ビル兄弟、私のために祈ってください。」
私はあなたの席まで行くつもりはありません。
ここから、あなたのために祈ります。
ただこう言ってください。
「私を覚えてください。
私はまだクリスチャンではありません。
しかしいつも、そうなるべきだと感じてきました。
そして今、自分がクリスチャンでないことを
はっきりと分かっています。」
――そんな思いの方は、今、手を挙げてください。
もう一人、いらっしゃいますか?
……はい、私はもう閉じますから。
テディ、ピアノのところへ行ってくれますか。
124. では、こう言う方はいますか?
「ビル兄弟、私を覚えて祈ってください。
もっと神様に近い歩みをしたいのです。
中途半端な、ぬるい状態のまま生きたくありません。
心が本当に燃やされるような人生を歩みたいのです。
どうか祈ってください。」
――神様があなたを祝福してくださいますように。
神様があなたを祝福してくださいますように。
あなたも……あなたも……ええ、素晴らしい。
神様が祝福してくださいます。
手があちこちで上がっているのが見えます。
よろしいですか。
盲人の目を開かれ、
耳の聞こえない者の耳を開き、
足の萎えた者、
議員であれ、王であれ、指導者であれ、
どんな人であろうと、
その場で真っすぐに立ち上がらせてくださった
――その神が、私の祈りを聞いてくださるのです。
世界中を見てください。
何百万、何百万という人々 がそのみわざを見ました。
私は心からこう言えますが、
少なくとも一千万、
一千万もの、人種も言語も異なる人々が
このメッセージを聞きました。
一度に十もの国の通訳を通って話すこともあります。
一言語ずつ次々と通訳され、
そのたびに待ちながら語るのです。
そして、その場で
三万、五万、十万もの魂が
一度にキリストのもとにくる のを
私はこの目で見てきました。
南アフリカ、ダーバン――。
125. そして今、私は三十万の人々が集まる集会へ向かっています。
どうか、私の心の中から出るこの言葉を聞いてください。
これまで、主の御名によって語った預言が一つでも外れたことがありましたか?
世界中のどこへ行って尋ねてみてもよいのです。
主が語られた何百、何千という出来事――
そのすべてが、言われた通りに成就しました。
ですから私は確信して言えるのです。
これは私自身ではありません。
キリストが、ここにおられるのです。
友よ、私は真理を語っています。
どうか聞いてください。
あなたが生まれ変わらないまま死ぬなら……あなたは失われるのです。
主イエスご自身が言われました。
「人は水と霊によって生まれなければ、決して神の国に入ることはできない。」
どれほど善良であっても、
どれほど教会に献金してきたとしても、
どの教団に属していようとも、
どんなに社会的地位があろうとも、
両親が誰であろうとも、
牧師が誰であろうとも、
それは関係ありません。
「人は生まれ変わらなければ、神の国を見ることすらできない。」
主イエスは、はっきりそう言われたのです。
126. この前、私たちは穀物(トウモロコシ)を取り上げましたね……。
農業センターで見せてもらったでしょう。
二つの粒がありました。
ひとつは畑で育った、本物の完全なトウモロコシの粒。
もうひとつは、人が作った模型の粒でした。
形も大きさもそっくりで、
石灰もミネラルも、成分まで同じように作られていたのです。
彼らはそれを二つとも土に埋めました。
ところが――
どれほど完全に作られていようとも、
模型の粒はひとつも芽を出さなかった。
しかし畑で育った粒は――
全部芽を出した。
どうしてですか?
そこに “いのちの芽(胚)” があったからです。
今夜この部屋にも、
そして世界中の教会にも、
教会に通い、クリスチャンだと名乗りながら、
その「いのちの芽」を持たない人々がいるのです。
形は本物に見えるでしょう。
敬虔そうに見えるでしょう。
けれど――芽がない。いのちがない。
だから復活できないのです。立ち上がる生命がないのです。
どうか、欺かれないでください。
友よ、自分を量りなさい。
これはあなた自身の問題です。
あなたの心の中の決断にかかっているのです。
では――
主があなたを祝福してくださいますように。
頭を垂れて祈りましょう。
127. 天の父よ、今夜のこの務めのために、私は厳しい言葉、
きつい言葉、心を切りつけるようなことを語らねばなりませんでした。
しかし、あなたご自身が言われました――
福音は両刃の剣よりも鋭く、骨髄にまで突き通し、
心の思いや計りごとを見分けると。
神よ、どうか私たちが、その鋭さよりも弱いものを
持つことがありませんように。
今、私たちは “選び” を与えてくださったあなたに感謝します。
あなたが私たちを呼んでくださったことを感謝します。
そして今日まで、聖霊が私たちを守り続けてくださったことを、
心から感謝します。
なんという驚くべき恵みでしょう!
思えば、私たちは罪のどん底から引き上げられた者でしたのに、
その昔から、どれほどあなたは私たちに良くしてくださったことでしょう。
そして今、ここにいる男たち、女たちを愛しています。
この世界に生きている彼らが、
あと数度太陽が巡るだけで “もう遅い” という時が来ることを、
私は知っています。
ある日、突然に、あっという間に、
救いの道が断たれ、
憐れみも、手当てもなくなる時が来る。
あなたは言われました、
「その災いの日には、あなたは彼らをあざ笑われる」と。
128. この世界のことを思うと……。
いつの日か、この古い地球の上を、“遠吠えするような風” が吹き荒れます。
原子爆弾によって砕かれ、焼かれ、
太陽の熱圏の中で燃えつきた地球の上を、
灼けつくような熱風が吹き渡るその日が――
今夜から五百年後に来るかもしれません。
そして、その砂の中には、
私たちの名が刻まれた墓碑が埋もれ、
熱い太陽風に吹かれ、転がされているでしょう。
その時、私たちの魂はいったいどこにいるのでしょうか?
神よ、
どうか今夜が “永遠の行き先が決まる夜” となりますように。
ここにいるすべての罪人――
手を挙げて、「私は罪人です。祈りの中で覚えてください」と言った
あの男性たち、女性たち、若い女性たち――
どうか聖霊が今、この瞬間に働いてくださいますように。
そして彼らがイエス・キリストを救い主として受け入れ、
聖霊に満たされますように。
また、主よ、
冷たくなり、あなたから離れてしまった人々、
倒れてしまった者たちが、
飢えた子どもたちが食卓へ走り寄るように、
今夜あなたのもとに走って来ますように。
「どうか私を養ってください!」と叫ぶその魂を、
主よ、どうか豊かに養ってください。
129. そして主よ、涙を流しながら手を挙げ、祈り、求め続けてきた
神の聖徒たちを、どうか祝福してください。彼らは今日この時まで、真実に、忠実に歩んできました。主よ、今夜語られたこれらの言葉を祝福してください。
聖書のこちらからあちらへと飛び、形も整っていなかったかもしれませんが――
どうか、あなたが彼らの心の中で正しく整えてください。主よ、これは私にとっても七年ぶりの試みでした。しかしどうか、明日の夜には私たちを再びここに集めてください。そして、さらに多くの人が来られますように。
聖霊がこの場所に豊かに臨みますように。どうか、今夜決心した人々が救われ、
明日の夜、喜びに満たされて戻って来られますように。まるでヨセフが父の首に抱きつき、何度も何度も口づけして、「主よ、私を救ってくださってありがとうございます!」と叫んだように――どうかそのようなことがここでも起こりますように。主よ、今、この場で何かが始まりますように。あなたの祝福を祈り求めます。どうかこの集会から私たちを解散させるときにも、あなたの御臨在からは決して離れさせないでください。そして明日の夜、喜びと賛美に満ちて再び戻って来られるように、尊い魂という「束」を携えて戻って来られるように、どうか恵みを与えてください。私たちは、キリスト・イエスのお名前によってこのすべてをお祈りいたします。アーメン。
130. クリスチャンの皆さん。
こんなに長くお時間を取ってしまい、本当に申し訳ありません。
心からお詫びします。
明日の夜は、できれば9時にはお開きにしたいと思っています。
今夜は少し厳しい言葉も使いましたが……
どうしてもそう言わなくてはならなかったのです。
それでも、皆さんは私を愛してくださっていますよね?
私も、皆さんを心から愛しています。
そして、言ったことは――
すべて皆さんの益のためなのです。
それでは、立ち上がりましょう。
では賛美しましょう。
「イエスの御名をたずさえて(Take The Name Of Jesus With You)」
♪ イエスの御名を携えて
悲しみと悩みの子よ
その御名は喜びと慰めを与える… ♪
さあ――
明日は誰かに電話をして、罪人の方をひとり連れて来てください。
戻って来てください。
牧師先生方にもお知らせください。
皆で力を合わせて、
昔ながらの真剣なリバイバルを始めましょう。
あと一、二晩すれば私たちの心もすっかり整えられます。
そしたら、思い切り主の中で喜びましょう。
では、互いに握手しましょう。
♪ いと尊き御名、なんと甘い
地上の望み、天の喜び… ♪
131. さて、どうか神の恵み、そして聖霊さまの交わりが、これから再びお会いするその時まで、あなたがたお一人おひとりの上に豊かに、そしてとどまり続けますように。主イエス・キリストのお名前によって。アーメン。神様の祝福がありますように。どうぞ、主の愛と祝福のうちにお帰りください。さあ、タバナクルのメンバーの皆さん、ここに来ておられる方々全員と握手してください。
一人残らず、心を込めて、歓迎して差し上げてください。どうか聖霊さまも同じように、私たちの心を一つにしてくださいますように。さあ、もう一度――
互いの違いはすべて忘れて、和解し、抱きしめ合いましょう。では賛美を続けましょう。 イエスの御名の前にひざまずきかしこみつつ…