信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。
次のように書かれています。 「わたしは生きている──主のことば──。 すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、 すべての舌は、神に告白する。」
ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。
こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。
私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。
もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。
ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。
なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。
このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。
食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。
肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。
あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。
しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。