神の賜物を受け入れる
タラハシー フロリダ州 アメリカ合衆国
説教番号: 53-0219
日付: 1953年2月19日(53-0219)
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1. ありがとう、バクスター兄弟。
皆さん、こんばんは。今夜ここに来られたことを、心から嬉しく思います。そして、こんなにも多くの方々が立ったままで、外の通りにまであふれてしまっている状況を本当に申し訳なく思っています。
息子が私を迎えに来たとき、「お父さん、大変だよ。外の通りまで、人がずらっと立って並んでいるよ。早く、早く来て!」と言うのです。それで、ついこちらも急がされるようになってしまいました。急ぐというのは、あまり良いものではありませんね。
しかし、私が急ぐことよりも、皆さんがこのように立ったままでお待ちくださっていることの方が、よほど心苦しいのです。
私たちはこのタラハシーでの集会を、本当に嬉しく思い、一瞬一瞬を喜びで過ごしました。いつの日か、また皆さんのもとに帰って来られるよう願っています。
いつか主が「今だ」と示してくださるその時、また皆さんと礼拝を共にしたいと心から期待しています。
ただ、こうして多くの方が集まってくださるとき、場所が十分でなく、皆さんをお迎えしきれないことが、やはり難しいところですね。
2. これまで主がしてくださったすべての御業に、心から感謝いたします。そして、この集会を支えてくださったすべての牧師方、協力してくださった先生方にも感謝します。皆さんは教会に仕え、熱心に働き、神の偉大な原則を信じて歩んでおられます――その先生方が教えてこられた真理を、神ご自身がこの集会で証ししてくださったのです。
ですから、皆さんは彼らを信頼しなければなりません。彼らは神に召された方々です。
どうか、この集会を支えてくださった兄弟方お一人おひとりの奉仕が、これからもさらに豊かに、ますます祝福されていきますように。そしてここにおられる皆さんにも、神の豊かな御恵みがありますように。
この集会の中で、実に多くのことが起こりました。しかし私は、まだそれについて何も語っておりません。ただ静かに委ねてきました。
けれども、私がこの町を離れてから――牧師方、よく覚えておいてください――皆さんは後になって、数多くの出来事がすでに起こっていたことを知るようになります。
「お腹の病がなくなりました」「関節炎が消えました」と、兄弟姉妹があなたがたのところへ報告に来るでしょう。牧師の皆さん、ぜひ心に留めてください。必ずそのような証しを耳にするようになります。
ですから、改めて主に感謝いたします。
3. そして、私のマネージャーから、皆さんが私のために愛の献金を集めてくださったと聞きました。本当に感謝いたします。
ですが、友人の皆さん、私はそのような献金を受けるに値する者ではありません。本当です。けれども、心から感謝しています。というのも、私は今、アフリカなど他の地へ行くための費用を集めようとしているところだからです。
皆さんからの献金は、そのまま私をアフリカへ送り出すために用いられます。何千、何百万もの人々が、闇の中、無知の中に座り込んでいます。
この献金が、正しい場所へ必ず届くことを、私は皆さんに約束します。イエス・キリストのために、一銭たりとも無駄にはいたしません。
もしかすると、家で少し食料の支払いをしたり、生活費の一部に用いることがあるかもしれません。しかし、それを除けば、私が受け取るすべての献金は、まっすぐに海外宣教のために注がれます。
そして私は必ず自分自身もその地へ行き、皆さんの愛が正しく用いられているかどうかを確かめ、御用のために働きます。
主が皆さんを豊かに祝福してくださいますように――それが私の祈りです。
4. それから私は――ええ、今日どなたかが、この教会は「ペンテコスタル・ホーリネス」だと教えてくださいました。このペンテコスタル・ホーリネス教会の牧師はどなたでしょうか?〔聞き取れない言葉〕そうですか?
〔ある兄弟が言う:「ブラザー・ダラス・フリーマンの写真を見ました。ブラザー・ボスワースが戻って来られた時に見せてくれました。」〕
そうですか。それは素晴らしいことです。
フリーマン兄弟も、フィッシャー兄弟も、そして私も、本当に良い友人関係にあります。
私はきっと、彼らにこう伝えるでしょう――「ここタラハシーのペンテコスタル・ホーリネス教会で、主がともにおられ、素晴らしい集会が持たれた」と。
どうか主が皆さんを豊かに祝福してくださいますように。お一人おひとりの上に、主の恵みが満ち溢れますように。
5. さて今夜、皆さんがこうして立っておられる中で、まず私は聖書を少しお読みします。そして、間もなく癒しの祈りを始めたいと思います。
長い間立っておられて疲れておられるのを、よく分かっています。外にいる方々も、地下にいる方々も、周りで待っておられる方々も、本当にお疲れでしょう。
今この瞬間、私に何かできることがあればと、心から願っています。もし私に力があって、皆さん全員に手を置き、神を賛美し、祝福を受け、病が消え去り、誰ひとり病んだ者も、足の不自由な者も、弱った者もいない――そんな状態にできるものなら、どんなに喜んでそうしたことでしょう。
ああ、もしできるなら、私は今すぐそうしているでしょう。
しかし、それは私にはできません。私にはその力はありません。私はただの人間です。
私にできるのは、皆さんのために祈り、真理をお伝えすることだけです。
そして、この集会によって人々が見ているもの――それは、牧師の方々が、皆さんの先生が、何年も前から「主はこの終わりの前にこうした御業をなされる」と説いてこられた、そのメッセージが確かであることの証です。〔録音の欠落〕
これは、皆さんの牧師が語ってこられたことが今、成就しているという“確認”なのです。
ですから私は、できる限りのへりくだりを持って、神が私に語るようにと定めてくださった、その形で福音をお届けしようと、今夜も最善を尽くしています。
どうか受け取ってください。
そして、どうかこれは真実であると、皆さんがそのまま信じてくださいますように。
6. さて、外におられる方々、地下におられる方々、そして今この瞬間、中の様子をご覧になれないすべての方々に申し上げます。
主イエス・キリストは、ご自身の身代わりの苦しみと、カルバリでの死によって、この世に生きる、またこれから生まれるすべての人の“いやし”をすでに買い取ってくださいました。
イエスはその代価をすでにお支払いになりました。
ですから神の御目には、あなたはすでに癒されています。神の前には、病というものは存在しません。あなたは“すでに癒されている”のです。
ここにいるすべての罪人の方々――中にいても、外にいても、どこにいても――あなたがたの罪は、神の前ではすでに赦されています。
しかし、もしあなたがその赦しを受け取らないなら、やがて主の御前に立つとき、イエスの血に覆われることなく、息子・娘として立たなければならないとき、そこであなたは罪に定められるのです。
「その実を食べるその日、あなたは死ぬ」と言われた通りです。
けれども、その状態で死ぬ必要はありません。
あなたが罪人であることは仕方ありません――生まれつき罪人なのですから。
しかし、“罪人のままで留まるかどうか”は、あなたが選べるのです。
神の御前では、すでに罪は覆われています。神は罪をご覧になれません。神は義であり、主権者であられます。もし、イエスの血がなかったなら……〔録音途切れ〕その瞬間に、私たちは皆、滅びていたでしょう。
神は罪をご覧になることができません。神は聖であられます。
しかし、イエスの血は“バンパー”のように罪を受け止めて、神の御前にそれが届かないようにしてくださっています。
あなたが罪を犯すたび、その“バンパー”であるイエス・キリストが、あなたの罪を神に届かないように受け止めてくださるのです。
……そのお方に対して、私たちがしてきた扱いを思うと、恥ずかしくはありませんか?
7. 私は、ある日のことをはっきり覚えています。あの方――イエス様が、私のために何をしてくださったかを見上げて思い巡らしたとき、私はただ、這うようにしてその御前に近づくしかありませんでした。そこには、一冊の帳面が開かれ、私の名前がその一番上に記されていました。ああ、その下に書かれていたものの恐ろしさ……。私は言いました。「主よ、私を赦してくださいますか?」
すると――まるで主ご自身が御手をそのわき腹の傷に浸し、そのまま帳面に触れられ、「赦された」と書き記してくださったようでした。
そしてその帳面は閉じられ、忘れ去られる海へと投げ込まれたのです。
その日以来、私はずっと幸せです。
私は今、私にできる精いっぱいの謙遜な方法で、地上のすべての人に伝えようとしています。「イエス・キリストはあなたを愛しておられます。
そして、神の怒りがあなたに及ばないように守っておられるのは、ただこのお方なのです」と。どうかイエス・キリストを、あなたの個人的な救い主としてお受けしください。そして、それを受け入れたなら――主はあなたの背中のためにも鞭打たれました。「その打たれた傷によって、私たちは癒された」あるいは「癒されたのだ」と訳されます。「癒されるだろう」ではありません。私たちはすでに癒されたのです。すべての人は、すでに癒されています。そして今、あなたがなすべき唯一のことは、まずこのことを心で信じることです。口先だけで言っても、何の益にもなりません。しかし、心から——…
8. ご覧ください。これは浅はかな出来事ではありません。ただ「それらしく聞こえる何か」でもありません。
昨夜、ある放送でこう言っている人を耳にしました――
「信じる者は皆、すでに聖霊に満たされている」と。
もちろん、私はその牧師に反対しようとしているのではありません。おそらく、聖書の意味を正しく理解されていなかったのでしょう。
使徒行伝19章で、パウロはあのバプテストの人々にこう尋ねました。
「信じた“後で”聖霊を受けましたか?」 と。
「信じたときに」ではありません。
聖霊は、あなたが信じた“後に”与えられる、神の賜物なのです。
それは「あなたが信じたことへの神からの贈り物」です。
ですから、あなたは「イエスが神の御子である」と信じ、
「個人的な救い主としてお受けしする」ことはできます。
しかしそれでもまだ、聖霊を受けていないということはあり得るのです。
聖霊の賜物とは、神が信じる者に個人的にお与えくださる賜物です。
あなたは“信じる”ことによって救われます。
しかし、聖霊に満たされるのは、神の個人的な賜物である聖霊があなたの上に臨むときです。
ですから、これは浅い体験ではありません。
深いものなのです。
私たちは、もはや幼子のような状態であってはなりません。
男も女も、大人として霊的に成長していかなければなりません。
今夜、教会はそのような状態にあるべきです。
浅はかではなく、神のうちに深められた状態に――。
9. さて、癒しというのは、ただ
「ええ、信じます。信じています」
と口で言うだけのものではありません。
もちろん、それがあなたにできる最善――知的に理解して「そうだ、分かる、信じる、受け取ります」と言えるだけなら、それでもよいのです。
しかしそのレベルで受け取るのであれば、何度も何度も口に出して繰り返しなさい。
声に出して言うのです。
繰り返し、何度も、何度も――
「私は癒された。私は癒された」
そう言い続けなさい。
そして言っているうちに、実際に心から信じはじめる時が来ます。
その瞬間――癒しは必ず起こります。
否定的な証しをしてはいけません。
「今日もまだ気分が悪い。やっぱり……」
と告白するなら、あなたは初めの“同じ溝”にまっすぐ戻ってしまうのです。
ここにいるどの男も女も、聖霊に満たされたならば、
もしあなたがこんな告白を始めたら――
「聖霊を失った気がします……
もう離れてしまったように思います……
もう、だめです……」
――あなたはまっすぐ下がってしまいます。
その状態からは、決して……(続く)
10. よく聞いてください。
あなたは、自分の“告白”を超えて生きることは決してできません。
イエス様は、私たちの“告白”の大祭司でおられます。
そうでしょう?
ヘブル3章1節です。
そして、学者なら皆知っているとおり、この「プロフェッション(profession)」という言葉は、同じく「告白(confession)」と訳される言葉なのです。
つまり、同じ意味なのです。
イエス様は父の右に座し、何のために執りなしをしておられるのでしょうか?
私たちの“告白”のためです。
あなたがまず告白しなければ――
「主がそれをしてくださった」
と宣言しなければ、
イエス様はその上に働くことがおできになりません。
よろしいですか。
私は救われたのは……
今夜、喜びで叫ぶから救われたのではありません。
それは違います。
また、神の賜物が私を通して現れるから救われているのでもありません。
私が救われているのは、
イエス・キリストが求められた条件を、私が受け入れ、満たしたからです。
聖書が言うとおりの救いを受けたからです。
それが正しいのです。
「救われた“ように感じる”から」ではありません。
サタンは、あなたの“感情”を使えば、いくらでもあなたを振り回すことができます。
しかし、
「主はこう言われる(Thus saith the Lord)」
という土台の上では、サタンはあなたを打ち負かすことはできません。
サタンはその言葉を越えることができません。
それこそが彼を敗北させるのです。
11. さて、あなたが救われた時のことを思い出してください。あなたは自分の席に座ったまま――どこにいたとしても――心の中でそれを受け取り、「私は救われた」と信じました。そしてその後、あなたは人々に「私は救われました」と告白し始めました。すると周りの人はこう言ったでしょう。
「あなた、何も変わっていないじゃないか」と。しかし、あなたは自分の中に“変化”があることを信じていました。そうですね?そしてその信仰の告白を続けたのです。やがてその“告白”が義を生みました。そして今では、あなたの隣人も、誰もが、あなたが救われていることを知っています。なぜでしょう?
あなたが信じ、その通りに告白したからです。何があなたを変えたのでしょう?
イエス様は、あなたの“告白”の大祭司であられ、父の右に座して、あなたが告白したことを実現してくださったのです。同じことが“癒し”にも言えます。
イエス様をあなたの“いやし主”として受け入れ、感情を退けなさい。
癒しは感情で受けるものではありません。信仰によって受けるのです。
「私は癒された」と告白しなさい。「私は癒された」と信じなさい。癒された者として行動しなさい。癒しを信じる人々と交わりなさい。
そうすれば、神ご自身があなたを完全な健やかさへと導き出されます。
これは失敗することがありません。
12. これは一つの“たとえ”です。
私は、皆さんの信仰が動き出すようにと願って語っています。
そうすれば、あと数分で、聖霊がここで何をしてくださるのかが見えてくるからです。
決して“症状”を見てはいけません。
あなた――車椅子に座っているからといって見てはいけません。
そこの若者も同じです。
神にとって、それは“歯痛をいやす”ことと何も変わりません。
神にとって難しさの差は全くありません。
さて、ご覧なさい。
主イエスは“あなたの告白の大祭司”なのです。
もし、誰か一人“症状がひどい”と言えた人がいるとすれば、それはヨナでしょう。
ヨナは、ニネベへ行くべきところを、タルシシュへ逃げていました。
神から逃げて、逆方向の船に乗り、逆らい、背教し、嵐の海にいました。
彼は手足を縛られ、船から投げ出されました。
海に沈み、その後クジラに飲まれました。
そしてクジラは、魚が皆するように、海の底へ潜り休みました。
そこに彼はいたのです――
手足は縛られ、背教し、嵐の海の“何十メートルもの深さ”、そしてクジラの腹の中。
もし“症状がひどい”と言える人がいたなら、それはヨナでした。
どちらを見ても、クジラの腹。
右を見ても、左を見ても、どこを見ても、クジラの腹です。
しかしヨナは、それを見ることを拒んだのです。
あなたは言うでしょう。
「私はここに座っている」
「医者に心臓病と言われた」
「関節炎があると言われた」
それを見ることを拒みなさい!
それを信じることを拒みなさい!
その通りです。
13. ヨナは言いました。
「これらは虚しい偽りだ(lying vanities)」 と。
そしてこう神に申し上げたのです。
「もう一度、私はあなたの聖なる宮に目を向けます」 と。
なぜなら、ソロモンが神殿を奉献したとき、こう祈ったからです。
「もしあなたの民がどこで困難に遭おうとも、この聖所に向かって祈るなら、あなたは天からその祈りを聞いてくださいますように」 と。
そしてヨナは――
ヨナはそのソロモンの祈りを神が聞かれたと信じたのです。
そこで彼は決心しました。
「クジラの腹なんて見ない。
自分の背教した状態なんて思わない。
私はあなたの聖なる宮を見上げ、告白し続けるのだ」と。
その時――
神はそこに酸素を送り込み、ヨナを三日三晩生かし、彼を本来行くべき場所・ニネベへ連れて行かれました。
さて――
もしソロモンが祈ったその祈りに、
そしてヨナが“あの状況で”希望を置くことができたなら……
ここにいる誰一人として、ヨナの状況の半分ほどですらありません。
あなたはヨナが直面した“症状”のようなものは何もありません。
では、
人の手で建てられた神殿に向かって、
人であるソロモンの祈りに信仰を置くことができたヨナが、
救われたのだとすれば――
今夜ここに座っているあなたと私は、
どれほどもっと大胆に信仰を働かせるべきでしょうか。
私たちは見上げるのです――
神の御座を。
そこにはイエス・キリストが父の右に立ち、
あなたの“告白”のために、ご自身の血を携えて執り成しておられるのです。
だから、
症状を受け入れることを拒みなさい。
14. “症状”というのは、ちょうどこんなものです。
たとえば、あなたが明日、自分の家に帰っているとします。
そこへ宅配の配達員がやって来て、こう言います。
「あなたはミセス・ドウ(仮名)さんですか?」
「はい、そうです。」
「あなたにお届け物があります。」
「そうですか。何でしょう?」
彼があなたに大きな箱を渡します。
その箱の中で、何かがガサガサ動いています。
開けてみると――ガラガラヘビのぎっしり詰まった箱です。
あなたはそんなもの、いりませんね。
「あら、私はこんなの要りません!」
すると彼は言います。
「しかし、これはあなたのものです。
差出人があなた宛に送っています。
名前もあります。
ですから、あなたが受け取らなければならないのです。」
確かに、一面から見れば、それは“あなたに送られたもの”です。
しかし別の面では、あなたのものではありません。
誰かが“あなた宛に”送ったのです。
でも、あなたが受け取りの署名をするまでは、それはあなたのものではありません。
あなたが署名したとき――その箱は正式に“あなたのもの”になります。
しかし、署名を拒否すれば、彼はその箱を持ち帰らなければなりません。
そして宅配会社は、それを送り主に送り返さねばならなくなるのです。
その通りですね?
ですから――
悪魔が送ってくるものには、一切サインしないでください!
絶対です。
きっぱりと言いなさい。
「私は受け取りません。
悪魔よ、全部持って帰りなさい。
私はそれを受け取りません。」
あなたの病気も、関節炎も、どんな症状であっても――
「私はそんなもの持っていません!」
と言いなさい。
「主の打たれた傷によって、私は癒された。」
その場所に立ちなさい。
それを告白しなさい。
それを信じなさい。
そこにとどまりなさい。
神がそれを成し遂げてくださいます。
どんなことであっても、ただ主を信じるのです。
15. さて、皆さんは本当に素晴らしい方々です。
私は大した説教者ではありませんが、本当なら今夜もう少しお話ししたいところです。
しかし、それはできません。
長く話してしまうと、主がくださった油注ぎから離れてしまうことを恐れるのです……。
私は皆さんのために、癒しのための油注ぎを求めて、今日ずっと祈ってきました。
そして、今この時に来て、また説教を始めてしまっては、正しい流れではありません。
ですから、聖書の御言葉を少しお読みしてから、祈りの列を呼びたいと思います。
ヨハネの福音書5章、33節からです。
どうか、心を静めてお聞きください。
「あなたがたはヨハネのもとへ人を遣わしたが、
ヨハネは真理についてあかしをした。
しかし、わたしは人からのあかしを受けない。
ただ、わたしがこう言うのは、あなたがたが救われるためである。
彼(ヨハネ)は燃えて輝くともしびであった。
あなたがたはしばらくの間、その光のもとで喜んだ。
しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりもまさるあかしがある。
父がわたしに成し遂げるためにお与えになったわざ――
わたしのしているそのわざが、
父がわたしをお遣わしになったことをあかししているのである。」
16. では、皆さん、どこにおられても、しばらく頭を垂れてくださいますか。
内にいる人も、外にいる人も、地下にいる人も――どうか深い誠実さをもって、この時を迎えてください。
今、私たちの信仰の創始者であり完成者であられる主を仰ぎ見ましょう。
お名前によって二人、三人が集まるなら、そこにいてくださると約束されたお方です。
主よ、私たちは、あなたが今ここにおられると信じます。
神よ、私たちは“主イエス・キリストのお名前によって”あなたの御前に来ました。
私たちには、自分自身の名も、功績もありません。
もし自分の名で来ようとするなら、あなたは私たちを受け入れてはくださらないでしょう。
しかし今夜私たちは、
病んでいる人々のこと、
そしてあなたの子どもたちの置かれている状態のことを、
深く、深く思わされています。
だからこそ、私たちは、
「その御名によって来るなら、あなたは聞いてくださる」
と約束してくださった、
主イエス・キリストのお名前を掲げて、あなたの御前に来たのです。
「わたしの名によって父に求めるものは、何でも、わたしがそれをする」と主は言われました。
ですから私たちは、
天の神――偉大なる“あらゆる存在の源(アモアイア)”であられるお方――
そのあなたが今夜この教会を見下ろしておられ、
外の庭に立つ人々、地下にいる人々にも、その御目が届いていることを知っています。
あなたの偉大な“レントゲンのような目”は、
人の魂の奥底まで見抜かれます。
隠されているものは何一つありません。
あなたはすべてをご存じです。
あなたは一人ひとりをご存じです。
道ばたに落ちる一羽の雀でさえ、
あなたがご存じなくして落ちることはありません。
ましてや今、私たちがあなたに祈っていることを、
どれほど深くご存じでしょうか。
父よ、どうか――
今夜、これを私たちのために成し遂げてくださいませんか。
17. 主よ――
もし、私があなたの御目にかなっているのであれば、どうか今夜、私たちの上に御恵みを注いでください。
私は、自分にできる精いっぱいを尽くして、あなたにお仕えしようとしてまいりました。
しかし、その中で多くの過ちを犯したことを知っています。
本来なら、今夜この場で断ち切られても仕方がない者です。
けれども、主よ――
ただあなたの恵みゆえに、私たちは今ここに立っています。
主よ、
あなたが私に語りかけ、
病の人々のために祈るようにと遣わしてくださって以来、
私はいつも、できる限り謙遜であろうとしてきました。
大きな会場である必要はありませんでした。
小さな教会でも、私には十分でした。
ただ、あなたが望まれると思う場所へ、私は行こうと努めてきました。
そしてこれまでずっと、
救い主イエス・キリストに、
すべての誉れと栄光をお返ししようとしてまいりました。
あの日から主が始められた御業、
そして「世の終わりまで、あなたがたと共にいる」と約束されたその働きを、
少しでも運び続けようと願い――
すべての賛美と栄光を、ただイエス・キリストにお返ししてまいりました。
18. 主よ、どうか今この瞬間、この待ち望んでいる人々の群れを見下ろしてください。
ここに、神の大いなる御霊を注いでください。
そして今夜――
まるで“癒しの御使い”がその大きな翼をこの会堂いっぱいに広げてくださるかのように、
すべての不信を閉ざし、
信仰だけが満ちる場所としてくださいますように。
しばらくして、この“宿営(キャンプ)”の中に大きな喜びが湧き起こり、
人々がその御使いの翼の下に走り込み、
そこで静かに待つことができますように。
そしてその翼からこぼれ落ちる、
憐れみと信仰のしたたりが、
一人ひとりの上に降り注ぎますように。
その滴を受け、
人々があらゆる罪、あらゆる鎖から解き放たれ、
自由になってあなたに仕える者となり、
また病から癒されますように。
そして今夜、
私たちがそれぞれの家庭へ帰っていくとき、
神よ、どうか一人ひとりを祝福してください。
そして、エマオの弟子たちのようにこう言えるようにしてください――
「主のご臨在ゆえに、私たちの心は内側で燃えたではないか」と。
神よ、この小さな教会を祝福してください。
協力してくださったすべての教会を祝福してください。
そしていつの日か、もし御心なら、
私たちが再びこの愛すべき町に戻って来ることができますように。
そして、昔ながらの“リバイバル”を、
長い週にわたって持つことができますように。
その中で、多くの御業が成し遂げられますように。
これらすべてを、
主イエスのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
19. ありがとうございます。では今夜の祈りの務めを始めましょう。
今日は、新しいグループの祈りのカードが配られました。新しいグループ――たくさんの枚数です。今回は 「M」 の文字から始まっています。さて、一度にあまり多くの方を前に立たせることはできません。何人くらい立っていただけるでしょうか?(誰かが答えます)――はい、分かりました。牧師の方々、そしてバクスター兄弟たちが言うには、「一度に三人ずつ呼ぶのが良い」とのことです。
立ち続けて疲れないように、との配慮です。それで結構でしょう。
では、最初から順番に始めましょう。
M-1 をお持ちの方は誰でしょう?どこにおられますか?祈りのカード M-1 の方。祈りのカードを見てください。小さなカードで、表面にはあなたの名前と住所が書いてあります。反対側の下の方に、「M」 の文字と、数字 1 が付いています。M-1、M-2、M-3……順に呼んでいきます。外におられる方もいるでしょうし、
午後の集会に参加してそのまま外にいる方もいるでしょう。地下で待っている方もおられるかもしれません。どこにおられても、「M」で始まる祈りのカードを持っておられる方は、呼ばれたらすぐに進んで来られるよう準備していてください。では――M-1、M-2、M-3。
(これで十分ですね?)